菫花小話

氷江愛子

 雨水――。
裸木枯野にも、ようやく小さな芽がふき始める。
 春はまだ浅い。にもかかわらず降りそそぐ日差しはことさらに麗らか。花の盛りの候かと紛う程の陽気である。
 野辺に寝転がって昼寝でもしようというならばもってこいの気候であろう。だが、軋る荷車を引いて長い道程を行く身には、この陽気は寧ろ迷惑であった。
(まだ雪が消えたばかりだというのに……)
 額鼻筋に溜まった汗を手首で拭いつつ、呂範は思った。
 彼が牽く荷車の中には、一山の荷。城内の市で買い付けた品である。
 呂範は、城と彼の住む邑との間の荷運びを生業としていた。半年前、唯一の肉親である父親を亡くしてからは、十二歳の呂範が一人でこの仕事を続けていた。
 田園地帯や野ッ原を幾つか抜け、小川沿いに設けられた一本の径まで辿り着けば、邑はもう目と鼻の先である。
 あともう少し、といったところであった。が、
(喉が渇いたな)
 仕事の終わりを目前にして、呂範の喉の渇きは激しさを増し、耐え難いものとなっていた。用意してあった水は、予想外の暖かさの為にとうの昔に尽きている。口腔の中は水気を失い、少しでも渇きを癒そうと唾を搾り出そうとしても、それすらも叶わぬ。
 彼の右手には、小川――。
 さも心地良さげな水が、彼を誘う。
 如何に豎子であるとはいえ、荷車をこのまま放り捨てることはならぬということくらいはわからぬ彼ではない。が、
(少し、水を飲むくらいならば……)
 荷車から手を放し、小川に降りた。

 浅瀬の岩に透き通った水が衝突り、白い飛沫が跳ねる。
 雪解けの為に小川の水は少しくその嵩を増し、氷のようにつめたく冷えきっていた。
呂範は、透明な流れを一掬い、両手に掬い上げ、口をつけた。
(はあ……)
 一掬いを飲み終え、胸の奥底から息をつく。身体の内側が冷やされてゆく。その心地良さを、呂範は暫し、愉しんだ。
 手を放すと、残った水が球い雫となって零れ落ちた。
 川に還った雫を再び掬い上げるように、二掬い目、三掬い目。
 心ゆくまで飲み終えると、顔を洗い、腕を漱ぎ、足裏を水に浸した。
 そのまま、溜息をひとつつく。
(もう、戻らねばな)
 日頃は、決して仕事中に荷車を放ったままになどせぬ彼である。
 荷車を放置すれば径を塞いでしまう上、荷を盗人に奪われる危険もある。第一、さっさと仕事を済ませなければ一日分の仕事を終えきれぬ。
(だが……)
 それでも、心地良い流れは、呂範の両足をしっかりと捉えて放さない。
水流の幻術、飛沫の跳躍は、容赦なく彼を惑わし誘う。
呂範はそのまま立ち上がり、奥へ奥へと歩いていった。

唐突に、水の飛沫く音が聞こえた。
水流が自然にたてる音ではない。人が水を目一杯に跳ね上げる音である。
「先客があったか……」
 独り言ち、音のする方へと呂範は歩いていった。
「やっぱりな……」
 予期した通りの人物の姿に、呂範は苦笑する。
 先に呂範がいた位置からは物陰となって見えぬ淵、一人水と戯れているのは、少女。既に頭の天辺から水をかぶったようにずぶ濡れで、水気を吸った麻の衣が重たげな動きを見せる。
 少女がこちらを向いた。
「範―!」
 呂範に気付くと、快活に叫んで手を振った。呆れ顔をしてみせた呂範が大股に近づいていくと、彼女のほうから駆け寄ってきた。
「栗……」
 呂範は、彼女の名を呼んだ。
 劉栗。
 呂範と同じ邑に暮らす、彼とは同い年で幼馴染の少女である。彼らの邑の中では比較的豊かな家の娘ではあるが、それでも貧しい暮らしを送っていることにかわりはない。殊にここ数年は、彼女の父が酒浸りのために身代を傾け、彼女達一家の暮らしはかなり逼迫していると、呂範は聞いていた。
「物好きが……。まだ川で水浴びなどする季節ではないだろうに……」
 大仰に肩をすくめ、息をついてみせた。
「こんな時期に水浴びなんぞしているのは真冬でもいきなり水場へ入って遊んでいられるお前くらいだ」
「範だってやってたじゃない」
 あっさりと切り返され、呂範は言葉に詰まる。
 揚げ足取りを真に受けて困惑する呂範の表情が可笑しくて、劉栗は独り微笑した。何とはなしに、意地悪心をそそられて、
「それに、範。仕事中なんでしょ。放っといていいの?」
つい、言葉を重ねた。
「よくないが……」
 呂範が少し萎れる。その様子がまた可笑しくて劉栗は少し笑った。しかし、遣り込められた呂範が少々気の毒な気もする。
(これくらいにしておくか)
 呂範を揶揄うのを止めにした。
「やはり、戻ったほうが良いか」
 岸へと歩き始めた呂範の腕を、劉栗が捉えた。
「いいじゃない。もう少しくらい。つき合ってよ」
 年齢の割に上背のある呂範の顔を、劉栗が見上げる。
 呂範の目の前には、劉栗のくりくりとした一対の瞳。
 抗い得ない。
「私はまあ構わないが……栗のほうは?」
「機織仕事の最中に抜け出してきちゃったんだけれど」
 けろりと笑って
「大丈夫。今日は父さんも母さんも家にいないから、多分ばれない。まあばれてもどうってことないし」
 あっけらかんと言う。
(私の時とえらく違うな……)
 自分一人が深く考え込んでしまったようで、少し悔しい。
「範、もっと上のほうに行こう」
 何の屈託もなく言ったものだ。
(狡いな……)
 水を蹴り上げ、飛沫を撒き散らして上流へと駆けてゆく劉栗の後姿を、一抹の苦々しさと苦笑を覚えつつ、呂範は見送っていた。
(敵わないな、あいつには)
 胸の中でのみ呟くと、呂範は彼女に続いた。
 一歩一歩、水流に抗いつつ歩を進めてゆく呂範の足首が水面を切り裂く。切り裂く度に生まれる鋭い水紋が、飛沫の後を追っていった。

 二人がやってきた場所は、日陰になっているからであろう、先の場所よりもさらに水が透き通り冷たく、そして人が全く近づかぬ所であった。
「ねえねえ、範……」
 意味ありげな劉栗の呼び掛けに応えて呂範が振り向いた瞬間、
「ほら!」
 彼女が蹴上げた水が、呂範の顔を直撃した。
 呂範が怯んだ隙をついて、劉栗は両手で思い切り水を跳ね上げ、彼に水しぶきを浴びせた。
 怒りとも苦笑ともつかぬ表情を顔に浮かべると、呂範は型のごとくに彼女に水の応酬を返した。
 すると彼女は、はしゃいだ声をあげて再び呂範目掛けて盛大な水しぶきを浴びせるのである。
そんなことが、繰り返される。
ただそれだけのことであるが、劉栗は時折歓声をあげつつ明るい笑い声をたてる。つられて呂範も微笑んでいた。
いつのまにか、劉栗だけでなく呂範までもが濡れ鼠になっていた。劉栗は劉栗で、先以上ににずぶ濡れである。
「はあ……」
 一息つくと、劉栗は、一つに束ねた髪を前に回してギュッと両手で絞った。髪から溢れ出る水が劉栗の指を伝い腕を伝い、肘の先から滴り落ちた。
 髪、頤、濡れた衣服――。劉栗の全身から、透明な雫が滴り落ちる。
 ぐっしょりと濡れそぼった劉栗の衣服は透き通り、ぺたりと彼女の肌に貼り付いている。
 不意に呂範は自分の衣が肌に貼り付く感触が気に懸かり、慌てて衣を両手で掴むとばたばたと煽った。
「どうしたの?」
「あ、否、なんでもない」
 劉栗の問い掛けに、平静を装って応える。
実際、なんでもないのだろう。このように無意味に心を揺り動かすのは、蓋し馬鹿げたことに違いない。
「栗、お前本当にいいのか?家に帰らなくて」
 故無く乱れる内心を気取られぬよう努めつつ、呂範は先と同じ内容のことを問うた。
「いいのはいいけれど……」
 彼女は、少しその続きを言うのを躊躇う様な素振りを見せた。
「範と一緒にいるってばれたら、母さんが煩いかな」
「え……?」
 予期せぬ答えであった
「どうしてまた……」
 幼い頃から共に遊び、共に時を過ごしてきたきた二人である。それを、今更一緒にいることを禁じられていたなどとは、思いもよらなかった。
「母さんがね、あんな一文無し、傍に寄せておくもんじゃないって。あたしくらいの器量よしならもっと良いところに嫁けるんだって」
 劉栗は、笑って言った。
 彼女としては、ちょっとした軽口くらいのつもりであったろう。
 だが、呂範の表情は強張り、そのまま凍りついた。
「でもね、父さんは、あの豎子はあんな貧乏なまま終わるようなタマじゃあない、そしたら玉の輿でいいじゃないか、って。そう言ってた」
 母の言葉に呂範が傷ついたと判断したのか、劉栗はそう付け足した。
 が、呂範の表情は変わらない。寧ろ、一層血の気を引かせたたようでさえある。せめて不自然と思われぬだけの態度をとり続けるだけで、この時の呂範には精一杯であった。
 呂範の背筋を悪寒が突き抜けた。
(流石に、冷えてきたか……)
 如何に季節外れに暖かであるといえど、冷えきった雪解けの水に長時間身体を晒して平気でいられる筈がない。この悪寒はそれ故に違いないのだ。
 呂範は、そう考えることにした。
「出よう」
 そう劉栗に告げると、呂範は早足で岸へと向かった。
「え……?」
「いい加減、寒くなった」
 極力感情を押し殺した声でそうとのみ言い、さっさと歩き始めた。
「ねえ、ちょっと、待ってよ」
 劉栗が後ろから駆け寄り、呂範の二の腕をとった。
「放せよ……」
 呂範は、劉栗の手を振り払おうとした。
だが。
「あ……!」
 小さく叫び、劉栗はあっさり呂範の腕を放すと、パシャパシャと水飛沫をあげて岸まで駆けて行った。
「おい……」
(何なんだ……?)
 呂範は、訝りながら彼女の後を追い、岸に上がった。

 劉栗は、屈み込んで夢中で何かを見ているようだった。
「ねえ、ほら、範。早く来て」
 劉栗が手招きする。
「ほら、これ……」
 彼女の視線の先には、早咲きの菫の花が一輪、ひっそりと咲いていた。
 小さな花、しかし、その鮮烈な色彩は、呂範の目を鋭く射た。
「ね」
 劉栗は、心底嬉しそうに笑っていた。
(やれやれ)
 呂範は、呆れるやら微笑ましいやら、とにかく、笑っているより他無い気分であった。
(それにしても)
 彼女は、是程までに菫を好んでいたであろうか。確かに昔から花好きではあったし、菫の花も好きなようではあったが。
「お前、そんなに菫が好きだったのか?」
 気に懸かり、訊ねてみた。
「好きだったよ、昔からずっと。でもね、最近その理由が判ってもっと好きになった」
「理由……?」
 不判顔の呂範に向かって、劉栗が語りかけた。
「菫の色は、範の色だから」
「私の色……?」
 益々途惑ったような呂範に、彼女はクスリと小さな笑みを零して続けた。
「そう。菫の色は、範の色。範、この色、似合うよ」
 呂範の瞳が、目の前の野花を見つめる。
「何となく、だけれどね」
 付け足すように言うと、フフッと笑った。
(菫の色が、私の色……)
 目に沁みる程に鮮やかで深い菫青色。是程に気高い色が、本当に自分に似つかわしい色なのか。
(それならば……)
 風が出てきたのか、菫の花は少しく揺れた。呂範はそれを、故も無き胸騒ぎと共に心に留める。
「そろそろ行こう、範。もう行かないと」
 明るく笑って、劉栗は駆け出した。
 彼女の背を、呂範は見送る。
 向かい風が、劉栗の髪を、呂範の衣を靡かせる。
 先刻、何かを考えていた。何を考えていたのかは、忘れた。
 彼女の後に続いてやがて呂範も歩き始めた。
 振り返ると、小さな小さな菫の花が、北からの風にそよいでいた。

(了)


  あとがき(と称したもの)
 お待たせいたしました(誰を?)。ネタ炸裂です。
 『三国志』の「呂範伝」のはじめにあるエピソードが元ネタです。
 しかし、本当に妄想が炸裂していますね……。私の頭の中の妄想をストレートに文章化するとこのようになる、といった文章です。
 そしてなんら時代考証等も何もなされていない……ただ妄想のおもむくままに綴っていったもの……。そして某国の憲法解釈の如くこじつけが……。
 小南先生(参考文献欄参照)、申し訳ありません……。
 今回気付いたのですが、私の語調は本当に周囲にあるものの語調に影響されやすいですね。そして、話が周囲の環境に影響されやすい……。
 かような状態ではございますが、何卒一つ宜しくお願い申し上げます。

  参考文献
ちくま学芸文庫『正史 三国志 7』(陳寿著・小南一郎訳 筑摩書房)


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