水族館へ行こう。
そう言いだしたのは彼女じゃない。僕だ。
秋も深まる十月の末。二人で動物園へ行ってから、半月ほど経った頃のことだったと思う。
彼女はキョトンとして僕のことを見つめている。
生協の食堂で、お昼休みの人混みが一段落付き、周りにいるのは午後の授業が無くて時間を潰しているだろう人たちだ。
そんな人たちからの視線を一瞬集め、恥ずかしくなって僕は椅子に座る。
「なんで?」
座ってばつが悪そうにしている僕に、彼女は訊いてきた。
「なんで、って、そりゃ、こないだのリベンジマッチだよ」
「こないだ……って、何かあったっけ?」
「あったも何も、行っただろ、動物園!」
「……あ」
そう言えば、と手を打つ彼女に、僕は心底あきれ果てた。
「なんか、あの時つまらなそうだったじゃん。それがずっと気になっててさ、色々考えてたんだ」
こっちは寝ても覚めても……、とまでは流石に言わないが、ずっとそのことを気に掛けていたのは事実なのだ。それなのに、肝心の彼女自身が忘れていたとは。
知らぬは彼女ばかりなりというわけか。
全く。こっちの気も知らないで。
「いや……、でも私はこないだのことは、何か不満があったわけじゃないって、言ったよね?」
「ん、まあね。きっちり聞いたね。でもね、そう言われて、はいそうですか、と引き下がってたら男が廃るわけですよ」
敢えて他人行儀に彼女の名前を呼び、ビジネスライクに話をする。
「――さんもそう思いませんか? 当方としましては、やっぱりあなたともっと楽しみを共有したいわけでありまして、あれから色々考えました。だから」
パチンと指を鳴らして少し首を傾ける。ここで薔薇の花でも出せたら完璧なのだが、残念ながら僕は手品師ではなく、いち学生に過ぎない。
「リベンジマッチ。つきあってくれませんかね?」
少し気取りすぎたかも知れない。
彼女は呆気にとられた様子で僕のことを見つめ、言葉を失ったかのように口をぽかんと開けている。
そうして見つめ合うこと約一分。いい加減僕がポーズを取っているのを恥ずかしく感じ始めた頃。
「ぷっ、ぷふふふふ」
堪えきれないといった様子で彼女が笑いを漏らした。
程なく隠すのを諦めたのか、「あははははは」と口を開けて笑い始める。
「なんだよ……。笑うこと無いだろ」
僕はちょっと憮然として言う。
「だって、ポーズまで決められたら笑うなってのが無理な話だよ。ぷふふ」
笑っても笑っても笑い足りないのか、彼女は言葉の節々で小さく息を吐く。その……、なんだ……、わかったから目に涙を溜めてまで笑うのは本当に勘弁して欲しい。なんだかやったこっちが惨めになってくる。
「それで……、お嬢さん、僕に付き合ってくれるの? くれないの?」
「いいよ」
「本当?」
あんまりにも彼女が笑いこけているものだからひょっとしたらそのまま流されてしまうかも知れないと思っていただけに、彼女が即答した一言は嬉しかった。
「君が折角考えてくれたデートプランなんだしね、うん、行こっ、水族館。楽しみだな、久しぶりだし」
そんな風に笑顔を見せてくれる彼女を見ているだけで、僕はさっき感じた呆れや惨めさなんてまるで無かったかのように思えてくる。
色々理由を付けては見たものの、結局僕は彼女とデートがしたかっただけなのかも知れない。
だから、デートできることに浮かれていて、気づけなかった。彼女が何かを期待するようなまなざしで僕の方を見つめていることに。
電車を乗り継いで二時間弱、水族館に着いた。
道中は他愛のないおしゃべりや、今日行く水族館についてのちょっとした話などをして過ごしたのだけれど、その時間がどうしようもなく楽しかった。
彼女といる、ただそれだけのことがどうしてこんなに楽しいのだろう。こう言うのを惚れた弱みというのかも知れない。
電車の一日乗車券とセットになったチケットを買っていたので、それを見せて水族館の中へと足を踏み入れる。
秋空の下と水族館の中は気温の上ではさしたる差もない。一瞬、この間動物園で爬虫類館に逃げ込んだ時のことを思い出したが、あの時と今では建物の外も中も随分と様相が異なる。
入ってすぐにまず、壁も天井も一面水槽となっている通路を通った。右を見ても左を見ても上を見ても、魚・魚・魚。明るい海のイメージなのか、柔らかな光で照らされた水槽では色とりどりの魚が遊ぶように泳いでいる。
「あ、ほら、エイだよ、エイ」
「おお、スキューバダイビングとかで見ると幸運をもたらすんだっけ?」
「それはオニイトマキエイの話だよね。この子がそうかは知らないけれど……、少なくとも水族館じゃ関係ない話だよねえ」
バカにするように僕の方を見て、彼女がニヤリと笑みを浮かべる。そして、そのまま天井に沿って僕らの前方から後方へと泳いでいくエイを目で追いながら、スウェーバックの要領で後方へと体を反らしていく。
「すぃーっと泳いでいって……っと、っと」
「はい、危ない」
バランスを崩してそのまま後ろに倒れそうになる彼女の手を掴んで、引っ張り起こしてやる。
「魚に夢中になるのは良いけどなあ……、水族館で怪我しました、なんて笑い話にもならないぞ」
「まあ、君が助けてくれるって信じてたし。それにしても……、今のは抱き留めて欲しかった場面かな?」
うっ。
そんなことを不意打ちで言われると、こっちとしては思わず赤面してしまうわけで。
「気をつけておくよ」
水槽が明るいから、正面から見られると顔が赤いのがばれてしまう。そう思った僕は思わず顔をそらしていた。
そらした目線の先で、すーっとなめらかな動きで泳いでいく魚影が見えた。天井の方を見ると、両手で抱えられそうな、鮫の一種のような魚が体をうねらせていた。
すいすいと泳ぐその魚の動きは、ある動きを連想させる。それを見て、僕は自分の作戦が成功するだろうという確信を持った。
何も、理由もなく動物園のリベンジマッチに水族館を選んだわけではない。植物園でもなく、遊園地でもなく、水族館を選んだのには、ちゃんとした理由があるのだ。
パンフレットを開く。目的の水槽は館内経路に従っていけば大体真ん中あたりになりそうだった。
水族館にもアシカはいる。
この間動物園で見た時は、主に水面より上に顔を出している時のアシカを見ていたが、今度は水族館だ。その守備範囲は基本的に水面下。
水中を鉄砲玉のように泳ぐアシカを見て、彼女はまた言った。
「やっぱり、アシカって犬に似てるよ」
「まあ、似てるって言えば似てるな」
「あれ? 今日は素直に認めるんだね」
彼女が不思議そうな表情で僕を振り返る。
「あれから調べてみたら、江戸時代にも同(おんな)じことを考えていた人がいるらしいね。塩尻って随筆にアシカは犬に似るって書かれているらしい」
僕が肩をすくめながら言うと、彼女は「ほら見ろ」と言わんばかりに顔一杯に笑みを浮かべる。
「けれど、じゃあアシカの語源って知ってるか?」
「え? ううん、考えたこともないけど」
「アシカってのは海の鹿、つまり「アマシカ」が縮まってアシカになったって言われてるんだ。これはアシカが雌の鹿に似てるからそうなった、という説が有力らしい」
「えっと、つまり、君が言いたいのは……」
彼女の顔に呆れたような笑みが浮かぶ。
このあたり、既に以心伝心の感があるのはちょっと嬉しかったりする。
「犬だけじゃなくて、鹿にも似てるってことだな」
「そんな細かいことまで調べてくるなんて、負けず嫌いなんだから」
「気になったから調べただけだよ」
僕はふふんと鼻を鳴らした。
この間は押されっぱなしだったけれど、今度は彼女の鼻をあかしてやることが出来た。うん、満足満足。
「まさか、そんなことを言う為に水族館に連れてきたんじゃないでしょうね?」
彼女が顔をしかめて僕に詰め寄る。
いや、いくら何でもこんな些細な言葉遊びの為だけに遠路はるばる片道二時間もかけるわけないだろ。
僕は肩をすくめてすっと彼女をかわす。
「まさか。これはほんのついでだって。本命は次」
「次?」
彼女が不思議そうな顔で首を傾げる。
その彼女をよそに、僕はアシカ水槽の前を離れる。
数歩の距離を歩けば見えてきた。
その水槽は――。
「イルカだね」
「イルカだよ」
頭上数メートルの上から、足下数メートルの下まで、縦に長い水槽を元気いっぱいに泳ぎ回るその生き物を見て、彼女が呟き、僕が応えた。
灰色と黒のグラデーションで体を彩るイルカは、水中を猛スピードで泳ぐと大砲の砲弾のように見える。
「和名、カマイルカ。背びれが鎌みたいな形をしてるから付いた名前だって」
僕がちょっとした豆知識を披露する。この日の為に下準備として色々調べていたら、何となく豆知識の数が増えていた。
知っていても知らなくても別に良いんだけれども、じゃあ知っておく方が少し得かもしれない。その程度の他愛ない知識。
「で、これが本命ってどういう意味?」
彼女が不思議そうな表情でこちらを見上げる。
改めて思う。彼女は僕より頭一つ分くらい小さくて、並んで立つとこちらを見上げてくることになる。
そんな彼女が見ていて可愛くて、不思議そうに問いかけられると少し意地悪をしたくもなるのだ。
「さて、どういう意味でしょう?」
少し予想外の展開で先にイルカが本命だということがばれてしまったが、その理由はまだばれていない。
これで彼女に気付かれてしまったら元も子もないのだけれど、僕は少し彼女を試すように訊ねてみた。
「いや、分からないから訊いてるんだけど」
「だろうね。じゃあさ、もう暫くイルカを見てようよ」
「え、まあ、それはいいけど……説明してくれるんでしょうね?」
「するよ。絶対にする。そんなに凄まなくても大丈夫だから」
中途半端に隠しごとの存在を知ってしまったことがよっぽど気にくわないのかも知れない。半端なことがもやもやしたまま残るのを嫌う彼女だ。このままなんの説明もせずにいたら絶交されかねない。
アクリルガラスの分厚い壁の向こう、イルカが上へ下へ、右へ左へ、楽しそうに泳ぎ続ける。
スピードに乗ってはUターン、壁際で急に上昇したかと思ったら水面近くまで行ってまた潜行する。
その軽妙な動きは、そう、泳ぐと言うよりも――
「飛んでるみたいに見えないかな?」
「え?」
彼女が驚いたような声を挙げてこちらを見上げる。
「今……なんて?」
眉根にしわを寄せて、なにやら難しげな表情でこちらを見上げてくる彼女。その表情が妙に真剣で、一瞬僕はたじろいだ。
「いや、だから、このイルカたちさ、空を飛んでるように見えないかな、って」
「空を、飛ぶ」
彼女が僕とイルカを交互に見つめて、そう呟く。
「ほら、この間クジラが空を飛んだら、って話をしてたじゃないか」
「……うん」
「それからずっと考えてたんだよ」
「っていうことは、ひょっとして……」
落ち着きなさげに僕とイルカを見やる周期を早める彼女。僕の方を見つめる目が、何かの期待に満ちているような気がするのは果たして僕の気のせいなのか本当なのか。
きょろきょろと、僕を見てはイルカを見て、イルカを見ては僕を見る。その様子はなんだか首振り人形のおもちゃみたいだった。
そんな可愛い様子を見せる彼女の期待に、応えたい。そう思って僕が出した答えが、これだ。
「それで、ネットでこんな話を見たんだ。ペンギンは飛ぶんだって話」
「えっ、……ネット? ペンギン?」
ちょっぴり得意げになって、やや慌てた様子で喋る僕は、彼女が急に声の調子を変えたことには気付かない。
「そう。ペンギンは飛ぶんだっていう話。よくペンギンは飛べない鳥って言われるけど、彼らは海を飛べる鳥なんだ、だから飛べないわけじゃないって話」
「……それで?」
「それと一緒で、ひょっとしたらクジラやイルカだって海を飛んでるのかなって思ってさ」
水槽の方を見やる。丁度右から左へ、僕の視線よりも少し上あたりの高さをイルカが泳いでいった。
その様子は、まさに飛ぶように泳ぐと言って何ら差し支えが無く、文字通りイルカは飛んでいた。
「この間、クジラが空を飛んだらって話をしてるお前を見て、どうしてもそう言うのを見せたくなったんだよ。それで、クジラじゃないけど、まあイルカで我慢してくれるかな」
「え、あ、うん、そこまで考えてくれてたのはとっても嬉しいよ。ありがとう」
彼女の方を見ると、水槽を見ずに俯いていた。
ここまでされて恥ずかしいのだろうか。そう思って僕は気にしないでおいたのだけれども、結論から言えばそれは単なる僕の自意識過剰でしかなかった。
けれど、ちょっぴり天狗になっているこの時の僕はそんなことには気付かない。
「そう言って貰えると、僕も考えた甲斐がある」
そんなことを言って頬を指で掻く。
とんだ茶番だ。
だから、彼女の言葉が意味してることにも気付かない。
「……えっと、続きは、無いんだよね?」
「うん? まあ、そうだけど」
「あ、うん、ならいいんだ。へえ……、海を飛ぶ、かあ。面白いことを考える人もいるんだねえ」
「僕も、初めて見た時は驚いたけど、言われてみればそうだよね」
「上手いよね、言い方が。なんかロマンティックだし」
「確かにね。ペンギンが飛ぶってのも良いと思わない?」
「うん、うん!」
軽妙に泳ぐイルカを見ながら、軽妙に会話は進む。
けれど、その会話はどこか上手くかみ合いすぎていて、後からみれば却って不自然にさえ思えた。
この時の彼女は妙に饒舌でいつもの彼女とは少し違って、けれども、僕は自分の思惑が上手く行ったと思って喜んでいたから、そんなことには気付かなかった。
〈interlude out.〉
あとがきに似たたぐいの何か
初めての方にははじめまして、そうでない方はこんにちは。よしけむです。
「壁の向こう、空飛ぶイルカ」をお送りしました。この品は題名からも分かる通り
「朱い夕焼け、空飛ぶクジラ」の関連作品です。あちらの話に登場した「僕」と「彼女」の日常のとある一コマを切り抜いた、小さな物語です。「僕」はこんなからっとぼけたことばっかりしてるから彼女が呆れちゃうんですよね。全くもう、端で見ていてとてもじゃないけれども見ていられないというかなんというか。まあ、そんな不器用な僕と彼女の物語、クジラの方をあなたがまだ読んでおられないのなら、是非そちらもご覧になって下さい。
余談ですが、この話、水族館は海遊館、動物園は天王寺動物園がモデルになっています。僕自身は岡山の育ちなのですが、母の実家が大阪、父の実家が京都と言うこともあり関西圏へは毎年数回来ていて海遊館も天王寺も幼い頃から何度も行ったことのある思い出深い場所です。今回これを書くに当たって、天王寺動物園へは一度足を運び、動物たちの可愛い様子を堪能してきました。動物園での話ですが、本当にペンギンは飛ぶように泳ぎますね。あの速さには圧倒されました。
「僕」と「彼女」のお話は、一応この二つでお終い。他の物語が膨らむ予定は今のところありません。けれども、発想なんていつも予想外のものばかり。また何かの拍子に物語がフラっと遊びに来て、彼らを僕を引き合わせてくれたらいいと、そう思います。その時は是非またお付き合い下さい。
それでは、またどこかでお逢いしましょう。よしけむでした。
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