霧・雨・夢

如月冬真

私は傘を差して立っていた。
雨が降っていた。

(…雨なんて降らないで)

呟く。

(あの人が濡れちゃう。まだ寝てるのに)

ぽつり、ぽつりと。口には出さずに。

(雨なんて大嫌い)

 理由はないが、そう思う。


(でもいいの。これは幻なんだわ)

 そう、これは夢。いつかは覚める。
 それまでなら、悪くはないだろう。
 大嫌いな雨が、こんなに優しく降り注ぐのを見るのも。

 ――私の名前は遠野霧子。
 今、夢を見ている。
 そう、これはきっと夢。
 幻。

 だって、あの人がいないんだから。










 随分と時間をくってしまった。これだから会議というのは嫌いだ。無駄な事ばかりを取り上げて、そのくせやっぱり何の成果も上がりはしない。不毛だ。
 慌てて廊下を走る。ぱたぱたという足音が、やけに私の耳に響いている気がした。
 やがて、目指していた教室が見えてくる。私は止まることなく、扉に手をかけて開いた。
「ごめん、遅れたっ」
 片手で謝る仕草をしつつ中に入る。すると、教室の一番奥で腕組みをして座っている少年が気だるげにぼやいた。
「遅い」
 苛立ってはいるけれどどこか喜色が見えるという微妙な声だった。私はその少年にごまかし笑いをした。
「ごめ〜ん、評議会で時間かかっちゃって」
「評議会?」
 微妙に少年が顔をしかめる。
「サボッて抜けてしまえば問題ないだろうに」
「いや、流石にそれ無理よ、和馬くん」
 私はざんばらに切った黒髪を適当にいじる少年――和馬に薄く笑いかけた。
「まあ、それもそうだな。来ないよりは良い」
 和馬が椅子から立ち上がり、微かに苦笑する。後頭部で手を組んで、息をひとつついた。
「――時に、霧子。俺に頼みというのは、何だ?」
 彼の問いに、私はぽんと手を打った。
「あぁ、それそれ!危うく忘れるとこだった」
「用件を忘れてどうする……?」
 半眼でうめく和馬に、私はちょっと舌を出して悪戯っぽく笑った。
「てへ。ごめんね」
「…いや、謝る事でもないが」
 そっぽを向いて、歯切れ悪く答える。和馬の顔が、ほんの少し赤かった。
 ――遊びやすいなー、とか思ったりもする。
「…とにかく。用件は?」
 ごまかすためか、まだこちらと目を合わせようとしない。和馬に気付かれない程度にくすりと笑ってから、私は話を切り出した。
「えっとね。ちょっと一緒に寄って欲しい所があって」
「一緒に?」
 ちょっとだけ、こっちを向く。
 私はこくりとうなずいた。
「うん。あの、学校の裏手にある神社なんだけど」
「神社。確か……あの、山の頂上にある…」
 言ってから、和馬はしばらく考え込むそぶりをした。
「……名前は、何だったかな。思い出せん」
 その言葉にちょっとコケる。普通誰だって知ってるはずだけど…。地元では有名なのに。
「和馬くん、何で知らないの?」
「……いや。ちょっとしたド忘れだ」
 ぽりぽりと頭を掻いて、答える。その仕草に私は小さく微笑んだ。
「き・り・の・べ。霧辺神社よ」
「――霧辺と言ったか。渡辺ではないなとは思ったんだが」
「…全然関係ないでしょ、渡辺って」
 苦笑いして、突っ込む。和馬は不満げに眉を寄せた。
「言葉だけなら似ているぞ。……第一、そんな事を話してる場合じゃない。それで、その霧辺神社に何があるんだ?」
 ごまかして、和馬が訊く。
 霧辺神社とは、今私達がいる高校の裏手を十五分ほど歩いた所にある山の上にある神社だ。名前の由来は、多少暖かくなった時期でもすごく霧が出やすい場所に建ってるからだとか、歴史上の人物の霧辺帆汰狼がどうだとか言われてるけどあんましはっきりしてなかったと思う。
「え〜とね。詳しく言うとその神社自体には用はなくて」
「何?それは、どういう」
「話は最後まで聴いてよ」
 むくれて言う私に、和馬は幾分か慌てて謝った。
「む…すまない。続けてくれ」
「もう、和馬くんいっつもそうなんだから」
 苦笑して、私は話を続ける事にした。
「霧辺神社の近くにお墓があるでしょ?あの中に私のおばあちゃんのお墓があって。今日が命日だからお参りに行きたいんだけど…」
「一人じゃ怖い、と?」
 普段は鉄面皮の和馬が、わざとらしくにっと笑って言う。私は唇をとがらせて、言い訳がましく返した。
「だって、もう結構暗いし。お墓って怖いし」
「…意外と女の子らしい所もあるんだな」
「意外って何よ、意外って?」
 ジト目で睨むが、和馬は無表情のままそれをしのいだ。
「まあ、気にしないのが吉だな」
「気にするー」
 そのリアクションがどうも和馬には好評だったらしく――軽く笑う素振りを見せてから、私の頭にぽんと手を置いた。
「仕方がないな。付き合ってやろう」
 この時点で、もう私は気にしてなかったりする。
「ん。ありがと、和馬くん」
 目を合わせて微笑み、それだけ返す。和馬はうなずいてからひとつ伸びをすると、足元にあったふたつの鞄を担いだ。
「さて…では、行くか」
「うん」
 うなずいて、教室を出る。さりげなく和馬が私の鞄を持ってくれてる事に気付いて目を合わせると、彼は視線を逸らしてその場をごまかした。


「ふ〜…やっと着いたね、霧辺神社。もー、高いったら」
 山のふもとに着いてから既に数十分近くたっている気がする。やっぱり神社の辺りには霧がかかっていた。登る前に見た空模様はあんまりよくなかったから、雨も降ってくるかもしれない。折り畳み傘を持ってきたのは正解だった。
 隣で息を少しだけ切らして――鞄をふたつも持って登ってきたからだろう――和馬がうなずいた。
「ああ。五百四十段と言うと煩悩の数の五倍だな」
「そんなにあったの?石段。よく知ってるね」
「いや。先程数えた結果だ」
 さらりと答える和馬に、私は少しだけ呆然とした。
「………ヒマな努力…」
「気になった事を研究する事こそ重要だと、俺は思う」
 ちょっと苛立って、でも淡々と言うさまがおかしくて、私はくすくすとしばらく笑っていた。
「――まあ、とりあえずお墓に行こっか」
「そうしよう」
 うなずいて、和馬の一歩先を私は歩く。なんとなく神社に目線を向けた時、視界の端に何かが入った。
「え…?」
 人影。だった気がする。
「どうした?」
 気になったのか、和馬が私の顔を覗き込んできた。ちょっと不安になって、私は首をふるふると横に振りながら答えた。
「うぅん、何かあそこに人がいた気がして。ほら、あの神社の裏手あたり」
 言いつつ、神社の裏へと続くあたりを指差す。
和馬は少しぎょっとして、途切れ途切れに呟いた。
「…神社の裏手というと、確か。切り立った…崖だったと記憶しているが……?」
 その言葉に、私は青くなった。
「そ…それって、まさか…」
 自殺――ってこと?嘘でしょ?
 それって大変な事だけど…何か、嫌な予感が…。
 和馬も同じ事を考えたみたいで、私と顔を見合わせるととっさに断言した。
「追うぞ」
 ――あぁ、やっぱり首つっこむんだ。いつもの事だけど。でも流石に自殺者は止めにいかないといけないかなぁ、やっぱり……。
 あ、もう走りだしてる。冷静そうに見えるのに考える前に行動するんだから…まあ、それが長所でもあるんだけど。
「ま、待ってよ、和馬くん!」
 結局私はうなずいて、和馬に遅れて駆け出した。
 …おばけだったらイヤだなぁ…。
 そんな事を考えていた。
 遠くで、フクロウが鳴いていた。


 神社の裏手に着くと、私はまず眼前の崖に圧倒された。ほぼ九十度で一気にふもとまで続く崖。石段五百四十段は伊達じゃなかった。こんなとこに落ちたら、迷うまでもなく逝く。絶対。
「何をしている、置いていくぞ!」
 崖に気を取られているうちにも、和馬はどんどん進んでいく。珍しく大きな声を飛ばす和馬に慌ててうなずいて、私はその後を追った。
 ちょうど崖の端っこあたりに来ると、崖の端に人が立ってるのが見えた。霧がかかってるしそろそろ暗くなってきたからよく判らないけど、白髪…いや、銀髪っていうのかな、ああいうの。とにかく、髪の色は判る。服は黒で揃えてるみたい。あんな感じの人、学校にもいた気がする。関係ないけど、今は。
「おい、何をしている?」
 落ち着いた声で、和馬が訊く。人影はゆっくりと振り向くと、無機質な声でこう返してきた。
「…和馬か?」
 私はぎょっとした。どうしてこの人、和馬を知ってるんだろう。和馬はほんの少し顔を蒼白にして、呟いた。
「か…神楽、先輩?」
 ――ああ、思い出した。
 神楽…確か、下の名前は右京だったはず。和馬の部活の先輩だったっけ。でも、なんでこんな人がこんなところにいるんだろう。
 和馬が神楽先輩に歩み寄る。私もそれについていくと、ようやく神楽先輩の表情とかが見えるようになった。端正な顔立ちを虚無の色が覆っている――そんな気がした。
「先輩…何故、こんな場所に?」
「想像力の貧困な奴だな」
 相変わらず無機質な――感情の抜け落ちた声で言う。
「人のいない崖っぷちに突っ立ってる人間のやる事など、ひとつしかないと思うが」
「そういう意味ではなく…何故、このような事をしようとしているのですか?」
 微かな焦りを含んだ口調で、和馬。神楽先輩は、何でもないふうに肩をすくめた。
「恭子に逢いに逝く」
 呟く。和馬が少し眉をひそめた。
「恭子…とは、先輩の彼女さんの名でしたね。その人物に会いに行くとは、一体」
「一昨日交通事故があった。一人の女性が車に轢かれた」
 和馬の言葉を遮って、淡々と、語る。そこには抑揚がなく――哀しみをも含まない、空々しい響きを持っていた。
「即死だった。僕はそれをすぐそばで見ていた」
「……まさか…その女性って…?」
 思わず、私は口を挟んだ。神楽先輩はとりあおうともしなかったけど、多分事故に遭った『一人の女性』っていうのが、その恭子ってコなんだと思った。
 神楽先輩はどこにも焦点を合わせていない瞳で辺りに広がる霧を見渡し、独白を続けた。
「僕は恭子を守れなかった。だから、恭子に逢って謝りに逝く。それだけだ」
 言いたい事を言い終えたのか、神楽先輩が踵を返した。慌てるでもなく、和馬がぼやく。
「――そんな事で…恭子さんが喜ぶとお思いですか」
 ぴくりと肩を震わせて、神楽先輩が振り向く。脈ありと思ったのか、和馬は気付かれない程度に声を張り上げた。
「そんな事をした所で、きっと恭子さんは嬉しくないでしょう。先輩が死んでどうすんですか?」
「…お前に恭子の何が判る」
 僅かに怒気のこもった声。初めて、神楽先輩の声に感情が生まれていた。
「僕は恭子に逢いに逝く。きっと恭子も喜んでくれる」
「――そのような可能性はない。血迷うな」
 珍しく激昂したのか、和馬が威圧的な声で言い放った。私も何か言おうかと思ったけど、どうにも二人の間に入れそうになく、ただ黙っている事にした。
「先輩が死んで、恭子さんが戻る訳でもあるまい。判っているとは思うがな、その程度は。自殺などしても、恭子さんを哀しませるだけだ。――違うか!」
 徐々に声音を強めていき、最後にはほとんど叫びに近い所まで声を張り上げる。しばらく神楽先輩は方を震わせて黙っていたが、不意に顔を上げた。続けて。
「恭子の名を気安く呼ぶなっ!!」
 周りの空気が震えるくらいの勢いで、神楽先輩が叫んだ。続けざまに、神楽先輩がポケットから何かを取り出した。やや大振りの、多分サバイバルナイフ。
「哀しむ哀しまないなんてどうだっていい。僕は恭子に逢いに逝く」
 その剣幕に気圧されながらも、和馬は無理矢理皮肉げに笑った。頬が引きつるような、呆れ返ったような笑みだった。
「ふむ。…あげくの果てに、随分と自分勝手な言い分だな。結局は恭子さんが亡くなったという事実から逃げたいだけではないのか?自分の弱さを棚に上げるな。…思い上がるな!」
 なれない叫びを続けているせいか、和馬の横顔を見ると、冷や汗が見られた。よほど神経をすり減らしているらしい。
 神楽先輩の瞳が初めて焦点を合わせた。和馬にだ。瞳には、怒りの炎がともっている。
「…恭子を失った事のない奴などに、僕の気持ちは判りはしない」
「判りたくもない。勇気もない愚か者の心情など、な」
 精一杯辛辣に言い放つ。これで神楽先輩が踏みとどまればいいんだけど…そう思ってると。
「……あ」
 思わず、声が漏れる。いつのまにか、神楽先輩と私の目が合っていた。目の焦点は合ったままだけど、とても正気には見えない。ぞっとした。
「お前も――」
 一歩、足を踏み出す。神楽先輩はそのまま走り出した。
 私の方に。
「――恭子を失えば判る!!」
 急な事だったから、身体が動かなかった。
 やっぱり自殺願望者って、言ってる事が滅茶苦茶だ。
 恐怖を感じる事すら忘れて、ただ私はぼんやりとそんな事を考えていた。
「――霧子!」
 私の視界に誰かが飛び込んできた。和馬だ。
 和馬は神楽先輩とぶつかって、一緒に地面に転がった。その拍子に、私の足元にナイフが落ちる。
 そこでようやく、私の頭は動き始めた。
「かっ…和馬くん!?」
 声が引っくり返ってるけど、気にしてる場合じゃない。私から少し離れたとこで、和馬くんと神楽先輩が取っ組み合ってる。和馬くんの右腕から、赤い水がどんどん流れてきてた。血だ。
和馬が一旦神楽先輩と離れる。右手を押さえて、荒い息を静めようとしてた。神楽先輩も息が荒い。


 和馬くんがナイフで切られた。神楽先輩に。
 殺される。和馬くんが。

「くそ…完全に錯乱しているな」
 皮肉げな笑みをぎこちなく浮かべ、和馬がぼやく。

 和馬くんが殺される。ナイフで。
 神楽先輩に。
 嫌だ。死んでほしくない。
 まだ、言ってないもん。言いたかった事。
 どうしよう。
どうしよう。

ふと、足元を見る。
真っ赤なナイフが落ちてる。





そこで、私は思考が止まった。







ナイフを拾い上げる。

そう。これでいい。

紫御くんを傷つけるなんて許さない。
そんな人、いなくなってしまえばいい。


だいじょうぶだよ。かずまくん。



ワタシガ、タスケテアゲル。






「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 何も判らない。ただ叫んで、私は走った。
 和馬くんが振り向く。
 神楽先輩がこっちに気付いた。

「やめろ、霧子!!」

 和馬くんの声が遠い。
 何て言ってるのか、意味が判らない。

 何かがナイフに触れた。
嫌な手ごたえがあった。
 目の前が真っ白になる。何も考えられなくなってきた。

「…ふ……霧子に誰も殺させなどしない思い…止めようとして自爆していれば、世話は、ない…な………」

 掠れた声。誰の声だろう。
 判らない。
 判らないよ。

 目の前に、和馬くんの顔があった。
 ゆっくりと、離れていく。…どうして?








 それから何があったかあんまり憶えてない。











 いつからだろう。雨が降ってきてた。
 私はちょっとかがんで、和馬くんの顔を覗き込んだ。
「こんなとこで寝てちゃ、風邪ひくよ」
 言っても、起きない。よっぽど疲れてるのかな。雨に濡れてる。紫御くん、寒いかもしれない。
 ――そうだ、傘。折り畳み持ってきてたんだっけ。
 私は傘を鞄から出して、開いた。寝っころがってる和馬くんの体の上に傘をもっていく。これで大丈夫。和馬くん、寒くないよね。
 和馬くんが起きたら、おはよう、って言ってからかってやろっと。きっと普段みたく、無表情で文句言うんだろうな。
「今日和馬くんについてきてもらったのはね」
 和馬くんの髪を撫でながら言う。いつのまにか、制服のおなかのあたりにペインティングがあった。真っ赤だ。ダメだよ、制服に落書きなんかしちゃ。しかも絵の具にじんでてカッコ悪いし。私はちょっと笑った。
「お墓が怖かったのもそうだけど、ずっと言ってなかった事を言いたかったからなの」
 頬に触れる。雨に濡れたからかな。冷たいよ。
「大好き。和馬くんの事。…それが言いたかったの」
 起きたら言おう。勇気がいるけれど、きっと何とかなる。和馬くん、どういう反応するかな。面白そう。
 ちょっと怖いけど、楽しみ。
「早く起きないかな……」
 何か緊張とわくわくとで胸がいっぱい。和馬くん、早く起きてくれないかな。
 今何時だろう。今日時計忘れたから判んないや。
 そろそろ傘を持つ手が疲れてきた。どのくらい持ってるんだろう。
雨って嫌いだ。和馬くんを濡らして、こんなに冷たくするんだもの。
 思い切って、ぎゅって抱きしめてみる。やっぱり冷たい。雨のせいだ。和馬くんが起きないのも。
 霧があるにしても、辺りが全然見えないっておかしい。もしかしたら、夢なのかな。これ。そうかな。そうだよね。だって和馬くん、寝てるし。これ、和馬くんの夢なのかもね。だとしたら、早く和馬くんに起きてもらわなきゃね。
 夢の中って言っても、やっぱり手は疲れる。雨、嫌い。
「早くやまないかな、雨…」
 そしたら和馬くんも起きてくれる。

そうだよね。

――了――


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