雪村晴佳
学校に行くのなんて、もう嫌だ。
……最初は、小さなボタンの掛け違い。
しかしそれは大きくなって、やがて裂け目になっていた。
別に「イジメ」とかそういう訳じゃない。でも、その方がまだマシかもしれない。
……僕は、孤独だ。
夏休みが過ぎて、2学期が始まっても……。
何も、変わりはしなかった……。
1
彼、佑本昴は、その日もいつものように家を出た。火曜日、午前6時30分……普段よりかなり早い時間だった。しかし、父親がおらず、母親も早朝から仕事に出かけているので、誰もそのことを気にする人間はいない。
私服なのはまあ元からだ。珍しいことに、彼の通う中学校は私服登校だ。しかし、カバンは教科書が入っているにしては変な形にぼこぼこしており、それでも足りずに背中にもサブバッグを背負ってたりする。
県道に出た彼は、学校のほうへは向かわず、バス停の前で立ち止まる。
時刻表を見てから、カバンの上に腰掛ける。
「ふぅ……」
一つ大きく息を吐く。
そして彼は、ポケットから一枚の紙を取り出した。
――何よりも大事なたからものの在処――
そう、聞いていた。
夏休みの終わり、町で。道端でうずくまっていたやや汚らしい格好の壮年の男を助けて交番まで連れて行ったとき(病院に行けばいいかわからなかったので……)、彼から渡された紙切れ。
おじさんは、そう言っていた。4
この紙切れに記された、地図や文章、それに和歌。それを読み解いた先に、すごいものがある、と。
そんなあやふやな話を信じていたわけじゃない。……でも、理由があれば、きっかけがあれば、何でもよかった。
とにかく学校へは行きたくなかった。
駅に向かうバスがくる。この時間帯のバスには、ほとんど客なんて乗っていない。彼は一番後ろの席に座って、またため息をついた。
2
バスに乗って駅に着いて、そこから快速に乗って、さらに鈍行に乗り換えて。
まるでバスみたいな小さなディーゼルカーに揺られてるのは、彼ともう一人、地元のおばあさんだけ。
「つぎは、みなみなかやま、みなみなかやまです」
放送を聞いて、降車ボタンを押す。そういうところまでバスにそっくり。
小さなトンネルを抜けると、列車は崖の上に出る。眼下には谷が見え、一瞬だけ壮大な眺めが広がる。しかしすぐにまた、トンネルをくぐって、森の中を駆け抜ける。
5分ほど走ったところで、ようやくスピードが落ちる。周りには数軒の古そうな民家と、畑が見えるだけ。そして、草むらに半ば埋もれた、短いプラットホーム。そこにぼろぼろの木造の屋根が、申し訳程度についている。
彼を降ろすと、すぐに列車は走り出す。待合室にかかったそれだけ新しい時刻表には、上り下りを足しても数えられる程度の少ない本数しか書かれていない。
「にゃあ」
猫の鳴き声に、一瞬びくっとしてから振り向く。
黒い子猫が、彼の顔を見てからもう一度鳴いて、体をすり寄せてくる。
「一緒に来る?」
彼が言うと、「にゃ〜〜〜」とひときわ長く鳴く。
歩き出すと、そのままとことこと付いて来る。立ち止まるとその場で立ち止まる。
「よいしょ」
試しに抱き上げてみると、特に抵抗する様子もなくそのままおとなしく抱かれた。
「名前決めなきゃ」
ちょっと首を捻る。
「うーん……黒猫だからクロ、でいいかな」
にゃあと鳴く。不満なのか気に入ってくれたのかよく分からない。
彼は困って立ち止まった。
「ま、いーか。いーよね。クロ」
にゃあ。
3
駅を出て、山道をどんどん上がっていく。ハイキングコースとまでは言わないまでも、一応登山道にはなっているらしい。ところどころで、横に張り出した木の枝や地面から突き出た岩を掴みながら、慎重に歩いていく。カバンはこういう時は邪魔なので、紐を付け替えて肩掛けカバンにした。その一方、彼の前になり後ろになり、クロはひょこひょこと付いて来る。
……不意に視界が開ける。山々に囲まれた小さな村の姿が、眼下に見える。
小さな岩を見つけて、彼はそこに腰掛けた。
「ごはんにしよっか」
ようやく正午を回ったばかりの時刻。でも、ここまで山を登ってきたせいか、いつもにも増して空腹を感じていた。
途中の駅のキオスクで買ってきたおにぎりと、1リットルペットボトルの麦茶。
おにぎりのごはん粒を指の先につけてクロの鼻先に差し出すと、一声鳴いた後、指をかまないように上手に食べる。
「よし、大サービス」
カツオのおにぎりを半分に割って、クロの足元に置く。確か、ネコにカツオブシというのは定番の組み合わせのはずだ。
美味しそうに食べるクロを見ながら、彼は誰にともなく話し掛けた。
「……スバルなんて名前、ちょっと嫌だよね」
ため息。
「お父さんもお母さんも星空が好きで、こんな名前をつけたらしいけど……」
ようやくおにぎりを食べ終えて、彼の顔を見上げるクロ。
「女みたいだとか、変な名前だとか、バカにされるばっかり!」
ちょっと語調が荒くなる。びくっと体を震わせて、クロが数歩後ずさりする。
「ごめん、クロにあたっても仕方ないよね」
慌てて手を伸ばす。クロは一瞬身構えたが、すぐに警戒を解く。
のどのあたりに手を伸ばしてやると、気持ちよさそうに目を細めた。ごろごろ、ごろごろとのどを鳴らす。
手を離すと、地面に置いたリュックの横まで歩いて、そこにちょこんと座った。
もう一度ため息をついて、空を見上げる。いつの間にか空は雲ですっかり覆われ、ごろごろと不穏な音もし始めている。……近畿地方に大雨の恐れ、とかそう言えば朝のテレビで言っていたような気もする。早く行った方がいいのかもしれない。
彼はポケットの奥から地図を取り出した。……ちょっとした展望台らしきこの場所も、地図にはしっかり記されている。……ここまで来れば目的地まであと少し。
「行こっか、クロ」
リュックを背負うと、クロは小さくにゃぁと鳴いた。
4
地図を確認しながら、彼は洞窟へ向かった。
上り坂の途中、二股に別れた木を目印に、ハイキングコースからそれて細い道に入る。ケモノ道、とさえ言えるのかどうか自信のない細い道。時には草が茂って、道があるのかどうか分からないまま取り敢えず歩くような場所もあった。不安に思いながら少し歩くと、また何とか道が現れる。そう思って見れば道に見える、と言う程度だが。
そしてその最中、急に薄暗くなったかと思うと、もの凄い勢いで雨が降ってきた。
慌てて足を早めると、目の前に草蒸した洞窟が口を開いている。
濡れ鼠、と言う状態になる一歩手前で、何とか彼は洞窟に飛び込んだ。
入り口の側でカバンから懐中電灯を出す。ひんやりと冷たい空気が頬を打つ。
ここからは先については、地図には何も書いていない。……その代わり、一節の和歌が記されていた。……しかし、なにやら崩し仮名で書かれたそれは、正直言って彼には判読不能の代物だった。ただ、唯一漢字で記されているのが、「浄土 方」というフレーズ。どうやら「浄土の方」とか書いてあるらしい。
昔児童文学の推理ものだったか冒険ものだったかで聞いた記憶によれば、西方浄土、浄土は西の方にあるはずだ。と言うことは、とにかく西に行けばいいんだと思う。
体を震わせて水しぶきを弾いていたクロが、にゃあと一声鳴くと、先に歩き出した。
少し歩くと、早速分岐点があった。
キーホルダーの方位磁針で確かめると、片方が間違いなく西を向いている。
念のため、来た方向にルーズリーフを一枚置いて、近くの岩で止めておく。
しばらく歩くと、広い場所に出た。ちょうど扇を開いたような形の、円を等分したような形の空間。自然に出来た一種の部屋のようにも思える。
部屋の中には、ビーカーとかその他なんだか分からない――化学の実験のどこかで使ったのは覚えているけど――実験道具が置いてあった。いくつかには、夜露が溜まったのか水が少し入っている。
何がなんだか分からない。
ただ、無性に不気味さだけが襲ってくる。単なる実験道具なのに、見た人を思わず金縛りにあったかのように凍り付かせる無言の恐怖感を持っている。
……道は、そこで行き止まりになっていた。
道を間違えたとも思えなかった。……少なくとも、ここに何か意味ありげな部屋はあったんだから。
これが、たからもの?
入っている液体は無色透明のもの。水じゃない可能性だってあるけど。何か、大事なものを溶かしているとか……。考えようと思えば色々考えられるけど、考える気分にもならなかった。
「疲れた……」
呟くと、その声が部屋中に響き渡る。
その場で座り込んで、カバンにもたれかかる。
急に、寂しさと心細さが今までの何倍にもなって彼に押し寄せてくる。
取り敢えず、あの雨の中で山を降りるわけには行かない。この時になって初めて気付いたが、カッパどころか傘ですら持ってきていなかった。
どうすればいいんだろう。
……もう、戻りたくなかったはずなのに。
なのに早くも、恋しくなってる自分がいる。
何でこんな所に来たんだろ。
冒険願望? そんなの特に無いはずだ。
社会への反抗? そんな気概はありゃしない。
現実逃避? 違う。……ちがう。……違うはずだ。
自己憐憫? ……可哀想な自分に酔ってるだけ?
懐中電灯を切ると、本当の闇が訪れる。
「これでいいのかな、僕」
声は岩に跳ね返って、また彼に問いかける。
……返事は、出来なかった。
「これでいいのかな」
何度も呟く。その度に声が跳ね返ってくる。そして結論は出ない。
何度言ったのか分からなくなった頃、彼は眠りについた。
5
かなり長い間寝たかと思ったが、目を覚ました彼が自分の腕時計を照らしてみると、時刻はまだ日付が変わるか変わらないかという時刻だった。
岩の上に横たわっていたせいか体の節々が痛む。その痛みに呻き声をあげながら、彼は体を起こした。……寝起きだけど、気持ちは何故かすっきりしていた。
やっぱり、ここは自分のいる場所じゃない。
……逃げたところで、結局現実からは逃げ切れる訳じゃない。
「帰ろう」
彼は言った。カエロウ、カエロ、カエ……と、その声が洞窟の中に響き渡る。
「かえろう……」
洞窟から出ると、雨はすっかり止んでいた。雲もほとんどなくなって、大気中の塵もすっかり洗い流された空には満点の星空が広がっていた。
そして天頂近くには、幾つかの星が群れながら光っている。
……M45、プレヤデス星団。
「星はすばる。 ひこぼし。 ゆうづつ……」
何となく覚えていた枕草子の一節。
正直言って目立つ星なんかじゃない。都会だと見えないか、見えても何となくぼやっと見える程度の星。どちらかと言えば淡く、頼りない印象ばかり。
でも、昔から……ずっと昔から、真っ先に挙げられるくらい綺麗な星。
自分の名前の由来になった星ぐらい、今までに何度も何度も見ていた。……でも、こんな綺麗にスバルが見えたのは初めてだった。
清少納言が真っ先に名前を挙げた理由が、今初めて分かった気がした。
そしてその光景が、涙で再び霞む。
夜明けまで、彼はそこに座ったまま、ただ星空を見上げていた。
5
あれだけ長くかかったように思えた道のりも、帰ってくるときには意外と近かった。夜明けで明るくなってきた道を、濡れた葉や土で足を滑らさないように慎重に降りていく。
まだ丸一日も経っていないのに、登り口の光景がもの凄く懐かしかった。
「たからもの」が何だったのか、ようやく分かったような気がする。
何も無いと思ったけど、やっぱり「たからもの」は落ちていたんだろう。
そして、やっと見つかったんだと思う。
たからものが……「自分自身」という名の。
ふと周りを見回すと、クロがいない。
辺りを見回していると……少し離れたところで、鳴き声がした。
その方を見ると、クロが鳴いている。そしてその隣には、恋人らしきもう一匹のミケネコ。
みんな、自分のところに帰っていく。
「さ、僕も帰らなきゃ」
一度大きく体を揺すってから、彼は駅に向かった。
もうすぐ、町に向かう始発列車が駅に滑り込む。
(完)
◎あとがきっ(笑)
精神状態がマトモじゃない時に書くと文章自体も壊れるんだなと今回は実感しました。司法試験前でしたし……時間がない精神的余裕がない、って状況で。締め切りを延ばして時間をもらったのに、結局あんまりいい原稿を書けませんでしたね。申し訳ないです。
本当は上回生の意地を見せる壮大な物語を書きたかったんですが……。
ま、次頑張ります。
作品展示室トップへ
総合トップへ