夕焼けの子

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か  ご め 、
 か ご め 。
  か ごのな かのと りいは 、

 未だ梅雨は始まっていない。夕方。昼の暑さに合わせた装いでは少々肌寒い空気。
 団地の白い広い壁を夕日が照らして。反射した茜色が小さな公園を照らす。
 細い、けれどくっきりと長い影が朱い土の上に幾筋も延びていた。
 頼りないジャングルジム。滑るより駆け上がる方が楽なすべり台。それに、遊ぶ子供。
 わらべ、という言葉がぴたりと嵌まる。今時見られる事のない、懐かしい童画からやってきたような子供。その、影。

 い つ い つ 
  で やある

 その男が向きを変え、余り手入れの届いていない生け垣越しに公園を覗き込んだのは全くの気まぐれだった。
 少なくとも男自身はそう思っていた。今日一日を男と一緒に駆けずり回った背広はよれて、襟元にはむせた匂いが染み付いている。涼しくなったし慣れた今は大して気にもならないが。疲れている。昨日や明日と同じように。
 子供の頃なんか思い出す筈も無くて、腹が立つ訳でも悲しい訳でもなくて、ただ、足が重いという事と肩が痛いという事を、考えるでもなく感じていた。
 そうして家に近づいたとき。歌が耳に届いたのだ。
 幼い女の子の声が、単調というくらいゆっくりとした歌を、一文字毎に押さえるようにたどたどしく歌っている。
 「かごめかごめ」
 男は何となく歌の名を口ずさんだ。知っているけれど、そういえば、歌った事はないような気がする。歌った事はないけれど、何故か、懐かしい歌だ。
 それから、寒いような気がして襟元を抑えた。感じたものは寒気ではなかったのだが、余りに唐突に感傷的なために、気付かなかったのだ。
 寂しさを感じていた。
 この歌は、子供達が、声を合わせて歌う歌だ。手を繋いで、輪を作って、笑みをこぼしながら歌う歌だ。
 今、声は一つきり。震えるくらいに懸命に、かごめかごめを歌っていた。
 本来は輪の中に居る筈の子が、1人きりで、うずくまっていると、思った。想像した。
 思っている自分に気付いてすぐに、男は笑う。随分感傷的になっている。柄にも無く。
 柄にも無く感傷に誘われて、公園に足が向いたのだ。
 警戒心は働かなかった。無論のこと。

よ あ け の ば んに 、

 歌う子は、公園の奥の方にいた。うずくまった影は公園の中ほど、滑り台の足元まで届いている。しかし、姿は見えない。夕日に飲み込まれて、遠めには見て取れないのだ。随分目が疲れているらしい。
 生け垣に沿って歩き、自転車避けをすり抜けた。目を凝らす。影ははっきりとしている。しかし・・・
 眉根に力を入れて睨み付けても、どうしても姿が見て取れない。透明なように。或いは、本当に夕陽に溶けてしまったように。
 鶴と亀が滑った。どうしても見えない。見えないために、目が逸らせない。
 瞬きを一つ。やはり姿はない。そして影も消えていた。

うしろのしょうめん だ あれ

 足元から囁かれた。歌うのではなく、笑いさざめく声で。
 見下ろして何も見えないより早く。
 喉が。熱くなる。吹きそこないの口笛の音のような空気と、赤い霧が、広がった。喉を破って吹き出していた。
 「・・・!」
 声にならない。熱い。そして体が冷えていく。見あげている子供。
 血を浴びて。歌っていた子が男と目を合わせた。赤い着物を着て。髪の端を綺麗に揃えたおかっぱで。小さく薄い刃を手にして。きらきらと黒い瞳で。その子は、笑む。
 (ああ、この子は俺が死ぬという事を知らないんだな)
 (見られて、喜んでいるんだな)
 (寂しいんだろうな)
 またも柄にも無い感傷の痛み。その子を憎くは思わず。意識が零れ落ちていって目の前が暗くなって最後まで少女は見つめていてどさり、と重い音がして地面が湿っているのは自分の血だった。寒い。体が、冷える。


 「お じ ちゃん」
 少女はうずくまって、両手を両の頬において、おじさんを見下ろしている。
 「おじちゃん?おじちゃんてばあ!・・」
 ちょっと怒っているフリをしてみたけれど、起きてくれない。赤い水溜まりの上に、うつ伏せで寝たきり。ちょっと苦しそうかもしれない。
 揺すり起こしたりはしない。きっと、ぐにゃっとして気持ち悪い。
 夕陽がちょっとだけになっている。そろそろ無くなる。だから、赤い水溜まりはあまり綺麗じゃない。
 という事は、せっかくの赤いおべべも、いつもより綺麗じゃないかもしれない。
 立ち上がる。つまらないし。
 髪も顔もベトベトするから、水を出してごしごし洗った。おべべも着たままでやっぱりごしごし洗った。
 くしゅんと小さなくしゃみを一つ。
 それからお散歩しようと思った。
 この子は眠らないのだ。


 由香はずんずん歩いていく。お提げがぴょんぴょん跳ねるから元気な感じがする。
 ずんずんずんずん。
 お気に入りの白いワンピースの上にはちゃんとセーターを着てきた。靴は一番好きな白いのじゃなくてスニーカー。水筒はパパ(おっと、お父さん)の大きな水筒。ちょっと重い。懐中電灯も有る。取り敢えず結構街灯って明るいから点けないけど。
 リュックの中身も一生懸命考えたから完璧だと思う。お年玉袋も3つ持ってる。もう幼稚園じゃないんだから、自分の事は自分で出来る。出来ないときは・・・
 実は!コンビニに行けばなんとかなっちゃうのだ。パパとママ(お父さんとお母さん!)がお夕飯に帰ってこないときはコンビニだもの。
 今日だって、お料理作るってママ言ってたのに。ケーキ買って来るって、パパ言ってたのに。
 お誕生日に帰ってこないのって、あんまりだと思う。約束破るのも、何回もやるといけないと思う。
 これは、家出しかないと思う。
 ・・・ちょっとだけ、不安だけど。
 パ・・・お父さんかお母さんが由香を見つけるまでの間くらいは、頑張れる。あの森には熊とかはいなさそうだし。
 それで、もう約束破らないって、約束させちゃおう。それから、パパもママもお夕飯には帰ってきてねって言おう。
 お話とかだと、「ばか!」って殴られるかもしれないけど、殴られないお話もあるし、どっちにしても約束はしてくれる。
 「さがさないでください」ていう置き手紙もしたし、絶対見つけてくれるように「ヒントはピクニックです」て書いておいた。パパもママも、ピクニックの事はきっと覚えてるもの。おっと、お父さんとお母さん。

ずんずんずんずん。
ずんずん、ず。
 あれ?と由香は立ち止まった。
 「子供、だよねえ…」
 別に口に出してみなくても、間違いなく女の子だ。街灯の下をのこのこ歩いている。ぺたぺた足音がする。多分年下。ということは幼稚園。
 どうしようかな?と迷ってみる。こんな時間に、どうしたのだろう。迷子だろうか。
 目の前まで来た。なぜか着物をきている。日本人形みたいな髪。というか、まんま日本人形の女の子。かわいい。
 息を吸って。
 「…ねえ!」
 立ち止まった。不思議そうに、こっちを見る。きょとんとして、いろんなこと知らなさそう。ぜったい、由香がお姉ちゃんだ。
 「迷子?おうちわかる?」
 止まっている。近づいていってみる。と。やっぱり幼稚園の子の声で。
 「お姉ちゃん、見えるの?」
 何が?と聞き返してみる。じっと目を見られてるのが少し気になる。
 「あか…見えるの?」
 は?えっと。
 「うん。きれいなお着物だね」
 という話かなあ、と思い付いた。きれいな赤い着物だ。多分。昼だったら。
 謎の女の子は「わあ」、という風に口と目を開いた。嬉しいのとびっくりしてるのと。
 それから、急いでしゃべり出す。
 「これね、かあさまが作ってくれたの。とってもきれいでしょう?お日様があるともっときれいなの。夕方がいちばんきれいなの!」
 「うん。よかったね」と笑顔を見ながら。かあさま、ね。いいとこの子かもしれない。
 「お母さん、どこにいるの?」と聞いてみると、黙って首を横に振られてしまった。
 「じゃあ、おうちは?」
 ふるふる。
 迷子の小猫さん…さて、困ってしまった。
 「ええと、ねえ…」
 どうしよう。
 「どうしたの?お姉ちゃん」
 心配されてしまった。いい子。
 「うん、と。何でもない、けど…」
 手を取ってみて。
 「わ、冷たい!」
 なぜかびしょぬれだった。

 ごしごしごしごし。
 ごしごし、ごし。
 タオル持ってきて良かった。
 みちばたで。由香の手の中で「あか」ちゃん(という名前だった。聞いてみたら)はくすぐったそうにしている。
 「はい、こっち向いて」とひっくり返したら、俯かれてしまった。いやじゃなさそうなんだけど…人に触れられるのに馴れていない子かもしれない。
 「着物着替えようね。かぜひいちゃうし。着替え、お姉ちゃんのでいいよね?」
 「いや!!」
 即答と首振りと、襟をぎゅっとつかむ。
 「あかのお着物はこれだもん!」
 そんなにいやなのか…。

 結局、着物毎拭いてから赤いセーターをかぶせた。ぶかぶか。由香は背だけは高いほうだ。細っこいけど。
 いろいろ事情を聞こうと思ったら、黙って首を振られてしまった。
 それから、目を見られた。
 「ん?なあに?」
 「いっしょに、遊ぼう?」
 断ったら、すごく悲しい顔するだろうな、と分かった。一生懸命で、迷っていて、言葉、一文字ずつだった。だから、うん、とうなずいてあげた。
 「何しようか?」
 「…かごめかごめ」
 「でも、二人だよ?」
 「かごめかごめ」
 苦笑、する。何か、思い出あるのかもしれない。
 由香がオニになった。うずくまって待っているほうが、オニ。今まではあか一人でオニだったって。
 あかの声も、回る足音も、跳ねていた。遊んであげて良かったと思った。
 知らないおじさんが近づく足音は、由香には聞こえなかった。

 由香は、森に行けなかった。


 「それで、何を求めてここに来たのかね」
 湿っぽい石壁の部屋。明かりは銀の燭台に蝋燭。小ぶりな水晶球にかぶさって、黒いローブの「ばば」はゆっくり訊ねた。
 しわの奥で、目ばかりはぎょろりとしている。
 自分が「魔法使いのおばば」の型に思い切り嵌まっていることなど、とうに承知している。それが現代のしかも日本では単に胡散臭く思われるだけなのも。
 だが。格好を変えることも無い。偽者がはびこる前から、「ばば」は「ばば」だったのだから。
 「胡散臭い話」を信じようと信じまいと、知ったことではない。この世ならぬ命の不思議にまつわる助言を無駄にするならすればよい。信じないものは望みを叶えることも危難を避けることも宝を取り戻すこともできない。それだけのことだ。
 全て客の決めること。たとえば今はこの男が。

 言いよどむ男に重ねて問う。
 「あんたの見たものは聞かせてもらった。あたしはそいつは本当だと思うね。で、あんたはどうしてここに来たんだい?」
 男は30を過ぎたあたり。蝋燭の灯に顔を照らされても、まだ皺が刻まれるほど老いてはいない。だが、目元は落ち窪み顔色も優れず、ろくに眠ってもいないのは明らかだった。
 背広の襟に止められたバッヂは大手企業の社章らしい。白いシャツから突き出した首は太くしっかりとしていた。胡散臭い世界には縁のない男だ。それがここに来たのは、よほどのこと。
 確かに余程のことだろうとも。家出した娘が連続殺人に関わっているというのは。
 それも。娘はうずくまったまま、近づいた見知らぬ男のほうが勝手に血を吹いて息絶えたのでは。
 しかも、立ち尽くす父親の前で、うずくまった娘の姿が夕日に溶けて消えていっては。
 もう半月以上が経ち、その間に死んだものが4人。

 「私は、由香を取り戻したいのです」
 それだけ、男は答えた。言葉はしっかりとして、強い。
 ここに来るまでには、ずいぶん偽物を掴んだだろう。その前に自分の目を疑いもしただろう。それでもこの父親は、常識では何の役にも立たないはずの唯一の望みに、辿り着いてきたのだ。子の、親であればこそ。
 大した奴じゃないか、と口の中では誉めてやる。そして裏腹を告げてやる。

 「覚悟がいるよ」
 と。ねめ上げる。
 男は深く肯いた。
 「違う違う…危ないということではないよ。ちゃんと知っていれば、そう危なくもない。別の覚悟さ・…酷いことを、しなければいけないよ」
 男は続きを待っている。自分が息をしていないことにも、気づいていないだろう。
 先に一息次いでやる。語り始める。
 「…哀れな話を、してあげようかね。さみしい幼い子の話だよ。この土地の、古い話さ…」


か  ご め 、
 か ご め 。
  か ごのな かのと りいは 、

 梅雨に入ったが今日は晴れている。夕方。昼の暑さに合わせた装いでは少々肌寒い空気。
 団地の白い広い壁を夕日が照らして。反射した茜色が小さな公園を照らす。
 細い、けれどくっきりと長い影が朱い土の上に幾筋も延びていた。
 頼りないジャングルジム。滑るより駆け上がる方が楽なすべり台。それに、遊ぶ子供。
 わらべ、という言葉がぴたりと嵌まる。今時見られる事のない、懐かしい童画からやってきたような子供。その、影。

 い つ い つ 
  で やある

 その男が向きを変え、余り手入れの届いていない生け垣越しに覗き込んだのは、その日八つ目の公園だった。
 やっと見つけた。今日一日を男と一緒に駆けずり回った背広はよれて、襟元にはむせた匂いが染み付いている。涼しくなったし慣れた今は大して気にもならないが。疲れている。昨日や一昨日と同じように。
 子供の頃なんか思い出す筈も無くて、腹が立つ訳でも悲しい訳でもなくて、ただ、娘と最後に過ごした休日がいつだったかと、思い出していた。
 そうして宵が近づいたとき。歌が耳に届いたのだ。
 幼い女の子の声が、単調というくらいゆっくりとした歌を、一文字毎に押さえるようにたどたどしく歌っている。
 「かごめかごめ」
 男は何となく歌の名を口ずさんだ。知っているけれど、そういえば、歌った事はないような気がする。歌った事はないけれど、何故か、懐かしい歌だ。
 それから、こぶしを固めて感傷を振り払う。
 「さびしい話を聞かせたけどね…」
 と、老婆は最後に忠告していた。
 「そういった気持ちは、切らなければ駄目だよ。懐かしいとも哀れだとも、思ってはいけないよ。どんなに自然の気持ちでも、だ。それがあの子の手の内、いいや、あの子の抱えた呪いなんだよ。ぼうっとしていたら、殺されて仕舞いだよ」
 哀れまずにいるのは、難しい。
 この歌は、子供達が、声を合わせて歌う歌だ。手を繋いで、輪を作って、笑みをこぼしながら歌う歌だ。
 今、声は一つきり。跳ねるように楽しげにかごめかごめを歌っていた。ずっと一人きりで口ずさんでいた歌を、友達の側で歌っていた。
 振り払う、ためだけではなく。愛する娘が、捕らえられてうずくまっていると、思った。想像した。
 「由香…」
 その名を口にすれば。まやかしに囚われることはない。まやかしがいかに自然の気持ちで出来ていても。
 自分の意志であることを確かめて、公園に足を向けた。
 警戒心は奪われなかった。無論のこと。

よ あ け の ば んに 、

 歌う子は、公園の奥の方にいた。その姿はもとより見えず、影だけが躍っている。が、側に。うずくまった小さな姿。夕日に飲み込まれて、遠めには確かめられない。随分目が疲れているらしい。
 生け垣に沿って歩き、自転車避けをすり抜けた。目を凝らす。影ははっきりとしている。しかし…
 あれが由香か、と目を疑った。うずくまった背中は痩せこけ、髪も解けて縺れていた。白いワンピースだったものは、乾いた血と土に汚れていた。「おしゃれさん」だと言われて照れて笑う子だったのに。
 鶴と亀が滑った。胸が痛む。自分の娘のために。
 瞬きを一つ。娘が地に崩れた。そして影が消えていた。

うしろのしょうめん だ あれ

 足元から囁かれた。歌うのではなく、笑いさざめく声で。
 見下ろして何も見えないより早く。
 名を。告げてやる。数百年の間、告げられることのなかったであろう名を。
 「紅姫」
 返事はない。小さく、高く、息が引き攣る音がした。姿なく見あげている子供。
 男は自分の親指の腹を噛み破った。血の玉の浮いた指を、開いたままの両の目に走らせる。
 痛みに目を閉じ、すぐに開いた。見る。目を、合わせる。
 赤い着物を着て。髪の端を綺麗に揃えたおかっぱで。小さく薄い刃を手にして。きらきらと黒い瞳で。あどけなく。紅姫は問う。
 「おじさん、だあれ」
 由香の父だと答えてやる。姫はますます目を丸くし、それから。笑む。
 (ああ、この子は俺が由香を取り戻すとは知らないんだな)
 (見られて、喜んでいるんだな)
 (寂しいんだろうな)
 誘われる感傷の痛み。努めて怒りを保ち。しかしそれを表には出さず。
 「おじさんはね、由香を迎えに来たんだよ」
 す、と。瞬きのように、黒い瞳が陰った。赤が、射した。くん、と刃を持つ指が曲がる。持ち主にも無意識のうちに。
 嫌だと、叫んで
 「由香も、帰りたくないって言ってたもの!」
 他愛ない嘘に大切な人を賭けて、訴える。幼い頃の由香が重なる。
 「嘘だよ」
 泣かれるより殺されるより先に、続ける。言葉を奪う。
 「由香の嘘だよ。ちょっと意地を張っただけだ」
 姫は言葉に詰まっている。他愛ない子供だから。必死に、整理のつかない心から、訴える言葉を捜している。自分の涙にも、気づいていないだろう。
 再び黒くきらめく瞳から零れる涙が、見るものの胸を締め付けることも、知らない。一つの気持ちで懸命なだけだ。だから、教えてあげる。
 「寂しいんだね」
 びくり、と小さな体が震えた。
 「ずっと一人だったんだからね。お父さんとお母さんが…眠って、しまって、お城が燃えてから。一人でいたんだね」
 分っているんだよ、とあやすように告げれば。操れる。
 「可哀相に…よく、頑張ったね」
 丸い頭に伸ばした手は、振り払われなかった。しゃがんで、腕で包んでも。
 親子のように。
 「っ…かない・・で…」
途切れ途切れに、その人の胸で涙に詰まりながら、願う。
 「由香…連れ・・て…かないで…」
 由香の父親は、ふっと息を吐いた。笑ったと、思わせるために。
 「家に帰るよ。姫も一緒においで」
 優しい言葉で。小さな頭越しに自分の娘を見つめて。嘘をついた。


てとてとてとてとと、紅はついていく。さこさこさこさこと、わらじが騒ぐ。可愛らしい
ぽっくりはどうしてしまったのか、覚えていない。
 ずんずんずんずんと、「お父さん」は歩いていく。夕日は向こう。紅の足元を滑り抜けて、
長い黒い影。踏まないように、紅はちょっとだけ斜めについていく。
 「お父さん」は時々斜めに振り返って、ちょっと立ち止まる。紅はついていっていいのだ。
ついていくのだけど。
 怖い。
 なにかとても、「いやっ」て逃げ出せないくらい、怖い。
 「お父さん」はとても大きい。紅が見るのは背中。背中の向こうに由香。「お父さん」の腕の
中に眠っている小さな由香。「お姉ちゃん」と呼んで良いよって言ってて紅より大きいけれど
小さい由香。「お父さん」が約束破ったから家出したけど腕の中で眠っている由香。
 怖い。何か、怖いことが有る。きっと。
 「『お父さん』」
 呼んでみたけれど答えてくれない。答えてくれないけど、話をする。
 「昔、そこの山にお城が有ったそうだよ」と話し始める。お城が有って、イクサが有って、
チガナガレタのだと、みんなシンデシマッタのだと。昔、昔のお話で。お城のお姫様はそれ
から沢山、人を「コロシタ」と。
 「ふうん」と紅は言った。「コロシタって何?」なんて聞かなかった。違うお話をした。由香
とかもめかもめをした事、由香は赤いおべべをきれいといった事、でも自分の白いおべべも
好きでそれは「ワンピース」という事…。
 「でも汚れてしまったね」と、意地悪な「お父さん」。
 「うん…由香、泣く?」
 「由香が泣くの、紅姫は嫌かい?」
 うん。とても。嫌。
 「泣くよ」
 「お父さん」は嫌じゃないのだろうか。はっきり言う。由香は、泣く。
 ずきっと、紅は由香の泣き声を思い出した。「ぱぱ、まま」と由香は泣く。
 「泣くけど、大丈夫。由香にはほかにも大好きなものが有るから」
 「ほんと?何?」
 ぶんって頭を振って、うれしい声で、紅は聞いた。何だろう?
 「パパと、ママだ」
 ぱぱ、まま。ざあっ、と。紅の胸の中で、やっぱり由香が泣く。
 「由香はそう言ってなかったかい?」
 嫌、と言いかけて。
 「嘘!!」と、叫んだ。
 「嘘!!由香、泣いてたもの!泣いてたときだもの!」
 紅は必至に抗議する。
 「好きじゃないよ!泣いてたときだよ!」
 本当に?と聞かれるから、本当に!と答える。
 「本当!おじさんが眠ってるところで、由香は泣いて、ぱぱ、ままって、言ったよ!」
 「ああ、そうか」
 「お父さん」は簡単に分った。
 「泣いて、呼んだんだね。パパと、ママを。おじさんが眠っているところでだ。それは、
どこ?」
 尋ねながら。角を曲がる。
 そっちは、いけない。駄目、と紅は叫ぶけど、前を行く大きな背中は止まらない。だから、
腕の中の由香も近づいていく。
 「そっち行ったら、由香、泣いちゃうよ…」
 だから駄目なのに。
 「大丈夫だよ」と、言うのだ。
 近づきながら。
 「由香は泣かないよ。おじさんだって、そろそろ起きる頃だろう?由香を会わせて、泣き
止ませてあげよう」
 そう言うのだ。

 紅は、ついていった。ついていくしか出来なかった。
 夕日がそろそろ暗い。明かりが点いている。紅には、大きな背中と黒い地面と暗い生け垣
とその向こうの明かりが見える。
 背中の向こうの由香と生け垣の向こうの地面と地面上の…が見えない。
 そこで、前の大人が立ち止まる。背が高いから、生け垣の向こうも見える大人が、立ち止
まって、「まだ寝ているね」と、言う。
 紅は、もう少し進んで、「お父さん」の裾を掴む。手が震えて、甲がとても痛い。
 「もう、行こうよ」と訴えた。ここは、いけない。
 「いや、もっと近づこう」と、「お父さん」は入り口のほうへ。まだ眠っているけど、起こそ
う、と。
 起こそう、と。
 した。
 何度も。
 紅姫は何百年も何度も起こそうとした。
 起こそうとしたのに。
 「お…」
 息が。声が。喉をついた。
 お・き・な・い・よ。
 溢れた。
 「起きないよ!起きないもの!何度も起こしたのに、揺すっても、泣いても、起きないよ!
駄目なの!赤いと駄目なの!ずっと…起きないで…」

 「そうして眠っているのが、シンデイルって事だ。知っているね」
 その先、どう、なるかも。どうなっていくかも、赤は知っている。今近づいていったら眠
っているおじさんと赤い水溜まりがどうなっているかも知っている。
 涙が溢れ出して胸が絞られてしゃっくりがきて耳がじんとなって、しかも吐きそうで。
 「紅姫があのおじさんを由香の目の前でコロシタんだ。そして由香が泣いたんだ。そうだ
ね」
 眼、耳、喉、胸。
 聞えない見えない分らない!
 手の中に、小さな、刃が。
 「パパが死ぬと、由香は泣くよ」
 …聞えて、分って、しまった。


 これで終わったと、彼は息をついた。生け垣の向こうには、一月前の殺人の後は何もなく。
背後には、もう、声も息遣いもない。終わらせたのだ。彼が。
 長いときを有りつづける「もの」は変わらない。変わる事が出来ない。認めない。認める事
が出来ない。心を崩されれば、変えられれば、終わるしかないのだと。自分もその類らしい
老婆は語った。だから、「友達」が出来たときにはもう、紅姫は終わり始めているのだと。
 大人と、子供。拘るものが分っていれば、崩すのは、たやすかった。
 何もない公園。背後には静寂。腕の中に、寝息を立てる娘。かすかに身じろぐ。そして、
眠りながら娘は呟いた。
 「ぱぱ…まま…」
 愛しさが。愛しいものが確かに胸の中にいる。もっと強く抱きしめたいと。そうして目を
覚まさせたいと、思う。
 だが。腕に力は入らなかった。
 力無く。軽い体が、彼の足元にずり落ちた。
 どうして、今、抱きしめる事が出来るだろう。目覚めた子に、何を言えるだろう。
 今、数百年の時を超えて泣いていた魂を砕いたところなのだ。幼子を、砕いたのだ。
 もう、その子はいない。隙を捕まれる事無く、哀れんでやれる。
 振り返った。
 「とうさま…」
 幼子が。そう呟いた。

 紅姫は傷ついていた。泣いていない。乾いている。
 濃くなり始めた宵闇に、着物の赤を奪われ。傷に心を奪われ。茫洋と曇る瞳で何も見ず力
無く青ざめた肌も闇に溶け込ませてかすかに向こうが透けて。
 けれど、確かにまだいて。
 刻を超えたかすかな声で、呼んでいた。
 「父様…母様…」
 その人たちはもういない。

 膝を、ついた。何も考える事が出来ず。ただ、哀れに思って。
 理性のかけらが危険に気づき声を上げる、が。目の前の幼子が、それを奪う。
 手を、伸ばす。触れてあげる事は出来ない。消え入りそうな、砕け散りそうな、姿。
 きん、と。鋭く光る刃が、手に。


 ぱぱ、まま…と呼んだかもしれない。
 由香は目を開いた。なんだか、昼のぬくもりの残ったアスファルトに座り込んでいる。
 なんだろうと、探して。なんだか分る前に、悲鳴を聞いた。
 つきん、と、胸に痛く、刺さって。しかし耳には響かずに、悲鳴はすぐ消えた。代わりに、
どさり、と。側に重い音。倒れたのは。
 「パパ…」

 泣いて、揺すったら、パパは目を覚ました。
 「おはよう、由香」
 パパからは酷く疲れたにおいがした。
 由香はなんだか幼稚園児に戻ったみたいに言葉が出てこなくて、みっともなく泣きじゃく
ってしまった。パパ、と何度も繰り返すから。やさしい手が、由香の頭に乗って、「お父さ
んだろう?」と笑った。おかえり、といった。
 だから。せっかく家出したのに、先にごめんなさいと言ったのは結局由香だった。

 手を取られて、立って、家路につく時。由香は一度振り返った。
 街灯が意外と明るいけど、何もいない。
 もう一つ、鼻の奥がつんとする事が有るのだけど、何だが思い出せなくて。
 悲しい夢を見たんだと思った。


 闇を指で押し出したようななりの老婆がそこにやってきた時にはもう父娘の姿も無かっ
たが、気をつけて目を凝らしてやれば西の山の橋、昔お城が有ったあたりにはまだ夕日のか
けらが薄紫に残っていた。
 何も無い地面に、老婆は声をかけてやる。
 「可哀相にねえ。一緒においで」と。
 答える声も無いが、老婆はまた歩き出して、闇に消えていく。


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