羊の孤独、西瓜の恋

あおり

     1.Au clair de la lune

 たった一人で旅に出た。もっとも、旅なんて普通は一人のものかもしれないが。
 帰る気の無い旅。無謀な家出。
 逃亡。それがもっとも相応しい言葉だろう。自分探しなんてものではない。ただ律は皇室に居られなくなった。居続ければ自分で自分を締付けるだけ。それが理由。それはいいわけ。
 街道を行けば誰もが振り返った。自分を皇太子とも知らない者たちが。皆少なくとも律の背後などではなく、律自身を見て振り返る。本当に自分を見つめる瞳。例えそれが着飾った上物の着物や長く流している赤毛のためだとしても、皇室の付属物と見做されるよりはましだ。
 一日歩いて都のはずれにたどりつく。川沿いに形成された街が細長くなるのは当然のこと。律は少なくとも一人で未熟者が荒野を歩けると思うほど愚かではないから、当然川沿いを歩くことになる。
 都のはずれだとはいっても、露店はまだ延々と続いている。支流と交わるこの土地は便宜上王都と街道との境になっている。何しろ道は町と町とを繋ぐのだ。店の軒先を数えながら歩けば、かなりの辺境でない限りいけない街は無い。むしろ一般には街道を伝って辿り着けない集落を村としているくらいだ。
 まあそんなことはどうでも良い。とにかく律は都のはずれでちゃんとしていそうな宿に一泊した。この場合『ちゃんとしていそうな』とは宿代が高いという意味だ。もっとも大通り沿いの宿屋ならば安宿でもそれなりに安全ではある。頻繁に警吏の者が泊まっていくし、そうでなくともメインストリートならば十分客が来るのだから、わざわざ宿泊客の懐をかすめたりするような愚者は少ない。
 で、『ちゃんとした』宿で一泊した律は、初めて毒見なしで食事をすることになる。
 冷めていない料理のなんとおいしいことだろう。ここに旅の目的は鮎の塩焼きを一から作って食べることに決定する。一からといったところでただ釣上げて塩焼きにするだけのつもりだが。まずは川の上流まで行かなければならない。今下ってきた川をさかのぼれば確実に宮殿に連れ戻されるてしまう。この際合流した隣の川をさかのぼるのが手っ取り早い。そしてお約束というかなんというか、その川には鮎が居なかったりするわけで、そのままおよそ三ヶ月の放浪が始まり、突如として鮎探しは終わりを告げる。
 鮎より魅力的なものに出逢った。

「まあ、かわいらしい」
 開口一番、宿の看板娘はのたまった。
 自分の顔を自覚していても、面と向かって言われたのは初めてだったためか、律は赤面した。
「まあ! 本当に……」
 満面の笑みはこのことか。なんと無邪気に笑うことだろう。いや、無邪気に笑われて赤面している自分こそ無邪気で未熟な子供か。
「あ。あの。      ごめんなさい。お客様。あまりにも可愛らしかったので、つい……」
 律の顔が不機嫌そうに見えたのか、突然宿の娘は過ちに気付き、うろたえだした。
「あの、御気分を害されませんでしたか?」
 律は顔を上げる。うつむいたりするのは自分の仕事ではない。しかし、なんとも笑いたくなるような娘であることよ。これでは誰も彼女をしかれまい。
「いや、気にしなくて良い」
 律としては精一杯無感情に(つまり、さも気にしていなさそうに)言ったつもりだった。が、相手はそうは受け取らない。
「あ、あの、本当に」
「気にしなくて良いと言っている」
「は、はい」
 看板娘はそれでもなおしゅんとしている。実在が疑わしくなるほど典型的な性格だ。
 気まずい雰囲気。
 カウンタの上の陶器の羊は何も言わない。
 羊が一匹、羊が二匹、
「羊は三匹」
 律の頭が午後の陽気にとろけかかってチーズ状になっていたころ、娘はそう口をはさんだ。
「わたし、いつも思ってたんです。いくら宿屋だからって、こんなところに羊をおいていたらうっかり数え始めてねむっちゃう人がいるんじゃないかって。だから、お客さんがこの羊に魅入られた時は、『羊は三匹』って言ってあげることにしているんです。眠っている間にお部屋に運ばれて料金請求されたんじゃお客さんお怒りになっても当然だと思うんです。でもわたしがこう言ってあげるおかげでご機嫌を悪くしたお客様はまだいないんですよ」
 さも誇らしげに語る娘。いったいいくつなのだろうと思ったが、女性の年齢など聞くものではないといわれていたのを思い出し、律は口をつぐむ。
「あ、ところでお客様はうちにお泊りになられるのですか?」
 さっきの平謝りな態度はどこへいったのだろう?
「そうだな。最近夜も長くなってきたことだし、とりあえず一番明るくて清潔そうに見える宿を選んだつもりだったんだが」
 とたんに娘の表情が暗くなる。
「私は運が良いらしい。喜怒哀楽のわかりやすい看板娘のおかげで今晩は気も使わずゆっくり眠れそうだ」
 自分の魅力に気付けよ、と半ば皮肉混じりに言ってやる。
 娘は、一瞬だけ不思議そうに顔をゆがませてから
「ありがとうございます!」
 窓が揺れるほどの声をあげ、深くお辞儀した。跳ね上がった彼女の前髪がもろに自分にかかってきたことは言わないでおこう。彼女の名誉と笑顔のために。
 慌てた顔も、面白くはあったが。

 もちろん律が旅をやめたのはたったそれだけのためではない。そんなに安い宿ではなかったためか、はたまた単なる偶然か、その日の客は律で最後だった。もっと正確に言うと、律だけだった。
 そしてその夜、どういうわけか、食事を運んできた娘は律と一緒に食事をしていた。
「これは、羊の脳……だな。」
「はい。お嫌いですか?」
 不安そうな瞳で娘は見つめた。
「とんでもない。一度食したことがあるというだけだ。非常に美味だ。しかしなぜこのようなところでこのような高級品がと思うと不思議でな」
 律自信、宮中でも食べたのは一度だけだ。
「我が家は、本業が羊飼いなんです。でも近年羊毛の売れ行きが悪いのでよく羊をつぶしているんです」
「そんなことをすれば、たしか今の制度ではかなりの税金がかかったはずだが」
「詳しいんですのね。でも実際の問題として、自分の羊をどうしようと勝手だと思いません? 用途別に登録しておくことなんかに何の意味があるんです?」
 国の法律顧問官から直に教えを施してもらった身とはいえ、十二歳の子供には理解できていなかったのか。答えられない自分に腹が立つ。
 それはともかく、この娘、見かけによらず芯はそれなりにしっかりしているらしい。
 律の興味を惹いていく性格と知性。
「あ、そういえばまだ名前を申しておりませんでしたね。わたくし、当宿を経営しております、常葉と。律様は――」
「待て」
 律は思わず遮った。
「何故名前を知っている?」
「宿帳にお書きになったじゃないですか」
「……そうか」
 そんな気もする。うっかり本名で書いてしまったのか。
「はい」
「で、何だ?」
「はい?」
「私が遮らなければ何か言おうとしていたろう?」
「はい。ご出身はどちらかと。あ、別にお答えにならなくてもよろしいのですよ。ただ、なにか話題になるものがございませんと。昨日のご様子からするとお話になるのはは嫌いではないのでしょう?」
 確かに。一人旅は気楽なものだが、寂しくないといえば嘘になる。
「名前から判らぬか? 皇太子の律だが」
 どうせ信じやしないだろうと思って真実を言ったのがまずかった。
「まあ、それでは今はお忍びで?」
「信じるな。冗談だ」
 はたしてこのフォローで通じるものか?
「嘘が下手ですのね」
 それきり彼女は黙ってしまう。曖昧な微笑からはその「嘘」が何を指しているのかは読み取れない。
 しかたなく律は話題を変えた。曖昧に流してしまったほうが良いだろうから。
「そういえば『とこは』と言ったな?」
 どこかで聞いたことがある名だった。どこか、とは恐らく宮中のはずだが。
「ああ、ご存知ですの? そうです。七年前、狼に」
 突如現れた狼の大群によって一夜にして消滅した村の生き残りの名だ。何故律の耳にまで入ってきたかも思い出した。
 白羽がたった村でもあったからだ。白羽がたつと言うのは、皇族の生誕以降一年以内に地震に襲われるということである。皇族の最初の伴侶は白羽のたった集落から選ばれる。複数あればそれだけ伴侶の候補は増えてしまうわけだが。
 つまり、白羽のたった村が狼に襲われ、彼女一人が生き残った。現行の法律上は自動的に律の婚約者になってしまっている。律に選択権のない状態でもこの婚姻に関する法律が有効なのかどうかが学者達の間で問題になり、当然律の耳にも届いていたと言うわけだ。
「宿帳を見たとき驚いたんですよ。皇子様がわざわざ私という人物をご確認なさりにいらっしゃったのかしらと」
「だったら忍びで来る必要がないだろう」
「いえ。私に気付かせずに観察なさるおつもりだったのかもしれませんし」
「それなら宿帳に本名は書かん」
「そうですね」
 これで、多分ごまかせたはず。
「ところで、お前が例の常葉だというのなら、なぜこんなところで宿を経営しているのだ?」
「なんだか政府のほうも私の扱いに困っているらしくて。とりあえず村の残った財産は皆私が相続することになったんですけれど、皇子様との婚約に関してはまだもめているらしいんですの。それで正式に婚約することになるのなら私にきちんとした教養と資産を下さるのだそうですけれど、もし婚約が無効になるのだったら私にかける費用なんて無駄になっちゃうわけですよね。そんなわけで私は自立してまっとうな職をこなし、一方政府からは時折私の生活態度を監視しに役人がやってくるって状態なんです」
「妙だな。お前の教育費は無駄に成り得ても監視費は無駄に鳴り得ないとでも言うのだろうか?」
「いえ、監視費は今のところ私が払っているんですの」
「……。
 ちょっと待て。すると何か? お前は自分を監視させるための費用を自分で払っていると言うのか?」
「まあ。そうですね。でも強盗やなんかからはちゃんと守ってくれますし。その辺の見ず知らずの方を警備に雇うのに比べたら信用できますよ」
「でも、皇子の婚約者問題を解決するために政府自身がお前を殺そうと考えるかもしれない」
「それはそうなんですけど、でもそれを言うなら私がこの政府の提案を蹴っていた場合、もっと私の身は危険でしたよ」
「……」
「気になさらないでください。どうせ私は一度すべてを失った身なんです。今更いつ死ぬかなんて気にしないほうが人生楽しめると思いませんか?」
 健気だ。なんと前向きなのだろう。 そして何度も繰り返してきた疑問が甦る。
 宮廷を抜け出すことは本当に正しかったのか?
 そして自分は、彼女に匹敵するような器だろうか?
 比べようがない。何しろ遭遇した不幸が違いすぎる。自分がどれだけの荒波に対抗できるのか。それは出遭って見なければわからない。ただ、恐らく今のままでは敵わないということだけは確かなのだろう。
 常葉に見合う強さが欲しい。彼女がフィアンセ候補だからか、彼女が常葉だからなのかはわからない。とにかくそれだけの強さがなければ、自分に生きる価値を見出せそうになかった。

 翌朝、何故か常葉とともに酔い潰れていた律は、激しい自己嫌悪に陥った。宿酔したのが自分だけだということも情けなかった。まあ、所詮は十三の子供ということか。かくして律の宿泊は一日延期される。内心常葉といられる時間が延びたことを嬉しく思っている自分の弱さも情けない。
「ごめんなさいね、律様。年齢も考えずに。最近一人で呑むのが怖かったものですから。私って酔うと人への勧め方がちょっと強引に成ってしまうんですよね。うっかりしてました。済みません」
「いや、別に強要されてはいないから」
 とは言いつつも、律には昨日の記憶が殆ど無い。
「嘘言わなくても良いです。私、自分が『飲んでくれなきゃここから飛び降りてやる』とか言っていたこと、ちゃんと覚えていますから」
「……」
 無論、律の記憶にそんな事実はない。
「本当に、ごめんなさい」
「では、その堅苦しいしゃべり方を止めてくれないか」
 律は、自分の科白が信じられなかった。一瞬前までそんなこと考えもしなかったのに……いや、はたして本当に考えていなかったものか。
「でも……律様は、おぅ……お客様ですし」
「だからといって、お前のような年上の人物からやたら敬語を使われるのもくすぐったいのだ」
 それ以前に自分のしゃべり方も問題のような気もするが。
「じゃあ……律……さん。私からもお願いです」
「?」
「と……友達に なって ください」
 驚いたのは律だった。おかげで何も言葉が出てこない。いや、山ほど出ては来るのだが、すべて声帯を震わす直前で色あせてしまう。
「旅人だってことはわかってます。ずっとここにいて欲しいというわけではありません。でも、このあたりに再び来た時には、立ち寄ってくれたり、たまには、手紙をくれたり、して、いただけないかと」
 何故自分に? 何故彼女はこうも必死になっているのだ? 何故。
「わがまま、でしょうか? 友達が欲しいというのは」
 その一言が、律を納得させ、疑問を氷解させ、落ち着かせ、そしてわずかに落胆させた。
 おそらく彼女には親しく付き合う人物など一人もいないのだろう。政府の監視がついているということは、誰しもが彼女との付き合いをある程度望み、ある程度恐れているのだろう。いつ彼女が宮殿入りするかも、いつ彼女が暗殺されるのかも分からないのだ。彼女との親睦を深めることによって自分の人生がどうなるのか――それは、大きな賭けである。
 だから、彼女は彼女と友人関係になることのメリットもデメリットも分かっていて、なお親しくなれそうな律と、フェアに付き合いたいのだろう。
「友人なんて『成る』ものじゃない。でも、お前――常葉と私なら、親しくやっていけそうだな」
 律は、自分の言葉に背中が寒くなった。
 しかし悪くはない。
「ありがとうございます!」
「『ございます』は余計じゃないか?」
 余裕を見せ付けてやろうと思ったその言葉にが裏目に出た。常葉の紅い微笑みにつられ、結局律も赤面した。

 その夜(酒盛は無かった)、律は階下からの物音で目を覚ました。誰かが、宿の扉を静かに叩いている。そして入り口付近へ向かう足音。
「何のぉ御用でしょうかぁ」
 なんとも寝ぼけた常葉の声。
「夜更けに済まないが、空き室は無いだろうか? 山で迷い、やっと街道に出たところなのだ。金はある」
 低い、落ち着いた男の声。
 しばしの沈黙の後、
「ちょっとお待ちくださぁい」
 そして、常葉が階段を上がる音。
「あのぉ、律さぁん、おきてますぅ?」
 部屋の前で、常葉は言った。
「私のことなら、気にしなくて良い。客を泊めるのが宿屋だろう?」
「わかりま……ふぁぁ、した」
 ……しかし、不安だ。彼女の寝ぼけ具合が分からない以上、一緒に行ってやるべきなのではないか? だが、こっちは客人。
「……いや、友人だったな」
 律は起き上がり、急いで階下に向かった。
「あら律さん。どうしたんです?」
 とろんとした目つきの常葉を見て、来て良かったと安堵した。
「ちょっと喉が渇いた。それより先に客をいれてあげないと」
「そぉですね。どうぞぉ」
 すぅっ、と扉を開け、常葉は客人を招き入れた。満月に照らされ、背に大剣を担いだ巨漢。彼がその気になれば律がいたところで彼女の安全度がまったく変わらないことは、一見して明らかだった。
「かたじけない」
 巨漢は入り口をくぐり――否、くぐろうとして頭をぶつけた。(ちゃんとかがんではいたのだが)
 自分の体格すら把握していない剣士など、大して強くはないのだろうな。律はそんなことを考え、黙って立っていた。
「二階です。ご案内しますね」
 どうやら舌はだいぶ回るようになってきているが、不安なので律も後ろから付いていく。
「あなたも客人か?」
「そうだ」
 そして、巨漢は声を落として耳打ちした。
「明日の朝、決して逃げることなきように、殿下」
「!」
「あなたの許嫁が人質です」
「役に立つと思っているのか?」
「あなたは誰に対しても人殺しを望みません」
「   」
 開いた口からは、何も出てこなかった。

 寝付けない。どうしたものだろう。おそらく明朝、律は宮殿へと連れ戻されるのだ。逃げることは、何とかなるかもしれない。しかし、常葉をおいて? 自分の逃亡のために常葉を危険にさらすことは出来ない。そもそもなぜ自分は城を出たのだ? 自分が自分であるためだったはずだ。彼女を置いていくことは自分が自分であることに反する。
 恐らくあの戦士を殺すことは可能だろう。律の命を狙えないのだから。しかしそれも律が自己を否定することになる。彼は悪人ではないのだから。
 律は自分のおろかさを呪った。常葉が監視されていると言うことは私がこの宿に入ったことはすぐに城まで伝わってしまっていたはずなのだ。分かった時点で即座に逃げ出すべきだった。宿酔が何だと言うのだ。


 律は珍しい子供だった。生後三日にして瞳を開け、二週間にして虫歯になったという話は皇室の公文書に残っていたし、遺伝的にはここ十数代以上にわたって皇室では現れたことのない赤毛はいやでも人目を引く。そもそもこの国で生まれた者でさえ、赤い髪は珍しいし、彼らにしても探せば(探すことが出来れば)まず間違いなく早々父母までには異民族の血が混じっている。産んですぐに他界した母の貞節を疑う者がいても不思議ではない。
 実際に律が誰の血を引いていたかは定かではない。問題はその血を気にする人間がいて、父親がそれに反発して息子を過保護に育ててしまったことだ。
 噂に耳を傾ければ悪口しか聞こえず、父親の言葉はいつも自分に甘いだけなので信用できない。それに父親自身、わかる筈が無いのだ。一体誰が自分の本当の出生をしっている?
 もしも母が生きていたならば、安心できるのだろうか? あるいは母親その人が生きていて、自分の生まれを保証してくれたとしても何も変わらなかったのかもしれない。

 皇太子として生を受けて五度目の夏、律は着替えの服を拒否した。
「はなやかじゃない」
 初めは単なるわがままのつもりだった。はなやかさなどまだわかってはいなかった。大人たちのまね。ちょっとした背伸び。自分の存在に対するわけの解らないコンプレックスの漏出。
 それならばとしたたかな女官は切り返した。
「昔の私の服など如何でしょう? 男の着るものよりは華やかでしょうから」
 本来なら従者が主に衣服を与えるなど有り得ないことであるが、七歳児にそんな感覚は無かったし、あったとしても関係なかった。出された着物に見入ってしまったのだから。
「重たいけど、綺麗」
 生まれて初めて、自分に満足した。

 瞬く間に可愛らしい皇太子は噂になった。

「王子として扱われるのは嫌だ」
 どうせ誰も自分の血筋を信じてはいないのだ。この姿でいさえすれば、皆が自分を振り返る。どんな噂話をされようと知ったことじゃない。
 それが最初の抵抗。自分の迎える八度目の春に、律は秩序の破壊を決意した。しかしただ消極的にレッテルを拒むだけでは自分の肩にそびえる「皇族」という山を崩すことはできない。既に律は自分の性別を捨てようと本気になっていた。
 実際に彼が何をしたにしろ、彼の求めていたものは自分自身を見つめる瞳であった。律の体に流れているはずの血筋の由来を重視するあまりにも多くの瞳の中から、律本人を見つめる眼差しを見つけ出したかった。例えそれが外見についてであったとしても、血筋よりは自身に近い。
 魅力的すぎる付属物は邪魔だ。

 そんな女装癖も、年が経つにつれて宮廷の心配事になっていった。十度目の冬になってもやむ気配が無い。十二度目の春を迎えれば成人だというのに。
 それでも実際に成人する段になれば妙な癖など無くなるに違いない。そう予想した誰もを裏切り、運命は変わらぬ現実を示した。律は刀を佩かず、裳を穿いて成人した。
 今考えれば、それは皇帝の許しがあってのことだ。何故だろう? 律に寛大な皇帝は、この時も律の味方だったのか?
 律は女装しただけではなかった。全身で『皇太子』から逃れようと躍起になっていた。この国の制度上、皇太子は男でなければならない。髪を結い、武術を拒否し、花を好んだ。とにかく男性のやりそうに思えることを拒否し、女性らしくみえる行動を取り続けた。国でもっともジェンダーに支配された子供。
 無論律とて世間がさほど男らしさ女らしさを重視しないことを知っている。諸宗教にも反映され、女人禁制、男子禁制などと決められているのはもはや風呂ぐらいでしかない。旧世界の遺物にがんじがらめにされている自分には気づいている。
 でも、大人しく皇太子になんかなってやるものか。
 最後に残ったのは、意地だった。


「律さん」
 一人悩み続ける律の部屋の前に、常葉が来ていた。

「逃げてください」

「あの男はあなたを狙っています」

「私のことは気にしないで」

「早くお逃げください」

「手篭めにされないうちに」
「うぐっ?」
 きわどい発言に、律はきわどいうめきを漏らした。
「……常葉を置いていけというのか? 友人を危険にさらすほど私は薄情ではない」
「私もです」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「この宿に、未練はあるか?」
「いいえ」
 即答だった。予測していたに違いない。
「しかし、皇子との婚姻はどうする?」
 自分のことなのに、つい訊いてしまう。愚かだ。
「顔も知らない皇子より、友人のほうが大切です……」
「その言葉、信じさせてもらう」
 言う間に律は荷物をとり、戸を開く。
 常葉の、覚悟の瞳に自信をつける。
 信頼するのに、時間は要らない。あるのは直感のみ――

 幸か不幸か、出かけてすぐに雨が降り出した。これで足跡も匂いも流れていく。一方で体温の問題があったが。

 雨の中を駆ける二頭の馬。
 二人を追う孤独な追跡者。
 彼等を見つめる野性の瞳。

「早い。もう気付かれたのか?!」
「私の周りには監視がついていますから」
「……そうだった」
 そして、気付く。追跡者以外の気配に。
「この……気配は……」
「知っているのか?」
「忘れられません。彼等は――狩人」
 狩人――姿は狼。四足の魔物。またの名を妖狼。灰色の魔性。――そして、常葉の村を滅ぼした存在。
「なんてこった」
 これだから荒野は。
「後ろの追手にすがるしかありませんね」
 妖狼に捕まるよりはましだ。
 二人はくるりとターンし、そして止まった。
 すでに、戦士との間を三頭の妖狼が阻んでいた。すべてこちらを向いている。さらに振り返るも、前方には六頭。
 その中の一頭が進み出る。そして、口を開いた。
「麗妃。そなたの勝ちだ。我々は滅ぼしてはならなかった」
 麗妃? 誰に言っているんだ?
「何を今更。そして私はもう麗妃ではない。この身はもはや常葉のもの」
 常葉が答える。しかし、その声は常葉のものではない。
「しかしそなたは生き残り、我々は滅ぶ」
「私は!」
 何を言っているんだ?
「理由はどうあれ、そういうことだ。そなたは生存本能に従って人間に体を提供し、傲慢にも人間を見くびっていた我々は頂点に立とうとした」
「……」
「……常葉?」
 沈黙する常葉に、漸く律は口を開く。
「……」
 殲滅した村でたった一人の生き残り。変だとは思っていたのだ。なぜ生き残ったのがか弱い少女だったのだ? しかも逃げ出したわけでもないのになぜ生き残った? 無論尋ねるわけには行かなかった。彼女を責めることにしかならなかったから。
「常葉? それとも麗妃か? あなたは、誰だ?」
「先ほど我の言ったとおりだ」
 妖狼が口を開くが、律は無視する。
「どっちでも良い。常葉は……一度死んだのか?」
 なんと無神経な問いかけか! よくもそんなことが訊けたものだ。律は自分を呪った。
「死んではいない。死ぬ直前に私、つまり麗妃の体に常葉の魂を呼び入れた。姿は正確に再現した。常葉の意識を無理矢理閉じ込めて私が表面に出ているのは、今が特別だからだ」
 特別、つまり、妖狼を前にしてはそうするしかないということ。
 その言葉に律が反応するより早く、背後から声がした。
「殿下!」
 飛び込んできたのは先ほどの戦士だった。が、着地する前に馬もろとも白骨化している。何が起こったのか、律は結果から推測するしかなかった。
「結局我々はこうすることしか出来ないのだ」
 つまり、殺されたのだ。
「……殺さずに済む道もあるというのに。選ばぬお前たちが愚かなのだ」
 常葉――今は麗妃か――が、呟いた。
「左様、我らは愚者。その愚かなる誇りのため、そなたらを滅ぼしに来た!」
 愚者、か。まったくだ。
「無駄なことを。例え私と律を常葉を消したところでそれは妖狼の血を絶やすだけのこと。たかが九狼では村を滅ぼすことしか出来まい。人間の数を知っておるのか?」
「だから誇りだと言っておろう。誇り高き我ら妖狼は人間に組することなどない」
 なるほど。もう、静観する必要はあるまい。
「狩人たち、ひとつ訊きたい。お前たちのいう誇りとやらは何に対しての誇りなのだ?」
「妖狼であることの誇りだ」
「つまらぬことだな。所詮は獣か。お前たちが滅び、麗妃一人が生き残るのも道理」
「何をもって我々を愚弄する! 九狼もいて汝らに勝てぬはずは無い!」
「己自身の種族にしか見出せぬこと自体、お前たちの誇りが無意味な証拠。また種族の誇りが種族の存亡を超えることなど有り得ない。お前たちは誇りなど持っていない。過去の栄光を妄信して種族を辱めているだけだ」
 麗妃に口を挿ませる隙も与えず、律は切り返した。
「種族の誇りは我の誇りでもある。貴様は同胞を裏切ってでも生きようと思うほど無恥なのか? 生き恥をさらすくらいなら死んだほうがましだ!」
 体を震わせ、妖狼が吠える。
「ならば己自身で考えてみるが良い。確かに妖狼族はかつての支配者たり得たのだろう。しかし人間の帰還によってその地位は奪われてしまった。弱肉強食の法則は絶対だ。お前たちの生存理由が支配者たることならば確かにもはや生きている意味はあるまい。しかしお前たちはこの世の初めから支配者だったのか? そうではあるまい。お前たちとて、少なくとも一度人間が姿を消すまでは被支配層だったはずだ。いつの時か、支配者の地位を手に入れたのだ。種族を誇るというのならば、もう一度支配者の地位を手に入れてみせよ。ただ安穏とした地位が奪われたからといって自暴自棄になることが誇りを示すことなのか? 少なくともお前たちの種の生存理由は支配者たることだけではなかった。支配者の地位を手に入れることも理由のうちではないのか?」
 すると妖狼は笑った。
「もう遅い。今となっては滅ぶしかないのだ。万が一お前たち人間を殺しつくすさぬとも限らぬ。いずれにせよ裏切り者は殺す。種族を愚弄した貴様も殺す! それが我々の最後の誇りだ」
 なんとちっぽけな誇りか。
「麗妃は裏切ったわけではないだろうに」
「黙れ人間。貴様に麗妃の何が分かる? お前たちの風習を利用して国と妃となり、裏から人間界を支配しようと企んでいるのだぞ!」
「だからこそ、裏切ってはいないではないか。麗妃は妖狼再興のために生き延びることを選び、お前たちはつまらぬ自尊心のために姦計を否定しようとしているのだ。種族そのものの危機を前にして、どちらが種の裏切り者かを考えてみよ」
「貴様……それでも人間の端くれか? お前が本心を言っているのなら、なぜ麗妃をかばう?」
「かばう気などない。とりあえず私はこの危機を脱しなければならないのだから。そして私はただ正しいと思うことを述べているに過ぎない」
「……困ったな」
 突然、妖狼の口調が変わった。
『長老!』
 周りの妖狼たちが叫ぶ。
「本当はお前に麗妃を責めさせて我々が『しかし常葉の体は麗妃のものだぞ』と脅迫し、人間との絆を作ろうと考えていたのだが……」
 そして聞こえてくる、ため息。
「……」
 律も驚きあきれている。こいつら、馬鹿だ。
「お前は若いくせにしっかりしすぎだ! そこまで分かっているんなら家出なんかするなよまったく……余計な人間殺しちまったじゃないか」
「長老……」
 麗妃が漸く口を開いた。
「それだけのために、あの村を? そしてさっきの人を?」
 泣いていた。
「まぁ……無駄な犠牲だったな。さっきの奴は。しかし、あの村を滅ぼしたのは当然のことだぞ。戦争中だったのだから」
「戦争?」
「話せば長いが、とにかく我らと奴らは抗争中だった。しかしある時、ついに奴らは魔術で地震を起こし、我らの住処を完全に破壊した。その夜あそこにいた同胞は全滅した。」
「……」
「偶然奴らのところに侵入していた我々九狼と麗妃だけが生き残った。麗妃は和平交渉だったが。そして麗妃以外の我々は奴らの魔術の話をはっきりと耳にし――殲滅作戦を決行した」
 その後を麗妃が受け継ぐ。
「私は私の村が地震で破壊されたショックから暫く自我を失っていたらしい。しばらくして気がついたとき、この九狼が総攻撃に出たのを知り、急いで追った。私たちの全滅を確信していた村人たちは寝ている間に一人ずつ暗殺されていき――かろうじて私が常葉一人だけを助けだせた」
 今度は別の妖狼が口を開く。
「そして麗妃は耳を塞いだ。我々の話など一切聞かなかった。我々はさらに人間という種全体を憎み、完全に滅ぼしてしまおうと計画を練った」
「しかしどうしても無理だった」
 唱和。
「今の我々がどうあがこうと人間を滅ぼすことは不可能だ」
「そこで麗妃を利用しようと考えた」
「麗妃とお前との間に出来る子供は、半分我らの血を引いている」
「とりあえず宮殿に我らの仲間を送り込めば再興も不可能ではない」
「お前がそれを知っていればさらに心強い」
「なるほど。それをここでばらす意図が良く分からないが、それ以外の点では一応筋が通っているな」
「……誰もそこまで言って良いなどとは言っていないぞ」
 妖狼の頭が突っ込む。
 しかし途中で止めなかったあたり、こいつもうっかりしていたに違いない。
「ホントに獣だな」
最後に、律が呟いた。

 妖狼たちはそのまま帰っていった。
 同胞が人間とつるむことは嫌なのだろう。しかし、妖狼族は「許し」を与えぬことが出来ぬほど下等ではないのだと主張し、帰っていった。無論、律が話の流れで誘導したのだが。
「結局、荒野に二人きり、か」
「律さん、本当にホンモノの皇太子だったんじゃないですか」
 そう起こっている風でもなく、常葉が頬をふくらます。正気に戻ったらしい。
「常葉?」
 なぜそれを知っているのだ? そりゃ妖狼族には知られていたが。あと麗妃にも知られたか。
「麗妃と常葉は二心同体なんです。お互いの記憶なんて伝わっちゃうものなんですよ」
「じゃあ、常葉、知ってたのか。お前の体が、麗妃という妖狼のものだってこと」
「はい。黙っててすみません。もともと麗妃が和平交渉に来るたびに一緒に遊んでましたから……だから私、助かったんです。私だけが」
 律には、かけてやる言葉などない。
「でももう、十年以上も前のことなんです。そんなにもなるのに、私、忘れられない――」
 忘れなくて良い。私が守ってやる。
 泣きじゃくる背中を、まずはしゃがませてから、そっと抱きしめた。
 月の光に濡れて。

     2.Les feuilles mortes

「常葉?」
 それから一月あまりが経った。
「おい、常葉。何処だ?」
 いきなり常葉が行方不明になってしまうぐらい、二人は変わっていた。
「常葉? 冗談だろ?」
 部屋にはいない。
 律は扉を開け、外に出てみる。
 一瞬陽光に目がくらむ。
 何も見えない。
「……」
 それも道理、両目が背後からの手で隠されたのだから。
「だーれだ」
「常葉以外に誰がいる」
 両手をつかんで振り向く律。
 見渡す限りの大草原にて。
「この子が生まれてたのかもよ?」
 おなかをさする常葉。
「いもしない子供を勝手に作るな」
 そもそも律はまだ十三だ。
「んじゃあ、羊さんはどうです?」
「羊に二足歩行出来ない」
「これだけ沢山いれば一人や二人、変種がいたっておかしくないです」
「だが少なくとも昨日までいなかった」
 自分で柵の中に入れたのだ。変な奴がいたら気付く。
「だって、最近律ちゃんが冷たいんですもん」
 そして律とのすれ違いざま、後ろから抱きしめる。未だに常のほうが背が低い。当然と言えば当然だが。
「そうかな?」
「ええ。なんか沈んでます」
 それははたして冷たいというのか?
「自分一人で何か悩んでて、私には教えてくれません」
 そういうことか。
「常葉」
「何?」
「一度、僕は宮廷に帰ろうと思う」
「……もしかして、一人で?」
 なんという勘であることか。
「そうだよ」
「決めちゃったんですか?」
「いや、今悩んでいるところ」
「……あ、そう」
「……」
「……」
「……」
「あ、もうお日様があんなに高い。さすが、『夏の日は親戚の子』って言うだけのことはありますね」
「ちょっと見ないうちにこんなに……って?」
「その通りです。ってこんなことしてる暇なかったんですっ!」
 自分で突っ込み、そのまま駆け出してしまう常葉。
 何処へ行くのやら。

「お待たせです」
 数分後、常葉が持ってきたのは大きな西瓜だった。
「昨夜川に浸しといたんです。出発前に食べられるようにって」
「でも、どこで見つけてきたわけ?」
 重かったろうに。
「川の向こうに西瓜畑がありました」
 ……大草原に西瓜畑? 何か変な気がする……
 ……まあ良いか……
「では、早速――」
 どこから取り出したか、常葉は短刀を振りかざし、目を瞑って西瓜に突き立てる。
 ぐしゃりと刃は突き刺さり、深紅の液体が飛び散る。
 そのままおよそ一秒が過ぎた頃、西瓜の割れ目から七色の光が迸る。
 光の洪水、発散、そして収束。
 金色の矢と化した光線は、そのまま薄められ、そして消えていった。
 あとに残ったのは綺麗に二等分された西瓜。
「な……何なんだ? この西瓜は……」
「普通の西瓜ですよ?」
 さも当然とばかり、顔についた西瓜の汁をぬぐいながら答える常葉。
「じゃあ、今の光は?」
「これ、私の村に伝わる銘刀ですから。まさに西瓜を切るためだけに作られたものなんですって」
「はあ……?」
 西瓜を切るためだけに作られた銘刀……?
「そのなも銘刀『九架恕瑠堵』です」
「く……くかどるど?」
 柄にはたしかに『九架恕瑠堵』と銘打ってある。
「鶏の鳴き声みたいだな」
「よく分かりましたね。これはもともと妖鶏族の鍛冶が作ったものなんですけど、何しろ鶏ですから、受け取った人間が意味を理解できなかったんです。それで妖鶏の言葉どおり『九架恕瑠堵』と」
 妖鶏族? 伝説では包丁研ぎを得意とする妖怪となっているが、実在したとは……それともデマか? しかしこの刀が普通のものではないということだけは信じても良さそうだ。
「あれ? 律ちゃん? 信じてます?」
「嘘なのか?」
「口伝があるのは本当です」
「……まあ、世の中、自分の想像できることばかりじゃないさ」
「ええ。とにかく今日もそろそろ出発しないと」
 見れば、常葉は既に半分の西瓜を既に食べ終わっていた。どうやって食べたのか、半球状の皮がそのまま残っている。もちろん顔は西瓜の汁で真っ赤だが。
「じゃあ、律ちゃんが食べている間にちょっと泳いできますね」
 最近野生児化していくなぁ。律はほほえましく思い、自分の短刀で西瓜を割った。

 実のところ、現在二人は逃亡中であった。
 誰から? ――無論帝国から、いや皇室から。
 万が一つかまったら、ハネムーンだとでも言い訳しよう。さもなくば常葉の命はない。そんな気がする。そんなことを考えていた矢先に、
「きゃ」
 今のは常葉の声。恐らくは悲鳴。
「常葉!」
 口より先に、駆け出していた。

 ついてみれば、びしょぬれになった常葉が川岸につっぷしていた。
「常葉」
 ふたたび名を呼び、土手を滑り降りる。
「大丈夫か?」
 抱えて仰向けにしてみると、わずかに口元が動いた。どうやらうなずこうとしたらしい。
「りっ   ちゃん …… う    うしろ  ……  」
「何の真似だ」
 背後の気配に対し、律は微動だにせず尋ねた。いや尋ねたのではない。牽制したのだ。答えなど始めから分かっている。
「殿下、城へお戻りください」
 やはりな。複数の矢が、同時に律を――いや、常葉を狙っている。
「その矢を放とうものなら、私は自害するぞ」
 振り向かず、常葉はこたえる。
「では、その前に殿下の御身体を拘束させていただきます」
「ならばまずお前たちを皆殺しにしてから自害しよう」
 どうせこいつらは自分の身に怪我をさせてはならないといわれているに違いない。
「陛下はこう仰いました。『生きていれさえすれば良い』と」
 まさか! 一応曲がりなりにも実の子を? 周囲の目から自分をかばい、無理にでも皇太子にしてくれようとした父が?
「……信じられない」
 そうして気が緩んだ一瞬の隙をつかれ、律は捕らわれた。

「……ちゃん。律ちゃん」
 呼ぶ声に、律は目を覚ます。
 気がつけば真夜中。二人の腕には鉄の腕輪がはまっている。そして鉄輪から延びる鎖の先には、これまた鉄塊。こんなものが付いていては、とても走ることなど出来ない。
「ごめんなさい。私が溺れたりしなければ逃げ出せてましたのに」
「おぼれた……?」
「はい。そしてなんとか岸に辿り着いたところで律ちゃんと――」
「あいつらが同時に来た」
 なら自分のせいだ。気付くのが遅れた自分の。
「気にしなくて良いよ。いずれにしろ父に確かめたいことがあるから」
「確かめずとも! ……生きられる、はずでしたのに」
「いや、そういうわけにもいかないんだ。まだ常葉には言ってないけど」
「……?」
「ごめん。まだ言えないんだ」
 なにしろ僕は、臆病だから。
「でも、これだけは言っておくよ。……常葉は、僕が守る」
「そんな……そんなの……当たり前です」
 月光に照らされ、消え入りそうな声で常葉が言う。
「だから、律ちゃんは私が守ります」
 ぶめぎゃ。自分でも、頬が赤く染まったのがわかる。
「律ちゃん、顔真っ赤ですよ?」
 心なしか、常葉の目が潤んでいる。
「常葉こそ」
「これは……今夜の月が、とっても赤いから」
 いや、涙を指摘しようとしたんだけど……ま、良いか。
 わざわざそんな無粋なことをする必要は、ない。

 三ヶ月。あっという間に都まで戻ってきてしまった。
 宮廷についた途端に二人は引き離されてしまう。
 その後何を思ったか、役人は鎖をはずしてくれた。
「……?」
「宮廷から逃れることなど不可能です。昔と違い、今では外出するものにも目を光らせておりますから」
 納得。
「父上とは、いつ会える?」
「お望みとあらば、湯浴みの後、すぐにでも」
「急いでくれ」
 さもないと、いきなり常葉が殺されないとも限らない。今の自分にそれをとめる権限はない。となれば、父に頼まなくては。
 それが一番の早道だ。

 久しぶりに着る男物の服は変な感じがした。かなり布が余ってしまう。
 しかし今はそんなことに構っているわけにはいかない。
 窓から紅葉の見え隠れする廊下を急ぎ歩き、律は紅の大扉の前に立つ。
 深呼吸もせず、律は扉を押した。
 銀杏の舞う中庭で、律に背を向け、父皇帝は立っていた。
「耀葉、只今帰りました」
 耀葉とは、皇族の中でだけ用いられる、律の別名である。
「只今帰りましたもなにもないだろうに。家出に失敗した赤子よ」
「……はい」
「で、何の用だ?」
「常葉を――」
 律が口を開きかけたそのとき、
「もう殺した」
 庭には、幾千もの枯葉が散り積もっていく。
「間違いなく、首を刎ねた――私みずからな」
 ゆっくりと振り返る皇帝。その手に、黒い塊。
「あ……」
「受け取れ。お前の妻の遺髪だ」
 動けない。それどころか何も感じない。皇帝は今何と言った? 常葉がどうなったと?
「どうした? いらぬのか。しかし私もいらないのだ」
 言って、皇帝は黒髪を律に投げかけた。
 髪はゆったりと宙を舞い、ぱらぱらと律にかかった。
「何故……殺した?」
「理由を聞けば納得するのか?」
「」
 納得できるはずがない。しかし理由を聞かなくては気がすまない。
「まあ良い。あの娘は妖狼だった。そしてお前とあの娘に結ばれては血筋が絶えてしまうのだ」
「血筋、だと?」
 少なくとも昔の皇帝はそんなものにこだわらず律を愛してくれていたはずだ。
「正真正銘、お前は私の子供なのだよ。だからこそ昔『例えお前が吾が子でなくとも』などと言ったのだ。確信していたからな」
 結局この人も僕を僕として見てくれていたわけではないのだな。
 常葉だけ、か。
 常葉だけ……だったのに!
「そしてお前はよく踊ってくれた。吾が娘、耀葉」
 皇帝は笑ったように見えた。
「……やはり、そういうことか」
 諦めたかのように溜息を漏らす律。
「ほう。さすがに気付いていたか」
「ずっとここにいたら……流石に気付かなかったかもな!」
 言って皇帝に飛び掛る。転ばせ、懐の短刀を首筋に当てる。
「一応、理由だけは聞いておく」
 それは、言い訳。本当は殺したくなどないから。自分に人を殺す勇気などある訳がない。こうして『その時』を先延ばしにしているだけだ。
「焦るな。隠す気はない。私が語り終えたら、思う存分殺すが良かろう」
「……」
「お前の母親のためだ」
 律は皇帝の後ろへ回った。この位置からなら、四肢の動きが一度に見える。
「その頃石女だと言われていてな。長子のお前が生まれたのが私たちの結婚から十五年目だろう? 側近たちは皇室の跡継ぎが絶えるのではないかといってそうとういらついていたからな。あいつに対する風当たりはつらかった。それでもしやっと生まれた子供が娘だったらどうなる?」
 国の制度によれば、帝位に就けるのは基本的に男性だけであり、例外として皇帝の死に際し皇太子が若すぎた時、その妻が暫定的に帝位に就くことが認められている。
「なるほどな」
 すべて説明がついた。皇族にも重婚は認められない。であれば、皇帝は后を殺すかどうかして新しい后を娶るように迫られただろう。だからこの皇帝は律を息子と偽ったのだ。知っていたのはおそらく律の世話係と医者ぐらいだろう。
「無論男が生まれれば真実を公表するつもりだった。しかし次の子供は生まれない。おまけにお前は自分から女を目指した。良いカモフラージュだと思えたので放っておいた」
「それで私の女装に寛容だったのだな」
 道理で似合うわけだ。
「どうした? まだ殺さぬのか? もう語ることはないはずだが」
「もう殺すさ」
 そうは言うものの、手は動こうとしない。
 何故だ? こいつは常葉の仇だぞ?
「……まだか? それとも瞳を開けていては殺しにくいか?」
 皇帝は瞳を閉じる。
「なぜ……そう死にたがる?」
「宿命なれば」
「さだ……め?」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「宿命だと? 実の子に殺されることがか!」
「歴代皇帝は、前皇帝を殺すことによって皇位継承を行ってきた」
「!」
「私も、父を殺した」
「貴様の贖罪に、私を巻き込むな!」
 律は短刀を振り上げ、勢いをつけて振り下ろした。
 刃は狙いたがわず、憎き肉塊に突き刺さる。
「ぐっ……」
 皇帝の体が震える。
「……僕は、継がない!」
 そして駆け出す。枯葉の舞う中を、紅き扉にむかって。
 結局、僕はまた逃げるのか。
「これで、良いんだ」
 だって他に何が出来る? 皇室を絶やすぐらいが、自分に出来る限界じゃないか。
 涙が溢れてくる。常葉、結局、僕は……
 律は、大扉を引いた。そして見た。
「常葉?」
 信じられない。いや、信じられる。単に皇帝が自分を騙しただけじゃないか。
「お待ちください。陛下」
 皇帝直属だったはずの兵が律の前を遮る。
「『陛下』か……」
 つまり、茶番だったわけだ。律を無理矢理皇帝にしてしまえという。
「ふっ。僕は運が良い」
 律は笑った。
「行こう、常葉」
「えっ……」
 戸惑う常葉。
「陛下!」
 自分を無視するなと言わんばかりに叫ぶ兵士
「父上なら中庭で倒れているぞ。早く誰か呼んできた方が良い。言っとくが、僕は腕を刺しただけだからな。放っといても死なないだろうが、隻腕になったらお前の責任だな」
 見る間に兵士の顔が青ざめていく。
「へ……陛下!」
 そして殆ど『陛下』としか言えぬまま、その兵士は中庭へ走り去っていく。
「律ちゃん……今の、本当?」
「ああ。運が良いって言っただろう? 常葉が殺されたと聞いたけれど、殺さなくて良かったよ」
 これほど嬉しいことはない。皇帝の傷は当然のものだ。思い知ったか、とさえ思う。後遺症が残るなら残れ。僕を勝手に『宿命』に巻き込もうとした報いだ。そして常葉の髪を切った報い。
 この気分の高揚、やはり常葉が生きていたからか。そうなのだろうな。さて、自分が女だと分かってしまった今、常葉になんと言おう?
 まあいい。今は他にやるべきことがある。
「それじゃ、また逃げるよ」
「あ……はい!」
 今度の逃亡は前とは違う。単なる逃避じゃない。自由に生きるため、常葉と生きる場所を探すための逃亡。
 もう、ここには帰らない。

 残された皇帝は一人呟いていた
「まったく、私の親殺しの罪をどうしてくれる?」
 誰もいない庭で、ただ紅葉が舞い続ける庭で。
「そろそろ飽きたな。思いっきり派手に国を破壊してみるか」
「それは、お止めください」
 駆けつけた兵士が諫める。この皇帝ならやりかねない。
「そうだな、腕が無事だったら止めておこう」
「そんな……!」
「……嫌なら早く医者を呼ぶことだな」
「あ……はい!」
 奇しくも常葉の声と同時だった。

 皇帝の怪我の騒ぎにまぎれて二人は宮廷を抜け出した。
 そしていつかの宿へ。
 季節は冬。
「そろそろ一巡り、か」
 律の家出から、である。
「さて、律ちゃん、到着しましたよ」
 ここについたら言いたいことがある。そう律は言っておいた。無論騙された性別のことだ。
 一通り説明すると、
「でも、いくらなんでも普通気付かないものかしら?」
「しかし、男女の違いなんて教えられなかったからな。多分わざとだろうけど。おまけに女装していたせいで皆が『男だと主張する女』ではなく『女に近い男』だと思い込んでくれる。実際僕はそういう存在として有名だったし」
「そうですね。私も可愛らしい男の子だと思っていましたし」
 律にしてみれば、多少なりとも常葉が残念がってくれないのが悔しかった。自分の感情が恋だったのかどうかは定かではないが、とりあえず常葉と結ばれることはないのかと思うとなぜか苦しい。いわゆる幼少期の憧れなのかもしれない。しかしいずれにせよ常葉は律を一度として恋愛対象としては見なかったのだろう。二十の娘が、十三の子供を……確かに、そう見るほうが珍しい。
「常葉。      」
 あとに続く言葉は何だったのだろう? 喉に辿り着いた途端に消えてしまった。
「はい?」
「綺麗だな」
「あ、ホントに。雪が降ってます」
 ……いや常葉のことなんですけど?
 暖炉のそばで、夜は更けていく。
「そういえば、今日は降誕の記述のある日ですね」
「ん? ああ、ノエルか……それにしても、なぜ降誕祭は夏なんだろう?」
「伝統って、変なものが沢山ありますよね」
「そうだね。それにしても、早く夏にならないものかな?」
「どうしてです?」
「西瓜が食べられない」
「じゃあ、明日もっとおいしいもの作ってあげますね」
 どこから手に入れたのかは知らないが、翌日の新巻鮭シチューは美味しかった。

     余

「じゃあね、律」
 大陸行きの船から手を振る常葉。
「お幸せに、常葉」
 皮肉混じりに船出を祝う律。先日結婚した常葉はハネムーンを兼ねて大陸へ移住するのだ。
 常葉と会うことはもうないだろう。何しろ向こうは当ても無く彷徨うのだから。
「まったく、わざわざ大陸まで行く必要があるのかね?」
「律、何か言った?」
 小声で言ったつもりだが、流石は狼の耳、しっかり聞こえていたらしい。
「ん? 船賃が高くかかるだろうに、ってね」
「だって、こっちじゃ税制がきつくなって羊が自由に飼えないんだからしょうがないじゃない」
「はいはい。僕のことなんか忘れて行ってらっしゃい」
「忘れたりなんかしません。安心して、律。決して美化したりせず、正確に、あなたのこと覚えておくから」
「……それは、どうも……」
 律としては、用意していた次の皮肉を飲み込まざるを得なかった。
 やっぱり常葉には敵わない。出会った時から、僕はあなたの虜だよ。
 そんなことを考え、赤面する律。
「そんな、照れなくても良いじゃない」
 まあいいさ。恋人じゃなくても、僕らは永遠に親友。その証拠に、常葉が敬語を省くのは僕にだけ……煩悩だな。
「知るか。とにかく、二人で頑張れよ」
「律こそ、董夢ちゃんを大切にね」
「ああ」
 ……って、なんで董夢が出てくるんだ?
 董夢とは、こないだから二人が身を隠している森の中にある村の少女である。六歳児にしては妙な知識を山ほど持っているし、迷い込んできた動物は何でもなつかせてしまうし、その分別のよさは只者ではない。話し方にも幼稚さは見られなず、そのせいかすでに村の議会に出席して恐ろしい慧眼を示しているという。はっきり言って、末恐ろしいカリスマだ。が、何故か律の前ではごく平凡な六歳児に変化するのである。
 将来のことは将来のこと。あまり考えずにおこう。
 そして、汽笛。
「じゃあね、律」
「それじゃな、常葉」
 永遠の別れだなんて感じさせない挨拶。しかし二人は気付いている。
 だからこその、互いの涙。
 風に乗って、常葉の涙が宙に舞う。
「これじゃ、今日は手を洗えないな」
 常葉に向かって振る律の手に涙がかかる。

 戻ろう。祈祷士の修行に。
 今日だけは、常葉のことを忘れていたいから。
                               fin.

あとがき
 始めに断っておきます。サブタイトルのシャンソンは気にしないでください。また、この作品は実在の人物、団体とは、一切関係ありません。
 ついでにあんまり分かりにくいネタも使っていません。うん。なんて親切なんでしょう。
 実は書き上げたあとで誰かさんの年齢を引き下げる羽目になってしまいましたが、それは内緒です。とにかく最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 では。また読んでくださることを信じて。

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