「よう、坊主。何やってんだ?」
 六万寺武市はぽつりと不景気な声を発した。
 夕日が赤く染め上げる三叉路。周りにはただただ田んぼが広がっており、武市の他には小さな男の子が一人、舗装されていない土の道に小石で絵を描いて遊んでいるだけである。
 年の頃は十にも満たないくらいだろうか。膝丈もない短かめの半ズボンをサスペンダーで吊っている服装は一昔前の良いところのお坊ちゃんと言った風体である。
 少年の反応は、ない。
 遠くでヒグラシの声。夕刻を告げる鐘の音が響いた。
「よう、坊主。何、やってんだ?」
 先ほどよりもほんのわずかばかり大きな声で、武市が言った。
 男の子が顔を上げる。
 一瞬だけ武市の方を見て、不審そうな顔。更に、周りを見回してこの場には武市と男の子自身しかいないことを確認すると、こちらを見つめて小さく首を傾げた。
「……不審者?」
「違わい! いきなり何を言い出すんだよ、最近のガキは」
 あどけないその反応に武市は本気で不快感をあらわにして否定した。
 しかしなるほど。確かに状況を見るに少年がそのような判断をしたのも頷ける。
 武市の服装はと言えば、よれよれのワイシャツとズボン、ベルトは革がすり切れてかけているボロボロの使い古し。おまけに夏も終わりかけで涼しくなってきたとは言え、焦げ茶色のコートを羽織っている。
 黄昏時の薄暗さも手伝って怪しいことはこの上ない。この上がなさ過ぎてどうしようもないほどにこの上ない。
「俺は不審者っつーよりは、どっちかって言うと正義の味方だ」
「嘘だ」少年は間髪入れずに断言した。
「嘘じゃねえよ」
 武市も負けじと即座に否定するが、全くもって説得力に欠けるのは自分でも重々承知していた。
 少年は怪しげな者を見る目つきで武市のことを見つめる。もはや完全に武市のことを不審者として認識している顔だった。
「あっちゃんが言ってた。知らない人に声をかけられたら返事しちゃ駄目だって」
「返事してるじゃねえか」
「今までのは特別。僕が返事してあげないとおじさんがあんまりにも可哀想だったから返事してあげただけ。もう終わり」
 そうとだけ言うと、少年はそのまま口を閉じて、手で唇をなぞる。それはいわゆる「お口にチャック」というジェスチャーだ。
「おいおい、そんなつれないこと言うなよ」
「……」
 今度は少年は無反応。
 武市のことを完全に無視するようで、最初と同じように石で地面に絵を描く作業に戻っている。
「おーい」「坊主ー?」「俺はおじさんじゃねえぞー。まだ三十路前だぞ」「こんばんはー?」
 武市がなんと言おうと全く反応を示さない少年。
 肩をすくめると、溜息をついて言った。
「他人に挨拶されたらちゃんと挨拶しなきゃ駄目って学校で習わなかったか?」
「それは習ったし、あっちゃんも挨拶は大切って言ってた」
 少年が顔を上げて武市の方を見る。
 その顔が一瞬だけ何かを思い出すようなものに代わり――恐らく先ほど武市の発した挨拶を思い出したのだろう――、小さく頭を下げて礼。
「こんばんは」
 それだけで少年は再び顔を下げる。全くとりつく島もない。
 恐らくこのまま声をかけても先ほど同様完全なる無視が決め込まれるのだろう。
 昨今の物騒な世の中を考えればこういう事になるのもやむを得ないのか、とも思うが、素直に引き下がる武市ではなかった。
「これは独り言なんだが……、坊主はさっき『知らない人と話しちゃ駄目』と言ったんだ。でも、俺と話をしたよな。ってなるとな、坊主と俺はもう知らない人じゃなくて知ってる人同士になるんじゃねえのかなぁ……」
「っ!?」
 少年がハッと顔を上げてこちらを見る。
 そうだったのか、と言わんばかりの驚きと、それでもまだ武市のことを疑っている不信感が表情に覗いている。
 武市は少年の方を見て、小さく首を横に振ると肩をすくめる。
「あー、いや、独り言だ。気にしなくても良いぞー。返事しなくても良いぞー。でも俺は知らない人じゃないかも知れないしなー」
「……」
 少年はこちらを推し量るように見つめてくる。
 武市は話をしてもいい人間なのかどうか。恐らく今までの短い人生経験を踏まえながら必死で考えているのだろう。
 そんな風に小さい子どもが悩んでいる様子を見るとついつい嗜虐心がかき立てられるのだが、それは顔には出さないでおく。
「でもって、俺は別にお前のことを知らないわけじゃないんだよな、坊主、いや、倉沢誠治君」
 少年の顔が驚きに歪む。
 遠くでお寺の鐘が鳴った。
「で、そろそろ夜になるけど、お前、いつ家に帰るんだ?」


かえりみち




 夕闇が迫ってくる三叉路には、ぽつんと街灯が立っていた。ばちばちと小さな電気音をたてて、明かりが灯る。
 薄闇の中で少年――誠治の周りだけが明るく照らし出された。
「おじさん……なんで僕の名前知ってるの?」誠治は不思議そうな、というよりは不審そうな顔でこちらを見つめる。
 武市は小さく鼻で笑った。
「さあ、なんでだろうね? 俺はおじさんじゃないからわからねえな」
「むー……。おじさんの意地悪」
「だから、おじさんじゃねえっての。そうだな、お兄さんと呼べ」
「え?」本気で顔をしかめる誠治。
「なんで心底嫌そうな顔してんだよ。俺のが『え?』って言いたいわ」
 負けじとしかめ面を浮かべる武市に、誠治は小さなふくれ面を見せた。
「……じゃあ、わかったよ。お兄、さん?」
「疑問形にすんな」
「お、おお、おににににいさん」
「どんだけ言いにくいんだよ!?」
「わざとじゃないもん」
「嘘だろ……」
 本当のところはよく分からない。
 単にバカにされているだけのような気もするし、そうでなく本気で何かの拒否反応が起きて言いづらそうにしているようにも見える。
 いずれにしても、名前の呼び方一つで詰まって貰っているようでは話が先に進まないのでオトナの対応で譲歩することにする。
「おじさんでいいよ、もう」
「ほんと!?」
「だからなんで嬉しそうなんだよ、てめーは……」
「自分に嘘をついちゃ駄目なんだよ」
「どうあっても俺はおじさんにしか見えない、ってことか」
 がっくりと肩を落とす武市に、誠治はこくりと頷いた。
「まあ。この際おじさんで良いよ。俺の呼び方とかはどうでも良いんだよ。こうしてちゃんと話して貰えてるしな」
「……はっ!?」
 誠治がしまったという表情で口を押さえる。
「もう特別でもなんでもなく話しちゃってるしな。別に知らない人ってわけでもないだろ」
「……そう、かも。でも、僕、おじさんの名前知らないし」
「おお、そいつは悪いことをしたな。俺の名前は六万寺武市。呼ぶ時は武市さんでいいぞ。或いは呼びたければヒーローでも構わん」
「……おじさん」
「とことんそう呼びたがるか。そうか」
 納得と言うよりは諦観の感さえある表情で頷く武市。
 溜息を一つ吐く。
「それで、お前はいつになったら家に帰るんだ?」
 街灯の明かりの中へ一歩踏み込む。砂利を踏む音がして、武市の顔を蛍光灯の明かりが照らした。
「帰る……?」
「もう、子どもが遊んでいて良い時間じゃないだろうが。よい子は暗くなる前に家に帰りなさいって学校か……そのあっちゃんって子は教えてくれなかったか?」
「……言ってた」ほんのわずかだけ考える仕草を見せて、誠治はそう応えた。
「だろ?」
「でも、帰らない」
「お前、あっちゃんの言ってたこと守らなくていいのかよ?」
「だって、おじさんとも喋っちゃったし」
「それは別で良いんだよ」
「……」
 誠治はそのまま黙り込む。
 手は相変わらず石を握りしめて、がりがりと地面を削って絵を描いている。
 土の地面に石で描いた絵、それも小学生の描いたものだ。上手いか下手かと言えば圧倒的に下手だし、そもそもパッと見ただけでは何を描いているのか判別するのも難しい。
 太い棒が二本、紐で繋がれているように見えなくもない。棒からは何本か線が出ていたり、塗りつぶされた領域があったりしている。
 だが、なんとなく武市にはそれが男の子と女の子の絵のように見えた。
 顔の表情なんてものは当然見えない。だが、それでも楽しげな雰囲気のように思えた。
「もしかして、そいつがあっちゃんか?」
「……うん」
 直感だけで訊ねた武市の問いが肯定された。
 誠治は二本の太い棒を繋ぐ線の真ん中をぐりぐりと塗りつぶしているらしかった。
 これが人だというのなら、さしずめ繋いだ手だろうか。
「楽しそうな絵だな」
「楽しい絵だもん」
 誠治はそう言いながら、少しずつ、少しずつ絵に描き込みを足していく。
 何となく人に近づいている様な気がする。
「その絵が完成したら帰るのか?」
「ううん」誠治の言葉は短い。
「じゃあ、いつになったら帰るんだ?」
「帰らない。もう……放って置いてよ、おじさん」
 誠治は顔を上げないまま、イライラした声で言った。
 誠治の隣にしゃがみ込んでその頭にわしっと手を乗せると、武市は優しい声で言った。
「そう言うわけにもいかねえんだよ。なんせ俺は正義の味方だからな。子どもがこんなに暗くなるまで外で遊んでるなんて、放っておけないの」
 わしゃわしゃと撫でられた下からこちらを不満そうに見つめてくる誠治の視線を軽く受け流す。
「ほら、良いからお兄さんに帰らない理由を話してみな」
「……わかったよ、おじさん」
 飽くまでおじさん呼称は譲らないらしい。
 一瞬頬がひくつくのを全力で抑えこんで、武市は笑顔を浮かべた。
「んー、良い子だ」

***

 誠治の正面へ移動する。しゃがみ込んで、その顔を覗き込んだ。
 先ほどまでとは少し毛色の異なる、深刻そうな表情を浮かべていた。年に相応とも思えない。
 その口が、開く。
「帰らないんじゃなくてね、帰れないんだ」
「どういう意味だ?」思わず武市は問い返していた。
「そのままだよ。帰れないの。僕ね、迷子なんだ」
 迷子。
 道に迷って行きたいところへいけない状態のことを指す言葉だと武市は記憶している。
 迷子になった場合、人はどうすればいいのか。いくつかの可能性はあるが。
「いつ頃から迷ってるんだ?」
「わかんない」
 とりあえずの質問は全く意味を成さなかった。
 例えば道をどこかで間違えてしまった場合、間違えたポイントまで一度戻るのが最善である。そうすればそこから間違いではなかった方の道を選ぶことで正解へと進むことが出来る。
 だが、それすらも分からない場合。つまり自分はいつから迷っていてどこをどう戻れば元々の道へ帰れるのかさえわからないようなこともありえる。
 つまり、今の誠治の様な状況。
 そのような状況ではどうするべきか。
「迎えに来てくれる人とか探しに来てくれる人とか、アテはあるのか?」
「ないよ」
「無いって事は無いだろ。お母さんとか心配するぞ」
「うん……それはそうなんだけどね」
 奥歯に物が挟まったような言い方で曖昧に否定されてしまった。
 ひょっとすると地雷を踏んでしまったのかも知れない。そんな予感が武市の中に広がる。
「もしかして……お前、母親いないのか?」
「ううん、そうじゃないけど、多分ママは迎えに来てはくれない」
「そうか。パパもか?」
「……うん」
 どういう事なのか、詳しく聞いたら説明してくれるだろうか。
 何となく、今訊ねても無理な気がしたので、武市はその話題は置いておくことにした。
「それなら、お前は自分一人で歩いて帰るしかないわけだな」
「うん」
「で、道がわからない、と」
「うん」
「本当なら交番とかに行けば良いんだろうけどな」
 周りを見回すが、田んぼと野原ばかりで交番どころか最寄りの民家の明かりも随分遠い。
「大人は、多分僕が帰りたいところのこと知らないから」
「まあ、そうかもな」
 小さな子どもが迷子相談に来てその家を瞬時に特定してしまうような警察機構は、確かに恐すぎる。
「でもなぁ……このままここにいるってわけにもいかんだろ?」
「いつもはあっちゃんと一緒に帰ってたから」
「また、あっちゃんか」
「うん。手を繋いで帰ってたんだ」
「そうか。じゃあ、しゃーないな。俺が付き合ってやるよ」
 武市はそう言って手を差しだした。
 恐らく誠治から見れば随分と大きな手のひらだろう。
 ごつごつと節くれ立った手のひらを、不思議そうに見つめている。
「……?」
「だから、お前が帰り道を探すのに付き合ってやるって言ってんだよ」
 だが、相変わらず誠治は要領を得ないようで、不思議そうに武市の顔と手のひらを交互に見つめる。
「手を繋いでやるって言ってるんだよ!」
「言ってないよ!」
 至極まともなツッコミが返ってきた。確かに、武市ははっきりとその旨を言ったわけではない。
 差しだしたのと反対側の手で頭をくしゃくしゃと掻くと小さく溜息をついた。
「坊主、その辺はある程度その場の流れを読んで行かないと、いい大人になれないぞ」
「ならなくてもいいもん」
「いや、空気の読めない大人は駄目だ。ほんとに。お兄さんは坊主の将来が心配だよ」
「別に心配してくれなくてもいいもん」
 そう言って、誠治が立ち上がる。立ち上がるとしゃがんでいる武市を少し見下ろす感じになる。祖の表情が不機嫌そうなものになる。
「……帰る」
 そう言って、誠治は武市の手を取った。

***

 街灯が照らす小さな舞台。外の世界は既に深々とした闇に飲み込まれてしまっていた。
 田んぼの稲穂が闇の中で薄くささめく。
 左手を誠治の右手と繋ぎ、右手を顎へと添える。三叉路の道をそれぞれ見渡して、武市は言った。
「んで、お前の家、大体どっちかってのもわかんないの?」
 誠治は空いている左手を一つの方向へと差す。
 今いるのが丁度三叉路の中央。
 武市が来た方向以外の片方で、向かって左側の道だった。
 田んぼの中を真っ直ぐと伸びているようで、先にぽつりぽつりと街灯が立っているのが見える。人里に続いていそうな雰囲気はあった。
「なんだ。家の方向わかってるんじゃねえか。なら帰れるな。ほら、ついて行ってやるからさっさと行くぞ」
 そう言って、誠治の指した方向へと足を踏み出して。
 ぐいっと、とても子どもの力とは思えないような力で引っ張り戻された。
「痛いって。左肩抜けるかと思ったわ」
「……」
 冗談交じりの抗議を無視して、誠治は自分の指した道の先をじっと見つめる。
 その先に何が見えるというのか。武市には何も見えはしないのだけれども、彼はただ厳しい視線を向けている。
「おい? 帰るんだろ?」
「帰るよ」
 口では帰ると言いながら、しかし誠治にはその場から動く気配がない。武市も引っ張ろうとするのだが、まるで根でも生えているかのごとく頑として動かない。
「なあ、坊主?」
「帰るよ。でも……ちょっと待って」
「待てって何を待てば良いんだよ」
「違うんだ。その……いつもはあっちゃんがどっちに行けばいいかとか教えてくれてたんだけど、僕一人じゃわかんなくて」
「お前、どんだけあっちゃんにべったりだったんだよ?」
「べったりって言うか……、あっちゃんが僕の面倒を見てくれてたんだけど……」
「で、そのあっちゃんとはぐれちゃったんだな?」
「うん。僕が手を離しちゃったから……気がついたらはぐれちゃってたんだ」
「そうか。まあ、とりあえずお前一人でも無事に帰ろうな。だから、ほら、行くぞ」
 そう言って誠治の手を引っ張ろうとするのだが、やはり動かない。
 その目はやはり道の先をじっと見つめている。
 程なく、ふっと誠治の足が動いた。
 指していた方向とは逆方向に。
「って、おい。お前ん家はあっちなんだろ」
「……」
「おい、坊主。家の方向は逆だったのか?」
「ううん……、家は、あっち」
 そう言いながら誠治は左手で、自分たちが進んでいく方向と逆方向の道を指す。明かりがぽつりぽつりと並んでいる道を。
 その一方で、足はぐいぐいと道を進んでいく。明かり一つ無い、真っ暗な闇の奥へと進んでいく。
「おかしいだろ。普通に考えて。家に帰るって言ってるのになんで逆方向なんだよ」
「でも、僕の帰り道はこっちなの」
「あの道は家まで続いてないって事か?」
 家自体はあちらの方向にあるが、道は続いていない。そんなこともあるのかも知れない。その為にこちらから回り道をしなければならないとか、そういうことなのだろうか。
「……」誠治は黙ったままぐいぐいと進んでいく。左手を繋いでいることなんてまるでお構いなしだ。ペースを併せてついていかないと、手が引っ張られて本当に痛いくらいだ。
「しゃーないな。付き合うって言ったしな」
 色々と腑に落ちないところはあるが、とりあえず誠治が漠然と道を理解していると信じて着いていくしか無いだろう。
 繋いだ左手が、ぎゅっと強く握りしめられた気がした。

***

 時計を見る。
 いつの間にか九時を回っていた。子どもが家に帰っていないとなれば大騒ぎになっていてもおかしくないような時間である。
「なんだかね……」
 道はどんどん人里から離れていっているように見えた。
 月明かりだけが辺りを照らしている。濃い緑の葉っぱが銀色の光を照り返して幻想的だが、迷子ともあればそんなことを心配しているゆとりもない。
 ここまでいくつかの分かれ道を選んできたが、誠治が選ぶ方は方向的にも常に先ほど彼が指した方角と逆方向だった。
 既に先ほどの場所から随分と歩いてきているが、本当にこの道で家へと向かえているのか、不安になる。
「おい、坊主、一旦ストップだ」
 武市の言葉に誠治がようやく足を止めた。
 そこは再びの分かれ道。
 ずっと月明かりのみを頼りに歩いてきたが、ここへ来て暫くぶりに、思い出したかのように明かりがあった。不思議なことに電線も何も伸びていないのに、明かりだけが一つ煌々と灯って別れ路を照らしている。
 さしずめ闇夜の舞台に一カ所だけ当てられたピン・スポットライト。
 その舞台の中央で、誠治は武市を振り返った。
「帰る」ぽつりと一言だけ漏らす。
「どこへ帰る気だ?」
 今更ながら、武市はその問いを発した。普通に考えるのなら改めて訊ねるようなことではない。どこへ帰るのか、そんなのは家へ帰るという答えが誰にも分かりきっていることのはずだった。
 故に、武市も今まで誠治の小さな手の引くままに、「付き合ってやる」と言った言葉のままに誠治と共に歩いてきた。
 だというのに、ここへ来て俄に不安になった。
 この少年は本当に家へ帰る道を歩んでいるのか。
 だから、問うた。
「……」誠治は答えない。その口はキュッと横一文字に結ばれて、呼吸さえも止まったかのように見える。
 首が、一瞬だけわずかに横に振れたようにも見えた。
「じゃあ、質問を変えよう。お前の家は、どっちだ」
「……」
 一瞬の沈黙。
 誠治はどうするべきか迷っているように、一瞬武市の顔を見上げた。
 そして、恐る恐る右手を挙げて、ある方向を指した。
 なんとなく、そうなのではないかと思っていた。
 だから、誠治が指した方角を見て覚えた感情は驚きでは無く納得だった。
 彼の手は、幾分と後方――すなわち武市と誠治の二人が歩いてきた元の道を帰る方を示していた。いや、わずかに斜めにずれているだろうか。その先は、はじめの分かれ道で誠治が指した方角と交わるだろう辺りに思えた。
「……お前、どこへ帰りたいんだ?」
 武市の手を握る手がこわばる。
 繋ぐ手は小さくて柔らかくて。それでも温かくはなかった。生き物の手とも思えない温かくも冷たくもない不思議な感覚である。
 実ははじめから気付いていた。
 より正確には知っていた。
 この倉沢誠治は既にこの世のものではない。

 明かりが揺らぐ。ばちばちと何かが弾けるような音がする。それらを見るとも聞くとも無しに感じながら、武市はつい先日の部下との会話を思い出していた。

***

 六万寺武市は私立正義の味方である。この場合の正義の味方というのは探偵の仕事をもう少しきな臭くなくしたり手広目にしてみたりしたものというのが武市の主張であるから、私立探偵と読み替えて貰っても構わない。いなくなったペットの捜索から夫婦喧嘩の仲裁まで、夜には怪人や怪盗と対決するヒーロー紛いの仕事もこなすクールなハードボイルド、とは本人の談である。
 かくして彼は駅前から少々距離を置いた雑居ビルの一角に「六万寺武市―正義の味方―事務所」という看板を掲げており、その事務所は応接用兼ベッドのソファが二つと簡素な事務机、それからそれらに付随するいくつかの小道具、それで全てだった。
「倉沢誠治の幼なじみ、市ノ瀬彩花の死亡についての報告は以上です。……聞いてましたか、所長?」
 事務机上に書類を置き不機嫌そうな表情を浮かべたのは星原舞だった。小柄な女性で少女と言っても通用するかもしれない風貌、ただし醸し出す雰囲気だけは妙に大人びている。彼女がこの事務所の唯一にして全てのスタッフだった。舞が半眼でソファに寝ころんでいる物体を睨み付ける。
 夏場だというのに毛布にくるまれているそれは、驚くべき事に人間だった。
 であるばかりかこの事務所の所長だった。
 六万寺武市は毛布からごそごそと顔を出して、舞の方へ笑顔を向ける。
「相変わらず、素晴らしい仕事で頭が下がるよ。舞君はこんな事務所にはほとほと勿体ないね」
「それがお世辞なら言わなくても結構です。本当のことならわざわざ口に出す必要はありません」
「そんなクールなところも相変わらず可愛いねー。好きだよ」
「セクハラ発言です。それよりも、話はちゃんと聞いていたんですか?」
「聞いてたよ。市ノ瀬彩花、通称あっちゃん。幼少時に倉沢誠治とはぐれたその日、近くのため池に落ちて死亡。要点だけまとめればそうだよね?」
「合っているところが無性に悔しいですね」
「その辺りは任せておくれ。何たって正義の味方だから」
「はいはい。それで、正義の味方たる所長のお考えは?」
「恐らく……彼は自分とはぐれてしまったことで彩花ちゃんが死んでしまったと考えたんだろうね。そんな自責の念がずっとその場に留まり続けているんだ」
「いつからウチの事務所はゴーストスイーパー事務所になったんですか?」
「心配しなくてもコブラなんて買えないから、これ以上お化け相手に仕事することはないよ」
「何の話です?」
「いや、なんでも。とにかく、彼の霊は帰りたがっているんだよ」
「家に、ですか?」
「いいや、家じゃない。言葉にしにくいけれど……、そうだな、幸せだった日常に、とでも言えば良いんだろうか。そして、そこは彼の帰るべき場所ではないんだ。帰るべき場所には帰りたくないんだ」
「……今ひとつ、わかりません」
 毛布にくるまったままの武市は少しだけ真剣な表情で考え込んだ。
「そうだな……。例えば舞君、君が事件の調査をきちんとこなしてくれたら所長の僕がご褒美に熱烈な愛のハグをしてあげるって言ったらどうする?」
「通報しました」
「完了形かい!? ほんのジョークだよ!」
「人間、冗談でも言って良い事と悪いことがあると思うんです」
「まあ、とにかくたとえ話だよ。想像してみてご覧。僕がそんなことを言ったんだけど真面目な君は調査を完遂したんだ。そして今この事務所に帰ってこようとしている」
「そのまま帰ってきたら所長の愛のハグですか。……そう、ですね。まずこの部屋に仕掛けてある毒ガススイッチを作動させましょう。そして所長が亡き者になった頃に帰ってきてしめやかにお通夜を営むことにします」
「いや、あの、お願いだから普通の範囲で考えてくれないかな。ていうか俺、そんなに嫌われてるの?」
「そんなことはありませんよ。あ、いえ、失礼しました、冗談です。そう……ですね」
「今の『冗談』はどこに掛かるのかなぁ?」半分泣きそうな声で武市が言うのだが、舞は全く気にかけた風もなく考え込む。
 その表情がふっと何かを思いついたようになり、手をポンと叩いた。
「やはり事務所に戻って報告しなければならないのでしょう。となれば恐らく耐え難くおぞましい屈辱と神聖なる職務のジレンマに挟まれて悶々とした挙げ句にわざと回り道をするなどして解決を先送りにする。一般人ならそうするのではないでしょうか」
「あー、うん、つまり君は本気でさっき口にしたようなことをするつもりなんだ」
「そんなことよりも、その話と今回の件をたとえ話で繋げるなら話のレベルが低すぎて却って難解になるだけだと思うのですが」
「でもわかったんならいいだろ! つまり、彼は今わざと迷子になってるの! 残酷な日常に帰りたくないから! それを事務所に帰って来たくなくなる心理で例えようとしただけなの!」
「はいはい。わかりました。所長のありがたいたとえ話のお陰でわかりました。それならそれと最初から説明してくださってもよかったのに」
「分かり易いって思ったんだからたとえ話にして何が悪いんだよー」
「結構です、と言っています」
 事務机に備わっている椅子に軽く腰掛け、実に堂に入った姿勢で武市の言葉を聞く舞。その席は本来はこの部屋の主である武市のものだった筈なのに、いつの頃からか舞が事務机で武市はソファという構図がこの部屋の当たり前になっている。こうなるとどちらがこの部屋の主なのか、わからなくなる。
「それで、所長はどうするつもりなんですか?」
「どうするもこうするも、付き合い長いからそろそろわかるんじゃない?」
「通じてしまう自分が残念で仕方がありませんよ」
「じゃあ、そういうことでよろしく」
 武市はそれだけ言うと再び毛布に潜り込んで姿を隠してしまう。まるで日の光を厭っている夜行性の動物か何かのようだ。
「いつですか?」
「そうだねー。月が明るい土曜日にしようか」
「そんな、いつか調べもせずに」
 舞は慌てた様子で机の上に置いてあった新聞をめくる。
 天気予報の欄は、果たして次の土曜日の天気を晴れ、月齢を満月と報せていた。
 その横にちょこっと鉛筆で印が付けられている。
 舞は溜息を一つ吐くと、ソファの上に転がっている物体を見やった。
 こういうところが嫌いなのだ。
 やる気のないそぶりをしていて既に準備は万端。あとは助手である自分がほんの少しお膳立てをするだけ。
 そんなの、助手が仕事をしなくてもどうとでも成るのではないかと思ってしまう。
 そんなことを考えながら、何気なしに引き出しを開けた。
 封筒が一葉とあめ玉が一個入っていた。封筒の表書きには「お疲れ様。これもよろしく」と書かれている。開けてみれば、これから舞がすることに必要となるだろう切符と、使うだろう電車の時間が調べられたメモが入っていた。
「まったく……。どっちがお疲れ様なんですか」
 武市に聞こえないように、そう呟いて、電話を手に取った。とりあえず、先ほどの通報は誤報だったと警察に連絡と謝罪をせねば。

***

「それで、お前はどうしたい?」
 武市は問うた。
「僕は……帰りたい」
「わかってるとは思うが、お前の帰りたい場所って言うのはな」
「言わないで! それは、言わないで聞かせないで!」
 繋いだ手も離して耳を塞いで、その場にしゃがみ込んでしまう誠治。
 俯いた顔からぽたりと垂れ落ちた雫が地面に黒い染みを作った。
 小さな肩が可哀想なほどに震えているのを武市は見下ろした。
 この少年がどのようなメカニズムでこの場に存在しているのかは実際の所よくわからない。霊だの超常現象だのという類のものはその根幹となるメカニズムについてはブラックボックスのまま、しかしある程度社会に存在を認知され、そしていくつかの対処方法も武市らのような存在の間では確立されつつある。
 その一つが、今武市が行おうとしたように、相手の意識の認識を直接改めること。霊が霊であることを自覚していない場合、自分自身が霊であり思念のみの不安定な存在であると認めてしまうと、それだけで消滅してしまうようなことも少なくない。恐らく誠治はそれを本能的に感じ取って耳を塞いだのだろう。
 未だに蹲り震えたままの背中を見て、武市は優しく語りかけた。
「言わねえよ、そんな残酷なこと」
「ほんと……?」恐る恐る、こちらを見上げてくる誠治。その瞳は涙で潤み、今にも泣き出してしまいそうなほどの怯えがはっきりと見て取れた。
 恐らく、この少年も本当は全てを理解しているのだ。
 どうしようもないほどに全ての事柄を理解してしまい、理解した上で気付かないふりをしている。
 道に迷ったことにして、正解にたどり着けない迷走を繰り返すことで、ただ今の不幸せでない状態を先延ばしにしているだけ。
 全てをわかった上で、それでも彼にはそれしか選択肢がないのだろう。
「でもな、坊主。俺ならお前を帰るべき場所に還してやることが出来るんだぜ?」
「……」誠治はしゃがみ込んだまま、じっと黙ってこちらを見ている。武市の言葉から何かを推し量ろうとしているのか、瞬き一つせずにじっと見つめてくる。
「俺が言うのもなんだがな……、幸せの形ってのは一つじゃねえよ。過去の幸せにしがみついてばっかりいねえで、ちゃんと前に進む道を歩いていけば、新しい幸せだって見つかるんじゃねえのか?」
「でも、僕は帰りたいんだ」
「帰れるのか?」
 恐らく、これがこの場で発することの出来るギリギリの問い。これを「帰れない」と否定してしまった瞬間に、この誠治という存在はこの世からかき消える。
 それがわかっているから、消すのは簡単なのだ。
 武市は常に誠治の首元に一撃必殺の刃を突き付け続けているのに等しい。だが、今の武市にその刃を使うつもりは勿論毛頭無い。
 だが答えないということは許されない。そんな威圧感が不意に武市から噴き出したような気がした。
 誠治が一瞬ビクッとなる。
「迷子だけど……、今は帰り方はわからないけど……」
 きっと、誠治は今までもずっとこうして彷徨ってきたのだろう。
 大切な幼なじみがいなくなってしまってから、ずっと彼女のことを探して、彼女のいる景色に帰る為に。
 蝉の声の響く夏。雪の染め上げる冬。日差しの眩しい春に、野山が紅く染まる秋。どんな季節、どんな場所でも大切な幼なじみのいない景色など考えられない。
 誠治は彼女のいる景色に帰ろうとしているのではない。彼女のいない景色に帰らない為に、その為だけにこうしてずっと迷子を続けているのだ。
 自分を欺いて、帰れない場所への帰り道を探して。現実から目を背けて。
「いつか、きっと帰るから。今度はあっちゃんの手を離さないから」
 他人はそれを逃げというのかもしれない。現実逃避をしているだけ。ただ認めたくない者を認めない、それだけのことと言われても仕方がないのかも知れない。だが、武市にはそんな思いは浮かばなかった。
 こんなにも小さな子どもの、こんなにも強い思いを聞いて、それを無碍に蹴ることなど出来ない。
 六万寺武市とはそう言う人間なのである。
 だから、彼の頬には涙が伝っていた。
「そうか。坊主の意志は固いんだな……」
「帰るもん。僕は絶対帰るんだもん」
 立ち上がり、誠治は武市のことを見上げながら言った。
 涙は手の甲で拭う。それだけで、もう強い男の子の表情に戻っていた。
「それだけ見せつけられると、なんかこう、応援したくなっちまうな」
「あ、でも、おじさんはここまででいいよ」
 誠治は思い出したように一礼。今度は腰から深々と頭を下げた丁寧な礼だった。
 その様子がほんの少しだけ可愛くて、武市は誠治の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 撫でられるのをくすぐったそうにしながら抜ける。顔を上げた誠治は、とびきりの笑顔を浮かべていた。
「おじさん、ここまで付き合ってくれて本当にありがとう。僕、一人でもきっと帰れるから」
「おう。それは是非とも頑張れと応援したいよ」
「うん。ありがとう。それじゃ」そう言って誠治は踵を返し、そのまま立ち去ろうとする。
 それを、武市が思い出したように呼び止めた。
「ああ、待て、坊主。その……、なんだ……」
「どうしたの、おじさん?」言いづらそうに口ごもる武市に、誠治は不思議そうな顔を向ける。
 その顔を直視せずに目を逸らし、武市は告げた。
「その、な。お前に謝っとかなきゃならんことがあるんだ。すまん」
「え……何、ソレ? 意味わかんない」
 混乱した表情で呟く誠治。そんな誠治からますます目を逸らし、武市は一歩、左へと動いた。
「本当に、すまん」
 武市の後には、人がいた。
 一人は小柄な女性だ。少女と言っても通じる見た目をしているが雰囲気は妙に大人びている。星原舞だった。
 その舞の半歩前、この場の主役であるかのような場所に姿を現したのは、スーツ姿の男性だった。中年から壮年の一歩手前くらいだろうか。髪の毛には白いものが混じっているように見える。
 田んぼと野原に囲まれた田舎道に不似合いの、よく糊のきいたスーツを着て、ネクタイを締めている。服の着こなしなどから良いしつけを受けてきただろう事が伺える。良いところの坊ちゃんだったのかもしれない。
 どことなく、誠治と似ている。
「え……、あ……」
 男を一目見た途端、誠治は痙攣でもしてしまったかのように動けなくなり、その口からは意味を成さない音が漏れ出るばかりだ。
 誰も、何も喋らない。
 武市は目を背けて、地面を悔しげな表情で見つめている。舞は無表情で立っている。
 男は、誠治を寂しげな瞳で見つめていた。
 淡い光が誠治を包み込む。その光は足下から徐々に強くなり、誠治の姿をかき消していこうとしていた。
「あ……、あは……」
 誠治の頬を伝う涙も、光の粒となり溶けて消えゆく。
 それは、幻想的な光景だった。
 武市は目を逸らして、ただ地面を見つめていた。
 程なく、光は倉沢誠治という少年の体を全て包み込み、夜の闇へと溶けて消えた。

***

 そこは、最初に武市と誠治が出会った三叉路だった。今まで二人が延々歩いていたのは、その実幻か何かだったのかも知れない。
 先ほどまで誠治がいたはずの空間にはもう何も残っていない。
 後には、はじめに誠治が地面に描いていた落書きだけが、街灯の明かりに照らされている。
「これで、よかったのかね?」
 男が戸惑ったように武市に尋ねる。
 武市は小さくかぶりを振ると、男の方へ向き直って弱々しい笑顔を浮かべた。
「はい、これで万事解決です。倉沢誠治さん」
 男――倉沢誠治は、その言葉を聞くと小さく頷いた。
「しかし、彼女から説明を聞く限りでは別に私が直接会わなくても除霊できるのではないのかな?」
「勿論、不可能ではありません」
 武市は力のない息を吐いた。
「ですが、本当の過去に決着を付けてあなたが幸せな人生を送っている。そのことを見せて安心させてあげるのが、彼を満たしてあげる方法としては最善だったと俺は考えます」
 不安定な存在は、その存在意義が失われたと認識してしまったら多くは消えてしまう。故に、武市は倉沢誠治本人を誠治に会わせて、帰るべき場所に帰った先にもきちんと幸せがあることを見せた。
 そして、彼は消えた。いや、還った。
「その、なんだったか、残留思念、か?」
「ええ、あの少年の姿は、恐らくあなたが幼い頃に残してしまった強烈な思いが形を為した残留思念だったんだと思います」
「その残留思念の幸せまで考えるとは、流石正義の味方だ。感心するよ」
 大仰に抑揚をつけて嫌味っぽくそう言う倉沢に、武市は小さく肩をすくめる。
「いえいえ、そんな良いもんでもないですよ」
「それでは、私は帰らせて貰うよ。報酬については……」
「はい。足労願ったので半額で良い、と言うことで」
「忘れていないならいいんだ。では、失礼する」
 そのままきびすを返して、元来た方へと道を歩いていく。その先には、車を待たせてあるようだった。
 倉沢の帰りを察知して、車がライトを付ける。田舎道に異様なほどに似合わない黒塗りの車だった。
「すみません、倉沢さん、最後に一つだけ、もう一度確かめさせて貰えませんか?」
「何をかね?」倉沢が億劫そうにこちらを振り返る。
 その姿を上から下まで眺める。彼の着ているスーツが上等なものであることは、素人である武市にもよく分かる。上から下まで整えた服装は、恐らく武市が向こう一生何があっても手を出さないような金額なのだろう。
 それだけでも、彼が現在金銭的に不自由していないだろう事は容易に想像がつく。
「あなたは……、今、幸せですか?」
 武市の問いに、倉沢はしばし沈黙した。
 田舎のたんぼ道、その真ん中に立って、武市のことをじっと見つめる。
 或いは、その向こうに消えたかつての自分の姿を見つめているのかも知れなかった。
 小さく息を吐くと、困り顔で言った。
「後悔は消えないよ。だが……、今の私は幸せだ。それとも、君に頼んだらこの後悔も消してくれるのかな」
「それは正義の味方の仕事じゃありませんよ」
 肩をすくめて武市がそう言うと、倉沢はかつかつと大きな声で笑いを上げた。
「違いない。むしろこうしてトラウマを思い出させてくれたのだからね」
 武市は気まずそうに頬をぽりぽりと掻いて、小さく頭を下げた。
「それでは、私は帰らせて貰うよ。子どもは寝てしまったかもしれんが、妻が待っているんでね」
「ええ、お気を付けて」
 暗闇の中に消えていくスーツの背中を武市はじっと見送った。
 その背中に、舞の声が掛かる。
「どうしてウチの所長は面倒くさい方法しかとらないんでしょうね」
「そう言う性分だから仕方ないだろ。さて、俺たちも帰るか」
 武市はそう言うと舞に背を向けて歩いていく。その表情は見えなかったが、大体想像がつく。
 辛さで目を背けて置いて余計に辛くなるなんて、難儀な人だ。
 溜息をひとつついて、舞は言ってやった。
「あの子……、最期にはちゃんと笑ってましたよ」
 数歩歩いた武市が足を止める。
 こちらに背中を向けたまま。
「………………そうか」
 その武市を追い越しながら、舞は弾むように言った。
「帰りましょうか、私たちの日常へ」





あとがきに似たたぐいの何か
 初めての方にははじめまして、そうでない方はこんにちは。よしけむです。
 久々の作品アップはNFでの幻想組曲あと246号から。タイトルを漢字から開きました。
 今回はいつもと少し毛色を変えてみてます。ホラーというわけではないですよね、多分。
 あまり書くこともないのでこのあたりで。
それでは、またいつの日か、どこかの活字の上で。よしけむでした。


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