Black Light-2. -appearance-

いづみ

chapter: 1-1, 1-2, 1-3

第一章 Prey.〈前〉


―「彼」は飢えていた。

 傷を負った右脚が火のように熱い。
 仲間はいつの間にか消えていた。
 恐らくはあの時…彼にとってはいつかなど明確には分からなかったが、それでも過去にあるとは言えた時。
 舌を出して、荒い呼吸をする。
 記憶にあったのは奇妙な声と輝き。
 ある者は脚をとられて逃げ場をなくした。ある者は銀色の刃に命を落とした。彼らの最後の叫びが、まだ耳に残っていた。
 顔を上げる。
 天には月、木々の切れ間から見えたのは細い月と幾つかの光輝。
 夜空は断片的に闇に覆われていた。梢が光の妨げとなった。
 黄金の牙が見えなくなる。
 霞んだ視界には月さえも形を保てなかった。
 いや、もともとそれが見えていたのかも定かではなかった。
 先の見えない大地に視線を落とす。
 何処に行くかなどの当てなど元からなかった。
 住処を離れた今、己の居るべき場所さえも分からなかった。
 重い足を引きずり、彷徨う。
 もはや抗う力も残されてはいなかった。
 このまま朽ちて、この物言わぬ大地へと還るしかなかった。
 ―彼は空を見上げ、咆えた。

 不意に何かがよぎった。
 芳しき香り、間違えることなどなきそれ。
 鼻を動かす。
 飢えと傷が体の力を奪っていたが、まだそれを感じ取ることはできた。
 ここからそれほど遠くはない。風のほとんど吹かない夜、漂ってきた方向もおぼろげに分かった。
 香り濃き方角に脚を向ける。襲い来る断続的な痛みに耐えながら。
 麻痺していた脳が働きを取り戻す。
 獲物。それも、きっと手負いの。
 今の自分の状態や相手の力量まで考えることはできなかった。飢えと苦痛に縛られた心は何も思わない。彼はただ、己の内の獣の本能に従って脚を進めただけだった。
 息を殺す。静かに歩み寄りながらも、四肢に力を溜め瞬時に行動できるようにする。
 仲間のいない状態での狩りなど初めてだった。だが、今は亡き者を嘆いても仕方がない。
 銀の瞳が光を弾いて輝いた。

 異常に気づいた。
 この強い香りの中で、彼の鋭い耳には何の音も捉えられなかった。
 相手の動きが分からない―いや、動いていないのか?
 息を殺しているのか、あるいはその息自体がないのか。その判別すらつかなかった。
 …どちらにせよもはや関係はない。
 張り詰めきった意識をそれに定める。

 濃厚な香りは狂おしいほどに高まった。
 もう獲物は目の前だ。
 この邪魔な低木の向こうにあれがあると、分かる。
 彼の胸が狂喜に高鳴る。
 色濃き香りと完全な静寂、それが意味するのはただ一つ。
 その脚が力を受け、たわむ。
 躍動。
 彼は渇望した獲物へとその牙を向けた。

 ―その場に彼が見たものは。
 闇に鈍く輝いた存在だった。


「…さあ、命が惜しければ有り金全部出すんだな。」
 古典的な台詞と共に、目の前には十人ほどの盗賊が立っていた。

 夏の昼下がりには太陽が大地を焼き尽くす。
 それでも木々の影に覆われれば、まだすごしやすいと言えた。
 周囲には森。張り出した木の作る影が、街道の両端を少しだけ涼しく変えている。
 そしてそんな街道に、珍しいことに複数の影が佇んでいた。
 一方は森から出てきたばかり、地の利を生かしたいのかそれともやはり暑い所は避けたかったのかは不明だが木陰に入ったままの集団。
 そしてもう一方は、道の片側に寄るようにしてやっぱりその日差しを避けている三人組。ただし何故か一人だけ、道の中央寄りにいるために体の半分以上が日なたに出ている。
「相変わらず芸のない台詞ね。たまには変わったことの一つも言えないのかしら。例えば悪役らしく自己紹介でもするとか。」
 三人組の中で一番森に近い側に立った者が一言呟いた。
 その背は高く、身にまとう古びたマントに覆われた体格もかなりのものと思われた。だがその上にあるのは飾り布を額に巻いた女性の顔だ。赤みの強い唇から放たれた言葉も、高い響きを持つ。
 そして彼女は頭の上に突き出た二つの猫の耳を少し動かした。
「あの、この場合それは関係ないのでは…?」
 その横からなだめるように、そしてちょっとだけたしなめるような響きも添えて声をかけたのは、まだ顔立ちに幼さを残した少女だった。
 ベージュ色のケープとロングスカートは旅装なのだろう。手入れがいいのか汚れはあまりない。その下から伸びた手に握られるのは、一本の長杖(ロッド)。先端には翼持つ女性の像が彫り込まれている。
 赤みを帯びた黒い瞳が戸惑いの色を見せていた。
「…二人とも、そんなことを言ってる場合じゃないと思いますが…。」
 そんな二人に向かってもう一つの声がためらいがちに飛んできた。
 半ば日なたに追いやられた、長身細身の青年だ。こんな真夏に帽子も被らないまま長い黒髪を下ろしている。しかもよりにもよって着ている物は黒のロングコートだ。ところが本人は汗一つかいていない。…さすがに顔にはかすかな不快感らしきものも見せてはいるが。
 三人組唯一の男性は、そのどこか中性的な雰囲気のある顔に呆れたような表情を浮かべていた。

「…てめえら、俺たちを馬鹿にしてるのか?」
 怒りに満ちた、震えた声が聞こえた。
 そこでようやく二人の女性は我に返ってその声の主を見た。
 だが、さすがに少女は警戒の色を露わにしたが、女性の方は相変わらずどこか気の抜けた表情を変えなかった。
「してるわよ。あんたらみたいな屑。」
 一言。その場の空気が凍りつく。
 盗賊の一団は揃って武器を抜き放った。ほぼ全員が額に青筋を立てて得物を構える。
 少女と青年もあまりの事態に身構えた。それぞれ杖と片手剣をかざす。ただその目線は非難するかのように女性に向けられていた。
 肝心の女性は意地の悪い笑みを見せているだけだった。
「―金だけじゃ許さねえ、ぶっ殺してやるよ!」
「やれるもんならね。ほら、えらく遅いけど、さっさとしたらどうなの?」
 逆上した盗賊に、更なる挑発の言葉をかける。
 そして女性は拳を打ち鳴らした。くすんだ銀色に光る手甲が金属音を立てる。
 それを合図に、盗賊たちは一斉に襲いかかった。

 …時間にして十分もない。
 そこには盗賊の約半数が横たわっていた。どうやら気絶させられたらしく、時折うめくが起き上がる気配はない。
 しかし三人組はほとんど傷を負っていなかった。せいぜい服がわずかに裂けたり、返り血の飛沫を受けたりといった程度だ。
「さ、早くやってみなさいよ。」
 蹴り上げた足を踊るように下ろして女性が声をかける。楕円の瞳は、真っ直ぐに盗賊の頭らしき人物を見つめていた。
「ぐ…畜生が!」
 最初に三人組に声をかけたその男は、青ざめながらも毒づいた。
 だがどうしようもないのは明らかだった。
 やたらと素早い身のこなしで的確に鉄拳や蹴りを叩き込んでくる口の悪い女。腕はそこそこのはずなのにどうしてか傷一つ負っていない優男。そしてそんな二人に守られながら魔法を容赦なく放ってくる小娘。
 手練れらしい冒険者に声をかけた自分の不幸を呪いながら、男は辺りを見回した。
 幸い残った仲間はまだ深手を負っていない。
 じりじりと後ずさりながらタイミングを計り、大声で叫んだ。
「逃げるぞ、急げ!」
「あ、待ちなさいよ!」
 言うが早いか男はすぐ脇の森に跳び込んだ。それに合わせ残りの盗賊たちも散り散りになって森の中に駆け出していく。
 女性は適当に追いかけようとしたがあきらめて足を止めた。
 残されたのは気絶したままの、見捨てられた盗賊の一部だけだ。
「…足の速いヤツラね。」
 そう言って、女性は頭を掻いた。
 後方では既に青年が盗賊の体を縛るためのロープを取り出している。少女もそれを手伝おうとしていた。
「あ、ご苦労さん。」
 振り返った女性は軽く右手を上げて二人に声をかけた。
「…まったく、どういうつもりなんですか。」
 手近な相手にロープを力強く結んで、ため息混じりに青年が答える。それに対しては、女性は多少照れ臭そうな笑いを浮かべてみせた。
「いや、最近体がなまってたから、つい。」
 答えて大きく伸びをする。それから手甲を外し、作業に加わった。ただしロープ結びではなくて、横たわったままの盗賊を縛りやすいように近場まで引きずってくる方だ。
「気をつけて下さいね、怪我をしてからじゃ遅いんですから。」
 心配と困惑の混じった瞳で少女が言った。ケープの下に隠れたその胸には、癒し手たる神官の位階を示す金色のプレートが見える。ただそこに刻まれた装飾は極めて簡素なものだった。
「大丈夫よ、あんな雑魚に遅れを取るわけないじゃない。」
 女性は軽く答えたが、少女がむっとした顔を見せたのでさすがにすまなさそうな表情になった。
「…悪かったわよ、今後はもう少し用心するわ。」
 やれやれと言わんばかりに首を振る。そして最後の一人の首根っこを掴み、引っ張った。

 女性の名はミーア・ウィンドラス。好奇心と契約の下に歩く旅の民。  青年の名はフォン・ナシィ。呪われた運命の中に仇を追う異能者。
 三人の冒険者(アドベンチャラー)は忌まわしき魔剣に関わることで出会い、その魔剣を追って旅を続けていた。

「さ、いつまでも寝てないで起きなさい!」
 ミーアが気絶したままの盗賊の一人を容赦なく平手で打った。
 痛々しい音が響いて、その男は顔をしかめて目覚めた。
「う…お、おい、これは何だよ!」
 片頬を赤くして男が叫ぶ。
「見れば分かるでしょ。あんたらを村まで護送するの。怪我したくなかったら大人しく歩きなさい。」
 脅しを込めて、男の目をじっと睨みつけてミーアは言った。村までこの六人もの盗賊たちを連行しなくてはならない。あと数時で着くとは思うが、余計な手間をかけたくはなかった。
「…分かったよ。」
 その言葉に男は一言答えると、本当に大人しく立ち上がった。
 これには命じたミーアの方が驚きを見せた。
「えらく聞き分けがいいわね、まあそれに越したことはないけど…。」
 多少の不審を感じてロープの絞まりを確認する。だが間違いなく解けそうになかったし、男の手にも刃物の類は隠されていなかった。
 問題がないことが分かったところで、ミーアは次の男を起こしにかかった。
 同時にナシィもロープの一端を握ってその姿を見ていた。
 その眼には多少の険しさがある。
 …彼らが自分の追う相手かは分からない。さっきの男たちの中に見覚えのある顔はなかったから違うとも思えるが、あれが全てとも限らない。
 早く、手がかりを。
 何かを追い求めるその目はいつしか彼らさえも見ていなかった。
「ウニート村まで、大丈夫ですか?」
 不意にかけられた声にナシィは振り向いた。
 すぐ後ろで、セインが心配そうな顔をしていた。
 ただ、彼女の内でのそれは、盗賊たちに対する不安ではなくナシィの身を案じている方が大きかった。
「ええ。ミーアさんもいますし、危険はないと思いますよ。」
 穏やかな表情でナシィが答える。作ったわけではなくあくまでその表情は自然に出てきたものだ。
 だがそれを分かっていても、セインは少しだけ胸の内の心配を消せずにいた。
 ―以前に見た、あの張り詰めた横顔が記憶に刻まれていたから。
「さてと、じゃあ行こうか。」
 そこに盗賊たちを全員起こしたミーアが戻ってきた。思ったより早いのは、恐らく彼らが皆聞き分けよくミーアの言葉に従ったからだろう。
「あ、はい。」
「ナシィ、あんたは後ろに回って見張りをお願い。あたしがこれを引っ張るから。セインは脇についてて。」
 三人の中では冒険者として一番ベテランなのはミーアだった。反論する内容もない。指示に従って二人はそれぞれの持ち場に移動した。
「じゃ出発!」
 景気づけにか明るい声でそう言って、先頭のミーアは歩き出した。
 それに合わせてセインも、そしてナシィもゆっくりとした歩調で足を進めた。

 ライセラヴィの神官が退治した盗賊から押収した魔剣。それは使い手を蝕みその身を魔物へと堕とす、恐るべき力を持ったものだった。
 その魔剣は現在神殿で確保されている。だが、その入手経路を追うために、不自然に勢力を増した盗賊の残党を彼らは追跡していた。
 目指すはコーの村の隣、ウニートの村。その近辺に彼らのアジトがあるという。既にその場所に関しての情報もある程度は掴んでいる。
 目的地まで残すところあとわずかとなった道を、三人は進んでいたのだった。


「見えてきたわね。」
 声をかけるというよりは何気なく口にしたといった口調で、ミーアは呟いた。
 眼前では道を囲んでいた森が右手側だけとはいえようやく切れようとしている。言葉の通り、その先には村の領域を示す木の柵が並んでいた。
 付近に広がるのは村のものらしい畑。一年中安定した収穫を得るために様々な作物が植えられている。
 今も農作業を続ける姿があちこちにあった。そのうちの一人が三人組と盗賊に気づいて驚いたような仕草を見せる。
 ミーアは彼らを安心させるべく空いた片手を振ってみせた。
 だが、相手はそのまま駆け出すと他の村人の元へと向かった。
 …冒険者を見慣れてないわけでもないと思うけど。
 そう思って首を傾げたもののどうしようもないので、ミーアは再びロープを引っ張って歩き出した。
 それを見ていたセインがミーアの元に歩み寄る。気づいたミーアが顔を少しそちらに向けた。
「やはり、村の方々は不審に思ったんでしょうか。」
「そうね…でも、だからといってどうしようもないでしょ。どうせ自警団にこいつらを引き渡さなきゃいけないんだし。」
 再び前を向いてミーアは歩き続ける。
 幸い盗賊らの抵抗が少ない分、疲労はほとんどなかった。引きずる必要もなく素直に歩調を合わせてくれるのはありがたいが、その素直さゆえにかえって不安になるのは冒険者の因果というものだろうか。
 辺りを見回すと、やはり同じように驚きを見せる村人らしき姿があった。近くの者に声をかけるだけではなく、中には村に向けて駆け出す者もいる。
「あの…。」
 声をかけようとしたセインに、ミーアは口元で指を一本立てるジェスチャーを見せた。
 そのまま耳を澄ます。
「……また………冒険者…」「…迷惑……前も………」「……黙って…」「……早く……準備……」
 立てた耳の動きが止まった。
「さすがに何を言ってるかまでは無理か。」
 手を下ろしてそう呟く。
 全体的に声をひそめた会話だ。断片的に聞き取れても内容までは理解できない。
 ただ、言葉に混じる不穏な響きが気になった。
 村人にしてみれば、盗賊が村の中に入るということそれだけで不安を抱くのも当然だろう。例え自警団の詰所に入れられると分かっていても安心のできるものではあるまい。
 それにしても、警戒のし過ぎにも思えるのだが。
「そんなに胡散臭いのかね。」
 また呟き、ミーアはフードを被った。特徴的な二つの耳が完全に隠れる。
 村人の言葉も聞こえなくなる。
「そんな、気にすることはないと思いますよ。」
 見上げているセインと目が合った。
 明るい微笑み、だがそれは意識して作ったものだというのがよく見ると分かる。
 自分が気落ちしているのだとでも思ったのだろうか。
 ミーアは苦笑を返した。
 微笑みかけるセインの、そのけなげな努力を励ましたいがために。

 一方、一番後ろにいたナシィも同様のことを考えていた。
 彼も村人の様子には気づいていたものの、最初のうちは特に気に留めてはいなかった。
 意識したのはミーアが耳を澄ました時からだ。同じく彼らの声を聞こうとしたがさすがにその言葉を聞き取ることはできなかった。
 ただ、村人たちが自分らを見つめる際の態度に、どこか不安げなものが混じっているのは感じ取ることができた。
 彼らが盗賊を村の中に入れたくないのも分かる。だが、村の治安を脅かすであろう盗賊が捕らえられたことに対する安心などがあまり見られなかったのが気がかりだった。
 あるいは。まだ自分の知らない何かが隠されているのだろうか。
 ナシィは無意識の癖で、耳を覆う髪を軽く押さえていた。
 そして前を歩く盗賊たちの姿を見る。
 沈黙を守り、引かれるままに歩くその姿は珍しいを通り越して不安を覚えるようなものだった。以前に自分が盗賊を連行した時には、こちらが一人だったこともあってか途中で反撃を仕掛けさえもしてきた。それ以外にも、八つ当たりだろう罵りの声が飛んできた。わざとらしく足を止めて歩みを遅くさせられたこともあった。
 彼らにはそれがない。
 自警団に引き渡された盗賊の行く末は、ほとんどが僻地での強制労働や片腕を潰しての追放などだ。いずれにせよ希望のあるものではない。
 だが彼らの表情には不安がなかった。口の端に薄笑いを浮かべている者さえいる。その平然とした表情は、全てを受け入れているからだとでもいうのだろうか?
 確かにここには盗賊の全てが確保されているわけではない。あるいは、仲間に救出されることを確信しているのかもしれない。
 不安は感じる。だが今はそれよりも先にやるべきことがある。
 余計なものを追い払うかのように、ナシィは一度首を左右に振ると再び前を見て歩き出した。
 村の入り口は目の前だった。


 自警団の詰所はその村の入り口の近くにあった。
 幸いにも最初に尋ねた村人が親切に案内してくれたおかげで、三人は迷うことなくたどり着いた。
 石組みで窓の小さな建物。内部に牢を持ち、また緊急時には砦としての働きをするためにそれほど大きくはないが堅固に造られている。
 音を通さない建物は静かに佇んでいるかのように見えた。
 セインが入り口の戸を叩く。
 くぐもった返事らしきものが聞こえて更に少し待って、ようやくその扉が開かれた。
 顔を見せた男性にセインはお辞儀をして話しかけた。
「すみません、村の近くで盗賊を確保したのですが。」
 二十代後半と思われるその男性は、順にセインとその後ろに立つミーア、縛られた盗賊、ナシィをゆっくりと眺めてから、扉を開け放った。
「ああ、ご苦労さん。少し待っててくれ。」
 そう言ってミーアの手からロープの端を勝手に取ると、無言のまま引っ張って歩き出した。つながれた盗賊らも順に建物の中に入っていく。
 最後尾の盗賊の後ろ姿が少し小さくなったところで、通路の脇の扉が一つ開いた。
 別の男性が早足にやってくる。その手には小さな麻袋が握られていた。
「ありがとうございました。これが規定の報酬です。」
 セインが受け取る。少し軽く感じた。中身を確認したが、世間の一般的相場と比べてやや少ないのは確かだった。
「確かに受け取りました。」
「はい。今後もお気をつけて旅を続けて下さい。それでは。」
 淡々とした簡素な挨拶。それだけ言うと、すぐさまセインの目の前で扉は閉ざされた。
 足元にうっすらと土埃が立つ。
 後には立ち尽くす三人だけが残された。

「…何あれ。」
 ミーアは一言呟いた。
 一拍の間の後、堰を切ったように言葉が流れ出す。
「何なのよあの態度!仮にも自警団なら、仕事を手伝ってやった冒険者にあそこまで失礼な態度を見せなくてもいいんじゃないの?気の荒い冒険者に喧嘩売られても知らないわよ。」
「あ、あの。きっと何か忙しかったんですよ!だから仕方ないんじゃないですか?」
 最後の一言に不穏な空気を感じ取ったセインが、慌てて振り返ってミーアに話しかけた。
「忙しいったってあんなそっけない態度を取ることはないでしょ!あー、だから自警団って好かないのよ。そんな組織に頼らなきゃいけないなんて不便なことこの上ないわ。」
 乱暴にフードを取ってなおも吠えるミーア。
 その意見に対してはうなづける部分もないわけではなかったが、さすがに状況を考えてナシィはセインの側に回った。
「そんなこと言ったって、誰もが自分の身を自力で守れるわけじゃないんですから。自警団が無かったら村は成り立ちませんよ。」
 自分をなだめようとする二人に囲まれて、ミーアもさすがに反論する気をなくしてそっぽを向いた。
「…分かってるわよ、そんなこと。」
 所詮は単なる八つ当たり。冷静に説得されては、どうしようもない。気恥ずかしさもあってミーアはフードを被り直し黙り込んだ。
 唐突にセインが手を打つ。
「じゃ、この件はこれで片づいたということにして、まずは宿を取りに行きましょう。」
 空を見ればすっかり赤くなっていた。夕暮れ、そろそろ宿を決めて夕食を取りたいところだ。
 セインは自ら先頭に立って歩き出した。
 その後ろにミーアが続き、ナシィは最後尾に回った。
「…ったく、あんな狭い所には頼まれても入りたくないけどね。」
「ミーアさん!」
 後ろを向いて呟いたミーアにナシィが言葉を返す。
 ミーアは舌を出すと、やっと完全に前を向いて歩き出した。
 それを見てため息を一つついて、それからようやくナシィも後をついていった。
 最後に一度だけ振り返る。
 小ぢんまりとした建物。さっき見た様子では、詰めている人数もさして多くはないだろう。
 盗賊が見せていた薄笑いが脳裏をよぎる。…彼らの見せていた表情の真意は何だったのか。
 自警団には注意を呼びかけたかったが、今となってはもう遅い。
 ならばせめて、今夜ぐらいは自分も用心しておこう。
 そう決心してナシィも赤く色づいた建物に別れを告げた。


 ウニート村の規模は大きくはない。森に囲まれた村の中でも、中心となる街道を離れた場所にあるためにあまり発展していないようだった。
 そんな村には旅人を泊める宿も少ない。ましてや冒険者の仕事を斡旋してくれるような専門の宿など更に少ない。
 だから道行く村人に尋ねて三人が到着したのは、この村唯一の冒険者向けの宿だった。
 それは村の中心近く、大通りに面した、商売をするならば一等地の場所に静かに佇んでいた。
 古びてはいるが見た目にどこか安心感を抱かせるような建物だった。入り口は一つ。『宿木(ヤドリギ)亭』と印された木製の扉を押し開けると、中からは陽気な声が聞こえてきた。
「ん、いらっしゃい。旅のもんか?」
 カウンターを離れ給仕の仕事をしている、店主(マスター)らしい男性が振り返った。年の頃は五十前後だろうか。
「ええ。しばらく部屋を借りたいんだけど。」
 村の中では被ったままだったフードを下ろして、ミーアが話しかける。
 店主は一度は驚いた顔をしたものの、すぐに愛想の良い笑顔を見せて答えた。
「そうか。なら、すぐに案内させるよ。―おい、部屋の方の案内を頼む!」
 後半は店の奥に向けてだった。すぐに一人の若者が駆けてくる。エプロンの裾に手を拭ったらしい濡れた跡があった。そしてその手には鍵の束が握られている。
「こいつについていってくれ。一部屋40G(ガルド)で食事は別料金だ。」
 店主によく似た若者は黙ったまま一礼すると、すぐに歩き出した。
 三人もその後から部屋のある二階に向かった。

 部屋は女性用に二人部屋、ナシィは個室を選ぶことになった。
 早速それぞれの荷物を下ろして装備も簡単に外し、食事のために階下へ向かう。
 合流したところでゆとりのある丸テーブルを囲んで三人は座った。
 店主に食事を一通り頼んで、ようやく一息つく。
「…さてと。とりあえずお疲れ様、かな。」
 机に両肘をついて組んだ手に顎を乗せて、ミーアがほっと息を吐いた。
 マントは脱いで皮鎧の大半も外している。全身を包む黒いタイツの上には腰布と胸鎧しか身に着けていない。
「そうですね。ようやくウニート村まで来れましたし。」
 椅子にきちんと腰掛けたセインがうなづく。
 姿勢の良さは育ちなのだろう。こちらもケープなどは外し、白い簡素な服だけをまとっている。
「ですが、まだこれからですよ。まずはこの辺りに詳しい人に話を聞かないと。」
 うっかり着けてきたままだった手袋を外しながらナシィが言った。
 彼もロングコートを脱いで楽な服装になっている。長い髪も邪魔にならないよう、ゆるやかにではあるが後ろにまとめられていた。
 そして辺りを見回した。
 点在する灯りに照らされた店内には、かなりの客が詰めていた。だがほとんどは夕食や軽く飲みに来た村の人間だった。
 案内された時に二階の部屋はほとんど使われていないことが分かった。現在ここに宿泊している冒険者は多くて数人といったところだろう。
 実際に店内の様子を見ても、仕事帰りといった風情の男性客ばかりだ。辛うじてカウンターの方に同業者らしいローブ姿の客が一人いる以外は、それぞれ三々五々に集まって陽気に談笑しながら食事を取ったり軽く酒を飲んだりしている。
「そうね。まあ、お仲間はほとんどいないみたいだし…適当に声をかけてみるか。」
 ミーアはそう答えると、机についていた手を下ろした。
 ちょうどそこに水の入ったグラスが並べられる。
「じゃ、今はまだ仕事前だから水で、乾杯。」
「乾杯。」
 続けられた二人の声はきれいに揃っていた。
 澄んだ音と共に離されたグラスはそれぞれのタイミングで机に戻される。
「まずは食事を取って、それから…店主の様子を見て話を聞くのがいいでしょ。」
 あっさりとミーアは言い、二人もうなづいた。

 机の上に幾つもの空き皿が重ねられたのはそのしばらく後になってだった。
 ここ数日は急ぎ足の旅だったので、ゆっくり休息を取ることもなかった。大抵は日が暮れる頃に村にたどり着き、宿で早めに休んで夜明けの前後には村を発つという半ば強行軍での移動を続けていたのだ。
 それも今日ようやく目的地に着いた。というわけで、三人は久しぶりにゆったりと食事を取ることができたのだった。
 食後のお茶を一杯飲んだところでミーアが店主を呼び止めた。
「店主、ちょっといいかしら?」
 もちろん、相手が食事を頼まれたりなどしていないことを確認した上での行動だ。
「何か用かい?」
 カウンターの中から店主が歩み寄ってくる。
 ミーアは愛想の良さげな表情を作って話しかけた。
「この村の周りのことについて聞きたいんだけど。」
 すると店主は困ったような表情を見せた。
「周りのことってもなあ…それなら自分よりここの連中に聞いた方が早いと思うよ。」
 のんびりと周囲の客を見回す。
 作った表情に小さく亀裂が走る。
「そう?じゃあ、村の周りに魔物やら盗賊やらが出るとかそういった話はないの?」
「ああ…あまり聞かないがなあ。」
 店主は曖昧に答える。
 ミーアはそれでも表情と声色だけは変えないまま、会話を続けた。
「そっか、ここの村って割と安全なんだ。」
「ああ、あんたらには悪いが、冒険者が必要になるようなこともそんなにないしなあ。」
「ふーん…そっか。」
 見ている二人ももうとっくに気がついている。
 内心でははらはらしながら、続く会話を見守っていた。
「まあ皆に聞いてみればいいさ。面白い話なんかあまり聞かないけれどね。」
「そうね、せっかく勧められてるんだしそうしてみるか。」
「何か変わったことでもあったらぜひ聞かせてくれよ、楽しみにしているから。」
「ええ、ぜひそうさせてもらうわ。」
 にっこり。
「じゃあ、ゆっくりしていってくれよ。」
「もちろん。…あ、適当に軽い酒をボトル一本ちょうだい。」
「あいよ。」
 注文を受けると、店主は静かに戻っていった。
 再び三人だけになる。
「…ふぅ。」
「―ミーアさんっ、気持ちは分かりますが自棄酒だけはやめて下さいね!まだ仕事が終わってないんですから。」
 慌しく身を乗り出して言ったのはナシィだった。光の角度のせいかその顔色は微妙に青ざめているようにも見える。
「え、何言ってるのよ。」
 にこやかな表情のままミーアは答えた。
 一瞬の後、自分の表情が変わっていないことに気づいてようやく憮然とした顔になる。
「単に話を聞きに行く時の土産に使うだけよ。毎回一杯ずつ頼むわけにもいかないし。」
 そう言って再び机の上に頬杖をついた。
「でも、何か珍しいですね。あまり話を知らない店主の方も。」
 冷や汗がおさまったところでセインも口を挟んだ。
 ミーアは、横目で店主の後ろ姿を一瞬睨んだ後に答えを返した。
「まあ、ここは冒険者向けの宿って言っても、どちらかというと村の人の酒場としての要素が強いみたいだし。」
 言葉の通り店内の客の大半は村人だ。加えて、比較的高めの宿泊代とそれなりに抑えられた食事代や酒代がそのことを裏付けていた。
「仕方ないでしょ、冒険者があまりいらないような村なんだから。宿の店主はそういう仕事を全然しなくても…あ、思ったより早かったわね。」
 ミーアがついていた頬杖を外す。そこに赤ワインの入った透明なボトルが運ばれてきた。
 言われた金額を支払って受け取る。どうやら樽から移してきたものらしく、瓶にラベルはなかった。
 赤い液体が踊る。
「じゃ、行くわよ。」
 ボトル片手に立ち上がったミーアに合わせて、二人も席を立った。

「冒険者か、珍しいな!」
「盗賊?知らねえなあ。」
「魔物の類なんか生まれてこのかた見たことないぜ。」
「ここ最近の変わったこと?面白い話があったらこっちが聞きたいよ。何かないか?」
 ……。
「…あたしの金を返せ。」
「し、仕方ないですよ。そんなこともありますって。」
「このお金は、えっと、頭割りでいいですから。」
 三人がついさっきまで食事をしていた机には、その上に無作法に顎を乗せたミーアに、それをなだめにかかっているナシィとセインの姿があった。
 そして二割程度しか残っていない酒瓶が一つ。
 彼らの様子を見ての通り、有力な情報は全く得られなかったのだった。
「今日は厄日だ。」
 ミーアは目を閉じて呟いた。
 村の入り口では村人に変な目で見られ、自警団では冷たくあしらわれ、酒場では役に立たない店主に出くわしておまけに情報代を払っても何も手に入らなかった。
 はぁ、とため息を一つ。
「まあ、たまにそういう村もありますし…。」
 セインがフォローを入れる。
 それにはまたため息だけが返ってきて、やっぱりセインも苦しい笑いをするしかなかった。
 そこに、真面目な顔でナシィが言った。
「それにしても、少し妙ですね…。」
「妙、ですか?」
 やる気のなさげなミーアに代わってセインが受ける。
 ナシィは続けた。
「ええ。盗賊のアジトがこの近辺にあるのは間違いないはずです。それなのに村の方に被害の一つもないというのはおかしくありませんか?」
 さっきまでとは異なる、冷静な声だった。
「…まあね。まあ、ガセネタを掴まされたんなら別だけど、あの盗賊にそんな頭があったとも思えないし。」
 姿勢を戻してミーアも同意した。
 追いかけている盗賊たちのアジトの情報、それは前に魔剣を狙って神殿を強襲した盗賊の一人を捕まえて直接聞き出したものだった。
 かなりの脅しをかけたから嘘をついたとも思えない。それは、その場に一緒にいたナシィも同様に考えていた。
「じゃあ、村が隠しているとでもいうのですか?」
 自分の言葉を信じてもいないものの、念のためにといった様子でセインが問いかける。
「それで村に何のメリットがあるのよ。ヤツラは村に来る商人を狙うのよ、村にとっちゃ迷惑以外の何物でもないわ。」
 ミーアがあっさりと答える。
「ですよね…じゃあ、仕事場が離れているとか?」
「アジトから遠出して?村をわざわざ襲いに行く時ならまだしも、街道程度で遠出する盗賊団は普通いないわよ。」
「そうですよね…。」
「―でも、盗賊がこの辺りにいるのは確かなはずなんです。」
 再度放たれたナシィの一言に、皆黙り込んだ。
 少なくともそれは間違いない。だからこそ、この村に来て詳しい情報を集めようと思っていたのだ。
 だが予想外のところで手がかりの糸が途切れそうな気配を見せている。
 結局、見当もつかないまま三人は首を傾げていた。
 そこに扉の開く音が聞こえた。

「いらっしゃ…ああ、あんたか…。」
 店主の声が途中から沈んだ響きになる。
 それに気づいた三人は、何事かと入り口の方を見やった。
「…席は空いてるみたいだな。」
 くぐもった声。
 再び閉ざされた扉の内側に立っていたのは、一人の老人だった。
 小柄な体に、着ている服装もごく普通のものだ。ゆっくりと店の中に入ってくるその行動におかしな点があるわけでもない。
 だが、そのまとう雰囲気が只ならぬものだった。―老人が入ってきた途端に店内の談笑がやんだのだから。
 ねめつけるような視線で店にいる村人を見回す。
 目が合った村人は、不自然に視線を逸らすかあるいは露骨に無視をした。
 三人は突然の異変に戸惑いながらもそれを観察していた。
 老人は苛立ったような、あきらめたような暗い表情でゆっくりと店内を見回している。
 対する村人は、彼を無視できずにいるにもかかわらず、視線が合うのを避けようとする。―まるで恐れてでもいるかのように。
 ナシィたちが顔を見合わせてお互い何かを言おうとした矢先に、その視線は彼らを向いた。
 まだ戸惑いながらも、避ける理由もないので真っ直ぐその視線を受け止める。
 沈んだ、冷め切った眼。
 互いに見合ったその後に視線を外したのは老人の方だった。
「…客か。邪魔したな。」
 低い声で呟くと、老人は踵を返した。
 歩み去ろうとするその姿に、セインは半ば慌てて立ち上がった。
「あ、あの!どうかしましたか?」
 とっさに出た言葉の愚かさに、赤面する。
 だが老人は振り返ることもなく、立ち止まって耳を傾けもせずに扉から外に出ていった。
 後には扉の閉まる虚ろな音だけが残された。

 重い静寂。
 それは、すぐに消え失せた。
 村人たちはそれぞれの席で、まるで今まで止めていた息を吐くかのように口を開いた。
 再び談笑が始まる。だがそれは、どこか乾いた響きがあった。
「…セイン、座ったら。」
 立ち尽くしたままのセインにミーアが呼びかけた。
 声を聞いてようやく我に返ったらしく、落ちるように席につく。
 三人は互いにそれぞれ視線を外していた。
 そこだけ切り取られたかのような静寂。
「どういう、ことでしょうか。」
 最初に顔を上げて言ったのはナシィだった。
 言葉につられ二人も姿勢を戻す。
「さあね…只事じゃなさそうだけど。」
 一言、ミーアは呟いた。答えというよりもそれは独り言に近い。わずかに眉をひそめて何かを考えているようだった。
「あの方、大丈夫なんでしょうか…。」
 心配げにセインが言う。
 ナシィもそれにはうなづいた。
「ええ。僕たちの目的とは関わらないかもしれませんが、放ってはおけないと思います。」
 自分がお人よしだということは分かっていても、あの沈んだ眼を気にしないではいられなかった。
 ミーアが顔を上げた。
「一つ、言えることがあるわ。」
「え?」
「この村には、『変わったこと』が十分あるみたいね。」
 細く鋭い眼で宿の中を見回す。
 そこには先ほどの沈黙を忘れたかのように陽気に会話を続ける村人の姿があった。だがその響きはどこか空々しい。
 残り少ないボトルを片手に、ミーアは立ち上がった。
「ミーアさん?」
「気になるんなら、聞いてみるのが一番でしょ。…来ないの?」
 その瞳は二人を見ている。
 ナシィとセインはうなづくと迷わず立ち上がった。

 近くの席の一つに歩み寄る。
「ねえ、ちょっといい?」
 ミーアが声をかけると、男たちは談笑を止めて一斉に振り返った。
「…またあんたか。今度は何だ?」
 不審げな視線を向けてくる男たちに、臆することなくミーアは言い放った。
「さっきの男について聞きたいんだけど。」
 その瞬間、男たちの間の空気が止まった。
 間を置いて中の一人が短く答える。
「…あれが、どうかしたのか。」
 口は重かった。
「どうかしてるわよ。本人は暗いし、あんたたちも皆黙り込むし。聞かせてもらえない?」
 男たちは互いに気まずそうに顔を見合わせた。
 そして、またさっきの男が口を開く。
「…ほっといてくれ。余所者のあんたらには関係ない。」
「関係なくはありません。」
 割り込んだのはセインだった。
 ミーアの後ろから前に出て、答えた男を見つめる。
「あの方は何か苦しみを受けているようでした。村の方がそれを癒せないのならば、せめて私だけでも手伝いたいのです。」
 先ほどの状況に対する非難でもあった。セインもまた、老人に対する村人の態度に嫌悪感を覚えていたのだ。
 そこに横から唐突に声がかけられた。
「あんた、そのなりは神官か。」
 突然の言葉に、戸惑いながらも答える。
「そうですが、それが何か?」
「だったらこんなとこにいないで、神殿で祈っててやればいいだろう。」
 見当外れの言いがかりめいた男の言葉に、セインはついに怒りを抑えるのをやめた。
「行動の伴わない祈りなど無意味です。それは、苦しみ救いを求める者を無視するに等しい罪です。」
 口調は冷静なまま半ば睨むように男を見つめる。
 男は一瞬うろたえたものの、逆に苛立ちを露わにして食ってかかった。
「あんたにゃ関係ないだろ!何も分かってない余所者のくせに!」
「だったら何があるのかを教えて下さい!それを知らなければ、何もできません。」
「くっ…。」
 言葉に詰まった男は、顔を紅潮させて黙り込んだ。
 周囲にもざわめきが広がっていく。別のテーブルの村人たちも、状況に気づき遠巻きに様子を見ていた。
 脇から別の声がかかる。
「そんなに言うなら教えてやるよ。」
「おい、だけど!」
「別にいいだろ、それぐらい。」
 それぞれ思うところがあるのか意見は割れていた。幾つもの声が重なり、交じり合って喧騒を生む。
 しばしの間諍いめいた会話が行われた末に答えが返ってきた。
 再び静寂を取り戻した部屋の中で、一言、呟くように。
「あそこはな…結婚を反対されてた娘さんが家出しちまったんだよ。」
 脇から答えたその男は逆に非難するかのような目でセインを見つめた。更に言葉を重ねる。
「で、あんたはどうするつもりなんだ。村を出てった娘を探しに行ってやるのか?娘にしちゃ迷惑以外の何物でもないぜ。」
「それは…。」
 セインもまた、一瞬言葉を失った。
 言い放った男が唇を歪めた。
「―だったら、せめて彼の胸の内を聞こうと思います。」
 静かな一言。
 そこに答えたのは、それまで会話を見守っていたナシィだった。
「聞く?あんな偏屈爺いが素直に本音を言うとでも思ってるのか?」
「そう見えるからといって何もしないよりはましだと思いますが。」
 厳しいナシィの言葉にその男も黙り込んだ。舌打ちをして睨みつける。
「…さっきから、ごちゃごちゃ理屈をこね回しやがって。」
 そこに、不機嫌さを溢れさせた大声が飛んできた。
「余所者のお前らには関係ないだろうが!ここから出てけ!」
 酒が入っている上に今の会話に苛立ったのか、ひどく興奮した男が立ち上がった。
 手にしていたグラスを床に叩きつける。破砕音が響き渡った。
 さすがに放っておけなくなった店主も駆け寄ってくる。
 だがそれより先に、男は手近にいたミーアの腕を力任せに掴んだ。
 冒険者の性かミーアもすかさず身構える。
 周りを囲んでいた村人の輪が、危険を感じてようやく外に広がろうとした。
 男が掴んだ手を引き寄せる。
 それに対抗して、ミーアが相手の腕を逆手に掴んだ瞬間。
「それくらいにしといたら?」
 不自然なまでに明るい声が、届いた。

 ミーア、そしてその側にいたナシィとセインは反射的に振り返った。
 そこにはいつの間に来ていたのか、ローブ姿の人物が立っていた。
 小柄な体。フードの下には笑みを浮かべた薄い唇がある。
 その場の誰もがあっけに取られて言葉を失っていた。
 だが同時に、ミーアだけは感じ取っていた。
 …コイツは只者じゃない。
 多少は興奮していたとはいえ、背後に近づく気配に普通なら気づかないわけがない。だがこの人物は全く気配を感じさせずに自分の背後に立っていた。
 その驚くべき事実に、背筋に冷たい汗が流れるのをミーアは感じた。
 相手の口元が薄く笑う。
「ま、落ち着きなよ。」
 ローブの裾から両手を出して、無抵抗を示すかのようにひらひらと振ってみせる。
 その仕草に毒気を抜かれたのか男はミーアの手を離した。そして床に唾を吐くと、足音荒くも宿を出ていった。
 辺りを囲んでいた男もそれぞれに散っていった。
 ナシィとセインもようやく緊張を解く。
 そうやって、ミーアを除いたその場の誰もが息を抜いたその時。

「望みは常に代償を要求する…覚悟はしなくちゃいけないよ。」

 幼い声は、静かになった店内に響き渡った。
 笑いめいた残響を残して。
 それを聞いた村人はギクリと一瞬動きを止め、また冒険者はその言葉の響きに何か異様な雰囲気を感じた。
「じゃ、ごちそうさま。」
 そんな中に不釣合いな明るい声で、ローブ姿の人物はそう言うとすぐに店から出ていった。
 後に残ったのは、再び黙った村人と、戸惑った三人の冒険者たち。そして奇妙な空気。
 夜を迎えた店の中で、ランプの炎だけが不規則な動きをやめずにいた。



第一章 Prey.〈中〉

 翌朝、彼らが聞いたのは予想外の言葉だった。
「あの盗賊たちか。…夕べのうちに逃げられたよ。」
 半開きの扉の向こうで男が気だるそうに答える。
 三人は顔色を変えた。
「逃げられたってどういうことよ!」
 食ってかかったミーアにも、男は疎ましげな目をしたまま答えた。
「逃げられたものは仕方ないだろう。今、調査中だ。」

「調査中って、内部に手引きした人間がいるに決まってるでしょ!宿直とかを調べればすぐ分かることじゃない!」
「だからそれを調査中なんだ。さ、調査の邪魔だから帰ってくれ。」 「邪魔って、ちょっと!」
 足を踏み出そうとしたその目の前で、再び自警団の扉は閉ざされた。
 昨日と同様にその場に立ち尽くす三人。足元にはうっすらと砂埃。
 突然に、鈍い音が響いた。
 そこにあったのは扉に打ちつけられたミーアの拳。もちろん手甲など嵌めていない。
「ミーアさん、落ち着いて下さい!」
「落ち着けるわけないでしょう!一体どういうことよ!」
 呼びかけたセインにも怒鳴ったが、彼女はその怒りをぶつけるべき相手ではないことにすぐ気づく。
「…悪かったわ。」
 すまなさそうにそう言って、ミーアは打ちつけた手を軽く振った。
 痺れがまだ残っていたがそんなことはもうどうでもよかった。
「とりあえず、一旦ここを離れましょう。…少し考えた方がよさそうです。」
 ナシィも声をかける。そっと辺りをうかがいながらの言葉だ。
 同様にミーアも周囲を見回すと、自分たちを遠巻きに見ている村人の姿があった。視線を合わせると慌ててその場から遠ざかっていく。
 苛立ち、舌打ちをした。
「…そうね。こんな所じゃ目立ってしょうがないわ。」
 そう言ってもう一度周囲の村人を睨みつけた。そして早足で歩き出す。
 三人は一度『宿木亭』に戻るべく、急ぎ足でその場を離れた。

 午前の宿屋には食事に来る客の姿もない。  『宿木亭』一階の食堂にはカウンターの内に立つ店主以外誰の姿もなかった。
 扉が勢いよく開かれる。
 店主は顔を上げたが、そこに現れた顔を見て再び仕事に戻った。
 窓からの光が照らす薄明るい店内。その中を、ミーアは黙って通り抜けていった。
 後に続くナシィ、セインも店主に会釈だけして急いでそれを追いかける。
 そして三人は階段を上り、その姿は見えなくなった。
 残った店主はかすかに眉をひそめたものの、何事もなかったかのようにそのままカウンターで作業を続けていた。


 昨夜、ローブ姿の人物が出ていった後。
 白けた空気が漂った店内からは、他の客もそれぞれ勘定を済ませて順に出ていった。
 人が減るにつれて店の中に閑散とした雰囲気が広がる。
 後には、席に戻ったもののどうしようもなくなった三人と、割れたグラスを片づける店主だけが残った。
 ちりとりを持って立ち上がった店主にミーアが声をかける。
「店主…。」
「何も知らん。何も話すつもりはない。」
 そっけない一言が返ってきただけだった。
 そう言われては言葉を続けることもできない。仕方なくミーアも黙り込んだ。
 カウンターから更に店の奥まで店主は戻ろうとする。その際に、一度だけ振り返った。
 背中を追いかけていた目が正面から合う。
 その瞳は警戒するかのようにじっと三人を見つめていた。
「あんたら…ここであまり騒ぎを起こさないでくれ。迷惑だ。」
 そう告げると、店主はそのまま店の奥に姿を消した。
 机に残った三人は何も言えず黙り込む。
 徒に空虚な時間が流れたところで、ミーアが立ち上がった。
「ここで座ってても仕方ないわ。部屋に行って、今後のことを相談しましょう。」
 不快感を押し潰すかのように、語調を強めての言葉。
「そう…ですね。」
 セインもうなづいて席を立つ。
 その中でナシィは一人だけまだ座ったまま何かを考え込んでいた。気づいたミーアが呼びかける。
「ナシィ?」
「…今、行きます。」
 そう答えるとナシィも立ち上がった。
 三人とも連れだって無言のまま二階に移動する。店内の灯りから遠ざかり、薄暗い階段へと向かう。
 途中でカウンターの近くを通り過ぎる際にナシィは一度立ち止まった。
 無人となったカウンターに一言告げる。
「ごちそうさまでした。」
 だが、奥からの返事はなかった。足音もない。
 ナシィはかすかに愁いの表情を見せると、二人を追って階段を上った。


 開け放した窓からは明るい光が室内に放たれている。
 ミーアとセインが泊まっている二人部屋にナシィも入って、再び三人がここに集っていた。
 備えつけの椅子にはナシィとセインが腰掛けている。ミーアはマントと靴を脱ぎ捨ててベッドの上であぐらをかいていた。
「…まずいわね。」
 そう言ってミーアはため息をついた。
 それには何も答えなかったが、二人も同様に考えていた。
 現在、村人との関係が行動を起こすのに都合が悪い状態であるのは間違いなかった。
 自警団にははっきりと拒絶されている。ここの店主からもやはり協力は得られないだろう。村人たちも昨日の話が回っていれば同じことだ。それを抜きにしても、余所者に対するあの黙秘があったのだからもともと印象が悪かったのかもしれない。
 これでは盗賊のアジトを探すのに力が借りられそうにはなかった。
「ええ…せめて、あの盗賊たちから話が聞ければまだよかったのですが。」
 セインも残念そうに言った。
 昨夜の段階で村人の印象が悪くなってしまったのだから、だったらあの盗賊たちから情報を集めようというのは昨夜の夕食後にここで相談して決めたことだった。
 彼らの顔触れには一人として見覚えがなかった事から、追っている盗賊の一味である可能性は低かった。だから捕らえた段階ではとりたてて尋問などは行わなかったのだ。だが村人の協力が得難くなってしまった以上は少しでも手がかりを得るために、自警団に引き渡した彼らから話を聞くしかなかった。
 その矢先に、逃亡したと聞かされる羽目になったのだ。
「…でも、本当に逃亡だったんですかね。」
 呟いたのはナシィだった。
「どうしてですか?」
「いえ。昨日、彼らの様子が気になったから一応夜の間は気を配っていたんです。だけど騒ぎがあったような感じはなかったので。」
 そう言って窓の外を見た。
 そこからは大通りが見渡せるだけで、自警団の詰所が見えるわけではない。
 まだ首を傾げているセインに対しナシィは自分の考えを説明した。
 昨日の盗賊の様子が神妙だったのは、やはり仲間に救出されることを確信していたのだろう。だから間違いなく今夜かその次の夜には襲撃があるはずだと思い、自警団に注意を喚起することもできなかったのでせめて用心はしておこうと警戒していたのだ。だが、結局昨夜のうちに騒ぎのあった気配はなかった。
「だから言ったでしょ、内部の手引きがあったに違いないって。」
 立てた尾を揺らしながら、苛立ちと気だるさのない交ぜになった表情でミーアが舌打ちする。
 彼女もやはり同様に思っていたらしく、昨夜は注意をしていたのだ。
「そうだったんですか…。」
 セインは自分一人だけ気づかずに休んでいた事を少し恥ずかしく思いつつも、過ぎたことは仕方ないと割り切った。
「でも、何故でしょうか?」
「脅されたか買収されたか。よくあるのはその辺ね。」
 手ぐしで髪を梳き、更には手持ち無沙汰なのか耳を軽く引っ張ったりしつつミーアが答える。
「そうなんですか…。」
 セインは小さくうなづくと、視線を落とした。
 三人ともが何を言うでもなく黙り込む。
 開け放した窓でカーテンだけが揺れ動く。まだ午前中だというのに、室内はどこか薄暗かった。
「―では、これからどうしますか?」
 沈黙を破ろうと、分かりきった言葉だったがナシィは口にした。
 それに反応してミーアも口を開く。
「アジトの探索は、自分たちだけじゃやはり厳しいわね。」
 この辺りの地理に明るくない自分たちでは、見当違いの所を探しているうちに相手に見つかってまた逃げられるのがおちだろう。聞いた情報を役立てるのは、付近の地理にある程度詳しい者でなくては無理そうだった。
「では、やはり村の方の協力を得るしかないですね。」
 困った顔を見せてのセインの意見には、あっさりとミーアの言葉が返ってきた。
「どうだか。この村、やっぱり胡散臭いし。」
 そう言って何を見るでもなく壁を眺めている。
 再び沈黙が訪れようとしていた。
 おもむろにナシィが立ち上がる。
「だからと言って何もしないでいるわけにはいきませんよ。」
 そう言って二人を順に見つめた。
 セインはまだ困った表情が消えないでいるものの、うなづきを返す。
 そしてミーアはあぐらを崩すと靴を手に取った。
「…よし。じゃ、昼食の後にでも出かけるとしますか。」
 食事までは多少の間があったが、時間としては妥当なところだろう。
 ベッドの上に腰掛けて靴を履くミーアにセインが問いかける。
「どこにですか?」
「とりあえず、自警団の方を調べに行くわ。あんなこと言われたけど、やっぱり自分でも調べてみたいし。」
 踵で地面を蹴って靴の履き具合を確認する。そこに続けてセインが言った。
「じゃあ、私は神殿の方に行ってきてもいいですか?」
 その胸元には簡素なプレートが輝く。
 それはライセラヴィの信徒の証。だがそこに記されているのは低位である四位の巫女の証だ。
 自ら捨てた高い位。今の彼女は、一般の信者とさして変わらない地位にあった。
「それなら構わないわよ。」
 何気なくそこまで言ってから、ミーアは思い出したかのように一人うなづいた。
「うん、せっかくだからそちらでも色々聞いてみて。ひょっとしたら何か分かるかもしれないし。」
 ライセラヴィの教えは嘘をつくことに否定的だ。ならば隠されている情報が得られるかもしれなかった。
 そんなミーアの考えの見当はついたが、それにはセインも納得した。むしろその言葉を聞いて自分も同じように思った。
「はい。では、そちらの調査の方もお願いします。」
 だからうなづき返して微笑む。
「じゃこれでとりあえずの方針は決まった、と。」
 肩の荷が少しは下りたかのように、ミーアは安堵の表情を見せた。
 そしてその眼がナシィの方に向く。
「え?」
 戸惑うナシィに向けて、ミーアは手を振った。
「じゃ、また正午に。」
「ええ、そうですね…。」
 そこまで言って、彼もようやく理解した。
「じゃ、また、正午に下の食堂で。それでは。」
 一息にそれだけ言うと、ナシィは素直に部屋から出ていった。
「…ナシィさん、どうしたんですか?」
 何も気づいていないらしいセインがミーアに問いかける。
 それに対しミーアは笑った後、肩をすくめてみせた。
「ま、あいつも紳士だってことよ。」
「?」
 女性だけの部屋の中で、ミーアは小さく口笛を吹いただけだった。


 予定通り昼食の後に宿を出てセインともすぐに別れて、ナシィとミーアは再び自警団の詰所に向かった。
 それは通りを抜けた先、村の入り口のすぐ近く、他の建物と隣接することもなく独立して建てられている。
 二人は少し離れた場所に立って遠くからそれを眺めていた。
 窓は風通しを良くするためにか全て開け放たれている。内で緩やかにはためくカーテンの向こうには、ぱっと見には人の姿はなかった。
 ナシィが振り返る。
「それじゃ、まずはもう一度話を聞いてみますね。」
「無駄だと思うけどね…あたしは向こうで待ってるから、適当に回り道して戻ってきてよ。」
 腕組みして立ち木にもたれていたミーアがため息交じりに返答した。顎で詰所の裏手の方向を示す。
 そして体を起こすと歩き去っていった。
 ナシィはミーアの姿が見えなくなるまで少し待ってから、詰所の入り口に向かった。
「すみません。」
 声をかけて扉を数回叩く。
 返事はない。
 もう一度繰り返し扉を叩くと、ようやく返事が聞こえた。
 扉が半分だけ開かれる。
「はいはい…ん。あんたは、確か…?」
 訝しげな目を向けてきたのは、朝に会った相手とは異なる見知らぬ男性だった。
 ナシィは軽く会釈をして話しかけた。
「昨日、盗賊を預けた冒険者の一人です。少しお聞きしたいことがあるのですが…。」
「あー、あいつらはここから逃げたって聞かなかったか?」
 やれやれといった調子で、空いた片手の掌を上に向けて男は答えた。
「ええ、それでその時のことについて伺いたく思いまして。」
 ナシィは丁寧な姿勢を崩さずに会話を続ける。
「それなら調査中だ。もう少し待っててくれ。」
「そうですか?…実は、彼らにちょっと物を掏られていた事が分かったんですよ。だから何とか追いかけたいんですが…。」
 適当にミーアと考えておいた出任せを口にする。
 男は疑わしげな目をナシィに向けつつも、とりあえずはうなづいてみせた。
「そうか、そりゃ災難だったな。」
「まあ、はい。それで、できれば早く取り返したいので、調査を手伝わせてはもらえないでしょうか。邪魔にはならないようにしますから。」
 流れるようにもっともらしい理由を口にする。
 だが、男は首を横に振った。
「そうは言ってもなあ…俺に言われても、どうしようもないぞ。」
「ならば、団長の方と直接相談できませんか?」
「いや、さすがにそれは…。」
 困った表情を見せる男に、ナシィは更に食い下がった。
「だめでしょうか?決してお時間は取らせませんから。」
 頭を下げて頼み込む。
 それでもなお、男は首を縦に振らなかった。
「悪いが、あきらめてくれ。こっちの方でその荷物も聞いてみておくから。」
 そう言ってすぐに奥に戻ろうとする。
 やはり取りつく島もないのだろうか。男は扉を引いた。
 だが最後にかけられたその投げやりな言葉に、ナシィはあることに気づいた。閉まりつつある扉を掴んで男を慌てて呼び止める。
「あ、ありがとうございます。じゃあ彼らがどこに逃げたかとかはもう見当がついているんですね。よかった。」
 『聞いてみておく』―荷物をあきらめろとではなく誰かに聞いてくれるというのならば、逃げた相手についてある程度の情報を掴んでいる可能性があった。単に適当にあしらおうとして出た言い回しかもしれないが、何も分かっていないのならばわざわざ『聞く』という言い方はしないだろう。
 半ばかまをかけたに近い。しかし、実際に男の顔色も変わった。ナシィの言葉を聞いた途端に警戒の色を露わにする。
「そんなことはまだ分からん。さ、仕事の邪魔だから帰ってくれ!」
 男は態度を急変させてナシィを睨みつけた。そして閉める途中で止められていた扉に再度手をかける。
「あ、待って下さい!」
 更に前に出て呼び止めようとしたナシィの眼前で、扉は勢いよく閉ざされた。思わず一歩後ずさる。
 重い扉は完全に閉められた。
「…ふう。」
 ナシィの口からため息が洩れた。
 ミーアにも言われたが、もともとうまくいくとは思っていなかった交渉だ。調査こそできなかったものの、向こうがある程度は盗賊についての情報を持っていることが分かっただけでも収穫だろう。
 閉ざされた扉を見つめる。
 またここに来ることになるだろうか。…次こそは、目の前で扉を閉められるようなことにならなければいいのだが。
 そんなことを考えてついナシィは佇んでいた。
 と、隣の窓で動く気配があった。
 何気なしにそちらを見やる。
「…あっ。」
 聞こえてきたのは驚きの声のようだった。
 窓から顔を出したのは、見知らぬ若者だ。詰所の中にいるということは自警団の一員だろうか。
 そのまま互いに目を合わせて、静止する。
 しばしの沈黙。
「…何か用ですか?」
 ナシィが和やかに問いかけると、ようやく我に返ったらしい若者が瞬きをした。
「あ、いや、その…。」
「レヴィス!何やってるんだ?」
 そこに窓の奥から呼びかけの声が飛んできた。声質から察するにさっきの男だろう。
「え、何でもないですよ。」
 そう答えた若者はもう一度だけナシィを見つめると、すぐに窓から離れた。
 後にははためくカーテンだけが残される。
「…何だろうな。」
 ナシィは首を傾げつつ、迂回のためにミーアが待つ場所とは正反対の方向に歩き出した。

 待ち合わせ場所は自警団の建物のちょうど裏手、少し離れて村を囲む塀のある場所だ。
 やはり夏の昼下がりの日差しはつらかったらしく、ミーアは日よけに被ったフードの端を両手で扇ぎながら待っていた。
「お待たせしました。」
 自警団の目を多少は避けるべく、村の内部を回ってナシィは戻ってきた。こちらは相変わらずの黒のロングコートだが汗一つかいていない。
「…いつ見ても暑苦しい格好ね。どうして耐えられるんだか。」
 ナシィを迎えたミーアは開口一番にこう言った。
 ナシィもそれには苦笑で返す。
「それが今の体質ですから。それに、暑くないわけじゃないんですよ。」
「便利な体質よね。でも、せめて黒コートはやめなさいよ。」
 ミーアの言葉に遠慮はなかった。苦笑を保ったままナシィは答える。
「これは…まあ、趣味なので。」
 最初にまとったのはたまたまそれがあったからだ。だが、今となってはこれ以外の服を着る気がしなくなった。これは自分なりの意志表明だと思っている。―全てを終えるまでの。
 ただあえて言うことでもなかったので、趣味の一言で片づけておいた。
「あんたの趣味って悪いんだかよく分からないけど…まあどうでもいいわ。で、どうだったの?」
 ミーアはその説明に一応は納得したらしく、一つうなづくと話を本来の方向に戻した。
 ナシィはついさっきの出来事を簡単に説明した。やはり協力は得られなかったが、自警団があの盗賊についてある程度の情報を持っているのは分かったということになる。
 一通りの話を聞くと、ミーアは満足げに笑った。
「それだけ分かれば上出来よ。いざとなったら使えるわね。」
 唇には笑み。
「…何をするつもりなんですか?」
「あくまで、いざとなったらよ。」
 ミーアは笑顔のままで、不審そうに尋ねたナシィをあっさりとあしらった。
 ナシィがため息を吐く。
「で、それが分かったところでどうしますか?」
「うん…ちょっと、こっちに来て。」
 ナシィの問いかけに対し、ミーアは手招きをして歩き出した。向かう先は正面にある自警団の詰所だ。
 ミーアが黙って歩くのに合わせ、ナシィも特に何も言わずについていく。幸い、裏手側には団員の姿もなかった。
 元々迂回をしたのも自警団の注意を引かないようにするためだ。ただでさえ煙たがられている身、無駄に警戒されても行動の際に不便になるだけである。
 着いたのは詰所の裏口の前だった。窓から見えにくいよう、正面ではなく脇に回る。
 ミーアが立ち止まったのに合わせてナシィも並んだ。
 すると、ミーアはフードを外しておもむろにしゃがみこんだ。
 ナシィも戸惑いながらも屈みこむ。
 ミーアの視線は裏口の扉付近の地面に向けられていた。
 同様に見つめる。だがそこにあるのは剥き出しの大地だけだ。乾いた土があるにすぎない。
「ミーアさん?」
「…。」
 声をかけるが返事はなかった。真剣な眼差しで地面を見ているその様子に、ナシィも黙って待つことにする。
 しばらくそのままでいると、ミーアは一人うなづいて立ち上がった。
 合わせてナシィも立ち上がる。
 曲げていた背筋を大きく伸ばして、ようやくミーアはナシィの方を振り向いた。
「ナシィ、あんたは分かった?」
「…いえ。」
 ミーアの言葉に首を振る。
 同じように地面を見つめていたが、答えられるような物事は何も思い当たらなかった。ただ平らな土の地面があるだけだ。
「そっか。じゃ説明するわ。」
 ミーアは再びフードを被ると、目の前の地面を指さした。ナシィもその先を改めて見つめる。
 とりたてて何があるというわけでもない。
「ここは平らでしょ。足跡が無いのよ。」
 その一言でようやく理解できた。
「そうですね、じゃああの逃げた盗賊たちは昨日ここを通らなかったってことですか。」
「ええ。他の扉がないことは一応確認しておいたわ。だから彼らはわざわざ表の扉から出ていったってことになるわね。」
 言葉の後半には面白くないといった響きが混じっていた。
 視線がやや落とされる。
「…今回の仕事はちょっと手間取るかもしれない。」
 そう呟いてミーアは歩き出した。
 それに気づいて慌ててナシィが呼びかける。
「ミーアさん?」
「もうここには用がないわ。とりあえず、宿に戻ってセインが帰ってくるのを待ちましょう。」
 振り向きもせずにそれだけ答え、そのまま歩いていく。
 ナシィは何となく気になって一度だけ振り返ったが、すぐにミーアを追った。
 詰所の裏口は閑散とした雰囲気を漂わせているだけだった。


 一方のセインは、二人と別れてから真っ直ぐ神殿に向かっていた。
 通行人に声をかけて場所を尋ねる。どうやらこの村にはライセラヴィの分神殿があり、そこに二人の神官が常駐しているようだった。
 大通りから一本中に入る。
 道に人通りが少なくなった辺りで、正面から一人の人物が歩いてきた。
 身にまとっているのは略装ではあるものの間違いなく神殿長の服装だ。恐らくはこの村の分神殿を任されている神官なのだろう。
 セインは早足に近寄った。
 近づいたところで向こうもセインの存在に気づいたらしい。立ち止まる。
「こんにちは、お勤めご苦労様です。」
 挨拶をすると会釈が返ってきた。
 見たところ六十を越える高齢のようだ。神官の長杖をしっかりとついて、真っ直ぐな背筋を支えている。細く骨ばった体つきをしているが顔には穏やかな表情があった。
「そなたは旅の巫女かな?」
「はい。…光の教えを実践するために、今は神殿を離れて仲間と旅をしております。」
 セインの返事に老人は微笑みを返した。
「そうか。よければ、一度うちの若いのと話をしてやってくれ。あやつもまだ色々と迷うところがあるようだからな。」
 胸元には位階を示す黄金色のプレートが輝く。精緻に刻まれた紋様は光を抱いて舞う御使いの姿を抽象的に図示していた。
 そこから読み取れるのは、この老人は一位の僧であることだ。分神殿を任されていることを考えると司教(ビショップ)代理の資格も有しているのだろう。
 老人の言葉には、自分に従うまだ若い僧を気にかけていることがありありとうかがえた。そこにあるのは親のような深い愛情だ。かつては自分も慕っていた、昔の神殿長の姿を思い返して懐かしくなる。…それも今では遠い過去だ。
「これから出かけられるのですか?」
 老人が分神殿から出かけてきていることに気づいてセインは尋ねた。
「ああ。少し、行かねばならぬ所があってな…。それでは儂はこれで。」
 老人は歩み去ろうとする。セインは通り過ぎようとした老人にもう一つ声をかけた。
「あの、一つお尋ねしたいことがあるのですが…昨日この村の中で、一人の老人の方に会いました。その方は娘の家出に心を痛めていると聞きましたが、何か事情でもあるのでしょうか?」
 老人が足を止める。
 振り返ったその目には、これまでとは違う鋭い光があった。憂いを帯びたようにも何かを見定めんとしているようにも見える輝き。
 驚き一人立つセインを見つめ、老人はゆっくりと言った。
「…それを尋ねるのは何故かね?興味では、答えるわけにはいかん。」
 セインの内には彼のことに対する気がかりがあった。興味と言えば確かにそれに近いのかもしれない。だが、それよりも村人のあの無関心な態度が許せないという義憤めいた感情が強くあった。だから老人の瞳にもためらうことなく答える。
「あの方の痛みを、少しでも和らげることができたらと思います。何か、私にできることはないのでしょうか?」
 その言葉に老人は目を閉じた。皺に覆われた細い目からは胸の内の感情を読み取ることはできない。ただ、細く節の目立つ指が立てた杖をしっかりと握りしめていた。
 一呼吸の間を置いて、再び老人はセインを見つめた。
 閉じていた口を開く。
「…ならば、来るがよい。」
 そう一言だけ言うと、行こうとした道をまた歩き出した。
 一瞬戸惑ったがすぐにセインは答えた。
「は、はい!」  先を行く老人は黙々と歩いている。
 その後から、セインもまた黙ったままついていった。
 だがそこには迷いはない。
 呟いた老人の見せた眼差しが再び穏やかな光を見せていたからだった。

 案内されたのは一軒の民家だった。
 家並に埋もれた古い家屋。それが一目見たセインの第一印象だ。
 老人は無言のまま扉を二度叩いた。
 しばしの間を経て、その扉がきしんだ音と共に開かれた。
「…!」
 中から顔を出した人物を見てセインは驚いた。
 現れたのはたった今話していた、昨日酒場に現れた老人だった。
 冷たい目でセインを一瞥する。そこにははっきりとした拒絶だけがあった。それは、決して心を見せまいとしているかのようだった。
「ジンス、彼女は神官だ。手助けとして同行してもらっている。」
 老いた僧は一言告げた。
「…そうか。ならば構わん。」
 それにはジンスと呼ばれた老人もうなづきを返した。そして再び扉の内に姿を消す。
 僧の老人に自分の名前も名乗っていなかった事を思い出しつつ、彼が家に入ったのに合わせてセインも足を踏み入れた。
 一歩入った瞬間から空気の色が違うことに気づく。
 淀んだ、風の動かない空間。窓を閉ざした室内は時を止めたかのようだった。
 薄暗い室内には扉からの光が矢の如く注ぐ。光の当たった所だけが夏の焼きつける暑さを伝えていた。
 その中にうっすらと漂うのは馴染みのある匂い。薬草の青臭くそしてどこか作り物めいた匂いが、混じり合って空気の底にあった。
 先を行くジンスが奥の扉をそっと開ける。
 かすかな擦過音を立てて開かれた扉の向こうには、ベッドに横たわる女性の姿があった。
「今は眠っている、静かにしていてくれ。」
 ジンスの言葉も小さくかすれたものだった。
 順に寝室へと入っていく。
 二人の人物が眠るための部屋は、立ったままの三人が入るとさすがに狭さを感じさせた。
 閉ざされた窓にかかるカーテンが日光を通して薄白く輝いて見える。
 ジンスが脇に移動した後、僧の老人は横たわる女性の元にそっと歩み寄った。
 女性は静かに眠っていた。セインも一歩近づき、その姿を見ようとする。
 言葉を失った。
 横たわっていたのは一人の女性だった。五十歳ほどだろうか、顔には細かな皺がいくつか刻まれている。
 だがその様子は尋常ではなかった。やつれきった体は老木のように細い。閉じた目には陰となって黒ずんで見えるほどの深い隈があった。
 辛うじて聞こえる寝息だけが、彼女がまだ生きていることを証明していた。
「調子はどうだね。」
「見ての通りだ。…それでも、最近は何とか食事を取れるようになった。」
 そう答えてジンスは横たわる女性を見やった。少し下げられた胸元のタオルをそっとかけ直してやる。
 いたわりの仕草、だがその瞳の内にある深い哀しみにセインは気づいた。
「ならば、少しでも快方に向かっているのだろう。今まで同様この薬を飲ませてやってくれ。」
「分かった。」
 濃い緑色のペーストが詰まった小さな瓶が手渡される。
 不意に香ったその匂いは部屋に漂うのと同じものだ。
 ジンスは薬瓶を近くの棚の上に置くと、セインの方を見つめた。
「…あんたは確か、昨日の酒場にいた冒険者の仲間だな。」
 突然の呼びかけに一瞬セインは戸惑う。
 表情には全く出ていなかったが、やはり玄関で会った時に気づいていたのだろう。
「はい。」
 セインはうなづいたが、ジンスはそれから何かを言うわけでもなく視線を外した。
 一度、横に佇む僧を確認するように見つめる。
 そしてそれきり踵を返して部屋を出ていった。
 小さな足音は少し遠くなってから唐突に消えた。扉は開かれたままだ。
「さ、出ようか。」
 不意に肩を叩かれる。
 セインは自分が立ち尽くしていたことに気づいた。振り返ると、自分を見守るかのような目があった。
 促されて部屋を出た。
 かすれた音と共に再び扉が閉ざされる。
 短い廊下を抜けると、暗い家の中でジンスは椅子に腰掛けて二人の神官を見つめていた。
「それじゃ、また三日後に。」
 僧から挨拶と共に会釈がなされる。セインもそれに伴って会釈をした。
 だがジンスからの返事はなかった。無言のまま二人を見ているが、その表情は暗がりのために読めない。
 沈黙を保ったまま、セインはこの動きを失くした空間から外へと出ようとした。
 扉が開く。
 瞬間、輝きに視界が白くなる。
 日の光はこの淀みを浄化するかのように圧力さえ備えて降り注いでいた。乾いた空気が流れる。
 セインはもう一度だけ室内を振り返った。
 ジンスは同じ姿勢のまま、自分たちを鋭い目で見つめていた。

 僧はソロボラティ・モデラーテと名乗った。
 セインの判断した通りライセラヴィの一位の僧で、司教代理の資格を授かってこの村の分神殿を治めているという。
 神殿へと向かう帰り道の途中、ソロボはジンスの身の上についてセインに説明をしてくれた。
 ジンス・ファミル。この村で育った男性であり、年は四十五歳になる。彼には妻、既に成人して村を出た二人の息子、そして成人をあと一年に控えた一人娘がいた。この娘が酒場での話にもあった、家出をした娘になる。
 娘は付き合って半年になる男がいた。だが彼はここから離れた街に住んでおり、結婚するとなればそこに嫁ぐことになる。ジンスは村の中で彼女の相手を見つけるつもりだったらしくこの結婚にずっと反対していた。この親子喧嘩は相当なものになっていたらしく、村の中ではそれを知らぬ者はいなかったという。
 だが二週間ほど前、突然に娘は姿を消した。後に手紙も何も残さないままの失踪だった。
 何が起こったのかは正確には分からない。ただ、村の者は皆客観的視点に基づいて、娘が恋人の元に行くため家を出たと判断した。
 しかしジンスだけはこの考えを受け入れなかった。娘が何も言わずに出ていくはずがないと言い張り、村人の説得にも耳を貸さなかった。
 そして彼と村人の間に距離が生まれることになる。

 ソロボがそこまで説明したところで、セインは思わず口を挟んだ。
「…それでは彼の妻は、まさか…。」
 その問いにはうなづきが返ってきた。
「そう。あの家で眠っていた女性が、彼の妻アフィリクトだ。」

 彼女が倒れたのは娘が家出をしたと分かった直後だった。
 もともと病弱でよく病に伏すことがあった。だが今回は突然に意識を失い、それからも寝たきりになって過ごしているという。倒れてから二日後にジンスがソロボの元を訪れた時には、横たわった状態で体を動かすこともままならないほどに衰弱しきっていた。目覚めている時の意識は正常だが、娘の話を出すと半狂乱になって取り乱す。
 原因は明確ではないが、やはり娘が家を出たのが理由ではあるのだろう。
 これについては村人も心配しているものの、ジンスはそれさえも受け入れずにたった一人で世話を続けている。

 全ての説明を終えたソロボは立ち止まってセインを見つめた。
「これが全てだ。…儂が最初、そなたが興味で尋ねているのかを問いかけたのも分かるだろう。」
 村の神官の問いかけにセインはうなづく。
「はい。」
 ソロボは片手でついていた長杖を体の正面に移し、両手で握りしめて呟いた。
「儂としても、ジンスのことは気がかりだ。何とかしてやりたいとは思うのだが…。」
 そう言って元来た道を振り返る。
 細い路地は人通りも少なく、静かだった。立ち並ぶ家々が地面に影を落とす。
「何か、私にできることはないのでしょうか。」
 セインも去ってきた家の方向を見つめてから、振り返って問いかけた。
 しばらく考え込んだ後ソロボは答えた。
「…何とか娘さんが元気にやっていることを伝えられればよいのだが。」
「無理なのですか?」
 ソロボは首を横に振る。
「相手がどこの者だったのかを知っているのはジンスの一家だけだ。だから村の者ではどうしようもない。」
 そう言って肩を落とした。
 実際、アフィリクトの対症療法をするのが手一杯でそれ以上は何もできないでいるらしい。彼は村の分神殿の長でもあるためにジンスの世話ばかりに時間を避けないのが実情なのだ。
「ならば、何とか彼の相談相手になれるとよいのですが…。」
 酒場でのナシィの言葉を思い出してセインも呟く。
 彼の苦しみは様々な苦悩を一人で抱え込んでいることもあるのだろう。だったらせめてそれを少しでも軽減させたいと思った。
 自分たちが旅をする身であり、ここに長居することはないと分かっていても、だからといって何もせずにただ見ているだけでいたくはない。
「そうだな…まあ、よければ考えておいてくれ。」
 再びソロボが歩き出そうとする。
 セインはそれについていこうとしたが、思いとどまった。
 ナシィとミーアがどれくらいの時間自警団の詰所に行っているかは分からなかったが、一度帰った方がよいだろう。今分かったことを伝えたかったし、未だ戻っていないのなら言伝を頼んでから分神殿に行っても遅くはない。太陽はまだ空高くにある。
「分かりました。また、明日にでも神殿に伺うと思いますので。」
 一礼をしてセインはソロボに別れを告げた。


 遡ること少し、ナシィたちは自警団での調査を終えて宿に戻っていた。
 扉を開いてすぐ、見慣れない客が一人で遅い昼食を取っているのに気づく。
 ナシィら二人が入ってくるとその客は手を上げて挨拶をしてきた。
 最初の言葉はこうだった。
「あなたたちでしたか、夕べここで乱闘騒ぎを起こしそうになった客って。」
「言っておくけど先に手を出したのは向こうよ。」
 むっとしてミーアが一言答える。
 窓を開け放した明るい店内には、その客以外誰の姿もなかった。どうやら店主は店の奥に引っ込んでいるらしい。
 ミーアが不機嫌そうになったのに気づいて客は素直に頭を下げた。
「あ、すみません。でも何でそんなことになったんです?」
 低姿勢ではあるものの初対面にもかかわらず馴れ馴れしく話しかけてくるその若い男に、ミーアはいよいよ機嫌を悪くする。
「あんたに関係ないでしょ。」
「え、ですが、そう怒らなくてもいいじゃないですか…。」
 ミーアが強気に出ると男は急に大人しくなった。どうも思ったよりは悪い人種ではなさそうだ。
 多少は気が向いたのか、ミーアは男の向かいの机に移動した。ナシィもそれを見て並んだ椅子に腰掛ける。
「まあいいわ。で、見たところあんたも同業者らしいけど、何者なの?」
 わざわざ声をかけてきたところを見るととりあえず話をする気があるのだろう。そう判断してミーアは腰を落ち着けた。
 客の身なりはごく普通の服だ。だが腕に負った傷跡や筋肉質の体、部分的な日焼けから戦士系の仕事(ジョブ)であるのは一目で分かる。
「あ、はい。ボクはイディルス・フォールハルディと言います。」
 ミーアの問いかけに男は素直に名乗った。
 彼はまだ冒険者になって一年目の、若い剣士(ソーズマン)だった。パーティを組んでいるわけではなく単独で特に当てもなく旅をしているらしい。この村に来たのは三日ほど前だが、仕事もなく路銀も乏しくなってきたのでそろそろ村を出ようかと思っていた。そんな時にナシィら三人が現れたので興味をもったというのだ。
 イディルスはどうも人懐っこい性格らしく、初対面のナシィらに遠慮や警戒をすることもなく正直に自己紹介をしてきた。
 ミーアも相手の性格が分かったので完全に機嫌を直した。お返しとして自分たちについても簡単に紹介をする。
 ただし、この村に来た本当の理由はもちろん伏せておいた。単に旅の途中だったので寄っただけだと言っておく。
 一通りの説明を聞いたところでイディルスは二人に尋ねた。
「せっかくです、しばらく同行しても構いませんか?とりあえず他の相手が見つかるまででいいですから。」
 その言葉には、ナシィとミーアは顔を見合わせた。
「悪いけど今は三人で旅してるから、遠慮させてもらうわ。」
 その答えにイディルスはしゅんとなる。子犬のようなその仕草にミーアは思わず笑っていた。
「ま、あんたなら多分どこでもやっていけるから大丈夫よ。悪いのに引っかからなければね。」
 そう答えながらも、ミーアはその『悪いの』とは多少は異なるものの概ね似たような笑みを唇に浮かべていた。
 拗ねたような顔をしたイディルスを見てナシィは言った。
「そういえば三日前からここに来ているようですが、この村の様子はどうですか?」
「ここですか。特に変わったことはないですけど。」
 首を傾げたもののやっぱり思いつかないらしい。
 ミーアがそこに重ねて問いかける。
「そう?あたしから見ると、何かやたら余所者に冷たいような気がするけどね。」
「え、そんなことはないと思いますよ。」
 返ってきた答えはのどかなものだった。ひょっとしたら気づいていないだけなのかも知れないと少し疑う。
 そしてミーアはナシィの方を見た。
「…何か?」
「なんでも。」
 印象としては、ナシィから当然ではあってもやっぱりどこか変に老成した気がするところを引いてもう少し子供にした感じが一番近いだろうか。そう内心で考えつつ、ミーアは再びイディルスの方に向き直った。
「じゃあ、昨日の老人について何か知らない?」
 現れた陰気な老人のことを簡単に説明する。
「ああ、ボクも見かけましたよ。何でも娘に駆け落ちされてすっかり落ち込んでしまったお爺さんだとか。」
 しかしイディルスもそれ以上のことは知らないらしかった。
 仕方がないので話題を変えることにする。
「仲間が欲しいって言ってたけど、ここには他の冒険者とかいないの?」
「はい。この宿に今泊まってるのは、ボクとミーアさんたちだけです。」
 だから声をかけてきたらしい。
 ミーアは昨日、酒場での騒ぎの時に現れたローブの人物のことを思い出した。どうやらもう宿を出てしまったようだ。
 その会話を横で聞いていたナシィが再び口を挟んできた。
「じゃあ商人などの護衛もいないんですか?」
「あ、そう言えば見かけてないや。仕事もなかったし…。」
 軽い口調で言ったイディルスだが、ナシィは考え込むそぶりを見せた。
 しばしの間を経て再び口を開く。
「変ですね。普通、村なら商人の護衛に来てた冒険者が大抵はいるものですけど。」
「確かにね…でもたまたま今はいないだけじゃない?ここは結構自立しているみたいだし、それにこの村の規模なら行商が週に一度しか来なくても何とかなるでしょ。」
 ミーアがそう言ったので、そういうものかとナシィも納得した。

 その後は特に話すこともなかったが、今やることがあるわけでもなかったので何となく雑談をしていた。
 そんな中で扉が動く音がした。何の気なしに三人が揃って見やる。
 太陽の光を逆光にして小柄なシルエットが見えた。
 扉がまたそっと閉ざされる。
 宿に入ってきたのはセインだった。二人に帰宅の挨拶をした後、もう一人の存在に気づく。
 見知らぬ男性が自分に向けて笑いかけてくるのを見て、セインもまずは微笑み返した。
「お帰りなさい。とりあえず、こちらにでも。」
 ナシィが示した椅子に腰掛ける。
 そしてすぐ側に座る、見知らぬ男性の方を見た。
 視線が合った途端に話しかけてくる。
「あ、始めまして。あなたもミーアさんたちの仲間ですか?」
「ええ。こちらこそ始めまして。」
 セインは少し戸惑いながらも普通に答えた。
 そこにミーアが口を挟み、互いの簡単な紹介をした。
 相手の素性や成り行きが分かってようやくセインは納得した。
「そうだったんですか、ではよろしくお願いします。」
「いえこちらこそよろしく。」
 もともと神殿で外務を担当していたので、初対面の冒険者への対応にセインは慣れている。ごく当たり前のように挨拶を済ませた。
 それからミーアの方に向き直る。
「それじゃ、どうしますか?」
 暗に自分の方では分かったことがあるということを示してセインが小声で問いかけた。
 ミーアはイディルスの方をちらりと見て、目を閉じた。
 一拍置いてから改めて振り返る。
「じゃ、あたしたちはちょっと用事があるんで、これで失礼するわね。」
「分かりました。また、夕飯の時にでもご一緒しましょう。」
 その言葉には笑顔を向けて更に告げる。
「時間が上手く合ったらね。じゃあまた。」
 あしらいの常套文句を口にしてミーアは立ち上がった。それに合わせナシィらも席を立つ。
「それではまた。」
 屈託のない笑顔を見せてイディルスは手を振った。
 …ちょっと悪い気もするが、まあ今は仕方ないだろう。
 三人とも口には出さないものの同じようなことを考えていた。そして軽く手を振り返すと、階段から二階に去っていった。


 すっかり会議部屋になったミーアとセインの二人部屋に、また三人が集う。
 ナシィとミーアが入手した情報もそれなりの価値があったが、セインが見てきたことを話し終えた時には二人は言葉を失くした。予想を超えた厳しい事実に驚きと同情を抱く。
 言葉を見失ったがゆえの沈黙が部屋の中に訪れた。
 開かれた窓から差し込む光は儚い。燈された小さな灯りはそれぞれの顔に影を落としていた。
 ややあって、再びセインが口を開いた。
「…盗賊のことについての調査はお二人に任せてもよろしいでしょうか。私は、もう少しジンスさんの元にいたいのです。」
 視線を落とし唇を噛む。
 ミーアは語るセインをじっと見つめていたが、その言葉に厳しい目を向けた。
「あたしたちがここに来たのは魔剣を追うためよ。それを忘れないで。」
 大きな瞳はうつむいたセインの姿を映す。
 影になった表情は見えない。小さな手はきつく握られていた。
「…僕も、ミーアさんの意見に賛成です。」
 ナシィも口を開く。その表情は同様に厳しかったが、そこにはまた感じ取った痛みも現れていた。
「お気持ちは分かります、ですが…今僕たちが優先すべきなのは、魔剣の探索のはずです。」
 そこで言葉を切った。
 無言の内に、答えを求める。その目には揺るがない決意があった。
 セインはきっと顔を上げた。
「分かっています!」
 噛みしめられた唇は血の気を失い白くなっていた。頬だけが強い想いに照らされたかのように赤い。
 そして、震える声で呟いた。
「…忘れる、忘れられるわけが…ないじゃないですか。」
 魔剣のもたらす災厄。失われた大切な人のことは決して忘れられない。旅立ちを決めたあの思いは未だ変わっていない。
 だが、それとは別に、かの老人を思う気持ちも自分の中にあった。
 セインは肩を震わす。
 その様に二人も彼女の胸の内の辛さを思いやった。一番苦しんだのは紛れもなく彼女に違いないのだから。
 だがミーアは言葉を続ける。
「だったら、今は何を選ぶべきか分かってるんじゃないの?」
 厳しい言葉であるのは分かりきっているが、セインには選択をさせねばならないのだ。全てのものに手を回せるわけではない。一人の人にできることは一つしかない。
 だから問いかけた。
「この先、きっとあちこちでこんな話を聞くことにはなると思うわ。その全てにかまっていたら、本当にやるべきことなど何一つできなくなってしまう。―あなたの決意はそんなものだったの?」
「違います!」
 叫ぶようにセインは答えた。だが二の句は継げない。
 決して涙を流そうとはしない強い目とは裏腹に、今にも泣きそうな表情がそこにはあった。
 ミーアは何も言わずにセインを見つめている。鋭い目は変わらないままだ。
 彼女の決意を疑いはしていない。それでも、答えを得るために問う必要があった。その言葉を待つ。
 そして、ナシィもまたセインを見つめていた。彼女の苦しみを眼前にしたがゆえに、痛ましげな表情を浮かべて。
 今の叫びで気づかされる。恐らく、セインには選べないことなのだ。決意は変わらない、だが目の前で苦しむ人を見捨てることも決してできない。
 ナシィのその視線がふと外れる。
 しばし何かを考え込んだ後、再び顔を上げた。
「お二人とも、こういうのはどうでしょうか。」
 その言葉に二組の瞳が動く。
 ナシィはそれを受けて言葉を続けた。
「魔剣を追うことが第一なのは承知の通りです。ですが、現在そのための盗賊の調査は停滞状態にあると言っていい。ミーアさん、今すぐセインさんにやってもらわねばならないことはあるのですか?」
 ナシィの目がミーアに向く。
 それに対し、セインに見せたものとほぼ同様の鋭い目が返ってきた。
「あたしが言ってるのはそういうことじゃないのよ。」
 感情を表面に出さない、一見静かな言葉。
 氷の像のように静止した中で唇だけが小さな動きを示していた。
「分かっています。」
 ナシィはその真意を察してうなづきながらも答えた。
 ミーアがセインに決断をさせようとしているのは分かる。だが、今はまだそれが本当に必要な場ではないと思う。
「ですが、この状態でセインさんに無理やり手伝わせても意味がないでしょう。だったら一時的にならばあの老人の元に行ってもらっても問題はないと思います。」
 自分の考えを述べて、ミーアとセイン二人ともを見つめる。
 肩を強張らせていたセインの表情が少し穏やかなものになった。だがその手はまだ握りしめられたままだ。
 ミーアは二回瞬きをすると、おもむろに姿勢を崩してナシィの方に身を乗り出した。
 声が静かな室内に響く。
「…あんたはそれでいいの?」
 視線を完全に合わせてミーアは尋ねた。
 思わぬ言葉に虚を突かれる。だが一瞬の間を経て、ナシィははっきりと答えた。
「ええ。僕としても、あの老人を放っておけないとは思っています。だから調査を続けるのと同時にセインさんが彼の元に行かれるのなら、それはそれでよいのではないかと思います。」
「ついさっきは反対していたようだけど?」
 ミーアが放ったその一言は小さなものだったが、ナシィにとってはそれなりに重みがあったようだ。
 さっきよりも微妙に長い間を挟んで答えが返ってくる。
「…仕方ないでしょう。本来ならセインさんにもこちらに来て欲しいですが、無理やり頼んでもお互いに気まずい思いをするだけです。どうせ捜索の方は難渋してるんです、だったらセインさんが離れてもおかしくはないでしょう。そう考え直したんです。」
 言い訳めいていることが自分でも分かっているだけに、今度は苦笑いの表情を隠しきれないままだった。
 それでもミーアはその言葉に軽くうなづいた。
 そしてセインの方を向き直る。
 緊張にか強張った表情で自分を見つめているセインに対し、ミーアはあっさりと告げた。
「二対一じゃ仕方ないわね。しばらくはそっちに行ってきてもいいわよ。」
 眼差しから険はなくなっていた。言い終えて息を一つつく。
 一瞬空白が生まれる。
 次の瞬間、セインの表情が変わった。
「ありがとうございます!」
 生気を取り戻した声で答える。ほとんど同時に頭を下げていた。
 それに対しミーアは横目でナシィを見ながら言った。
「礼を言うならあっちでしょうね。」
「いえ、僕はただ…。」
 ナシィは首をそっと横に振ったが、セインはそれに構わず頭を下げた。
「ナシィさんも、ありがとうございます。」
 顔を上げたところで、一度口を閉じる。
 決意の眼差し。
 そして改めて二人を見つめると再び口を開いた。
「…お二人とも、すみません。」
 感謝に重ねた言葉。
 ミーアの言い分が正しいことは分かっていた。恐らくナシィも、あの判断をしたのは仕方がなかったという部分が大きいだろう。
 二人に対しては感謝すると共に申し訳ないと思う。
 セインのその言葉に対して、ナシィは何でもないような顔をして答えた。
「いいですよ。セインさんは、あの方についていて下さい。」
「はい。」
 酒場でのあの一言、そして今の言葉でもナシィもまた老人の身を案じていることが分かる。
 だからこその答えにセインは深くうなづいた。
 その様子を穏やかな目で見ていたミーアが口を開く。
「だけどセイン、約束して。」
 向き直ったセインに対して、一言一言を刻み込むかのように告げた。
「あたしたちは魔剣を追っている。そのためにあなたの力は必要なの。だから、その時が来たら必ずこちらに来てもらうからね。」
 真摯な瞳が答える。
「はい、必ず。」
 はっきりと言ったセインにミーアはようやく微笑みを見せた。
 あの決意自体は揺らいでいないだろう。ただその優しさが妨げとなることを恐れていたのだが、彼女の場合は優しさが強さの元になっているに違いない。それを無理やり曲げてもきっと何にもならないのだ。
 少なくとも今はこの選択でも構わない。
 …自分も大分甘くなったものだ、そう思ったミーアの笑顔は少しだけ苦笑混じりだった。


 灯りが消えた廊下を歩く影があった。
 わずかな月の光はその姿をうっすらと映し出す。かすかに色づいた紫の髪とその上にある耳。
 ミーアは目の前の扉を叩いた。
「…はい。」
 あるかなきかの足音を経て扉が開く。
 中から顔を出したナシィは、正面にいる相手の顔を見て少し驚いたようだった。
「少し入ってもいい?」
「ええ、どうぞ。」
 半開きだった扉が完全に開かれる。
 ナシィはミーアを椅子に案内した。だがミーアが首を横に振ったので、その椅子を元に戻した。
 開け放した窓からは細く鋭い月が見える。乏しい月明かりは部屋を闇に近くしていた。
「ナシィ、一つ聞かせて。」
「何ですか?」
 静かな問いかけ。ただ厳しさはなく、ミーアは純粋に疑問に思っているらしかった。
「確かに調査が停滞しているのは事実よ。だけどだからといってセインを行かせていいの?魔剣を一番追いたいのはあなたのはずでしょ?」
 猫の瞳は暗がりにあってもナシィの表情を捉えていた。
 それが苦笑めいたものに変わるのを目にする。
「ええ。その通りですね。」
 明るい場と変わらないかのように、彼はミーアの目を真っ直ぐ見つめて答えた。
「ですがあのジンスさんのことが気がかりだったのも本当なんです。少なくとも今の状態だったら、セインさんを行かせることは調査においてそんなにマイナスにならないでしょう。」
 ライセラヴィの神官は嘘をつくことを好まない。それは時に駆け引きの場で障害にもなりうる。
 何気ないことのようにごく普通にナシィは言った。
 その言葉に、ミーアも唇の端に薄い笑みを乗せた。
「そう…確かにね。」
 ナシィの言葉は嘘ではないだろう。
 付け加えるならば、本人はあまり意識していなかったのかもしれないが、パーティ内が対立した状態を避けようとしていたとも思う。
 それはセインとは違う優しさの現れ方なのだろう。
 ミーアはうなづいた。
「それならいいわ。安心した。」
「…安心できなかったんですか?」
 ミーアの言葉に、ナシィが訝しげに問う。
 その顔を見てミーアは言った。
「まあね。―特にあんたは、あまり正直者じゃないから。」
 さらっと冗談めかして言われた言葉。
「そうですか?」
 だからナシィもその冗談に答えるように、苦笑を浮かべて問い返す。
「さあ。じゃあ、夜遅くに悪かったわね。また明日。」
 それには答えず、ミーアは踵を返すと扉に手をかけた。
 背中越しにナシィがどんな顔をしているのかは見えない。
「ええ、おやすみなさい。」
 聞こえてくるのは、いつものように穏やかな声だけだ。きっとその声が似合う表情をしているのだろう。
 それならそれで構わない。
 ミーアはそのまま部屋の外に出て、後ろ手で扉を閉めた。

 閉ざされた扉のすぐ向こうにナシィは佇んでいた。出ていったミーアを見送った姿勢そのままに。
 顔から、浮かべていた微笑みが消える。
 意識して作っているものでは決してない。それは呼吸するかのように自然に出てくるものだ。
 ただ、一人になった時にはそれが必要なくなるから消えるだけのこと。
 それだけのことにすぎない。
 窓からの夜風が部屋の空気を少し涼しいものに変える。
 ナシィは何を言うわけでもなく、ただ、扉を見つめていた。




第一章 Prey.〈後〉


 その神殿は村の中に溶け込んでいた。
 ウニート村の分神殿に向かったセインは、ようやく来ることができた建物を見上げた。
 光に照らされた小さな神殿。
 それは村の通りの中、立ち並ぶ家々と共にあった。堅牢な石組みの建物は表面に苔が生し、辺りの古びた家とも調和を保っている。
 門は開かれていた。
 入ろうとする者全てを受け入れるべくその建物は静かに佇んでいる。
 もう一度建物全体を見上げると、セインは短い石段を上って中へと足を踏み入れた。
 石の階段はささやかな足音を吸い込む。
 影に入った瞬間に、世界の色が変わった。
 威圧的に照りつける太陽の光を遮って、それとは異なる静謐な空気が辺りを包む。
 張り詰めた弓のような心地よい鋭さ。懐かしい空気にセインは笑顔を見せた。
 入った室内を見回す。
 天窓からは切り取られた日光が走っていた。色硝子は使われておらず、陽の光そのままの色が灰色の床を染める。
 壁を覆う装飾は少ない。飾り気のない長椅子が左右に四組ずつあるだけの、小さな礼拝堂だった。正面には石から切り出したままの聖像が一つ。翼持つ女性が微笑みをもってここにいるべき人々を見つめている。
 人はいなかった。すぐに、右の脇にある木戸に向かう。
 ライセラヴィの神殿の造りはどこでもあまり違いがないことは知っている。だからセインは迷わず扉を開けた。
 正面には細い通路があった。扉は左手に二つ、そしてその先で通路は曲がっている。角には光を通す窓と二階への階段の端が見えた。
 セインは手前の扉の前に立ち、ノックをした。声をかける。
 扉を開いたのは若い僧だった。
 ソロボが話をしておいてくれたらしく、セインが名乗るとすぐに中に通された。

 神官の待機室で机を挟んで差し向かいに座る。
 互いに改めて位階と名を名乗り合った。
 僧の名はケップ・ウァベール。三位の僧であり、この村でソロボに教育を受けて僧の仕事を行っているという。若いとはいえもちろんセインよりも年上だった。位階も現在は高位にある。
 セインがガーテの街の修道院を出て旅の途中にあることを話すと、院の様子や旅に出た理由について興味をもったらしく尋ねてきた。
 院の様子についてはありのままに語り、旅に出た理由は「信仰のあり方を見つめるために」とだけ答える。
 そんな自己紹介が終わったところでセインは問いかけた。
「ソロボさんはどちらにおられますか?」
 ケップは一度天井を見上げてから答えた。
「二階の自室で休んでいるはずだ。」
 村の中の自宅から通いで来ているケップとは異なり、ソロボはこの分神殿に住んでいるらしい。
 もともとソロボはこの村の出身で修行のために街まで出ていたのだが、年老いて外務の仕事を降りたのを機に故郷に帰ってきて分神殿を管理することにしたという。それまでは神官もおらず、昔建てられたこの神殿も管理する人のいないまま寂れていた。
 ようやく今は自分も手伝えるようになったが、この村はまだまだライセラヴィの教えが伝えられていないから何とかしたいと思っているとケップは続けて語った。
 自分の理想を迷うことなく言えるその姿に、賞賛の思いとかすかな羨望を覚えてセインは微笑む。
 話が長くなっていたことに気づいたケップは立ち上がった。
「用事があるんだったな、今呼んでこよう。」
「よろしくお願いします。」
 すぐにケップは出ていった。大人しく椅子に座って待つことにする。
 余裕ができたのでようやく室内をゆっくりと見ることができた。
 普段は礼拝堂にいるかここで待機をしているのだろう。小さく長細い間取りの部屋には眠ることもできるような長椅子や流しなどが備え付けられており、更には食器や本がそれぞれ分けてはあるが一つの戸棚に納められている。
 まだ裏側に水滴のついた食器と小型の聖書のストックが並べて置かれているその光景には少し驚いた。
 足音が聞こえてくる。よく響くのはケップのものだろう。そしてもう一つ小さな音が重なる。
 振り返って待つと程なく扉が開いた。
 ケップと共に入ってきたソロボに挨拶する。ソロボもそれに答えるとケップの隣に座った。
 セインは当たり障りのない会話もそこそこに、昨夜決めたことを話した。内容としては仲間と一時的に離れ、ジンスのためにここでできることがあれば手伝いたいという申し出だ。
 手伝いの申し出にはソロボは喜んだ。だが少し怪訝そうな顔を見せてセインに問いかける。
「しかし、そなたはよろしいのかね?仲間の方と離れて行動しても。」
 セインはうなづいた。
「ええ。二人の了承は取りました。」
 ナシィとミーア、二人と話し合ったことで決心は確かなものとなった。もう迷うことはない。
 ただし本来の仕事に戻らねばならなくなった時には手伝いができなくなることも伝える。
「それは仕方ないだろう…しかし、その仕事とは何だね。」
 ソロボの疑問ももっともだろう。別に彼らに隠す必要があるとも思えないので、念のため外部には伏せておくことを頼んでから理由を話した。
「闇の魔力をもった剣が一部の盗賊の中に出回っているらしいのです。そしてその一つを所有していた盗賊がこの近辺に潜伏していると分かりまして、今探しているところです。ですから相手が見つかり次第そのアジトに行くことになりますので、ここを離れねばなりません。」
 更にセインは魔剣の危険性についての説明をした。人を蝕み闇に堕とすその力。
 ガーテの街は未だに発見された魔剣のことを伏せているはずだ。だから他の地の神官は魔剣についてまだ何も知らないだろう。
 神殿の選んだ選択は、領主に睨まれている現状を考えればある意味で正しかったのだろうとは思う。ただ自分はやはりそれを受け入れられない。個人的感情が大きいことは分かっていたが、それでもだ。
 ―人を軽んじてまで守る対面に意味があるのだろうか?
 その答えはまだ分からない。ゆえにあの街で得た位階も捨てた。だが今こうしてここに来たことは、自分にとって裏切りではないと思う。
 セインの話した魔剣についての説明を聞き、二人の表情が変わった。
 当然であろう。そのような力をもった剣が出回っているなど神官として許せることではない。
「それは…何て恐ろしい。」
 ケップが絶句する。顔色もやや青ざめて見えた。
「幸いこの近辺ではそういった話は聞かないが、何かあったらすぐ知らせよう。」
 ソロボはセインに約束した。その言葉に頭を下げる。
「お願いします。事態は急を要すると思われますので…。」
 顔を上げたセインはソロボの重い表情を見た。
 その顔には疲れも見えた。自室で休んでいたところをわざわざ来てもらったことを思い出す。
 今、ソロボと直接話さねばならないことはもうないだろう。
「ソロボさん、ありがとうございました。それでは今日のところはこれで失礼しますね。」
 挨拶を述べて席を立つ。だが、それを引き止めたのはソロボだった。
「これから何か用事があるのかね?よければ一つ頼みたいことがあるのだが。」
 その言葉に足を止める。用事などあるわけでもないのでセインはもう一度椅子に腰を下ろした。
「いえ。何でしょうか?」
「セインさんは修道院の育ちだったな。」
 改めて名を呼ばれたので少し意識する。
「はい。」
 うなづくと、ソロボは安心したような顔を見せた。
「実は儂も院の講師の仕事を手伝ったことがあるのだが、確かあそこの授業の中には精神治療の学習もあったはず。セインさんは学ばれたかね?」
 言われて、そういえば院でそんな授業を受けたような気がするのを思い出した。
 しかし記憶にも残らないほどだ、それほど熱心に受けてはいなかったと思う。軽んじていたわけではないが当時は外務により必要になると思っていた実技的な授業を優先的に選択してきた。だからソロボの言うそれについて当時学んだことはほとんど残っていないが…断るわけにもいくまい。
 遠慮がちな答えを返す。
「一応は受けました。ただ、私は外務を志望しておりましたのであまり学んではいませんが…。」
「いや、それでもな。」
 ソロボはおもむろに横に座るケップを見た。不意のことにケップは戸惑いを見せる。
「ケップは儂が個人的に教えてきた。そういう知識がまだまだ不足しておるんじゃ。だからセインさんに是非とも色々教えていただきたくてな。」
「え、ですがそれは…。」
 セインもこの依頼には戸惑った。教えられるほどのことを自分が身につけているとはとてもじゃないが思えない。
 そのセインの逡巡を感じ取ったのかソロボは言葉を重ねた。
「いや、何も院で学んだことを一から教えてくれとまでは言わんよ。ただこいつにもう少し人との接し方を教えてやってくれればいい。」
「はあ…。」
 語る口調には変化がない。一方のケップは何とも言えない曖昧な表情でそれを聞いていた。
 セインもそれには微笑だけで答える。
 一応は承諾ともとれなくもない答えが返されたので、ソロボはそのままセインに頼んできた。
「手伝ってくれるのならば、こいつと共にしばらく儂の代わりにジンスの所に行ってほしい。」
「え、ソロボさんはどうされるのですか?」
 突然の話に驚く。
 問い返したセインに、ソロボは苦しそうな顔を見せた。
「儂ももうアフィリクトの様子を十日以上見ているが、どうにもできなくてな。対症療法はできても原因を取り除くまでには至らない。だから、セインさんなら何とかと思ったのだ。」
「しかし…私が、そこまでのお役に立てるとは思いませんが。」
 これは謙遜などではなく本音だった。
 ソロボほどの実力もある高位の僧が対症療法で精一杯というのに、自分がそれを回復させられるとも思えない。正直なところあくまで手助けのつもりでいたためにセインは困惑した。
「まあ儂がずっと面倒を見るわけにもいくまい。それに多少はジンスにとっても気分転換になるかもしれんしな。」
 そう言ってセインを安心させるかのように笑いかける。
「あまり緊張しなくてもよい。ジンスの話し相手のつもりでいてくれればいい。」
「ジンスさんの、ですか?」
 てっきり病の床にあるアフィリクトの世話を見ることになると思っていたので、意外な言葉にソロボを見つめる。
「ああ。ジンスも今回のことでやはり疲れきっている。アフィリクトの治療に関しては少しゆっくり調べておくから、その間ジンスの方も面倒を見てやってくれ。」
「そういうことでしたら、分かりました。」
 セインもようやく完全に納得してうなづいた。
 もともとジンスの様子も気がかりでこちらに来ることにしたのだ。その意味でも安心する。
 ソロボは微笑むと、セインに頭を下げた。
「それでは、ケップを頼むよ。」
「いえ、こちらの方が教わることも多いと思いますので。」
 現在の立場を考えて、そう答えた。今はケップの方が先輩にあたるのだ。それにジンスらについても彼の方が詳しいだろう。
 ケップに向き直る。
「よろしくお願いします。」
 セインが頭を下げると、多少戸惑いを見せつつも軽いうなづきが返ってきた。
「ああ、よろしく頼む。」
 照れ臭いのか視線を微妙に外している。
 ケップはここで一人ソロボに教えられて修行を積んでいると聞いた。ならば今まで後輩がいなかったはずだ。
 そのことに思い至ったセインはくすりと笑った。


 朝日が照りつける大通り。
 それぞれの仕事に忙しい村の人間に交じって、旅服をまとった二人連れが歩いていた。黒のロングコートと薄汚れたマント。
 ナシィとミーアは買い物のために村に出ていた。
 朝食の場で打ち合わせをしたものの、二人には当面やるべきことの当てがあるわけではなかった。ついでにここまで急ぎ足で旅をしてきたので消耗品などが減っている。
 というわけでとりあえず買い物をすることにした。それにこの村にいつまでいるのかも明確ではないし、アジトが見つかり次第すぐにそちらに向かわねばならない。準備をしておくに越したことはない。
 セインを神殿に向かわせた後、早速村の中に繰り出した。
 日差しは強い。太陽はまだ空を昇りゆく途中にあったが、その輝きは既に夏の暑さを放っていた。
 抜けるような青空には雲もない。
 そんな最中に日光を避けるものが何もない大通りを歩くのは、旅慣れた二人にとってもやっぱり暑いことには変わりはなかった。
 滲んできた汗をミーアは手で無造作に拭った。
 緩くまとうマントはしっかり光を遮りつつもそれなりに風通しがよかった。もともと鎧の下に着ている物が黒のタイツであるだけに、上に一枚日除けを羽織らねば逆に暑くてやってられないのだ。
 一方のナシィは相変わらずのロングコートだが、見慣れたミーアはもう何も言わなかった。
 ただ時々すれ違う村人が珍しげな目で見てくるのには閉口したが。
 横を歩くナシィを見ると別段気にしている様子はない。まさか気づいてないわけではないだろう、とは思う。
 だからハーフキャットである自分が珍しいのか、それともナシィの夏らしくない格好のせいだったのかは結局判断できなかった。
 とりとめのない話をしながら歩いていたが、まずは保存食の買い足しにと一軒の店の前で足を止めた。
 そこは乾物を中心とした食料を扱っている店だった。つくりはごく普通の商店だ。小さい入り口と掲げられた木の看板が店の有様を伝えている。
 それは冒険者向けというよりは地元の人が使うような店だった。
 少し戸惑いを見せたナシィにミーアが説明する。
 この村の規模は大きくない。下手に冒険者専門の店に行って高い買い物をするよりは、こういう地元の人が使うような商店の方が案外いい買い物ができるわけだ。
 ベテランの言葉に納得して、ナシィはミーアについて店に入った。

 店内の空気は静かだった。
 外にあった夏の匂いとは異なる、乾物特有の乾いた食材の匂いが空気の中にうっすらと混じっている。日除けに窓を薄くしか開けていないため店の中は日陰の暗さを保っていた。
 奥では店主らしい中年の女性がくつろいでいたが、ナシィら客が入ってきたのを見て少し姿勢を改めた。
「いらっしゃい。何かお探しかい、旅人さん?」
「ちょっと保存食をね。こういう店の方が便利な物が多いでしょ。」
 声をかけてきた女性に明るくミーアが答える。
 その言葉に好感をもったらしく、女性も笑顔を見せた。
「そうかい、そりゃ嬉しいね。ゆっくり選んでくれていいよ。」
「ありがとね。」
 ミーアの礼に合わせ、ナシィも会釈をする。
 同じく笑顔が返ってきたので安心して品定めに入った。
 ミーアは基本的な材料ではなくほぼ調理の済んだものを中心に選んでいる。あれこれと手に取っては、紙包みに書かれた短い文章を熱心に読んでいた。
 そういえばミーアは料理が苦手だったのを思い出す。
「ミーアさん、素材の方も買い足しておきますね。」
「あ、じゃあそっちはお願い。」
 振り返らずに淡白に答えたミーアの背中に、ナシィは苦笑した。
 一人旅の時はこうやって食事のことをことさら意識はしなかった。せいぜい仕事中に相手と共にするくらいだ。
 親しい人と一緒に食べる食事は楽しいものだったのを思い出したのは本当に最近のことだったと、今更ながらにふと思う。
 しばらく店内のあちこちを物色してから、既に選択を済ませていたミーアと一緒に女性の元に向かった。
 支払いについてはまとめてミーアが行い、後で三人で頭割りすることにする。
「毎度あり。またこの村に来たら寄っておくれ。」
 お釣りを受け取ったところで、ミーアはすぐに店を出ようとはせずに足を止めた。
「ええ。ところで一つ聞きたいんだけど。」
「何だい?」
 ナシィも立ち止まる。
「実は仕事探してるんだけどさ。護衛の仕事って今ないの?」
 ナシィは顔には出さなかったものの少し驚いた。だがミーアが片手を軽く上げて制したので、話を合わせるため何も言わずにうなづいておく。
 ただ驚いたのは仕事の依頼のことそれ自体ではなかった。護衛がいないことに関して「おかしくはない」と夕べ言ったのはミーア自身だったから、予想外の行動に意外に思っただけだ。
 そのミーアの問いかけに女性は首を横に振った。
「あー、それじゃあ…他の店に聞いた方がいいよ。それって行商してる人の護衛だろ?うちのとこの商人は、確か…自前で用意できてるって言ってたから。」
「そう。じゃあいいわ。ありがとね。」
 返事を聞いたミーアはあっさりと引き下がった。ナシィもそれに応じて店を出る。
「ありがとうございました。」
「はいよ。また来ておくれ。」
 話し慣れた、よどみない挨拶。
 それを聞いた時先ほどの言葉と比べてわずかな違和感をもったが、ささいなものだったのであまり気にすることもなくそのままナシィは店を出た。
 視界に広がるのは眩しい光。
 一歩進んで立ち止まり、目を慣らしてから歩き出す。
 辺りを見回しているミーアに声をかけた。
「ミーアさん、さっきの話ですが。」
「ん?」
 振り返ったその瞳は糸のように細かった。猫の目は光への適応が高い。
「護衛がいないのはおかしくもないって言いませんでしたっけ。」
 ナシィの問いかけにミーアは小さく上げた手を振った。
「念のためについでに聞いてみたのよ。どうせ買い物するんだから問題ないでしょ。」
「確かにそうですね。」
 納得したので、それに関しては財布を持ったミーアに任せることにする。
「あ、じゃあこれお願いね。」
 ついでと言わんばかりに、たった今買った品の入った袋を手渡された。
 たいした量もないので全部受け取って手にかける。当然のようにそうしてから、ナシィはようやく全部を受け取る必要はなかったのじゃないかと気づく。
 ミーアを見たが、彼女は猫のような笑みを見せるとすぐに次の店を探しに歩き出した。
 手にした紙袋をもう一度だけ見て小さくため息をついてから、ナシィも荷物持ちとして買い物に付き合う覚悟を決めた。

 三軒目での買い物を終えて、ナシィの手がそろそろ店の品を選びにくいほどに塞がってきた頃。
 道に出た二人は向こうから歩いてくる見慣れた白い姿に気づいた。
「あ、セイン。」
 先を歩いていたミーアが手を振る。
 向こうも気づいたらしく手を振り返してきた。
 横を歩いていた見知らぬ男性に何事か告げてから、こっちに駆け寄ってくる。服装などの感じから同じ神官と思われた。
「買い物ですか?ありがとうございます。」
「いいのよ、そっちもお疲れ。」
 立ち止まったミーアとセインの元にナシィもようやく追いつく。
 ナシィの手に下げられた荷物を見てセインの目が丸くなった。
「ナシィさん、大丈夫ですか?」
「え、ええ。これくらいなら。」
 腕に袋の掴み手が軽く食い込んでいるが、服の上からならば別に痛いということもない。
「ところで、あの方は?」
 ナシィがセインの肩越しに見知らぬ男性の方を見ると、セインもちょっとだけ振り返ってから答えた。
「この村の三位僧、ケップさんです。しばらく一緒に行動することになりました。」
 向こうもナシィらの視線に気づいたのか、目が合うと軽い会釈が返ってきた。
 こちらも会釈し返してからセインに向き直る。
「そうだったんですか。これからどこかに行かれるんですか?」
「はい。ジンスさんのお宅に向かいますので。」
 それでは、と会話を切るとセインはまた足早にその場を離れた。
 ケップという名の僧とともに歩き出す。ナシィらの少し手前の道を折れ、脇の路地へと去っていった。
 見送ってから自分たちも歩き出した。
「セインの方も問題はなさそうね、安心したわ。」
 前を歩いたままミーアが呟く。
「ええ。…まあ正直なところこっちにとってはあまり良いとも言えませんが、この調査はまだ長引きそうですし。」
 ナシィも歩きながら答えた。
 今までに回った三軒はいずれも商人の護衛は募集していないと答えた。扱う物が似通った店が続いていたため同じ商人が仕入れをしているのかもしれないが、このまま同じことを言われるような嫌な予感もする。
 するとちょうど同じような考えを持っていたのか、ミーアはこれまでとは異なる店の前で足を止めた。
 看板には薄い金属板が張られ、「刃物・金物」と打ち出されている。
「何か買うものでもありましたか?」
 消耗品が減った以外には特に壊れたり不足したりといったものは思いつかなかった。せいぜい、小型の使いやすいナイフをもう一本セインに持たせるかどうかといったところだ。
 ミーアは振り返った。
「ナシィ、こないだから気になってたけど、ちょっと剣を見せてくれる。」
 そう言われ、ナシィは素直に脇に差した剣を鞘から抜いて手渡した。
 ミーアはそれをしげしげと眺めた後、指先で刃の腹をなぞり途中で止めた。
「これはわざわざ直して使ってるのよね。」
 そこには剣を横断する傷があった。
 欠け具合を見れば一目で分かる。それは真っ二つに折られたものを後から補強してつないだ跡だった。黒い刃の両面に金属の薄板が留められている。
「ええ。だけど問題はないですよ。」
 見た目には危なっかしいが、実際にはかなりの強度がまだ保たれていた。相手の刀を受けてもそうたわむことはない。
「そうは言っても念のためよ。お金なら貸すから、買い換えた方が良くない?」
 その申し出に対してはナシィは首を横に振った。
「いえ、これはいいんです。魔力にも耐性がありますから。」
「そういえば…この前、直接見せてもらったわね。」
 ミーアが言っているのは恐らく、彼女の刃を受けたあの時のことだろう。刃にまとった風を剣で受けることで消し去った。
 その時の様子を思い出して苦笑する。
「いい品みたいね。買おうとしても大きな街まで行かなくちゃどうしようもないか。」
 ミーアは手にした剣を数回確かめるように振った後、ナシィに返した。
 受け取って再び腰に差す。
「当分は買い換える必要もないと思いますよ。まあ余裕ができたら考えます。」
 口ではそう言ったものの、この剣は完全に壊れるまで手放す気はなかった。例え剣として使えなくなったとしても持ち続けるだろう。
 これが今となっては唯一の形見らしきもの。手放すのは、全てを終えてあの地に戻った時だ。
 ナシィが剣を確かに収めたのを確認してからミーアは言った。
「まあいいわ。せっかくだからこの店にも寄りましょう。」
 目の前の店に足を向ける。
 ナシィもそれに従って荷物を抱え直すと入り口をくぐった。


 一方、ナシィらと別れたセインはジンスの家のすぐ近くまで来ていた。
「あの人たちが君の仲間の冒険者か。」
 横を歩くケップが口にする。
 さっきはとりあえず仲間だと話しただけだったので、それぞれの名と身分(クラス)・仕事(ジョブ)についてなどを紹介した。
「いい人たちですよ、私がこうしてこちらに来ることも承諾して下さいましたし。」
 セインが何気なく口にしたその言葉には、ケップは何も言わずとりあえずうなづいただけだった。
 そのまましばらく行くと目的地が見えてきた。
 民家の並ぶ住宅地。その家々の中の一つがジンスの家だ。
 他の家と比べて目立たない印象を受けるので、思わず見落としそうになったのをケップに呼び止められた。
 正面に立って改めて見上げる。覚えていなかったわけではないが、たった今見過ごしてしまった理由は何なのだろうと考えた。
「あ…。」
 呟きは無意識のうちに洩れた。
 第一印象でも感じた目立たなさは、家の持つ存在感の希薄さにあった。
 それは、この家には二人の人間が住んでいるにもかかわらず、一見するとまるで空き家のように見えることが原因だった。手入れをされていないのか入り口脇の植え込みに雑草がはびこっている。玄関には雨の後に付いたらしい足跡が掃除もされずに汚れたまま残っていた。
「どうかしたのか?」
 先に立つケップが振り返って怪訝な顔を見せる。
「いえ、何でもありません。」
 セインは首を振ると一歩前に出た。
 ノックがされる。
 扉はすぐにきしみと共に開かれた。返事もなく、陽の届かない暗がりから姿を見せたのはジンスだ。
「…お前たちは?」
 睨むように二人を見つめるジンスに対し、ケップが答える。
「ソロボ師はしばらく治療方法を調べるためにこちらに来れないので、代理として我々が来ました。」
「それは構わんが…薬は昨日受け取ったばかりだ、他に何かあったのか?」
 ジンスの言葉にケップは小さなうろたえを見せた。確かにソロボがあの薬を渡した時に、「また三日後に」と言っていたのをセインも思い出す。
「何か、というわけではありませんが、もしよろしければ奥様と少しお話をさせてはいただけないでしょうか?」
 対応を迷っているケップを見てすぐに横から口を挟む。
 ジンスはその言葉にもう一度二人を睨んだ後、扉の奥に戻った。
「…まあいいだろう、ちょうど今は起きている。だが気をつけてくれ。」
「はい。」
 暗がりから放たれた小さな声に、セインはうなづいて家の中に入った。
 先を行くジンスの後をついて昨日も見たばかりの短い廊下を歩く。
 ここの窓は相変わらず閉ざされており、他の部屋から洩れてくる光だけが視界を保たせていた。
 ケップは黙ったまま横を歩いている。セインはそれを見てそっとささやいた。
「勝手なことを言ってすみませんでした。」
 頭を下げると、ケップは小さく首を横に振った。
「いや、構わない。おかげで助かった。」
 そっけない言い方に少しだけ恐縮する。
 顔を上げると、もうアフィリクトのいる部屋の目の前だった。
 一度足を止める。
 ジンスが戸を開けると、薬草の匂いがまた香った。
「こんにちは。」
 一声かけて部屋に入った。
 空気の色の明るさに気づく。カーテンこそかかっているが開かれている窓のおかげで、風が抜けていた。うっすらと赤色を残した布がかすかに揺れている。
 そして、ベッドの上では上半身を起こした女性が座っていた。セインらが入ってきたのに対して戸惑いも見せず微笑みかける。
「はじめまして、ですわね。ジンスの妻アフィリクトと申します。」
 軽いお辞儀と共に聞こえたのは、か細いながらも確かな声だった。

 体の具合などについて幾つか問診したが、ひどく衰弱しているのと眠っている時間がかなり長いことを除けば特におかしいところはなかった。これはここに来る前にソロボに聞いていた通りだ。
 言葉に気をつけつつ、更に会話を続ける。
「具合はだいぶ良くなっているみたいですね、きっともう少ししたら起きられるようになりますよ。」
「そうですか、ありがとうございます。」
 答えるアフィリクトの声は明るいものの、その顔は青いままだった。
 置かれた細い手が痛々しい。
「ところで…いい家ですね。これらの家具は奥様が選ばれたんですか?」
 当たり障りのないところから切り出した。
 ソロボの話では娘のことを出すと半狂乱になって取り乱すという。だから直接その話題に触れるわけにはいかなかった。だが何も話さないでいれば、娘の失踪の事実が彼女の心の中にどう捉えられているかも分からない。
 うろ覚えな教えの記憶を頼りに、外側からゆっくりと対話を始める。
「ええ。結婚して少ししてから、一つずつ買い揃えていったんです。」
 嬉しげな微笑みを見せてアフィリクトは答えた。
 改めて部屋を見た時に、多少埃っぽくはなっているものの配置された家具などが品のある物だということにはすぐに気づいた。雰囲気から察するに、これはジンスではなくアフィリクトの選んだ物、そして多少趣味が入っているだろうことが分かる。
 相手に不必要な緊張をさせないためにも趣味といった話しやすい内容を選んだ。
「カーテンもいい色ですね。」
「布を買ってきて作ったんですの。素人なのでうまく作れませんでしたが…。」
 恥ずかしそうに答える。照れだろうか、頬に赤みが差して見えた。見ようによっては顔色が明るくなったようでもある。
 隣ではケップが関係なさそうな雑談をするセインを少し不審げな目で見ていたが、これは一旦無視することにした。
 ジンスは何も言わない。だがアフィリクトが話す姿にはいつもよりは穏やかそうな目を向けていた。
 セインは言葉を続けた。
「このベッドはいつ頃買ったものですか?」
「ええ、これはずいぶん昔…。」
 そこで不意に言葉が途切れた。
「…アフィリクトさん?」
 問いかけたセインは、その顔色が白くなるのを見て息を飲んだ。
 言葉が虚ろなものとなっていく。
「これはあの子が生まれる前に…そうよ、あの子は、ここでいつも私の所に来て…。」
 瞳はもはやセインを見ていなかった。遠い目が見るのは過去の記憶だろうか。
 小さく震える両の手をかざして呆然とした呟きを繰り返す。
 セインは顔を覗き込んで名を呼んだ。
「アフィリクトさん、大丈夫ですか?アフィリクトさん!」
「嬉しそうに言ったのよ…手紙を、大事そうに持って!」
 だがその声も届いていないようだった。
 アフィリクトが態度を変えたのに気づいたジンスも血相を変える。
 呼びかけるセインを押しのけるようにしてベッド脇にしゃがむと、妻の手を掴んで必死に語りかけた。
「フィル、大丈夫だ!プリーヤはちゃんと旦那の所で暮らしている。」
「あの子は私に恋人を会わせるって言ったわ、ねえ、何故あの子は戻ってこないの!」
 見開かれた目は赤く血走っていた。
 恐れか、激情か、その体は震えているというよりも痙攣しているようにさえ見えた。
 ジンスが正面に身を乗り出して何度も説得するかのように声をかける。
「もうすぐだ、もうすぐ帰ってくるはずだ。街は遠いから多少手間取っているんだ。」
「私は待ったわ!ねえ、神官さん、あの子はどうしてここにいないの!」
 掴んだジンスの手を振りほどいて、その腕が何かを掴むかのようにセインに向けて伸ばされる。
 セインは一瞬うろたえたものの自分からその手を取った。
 肉のない指は異常なほどの力を見せ、セインの手を握りしめる。
「答えて!あの子は今どこにいるの!」
 血を吐くような叫び。涸れた声は悲鳴のように響く。
 ケップがセインを遠ざけようと手を伸ばす。
 セインは一瞥でそれを制すると、怯んだケップにはそれきり構わず、アフィリクトに腕を掴まれたまま穏やかな口調で語りかけた。
「娘さんは、きっと街にいます。恋人の方と幸せに暮らしています。」
「嘘よ!だったら何故あの子は帰ってこないの?どうして二人でここに来ないの!」
 ぎしりと、掴まれた腕がきしむ。
 苦痛に思わず眉をひそめたが、それを押し殺して穏やかな口調を保ったままなおも語りかけた。
「信じて待って下さい、きっと旅の準備に手間取っているだけです。だから今のうちに迎える準備をしましょう。ほら、帰ってきて母親が寝込んでいたら、きっと心配しますよ。」
 頭を振るアフィリクトの目から涙が流れ落ちた。
「だって、あの子は!…そうよ、あの子は…。」
 セインの言葉を聞くまいと何度も何度も同じ言葉を呟き続ける。
 だが不意に、腕を掴むその力が失せた。
 セインが顔を覗き込む。
「…あの子は、もう、帰ってこないわ……。」
「アフィリクトさん?」
 表情をなくしての呟きだった。
 態度の急変に、ジンスがそっと体を離す。
 三人が無言で見つめる中でアフィリクトは静かに泣き崩れた。
「…そうよ、帰ってこないんですもの…もう、あの子は…。」
「フィル、バカなことを言うな!」
 再びジンスが詰め寄る。
 その手を取ったが、アフィリクトは取られるままに任せていた。
 ただ首を横に振り続けていた。
「いいえ、分かります。だって約束しましたもの、必ずすぐに帰ってくると…。」
「約束なんか、当てにするな!あいつはいつも約束を破ってばかりじゃないか。今回だって、また…。」
 だがアフィリクトはそれ以上何も言わずに、うつむいて涙を流すだけだった。
 ジンスは手を握ったまま妻をじっと見つめるばかりだ。
 セインもまた呆然とその様子を見ていたが、姿勢を正すともう一度アフィリクトに語りかけようとした。
 その肩に出し抜けに手が置かれる。
「待て。」
 振り返ると、ケップが鋭い目で自分を睨んでいた。
「ですが、」
 セインは答えようとした。しかしそれを完全に無視して、ケップはジンスの背に声をかけた。
「ジンスさん、お…私たちは向こうの部屋にいます。落ち着いたら来て下さい。」
「待って下さい!」
 戸惑うセインの腕を掴んで強引に立たせる。
 セインはなおも反論しようとしたが、静かに泣くアフィリクトの様子に口をつぐんだ。
 ただ無言でケップを睨み返す。
 そこに、静かな声が響いた。
「…ああ。向こうで、待っててくれ。」
 ジンスの言葉だ。
 承諾を得て、ケップが手を引いてセインを連れ出す。
 従うしかなかった。引かれるまま、多少よろめきつつもセインは部屋を出た。
 最後に見えたのはジンスとアフィリクトの小さな姿だった。

 ダイニングの椅子に座らされる。
 自分も向かいに腰掛けて、ケップは口を開いた。
「何考えてるんだ!」
 頭ごなしの怒鳴り声だった。ジンスらのことを考えて声量こそ抑えているものの、口調の激しさは変わらない。
 セインは何も答えられなかった。
「ソロボさんも言ってただろ、娘のことを出さないように気をつけろって!どういうつもりだったんだよ!」
 話をした段階ではあれがきっかけで娘のことを思い出すとは思わなかったが、今更言い訳をする気もない。意図はどうあれ結果がこのようなものになってしまったのだから。
「…申し訳、ありませんでした。」
 ただ頭を下げるしかなかった。
「謝るなら向こうにだろ。ったく、何が修道院での教えだよ。何の役にも立ちゃしねえ。」
 棘のある言葉で呟く。
 セインは黙ったままうつむいていた。
 申し訳ないという思いに胸が塞がれる。また苦しめ傷つけてしまったアフィリクトだけでなく、ジンスにも、そして自分を信頼して行かせてくれたソロボとケップに対してもそう思う。
 ひとしきり言い放った後は、ケップも言うことがなくなったのか口を閉ざした。
 互いに黙ったままの沈黙が続く。
 静まり返った家には音もない。
 閉ざされた扉の向こうからも何も聞こえなかった。
 胸の痛みにじっと耐えてセインが待ち続けていると、やがてその扉は開かれた。
 ジンスが疲れた顔をして出てくる。何も言わずに、その瞳はセインを見つめていた。
 その向こうではベッドに横たわるアフィリクトの姿が一瞬だけ見えた。
 音を立てぬよう注意深く扉がまた閉められる。
 そしてジンスは何も言わないまま二人とは少し離れた場所に座った。息を一つつき、後は二人を見向きもしない。
 セインが席を立つ。
「ジンスさん、申し訳ありませんでした!」
 ジンスの前に立ち、頭を下げた。直後にケップも席を立つ音が聞こえた。
 顔を上げると静かに自分を見つめるジンスの眼差しがあった。
「…座ってくれ。」
 それだけ答えてセインが座っていた椅子を指さす。
 戸惑いを覚えつつもセインは元いた場所に戻って腰を下ろした。
「アフィリクトさんのご様子は?」
 同様に腰を下ろしたケップが問いかける。
 ジンスはすぐには答えようとはせずしばらく妻がいた部屋の扉を眺めていた。
 ややあってから振り返る。表情に変化はなかった。
「今は、泣き疲れて眠っている。心配するほどのことはないだろう。」
 その言葉にケップは明らかに安堵したようだった。セインも胸の内で安心する。
「そうですか…それはよかった。安心しました。」
 ケップのその言葉に再びジンスは口を閉ざしたが、今度は比較的早く答えた。
「いつもは気を失うまで暴れて手がつけられなかったが…幾分はましになったようだ。すまなかったな。」
 そしてセインに向かって礼をするかのように小さく頭を下げた。
 今度こそセインは驚いて、慌てて首を横に振った。
「いえ、私は何もできませんでした。ジンスさんの語りかけのおかげです。」
 ジンスはそれには何も答えなかった。ただセインを見る目が少しだけ優しくなったようにも見える。
 ケップは二人のやり取りをいささか驚いたような表情で見ていた。
 短い沈黙を挟んで、またジンスが口を開いた。少なくとも昨日会った時よりは話をする気になっているようだった。
「…明日からも来られるのかね。」
「あ、はい。」
 ケップが答える。それにはただ目を向けるだけで、再びセインの方に体を向けると言葉を続けた。
「よければ、また妻の話し相手になってやってくれ。」
「よろしいのですか?」
 思わず問い返す。
 ジンスが初めて表情を和らげてセインを見つめた。
「あいつがこれだけ長い話をできたのは久しぶりだ、喜ぶかもしれん。」
 穏やかな表情は妻に向けてのものだった。それは構わない。少なくとも、自分の取った行動が迷惑をかけただけじゃなかったと分かったから十分だ。
「―ありがとうございます!」
 セインはもう一度頭を下げた。

 アフィリクトが眠ったので今日はこれくらいにすることになり、セインとケップはジンスの家を出た。
 時間にしてそれほど経っているわけではない。ちょうど昼の食事時が終わった頃だ。
 空腹も感じたのでとりあえず神殿に戻ることにする。
 最初にそう決めた後は黙ったままケップが先を歩くので、セインは少し不安に思いながらもそれについていった。
 今回は偶然うまくいったが、本来なら叱られても仕方のないところだ。それに先ほどのジンスはどちらかというと自分に向けて話をしてきていたことぐらいは分かる。ケップの立場にしてみれば面白くないと思ってもおかしくはないだろう。
 複雑な心境のまま歩いていたセインは、不意にケップが道を折れたことに気づいた。神殿に向かうのとは異なる道だ。
 疑問に思いつつも黙ってついていったが、だんだん裏路地に向かうのを見てさすがに声をかけた。
「ケップさん、どちらに行かれるのですか?」
 その言葉を聞くとケップは足を止めた。
 辺りを見回し、適当に日陰になる場所を探す。そしてセインを手招きして呼んだ。
 いよいよもって分からなくなる。
「あの、どうかしましたか?」
「あー、いや。神殿に戻る前に少し話がしたかったんだ。」
 それには納得するものの、わざわざ裏路地の方まで来る意図がよく分からない。
 セインの疑問を感じ取ったのか更なる説明があった。
「表だと周りのヤツラに見られて、ソロボさんに伝わって後であれこれ言われるからな。」
 そう言って舌を出す。
 さっきまでとの態度の違いに驚いたが、どうやら神殿などではソロボの目もあって気を遣っているらしくこれが彼の地らしい。
「分かりました。」
 セインはうなづいて微笑んだ。
 頭を乱暴に掻きながらケップが更に言う。
「その、まずはさっきのことを謝りたくてな。…ひどいこと言って悪かった。」
 決まり悪そうに視線を外す。
「いえ、私も叱られておかしくない行動を取っていましたし。あの場では外に連れ出して下さってありがとうございました。」
 頭を下げると、明らかに戸惑っているらしく喉で声を溜めていた。
 そういった仕草についセインはくすりと笑った。
 落ち着いたところで、再びケップは言った。
「あんたを年下だとか俺より位階が下だからってつい見下してたよ。で、せっかくだから一つ聞きたいんだが。」
「ええ、私でよろしければ。何ですか?」
 答えたセインに、ケップはこれまでとは異なる真摯な目を向けた。
 セインもその眼差しに一瞬驚いたものの真剣に受け止める。
 言葉はぽつりと放たれた。
「…ライセラヴィの神官が、真に守るべきものって何だろうな。」
「え…。」
 突然の質問に答えは出てこなかった。
 いや、突然じゃなかったとしても今の自分に答えは出せただろうか。まだ自分自身がそれを追っている途中にあると思っているのに。
 セインのそうした迷いを困惑と取ったのか、ケップは慌てたように言った。
「あ、変なこと聞いちまったみたいだな。別に無理に答えなくてもいいから。」
 その言葉には静かに首を横に振る。
「いえ…私も、まだそれを探している途中です。」
 ―答えはこの旅の先にあるのかもしれない。
 ケップが真面目な顔に戻ったので、今の正直なところを答えた。
「私もそれを思って旅に出たばかりです。だからその質問に答えることはまだできませんが、ただ、それを考え続けるのはきっと大切なことなんじゃないでしょうか。」
 うなづきが一つ。
「そして…私としては、そのためだからといって今生きる人々を軽んじてはいけないと思います。」
 少なくとも、対面や立場なんかよりは人を守ることの方が光の本意だと、それだけは強く思う。
 たどたどしいながらも言葉を選んで語ったセインに、ケップは納得したような顔を見せた。
「そうだよな…すぐ答えられるわけもないか。」
 一言呟く。
 ふと疑問に思ったので、セインはそのまま尋ねた。
「ソロボさんはどう教えられたんですか?」
 それを聞くとケップの顔がわずかに曇った。
 少し考え込む間があってからようやく答えが返ってくる。
「…あの人は教えとかも大事にしてるけど、まあそれよりは実際にやっていくことの方を大切にはしているよ。」
 基本的には似たような考えなのだろうか。セインの顔に喜びの表情が浮かんだ。
「そうですか、私もそれには賛成です。」
 セインの嬉しそうな笑顔にもケップの表情は変わらなかった。
「…そう、かな。」
 その呟きはどこか苦々しげなものだった。
「え?」
「いや、何でもない。そろそろ戻るか。」
 聞き返した時にはそれも消え、元の表情に戻っていた。すぐにまた先を歩き出したのでもうその顔は見ることができない。
 ただ、さっき見せた一瞬の表情は見間違いなどではなかった。
 ―何かに一人苦悩するかのような。
 セインはそれ以上は何も言わず、ただ前を歩くケップの背中を見つめていた。


 宿に帰ったセインを待っていたのは、何を思ったのか自分たちの部屋の中で料理を作っているナシィの姿だった。
「…ただいま帰りました。」
 扉を開いて、一拍置いてから静かに一言告げる。
 それでようやく気づいたらしいナシィが急に慌てた表情をした。
「あ、お帰りなさいセインさん。あの、お邪魔しててすみません。もうすぐ終わりますから、ちょっと待ってていただけませんか?」
 うろたえているのか早口で謝罪をするナシィにとりあえず答える。
「いえ、それはいいんですけど…何をしているんですか?」
 その言葉に、ナシィは一度手元の鍋を見てからもう一度セインの方に向き直った。
「…料理、ですが。」
 本人はいたって真面目に答えているだけに始末が悪い。
「いえそういうことではなくて…。」
「あ、セイン帰ってきたの。」
 セインの言葉は後ろからかけられた声に遮られた。
 振り返るとミーアが立っていた。その手にはたった今洗ってきたばかりらしい濡れた野菜が幾つか握られている。
「はい、ちょうど今。ところで何で部屋の中で料理をしているんですか?」
 セインは言いたかったことをはっきりと口にした。宿の中なら別に自炊しなくても安くておいしい料理を頼めるはずなのだが。
 その質問に、ミーアは明快に答えを返してくれた。
「買い出しのついでに食材を幾つか買う羽目になっちゃってね。もったいないから使ってたの。三人分あるから安心して。」
 それを聞いてようやくセインは納得をした。

 できあがったごった煮を囲んで三人が座る。
 机の上には旅で使う携帯用の鍋置きと食器が用意されていた。
「でも、そもそもどうして食材を買う羽目になったんですか?」
 いい具合に柔らかくなったジャガイモをフォークで崩しつつセインが言った。
 それには器を手にミーアが答える。
「買い物がてら情報収集をしていたんだけどね。必要なものを売ってる所だけじゃ欲しい話が聞けなかったから、ついでに色々回ってたのよ。」
 ここで出汁を一口すすってから、今日あったことを詳しく説明した。
 昨日のイディルスとの話で出たように、ここで斡旋している仕事には商人の護衛がなかった。それを不思議に思い、村の中で買い物のついでに護衛を探している商人が本当にいないのかを一日聞き回っていたのだ。
 結果は、本当にいなかった。どの店でも仕入れの商人は護衛を自前で用意していると言った。
 聞いてきた店の種類は多かったから、仕入れの商人が一つのグループだけだとも思えない。
「まあ、これが何か理由があるのか、単なる偶然なのかは結局分からなかったけど。」
 そう言ってミーアは三杯目を自分の器に盛った。湯気が立つほどに熱い料理だが、猫舌ではないのだろうか。
「あ、そういえばおみやげがあるんだった。」
「え?」
 器を置いて席を立ち、自分の鞄から何かを取り出す。
 セインに手渡されたのは小さなナイフだった。
「はい。安かったからおごりでいいわ。」
「いえ、それはいいんですが。でも私は護身用のナイフぐらいは持ってますよ。」
「そうだけど、それって普段使えないじゃないの。」
 ミーアのその言葉には、あっという顔をしてセインもうなづいた。
 そのセインが今腰につけているのは神殿で授かったクリス・ナイフだ。 ただこれは刃物としての機能も持つものの、それよりは破魔の道具として用いられることが多い。その力ゆえにそうめったに使われるものでもなかった。
「だからこんな料理の時とかに不便じゃないかと思って。いちいち私のナイフを貸すのも何だしね。」
「ありがとうございます。」
 納得がいったのでセインは素直に受け取った。ただしお金だけはきちんと支払ってから再び席に戻る。
「僕たちの方はこれだけでしたが、セインさんの方はどうでしたか?」
 こっちの方が猫舌なのか、まだ一杯目をのんびりと食べていたナシィが問いかける。
 セインは手にしていた食器を下ろして今日あったことを説明した。
 神殿には二人の神官が詰めていること、ジンスの家に二人で行ったこと、そこでのアフィリクトとジンスの様子。
 それらを話してからセインはこう言った。
「何とかアフィリクトさんが落ち着くまでいられたらよいのですが。」
「まあ明日すぐに、ってことはまだなさそうだけど。…分かってるわよねセイン。」
 確認するかのようなミーアの言葉にはうなづいてはっきりと答える。
「ええ。覚悟はしています。」
 少し大袈裟な言い方に笑いつつも、その確かな意志にミーアは満足げな表情を見せた。
 そして、ナシィも湯気越しに揺れるセインの顔が穏やかに笑うのを見て微笑んだ。


 セインらがジンスの家に通い出してから三日目。
 その日もアフィリクトとの会話を終え、疲れた彼女が眠りについたのを見届けた後だった。
 神殿に帰ろうとするセインは不意に呼び止められた。振り返ると、ジンスがこちらをじっと見ていた。
「セインさんだったな。少し話したいんだがいいか。」
「あ、私は構いません。ケップさんは?」
 そう聞くとジンスは黙って首を横に振った。セインがケップの方を向くと、承知したとばかりにうなづきが一つ返ってくる。
「では私は帰ります。お先に。」
 ケップはそう言って素直に家を出ていった。
 後に残ったセインはジンスと差し向かいに席につく。
 しかしジンスはいつものように自分からは話し出そうとしなかったので、セインが問いかけた。
「お話とは何でしょうか。」
 ジンスはしばらく黙って何事かを考えていたが、ぽつりと言った。
「…セインさんは、ここの者ではないよな。」
「え、ええ。旅の途中ですが。」
 質問の意図が見えなかったが聞かれたことには素直に答える。
 ジンスはその答えにまた間を置いてから、更なる質問を重ねた。
「ここに来られた理由は何だね。」
「それは…。」
 向けられたのは真剣な目だ。
 だが、セインは言いよどんだ。
 ジンスの瞳は何かを探ろうとしているかのように見える。
 その目に見つめられて、迷った。本当に全ての真実を彼に話してもいいのだろうか。
 セインは一度視線を手元に落とした後、顔を上げた。目の前には寡黙なジンスの顔がある。
 逡巡は短かった。
「ある盗賊たちを追って、来ました。」
 彼を疑うべき理由はなかった。
 少なくとも、娘の失踪と妻の病に心痛める彼が盗賊とつながりがあるとは思えなかった。
 その言葉にジンスは再び目を閉じて考え込んだ。
 セインもようやく気づく。ジンスは何か思うところがあって話をしてきているのだ。言葉を放つまでの間はそれについて考えているのだろう。だからじっと待つことに決めた。
 決心をしたことで、少し不安を感じていた心が落ち着きを取り戻す。
 ジンスの表情は普段よりも厳しく見えた。そこにある真剣さを感じてセインも真摯な顔を見せる。
 更に長い間を経て、再びジンスが顔を上げた。
「あなたがここにわざわざ来てくれたのは何のためかね。ソロボに頼まれたのか?」
 これまでよりも静かな声はゆっくりと語りかけるかのようだった。
 答えを待つ視線を正面から受け止めて、ありのままに述べる。
「それもあります。ですが、私は自分の意志でここに来ました。」
 ナシィらと相談した時から、自分でここに来たいと思っていた。
 アフィリクト、そしてジンスの痛ましい姿を見た時に見過ごすことはできないと強く思ったのだ。
 セインの答えにジンスの目が一瞬見開かれる。
 だが次の瞬間にそれは再び閉ざされた。
 長い沈黙が訪れる。
 ジンスは瞳を閉ざしたまま、身じろぎもせずにそこに座っていた。それは深く考え込んでいるようでも、あるいはただ静かに待っているようでもあった。
 薄暗い部屋の中で風もないままゆっくりと空気が流れていく。
 十分に待ったと思えた時、セインはついに自分から沈黙を破った。
「ジンスさん。話を、聞かせて下さい。」
 その言葉に、ジンスは目を開いた。
 もう一度何かを確認するかのようにセインを見つめる。睨みつけるようなその視線に対しても、セインは表情を変えずただ静かにジンスを見つめていた。
 固く一文字に結ばれていた口が開く。
 その声は、静かな空間に響いた。
「…今夜、ここにもう一度来てくれ。仲間を連れてきてくれても構わない。」
 決意を秘めた一言。
 それは突然の申し出だった。意外な言葉に驚くが、うろたえることはなくセインは答えた。
「分かりました。必ず伺います。」
「後はその時に話す。今は、帰ってくれ。」
 それきり、ジンスはまた口を閉ざすと視線を下に外した。元の姿勢に戻り沈黙を守る。
 その言葉にセインはそっと立ち上がった。
 深く頭を下げる。ジンスからの反応はなかったが、それは普段と同じだったから構わずにその場を離れた。
 暗い部屋を抜けて外に繋がる扉の前で一度立ち止まる。
 振り返った。ジンスは同じうつむいた姿勢で座ったままだ。影に沈むその姿は佇む石像のようにも見える。
 セインはもう一度会釈をして別れを告げた。
 後ろ手に扉を開いた時、差し込んできた強い光に一瞬映し出されたジンスの表情はどこか悲壮さを思わせるものだった。


 宿に帰ったセインが今日見たのは、一階の食堂で何か書類を机に並べてあれこれ物色しているナシィとミーアと更にはイディルスの姿だった。
 夕食にはまだ少し早い時間、店内には他の客の姿はない。
「お帰り、セイン。」
 そう声をかけてきたミーアの元に真っ直ぐ歩み寄った。
「ただいま帰りました。で、今日は何をやってるんですか?」
 その言葉には手にした書類をかざされた。
 見覚えのあるものだった。何度か目の前で書かれたこともある、冒険者への仕事の依頼書だった。
 それは分かるが、だからといってそれをここでこうやって眺めていることの理由が分からない。
「どうしたんですか?」
「んー、見ての通り仕事探し。」
「え?」
 問い返したセインに、ミーアは立ち上がるとその手を引いて数歩移動した。近くで書類を眺めているイディルスに聞こえないようそっと耳打ちする。
 正直な話、盗賊の調査は行き詰まっているらしい。そこで動きやすくするためとついでに滞在の資金稼ぎも兼ねて、適当に二人で仕事を探そうかと考えていたところだったというのだ。ちなみにイディルスは偶然また会ったのだが本気で仕事探しを考えているところらしい。こちらとしてもカモフラージュに使えるかもしれないので加わっているに任せているそうだ。
 その説明にとりあえず納得したところで、セインは本題に入った。
 さすがにイディルスには聞かれるわけにいかないのでそのまま離れた場所でミーアにこっそりと話す。
「実は、ジンスさんから今日相談を受けたんです。」
「うん。」
 ミーアはもともと背が高い上に耳が頭上にあるので、セインに合わせるため背を曲げた。
「詳しいことは話してもらえなかったんですが、今夜、ミーアさんたちを連れてきても構わないから来て欲しいと。」
「…へえ。」
 ミーアは上目遣いになって少し考えた後、一転して興味のあるといった笑みを見せた。
「わざわざそんな指定があるってことは冒険者に話があるんでしょうね。いいわよ、ナシィには後で話しておく。」
「お願いします。」
 セインは礼を言うと体を離した。
 二人揃って戻ってきたところでナシィが問いかける。
「お帰りなさいセインさん。何かあったんですか?」
 その言葉にミーアは指を一本立てて言い返した。
「女性の秘密に立ち入るのは野暮な男のすることよ。」
 少しだけ斜めに立てられた指は真っ直ぐにミーアらの部屋の場所を示している。
 それで悟ったナシィは、やれやれという仕草をすることで答えた。
「そうですよ、そういうことは後で一対一になってから聞くのが正しいんですって。」
 表面の言葉を合わせてきたのはイディルスだ。
 その手には、既にある程度の選択が済んでいたのか三枚ほどの書類が握られていた。
 調子のいい言葉にはミーアもそれなりのあしらいをする。
「生意気言ってんじゃないの。いいのは見つかった?」
 あっさりと受け流して再びナシィの隣に座った。セインも横の机から椅子を引いてきてそのまた隣に座る。
「こんなものだと思いますが。」
 ナシィが手にしていた書類をミーアに差し出した。
 ミーアはそれを眺めて首をひねる。
「悪くはないと思うけどね。…まあいいわ、今日慌てて決めなくてもまだ余裕があるでしょうし。」
 すぐに返された書類を受け取ってナシィもうなづいた。
「そうですか。じゃ、これは返してきますね。」
 机に広げられた書類を集め始める。それを見たイディルスが書類を返しながらも口を挟んだ。
「お二人とも仕事の選択が厳しいですね。ほんと余裕だなあ。」
 しみじみと言うが、とりあえず書類をあっさり手放した時点で人のことは言えないのじゃないかとセインは思った。
 言葉に軽さはあるがそれは裏から見れば精神的に余裕があるということだ。冒険を始めてまだ一年ほどと聞くが、人懐っこさやどこかのんびりしているところを見るとどこかの貴族の次男あたりが道楽で冒険者になったのかもしれない。たまに噂で聞く話だ。一人旅をしているから勘当された可能性も否定できなかったが。
 ナシィが店主の元に歩き去ったのを見て自分も立ち上がる。
「じゃ、私は部屋に戻って着替えてきますね。」
「それじゃ私も戻るわ。また夕食の時にでも会いましょう。」
 ミーアも一緒になって席を立った。
 余裕のある笑みを見せられて、イディルスも仕方なしに苦笑混じりの笑顔で答える。
「ええ、じゃあまた。」
 カウンターの方を見るとナシィが店主相手に仕事のことで何やら相談をしていた。
 ナシィなら放っておいてもそのうち何とか戻ってくるだろう。説明はその時でも十分だ。
 そう判断してミーアはセインと共に二階への階段を上った。


 雲無き空の端に細い月が浮かぶ。
 それは爪のような鋭さを増していた。
 ジンスに指定されたのは夜だけであり時間は未定だったが、これは人目を憚ってのことだと判断して三人はやや遅い時間に宿を出た。
 村の大通りを歩く人の姿もない。多くの家では灯りも落とされて、光を放つものといえば満天の星々だけだ。
 更に三人は念には念を入れ、人目を避けるために裏路地を選んでジンスの家に向かっていた。
 案内役は唯一家の場所を知るセインだ。三日通ったおかげでそろそろ土地勘も身についてきていた。
 曲がり角の度に足を止めてそっと先の道をうかがう。
 弱い月明かりのために見辛かったが、幸いここまで誰にも出くわさなかった。
 まとったマントが緩むのを片手で掴んで歩く。
 白い服が闇夜で目立たぬようにとミーアはマントを脱いでセインに貸していた。ナシィは黒のコートなのでそのままだ。
 しばらく歩いたところでセインは足を止めた。
「ここです。」
 立ち止まる。正面に立つ家を見上げたナシィとミーアは息を飲んだ。
 灯りのない佇まいは廃屋のようにも見える。
「本当にここでいいの?」
「ええ、そうですが…じゃあ確認します。光よ我が手に宿りて灯となれ(イ・アセ・リト・ト・スタイ・メ・ファンイン)。」
 セインの合わせた両手の内に柔らかな光が生まれた。
 範囲と方向を調整しつつ家をゆっくりと照らしていく。
 間違いなかった。
「確かに、ここです。」
 セインはそう言って手を打った。瞬間、光は消え失せる。
 そして扉をそっと叩いた。
 それはすぐに開かれた。
 暗闇から姿を見せたのはジンスだ。家の中に灯りは燈されていないのか光らしきものは見当たらない。外のわずかではあるが確かな明るさに慣れた三人には、その空間は完全な闇のように思えた。
「遅くなってすみませんでした。」
「いや、それは構わない。…こっちだ。」
 ジンスはセインに答えた後三人を一瞥すると、すぐに奥に消えた。足音もほとんど響かないその様は広がる闇に消えたようにも見える。
 後ろに立つ二人を導きつつ、セインは家の中へと進んだ。

 机の上には唯一の小さな灯りが燈されていた。
 弱い光は、辛うじて相手の顔が見えるかどうかという程度だ。窓も閉められているため部屋の中はほとんど闇に覆われていると言ってもいい。
 既に椅子は三人分用意されていた。
 それぞれが席についたのを見て、ジンスも向かいに腰を下ろした。
 だが、うつむいたきりすぐには何も話そうとはしなかった。
 かすかに揺れる光がその顔に深い陰影を刻む。真一文字に結ばれた唇には強い意志がうかがえた。
 重い沈黙がゆっくりと流れていく。
 ミーアが横目でセインの方を見たが、セインは無言で首を横に振った。
 息づかいまでも聞こえそうなほどの静寂が場を覆う。夜の、そして閉ざされた部屋の中では外の音も何も聞こえなかった。
 ナシィも沈黙を守っていた。
 時折揺れる灯りだけが動きを有する。照らす光が移り変わっていく中でも、その場の者は動きを封じられたかのように停止していた。
 誰も、何も言わないまま待ち続けた。

 ―どれ程の時が経ったのだろう。
 閉ざされた闇の中で、不意にジンスが顔を上げた。
 その表情は頑なな決意と同時に、哀しみを思わせるものだった。
 ようやく現れた動きに、三人がじっとジンスを見つめる。
 その口が小さく開くのが見えた。
 声が静寂を破る。
 訴えは途切れそうなほどにか細く掠れていたにもかかわらず、あの時アフィリクトが叫んだのと同じ血を吐くような響きを宿していた。
 ジンスは一言こう言った。

「―娘は奴等にさらわれたんだ!どうか、探して欲しい…。」
〈続〉


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