虚無に浮かぶ月影

黒崎紗華
 この胸に生まれた空虚。
 あったはずの何かがそこだけ消え失せたかのような、そんな感じの。
 見えない痛み。知覚出来ない苦しみ。何もないはずなのに、疼く心。

 少女はその正体を、知っていた。


 あの日。

 少女は全てを知り、全てを悟り、そして、

 ――全てを、失ったのだから。

 何もかもを奪われ、そしてもたらされた虚無。
 そこに忘れ形見のように残されたのは、ただ一つ。
 一生消えることのない、それは。

 あの恐ろしき――少女の犯した、たった一つの罪だった。


     ***


 二学期。まだ夏の暑さは抜けないが、残暑と言うだけあって、ほんのわずかではあるが秋の空気が混ざってきたように思える。……が、九月にもなってなお夏の盛りを惜しむかのように鳴き続けるセミ達のせいで、それを感じることも難しい。気分は、まだまだ夏である。
 その日も、四条弥生は朝礼のチャイムぎりぎりに二年B組の教室のドアをくぐった。遅刻寸前だというのに全く息を切らしていないことからして、彼女は遅刻も恐れず堂々と歩いてやってきたようだ。談笑するクラスメイト達の間を縫って、自分の席へと向かっていく。その間、彼女に声をかける者は一人としていなかった。しかし弥生はそんなことは意にも介さず、ただ教室を駆け抜ける一陣の風の如く、すたすたと自席に向かっていく。毎度の光景だ。
「弥生ちゃん……遅いってぇ」
「間に合ったからいいじゃないの」
 自席に荷物を下ろした弥生に軽くたしなめの言葉をかけたのは、弥生の唯一と言っても良い友人――美藤皐月であった。皐月は弥生の右斜め後ろの席に腰掛け、本を読んでいる。普段友人達に囲まれてお喋りに花を咲かせている皐月にしては、若干珍しい光景だった。
 淡々とではあるが気軽に会話を行う二人を、クラスメイト達は一瞬何とも言えぬ表情で遠巻きに眺めやる。社交性の無さを前面に押し出したような雰囲気の弥生に気軽に声をかけられる皐月が、彼らには奇妙に映るのだろう。
 数分と経たぬうちにチャイムが鳴り、担任教師が教室に入ってくる。多くの生徒が自席へと戻り、私語をやめる。教室が静まったのを確認すると、教師はおもむろに出席を取り始めた。
「……欠席は、加賀野一人か」
 ほんの少し、教室がざわめいた。欠席している加賀野雅隆は、いつ見ても健康的で、病気をしそうな人間ではなかったのだ。おまけに、なかなか真面目な性格のため、学校をサボるようなことも考えられないのである。
「珍しく、風邪でも引いたのかねえ」
「いや、忌引きとかかもよ。案外」
 周囲の生徒達が、ひそひそと話しているのが聞こえる。少々、気になるらしい。しかし弥生はそんなことはまるで気にしていなかった。……いや、気にする必要などなかった。勝手に休んでいればいい、私には関係ない。そう思った。どうせ――奴らは、私にとっては空気に過ぎないのだから。

 何気ない、一人の生徒の欠席。
 これが全ての始まりだなんて、一体誰が感じよう。

      *

 弥生がこの高校に入学して、一年半近くが経つ。
 二年生になって新たに再編されたクラスでもとうに多くの派閥が完成し、昼休みになれば派閥ごとにクラスメイトが机を寄せ合い昼食を取る。学校という社会では当たり前の光景。それはまるで、教室という海に浮かぶ大小いくつもの島のようだ。
 弥生は、この時期になっても派閥未所属だった。というのも、彼女はこれまで、ある一人を除いて殆どクラスメイトに話しかけたり、話しかけられたりしなかったからだ。弥生には、社交性というものがまるで無かった。近付くのを躊躇われるような雰囲気を、弥生は纏っていたのだ。
 だから当然、友達も殆ど居ない。しかし、弥生はそれを悲観するようなことはしない。初めから、友達を作る気などなかったからだ。
 弥生は、学校が嫌いだった。
 正確には、自分を囲むクラスメイト達の存在が。彼らの喋り声など、弥生にとっては騒音に等しかった。鬱陶しいだけだった。元々あまり他者との交流を好まない弥生は、クラスメイトとは関わりあう気がないことを態度で示していたのである。
 そしてクラスメイト達は、そんな弥生の思惑を的確に察知した。初めのうちこそ弥生に悪戯を仕掛ける者もいたが、完全無視を決め込む弥生にいじめ甲斐をなくしたのか、やがて手出しするのを止めていった。

 だが、そんな弥生にも、友人と呼べる存在はいた。

 それが皐月である。弥生と皐月は中学で知り合って以来の友人で、偶然か必然か同じ高校に進学していたのである。二人は運よく二年連続で同じクラスとなり、以来皐月は高校における「弥生の唯一の友人」という存在となっている。
 皐月は弥生とは違い、学校が大好きだった。その上かなり社交的な性格ときている。そのため、弥生以外にも友人は多い。しかし、他よりも付き合いの長い弥生は特別な存在――言うなれば親友≠ニみなしているようだった。それは、彼女の普段の言動の端々から感じ取ることが出来る。
 そして弥生は、そんな彼女を信じていた。四年もの付き合いになる皐月の人となりは、もう充分に理解している。皐月が様々な面で自分とは正反対であることも。よくもここまで真逆の性格の人間と付き合ってこれたな、と思わないでもなかった。何せ、弥生が嫌悪してやまぬ学校と言う空間を、そこに存在する人々を、皐月は心から愛しているというのだから。弥生には考えることすら不可能なことだった。
 それでも、皐月を信頼する気持ちに揺らぎはなかった。それほどまでに、二人が四年間に結んだ絆は固かったのである。

      *

 加賀野は次の日も、またその次の日も学校に現れなかった。が、誰もが「加賀野にしては珍しいよね」と言うばかりで、殆ど気には留めなかった。担任教師とて、それは同じだった。
 日常には何の変化もなかった。八時半に授業が始まり、十二時半から昼休み、三時半に授業終了。何もかもが、全くもっていつも通りだった。ただ一つ違うことがあるとすれば、一日に一、二人のペースで欠席者が増えていっている、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ということぐらい。

 一人目の欠席者が出てから四日目。欠席者は、五人に増えていた。
「最近、休み多いよね」
「確かに」
 流石に、クラスでも少し話題になり始めた。季節は初秋。インフルエンザが流行るには、あまりにも時期がおかしすぎる。にもかかわらず、日々増える欠席者。皆、一体何が原因なのだろうと、不思議に思うようになっていた。
 そのある種の不安とも言うべき空気は、あの他人に無関心な弥生にさえも影響を与えていた。彼女もまた、この奇妙な現象を疑問に思い始めたのである。
「……でさ。何で休み増えてるんだろうね」
「え?」
 夕方、弥生は帰りの道すがら、皐月に話を振ってみた。この日は放課後二人して居残って用事を片付けていたため、時刻はもう六時。辺りは夕闇に包まれつつあった。が、明日は雨なのだろうか、夕焼けは見られない。
 人通りもまばらになった通学路。登下校のピーク時には賑やかな喧騒に包まれるこの道も、今は静寂に包まれている。かつんかつんという、二人分の革靴の鳴らす控えめな音が、夕暮れの空気に響いてはっきりと耳に届いてくる。
「だから、最近休みが多い理由(わけ)。おかしいじゃない? こんなに立て続けに欠席者が出るなんてさ。皐月は何か聞いてない?」
 そう問うと、皐月はほんの一瞬驚いたような表情を見せて――それからすぐ目を伏せて、小さく言った。
「ううん、何も……。私も、おかしいとは思ってるんだけどね……」
「そう……」
 弥生はそのまま会話を切った。これ以上話を続けても、彼女は気を滅入らせるだけだろう。弥生にはそれが分かっていた。皐月は学校を、クラスの皆を愛している。それが全て失われたら、彼女はどれほど悲しむことだろう? 消えてしまったクラスメイト達を想い、涙にくれる皐月――その姿が、弥生にはありありと想像できた。
 そして案の定――いや、予想外と言うべきか――皐月は、今にも泣きそうな声で呟いた。まさに、想像通りの姿で。
「……どうしよう。みんな、みんないなくなっちゃったら……」
 
 ――いなくなる、、、、、

 皐月という、一人のか弱い少女の言葉。そこに込められているのは、胸を締め付けるような哀しき想い。そこに偽りなどない。だが弥生はそんな皐月の言葉に、ふと違和感を覚えた。ごく普通の言葉ではあるが、どうにも心に引っかかるその単語。何か知っているのではないだろうかという予感が、胸をよぎる。だが、それを問いただすことはしなかった。
 それからは、終始無言で歩き続けた。会話の出来るような気分ではなかった。二人はそのまま途中で別れ、弥生は家に帰り着く。その頃にはもう陽はとっぷりと暮れ、殆ど夜の帳が下りていた。巣に帰り遅れた鳥達が、慌てて空を翔けていく。秋の日はつるべ落とし、とはよく言ったものである。だが弥生に、そんな悠長なことを考えている余裕はなかった。

 あの時皐月が見せた一瞬の表情が、何故か脳裏から離れなかった。

      *

 それからまた数日。欠席者は、もはや七人にまで増えている。しかも奇妙なことに、一度欠席した者はその後全く復帰してこないのだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。都合、最初の欠席者は一週間は休み続けていることになる。伝染病のせいだとしても、これは少々長すぎだった。
 それにこれ以上欠席者が増えると、学級閉鎖にもなりかねない。クラスの誰もが、そう思い始めていた。しかし――普通の学生なら喜びそうなこの事態も、当該クラスとなる二年B組の生徒はまるで喜んでいなかった。それどころではなかったのだ。
 というのも、一日前辺りから不穏な噂が流れていたからである。

 ――二年B組の子さ、何人か行方不明になってるらしいよ。

 ――もう、警察に捜索願を出した親御さんもいるんだって。

 気付けば、こんな噂が隣のクラスで囁かれていた。にわかには信じがたいが、あながち嘘とも言い切れない、そんな内容。こんなことあるわけない、そう言って切り捨てることは容易いはずなのに、何故か誰にも出来なかった。ある者は受け入れ、ある者は疑っていた。否定する者は、いなかった。それほどまでに――この欠席者の多さは、異常だったのだ。
 弥生は、この噂を受け入れた者の一人である。学校内で何の疫病も流行っていない今、復帰してこない生徒達は行方不明になったと考えた方がまだ辻褄が合うからだった。しかし、学校側がそれに対応している素振りを見せていないのが若干気になっていた。……生徒達を混乱に陥れないために、敢えて表沙汰にしていないのだろうか。
 だが、結局のところ、弥生が考えたのはその程度に過ぎなかった。来なくなったクラスメイト達はどうしているのだろうかというようなことは、まるで考えていなかった。弥生にとっては当然だった。薄情者と言われようが知らない。もとより、彼らがどうしていようが、自分には全く関係ないのだから。関心など、無かった。それこそ、いなくなっても構わない、と思うくらいに。だから、彼女は普段と全く変わらない様子で学校生活を送っていられた。
 一方の皐月はといえば、見るからに普段の明るさをなくしていた。笑うことも、なくなった。燦々と輝く太陽が、新月にその光をまるまる覆い隠されてしまったように。皐月という太陽が隠れてしまった世界は、驚くほど活気をなくしていた。クラスの雰囲気に無頓着な弥生でさえ、おかしいと感じてしまうぐらいに。
 ともすれば、皐月は弥生に皆がいないことの寂しさを涙ながらに訴えてくる。これ以上みんながいなくなってしまったらどうしよう、と。その姿は、誰が見ても痛々しかった。弥生はその度に、ただ黙って彼女の言葉に耳を傾け、そして励ましてやるのだった。しかし――その効力があったようには、見えない。日増しに元気をなくしていくばかりだった。水を枯らした植物が萎びていくように。
 そんな皐月を見ているうち、弥生はあることに気付き始めた。

 皐月の振る舞いが、どうも不自然に感じられるのだ。

 具体的には、落ち込み度合いが過剰なのだ。いくらクラスの皆が好きだからと言っても、一週間ほど休む人が現れたぐらいでここまで嘆くのは行き過ぎに思えるのだ。しかも――休んでいる人は皐月にとっては特別親しい人というわけではないのだから。腑に、落ちない。

 皐月は――何かごまかそうとしているのではないのか?

 これまで、皐月の様子だけはつぶさに見てきた弥生。他よりも断然に付き合いが長いだけあって、皐月の振る舞いの些細な変化からでも、彼女が何を思い、何を考えているのか、大まかには把握できる。だからこそ、感じ取れたのかもしれない。この異変を。
 問いただしてみても良かった。むしろ、そうするべきだったのかもしれない。だが、弥生は結局、皐月には何も聞かなかった。聞いてみたところで、ここまで取り乱してしまっている皐月からは、まともな返答は期待できないだろう。今は、そっとしておくに限る。そう、弥生は考えたのだ。

 あとから思えば、やはりこの時、何らかの疑問を皐月にぶつけておいた方がよかったのかも知れなかった。

      *

 最初の欠席者が出てから、十日近く経っただろうか。欠席者は、とうとう十人を越えた。
この日、担任教師から一つの連絡がなされた。

 ――来週月曜より、一週間学級閉鎖。

 それを聞いても、誰も何も言わなかった。ただ、重苦しい沈黙が広がったのみ。この教室の中だけ時が止まったように、全てのモノが、ひた、と静止していた。それほどまでに、この異常な欠席者の増加は、静かに、けれど確実に、残された者達の心を蝕んでいたのだ。

 弥生はこの日、珍しくたった独りで帰路についていた。放課後、いつものように皐月と一緒に帰ろうと思って誘ったのだが、どういうわけか彼女はそれを断ったのだった。特に居残りするような用事があるとも見受けられなかった。弥生は腑に落ちないと感じつつも、そのまま皐月と別れて帰ることにした。
 久し振りに独りで歩く、通学路。いつも隣にいる少女がいないだけで、心なしか寂しく感じられる。不思議なことだ。四時を回ったせいか、真っ昼間に比べれば気持ちばかり暑さが和らいだ気がする。……とはいえ、まだまだ涼しいといえるレベルではなかったが。
 ちょうど下校のピークだけあって、通学路に満ちる喧騒はなかなかのものである。車の走る音や鴉の鳴き声を挟みつつ、聞こえてくるのは下校する生徒達のお喋りの声。中には下級生だろうか、大声でわいわいとはしゃぎながら帰っていく生徒達もいる。これでは近所迷惑になりそうなものだが、あいにく本人達に気付いている様子はない。盛り上がっている時は、大概そんなものである。
 弥生はそんな喧騒の合間を、周りに目をくれることもなく、ただすたすたと通り過ぎていく。その表情は、どことなく硬い。そして、時折聞こえてくるある言葉に、眉を顰めていた。
 弥生の頭は、ある一つのことでいっぱいだった。
 それはこの日辺りから頻繁に聞かれるようになった、二年B組にまつわる新たな噂のことだった。前の噂よりも伝播速度が速いのか、下校中の会話にも、ちらほらと現れてきている。もう他の学年でも周知になったらしい。
 今度の噂は、前とは違い、まるで現実味のない馬鹿馬鹿しいものだった。

 ――二年B組の子達はね、神隠しに遭ってるんだって。

      *

 学級閉鎖が始まって、三日が経ったある日のことだった。
 その日の夕方、弥生は学校にある忘れ物をしたことに気付いた。それは今の彼女にとって必要なものではあったが、別段無理をして取りに行くようなものでもなかった。
 数学の、問題集。
 弥生は数日前から続けていた英語の予習を一旦やめて、数学の自習に切り替えようとしてそれがないことに気付いたのだった。ならば他の科目の勉強をすればよいのだが、今の彼女はどうにもその気にはなれなかった。随分と文科系の科目を勉強してきたから、理数系の科目がやりたくなったのかも知れない。理数系科目の中でも最も好きな、数学を。
 弥生は暇さえあれば勉強をしていた。本来なら友達と楽しく会話を繰り広げる時間であるはずの休み時間も、大概は勉強か読書。別にがり勉のつもりではない。……成績があながち悪くないせいで、不本意ながらも周囲からは完璧にそう思われていたが。
 だが弥生にとっては、それすらも周囲との交流の拒絶に過ぎなかったのだ。
 誰かと話し、交流を持つのが嫌だったから。勉強していれば、わざわざ邪魔しに来る人間はいない。それを弥生は知っていた。そして今こうして家でも勉強ばかりしているのは――単にそれが、癖になってしまっていたからだった。
「……取りに、行くか」
 弥生はそう呟いて、立ち上がる。やりたい時に、やりたい勉強を出来ないのは不満だった。せっかくその気になっているのに、したいことが出来ないのは鬱陶しくてならない。普通の生徒なら考えもしないようなことを、彼女は考え、そして実行する。弥生は制服に着替えると、貴重品だけを入れた制鞄を抱え、部屋を出る。両親共働きのせいで誰もいない家の玄関に鍵をかけ、そして弥生は数日振りに――それは学級閉鎖になって以来彼女が半ば引きこもり同然の生活を送っていたからだが――外の空気を吸った。

 ――自分はただ、あの自室という無機質な閉塞的独房から、解放されたかっただけなのかも知れない。

 夕刻が近付いているせいか、幾分涼しさを孕んだ秋の空気を胸いっぱいに吸い込んだ弥生は、何とはなしにそう思った。空は曇り。夕焼けは、見られそうもない。

      *

 学級閉鎖が月曜日から始まっていたせいで、都合五日振りに歩くことになった通学路は、弥生には奇妙に懐かしく感じられた。
 毎日、嫌々ながら通っていた学校。行きたくもない場所。それでも、暫く行かなければ、言いようのない寂しさを感じる。――ふと弥生は、そこで疑問を覚えた。

 では何故、長期休暇ではそれを感じない?

 たった五日間のブランクで感じる、この寂寥感。それが何故、二ヶ月近くも通わぬ日が続く夏休みが明けた時には感じられないのか。弥生はそれが不思議に思えて、しばし考えて、そして彼女はある答えに達した。

 ――この休みが、異質なモノであるからではないのか?

 そう、今回の休みは、夏休みや冬休みといった一般的な休暇とはものが違うのだ。学級閉鎖という、ある種異常事態による産物。普段の長期休暇を日常と言うならば、これはまさしく非日常だった。そして非日常は――普段とは違う感覚を、思考を、もたらして当然だった。
 弥生がこうして学級閉鎖中にも関わらず学校に向かっているのは、そのためなのだ。きっと。
 弥生は空を見上げた。雨粒でも落とそうというのか、一面が重苦しい灰色をしていた。青など、どこにもない。ただ無機質に、全ての色彩を喰らって広がっている、鉛灰色。世界はそこだけ、全ての色を、輝きを、生気を失って、虚ろに存在していた。弥生と、彼女の向かう学校の、その周りだけ。そこに宿るのは虚無だけだと言わんばかりに。
 何かが彼女を止めた気がした。行くなと言った気がした。何がかは、分からない。ただ弥生は、漠然とそう感じていた。しかし、それでも――弥生は、足を止めなかった。学級閉鎖だから学校に行ってはならないという法などない。行ったところで、何か禍が起こるなんてとてもじゃないが思えない。それに何より、その程度で揺らぐような軟弱な意志ではなかった。彼女のそれは。
 本能の制止を無視して進む、その幸不幸など弥生は知らない。知る由もない。弥生は校門の前に立つ。放課後だけあって、予想通り人影は少なかった。余計な面倒事を避けるため、必要なものだけを手早く鞄に入れて、早々に引き上げる。そう決めて、弥生は校門をくぐった。
 彼女の眼前に聳え立つ校舎は――弥生を包む世界と同じ、灰色をしていた。

      *

 教室は、がらんとしていた。
 当然だった。学級閉鎖なのだから。
 教室のドアを開けた弥生は、瞬間、言いようのない物悲しさに襲われた。分かってはいたが、こうして目にすると、やはり一抹の寂しさが弥生の胸を過ぎる。普段は数多の人間がたむろする教室。それは生徒という中身≠格納している入れ物に過ぎなかったが、その中身≠キら失った入れ物は、想像以上に虚しいただの空き箱へと化していた。

 足りない。
 構成要素が、足りない。

 弥生は思う。彼女にとってはただの動いて喋るだけの物体に過ぎないそれが、ただあるべきところにないというだけで、どうしてこうも寂しく感じてしまうのだろう。いつもなら、なくて結構、と思うのに。いざなくなってみると、とてもじゃないがそんな風には思えなかった。がらんどうの空間を前に、いつもの気丈さは何の力も持たなかった。呆気なく、崩れ去っていった。ただ、その虚しさに、立ち尽くすばかり。何も、出来ない。
 弥生は知らなかった。自分の心が、こんなにも弱いことを。何があっても動じない、そう自負していた精神が、実は驚くほど脆いことを。それはもう哀しいほどに。
 人が、恋しい。
 だが願えども願えども、空箱は何も寄越さない。弥生の心は、喰らっても。

 ――二年B組の子達は、神隠しに遭ってるんだって。

 学級閉鎖になる少し前から、そして今ここに来るまでの間にも、幾度となく耳にしたその言葉。このご時勢に、浮世離れも甚だしい内容だった。非現実的なのにも程がある。馬鹿馬鹿しいことこの上ないのに、何故か真実であるかの如く語られているこの噂。
 誰が最初に言い出したのかは知らない。知るつもりもない。弥生はこれは戯言に過ぎぬと頭では理解していたが、それでも内心ではこのまことしやかに囁かれる噂を切り捨てられずにいた。そうでなければ、こんなにも欠席者が――一説には行方不明者が――続出する説明がつかない。そしてそれは、強がって見せていただけの弥生の心に不安を呼ぶのには充分すぎるほどだった。今なら……それが、分かる。

 ……いつまでもこうしてはいられない。先生に見つかっては、面倒なことになる。早く用事を済ませなければ。

 くだらない噂を払拭するように、そして弱さを露呈し始めた己が心から目を背けるように、弥生はそう考える。そうして漸く弥生は、灰色の世界よりもなお暗い影を孕んだ教室から視線を逸らし、隣のロッカールームへと足を踏み入れた。

      *

 結論から言うと、弥生の捜していたものは、そこにはなかった。暫くロッカーの中を漁っていた弥生は、一通り調べ終わったところで手を止めた。彼女の目の前に、ぽっかりと小さな暗闇が口を開けている。その闇を見つめて、弥生は唐突に思った。

 私は今、文字通り孤独だ。

 本当に、本当に誰もいない。普段感じている孤独とは、まるで別物だった。いつもなら、孤独な彼女の周りには、人間と言うモノがあった。彼女とは何の関わりも持たずとも、それらは弥生の世界の風景の一部として、確かに存在していた。
 しかし今は、それすらも存在しない。
 そのことが、たったそれだけのことが、こんなにも大きな変化をもたらすなんて、弥生は考えてもいなかった。何もない空虚な世界に、ただ一人。それだけの事実が、鉛のような重さを持って、独りきりで存在する弥生の上へとのしかかっていた。今まで感じていた孤独は、本当は孤独などと呼べるものではなかったのかも知れない。

 ――ねえ、誰か、誰かいないの。

 柄にもなく、弥生はそう思っていた。寂しい。怖い。誰もいないことが。たった一人であることが。会いたい。恋しい。クラスメイト達が。――皐月が。
 ここに至って、弥生は漸く気付いた。
 自分は、学校が、クラスメイト達が嫌いだったのではない。

 本当は、好きだったのだ。

 嫌いだと思っていたのは、ただの強がりに過ぎなかった。弥生は心の奥底で――自分でも気付かないほど深いところで――クラスメイト達との繋がりを、求めていたのだった。それが表に現れなかったのは、きっと彼女のプライドが殊の外高かったからに違いない。弥生自身は、自覚していたわけではなかったが。

 バシン!

 粘つく空気。わだかまる闇。弱さを見せた弥生の魂を侵食しようとするそれを、彼女はロッカーの扉を閉める音でもって打ち払う。自分の本当の想いに気付いた今、彼女はもう、孤独は恐れない。欲しいものは、自分で求め、手に入れる。それが弥生の気性というものだった。
 捜し物は、教室だ。
 そう確信して、ロッカールームを後にする。そして、再び教室の前に立った。

 ――教室の中の空気は、心なしか先程よりも暗さを増しているように見えた。

      *

 教室に一歩足を踏み入れた弥生は、先程まではなかった人影に気がついた。
 窓際の席に座り、じっと窓の外を見つめている。シルエットからして女子なのは間違いないが、それが誰なのかまでは暗くてよく分からない。弥生は声をかけてみようと思って、――やめた。
 近付いてはいけない、触れてはいけない。そんな気がした。
 弥生が纏う純粋な拒絶の色とは、また違うそれ。近付こうとする者を畏怖させるような雰囲気を、人影は孕んでいた。それを感じた弥生の動きが、一瞬止まる。
 しかしすかさず、弥生は動き出す。人影は無視して、まっすぐに自分の席へと向かう。触らぬ神に祟りなしだ。弥生は手早く机の中をチェックする。――あった。
 弥生は問題集を鞄に仕舞うと、人影には目もくれず、足早に教室を出ようとする。考え事をしていたせいで、思いの外時間を取ってしまった。早く帰って、勉強しよう。そう思ってドアの敷居を跨ごうとした、その時だった。

「弥生、ちゃん?」
 
「……!」
 瞬間、弥生の動きが止まった。嫌な、予感がした。弥生はゆっくりと振り返る。
 人影が、こちらを向いていた。弥生の表情が、無意識のうちに凍りつく。
 そこにいたのは、まさしく――

 美藤皐月、その人だった。

 灰色に少し朱を混ぜたような外の世界を背景に、皐月の微笑みは、いっそ不気味なまでに綺麗に映えていた。

      *

「あんた……ちょっと……何しに、こんなところへ……」
 呆然としたように呟く弥生。ちょうど会いたいと思っていた少女、皐月。慣れ親しんだ、彼女との会話。こちらが怯える要素など、どこにもないはずだった。なのに、まともに言葉が発せなかった。言い知れぬ、恐怖。普段の彼女からは絶対に感じられない、その気配。
 今の彼女は、弥生の目には恐ろしいほどに美しく映っていた。見る者の目を奪い、その魂を虜にするぐらい、艶やかに。しかしそれは、皐月が尋常ならざる状態であることを如実に表していた。彼女との付き合いが長い弥生には、それが分かっていた。……いや、付き合い云々の前に、本能が――弥生の弱くなった心がそう察知していたのかもしれない。
「……弥生ちゃん。今日、来るって思ったよ」
 皐月は弥生の言葉を完全に無視して、唐突にこう言った。視線を弥生から少しずらし、遠くに投げかけて。
「なんで……分かったわけ? 私、言った覚えはないけど……」
「勘、だよ。勘。……で、どう? みんないなくなって」
 皐月は弥生の問いには答えず、逆に意図の掴めない質問を投げかけてきた。妖しいまでの微笑はそのままで、今度はまっすぐに弥生の目を射抜いて。その瞳は禍々しさを孕み、爛々と輝いている。そんな親友の表情に、弥生は思わず怯む。こんな皐月の表情なんて、見たことが無かった。普段とはまるで別人だった。
「どう、って……」
「嬉しい? 弥生ちゃん、学校嫌いだって言ってたから、喜ぶんじゃないかな、って」
 弥生が答えあぐねていると、皐月は畳み掛けるように言葉を続けた。夕闇に縁取られた顔は、この薄暗さでもはっきりと笑みを湛えているのが分かる。――と、弥生は皐月の台詞に引っ掛かるものを感じて、思わず問い返す。
「ちょっと! それって……まさか、あんたが……」
 そこまで言いかけた時、皐月が制止した。先程までの妖しい笑みは嘘のように消え、もの悲しげな表情を浮かべている。
「待って。ここじゃ言えないの。……ちょっと、ついてきてくれる?」
 いつかのような心弱い少女に戻った皐月に、弥生は断る術など持たなかった。弥生は頷くと、皐月に続いて教室をあとにする。
 夕闇は、弥生が来た時よりもその濃さを増していた。灰色だった世界は、今は暗紫色に少し橙色を混ぜたような不可思議な色に変わっている。空を覆っていた雲は、いつの間にか大半がどこかに散ってしまったらしい。逢魔が刻の空は、きっとこんな色をしているのだろう。何か禍が起こりそうな気配を孕んだ夕空。そんな空を鳴きながら飛んでいく、数羽の漆黒の鴉。見る者が見れば、不吉だと表現したかも知れない光景。その中を、弥生と皐月は連れ立って歩いていく。
 だが今の弥生に、そんなことを考えている余裕はなかった。皐月は無言で弥生を引っ張っていく。二人は裏門から学校の外へと出る。弥生は黙って、皐月にされるがままになっていた。何か分かるかも知れない、そう予感して。
 二人が向かっていった先にあるのは、学校の裏山。それはこの夕闇の中でさえ、くっきりとした漆黒のシルエットを浮かび上がらせて、静かにそそり立っている。その姿もまた――先程の皐月の表情ではないが――不気味なほどに美しい、と言えなくもなかった。

      *

 二人が裏山に分け入ってから、少し経つ。
 外の喧騒は、この山の中までは届かない。夕刻だったこともあってただでさえ静かだった世界は、今や雑音一つない空間を作り上げている。時折響く音があるとすれば、それは二人が下草を踏み鳴らす音ぐらい。
 若干開けた場所に着いたところで、皐月は歩みを止めた。続いて弥生も足を止める。そこにあるのは、古ぼけた神社の鳥居と、申し訳ばかりの小さな社殿。鈴についている五色の紐――とうに色褪せて本当に五色かどうかも分からないが――は、もはや朽ちてぼろぼろである。当然、手入れもされていない。誰がこんな参拝客も来ないような辺鄙なところに建てたのだろうか。祀られた神もお怒りになりそうなものである。
 そんな朽ちた神社に、あたかも参拝するかのような形でやってきた二人。忘れ去られた神の祠の前で、皐月は弥生の方に向き直ると、すっと目を伏せて、おもむろに話し始めた。夕陽から辛うじて届いてきた朱色の光が、皐月の姿を照らし出す。
「B組のみんなはね……神隠しに遭ったんじゃないの。
 
みんな、私が殺したの」
 
 私が、殺した。
 ああ、それはなんという哀しき罪の告白か。
 皐月の言葉は、木々に囲まれた静寂なる空間の中にはっきりと響き、そして風に運ばれて消えていった。脳裏に、幾日か前の驚いたような皐月の表情が甦る。そういうことか、と納得する。その事実は先程教室で皐月と話した時から、うすうす分かっていたことだった。だから、弥生は今更その言葉を聞いたところで、動揺はすれども驚きはしない。ただ――受け入れられない、それだけだ。
「……なんで、そんなことしたわけ?」
 弥生は静かに問いかける。努めて冷静に。取り乱したりしないように。
「弥生ちゃんは、クラスのみんなが嫌いなんだよね」
「いや、そんなことは……」
 皐月は弥生の問いには答えず、逆に弥生に確認するかのように聞いてくる。弥生は咄嗟に否定しようとした――先程の孤独の中で、それは違うことに気付いたから。しかし、皐月は別に答えを求めてはいなかったらしい。最後まで言い切らぬうちに、彼女は次の言葉を紡ぐ。
「私はね、みんなが大好きなの。好きで好きでたまらないの。愛してるって言ってもいいぐらい。だからね、ずっとずっとこのままでいてほしかったの。変わってほしくなかったの。でもね」
 ここで皐月は一旦言葉を切る。切々とした彼女の告白は、弥生の心にも深く響いていく。皐月がクラスメイト達にここまで強い想いを抱いていただなんて、弥生は思いもしていなかった。皐月は涙交じりに続ける。
「いつかみんな、変わってしまう。私の前から、いなくなってしまう。いつまでも一緒にいたいのに。手の届かないところになんか、行ってほしくないの。……だから、このままで止めてしまおうと思ったの。何もかもが、変わらないように。生きているままでは叶わないのなら、殺してでもいい。殺してしまえば、時間は止まる。今の状態で、固定される。生身の人間としての姿は残らないけど……思い出が、残るから。私の中に、永遠に残るから。それでいいの」
 迸るような、想いの発露。その一つ一つが、狂気を孕み、歪んでいる。止まることを知らぬそれは、恐ろしい奔流となって弥生の心を圧倒する。何も言えない弥生。彼女は知ってしまった。自分が誰よりも大切に思ってきた親友(さつき)が、もう完全に狂ってしまっている、、、、、、、、、、、、、、ことに。
 救う道など、弥生には思いつかなかった。
 それでも、弥生は問う。全てを知るために。自分の考えを、本当の想いを伝えるために。そして――皐月を目醒めさせる、糸口を見つけるために。
「……思い出でいいんなら、別に殺す必要なんかどこにもないじゃないの。皐月が今の皆の姿をずっと記憶し続けていれば、それで充分じゃない」
「それじゃダメなの。私はね、変わってしまったみんなを見るのが嫌なの。見てしまったら、今のみんなの姿なんて、もう思い出せなくなっってしまう……新しいイメージが、焼き付けられちゃうから。だから、こうするしかなかったの」
 そう言って俯く皐月の瞳から、涙が一滴(ひとしずく)零れ落ちる。透明にして純粋なそれは、乾いた大地に気持ちばかりの潤いを与える。傍から見れば、その光景は憐憫の涙の一つか二つでも誘うようなものであっただろう。しかし忘れてはいけない、これは哀れな罪の子の落とした涙なのだ。
 皐月は再び顔を上げ、話を再開する。潤んだ瞳から垣間見えるのは、ある種決意のようなモノ。もう何もかも、弥生に話してしまうつもりらしかった。
「それでね……神隠しの噂を流したのは、私なの。ばれたら大変だから。神隠しだったら、この山もあることだし、一応行方不明の理由にはなるかな……って。非現実的とは思ったけど、あまり大騒ぎにもしたくなかったし、これで何とかごまかせるかな、って思ったの。ちゃんと……死体はこの山に、埋めたよ。見る?」
「いや……いい」
 弥生は思う。あの噂も、皐月の手によるものだったのだ。戯言にして、戯言ではなかった。皐月は自ら、クラスメイト達を攫い、山へと還してしまったのだから。まるで神隠しの伝承における山の神のようだ。それも、哀しいほどに無邪気で、幼さを残した――
 そう考えると、弥生はにわかに、目の前に立つ少女が恐ろしい存在に思えてきた。皐月が殺人犯であることはもう既に分かっていたことではあったが、今の今まで実感が伴わなかったのだ。漸く、頭が理解し、心が受け入れたのだろうか。それとも――曲がりなりにも神の宿る地とされているこの場所が、弥生にそう思わせているのだろうか。
 昼間に比べれば幾分涼しげな、それでもまだまだ生ぬるいと表現した方が適切そうな、そんな風が二人の立つ空間を吹きぬける。風の連れてきた空気は、重い沈黙の塊となって、弥生と皐月の間にわだかまる。陽は今まさに完全に暮れ、最後まで残っていた朱い光も、もう届かなくなった。生まれ出でた夜闇は、厚い壁となって互いの姿を覆い隠す。
「でもね、私思ってたの。弥生ちゃんはきっと喜んでくれるって。弥生ちゃん、みんなのことが嫌いなんでしょ? だからみんないなくなったら、嬉しいと思うだろうな、てね。そう思ったから、ここまでやってこれたんだよ。弥生ちゃんがいたからこそなんだよ? ……なのに、弥生ちゃん、全然嬉しそうじゃないね」
 当たり前でしょ、とは――言えなかった。これ以上、傷つけたくはなかった……いや、傷つけるわけにはいかなかった。弥生は信じていたかった。皐月には、まだ最後の理性のひとかけらが残っている、と。救いようの無いほどに狂ってしまっているという事実を、受け入れたくはなかった。だから――この手でその信念を打ち砕くような真似だけは、決してしてはならない。そう、弥生は自分に言い聞かせた。それが自分のためにしかならないとしても。
 だが――そんな弥生の想いを知ってか知らずか、皐月はその感情をどんどん膨れ上がらせていく。彼女は自分で、最後の理性を飛ばしてしまおうとしていた。もう、止まりそうになかった。止められそうに、なかった。
「ねえ、どうして? 嫌いなんでしょ? なんで喜ばないの? おかしいよ。嫌いな人がいなくなったら、普通絶対喜ぶよ? 弥生ちゃん、どうかしちゃったの? ねえ! ねえ! 答えてよっ!」
 弥生に詰め寄り、涙交じりに叫ぶ皐月。その声からは、もはや理性の類は露ほども感じ取れなかった。弥生は感じる。自分の中に、ある種の諦念のようなものが広がっていくことを。ぼんやりと、遠くから眺めるように。
 そう、こんな状況にありながら、弥生の心は自分でも不思議なぐらいに落ち着き払っていたのだ。妙に感情が冷めていた。一瞬、本当にこれが自分なのか、、、、、、、、、、、と思うぐらいに。普段の自分がどこか遠くに放り出されて、代わりに別の誰かが――紛れも無く、それは自分自身であるはずなのだが――身体を乗っ取って見ているような、そんな奇妙な感覚。どこかで、感じたことがあるような気がした。いつ、どこでだったかなんて、思い出せないけど。
 ふと、先程まで闇に阻まれて見えなかった皐月の顔がうっすらと見えていることに、弥生は気付いた。よく見ると、幽かながらも澄んだ純白の光が、弥生達の周りを照らしている。淡い光はこの閉ざされた場所を幻想的に染め上げ、さながら異空間のような世界を創り上げている。そして弥生は、そんな異質な世界の中に皐月と二人きりで存在していた。それは――ある意味とても恐ろしいことで。
 世界を変えた光、それが何なのかに思い至って、弥生は空を見上げた。

 木々の隙間から――満月が覗いていた。

 ああ、と弥生は思う。皐月が狂気に溺れてしまったのも、自分が存在を奪われたかのような、、、、、、、、、、、、不可思議な感覚に襲われているのも、全てはこの満月のせいなのだ、と。満月の光は人を狂わすという。きっと自分達も、月の魔力に侵されてしまったのだろう。朽ち果てた神の社を有するこの地の、この寂れた空気が、なおさら弥生にそう思わせていた。
 ――弥生は気付いていない。皐月はこの満月の光を浴びるずっと以前から、もう狂ってしまっているということに。月の狂気を被ったのは、弥生ひとりなのだ。月光は、弥生からそんな簡単な事実を理解する分別をも奪ってしまったのだろう。
「……弥生ちゃん! 何とか言ってよ!」
 皐月の叫び声で、弥生は我に返った。皐月の眼光が、まっすぐに弥生の瞳を射抜く。何故か弥生は、そんな皐月から視線を逸らすことが出来なかった。
 ……これは、言うしかあるまい。
 息をつく。今度こそ、弥生は腹を括った。もうどうなろうと構わない。これで皐月との友情が壊れてしまうのなら――それも運命なのだろう。仕方あるまい。諦念は開き直りを呼ぶ。月はこんな感情をも、弥生に植えつけていったのだろうか。
 弥生は一つ深呼吸をする。全ての迷いを、不安を断ち切るかのように。弥生を取り巻く空気が澄み渡る。月光が、ひときわ妖しく弥生の周りを照らし出す。弥生はひたと皐月の瞳を見据え、そして――言わずにおこうと思っていた、その言葉を口にした。

「皐月。私はね……嫌いじゃなかったのよ。みんなのことが。むしろ……好きだったのよ。本当は」
 
      *

 ざあっと、一陣の風が木々の間を駆け抜けた。止まっていた時間が、動き出す。
 その言葉を聞いた瞬間、皐月は驚愕と絶望をあらわにした表情を浮かべ、一言、どうして、と呟いた。そしてそれきり、沈黙した。弥生も、何も言わなかった。こうなることは、分かっていたから。
 永遠とも思える時間――実際はほんの数分にも満たなかったのだろうが――が過ぎたころ、漸く皐月が口を開いた。途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。
「どうして……? 弥生ちゃん、変わっちゃったの……? 違うよね、嘘だよね、弥生ちゃんがみんなのこと好きだなんて。絶対、そんなことないよね? 今のは全部、嘘、だよね。そう……だよね?」
 力のない笑み。それはある意味、壊れた笑みとも言えた。相当、衝撃を受けたらしい。が、皐月は弥生が告げた事実を、嘘だと信じて疑っていない。彼女の瞳からは、そのことがありありと窺えた。だから――弥生は否定するしかなかった。嘘など、言えるはずがない。
「嘘じゃない。確かに、昨日までは私もあの人達のことは嫌いだって思ってたんだけど……今日、気付いた。いないと、寂しいの。恋しいのよ。いなくなればいいだなんて、とてもじゃないけど思えないわ。いるべき人がいない……孤独があんなに苦しいなんて、知らなかったわ。……言っとくけど、気付かせてくれたのは……皐月、あんたなのよ」
 全ての迷いを振り切るように想いを乗せて、それでも声音だけは淡々と、弥生は言葉を紡ぐ。これが余計に皐月を狂乱させるだろうことは、弥生も重々承知していた。だからこそ、今の今まで言わずにおいたのだ。しかし、こうして告げた今、何としても皐月に分かってもらう必要があった。皐月を狂わせるに至った呪縛――愛する者の不変≠フ幻想を、打ち砕くためにも。
 皐月が最も大切に思っているだろう弥生自身が、もう既に変わってしまっているという事実を。
 弥生は待つ。真実を知った、皐月の言葉を。想いを乗せた言葉達が、皐月の心に届いたと信じて。ただ、じっと。
 だが――皐月から零れ落ちた言葉は、弥生の期待していたそれではなかった。
「……そうなんだ。私、信じてたのに。弥生ちゃんだけはどんなことがあっても絶対変わらないって、ずっと信じてたのに。……やっぱり、変わっちゃうんだね。私はね、弥生ちゃんだけは殺さないつもりだったんだよ。弥生ちゃんのことは他の誰よりも大好きだし、何が何でも永遠に今のまま一緒にいてほしいって思ってた。でもね、殺してまでモノにしようとは思わなかったんだ。だって、弥生ちゃんは絶対に変わったりしないもの。私を裏切ったりしないもの。ずっと傍にいてくれる。そう信じてたのに……弥生ちゃん、酷いよ。親友なのに。……やっぱり、殺しちゃった方がよかったのかな、、、、、、、、、、、、、、、……?」
 惚けたような空虚な笑みを浮かべてそう言うと、皐月は崩れるように両膝を突いた。その表情には、深き絶望の色。全てを失くした彼女には、もはや生気すら欠片も残っていなかった。
 弥生は彼女の最後の言葉に、背筋に悪寒が走るのを感じた。力ない皐月の言葉も、そこだけはぞっとするような恐ろしい波動をもって弥生の耳朶を打ってきた。絶望から生まれた言葉は、言い知れぬ恐怖をその身に孕んで聞く者の心を侵食するのだ。抗うことなど、出来やしない。
 辺りに満ちる光がいっそう強くなる。あれから時間が経ったせいか、満月は先程よりも高度を増していた。今や月光は、白銀の凶刃の如き鋭さをもって射し込んできていた。それは受け止める者の魂を、無残なまでに抉ろうとする。皐月の浮かべる絶望の笑みに、昏き影が落ちる。光と闇に彩られた彼女は、幻想と頽廃の象徴の如くそこに存在していた。その姿は――世界から忘れ去られたこの神社に、あまりにも似つかわしかった。
「……ううん、出来ないよ。そんなこと絶対出来ないよ! やっぱり弥生ちゃんだけは、どんなに酷いことされても殺そうなんて思えないよ……! どうしてだろう、やっぱり弥生ちゃんは他の人とは全然違うからかな? ……そうだよね、きっとそうだよね。私には、友達は殺せても、、、、、、、……親友は、殺せないんだね、、、、、、、、、、、。不思議だね……何が、違うんだろうね。……分かんないよ。もう自分が何なのかすら、分かんないよ。私、どうしたいんだろうね。あはは、あはははは……」
 皐月は泣きじゃくり、自問自答を繰り返し、だがそれでも答えは見つからぬまま、ただ徒に思考を迷走させていた。混乱してしまった思考は修復不可能なまでに絡み合ってしまい、折からの精神的負担も相まって――とうとう、彼女の精神をも崩壊させるに至ってしまったらしい。焦点を失くした瞳を虚空に彷徨わせ、自分という存在の全てを嘲るが如く、からからと空しい嗤い声を上げた。

 このまま、皐月は此処で、、、朽ちていくかもしれない。

 唐突に、弥生の頭にそんな考えが浮かんだ。そして――愕然とした。自らが生み出したその考えに、背筋の凍るような恐怖を感じた。
 自分は今、親友である皐月を見放そうとしている――
 自分がそんなことを考えていること自体が、弥生には信じられなかった。必死の思いで、打ち消そうとする。なす術がないのは、分かっていた。だが、だからと言って見捨ててよいものか。弥生は皐月以外の人間には冷たくても、皐月にだけは決して薄情ではなかったはずだ。ずっとそれを自負してきた。なのに――それすらも、欺瞞だったというのか? いや、そんなことはないはずだ!
 考える。自分がしてきたことは何だったのか。そして、今しようとしていることは何なのか。
 答えが、欲しかった。――いや、必要だった。
 だが、麻痺してしまった頭脳では、思考したところでまともな答えなど出るわけがなかった。今の弥生には、感情もなければ――理性も、なかった。皐月から正気を奪った月光の刃は、弥生の悟性も理性も全て切り裂いてしまっていたのだ。この奇妙な自己存在の遊離感は、そのせいなのかもしれない。なんと残酷なことか。
 何も分からない。弥生が出せた答えは、それだけだった。どうしようも、なかった。彼女に出来たのは、糸の切れた操り人形の如く頽れた皐月を、無感動に見下ろすこと。ただ、それだけだった。

 弥生は――どこまでも、無力だった。

 認めたく、なかった。それは強がりであり、弥生のプライドでもあった。皐月をこの手で救えないのは、もはや明白なことだった。だがそれでも、その事実を受け入れることだけは――したくなかった。それは、皐月を見捨ててしまうことと同じであり、己の無力を認めるも同然だったから。
 どうすればよいのか。何を為すのが、最善なのか。
 分かるはずがなかった。それでも、弥生は考える。無駄だというのに。錯乱してしまった頭脳は、本当に必要なものなんて何一つ寄越してはない。ただ、収まりようもない混乱を招いてくるばかり。精神が、崩壊してしまいそうだった。
 そんな中、あれきり何の言葉も発していなかった皐月が、その虚ろな瞳で弥生を見上げ、そして口を開く。
「ねえ、弥生ちゃん。私……どうしたらいいと思う? もう、元には戻れないよね。ここで死んだらいいのかな? それとも……このまま人殺しとして、生き続ければいいのかな? ……ねえ。教えてよ、弥生ちゃん……!」
 皐月が、幽鬼の如くゆらりと手を伸ばす。月光に照らされたそれは、病的なまでに青白い。心がぼろぼろに壊れ果てた皐月には、弥生の抱えている悩みも苦しみも、一つたりとて見えてはいなかった。ただ、縋り付こうとしていた。それはもう、弥生に救いを求めるかのように、、、、、、、、、、、、、、――

 それが、引き金だった。

 何かが、破裂した。弾けるように、弥生は駆け出していた。――皐月に、背を向けて。
 自分に手を伸ばす皐月を見た瞬間、頭が真っ白になった。自分には何も出来ないのだということを、まざまざと見せ付けられた気がした。怖かった。見ていられなかった。それでも自分に縋ろうとする、皐月が。その手を握ってやることの出来ない、自分が。もう、何も考えられなかった。逃げることしか、出来なかった。
 走った。有るか無きかの道を、闇雲に走り続けた。後ろで皐月の叫び声が聞こえたような気がしたが、振り返ることはしなかった。とにかく、ここから一刻も早く離れてしまいたかった。向かっている方向が正しいかどうかなんて知らない。街に戻れようが戻れなかろうが、どうでも良かった。ただ、この朽ちた神社という場から――皐月という呪縛から逃れられれば、それでよかった。
 生ぬるい空気が夜風と共に、駆け行く弥生の頬を撫ぜてゆく。森の木々は、逃げんとする弥生の行く手を阻むかのように枝を伸ばし、その足を取ろうと太い根を張り巡らせている。弥生は何度も躓きそうになりながらも、必死で前へと進んでいく。彼女の行く道を照らし出すのは、夜空に浮かぶ満月の光。皐月を狂わせ、弥生から全てを奪い去った、怨むべきあの月光(ひかり)。皮肉にもそれが今、弥生を元の世界に還すための道しるべとなっていた。この導きすらも、罠なのだろうか。そう思わせるほどに、弥生の周りに射し込む光は、冴え冴えと、明るい。
 悔しい。今弥生が抱いている想いは、その一つだった。とにかく、悔しかった。何が、と言われても分からない。皐月を救ってやれなかったことか。己の無力を認めざるを得なかったことか。それとも――あの場から、逃げ出すことしか出来なかったことか。
 かぶりを振る。余計な考えを、頭から放り出す。もう、何も考えまい。真実がどれかなんて知らない。知らなくていい。今はただ、この全てを狂わせた異空間から抜け出せれば――それで、良いのだから。

      *

 ぱっと、視界が開ける。辺りに降り注いでいた妖しげな月光は嘘のように霧散して、代わりに街灯の無機質な光がアスファルトの地面を照らし出していた。夜闇に慣れた目には、蛍光灯の明かりは些か眩しく感じられる。思わず目を細めて、それで漸く弥生は足を止めた。満月が、随分と高い位置に浮かんでいる。もう相当遅い時間になっているようだった。
 弥生は、戻ってきていた。元の、世界に。
 息が、切れている。一瞬、どうしてなのか分からなかった。だがすぐに気付く。自分はあの山から駆け下りてきたのだと。しかし、何故そんなことをしたのか、不思議なことにすぐには思い出せなかった。一心不乱にここまで走ってきたせいか、記憶が飛んでしまっているらしい。
 弥生は一つ深呼吸をして、記憶を辿る。そう、自分は確か学校に忘れ物を取りに行き、教室で偶然皐月と出会い、彼女に言われるがままに裏山に分け入って――
 そこで弥生は、漸く気付いた。

 皐月が、いない。

 今、弥生は独りだった。教室で会ってからずっと行動を共にしてきたはずの皐月は、隣にはいなかった。これはどういうことだろう? 彼女は今、どこにいるのだろう?
 さらに記憶を辿ってゆく。裏山にある、朽ち果てた神社に辿り着いた後。自分達に、何が起こったのか。自分は一体、何をしたのか。
 思い返す。全てを。そして頭上に浮かぶ満月を目にした時――恐ろしいことに、思い至った。

 自分は、心の壊れた皐月を見捨てて帰ったのだ。

 ああ、自分は何ということをしてしまったのだろう! 一度は見放さぬと決めておきながら、最後の最後で彼女は皐月を見捨てたのだ。逃げてしまったのだ。現実から。それは親友として、裏切りにも等しい。決してしてはならぬことだった。きっと、皐月が犯した数多の罪よりも、ずっとずっと重い罪業だろう。
 今更のように、理性を取り戻す。自分がしてしまったことを、顧みる。そしてそんな弥生を待ち受けていたのは――魂をも押し潰すほどの、重すぎる罪悪感だった。
 悔やんだ。だがもう、どうしようもなかった。皐月を連れ帰りに戻ることも出来なかった。合わせる顔など、あるわけがない。彼女のために出来ることなど、もはや何一つないのだ。彼女は本当に、あの場所で朽ちてしまうかも知れなかった。あの時弥生が想像した通りに。
 ふらふらと弥生は歩き出す。胸が、恐ろしい圧力で締め付けられていた。これが、罪の苦しみなのだろうか。――そう思いながら、学校に向かう。校門の前に立ち、眼前に聳える校舎を見上げる。
 そう、ここにはもう、弥生の欲したものは何もないのだ。皐月が、そして他でもない弥生が、奪ってしまった。あるのは、虚無ばかり。それは全てを失くした、弥生の心を投影しているかのようだった。たった一つ、罪の色を除いては。
 弥生は魂を抜かれたかのようによろけながら、その場を離れる。あの時失われた感情は、存在は、二度と戻ってくることはないだろう。私はもう、ここにはいない。ぼんやりと、そんなことを思った。

 その後、四条弥生と美藤皐月がどうなったのか、知る者はいない。


     ***


 この世界に帰ってきても、罪犯せし少女には、還る場所などないだろう。
 彼女達に遺されたのは、絶望にも等しき虚無と、消えることなき罪業。

 ただ、それだけだった。


    fin. 







  《あとがき》

 どうもです。初めましての方もおられるかも知れませんね。黒崎紗華(くろさきすずか)です。
 この物語は2008年4月発行の幻想組曲に載せたものですが、構想自体は2007年11〜12月ぐらいからありました。書き上げるのにもかつてないぐらいの時間(途中でブランクは挟みましたが、大体数ヶ月ぐらい)をかけてます。……かけすぎですね。
 とにかく暗い、救いようのない話ですが、これで良いのです。これが“私(らしさ)”なのです。書きたかった類の物語が書けて、満足しています。
 弥生=強がってるけど実は心の弱い子、皐月=正常そうで実は物凄く精神病んでる子、ということで、私の二大得意キャラ、と言っても過言ではありません。……とはいえ、二人(特に、弥生)の心情を描き出すのには非常に苦労しましたが、少しでも伝わっていれば良いな、と思います。
 ちなみに、この作品では苦手な情景描写を出来るだけ頑張ってみたのですが、如何でしょうか。自分としては、量をたくさん入れただけで、そのそれぞれはあまり上手くかけていない気がするのですが……
 では大体書きたいことは書き終えた(と思う)ので、この辺で。また機会があれば、その時に。


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