鬼性《きしょう》 上

雨野璃々

         一、

 薄い黄金色の朝の光が射し込む。
 透き通った光が、少女の、花片のような透けるが如き白い腕を包む。眼を凝らせば、陽光に滲む淡い虹の色までが見て取れた。

 横たえた花びらのような少女はそのままに、俺は音もなく身を起こすと、御簾を僅かに捲き上げて、擦り抜けるように出た。一面に散らばった綾絹の装束を踏んで部屋を横切り、薄縁《うすべり》に出る。
 目を細めて五感を研ぎ澄まし、生けるものの気配を探った。
 ――居ない。
 俺のこの館の周りには、卑しい小さな眼を持つ生きたものは居ない。風も動かぬ。草木も息を潜め、死んだ真似などしている。
 それで良い。生けるものは目障りだ。
 何ひとつ動かぬ静寂の中を、俺は再び御簾の内に戻ろうとした。払いのけるように腕で御簾を横に薙ぐ。
「――」
 ああ、と呟いた声は低く、声にならなかった。
 けれど、俯いていた少女は俺の気配を察し、佇んでいる俺に顔を見せた。茫漠とした曇った玻璃のような瞳は、それでもやはり、正面から向けられると――生きている、と感じる。
「眼覚めていたか」
 少女は頷いた。俺は身をかがめて膝をつくと、手近に重なって広がっていた衣〈きぬ〉の一枚を取り上げた。それが重めの織物の表衣〈うわぎぬ〉であることに気付いたが、まあ構わないだろうと、そのまま少女の頭に表衣を被せた。紅い表衣が少女の頭を覆い畳まで垂れる。眼を封じれば、少女はまた美しい花に戻る。表衣を被せただけでもその首が折れるような。
「眠っているがいい」
「いいえ」
 幽けき〈かすけき〉声で少女は答えた。
 低く掠れた俺の声も、幽かな少女の声も、ほとんど音にならない。すぐに静寂に呑まれる。
「――おれは」
 俺の腕が当って御簾が動き、何かと触れ合って硬質な音を立てた。
「姫、来たければ連れて行ってやろう」
 少女は何も答えなかった。音だけを聞いているようだった。
「火を見ぬか。廃墟を見ぬか」
 微かに少女は頭を上げた。
 俺は御簾から出て太刀と弓をとった。少女のために奪ってきた、辺り一面に散らばる女物の衣の一枚を肩から被いた。この衣はしたたるほど血を吸って、帰りには捨てて来なくてはならぬだろう。
「姫」
 振り返ったが、少女は甘い濁った翠色の御簾の向うに留まっていた。来ないらしい。
 あの少女は、劫掠してきたばかりのときは、殺戮に誘えば驚くほどついて来たがったのに、狎〈な〉れた頃になると身動きもしない。
 さして血煙が好きなわけでもないのか。
「血はもう飽いたか」
 血肉を土産に持って帰っても、少女は顔色さえ変えてはくれなかった。喜ばぬなら血肉など持って戻っても仕方ない。
「血でなくても奪ってきてやろう。姫の慰みになろうものを。何が欲しい」
「――なんなりとも」
 御簾の向うから震えるような声が微かに聴えた。
「ただ、必ず戻って来て下さいませ」
 俺は眼を瞠〈みひら〉いた。
 ――必ず――帰って来い、と云う。
 不吉な響きを感じるのは、過敏なことではなかろう。
「異なことを云う」
 御簾の向うの少女は答えない。息さえも潜めているのか、気配もなかった。
「不吉な兆しでも、見ゆるのか。人間はよう眼が見えると聞く」
「御身を案じて」
 鈴を振るような声が鳴った。
「御身を案じて、案じております」
 あ、という音は哄笑のように、残響を残して空に舞い散った。あかがねの粉を青い空に撒いたような、鮮やかな乾いた残響であった。
 ――、あぁああああ。
 少女の狂おしいような哄笑が耳に響いている気がした。
 だが勿論、そんなはずはない。けれど、深い静寂の底で、その残響の果てるまで、耳の奥に鳴る哄笑の幻聴を聴き続けていた。
「――案ずるな」
 しばらく、呟くように答えた己の声が、麻痺した頭にひどく茫洋と聴えた。
 太刀を手に取り直して俺は身を翻した。部屋を出るまでに、指の間から、太刀が二度、滑り落ちかけた。
 耳鳴りなどを一心に聴くものではない。
 魂が現身から引きずり出される。

         二、

 逢魔刻〈おうまがとき〉――大禍刻〈おおまがとき〉にはまだ早い。
 無数の民草が、ざわざわと、一刻も止ることなしに散り、また集まり、蠢く、雑多な気配を感じる。
 俺の身ひとつなら、今日に降りるのに半日かからぬ。少女を伴っておれば、京に下りるのは深更になったのだろうが――
 民の気配が厭わしい。
 思うさま屠っても一向に減らず、また何処やらから列をなして人波が流れ始めるのだ。
「彷徨」
 高く澄んだ声が、俺を呼んだ。
 傍らに華やかな色の衣を纏った、華奢な姿が現れる。
「驚きましたね。あなたはいつも深更に現るると聞いていた」
「俺ならずとも魔が現れるには早い時間さ。お前こそ何ゆえ姿を見せた。滅多に姿は晒さぬだろうに」
「今宵京を襲おうと現れるお仲間方に、警告なりと申し上げようと」
 人形のような青年は穏やかに云った。
「今宵の京は、荒れますよ、と」
「何をするつもりだ、闇夜〈やみよ〉」
 好んでたおやかな姿をとっているとはいえ、この闇夜も、紛れもなく凶暴な妖鬼の身だ。
「よもや一夜にて京を滅ぼしてみせる気か」
「まさか。それは彷徨が試してみるといい」
 闇夜はふと俺から目を逸らし、辺りに視線を泳がせて、他の妖の気配を探った。
「未だ来るものはおるまいさ」
 俺が云うと、そのようです、と闇夜は呟き、再び俺に向き直った。
「神祇祭祀〈じんぎさいし〉の家の者を、俺の闇に染めたのです」
「それは」
「死せし魂を呼び返してくれと、願わせた」
 朱水を湛えて張った唇が三日月の形になる。凄惨な笑みを闇夜は見せた。
「その男と、魂を呼び戻す儀を執り行うのです――今宵。天は彼を許しますまい。彼は打たれることでしょう。勿論この闇夜が守ってやるつもりですが、お仲間方が巻き添えになっては申し訳ない。今宵は手をお引き下さいませんか」
「大言壮語というものだな、闇夜。俺の身が危ういような天の怒りに、お前は抗ってみせるという」
「抗って見せましょう。天の律を乱すのが俺の望みですから。天の下僕なる神祇祭祀の家の者、必ず俺の闇に呑んで見せますとも」
「固執するものだな。そのような獲物がさまで珍しいか」
 云いながら俺は顔を背けた。愚かしい云い争いをしている。
「身が危ういとて騒ぐことはない。鬼は死ぬまい」
「ええ。鬼は死骸同然の姿になったとて、形がある限り動ける。形を完全に失ったとて、念は残って渦巻く。しかし、俺はそのような姿で留まるつもりはありませんから。姿が崩れれば、俺はそれを亡者と呼びますよ」
「それならそれでいいさ。今宵、誰よりおまえが天に狙いすまされようからな。亡者になることだな」
 俺は嘲弄すらこめずに云い捨てた。
「はや逢魔刻にもなろう。京に下りる」
 告げると闇夜は乱暴に、死あれ、と云い捨てた。
「己の身は己で守るさ、闇夜。おまえを妨げもせぬよ。たとい天の劫火におまえが焼き滅ぼされようと、おまえが息絶えるまでただ見ているさ。それでよかろう、異存はあるか?」
「御身お大切に」
「要らぬ事は云うまい」
 逢魔刻の暗い青の彩りに浸された京を俺は見下ろした。
 太刀で虚空を薙ぎ払うと、草木がおうおうと息遣いだけの散漫な泣き声をあげた。これから俺や闇夜や、また幾多の妖どもに狩られる人命〈ひといのち〉のために、のろのろと、届かぬ警告の叫びをあげているのだ。

         三、

 廃墟、とは、このようなものか。
 黒く焦げ、強い炭の匂いを放つ木切れが山積した、その狭間から、膨れあがった玻璃や煤けた石が、存外に多く覗いている。
 廃墟を見ぬか――と少女を誘ったが、俺の知る廃墟とは、劫掠し殺戮するさなかの、燃え狂って何も見えぬ赤い焔に包まれた廃墟だ。焼け跡など見ようと思ったことも、見たこともない。
 此処は少女を劫掠してきた邸の跡だ。
 落雷に燃え盛る邸から、炎にも俺にも悲鳴ひとつ上げなんだあの少女を連れ出した。
 掠ってきたその夜まで、ずっとかの少女はこの邸の内で生きてきたということだ。
 嘘だろうよと俺は嗤った。
 かの少女は、偶々、あの夜、此処に身を置いていたに過ぎぬ。かの少女にはこの醜い焼け跡はおろか、人の造った邸など似合わぬ。
 かの少女はほかの何とも違う。
 氷室の氷の内に閉ざされていたか、絵巻の中に籠められていたか。あの少女が俺よりほかの者どもと言葉をかわし、おもてを変えるなど想像もつかぬ。
 そして俺の前でもかの少女は心を動かさない。声の糸さえ震わせたことはない。
 邸が崩れ燃え尽きても、かの少女は傷ひとつ負うことはなかった。
 都が燃え落ちても、此世が燃え落ちても、少女は美しい人形のように、炎に頬を火照らすことさえ、飛び散る血飛沫《ちしぶき》を袖に浴びることさえないだろう――少女は幻影、魂も現身も此世には触れていない。
 俺が息絶えたとしても――
 ――、あぁああああ。
 さきの耳鳴り、少女の哄笑に似た音が、俺を捉える網のように眼の前に広がった気がした。
 ――、あぁああああ。
 いつしか俺が息絶えたとき、少女はそうして笑うのだろう。
 俺の屍の前で、朱い袖を翻し翻し、祝いの舞のように、呪いを遂げたを祝うように、身を弓なりにして、哄笑を響かせるだろう。だが物狂いのように喜んでくれると云うなら、それも良かろう。まったく俺を思わぬよりは――
「――あ、あ、あ」
 俺は突嗟に振り返った。
 直ぐ傍らで、低い、熱の籠った笑いが聞えた。
「あ、あ、あ」
 ひとたびめは笑いと聞えた声が、ふたたび目は呻きのように響いた。
 呻いているのか笑っているのか――朽木のような老人が、己の衣《きぬ》に顔を埋めてうずくまっている。
「――何者」
 訊くには当らぬことだった。老人はこの邸の縁の者なのだろう。老いさらばえたその身が未だ死なず、邸に居た縁の者が先に死んだと嘆いているのだろう。けれどそうは思いながら、俺は、何者かと問うていた。
「――儂か」
 年古りた、土気色のおもてが俺をのろのろと見た。
 俺は顔を背けた。醜いものは見るまい。「虚耳だ。何も訊かれなんだと思え。おまえは焼けた棒杭であろうよ」
「そうじゃ」
 その低い声は、ひどく近くから発せられたように聞えて、俺は再びはっとさせられた。
「儂はいつまでも――いつまでも残る、焼けた棒杭じゃ。人は焼ければ死ぬが、棒杭は焼けても死なぬわのう‥‥‥」
 老人は何かの呪いを語るかのようであった。
 呪いを伝承する者は殺すものではない。
「おまえは焼けても死なぬとか?」
「焼かれようと思うたに」
 老人が窪んだ目で俺を見据えた。
「あの折に儂も焼かれようと思うたに。あれからはひとたびも‥‥‥儂の上に雷は鳴らぬ」
「それで、雷を追うのか」
「雷が打ったときく跡があれば、こうして――訪《と》うておる」
「追って、おのれも殺してくれと頼むのか」
「頼みの甲斐もない」
「俺が殺してやろうか?」
 漸く俺は冷ややかに云った。この老人はただの――おのれでは死にもできぬ、愚かな、生きたがる虫にすぎぬ。だが引き裂こうと老人の肩を掴んだ俺を、恐れ気もなく土気色の顔が見返した。
「そなたに殺されては、償いができぬ」
「――何?」
「雷に打たれたあの方にこの、もはや幾十年になろう年月の償いができぬ‥‥‥」
 三日月の月影の中で、硬質に見える顔が引き攣る。
「我妹子《わずもこ》が穴師《あなし》の山の山人と、
 人も知るべく、山葛《やまかづら》せよ、山葛せよ‥‥‥」
 言葉を途切らせ、そのまま老人の顔が、問うように俺を見つめた。答えを待つように、時も流れぬように、微動だにせぬまま。
我妹子が穴師の山の山人と、人も知るべく、山葛せよ、山葛せよ――ほとんど茫然と、俺は、頭の中でその歌をひとたび繰り返してみた。
 それが何故か伝わったように、それを合図にしたように、老人はまた、悲哀に氷りついたおもてを伏せ、のろのろと朽木のような体を動かし、俺に背を向けた。
 そうして、ゆっくりと去ってゆく。
ただ死せし者を狂ったように恋慕う、それだけに過ぎぬ者を、何故俺は恐れたのだろう。
 死など幾千もあろう、嘆きなど幾万もあろうに。
 あまつさえ、幾百の命をこの手であやめてきたものを。

         四、

「――姫」
 夜半には雷が鳴り渡った。
 あのもの――今となってはただ物狂いしていたとしか思えぬ老人――に会ってよ、そのまま山の館に戻った。宵より御簾の内に横たわっている。目を瞠いて、ただ、俺はあの老人を思い出だすともなしに思い出だしていた。何故俺が――恐れたのかと。
 時が移って夜半、遠くで低い呻きの音が鳴った。
 乳白色に緑を交ぜたような、暗い空の色。
 闇とは黒ではない。常に奇怪な色をしている。
 低い遠雷はほどなく強い轟音となった。
 光が閃き、その残像も眼裏より消えぬ間に、耳を圧する音がとどろいた。続けてまた閃光が走った。
「――姫」
 低く呼びながら、俺は、傍らに横たえた少女の方を振り返った。
 声をかき消す、叩きつけるような音が厭わしい。
「姫」
 流石に怯えていようかと、俺は少女に腕を延べた。が、身を寄せてくるでもない。やはり人形のように、身に掛けた豪奢な絹の重なりに紛れた花びらのように、力なく横たわっているばかりである。
「――おまえの館も、雷で焼かれたのであろう」
「――はい」
 花びらは身じろぎもせぬまま答えた。
「その夜もそうして、何も思わなんだのか」
「何を思いましょうか」
「燃える――のだぞ」
 俺も少女と同じ方を――漠然と上方を眺めながら呟いた。
「まさかそなたは幻で、此世のものには何にも触れぬのだと――云うわけでもあるまい」
 少女はつと眼を上げた。
 俺は闇の中でまた少女に顔を向けた。
「それとも焼かるる意味を知らぬのか」
「――ひとは」
 冷たい銀の一片を打合せるような、透き通った声が響いた。
「焼ければ、死ぬのでしょう、そして」
「そして」
「此世に残るものは、焼けても、死にますまい」
「――姫よ」
 俺が身動きすると、無造作にかけた重たげな衣《きぬ》の山が崩れかけた。
「人間はみな、かように云うのか」
 少女は答えない。ただ虚ろな眼差しをさまよわせたばかりだ。
「死に別れるのに、馴れたのか」
「此岸と、彼岸は、越えられぬと、そう申しているのです」
「それは、越えられまいな」
「交錯することがあろうと――」
 少女は無感動に云った。
「必ず引き裂かれると、知っているのです。だからせめて、居る間は、思いに任せればよい。彼岸のものでも、思えばよい。――我妹子《わずもこ》が、穴師《あなし》の山の山人と、人も知るべく、山葛《やまかづら》せよ、山葛せよ」
 氷の手に背を伝われるような思いをした。
「それも、人間の歌か」
 少女は頷いた。
 皆が云う歌か、と訊くと、わからぬというように答えなかった。
「おまえには何か、覚えがあるのか、姫」
「――否」
 鈴の音の声は短く響いて止った。そのまま暫く静寂が支配する。
「やはりおまえは、人形か」
 俺は低く笑った。
「だが姫、此岸と彼岸は越えられると云われたらどうする」
 再び漠然と上方を眺めて、俺は投げ出すように云った。
「鬼はそう云う。此岸と彼岸を侵す鬼も居る。そうと聞いたら、その鬼に願いを懸けるか?」
「いえ」
 冷たい鈴がまた鳴った。
「それは、果せませぬでしょう」
「なぜ、そうと思う」俺は微笑った。
「死人は黄泉に留まると、知れたものではないこと。生れ変わっておれば、後を追うてさえ、追いつくことは叶わぬでしょう。だから、わたしは」
「どうした、姫」
 俺は僅かに頭を傾けて、問うた。
「叶わなんだ、ことがあるのか」
「叶わぬことは、願いませんわ」
「今のおまえなら、そうであろうな。――だが昔は、違ったのではないか」
「むかし」
 少女は僅かにかぶりを振った。その仕草に、何も知らぬ俺を嘲る様子がほのかにでも見えたら、俺は苛立ちを呼び覚されて、少女を怒りにまかせて屠ったかも知れぬ。けれど少女は眼すら閉じず、茫洋とした眼差しを前方に投じたまま首を振ったに過ぎなかった。
 闇をさらに、雷鳴が打った。
「何処かで、生けるものが燃えておろうな」
 俺は闇に向って囁いた。
「焼けても死なぬ者もおろうし、焼けて死に行く者もおろうが」
 雷鳴が地に突き刺さる。
「燃えている間は、同じだろうよ、姫」
 少女は不意に俺に顔を向け、明瞭に云った。
「山葛も、燃えてしまう」
 雷鳴が、飽くことなく轟く。
 俺は身を起こした。身体から滑り落ちた女物の衣を払いのけ、少女を見下ろして告げた。
「血が騒ぐ。都に下りてくる」
 頷きもせず――瞬きもせず少女は俺を見返した。
 薄い衣を纏うと、俺は身を翻して闇の中へ駈け入った。

 血など騒いではいなかった。ただ胸が騒いだ。

――つづく

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