バス

瓜生幸嗣

忙しい毎日におぼれて
素直になれぬ中で
忘れてた大切な何かに
優しい灯がともる

 藍色に透き通った空には、もう一番星がまたたき始めている。つんと冷え切った十二月の空気に体をふるわせながら、僕は家路を急いでいた。羽織ったコートも重く冷たくて、息が白かった。角を曲がると、人気のないいつもの停留所で、いつものバスは今日も独り大きな体をさむそうに震わせていた。宵闇の中でバスからこぼれる光だけがほっこりと暖かそうだった。屋根もない停留所の前の八百屋は、もう閉まっている。駆け寄ると、二つ折りの扉が開いて、暖かい空気がほおをなでた。急なステップを上り、両替機に百円玉を滑り込ませる。凍えた指先にでてきたばかりの硬貨のぬくもりが心地よかった。ポケットの中の小さなぬくもりを握りしめながら、僕は席に座った。バスは、もう動き始めていた。
何気なく窓の外をみると、車内の風景が浮かんで見えた。くたびれたサラリーマン、塾通いの小学生、自分と同い年くらいの少女…。はっとして僕は振り返った。少女の顔に見覚えがあった。
やっとぬくもり始めた席を立って声をかけようとして、僕はもう一度はっとした。一年前の親友とは違う少女がそこにいた。まっすぐに窓の外を見つめるその瞳は、僕にはわからない感情をたたえていたし、ふっくらした唇は閉ざされていて、そこからこぼれていた笑い声を今、僕は思い出せなかった。

 小学校6年生の冬だった。窓から差し込む強い西日がまぶしくて、僕は目を細めた。恭子は、さっきから、窓辺に突き出た棚に腰掛けて足をぶらぶらさせている。
「私、違う中学行かなあかんねん。」
放課後の教室、外からはドッジボールの声が聞こえていた。
「えっ。」
窓を背にして恭子の表情は分からない。
「うん。お爺ちゃんが死んだから、お婆ちゃん一人になるから。みんなでお婆ちゃん達のうちにすむんやて。」
人ごとのようにそういう声が、いつになく掠れていた。
「そうなんや。」
僕は言葉が宙を掻くのを感じながらそういった。ゆっくりと時間が過ぎていた。
恭子とこんな話をしたことがあっただろうか。もう数カ月で恭子と会えなくなるというのに、篤はそんなことを考えていた。
「家族みたいやったな。九年間ずっとやもんね。」
初めて恭子と会ったときのことを思い出せない。物心ついたときから隣にいた気がする。喧嘩もした。しばらく口を聞かなかった時もあった。でも、いつも気が付くと仲直りしていた。
兄弟みたいだった。
「うん。…でも住む場所が変わるだけやろ。別に一生会えへんようなるわけ違うし。…外行こ。みんなドッジボールしてる。」
かなり無理していったその言葉に、しかし恭子はふっと顔を上げて笑ってくれた。赤くなりはじめた西日を受けて、恭子は美人だと、僕はこのときになって初めて思っていた。
 二人は走って昇降口に出た。釘の緩んだす板が、大きな音を立てる。窓から、級友達のあそぶ姿が見えた。
「私もまぜてー。」
窓から身を乗り出して叫んだその声はもう、いつもの恭子だった。夕焼けに、恭子の影が長かった。
目の端に恭子の白い息を見ながら篤は校庭へ続く階段をかけ降りた。
これから、卒業までの日を大切にしようと思った。

 あのころから、恭子のことが好きだったのかもしれない。そして、あのころから恭子は歩き始めていたのかもしれない。僕の追いつけない速さで。

 僕は向き直って、つり革をつかんだ。窓の外を流れるいつもの町は、なぜか初めて来る場所のように思えて、ひどく寂しかった。あんなに近くにいた少女が自分をおいて、ずっとずっと先に行ってしまったと思った。それはもう、僕の声が届かないくらい遠くはなれて。どのくらいそうやって苦しい時間を過ごしたのだろう。バスが幾度目かの停留所に留まって、少女が降りるとき。僕は初めて口を開いた。

「さよなら」
     …僕も歩くから。

バスがまた身震いして、扉が閉まった。ぼやけかけている視界の端に振り向く彼女の顔が見える。その目は僕を見たのだろうか。バスは白いため息とともにゆっくりと動き出した。


 懐かしい声に振り向くと、この一年間忘れたことのない親友がいた。動き始めたバスの窓は軽く曇っていて、彼の表情はわからない。ただ、昔のままの前向きな瞳だけが、焼き付いていた。私が大きな声で名前を呼んだときにはもう、バスはずっと遠くにいて。また、先行かれたみたい。と、私は空を見上げた。ああ、私は、いつまで帰らない人のことを思っているのだろう。祖母が死んでからもう、半年になるというのに。祖母が星になったのなら、ずっと私たちを見守っていてくれる。でも、私は、本気でそんなことを思えるくらい純粋ではない。そっと目を閉じると、心の中で、さっきの彼の目が私をじっと見つめていた。
 私は、もう一度空を見上げて、冷たい空気を胸一杯に吸い込むと、ゆっくり歩き始めた。
もう、思い出にすがったりしない。
空は深い紺色に透き通っていて、夜風はとても冷たいけれど、星がきれいな夜だった。


…やがて来る それぞれの 交差点を
迷いの中 立ち止まるけど
それでも 人はまた歩き出す
(BELOVED / GLAY)


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