―Redeem selves―

いづみ

 そこには誰もいないはずだった。
 硝子越しの月光だけが、様々な色に冷たい石の床を照らしている。
 光の描く聖画。
 澄み切った空気の中に今それを見る者はない。

 闇に囲まれたその空間の中心に立つ者があった。
 見つめるのは神像。神の姿を人の手が模したもの。
 灰色の像は無言のまま立ち尽くす。
 それは、光に染められたもう一つの姿もだった。
 背はひどく低い。まとう無地の衣はステンドグラスと月明かりをありのままに映し出す。
 ただ長い髪だけがその光を闇と同じく―だがかすかに赤く、彩っていた。

 そして神の像の下に立つ少女は、始めて動きを知ったかのようにゆっくりと振り返った。
 瞳は闇を見つめ、引き結ばれていた口が小さく動く。

「―あなたは神を信じていますか?」

 それは少女らしく幼い、だが同時に少女が決して持つはずのない静けさを備えた声だった。

「ええ。」

 答えたのはもう一つの影。
 光の届かない闇、そこからたった今現れたかのように姿を見せた一人の女性。
 前へと歩き出す。

 石の床は静寂の中にかすかな足音を高く響かせた。
 光の中にその姿が露わとなる。
 だが灰色にくすんだマントは頑なにその色を受け入れようとはしなかった。
 注ぐ光の中に立つ影。

 再びそこからは音が消える。
 硝子越しに歪んだ円を形作った月は天の高きにあった。
 時折、その光さえも不意に消えようとする。

 少女の瞳は色を持つ光を受けてもなお変わらぬ、赤く暗き光を宿したままだった。
 女性の瞳は布の作る影に覆われ、その色を見せない。

 何も聞こえなかった。
 外には街があり、森がある。窓の向こうには風に揺れる木々と空を舞うものの姿が見えさえもする。
 だが生ける者が存在する世界の中にあっても、ここはその全てを拒絶していた。
 像の如く動かぬ二つの人影を除いて。

 静止した空間。
 空気が動いたのは光がまたも弱まった瞬間だった。

「生きることを神に許されない者は、生きていてはいけないのですか?」

 問いかけが闇に落ちる。
 虚ろな響きを残してそれは消えた。
 光なき世界にその主の姿を見る者はない。

 空気がかすかに震えていても、それを知ることのできる者は誰一人としていなかった。

 再び照らし出された世界には何一つとして変わりはない。
 少女は生命無きもののように表情を持たないまま女性を見つめている。
 女性はその目を隠したまま、ただ少女の見つめる正面に立っていた。
 二人の距離は手を伸ばすには遠く、だがその広き空間においては近くにあった。

 無言のまま立つ姿。
 それはこの空間にもう一つ存在する神の像と等しい。
 言葉も動きも無く、ただそこに存在しているだけかのように立ち続けている。

 石床に描かれた神官の顔に薄い影が差す。
 影の中に見える女性の唇が動いたのはほぼ同時だった。

「それを決めるのは、生きてなどいない神じゃない。」

 赤く彩られた唇が艶めいた光を見せた。

「今、生きている人が決めること。」

 闇の中に浮かぶは物言わぬ神の像。
 その瞳はただ虚空を見つめるのみ。

 色無き姿はそれきり動きを捨てる。
 色を映す姿は失った動きを取り戻した。

 一歩、神の御許へと踏み出す。

 映した色は小さな揺らめきとともにその形を変えた。
 足音も衣擦れの音も響かないまま、冷たい水が流れるかのように。

 見上げたものへと、言葉を祈るように届ける。

「人が生かざるべきと定めたのなら、死すべしということなのですか。」

 虚ろな声音は何の色もまとわなかった。
 それは欠落でしかない。
 そこには何も存在していない。

 神は何も答えない。

 流れてきた雲が再びその姿を闇に堕とす。
 少女の赤い瞳もまた闇の中に消える。
 描かれた姿が形を削られていく。

 赤い唇が薄く笑った。

「自ら死ぬ必要はない。死すべきものはいつか殺されるだけ。」

 嘲笑めいた物言い。
 その笑いは誰に、何に向けてのものだったのか。
 女性の瞳は闇に覆われたままだ。

 刹那に差した光の中にもその歪んだ笑みは形を変えていなかった。

 そしてその姿は影に戻る。

 静寂の中には三つの物言わぬ像が並ぶ。
 動くことも、口を開くこともないままに闇の中に立ち続ける。
 何を待つでもなくただあるがままに。

 不意に空気は破れた。
 振り返ったのは少女。
 世界に光が戻る中、赤き瞳は真っ直ぐに女性を見つめていた。
 何も求めないままに。

 紅玉は冷めた輝きを放つ。

 影色の像もまた動いた。
 少女の下にさらなる一歩を踏み出す。
 硬い音はただ一度だけ響き渡った。

 赤い唇は血のような艶を見せた。

「死にたいのならば、自分で死ねばいい。」

「…嫌です。」

 声にはかすかな震えがあった。
 それは無機質な人形が初めて見せた感情めいたもの。
 だが、それは恐怖ではなかった。

 拒絶。あるいは完全なる否定。

 少女の瞳が輝きをわずかに変えた。

 赤い艶もまた彩りを変えていく。

「生きたいなら生きればいい。死すべきものはそれでも殺される。」

 その言葉は少女の向こうまで響いていた。
 たった一つだけ開かれた窓の向こう、果てしのない夜の闇の中へ。

 風が通り抜ける。

「理由が欲しいなら、目的が欲しいなら、意義が欲しいなら。―まずはそれを探すために生きればいい。」

 歪んだ微笑。
 その言葉は投げられた礫の様に石の床から弾かれる。

 だが、少女は再び人形へと戻っていた。
 その瞳は虚ろなままに女性を見つめている。

「神は人を守る力をくれます。だけど、裁く刃は与えなかった。」

 少女は右腕を前に伸ばした。
 糸で吊られた道化のように、真っ直ぐに。

 短い指はぎこちなく動いた。

 見えない空気が歪む。
 力が集い、捻じ曲げられていく。
 ひずみが呻きをあげる。

 捻られた糸が千切れる瞬間。
 その叫びは唐突に消えた。

 四散した力は跡形も残さずに消え去った。
 その腕も元あった場所に戻る。

 月光が現れる。
 少女が外にまとう色を取り戻す。
 色を持たぬ姿は全ての色を受け止めて、受け入れない。

 もう一つの長き左腕が動いた。
 影がその姿を変える。

 衣擦れの音とともに、その覆いが脱ぎ捨てられた。

 光の断片は歪んだ姿を映す。
 石の大地に刻まれた影は異形の腕。

 黒い爪はその光を弾き、硬質の輝きを放つ。

「私は刃を得るために、神に背を向けた。人は欲するものを己で掴む。」

 放たれた言葉はそのまま消える。
 閉ざされた世界に返ってくるものはない。
 赤い艶もまた消えた。

 大地の黒い画が消え、完全な光の絵だけが残される。

 小さな像もまた降り注ぐ光の中に立ち尽くしていた。
 張り付いた色が斑にその姿を染め上げる。

 静止した空気の中には光の道さえも見えていた。

 色を受け止めない影の像が見上げる。
 灰色の神は何も言わぬまま、無を見つめるだけだ。
 その先は闇に包まれている。

「神の教えもまた人が創ったもの。書かれなかったものの存在を誰が否定できる?」

 高きを見た紅玉の瞳が始めて光を放つ。

「―だから、全てはその手の中にもあるはず。」

 言葉とともに見下ろした瞳はその光を受け止め、そして閉ざされた。

 赤い瞳が闇に消える。
 そしてまた現れた。
 たった一度の瞬き。

 止まっていた空気が流れ出した。

 幼き唇が笑みを形作る。
 人形が生命を取り戻す。
 それは天使のような微笑み。
 罪を知ってもなお無垢な光を失わないままに。

 幼子は透明な笑みを浮かべて。

 その姿は光の中に消え去る。
 永遠の中に飛び立つかのように。
 ――だが、大地に確かに足音を残して。

 光に造られた神官たちは何も変わらぬままそこに留まる。
 白き衣をまとう少女と離れて。

 やがてその足音さえも闇の向こうに消え去った。
 影色の姿はもう一度天を見上げる。

 硝子の向こうには崩れた円を描く月。
 その光に星々は己を隠す。
 輝きゆえに孤独に、月は光を映し続ける。

 灰色の像は何も答えない。
 生まれたその時から、忘却の彼方に消えるまで。

 信じたが為に決別した神に、最後の別れを告げて影もまた闇に消えた。

 そして、その世界からは再び全てが失われた。


                  〈It is not end. Two things meet again…〉




〈ちょっぴり隠し気味に、あとがきのたぐいのおまけ〉
 …はい、新作短編の"Redeem selves"は如何でしたか?実は久しっぶりの出番に作品の雰囲気をぶち壊すほどの勢いではしゃぎまくってるいづみです♪―いや、実際は夏休み中とついでにそれ以降もB.L.の旧作リメイクやら長編新作やらでしゃれにならないほどの大忙しだったんですが(疲)。まあこれはどーせ余談に過ぎないので省略。
 今回もNF(京大祭)用の原稿です。すなわち最大10P。相も変わらずのだらだら長編派なんで話が長くなるいづみには試練ですねもう(汗)。とはいえ今回は珍しく短い話ができたので問題なかったんですが。だからいつもとは本文の構成を大幅に変えて段組みなし!うわぁ何て贅沢っ!(驚)…むしろ最大の問題は似合わない「どシリアス」なんかに手を出してしまったことでしょうか。だからそれは私のキャラじゃないっちゅーねん!(つまりこれは「いづみ」じゃなくて「泉」だと思うが一応B.L.はいづみ名義の作品だし…そう実はこの小話の舞台もあの世界だったりしてるけどまあどうでもいいや)しかも外部用の冊子にふさわしいものなのか?いづみとして書くのだったらもっとライトに仕上げなくちゃいけないんじゃないのか?といった疑問は尽きないのですが。
 …どうせ冊子にも載せてないこんなとこを見る人なんかそうそういないんだけどさ。ってゆーかそういう人は他の作品もきっと見ているだろうから問題ないんだけどさぁ。じゃあ、つまりはここで何を訴えても結局ムダってことか?(萎)
 やる気が失せてきたので無理やり終了(強制)。ちょっとだけ内容に関わる話もしておこう。終わりの一言にあるように、この物語はこれで終わるものというわけではありません。いつかB.L.本編のどこかでこの続きが描かれるはずです…多分。その時には少女と女性が誰だったのかも明かされるでしょう。そう、この二人は決して男性ではありません。色々と期待している人にはすいませんがそーいうことなんで。まあ「彼」とかあるいはひょっとして「あのお方」についてはまたどこかで書くことも…あるのかなあ(疑)。
 ま、裏めいた話はこの辺で。あまり語り過ぎない方が楽しみを残せるし、ってゆーかこのままだと「本編よりおまけの方が密度が濃い」とかいうイヤンな事態を招きかねないので。(え)
 それではさようなら。また来年度にでもお会いしましょう☆


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