僕とノー

よしけむ
1.藍舞美衣あいまいみいという人間について

 我が家のお隣さんであり家族ぐるみでの付き合いも長い藍舞家、その家には僕と同い年の女の子が居る。
 詰まるところの藍舞美衣その人である。高校二年生であり、性格は所謂控えめおしとやか。引っ込み思案が高じて余計な割をくらっている、そんなタイプの、どこのクラスにも一人や二人は必ずいるだろうなんて事のない少女である。
 そんな彼女と僕との関係はは世間一般で言うところの幼なじみのそれに当たる。小中学校を同じくした後に同じ高校に進み、何の因果か現在同じ二年G組に在籍中である。小学校では四回、中学校では二回とかなりの高確率で同じクラスになっているがとりあえず偶然と言うことで片づけている。他に説明の方法はない。
 彼女に対して、友達以上恋人未満であるとか、仄かな恋心であるとか、そんな感情を僕はこれまでの所一切感じたことはないし、相手から同様の感情を向けられていることを感じたこともない。然るに僕と彼女はきわめて健全な幼なじみであり、それ以上でもそれ以下でも、ない。



2.十二色ボールペンの有効な使い方について

「さて、コイツの効果は分かった……が、どう使ったもんかだよな……」
 十二色ボールペンというものをご存じだろうか。そう、百円ショップなどで売っていそうな、太いペンの頭の所に十二本カチャカチャとしたものがついていてその一本一本に対してボールペンの芯が接続されている、その名の通り一本で十二の色を使い分けることの出来る代物である。
 そう、いかにも安っぽそうですぐにインクが出なくなりそうな、そしてそもそも十二色も色が使えたところで有意義な使い分けなどおよそ出来そうもないだろう、あのペンである。
 そう、黒の背広に身を包んだ記憶力不足の自称名探偵が旅行の土産に必ずと言っていいほど買ってくる、あの役立たずである。
 それが、その代物が、そんな役立たずのペンが、今現在この時僕こと山手山昇(やまのてやまのぼる)の手には握られている。先ほどの物言いで解るかと思うが、僕は決して十二色ボールペンに有効性を感じているような人間ではない。勿論、自ら好んで手に取るようなことはない。では、何故このようなものを今手にしているのか。しかもあまつさえその有効な使い方を考えているのか。
 話は一時間ばかり遡る。

 祖父の家へ行くのは珍しい。だが、祖父が家へやってくるのはもっと珍しい。であるにもかかわらず、その祖父が今僕の目の前にいる。因みに僕は自宅の自分の部屋にいる。
「で、じーちゃんは何しに来たんだよ?」
 山手山作(やまのてやまつくる)。自称発明家であり、家に閉じこもっては機械ばかりいじくり回しているこの祖父を、僕は嫌っていた。祖父の息子である父もそうだったのだろう。だから、僕たち家族はわざわざこの祖父の家の近所に別居している。なんでも一緒に住みたくはないが祖父が何かをしでかした時には責任をとらなければならないという義務感かららしい。僕としてはそんな義務感さっさと捨ててこの祖父から遠く離れたところに住んでほしかったが、子供の僕が言ってもどうにもなることではない。
 では、その発明にかかり切りの筈の祖父が何故僕の目の前にいるのか。答えは簡単である。つい先ほど唐突になんの前触れもなく訊ねてきたのである。理由なんて分からないし分かりたくもない。不幸なことに両親共に出かけており、兄弟のいない僕はただ一人でこの変人ジジイに対峙することとなった。
 そこで、先ほどの質問へと至る。
「何しに来たとは挨拶ぢゃの。お前、実の祖父に向かってそんな冷たい物言いはないぢゃろうに。孫の顔を見に来るのに理由が要るのか、ワシはそんなに嫌われておるのか」
 次第に泣きそうな顔になっていき、仕舞いにはどこから取り出したのか木綿のハンカチーフで目尻を拭い始める祖父。だがしかし、僕は知っている。この祖父がわざわざ理由もなく孫の顔を見に来るような家族好きの人間では、決してないと言うことを。
 僕がそのことを念頭に置いて冷めた視線を送っていると、それに気付いたのか祖父はハンカチをしまって真顔になった。
「つまらん奴ぢゃな、お前は。渡でももう少しは愛想があったというのに」
 因みに渡というのは僕の父であるところのこの祖父の息子である。
 僕は父と違っていちいち祖父を構ってあげる優しさは持ち合わせていない。
「何か用があってきたんじゃないの? そうじゃないなら帰ってよ。僕だって忙しいんだから」
「そうかそうか。では、本題に入るかのぉ」
 そう言うと祖父は突然どこからか一冊のノートを取り出した。い、今どこから出した?
「ん、驚いたような顔をしとるの。最近黒魔術に凝っとってな、空中からものを取り出すなんて手妻はちょちょいのちょいぢゃぞ」
 頼んでもいないのに祖父は説明をしてくれる。自慢癖があるのは昔からなので今更気にはしない。黒魔術というのも、とりあえず聞かなかったことにしておこう。
「それで、本題って何? そのノートが何か関係あるの?」
「ん、ズバリぢゃ。このノートはワシの新発明でな、コイツのモニターをお前にして貰おうと思っておるんぢゃ」
「ヤダ」
 僕は間髪入れずに答えた。
 思い出すのはこれまでに何度かやらされた発明品モニターの思い出。小遣いやら発明品の効果やら、色々なものに乗せられて今までも何度かモニターをしたことはあるが、ロクな目にあった記憶がない。大体爆発などで悲惨な結末を迎えるのが関の山なのである。
「まあまあ、そう早まるな」
「引き受けることこそが早まりだよ」
 もはや僕は聞く耳を持っていない。いい加減僕も高校二年である。引き受けて良いことと、何が何でも引き受けるべきでないことの区別はつく。このクソジジイの持ってくるモニター依頼は雨が降ろうと槍が降ろうと天地がひっくり返ろうと、後者なのである。
「しかし、コイツの効果を聞けばお前さんも引き受けたくなると思うんぢゃがな」
 一瞬僕の動きが止まったのは事実である。その言葉は過去にも何度も聞いてきてその都度騙されていたのだと自覚はしていた。しかし、不覚にも僕の耳は再びその言葉に惹かれてしまったのだ。
「き、聞くだけなら別にかまわないけど」
 素直に聞くのも負けの様な気がして、精一杯の虚勢を張ってそう言った。
 いつもいつでも後から考え直せばこれが全ての間違いの始まりとなっていたのだが、今回に限ってはこの過ちが僕にとって幸運となったのは、結果論的に言えば間違いなかった。
 祖父はそんな僕の様子を見てにんまりと嫌な感じの笑みを浮かべるのだった。
「聞くだけ、ね。まあええわい。実は、このノートは、」
 祖父はノートを手に持ち、僕の目の前に突きつけてたっぷり十秒間沈黙の間を作った。僕が唾を飲み込む音が、こくりと妙に大きく部屋に響いた気がした。
 祖父はおどろおどろしく言った。
「他人を操れるノートなんぢゃ」
 再び沈黙が部屋に落ちた。
 たっぷり十秒張りつめた空気が空間を満たした後、僕はこけた。
「はぁ? そんなのあるわけ無いじゃん。とうとうじーちゃんの頭もどうしようもなくポンコツになっちゃったの?」
 正直言って、常識だけは残っていると思っていたのに……。さっきも黒魔術がどうこう言っていたし、いよいよボケが始まったのかもしれない。
 僕がそんな失礼極まりないようなことを考えていると、その様子を見て何故か祖父は自信たっぷりの笑みを浮かべていた。
「ふふふ……。そう言ってられるのも今のうち。お前はすぐにこのノートの効果を信じることになるよ」
 そう言うと祖父はおもむろに太いボールペン、何色か分からないが沢山の色が出る奴だ、を取り出すと、ノートを開いて黒の色で一行目にこう書いた。
――山手山昇はこのノートの力と作の発明の力を信じる。
 ふぅ、そんなことを書いて一体何になるんだか。わざわざそんなことをしなくても僕が祖父の発明を疑うわけなんか無いのに。
 何の疑問を挟む余地もなかった。
「ところでそのペンは何?」
 僕は祖父の持っているボールペンを指して言った。
「コイツはオプションぢゃ。このノートで誰かを操る時に黒以外の色で書くとその色に見合った性格になってしまうと言う優れものぢゃ。バリエーションは黒を含めて十二ある」
 何ともまあ、恐ろしいオプションもあったものだ。黒はデフォルトのままと言うことなのだろう。
「それで、僕はこのノートのモニターをすればいいんだっけ?」
「そうそう。よろしく頼むの。それで……、それを作るのに疲れてしまったんでしばらくはこっちで厄介になろうかと思うんぢゃが、渡らに話を付けてくれんかの? モニターはワシがこっちに厄介になってる間やってくれれば十分ぢゃろ」
 祖父は僕にノートとペンを渡しながら猫なで声で言った。が、僕は祖父の能力は信用していても、基本的には祖父を好いていない
 なので、是非とも祖父にはこのノートだけ置いてさっさと帰ってもらいたいものだ。
 そこで、僕は早速ノートを開いた。
「何を書くんぢゃ?」
「たいしたことじゃないよ。気にしないで」
 見られぬよう祖父に背を向けて書く。性格いじりも面白そうだが、どうせ帰ってもらうのだから黒(デフォルト)のままで良いだろう。
――山手山作は孫にノートのモニターを頼んだことを忘れ、ノートを渡したまま家へと帰る。
「ところで昇よ、ワシは何しにここへ来たんぢゃったか?」
 背後の祖父が急にそんなことを言った。僕は振り向きざまに笑顔を作ると、まるで祖父思いの孫のように言った。
「じーちゃんは珍しく僕の顔を見に来たんでしょ。そろそろ帰るって言ってたと思うけど」
「おお、そうぢゃったな。では、またの」
「うん、バイバイ、じーちゃん」
 僕はそそくさと帰り支度をして部屋から出て行く祖父の背に向けて手を振った。
 計画通り。
 別に振り向いてにやりと笑んで時計の仕掛けから紙切れを取り出す必要もなく、僕の計画通りである。
 そして、はじめの場面に戻り僕はこのペンの性能をフルに活用する方法を考えているのである。

 赤、ピンク、オレンジ、黄色、薄緑、緑、水色、青、紺、紫、灰色、黒。
 さて、どう使ったものか。



3.ノートのある日常について

「オイっ、遅いぞ!」
 翌朝、学校へ行こうと出かけようとした僕は家を出るなりそんな言葉を浴びせられた。
 そう言えば昨夜なんだかんだ考えてちょっとした悪戯をしたのだった、と言うことを思い出すまでさらにもう十秒ほど、彼女を待たせてしまう。
「朝っぱらからボーッとしてるな。まったくあたしは幼なじみだからこうやって毎朝迎えに来てやっているが、」
 と藍舞美衣も文句を垂れ始めたことなので、彼女の文句が長くなる前にさっさと学校へ行こう。そう思って僕は一人さっさと歩き出す。
「って、オイ、人の話は最後まで聞け」
「だって、藍舞の話長いし」
 彼女とは只の幼なじみであって、そんな軽口をたたき合うほどは親しくなかったのだが、先ほどからの彼女の態度を見ているとこの程度なら親しくしても大丈夫のように思える。
 そう、僕は昨夜、例のノートに美衣のことを書いた。あのボールペンの「青」を使って、
――藍舞美衣は毎朝山手山昇と一緒に登校している。
 と書いたのだ。習慣的なことを書き込むとどうなるかは不安だったのだが、どうやら彼女の記憶の中ではいつも僕たちは一緒に登校していることになっているようだった。
 成功だ。僕は内心ほくそ笑む。
 しかし、青のペンの効果はこの様子だといったい何と表現するのが適当なのだろうか。「クール」というわけではなさそうだ。ひょっとしたら「ツン」かもしれない。確かそう言う用語があったような気がする。
 まあそんなことはいい。今は久しぶりの幼なじみとの登校を楽しむとしよう。

 さて、昼休みなわけだが、しかしさっきの授業では笑わせて貰った。
 今思い出しても笑える。体育の四谷にノートを使ってみたのだ。ピンク色を使って、
――四谷教諭が適当に目にとまった女子の尻を揉む。
 四谷のヤツはよりにもよって女子レスリング部の葛木の尻を鷲掴みにしやがった。尻をつかんでるその腕を逆に捕まれたかと思うと目にもとまらない勢いで関節を決められてたな、可哀想に。しかもピンク色の効果か知らないが、背後からがっちり固められている間も「乳が当たって良い感じだー」とかほざいていたからな。
 他にも何件か実験をかねて色々な色を試してみたが、どれもこれも笑えた。
 ところで、試しているうちにいくつか分かったことがある。
 一つ。どうやら、色の効果は一定ではないらしい。その色のイメージに合ういくつかの性格のうちで最もその人物に適した性格がチョイスされるらしいのだ。
 例えば先ほど体育の葛木はピンクでエロ猿になったが、構内でも有名なラブラブカップルの片割れである北条さんに使ってみたら、何ともテンションの高い恋する乙女になってしまったようであった。相方である東郷でさえ首をひねるほどだったのだから、変化があったのは間違いないようである。因みに行動自体は「人目を気にせずキスをする」と書いたのだが。
 二つ。このノートとペンによって性格が変わった場合、周りの人間の記憶にまで変化は起きないらしい。故に、あまりやりすぎると周りが混乱してしまうようだ。現に先ほど東郷は恋人の豹変ぶりに首を傾げていたのだし。
 三つ。このノートにも限界はあるようで、例えば物理法則やその人間の身体能力を越えたことは実行できないようだ。例えば百メートルのベストタイムが二十秒の人間が十五秒で走る、と書いてもそんなことは起きない。ましてや時を越えるなどの無茶な注文も受け付けてくれないということだ。
 そんなこんなで制約もあるにはあるが、使いようによっては非常に楽しめるノートである。
 と考え事をしながらノートを見ていると、いつの間にか目の前に藍舞美衣が立っていた。影に気付いてふっと顔を上げると目が合う。
「なにノート見ながらにやついてるの?」
「別に、何ってわけでもないけど……」と僕はついつい言い訳を探してしまう。こういうきつめの口調で言われるのは苦手である。
「……気味悪いよ」
 藍舞美衣はなんの容赦もなくそう断言した。
「そういえば、アンタ昼ご飯は食べないの?」
 藍舞美衣が思い出したように呟いた。見れば彼女はいくつかのパンを抱えている。背後には彼女の友人も同じようにパンや飲み物を持って控えており、どうやら揃って購買に買い出しに行ってきたようだった。
「……忘れてた」
「馬っ鹿ねえ。もうパン売り切れてたわよ」
 うちの学校には食堂がない。弁当を持ってくるか購買のパンを買うか、或いは抜け出して外で買ってくるかくらいしか選択肢がないのである。僕はいつも購買でパンを買っていたのだが、今日はノートのことを考えていてついつい忘れてしまっていた。
「面倒だけど、コンビニ行ってくるか」
 仕方ない。他に手がないのだから。そう思って僕が立ち上がった時だった。
「ん?」
 思わず変な声が出る。藍舞美衣が僕に向かって菓子パンを一つ突き出していた。
「あげる」
「え?」
 予想していなかった事態に僕も戸惑う。が、藍舞美衣も自分が出してしまったことに戸惑っているようで、なんとも言えない表情を浮かべていた。
「べ、別にアンタのために買ってきたわけじゃないわよ。ただちょっと買いすぎちゃっただけなんだから」
 そう言うと藍舞美衣はそのパンを僕の机の上に置いて、友人達と去っていった。
 カスタードメロンパン。彼女の置いていったそのパンは僕がいつも買っているパンだった。

 パン一個、腹の減りは収まったが、昼飯と言うにはあまりにも少ない昼飯。結局残りの昼休みを僕は持てあますことになった。
 暇なので、例のノートで遊べるネタでもないかと校内を徘徊してみたのだが、ノートでいじって面白そうな人はなかなか見あたらない。仕方がないので午後一番の授業の音楽の為に音楽室へと僕は足を向けた。
 校舎の端の階段を三階まで上がる。学校の中でも最も高いところに位置している音楽室の前まで来ると、その扉の隙間から重々しいピアノの音が響いてくるのに気付いた。
 どこかで聞いたことのある有名なメロディだ。果てしなく暗くてなんだか死にたくなってくるような。
「誰がこんな辛気くさい曲を弾いてるんだ?」
 不思議に思いながら音楽室の扉を開けると、ピアノに座っていたのは意外な人物だった。
 漆黒のグランドピアノに座ってゆったりと重々しく鍵盤を叩く。メロディに乗るように自らの体をも揺らしてピアノを鳴らしていたのは、藍舞美衣だった。
「あれ、山手山?」
 ふとピアノを止めて、藍舞美衣がこちらを振り返った。
「何弾いてたんだ?」
「ベートーベンのピアノソナタ『月光』。聞いたことあるでしょ?」
「あぁ、言われてみれば。どこだったか……、あ、思い出した」
 僕はポンと手を打った。
「座薬のCMに使われてなかったか?」
「……どうだったかな。そんなことまでは覚えてないわ」
 藍舞美衣が楽譜を畳みながら呆れたように言った。楽譜を畳むと言うことは弾くのはもう終わりなのか。なんだか少し残念な気がした。
「もう弾かないのか?」
「人が来たしね」
 そう言って彼女は僕を指さす。そんなことならば外で聞いていれば良かった。
 と、僕はいつの間にか藍舞美衣のピアノを聞きたがっている自分がいることに気付いた。
「あ、そうそう。次の音楽って教室で自習なんだって」
「え?」
 思わず間抜けな声を出してしまった。
「何でも、秋本先生が急に作曲に目覚めちゃって有給とって自宅に籠もったらしいよ」
 ふざけてるよねー、と笑いながら藍舞美衣が言った言葉で思い出した。そう言えば午前中の実験の中でそんなことを書いた気がする。
 なるほど、能力的に出来ることなら状況的に無理でも何とか実行してしまうと言うことか。
「っていうのをさっき教室で聞いて、だから誰もここには来ないだろうと思ってたんだけど、」
 藍舞美衣がため息を一つついて僕の方を睨む。
 僕が校内を放浪しているうちに連絡があったのだろう。だから知らずに僕はここへ来てしまった。
「ま、いっか。別にアンタに聞かれて何があるわけでもないし」
「ならついでにもうちょっと聞かせてくれないか?」
「アホ」
 そう言って僕の頭をポンと叩くと、藍舞美衣はなんの未練もなく音楽室を出て行ってしまった。
 彼女はピアノを弾いた。そして僕はそれを聴いた。ノートに書いたことは確かに実現したが、僕の思っていたそのままというわけにはいかなかった。まだまだ研究が必要なようだ。
――藍舞美衣がピアノを弾いて山手山昇に聴かせる。



4.おるすばんについて

 ノートを使いこなせるようになるまで、大して時間は掛からなかった。何しろ実験台には事欠かなかったし、色々とやってみたいことも山積みだったからだ。失敗したって大きな害が出るわけでもない。そう言うわけで僕は学校の知り合いを総動員して毎日愉快なことをさせていた。
 さて、今日も。
 どことなく殺気に近いものをはらんだ鋭い視線を感じて、僕は振り向いた。
 案の定、教室の自分の席に座ったまま藍舞美衣がこちらをものすごい形相で睨み付けている。その目には疑問、不満、混乱、そう言った類のものがないまぜになっている用に見える。何か言いたいことがあるならここまで来て直接言えばいいのに。
「ま、それが出来ないのが乙女心なのかな」
 今朝一番で彼女には黄色のペンでちょっと悪戯をしておいた。黄色はどうやら内気になるように働くらしい。つまり、内気な彼女は教室という衆目に晒された空間で僕の所へ来て話をするなんてことは出来ない、ということのようだ。
 彼女がこちらを睨んでいる理由は、分かっている。
 先ほど僕の元へも送られてきたメールが原因である。
「用事が出来て今晩出かけることになったので、夕食は藍舞さんの家で頂きなさい 父&母」
 僕は携帯電話を取り出すともう一度メールを読み返し、クスリと笑いを漏らした。
 恐らく藍舞美衣の元へも似たような内容のメールが送られている筈である。但し、僕に夕食をごちそうするとなっている点が異なるが。
 さあて、放課後が楽しみだ。

 そして放課後。僕は例によって藍舞美衣と共に帰り道を歩いている。
「なんで私が山手山に夕食作ってあげなきゃならないの?」
「さあ」
 少し怒ったような藍舞美衣の声に、僕は気のない返事をした。途端にキッとにらまれて、更に閉口までする。
 彼女は随分ご立腹らしい。
「アンタのとこの両親も私のとこの両親もいないから、二人でいた方が安全ってのはまだ分からないでもないけど、何故手料理が指定されているのよ!?」
「まあ、おかしな話ではあるね。店屋物でいけない理由はない」
「でしょ? なのに、ママったら……」
「しかし、僕は藍舞の手料理を食べてみたい気持ちもある」
「なっ」
 藍舞美衣が目に見えて狼狽した。僕から見えないように顔を背けているつもりらしいが耳まで真っ赤なのが隠れていない。どうやら藍舞はからかうとこうなるらしい。わかりやすいヤツだ。
「どうした、藍舞。急に黙りこくって」
「な、なんでもない」
「そっか」
「そうだ」
 なんだか味気ない会話だ。しかし何とも言えず愉快ではある。主に藍舞美衣の言動などが。
「わ、私は別にアンタが食べたいって言うなら作るのも吝かではないけど」
「だから、さっき食べたいと言ったろうに」
「そ、そっか」
「そうだ」
 何とも挙動不審で可愛いものだ。
 ん、可愛い? 僕は今藍舞美衣のことを可愛いと思ったのか。
 はて……、この感情はいったい何なんだろうな。
 藍舞美衣が可愛いのか。その挙動不審振りが可愛いのか。それともやっぱり藍舞美衣その人のことを可愛いと感じているのか。
 僕は自分が妙なことになっていると気付いた、気付いてしまった。

 藍舞家にあがるのも、よく考えてみれば久しぶりのことかも知れない。
 小さい頃はお互いの家でよく遊んでいたような気もするが、中学にあがった頃からは流石に頻繁に遊ぶことも少なくなり、高校以降は実際には没交渉状態だったとも言える。
 久しぶりにあがる藍舞家の中は、僕の知っているものと細部こそ異なってはいたが大体の雰囲気は昔と何ら変わりなかった。
「ちょっと着替えてくるから、リビングで待ってて。リビングは分かるね?」
 頷いた僕を見て、安心した様子で藍舞美衣は二階にある彼女の部屋へとあがっていった。廊下を歩く足音が静かな家の中に響く。
 昔来た記憶を頼りにリビングのドアを開けて入った。
「さて、どうするか……」
 一応例のノートとペンは鞄の中に入っているので、今悪戯をしようと思えば幾らでも可能である。だが、いざ藍舞美衣の家の中まで来てしまうと咄嗟に思いつく悪戯がなかった。
「おまたせ。で、アンタもうお腹空いてる?」
「いや、別に」
「そっか、ならまだ作らなくて良いよね」
「いや、多分今から作って丁度くらいじゃないのか?」
 藍舞美衣の調理スピードがどれほどのものかは知らないが、時刻は既に夕方を過ぎて夜になりかけの六時である。急に曇りだしたため夕焼けは見えないが、既に夕日は西の空に沈みかけているはずである。
「そう、かな?」
「そうだろう」
「そうか」
 藍舞美衣は少しがっかりした様子で立ち上がるとリビングと一続きになっているダイニングキッチンへと向かった。
「言っておくけど、味の保証はしないからね」
「構わないよ。最初から期待もしていない」
 ダイニングキッチンの奥から小さく「バカ」という藍舞美衣の声が聞こえた気がした。

 ごとり、
 テレビの雑音に混じってそんな音がした。退屈しのぎにと点けたテレビは実際点いているだけで見ていなかったのだけれど。
 僕の目の前に皿が置かれた。清潔な白い皿の上に山盛りにされた何か。
 白い皿の上にはそこはかとなく緑、所々オレンジ色の元野菜達がどっさりと積まれていて、どろりとしたタレが掛けられているようだ。
「なあ、藍舞、これは何だ?」
「見ての通りのもの」
 藍舞はむすっとした様子で答えた。
 大皿を置いて一旦ダイニングキッチンに引っ込んだ彼女は今度は茶碗に白飯をよそって持ってきた。更に箸とコップが並べられて、平然と彼女はそこに座る。
 これで料理は完成らしい。
「なあ、藍舞、もう一度訊くけどこれは何だ?」
「だから、見ての通りのものだと言っている」
「見て分からないから訊いている」
「……野菜炒めだよ、只の。それ以上訊くな。ひどい出来だっていうのは分かっているから」
 そう言うと藍舞は恥ずかしそうに目を伏せた。
 やれやれ、仕方ない。これを食べるしかないか。
「どれ……、しかし、本当にひどい出来だな」
 僕はその野菜炒めをいくらか自分の皿に取り分けてまじまじと見つめた。所々黒いものが混じっているのは焦げか何かだろう。
 恐る恐る、ピーマンらしき緑色の欠片をつまんで口元へと持っていき、目を瞑って一口に食べた。
「ふむ……、これは、」
 藍舞美衣が僕の様子を心配そうに上目遣いで見ているのが見えた。
 瞳が潤んでいて、どこか嗜虐心をそそる。
「不味い」
 そう口にした瞬間、左頬に猛烈な痛みを感じた。
 パアン、
 錯覚だろうが、音の方が後から聞こえた気がした。
 一瞬何が起きたか分からなくなる。頭が、現象に着いていかない。
 揺れる視界の中では藍舞美衣が右手を思い切り振り抜いていた。
「バカぁっ!」
 藍舞美衣はそう言うとすぐさま身を翻して駆けだしていた。
「あ、オイ、」
 僕が止める間もない。靴をきちんと履けたかどうかも怪しいような時間の間にドアが開けられて閉まる音が聞こえた。
 バカはどっちだ。苦い味が口の中に広がる。
 ピーマンの味ではない、苦み。
 口の中を切ったのか、ちょっぴり鉄の味がした。

 一人藍舞家のリビングに取り残された僕。
 さて、どうするべきか。
 このまま放っておくわけにはいかないだろう。探しに行った方が良いのは当然だが。
 こんな事態はまったく想定していなかった。まさに想定の範囲外だ。どうしたものか、何も思いつかないまま左頬の痛みは徐々に退いていく。
 どれくらいそうしていただろうか。
 ざぁぁ……
「雨か?」
 どうするのが一番簡単か。そんなことは分かり切っている。
 あのノートに藍舞美衣が戻ってくるように書けばいいのだ。決まっている。
 或いはどこか指定の場所に行かせて、それを迎えに行くのも悪くはないかも知れない。シチュエーションとしては面白そうだ。
「公園の木の下で雨宿りしているところに僕が傘を持っていく。悪くないストーリーだな」
 そんなことをなんとなく呟いて、呟きと内心が一致しない奇妙な違和感を覚えた。
 今のは僕の本心なのか?
 何かが引っかかった。
 それで良いのか、と。
「うん、まるで白馬の王子様の如く、いや、この場合は傘の王子様か」
 苦笑しながらの呟きは虚しく中にかき消えていく。
 本当に、それで良いのか?
 本当にそんなことを考えているのか?
 自問しながらも、僕の手はノートを開いてペンを取っていた。



5.そして再び藍舞美衣という人間について

「……何しに来たの?」
 僕の方を睨んで藍舞美衣が言った。
 上に雨を遮るものがあるところを上手く選んだものだ。実際、傘を持っている僕の方が雨宿りしている彼女よりも余程濡れている。どっちが迎えに来た方なのか、分かりやしない。
「いや……、どこぞの幼なじみが濡れ鼠になってるような気がしたんで迎えに来たんだが、不要だったかな?」
 彼女と自分の濡れ加減を見て、本気でそう思った。
「……バカ」
 目をそらされてそう言われては苦笑するほか無い。
 何せ、本当にバカみたいな事をしてしまっていたのだから。
「あのなぁ、なんで僕の家の軒先で雨宿りしてるんだ?」
「だって……、他に行くところが思いつかなかったんだもん」
「そうか」
「そうなの」
 そう言うことらしい。
 そう言う理由で、僕は藍舞家の隣の僕の家の軒先に彼女がいるとも知らず、町中かけずり回る羽目になったらしい。
 服も靴もびしょびしょに濡れるほどに必死で走り回って、疲れて諦めかけて帰ってきたら自宅の前に彼女がいた。
「大体、僕は最初にこの家の前を通ったような気がするんだが」
「見たよ。アンタが走っていくところ」
「なら、その時に声を掛けろよ」
「あんな後でこっちから声掛けられるわけ無いじゃないの! デリカシーのない奴ね」
 そう言うことらしい。
 つまりデリカシーとやらの問題でわざわざ僕は町中かけずり回り羽目になったらしい。
「あー、ばからしい」
「ほんと、ばからしいわね」
「誰の所為だ?」
「アンタじゃないの?」
「僕は藍舞の所為だと思うが」
 黙り込むところを見ると、藍舞もいくらかは責任を感じているらしい。そんな風になるなら初めから出て行かなければいいのに。
「とにかく……、帰るぞ」
「帰るって、ウチに?」
 不思議そうな顔で藍舞美衣は首を傾げた。
「まだ晩飯を食べ終わっていないからな」
「でも、どうせ私の作ったものは不味いんだし」
「そんなことなかったぞ」
 間髪入れずに言った僕の言葉に藍舞美衣の表情が一瞬固まる。
 いつになく思考の停止した目で暫く僕の方を見つめていたかと思うと、急に彼女の顔が真っ赤に染まっていく。
「な、ななななな、なんて?」
「だから、美味かったって。さっきの」
「だって、さっき不味いって」
 あたふたとしている藍舞美衣の様子をほほえましく思いながら、僕はまだ勘違いしたままの彼女に種明かしをしてやる。
「あれは『不味いことはない』って言いたかったの。あの野菜炒めな、見た目ほど酷くはなかったぜ」
「へ?」
 間の抜けた表情でぽかんと口を開けて固まる藍舞美衣。
 しかし、僕は嘘は言っていない。さっきのことは単に彼女が早とちりしてしまっただけなのだ。だからバカだと言うのだ、まったく。
「ほら、だから、さっさと帰って晩飯の続きにしよう。腹が減った」
「分かったわよ。言っておくけど、私が帰って一緒にご飯食べてあげなきゃアンタが飢えちゃいそうだから、仕方なく帰ってあげるのよ」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
 はて……。藍舞美衣の性格はこんなものだったか?
 僕はふと疑問に思った。
 僕の中での彼女のイメージは、所謂控えめおしとやか、引っ込み思案が高じて余計な割をくらっている、そんな感じの只の幼なじみだったはずなのだが。
 折角傘を持っている僕を無視するかの如く駆け出そうとする藍舞美衣を強引に引き留めて、僕の差す傘へと入れてやる。彼女は驚いたように一瞬こちらを見ると、ぷいっとそっぽを向いた。その頬が朱を散らしたように赤かったのは、暗いし僕の見間違いかも知れないな。
 案外、彼女は以前からこんな感じで、僕が気付いてなかっただけなのかも知れない。
 何せ、至極単純なことにさえ気付いていなかった僕だ。彼女の事なんて、実際知らないも同然だったというのは十分あり得る。
 そう。鈍感な僕はやっと気付いたらしい。
 藍舞美衣は僕の好きな人だ、ということに。

――藍舞美衣、彼女は彼女のありのままに。


〈fin〉


一見するとあとがきに見えなくもない呟き
 はじめましての方ははじめまして、そうでない方にはこんにちは。yoshikemです。
 18年度のおやつ所収の「Let her be...」を改題した「僕とノートと幼なじみについて」でした。「幼なじみ」は「すきなひと」とルビを振っても構いません(笑)
 おやつというのは「お題のやつ」の略称で、今回のお題は月光、かいだん、ツンデレ、十二色ボールペンの有効な使い方、生卵、鼠花火、鉄、音で、この中から生卵と鼠花火が落ちておりまして、後は入っています、多分。
 ツンデレ、というか単に「素直じゃない女の子」なのかなぁ……、と後から読みつつ思うわけですが、こういう子って書いていて面白いものですねぇ。いや、世迷い言です。気にしないでください。
 因みに美衣があまりにもテンプレート通りのツンデレ言動をしているのは、当時の僕がツンデレに対して全くと言っていいほど理解が無く、型どおりのツンデレしか知らなかった為です(言い訳)。
 デスノートっぽいとかもあまり気にしないでください。インスパイアは全力で認めます。コレを書いた頃って丁度デスノートのアニメが始まるとか言われ始めた頃ですしね。
 これは今まで作品紹介2の方に載せていたのですが、今回作品紹介2から作品紹介1へとコンバートする上で改めて読み直してみて、この子達でまた話を書いてみても面白いかなあと思いました。まあ、気が向いたらと、天啓が降りてきたらの話ですから本当に実行されるかどうかはまったくもって想像がつきません。多分次はもうノートの出番はありませんが、また新たなる発明品が出てくる……のか? 無くてもいい気がしてきました。
 それでは、またどこかの活字の森でお逢いしましょう。yoshikemでした。


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