「わかれてください」

 彼女からの言葉は、短かった。
 電話越しに告げられたその言葉が脳に浸透するのには随分の時間を要した。
 僕はわけも分からないままに突然に突きつけられたその八つの音と格闘をする。
 ワカレテクダサイ。
 お化けのように実体の掴めないたった一言の言葉に飛びかかって、ドロップキック。
 外国人新人レスラーのワカレテクダサイ、これには堪らずダウンです。
 頭を振って立ち上がってきたところに、今度はカウンターで強烈なネックブリーカーが決まった!
 これは流石にダメージが大きいか。
 すかさず僕はワカレテクダサイに対して体固めを掛ける。
 ワン、
 ツー、
 スリー。
 カンカンカン。頭の中でベルが鳴り響く。
 僕の勝利。
 苦闘の末に、ようやくその言葉の意味を理解した。
 そして、僕は口にしていた。
「うん、わかった」
 僕の敗北。
 心が「何故?」と叫んでいるけれど、頭は冷静に決断していた。心と頭は同じ(イコール)ではない。彼女がそう言うなら、僕がどう言ったってきっと無駄なのだ。
 僕が彼女に逆らえた試しはない。
 ぷつりと切れた電話をポケットへとしまい、そのまま玄関へと向かう。靴に足をつっこむとコートを一枚羽織り、下宿の外へ出た。
 扉を開けた途端に山から風が吹き下ろしてきた。冷たい。
 コートのボタンを留める。
 十一月の空は灰色に塗り込められていて、目にも寒い。
 振られた男には、丁度良いのかも知れない。

朱い夕焼け、空飛ぶクジラ

よしけむ


 京阪電車出町柳駅から特急に乗る。大阪淀屋橋までは四百六十円。
 京阪電車の端から端まで、どっぷりと席に腰掛けて一時間の旅。窓から見える景色は、十一月に相応しい冬景色だった。
 嘘。
 京阪電車は京都の中心部では地下を通っている。景色も何もあったものでは、ない。
 電車が地下から地上に出る。今度こそ、冬景色だ。民家の屋根が低く並ぶ、その上にたれ込める灰色の空。
 橋を渡る。淀川の河川敷には緑など見えず、枯れ草が寂しげに絨毯を敷いていた。
 何もかもが無彩色になっていくような気がして、けれど大阪の街に入るとそんなことは全然ない。
 季節感なんか全くないビルの看板が次々と視界に飛び込んでくる。
 全くもって、無節操。
 僕が溜息をつくと、テレビのスイッチが切られるかのように電車が再び地下に入った。

**

 どこをどう行ったのか。
 網の目のように張り巡らされた大阪の地下鉄、きっと行けないところなんて無い。
 植物の葉脈があの広い葉っぱの全体へと水を行き渡らせるように、血管がこの体の至る所に養分を行き渡らせるように、地下鉄はこの狭くも広い街に人を行き渡らせる。
 行けないところなんて、無い。
 そんなわけで、いつの間にか僕は昔過ごした家の近くへとやってきていた。
 大阪には、小学生の頃半年ほど住んでいた。父親の会社の都合で中途半端な時期に転校してきて、そしてやはり半端な時期に転校していったため、良い思い出なんてほとんど無い。
 けれど、下宿にいるよりは余程ましと、無意識のうちにそう思っていたのかも知れない。
 あの部屋には、彼女との思い出が多いから。
 昔住んでいた家の前に来る。当時は借家だったが、今もまだ借家のままなのかも知れない。玄関先に並べられた花の鉢植えや、物干しにずらっと干されている洗濯物。誰かが住んでいるらしく生活のにおいはそこかしこに感じられた。
 久々に訪れた記念に写真でも撮っておこう。そう思ってポケットに手を突っ込んで、携帯電話を取り出す。
 二つ折りになっている画面を開き、カメラモードを起動する。
 家を収めようと調整するカメラの視野に、執拗に入り込んでくる人形があった。
 彼女がくれたストラップだった。
 そんな風に大きい人形はジャマになるだけと言ったのに、僕の言葉は耳にも入っていないように嬉しそうに「この人形を私だと思って付けてね。いつも一緒だよ」と僕の手に握らせた。とびきりの笑顔で。僕を困らせるためにやっていた風でさえあった。うん、きっとそうだったんだろう。
 苦笑して人形を指に引っかけ、カメラのレンズにかからないようにする。
 シャッターを、押した。

**

 彼女と出会った時のことは、正直な所、あまり覚えていない。
 考えてみればいい加減な話である。仮にも自分の恋人だった人間との出会いを覚えていないのだから。

 大学に入ってから暫くして、授業がやたらと被る女の子がいることに気がついた。
 どこかで見覚えがあると思った。小柄で、肩より上でまとめた栗色の髪の毛が印象的だった。彼女の存在に気付いてから暫くして、解った。クラスが一緒の女の子だった。
 何がきっかけだったかは覚えていない。けれど、僕は彼女に声を掛けた。お互いに悪い印象は持っていなかったし、話してみればすぐに気が合うことも解った。
 授業では隣同士の席に座り、退屈になると小声で話した。それが盛り上がりすぎて周りから注意されることもあった。
 昼は当然のごとく一緒に食堂へと出かけた。
 気付けば、一日の内でいられる限りの時間をともに過ごしていた。
 暫くして、僕と彼女のつきあいが始まった。
 一年生の、秋頃のことだったと思う。

**

「やっぱり、君は何を考えているのかよくわからないことがあるね」
 彼女は時々、苦笑しながらそんなことを言った。
 そう言う時、大抵僕は本に夢中であったりゲームに夢中であったりして、彼女と一緒にいるにも拘わらず彼女の方にあまり意識を向けていなかった様な気がする。
 僕は彼女と一緒にいるだけで幸せに思えたのだ。小首を傾げてのぞき込んでくる彼女の、揺れる栗色の髪の毛の一本一本でさえもいとおしいと思った。この瞬間がずっと続けばいいと密かに願っていた。
 けれど。
「やっぱり、君は何を考えているのか、よくわからない」
 彼女はそうではなかったのかも知れない。
 僕の微笑と、彼女の苦笑。この二つはとてもよく似ていて、そのくせ限りなく別のものだったのだろう。

 親からも教師からもよく、自分勝手だと言われた。
 自分の都合で全てを決め、自分の物差しを他人にも平気で当てはめる。自分が出来ることは他人も出来ると思い、自分がそれで良いなら他人も同じだろうと考えてしまう。
 ある程度自覚していたことではあるが、自覚したからといってそのような性格が急に変わったりすることは無い。だから、結局僕は今でも自分勝手だ。
 そんな僕に、ある時彼女が訊いた。
「忘れちゃってるの?」
「何を?」
「あの日のこと。二人が初めて会った日のこと」
 僕は、二人が始めて出会った日のことを覚えていない。気がついたら同じ教室にいた、そういう印象しか残っていない。
 僕がそう言うと、彼女は少し寂しそうな顔をした。
「ホント、自分勝手だね」

**

 ぶらぶらと歩いていたら、昔よく遊んでいた公園のそばへとやってきた。
 十一月の風は相変わらず冷たくて、流石にこれだけ寒いと外で遊んでいる子どもも少ない。このあたりは住宅街であったはずなのに、歩いていても子ども一人見かけることがない。少し驚きだった。
 多くの家が並ぶ、住宅街の目抜き通りを通り抜ける。一本脇道にそれたところ、夕陽が綺麗に差し込む高台に、その公園はあった。
 三十メートル四方くらいの公園で、小学生だった当時はとても広い遊園地か何かのように思えたものだ。
 何かの工事をしているのか公園の周囲には防壁が張り巡らされていた。今は休憩中なのか、中から騒がしい音がする気配はない。
 近寄って、工事の詳細を読んでみる。
 安全第一と書かれた看板を持った人形が示しす先には、公園機材の老朽化に伴う一大改装工事、とあった。思えば小学生の頃、既に公園の遊具は古ぼけている印象があった。あれから十年近く経過しているのだし、耐久年数ギリギリになっていたとしても不思議はない。
 折角思い出の残る場所までやってきたのだから、壊される前にもう一度公園の中の様子を見たいと思った。
 無駄とは思いながらも、防壁の隙間から中を覗けないものかと試してみる。
 公園の周りをぐるりと取り囲む鉄の壁。その周りを更に僕がぐるりと回る。
 あった。
 一カ所だけ、隙間が大きめに開いていた。
 おそるおそる、その中をのぞき込んでみる。
 あ。
 次の瞬間には、僕の意識は十年前の風景の中へと飛び込んでいた。

**

 夕陽が公園を真っ赤に照らしていた。
 誰もいない公園。
 その入り口に立って、僕はおそるおそる公園の中をのぞき込んでいた。
 引っ越しの荷物整理が終わるまで外で遊んでくるように母に言われた。大量にある引っ越し荷物がとりあえず子ども部屋につっこまれているため、僕の荷物を紐解くなんてまだまだ先の話になるんだそうだ。
 だから、その間子どもの僕はジャマだから外で遊んでこいと言うことらしい。
 遊んでこいと言われても、僕の中には戸惑いだけがあった。
 なんせ、今日この日に引っ越してきたばかりの場所なのだから、どこに何があるのかも解らない。友達がいるわけでも、勿論無い。
 独りで出来ること。
 探検だ。
 ふとそんなことを思いついた僕は、近所の住宅内を探検することに決めた。
 そうして、あちこちをさまよっている内にこの公園へとたどり着いた。

 夕陽を浴びた公園の中には、幾つかの遊具が並んでいた。
 所々ペンキのはげかかっているブランコ。コンクリートの地肌が丸出しの土管。塗装がすり切れて元が何だったのかよくわからない動物の乗り物が、幾つか。
 そして、大きなクジラの滑り台。
 沢山ある遊具の中で、一つだけ妙に綺麗だった。
 後で聞いた話によると、この町出身の芸術家がボランティア精神で寄付したものだったらしい。言われてみれば何となく普通と違って凝ったデザインだったが、遊ぶ方にはそんなことはあまり関係ない話のような気がする。
 けれど、遊ばない僕には、関係ない話でもなかった。
 公園のベンチに腰掛けて、惚けたようにクジラを眺めていた。
 今にも動き出しそうな、生き生きと輝く目。触ればはじき返されそうな、力強い胸びれ。暴れ出したら僕なんてすぐにぺちゃんこにされてしまいそうな、太い尾びれ。
 本当に、生きているのかと思った。
「どうしたの?」
 本当に見とれていたから。だから、それをジャマされたと思って、声を掛けられた時には少し腹が立ったりもした。
 けれど、それよりもやっぱり、突然声を掛けられたから驚いた。
 振り向くと、夕焼けを背負って女の子が立っていた。夕陽よりも真っ赤な服を着て、白い歯を覗かせて、眩しい笑顔で。
「どうしたの? ぼうっとして。ひょっとして、気分でも悪いの?」
 ニカッと屈託のない笑みを浮かべて、再度問うてくる彼女。
 その様子に、僕は思わず首を横に思い切り振っていた。
「そ、そんなことはない」
「ふうん。じゃあ、このクジラを見てたんだ?」
「え、あ、うん」
「これ、凄いもんね」
 そう言うと彼女はとてとてとクジラのところまで歩いていき、その胴に手を触れる。
 とっさに、危ない、と思う。動物はいきなり触ったりすると驚いてしまうのではないか、と。
「いきなり触ったら驚いちゃうんじゃ、」
 制止の言葉を途中まで言いかけて、思い出した。このクジラは滑り台。作り物だと言うことを。
 頬に急速に血が昇るのを感じる。
「あはは、君、面白いこと言うね」
「だって、そのクジラ、本物みたいに見えるんだもん」
「うん、それは確かに、そうだね」
 そう言って、彼女はクジラの肌を撫でた。
 優しく、いとおしむように優しく撫でた。
「でも、本当にこのクジラ、凄いよね。生きてるみたいだ」
「そうだね」
「これだけ大きいと、海でも敵無しなんだろうね」
 僕はそう言いながらクジラに駆け寄り、滑り台の頂上まで登った。
 滑り台のクジラはたかだか三メートル少々。クジラとしては決して大きな部類には入らない。むしろ子どものクジラと言っても良いだろう。けれど、当時小学生だった僕はクジラの平均的な大きさがどれくらいのものか知らなかった。
「本当に、大きいね」
 女の子が僕の後を追って、クジラの頂上まで登ってきた。
 そうして、夕陽の方を振り返る。
 朱い太陽が眩しく輝いていた。その下に同じ朱に照らされて、町がまるで模型か何かのように整列しているのが見えた。
 更に、その向こうには海が見える。夕日が映って燃えるように朱い、広大な海。
「このクジラ、あそこまで跳べるかな?」
 不意に、僕はそんなことを呟いていた。
「とぶ?」
「うん、クジラってさ、海から跳び上がることがあるんだって。前にテレビでやってた」
「でも、あの海まで跳ぶのは流石に無理じゃない?」
 彼女は呆れたようにそう言った。クジラが作り物であるとか、そう言うことは一切触れず。
「そうだよね。あそこまで行こうと思ったら、空飛ばなきゃ無理だよね」
「空を飛ぶ?」
「うん、このクジラが空を飛ばなきゃ」
 彼女は幾らかぽかんとした様子で僕のことを見つめ、そして不意に笑い出した。まさに堪えきれないという様子だった。
 お腹を押さえて笑い出して、堪(たま)らないといった様子で時折僕のことを指さす。指さされる度に、僕はどんどん憮然とした表情になっていく。
 笑い転げる彼女が、不意にバランスを崩した。
「あ」
 二人の声が重なった時、彼女の体は既に滑り台の斜面へと飛び出していた。
 とっさに出した僕の手が、彼女の手を掴む。
 引っ張り上げようにも、僕もいきなりのことでバランスをとれず、そのまま彼女に引っ張られるようにして二人して滑り出す。
 せめて彼女が怪我をしないよう、僕は自分の体が下になるように無理矢理体勢を変えた。
 長いようで短い滑り台の旅の終着点、つまり地面。
 強烈な衝撃。
 頭から落ちることはなかったが、背中をしたたかに打ち付けてしまい、痛い。
「い、いたた……」
「だ、大丈夫?」
 彼女が僕ことを心配そうに見下ろしている。
「あ、うん、なんとかね……」
「そう。良かったあ」
 彼女がほっとしたような笑みを浮かべる。
「とりあえず……、心配する余裕があるならどいてくれると嬉しいな」
 滑り台の先、クジラの尾びれの指す先で、彼女は僕に馬乗りになっている状態だった。
 そのことにハッと気付いて、彼女は顔を赤らめて僕の上からどく。
「ご、ごめん、うっかりしてた」
「いや、別にそんなに謝るほどのことでもないけど……」
「あ、えーっと、それもそうね」
 納得されたらされたで何となく複雑な気分ではあるのだが、かといって今更否定することも出来ない。
「それにしても、クジラが空を飛ぶ、ねえ」
「そ、そんなに変かな」
 変だ。自分でも思う。
 僕も何であんなことを呟いてしまったのかよくわからない。わからないだけに、どうにもばつが悪い。
「変に決まってるでしょ」
 彼女の断言には勢いがあって、文句を差し挟む余地がない。
 けれど、腰に手を当てて大きな声で断言した彼女は、次の瞬間にふっと息を吐き出すとクスリと笑みを浮かべてこう言った。
「変だけど、面白いじゃない。君、何考えてるのかよくわからないけど、面白いわよね」
 面白いと言われて、悪い気はしない。ただ、その前の「何を考えているかわからない」と言う点は喜んで良いのかどうかは微妙だ。
 僕は何となく憮然とした表情になっていたのだろう。
 彼女は手をぱたぱたと振ると、やはり笑いながら言った。
「褒めてるのよ、これ」
「そんなこと言われてもねえ……」
 そうして暫く互いの顔を見つめ合って、どちらからともなくぷっと吹き出した。後は、笑いが自然に収まるまでお互いにお腹を抱えて笑い転げた。
 何であんなに笑ったのか、今でもさっぱり解らない。けれど、気分はやたら良かったように思う。
「そうだ、クジラの子」
 一通り笑い終えた後、彼女が僕の方を向いて言った。
 一応辺りを見回したが僕以外には公園内に子どもはおろか人は一人としていない。一応自分自身を指さして、確認する。
「僕のこと?」
「そうよ、クジラ君」
 さりげなくさっきと呼び方が変わっていることについては、気に掛けないことにする。
「クジラだって、空、飛ぶかも知れないよ」
「え?」
 彼女は僕の方を向いて、ニコリと笑む。その意図は、僕にはいまいち掴めない。
 とまどう僕をよそに、彼女は再びクジラに登る。クジラの背中から僕を見下ろす。
「だから、クジラ(この子)が空を飛ぶことも、あるかも知れないってこと」
「どういう意味?」
「そのまんまよ」
 笑みを浮かべる彼女に、ますます混乱していく僕。
 彼女は滑り台の滑り出しの部分に腰掛けると、足をぱたぱたとさせた。夕陽を背負って真っ赤に染まる彼女の様子は、まるで炎の妖精か何かのように見えた。
 炎の妖精は、夕陽の真ん中に座り、僕の方を見つめる。
「世の中、不可能なんて無いってこと。人間きっと頑張り次第で何でも出来るのよ」
 ニコリと笑う彼女は、本当に妖精みたいに輝いて見えた。
 けれど、僕は思わずこんなことを口にしてしまっていた。
「いや、それとクジラの滑り台が空を飛ぶことは別だよね」
 不意に顔をしかめた彼女が滑り台を滑り降りてくる。
 どうしたのかと不思議そうに眺めていた僕の所まで大股で一歩。
 そのままグーで殴られた。
「何でそういうこと言うかな」
 彼女は怒ったような寂しそうな、複雑な表情を浮かべていた。
 確かに、僕の言った言葉はあまりにも夢がなさ過ぎるというか、とてもではないが「クジラが飛ぶ」発言をした者の言葉としては違和感のあるものだったかも知れない。
「あの、その……」
 僕が言い訳に困っていると、彼女は腰に手を当てて僕の方を指さし、睨み付けた。
「よし、じゃあ、賭けよう!」
「え!?」
 一体何を賭けるというのか。
 僕の疑問をそっちのけで、彼女は自信たっぷりにこう宣言した。
「あのクジラが空を飛んだら、私はあなたのお嫁さんになってあげる」
「え?」
 先ほどと全く同じ母音が、僕の口から発せられる。
 一瞬、彼女の言っている意味が理解できなかった。
「何よ、私がお嫁さんになってあげるって言ってるのに、不満なの?」
「んっと、うん、じゃなかった。そういうことじゃなくて……」
「じゃあ何? 良いでしょ、賭けるわよ。私がお嫁さんになってあげるって言ってるんだから、感謝しなさいよ」
 とてもじゃないが異論を挟める様子じゃなかった。逆らわずに大人しく従っておいた方が良さそうだ。
「んっと、うん、ありがとう。じゃあ、期待して待ってるよ」
「そうよ、クジラが飛べるってちゃんと期待するのよ。そうすれば、クジラだって空を飛べるんだから」
 彼女がどこまで本気で言っていたのかはわからなかった。クジラが飛ぶということも、僕のお嫁さんになるということも。

 数日後、僕は近所の学校に通うことになり、転校初日に教室の中に彼女の姿を見つけて驚くことになる。半年間ここに在籍していた間は彼女と仲の良い友達でいたが、再び引っ越して以来は没交渉となり、彼女が今どこで何をしているかは知らない。

**

 オレンジ色の防壁の向こう側には、あの日と同じようにクジラがいた。
 公園の真ん中で、空間の主(ぬし)のように佇むクジラ。その様子は相変わらず生き生きとしているように見えた。他の遊具は年月を経て更に老朽化、有り体に言えばボロくなっているにもかかわらず、クジラだけは年月を経てますます生き生きとしてきているような錯覚さえ覚える。
 優れた芸術品は時間が生み出す、と誰かが言っていなかったか。ふとそんなことを思う。確か、時間の結晶化作用とか言ったか。いや、違う、それは思い出は常に美しいということを言う言葉だったっけ。
 彼女との思い出を思い返すのに、時間の結晶作用はまだまだ考えなくても良い。僕と彼女とのつきあいはたかだか一年半かそこらで、それが終わったのはつい数時間前のことに過ぎない。
 長いのか短いのかよくわからない僕たちの付き合いを、ふと思い返す。

**

 動物園へ行こう。
 そう言いだしたのは彼女だったはずだ。
 動物園というとやたら子どもっぽい感じがする。僕がそう言うと彼女はそれは偏見だと言い返してきた。
「動物園を真に楽しめるのは、大人の特権なのよ」
 自信たっぷりに言う彼女には、いつも反論できなかった。
「知ってる? 動物園に行っても、お客さんが一種類の動物を見る時間は平均十秒にも満たないんだって」
 言われてみれば、動物園に行ったからと言って一つの動物をじっくりと観察したような記憶はない。だからかもしれないが、昔動物園に行った記憶を思い出そうとしてもどの記憶も曖昧でいい加減なものばかりだった。
 子ども特有の飽きっぽさからなのか、動物に対する物珍しさは一目見れば解消されるからなのか、いずれにしても数秒しか見ないのであればわざわざ飾られてくれている動物たちに対しても失礼というものだろう。
「だから、私たち大人こそが動物たちをじっくり眺めて、鑑賞してあげるべきなのよ」
 立ち上がり、生協食堂の机に両手をついて力説する彼女に、周りから奇異の目線が集まるのを感じた。
 僕は彼女を宥めるべく、両手で押さえるようなジェスチュアをする。
「わかった。わかったから」
「じゃあ、この日曜日には動物園に行きましょう」
「わかったから」
 再三「わかった」と言い聞かせて、ようやく彼女は座り直してくれた。
 そうして、僕たちは動物園に行くことになった。

 考えてみれば、これが初めてのデートだった様な気がする。
 つきあい始めて間もない初秋の頃、夏のぶり返しのつもりか、太陽が燦々と照っていて暑い日だった。
 だからだろう。彼女は動物園に入ると、まず真っ先に爬虫類館へと向かった。
「だって、暑いじゃないの」
 そうは言っても、来たいと言ったのは君だ。
「まさか、こんなに暑いなんて思ってもみなかったわよ。だって、もう十月よ!」
 そうは言っても暑いものは暑い。けれど、その暑さの魔手も爬虫類館の中までは伸びていなかった。
 建物の中は冷房が効いていた。暑さに弱い生き物も少なくないのだろう(熱帯の生き物も少なくないだろうけれど)。水槽のガラスを挟んだこちら側とあちら側、僕たちにも動物たちにも快適な空間が作られていた。
 色とりどりのヘビやイグアナ、カメなど普段見ることの出来ない生き物たちがいる。かと思えばアオダイショウなど、やや見慣れた感も否めない生き物も展示されている。
「あー、凄い! 大きい!」
 重たげに木に巻き付いたニシキヘビを見て、彼女が歓声を上げる。その仕草は誰よりも子どもっぽく思えて仕方がなかった。
 先ほどから彼女が水槽の前を巡っていく様子を見ていると、一つの水槽の前で二十秒程度しか留まっていないように思われる。
 大人の見方がどうとかいう話はどこへ行った。
 言ってやりたいと思ったが、流石にそれを言うと彼女の機嫌を大いに損ねるだろうことが明白であるためここはぐっと我慢しておこう。
「カエルはいないのかな? ヤドクガエルとか、綺麗なんだけど」
 ヤドクガエルは綺麗と言うより毒々しいと言うべきではないのだろうか。
 しかし疑問はぐっと飲み込んでおく。
「ここは爬虫類館だろ。カエルは両生類じゃないか」
「じゃあ、次は両生類館の方に行こうよ」
 そんなものがあるのかは知らない。僕は園内案内図を鞄から取り出した。

「あ、ほら、見て! シロクマだよ」
 シロクマ、とか、ホッキョクグマ、とか、ポーラベア、ポーラーベアとか、アイスベアとか、呼び方はいくつもあるらしい、あの北極とカナダとの間を行き来する肉食獣。その檻の前まで来て、彼女は妙にはしゃいだ声を上げた。
 シロクマの檻は檻と言うよりは一つの公園のような有様で、手すりの内側こそ断崖絶壁でシロクマたちの空間と僕たちの空間は分断されているけれど、その内側にはシロクマたちが自由にのびのびと暮らせるような広場がしつらえてあった。
 手すりの直下には暑い時にシロクマたちが水浴びできるようにプールが作られていて、そのプールの中にはクマたちが遊ぶためのボールがぷかぷかと浮かんでいる。全体的なイメージは氷山なのだろうか。白というか水色というか、氷をイメージしているであろう冷たげな色で塗られた地面が、不規則な段々の斜面を作っている。その斜面におもちゃだろうか、タイヤが幾つか転がっていた。
 そんな公園の中で肝心のシロクマ本人(本熊?)はと言うと、プールの脇で寝そべっていた。顔にも覇気が無い。
「あはは、元気ないねー」
 彼女はへたっているシロクマを指さす。檻の中には全部で二頭のシロクマがいたが、仲良くプール脇でへたっている。流石にこの暑さは北国の動物には堪えるのだろう。それに、夏本番ならともかく今は秋だ。予想外の暑さのぶり返しに、彼らも参っているのだろう。
 へたるシロクマたちは不憫なのだが、二匹並んでプール脇に寝そべっている様子は、どこか微笑ましく見えた。獰猛な肉食獣が可愛く思える。
「シロクマは暑くても爬虫類館に逃げ込むわけにはいかないからな」
「でも、プールがあるんだから入ればいいじゃん!」
 僕の言った嫌味に気付いた風もなく、彼女はプールを指さす。
 確かにその通りではあった。檻の外にいる僕たちにさえ、プールは涼しげに見える。
「まあ、シロクマだって泳ぎたくない時もあるんだろうよ」
「そうかもね」
 僕たちはそんなことを言いながらシロクマの檻を離れた。
 大体、一分くらいは居ただろうか。

「ペンギンだよー」
「あー、アシカだー」
 動物園の中を、僕は左手に案内図、右手に彼女の手を持って歩いていた。いや、正確に言うと彼女に右手を引っ張られて連れ回されていた。最初の爬虫類館はともかく、一旦外に出たら何故か彼女は海に関係のある動物の檻を巡りたがった。
 一般的に人気のあるライオンやゾウ、キリンの檻など初めから見向きもしない。
 僕は動物園に来たからにはキリンの長い首を見たいと思っていたので若干不満があった。まあいい、彼女が見たいところを一通り回った後に、僕が見たいところを回ればいい。前半戦で文句も言わずに付き合っているのだから、彼女には後半僕に付き合う義務があるだろう。
「アシカってさ、犬に似てるよね」
 アシカのプールを見ている時だった。手すりにもたれかかってプールをのぞき込む彼女の目の前で、大きなアシカが水面から顔を出して「オウッ」と鳴いた。
 こちらを向いて「ね?」と同意を求める彼女に、僕は首をひねらざるを得なかった。
「似てるんだよ、これが本当に。あ、疑ってるねー。じゃあ、良いものを見せてあげよう」
 彼女はそう言って、ポーチの中から携帯電話を取りだした。
 ふたを開いていじっていたかと思うと、その画面をこちらに向けてくる。
「じゃーん」
 画面には、犬の写真が映っていた。まあ、可愛い犬だと思う。残念ながら僕は犬に詳しくはないので犬種まではわからない。
「可愛い犬だと思うけど」
「似てるでしょ?」
 そう言われて、携帯電話の画面に映る犬と、目の前でプールの中を泳ぐアシカの姿を見比べる。水面から時折顔を出す、その耳が小さくて面長な顔。
 やはり、とてもではないが似ているとは思えない。
「ごめん、よくわからない」
「えー、そんなこと無いって。これ、私の実家で飼ってるビーグルでタローって言うんだけどね」
 そう言って彼女は再び携帯電話をいじり始める。
 犬の種類はビーグルというのか。そう言えば、どこかで聞いたような覚えもある。有名な犬種なのだろう。
「この子の耳を後ろにやってやると、ほら!」
 そう言って彼女が見せてきた写真には、首のところを羽交い締めにされて耳を手で隠されたタロー君が映っていた。顔が先ほどまでよりもぐっと細長く見える。なるほど、これなら確かにアシカに似てないとは言えない。
「けれど、これはアシカが犬に似ていると言うよりは、ビーグルがアシカに似ているというべきなんじゃないか?」
「むー……、細かいことは良いの! タローとアシカが似てることは認めるんでしょ!」
 彼女がふくれ面を出すと、僕に勝ち目はない。いわば魔球のようなものだ。手も足も出ない。
 こうなったら僕に出来ることはただ一つ。
「はいはい」
 両手を挙げて、降参することだけだ。
「ね!」
 彼女が笑顔でウインクをする。アシカが「オウッ」と鳴いた。

 アシカのプールの前にはそんなこんなで五分くらいは居たような気がする。けれども、実質的にアシカを見ていた時間は勿論それより遙かに短い。
 世の中、そんなものだ。
 プールの前を離れた彼女は、僕に案内図を見せろとせがんできた。
「クジラはいないのかな?」
 案内図の地図を隅から隅まで、目を皿のようにして見回した末に彼女の口から漏れた言葉がこれだった。
 流石にこれには、文句なしに呆れた。
「いや、流石にクジラは動物園にはいないだろう」
「え、でも、カエルは両生類だったけど、クジラは哺乳類だよ」
 心底不思議そうな表情を浮かべる。哺乳類なら動物園だよね、水族館じゃないよね、と。
 カエルが爬虫類館にいなかったのは、カエルが両生類だったから。
 けれども、クジラが動物園にいないのは哺乳類だとか魚だとかそう言う類(たぐい)の問題ではない。
「動物園じゃクジラは育てられないんだよ」
 大きすぎる。クジラ自身も、クジラが生活するために必要な環境も。
 ちょっと考えればわかるだろうに。
「クジラを育ててる水族館は、無いわけじゃないけどな」
「そうなんだ」
 昔、ちょっとクジラを見たいと思ったことがあって調べたことがある。
 けれど、動物園にクジラがいないのは勿論のこと、水族館で見られるクジラもせいぜいスナメリみたいな小さいクジラばかりだ。彼女がどんなクジラを想像しているかは知らないが、一般的にイメージされる巨大なクジラたちとは、どの道違う。
「ま、そう言うことだ。クジラは、流石に諦めよう」
「そうだね」
 それまでややはしゃぎ気味だった彼女のテンションが、そこで少し落ち着いたように見えた。そんなにクジラを見たかったのだろうか。
 彼女は案内図を僕に返しながらぽつりと呟いた。
「ねえ、もしもクジラが空を飛んだらさ、動物園でクジラを見られるようになるのかな?」
「いや、いくら何でもクジラは空を飛ばないだろう」
 思わず僕はそう言っていた。
 一瞬、彼女が僕の方をものすごく寂しそうな目で見た気がした。
 次の瞬間、グーで殴られた。
「痛いぞ」
「なんで、そういうこと言うかな」
「そりゃ、殴られたら痛いって言うだろ、普通」
「そうじゃなくて……、もう、いいよ」
 そのまま、彼女はくるりと振り向き歩き出す。
 何か、今機嫌を損ねるようなことをしただろうか。いや、そりゃ夢のかけらもないツッコミを入れたことは確かだけれど、それでそこまで機嫌を損ねるか。あそこは「そうだね」とでも言って、二人で笑って終わりにするべき場面じゃないのか。
 僕の疑問は解けず、彼女はどんどん先へと歩いていく。
 その向かう先は、キリンの檻。
 首を長くしている、キリンの檻。

**

 そう言えば、彼女も「クジラが空を飛ぶ」なんてことを言っていた。
 一番最初に言った僕が言うのも変な話だが、クジラが空を飛ぶなんて馬鹿げすぎてないだろうか。
 そんなことを、もしもの話であっても持ち出す人にこの短い人生の中で二人も会っているなんて、僕は割と運が良いのかも知れない。
 ただし、何に関して運が良いのかはわからない。少なくとも、女運でないことだけは確かだろうけど。
 住宅街の細い道を挟んで、公園の周りに張り巡らされた防壁を見る。
 先ほど工事の人が帰ってくるのが見えたので、今はもう公園の中を覗くのはやめている。
 さて、この後僕はどうしようか。下宿に帰るつもりもないが、かといってどこか行くあてがあるわけでもない。
 いつの間にか傾いてきた太陽は真っ赤に公園を照らしていて、ついでに僕も照らしている。とりあえず今晩はどこかの漫画喫茶ででも夜を明かして、一晩放心した後にでも考えようか。
 今はまだ、とてもじゃないけど気持ちの整理が出来そうにない。
 そんなことを考えていると、不意に低く響く重機の起動音が聞こえた。
 見れば、公園の防壁の一部が取り払われ、大型のクレーンが狭い公園内に無理矢理入り込んでいる。一体何を始めるつもりだ。
 僕が不思議に思って眺めている内に、クレーンのロープが持ち上げるべきものへと無事接続されたらしい。
 夕陽が真っ赤に染め上げる中、ロープが巻き取られる甲高い音が鳴り響く。
 そして、僕は自分の目を疑った。


 クジラが空を飛んだ。


 防壁の上からぽっかりと顔を出したクジラの頂上。
 幼い日に僕が昇り、そして彼女も登ったあのクジラの頂上が、ふわりと防壁の上につきだしていた。まさに海面から鼻を突き出して潮を噴くクジラのように。
 しかしここは海ではない。海ではないのにクジラが浮かんできたとなれば。
 クジラが空を飛んだのだ。
 勿論、頭の中ではただ単にクレーンで引っ張り上げられているだけだと冷静に理解している。けれども、目の前の状況を見たら、興奮せずにはいられない。
 頭と心は同じ(イコール)ではないのだから。

 クジラが空を飛んだ。
 あり得ないことだって、起きるかも知れない。
「あのクジラが空を飛んだら、私はあなたのお嫁さんになってあげる」
 幼い頃、この公園で彼女に言われた言葉が、僕の脳裏に甦る。
 それに曖昧な同意を返した、幼かった自分。
「ねえ、もしもクジラが空を飛んだらさ、動物園でクジラを見られるようになるのかな?」
 一年前、動物園で彼女に言われた言葉が、僕の脳裏に甦る。
 馬鹿げていると否定してしまった、オトナになった自分。
 そして、そんな自分の目の前で――。

 クジラが空を飛んだ。
 夕焼けの中、クジラの背中がゆっくりと防壁の向こうに沈んでいく。真っ赤な海にクジラの背中が潜っていく。
 その瞬間、あり得ないけれど、滑り台のクジラが潮を噴いたように見えた。
 クジラの背中の天辺から、空へ高々と上がっていく水柱。
 その水柱が頂点で失速したかと思うと、僕の方へ向かってまっすぐに落ちてくる。
 透明な塊が僕の目の前まで迫ってきて、衝突。
あ。
 まさに大量の水を浴びせかけられたかのように、僕はハッと気付いた。
 さっき、僕はこう思った。
 この短い人生の間に「クジラが空を飛ぶ」なんて突飛なことを言う女性に二人も会うなんて、凄い偶然だ。
 違う。逆だ。
 この短い人生の間に「クジラが空を飛ぶ」なんて突飛なことを言う女性に二度も会うなんて、凄い偶然だ。
 そうだったんだ。今になって、ようやく気がついた。
 彼女は彼女だったんだ。
 小学校の頃、それも半年間だけ付き合いのあった女の子の名前なんて、今の今まですっかり忘れていた。
 そして、記憶の奥底からクジラのごとく浮かび上がってきたその名前は、彼女の名前とまさしく同じだった。
 こんな偶然ってあるのか。
 でも、クジラが空を飛んだんだ。
 こうなったら、僕のやるべきことはただ一つしかない。
 自分勝手は自覚している。
 でも、クジラが空を飛んだんだ。

**

「もしもし? 僕だけど」
 彼女が電話に出ない、なんて可能性は考えていなかった。
「どうしたの。今更、やっぱり別れない、なんて言うつもり? それとも何か言い忘れてたことを思い出したの?」
 考えてみれば、彼女はずっと僕に合図を送っていた。
 ひょっとしたら初めのうちは僕が気付かないのを見て楽しんでいたのかも知れない。けれど、あまりにも僕が気付かないから、思い出さないから、言う機会も失(な)くして、きっと嫌気が差したのだろう。
「ああ、思い出したよ。色々とな」
「……そう。それで?」
 きっと今の一言で、彼女は理解したんだろう。なにせ、ずっと待ち望んでいたことだろうから。
 もし逆の立場で、彼女が僕のことを忘れていたなら。多分僕はそれでも良いと思っただろう。また二人で新たな関係を築いていけばいいし、その内にひょっとしたら思い出すこともあるかも知れない。だから、僕は彼女が覚えていないことなんかきっと気にしない。けれど、彼女は僕じゃないんだ。彼女の考えは僕の考えとは違う。だから、僕の物差しを彼女に当てはめることは出来ない。
 僕だって、成長はしている。だから、他人のことを考えることが出来るようにはなっている。けれど、人間の性格なんて一朝一夕で変わるものじゃない。
 残念ながらと言うべきか、幸いにもと言うべきか。
「それで、君に報せたいことがある」
「頼みたいことじゃなくて、報せたいこと?」
 思い出したから別れないでくれ、なんて頼んだって、多分彼女は認めてくれない。
 頭では許してくれても、多分心では僕のことを許してくれない。頭と心は同じ(イコール)じゃないから。
 それよりも、もっと重要なこと。今彼女に伝えなきゃならないこと。
 僕は息を吸い込んで、携帯電話のマイクに向かって言った。
「あのクジラが、空を飛んだ」
 電話口の向こうで彼女が息を呑むのが聞こえた。
 きっと、彼女の頭の中にもあの約束が浮かんでいるに違いない。
 僕はつい今し方まで忘れていたけれど、彼女は多分ずっと僕のことを覚えていたのだから、一番肝心なあの約束を忘れているはずがない。
「あのクジラが空を飛んだら、僕のお嫁さんになってくれるんだったよな」
 電話越しに彼女が溜息をつくのが聞こえた。
「ホント、自分勝手なんだから。こういう重要な時だけ思い出すの、ズルいよ……」
「仕方ないだろ、忘れてたんだから」
「もう、わかったわよ。小さい頃の話とはいえ、賭けは賭けだもんね」
 時折洟が混じるような彼女の声がどこか嬉しそうに聞こえるのは、多分僕の考えすぎではない。
 彼女はきっと僕がこう言うのを待っていたのだ。ずっと、この一年半。
「ところで、クジラが空を飛んだってどういうことよ? その辺のこと、詳しく説明してくれるんでしょうね」
「ああ、これからお前の家に行くから、そこでじっくり話してやるよ」
「嘘だったら承知しないからね。じゃあ、待ってるね」
「ああ、一時間くらいでつけるよう努力する」
「は? 君、今どこにいるわけ?」
「大阪。あのクジラが飛んだって言ったろ。じゃあ、新幹線来たし、またあとでな」
 そう言って、僕は電話を切った。
 新幹線東京行きが新大阪のホームに入ってくる。
 新幹線で新大阪と京都は二十分。
 京阪の特急なんかじゃ焦れったかった。

〈fin.〉



あとがきに似たたぐいの何か
 初めての方にははじめまして、そうでない方はこんにちは。よしけむです。
 「朱い夕焼け、空飛ぶクジラ」はいかがでしたでしょうか? 未定の中では自称ファンタジー書きの僕ではありますが、サイトにアップしている作品は今のところ非ファンタジーモノばかり(本日時点)。アイデンティティの危機かも知れません。
 このお話はNFで名称未定が発行する幻想組曲向きに書いたもので、原稿の枚数制限10枚という、僕にとっては悶絶環境に近い縛りの中で書き上げたものです。因みに幻想組曲に収録した完成原稿は3段組で丁度10枚という上限ギリギリのものでした。……あれ、どこかのいづみさんのあとがきで似たようなのを見た覚えが……。
 この話について。時々、こういう甘いお話を書きたくなります。幻想組曲の〆切は夏休み明けだったのですが夏休みに何を書こうかと色々考えておりましたら、久々に非ファンタジーを書きたいという思いがぷかぷかと浮かんできまして。最初はクジラではなくデスモスチルスをモチーフに書こうと思っていたのですが、色々あってこんな形に落ち着きました。因みにこのあと主人公の「僕」は95%以上の確率で彼女の尻に敷かれる毎日を過ごすことになります。僕のお話に出てくる女の子達は……、いつの間にか強くなってることが多いですね。今回は最後にデレ期に落としてみましたが、これはツンデレのつもりは無いですよ?
 今回の話を書くに当たって、伊坂幸太郎さんの透明ポーラーベアに強い影響を受けました。シロクマが出てくるシーンはオマージュを気取っていたりします。出来てませんが。皆さん、シロクマの毛の色って本当は何色かご存じですか? 気になる方は伊坂さんの透明ポーラーベアを読んでみたらいいんじゃないでしょうか。不思議な暖かさに包まれる恋愛小説で、いつかああいうものを書いてみたいと憧れる逸品です。
 さて、もしあなたが未読であるなら、この話に出てくる「僕」と「彼女」が繰り広げるちょっとした掌編「壁の向こう、空飛ぶイルカ」の方も宜しければ読んでみてください。「一年半」の間にあったちょっとした出来事の話で、彼女が相変わらず強いです。
 それではまた、いつか、どこかの活字の上でお逢いしましょう。よしけむでした。


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