chapter- 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10
「ばいばい!」
交差点の角で友達に手を振って別れると、私はよいしょとカバンを背負い直した。
秋の日は釣瓶落としということわざの通り、さっきまで明るかった街並みには、既にうっすらと夕闇が訪れようとしている。家までは、歩いてあと5分くらい。人通りもそんなに多くない、都会の喧噪とは無縁な古い住宅地の間の道だ。
今日も疲れたなぁ。……確かに運動部に比べたら楽なんだろうけど、吹奏楽部はかなり練習が忙しい。特に文化祭が迫ってきたこの時期はなおさらだ。今日はまだ早く帰れた方だろう。昨日の帰り道なんかすっかり暗くなっていて、夏の大三角形が頭上の夜空に光っていた。
「三奈ちゃん、おかえり」
「ただいま!」
近所の花屋のおばさんの声に、反射的に元気よく答える。……でもこの年になって「三奈ちゃん」はないんじゃないかなぁ、とちょっと思う。。小学生の時ならともかく、私はもう高1なんだから。……まあ確かに童顔だし、見た目子供っぽいのは承知してるけど。
何だかちょっと悔しくなって、私はたまたまつま先に触れた石ころを軽く蹴飛ばした。すかーん、と澄んだ金属音が響いて、勢いよく石が飛んでいく。……って、えっ? 金属音?
少なくとも、空き缶とかの感触ではなかった。私は慌ててそれを走って追いかけた。石らしきものはころころと転がって、道の脇の溝に近付いて……そしてその縁で、何とか止まった。
「で、これがその時に拾ったやつ?」
次の日の朝、校舎の2階の教室。私の机の上を指さして、友達の朝香が言った。
「うん。凄いでしょ」
「警察に届けた方がいいんじゃない?」
手にとって、光に透かしてみる朝香。
「だいたい、台座に付いてるこれ、もしかして本物のルビーじゃないの?」
「るびー?」
声が裏返る。
そう。昨日私が蹴飛ばしたのは、金色のリングに紅い石の付いた指輪だった。思いっきり蹴られたり転がったりした割には、幸いにも見たところは傷一つ付いていない。
「……というと、インドの通貨の?」
「それはルピー」
隣で聞いていた宏美のボケに、朝香が素早く突っ込んで頭をはたく。いつ見てもいいコンビだ。
そしてそのすぐ後、何もなかったかのように朝香は私に向き直る。
「分からないけど……だって、実際きれいだし。それに見てよ」
彼女はリングの台座をもう片方の手で指さした。
「この台座、装飾が凄いよ。こんなのを安物の石に使うことはないんじゃない?」
そう言いながら、私に指輪を渡す。確かに、台座にはよく見ると、桜やら竜やらが立体的に複雑に彫り込まれている。……ルビーと合っているかは、ちょっと疑問の余地があるけど。
「本当だぁ……」
「ちょっとはめてみていい?」
宏美が上から手を伸ばして、私から指輪を取る。
「はまるかなぁ? かなりリングが大きいんだけど……」
私の呟きを無視して、彼女は指にそれを差し込む。第2関節あたりまで差し込んだあたりで……。
あれ? 今、何だかリングが縮んだような?
「あ、ぴったしだ」
能天気に言う。
私は朝香と顔を見合わせた。
無言のまま、眼だけで会話する。
(縮んだよね……)
(うん……)
朝香がこくりこくりとうなずく。
そんな私たちの様子と裏腹に、宏美は何が嬉しいのかやたらとはしゃいでいる。
「これ、もらっていい? ねぇ、三奈」
「いたっ」
肩を強く叩かれて、私は振り向いた。……と、宏美が怪訝な顔をしている。
「どうしたの?」
「……私、今、三奈に触れてなかったんだけど……」
「へ?」
「肩に手を近付けただけなのに、変な感触が……」
嘘。
超能力? 幽体離脱?
そんなファンタジーみたいな話、ある訳ないよね……。
と思いながら、私はその思いつきを頭の中から振り払えなかった。
「ちょっと、返してもらっていい?」
「うん、いいよ。もう充分」
気味の悪そうな顔で、宏美はうなずいた。人差し指と親指だけでそぅっとつまんで、私の手の平に返す。
その指輪を、私はまず中指に入れてみた。……第2関節で、急に縮んだように指にぴったりとしたサイズになる。……やっぱり。
「な、何なの、これ」
朝香が悲鳴じみた声を上げる。
「知らないわよ」
私は泣きそうな声で応じた。……冗談抜きで、マジックアイテムとかなの?
それを確かめるために、私は窓際に行ってみた。
「何をする気なの?」
宏美が訊く。それには答えずに、私は開いた窓から手を差し出して、5mくらい先に見える歩道に植わった街路樹をじっと見つめた。
はどーけん、みたいな感じで、手を前に勢いよく突きだしてみる。ちょうど、木を押しに行くような感じで。
次の瞬間……。
ごっと音がして。
そして目の前の木は……ゆっくりと傾きはじめ、そしてスローモーションのようにゆっくりと、真下の道に向かって倒れた。
下から悲鳴が上がる。
そして私たちは……その光景を、ただ呆然として眺めていた。
それから、テレビ局は来るわ警察は来るわで、色々と大変だった。幸い怪我人はいなかったものの、倒れた木は電線を引っかけていて、付近の300世帯がそれから5時間に渡って停電してしまった。また当然ながら道路は木で塞がれてしまい、それを撤去するために見たこともないような変わった車が色々と行き来していた。当然の事ながら、その日はほとんど授業にはならなかった。
私たちの行動を見ていたクラスメートは確かにいた。……しかし、超能力で木を倒していたなんて与太話を、誰も信じるわけがない。一応警察官から確認のために訊かれはしたものの、「知りません」の一言でその話は片づいてしまった。当然と言えば当然の話だった。
そして……放課後、私たち3人はマクドナルドで相談をしていた。
「この指輪、どうするの?」
朝香が私に訊いた。
「どうする、って言われても……」
腕を組んでみる。
「捨てようよ」
「それもちょっと勿体ないし……」
宏美の言葉に、私はちょっと考えてから答えた。貧乏性だという訳ではないと思うんだけど……。
「取りあえず、二度とはめない方がいいと思うよ」
朝香が言った。
「もちろんよ」
何度もうなずきながら答える。
「こんな危ないもの、二度とは使いたくないもの」
他の二人もうなずく。
「やっぱり捨てたら?」
宏美が言った。
「……大丈夫よ。私が大事に、鍵付きの引き出しに入れておくから」
「気を付けてね。犯罪者に渡ったら大変だよ」
「そんなこと誰も知らないよ。大丈夫だいじょーぶ」
宏美の台詞に、私は笑って答えた。
「うん。じゃあ、今日はお疲れさま」
朝香が言った。
「じゃあね」
「ばいびー」
「宏美、「ばいびー」は古いよ」
笑い合って、私たち3人は別れた。
翌日、私が珍しく早く学校から帰ると、家のドアの鍵は開いていた。
「あれ」
私は首を傾げた。この時間帯、両親は共に仕事に行っていて、まだ帰っていない筈なんだけど……。
「誰かいるの?」
私は玄関で靴を脱ぎながら言った。……返事はない。
まさか、泥棒? 嫌な予感がして、私は家の中に駆け込んだ。
が、部屋の中は片づいていた。荒らされた跡も全くない。いつも通帳や印鑑が入っているタンスの引き出しも確かめたけど、全てちゃんと揃っている。
お母さん、鍵かけ忘れて出かけたのかな?
何はともあれ一安心しながら、私は2階の自分の部屋に上がった。
……が。
部屋のドアを開けた瞬間、私は凍り付いた。
誰にも見せたことのない日記帳。小学3年生の時に、引っ越してしまった親友からもらった、小さなぬいぐるみの付いたキーホルダー。ガラスの靴の形をしたペーパーウェイト。その他色々なものが、床の上にぶちまけられている。
そして……机の鍵付きの引き出しが、強引にこじ開けられていた。
何故? 私の机だけを?
その時、私はふと気付いた。
カバンの中を確かめる……昨日のうちにしまうつもりで忘れていた指輪が、筆箱の中に入っていた。
はぁ、はぁ、はぁ……。
細い路地裏で、私は息を荒らげていた。左手には、しっかりとあの指輪を握り締めている。
この指輪が、どうやら狙われているらしいと気付いた瞬間……私は、思わず部屋を逃げ出していた。……恐怖に、耐えられずに。制服のまま飛び出した私は、無我夢中でとにかく家から離れようとした。とにかく道を駆け抜けて、もう一度街へと向かう電車に乗って……そして、大通りから一本入った路地でため息をつく。
この指輪、どうしたらいいんだろう……。
途方に暮れて俯く。
捨ててしまおうか。そう思ってみても、やっぱり不安がよぎる。
この指輪、いったい何なんだろう。今ここで捨ててしまって、大丈夫なのだろうか。
不安でどうしようもなくなる。何をするでもなく、俯いたままとぼとぼと路地から大通りに出る。
「あれ、三奈、どうしたの?」
そのとき、横手から声がした。
聞き覚えのある声。
「朝香!」
思わず私は歓声を上げて、そして彼女に飛びついていた。
「ちょ、ちょっと……」
驚いて数歩後ろに下がる朝香。
「あれ、三奈ってそう言う趣味があったの?」
別のあっけらかんとした声がする。
「……宏美」
そこまで言ったところで、何故だか涙がどっと溢れてくる。
「どうしたの、三奈?」
心配そうな顔で私の顔を覗き込んでくる。泣き顔を見られたくなくて、私はしゃがみ込んだ。
「ちょ、ちょっと、本当に大丈夫?」
慌てた声で訊いてくる朝香。そのいかにも狼狽した声が、今の私にはたまらなく暖かく、そして嬉しかった。
6
何とか人心地がついた私は、二人と一緒に(と言うよりは、二人に連れられて、と言った方が正確なんだけど)、近くのファーストフード店に入った。ハンバーガーとポテトを注文して、2階席の奥の方に座る。夕方が近づき、席は学生を中心にそれなりに埋まっていた。
そして私は、小声で指輪のことを話していた。……私の部屋が荒らされていたこと。そして、どう考えても指輪を狙っているとしか思えないこと。
二人は言葉を失って、ただ黙って聞いていた。
「で、どうするつもりなの?」
朝香が私に訊いた。
「……困っているのよ」
顔をしかめながら私は言った。
「正直言ってこんな状況じゃ、夜もおちおち眠れないよ。逃げ回っているわけにも行かないし。……でも、何だか嫌な予感がするんだ。これを渡したり捨てたりしてしまって、もし相手に渡ることがあったら、何かすごく良くないことに使われそうな気がする、って」
「私も同感」
宏美が頷いた。
「三奈の部屋に忍び込んでまで探してるって事は、何かかなりやばいことを狙ってるに決まってるよ。……捨てるなら捨てるで、絶対に拾えないところに持っていかないと」
「そこらに捨てるのは危険だよね、やっぱり」
「三奈のことを嗅ぎつけたくらいだもん」
二人で頭を抱えていると、それまで黙っていた朝香が不意に口を挟んだ。
「三奈、ちょっとその指輪貸してくれる?」
「え、いいけど……」
私はぎゅっと握ったままだった左手を開いて、指輪を彼女に渡した。朝香はそれを受け取ると、不意にそれを床に叩きつけた。
「朝香、ちょっと……」
言いかけた私の言葉を遮って、朝香は言った。
「捨てるのも渡すのも駄目なら、壊してしまえばいいのよ」
足が大きく振り上げられ、そ床に、そして指輪に叩きつけられる。
しかし、悲鳴を上げたのは朝香の方だった。
「痛たっ!」
悲鳴を上げて足を上げる。
指輪は傷一つ付かず、その場に佇んでいた。
「何よ、この丈夫さ……」
憮然としながら朝香が言う。
「やっぱり、どこかに捨てるしかないのかな」
私が下を向いてつぶやいた。
「そうだ、親戚とか知り合いに科学者とかいない?」
「何それ?」
私は無気力につぶやいた。
「マッドサイエンティストとかならもっと良し」
「そんなのいる訳ないでしょ。……ボケてる場合じゃないわよ」
朝香が疲れた表情で答えた。
「やっぱりどこかに捨てに行くよ」
私が言った。
「でも何処に? この調子だと、燃やしても駄目な気がするし……」
「意外と、普通の生ゴミに混ぜるのが一番いいんじゃないかな。多分探し出せないよ」
宏美が言った。
「それもそうだよね……」
頷いて立ち上がろうとしたとき。
不意に階段の方から、どかどかどか、と激しい足音が響いた。
嫌な予感がした。
現れた、帽子を深く被った大柄な3人の男たちは、辺りを見回すと真っ直ぐこちらの方に向かってきた。
「大人しく指輪を出してくれますか」
3人の一番後ろ……おそらくは3人の中のリーダーと思われる男が、言葉だけは慇懃な、しかし有無を言わせぬような口調で言った。
雰囲気を察したのか、周りの客は慌てて席を立ち、そして遠巻きに私たちと男たちを見ている。
私は慌てて指輪を拾い上げると、男を睨み付けながら、……しかしそれでも、少しずつ後ろに下がっていった。
「渡した方がいいんじゃない?」
朝香が小声で私に囁く。私は男に視線を向けたまま、首を横に振った。
今、ここで渡してしまったら、何か大変なことが起こりそうな気がする。もちろん、目の前の男たちが何者かなんてまったく分からない。だけど……
後ろにじりじりと下がった私たちは、とうとう壁際まで追いつめられた。
「渡して下さい。手荒なことはしたくないんです」
相変わらず慇懃な口調で、男が言った。そして、前の二人が一斉に黒服の奥に手を入れる。……まさか、拳銃?
私は息を呑んだ。
その時。
「待てっ!」
下へと続く階段の方から、声が響いた。そして今度は、二人の若い男の人が、階段を一気に駆け上がってきた。半袖のシャツとジーパンの、どこにでもいそうな服装の二人だ。
黒服の男たちが、彼らの方に気を取られる。そして、二人は私たちと黒服との間合いに入ると、いきなり黒服たちに襲いかかった。とっさの事で気を取られた二人の黒服が、数歩後ずさる。
そして、若者の一人が、私にだけ聞こえる程度の声で言った。
「今のうちに逃げろ!」
え、と聞き返そうとしたときには、彼は再び黒服の一人と取っ組み合いを始めていた。
私は朝香と宏美に目で合図をした。無言で頷く二人。
そして、私たち三人は、一斉に走り始めた。黒服の一人が声を上げるのが背後で聞こえた。しかしその時には、私は既に階段を下りて、店の外へと走りだしていた。
「ど、どこに行くの?」
早くを息を切らせながら、宏美が言う。
「知らないわよ!」
そう言いながら、いつしか先頭に立っていた朝香は、しかし高校のある方角へと走りだしていた。
高校を少し行き過ぎたところにある公園で、私たち三人はやっと足を止めた。
「朝香、速い、よぉ……」
宏美がはぁはぁと激しく息をしながら言った。元々運動が得意でない宏美には、かなりきつかったらしく、制服が汚れるのも構わずその場にへたり込んでいる。そしてそれは私にしても同じ事で、いくら吹奏楽部で肺活量は鍛えられているとは言え、やっぱり速く走るのは得意ではない。子供用の低い鉄棒にもたれて、私は額に浮いた汗を拭っていた。左手には、例の指輪をぎゅっと握り締めている。
「どういうことなのよ!」
朝香が叫んで、鉄棒の柱を蹴る。
「分かんないよ……」
私は下を向いて、ため息をついた。
「私はたまたま、指輪を拾っただけなのに……」
「おーい」
その時、遠くから声がした。……聞き覚えのある声。さっきのハンバーガーショップで、私たちを逃がしてくれた青年の声だ。
彼は小走りで、私達の所に駆け寄ってきた。その後ろから、もう一人の青年も同じように走ってくる。
「無事だった?」
心配そうな顔で彼は言った。さっきは分からなかったけど、よく見るとけっこう目鼻立ちの通った顔をしている。ちょっとだけ間の抜けた感じが、逆に親切そうな印象を与えていた。
「はい。取り敢えずは……」
そう言いながら、私はまた目を伏せた。
取り敢えず、に過ぎない。これからどうすればいいんだろう。
「良かったら、事情を聞かせてくれない?」
その時、もう一人の青年が言った。こっちはもう少し端正な感じの顔だ。
私は朝香の方を見た。彼女は黙って頷いた。宏美の方を見ると、今度は彼女は少しだけ口元を上げた。
そして、私は大きく息を吸いこんで、そしてゆっくりと吐き出した。
「信じてもらえないかも知れないんですけど……」
「……なるほどなぁ」
私の話を聞いた二人は、ふんふんと頷いた。
「信じてもらえます?」
私が訊くと、親切そうな方の青年が答えた。
「少なくとも、さっき変な男に狙われていたのは事実だろ。嘘をついても何の得にもならないだろうし」
私は、ほっ、と安堵のため息をもらした。
そして、もう一人の青年が続ける。
「ところで、警察には行った?」
もう一度吐きかけていた、ため息が止まる。
警察。……何故、気が付かなかったんだろう。そう言われてみれば、それが確実に決まっている。
「でも、警察の人が同じように信じてくれるかどうか」
朝香が言った。
「単純な落とし物としても大丈夫だろ」
青年は言った。
「見た目だけで結構高価そうだろ。警察だって、こんな高そうな指輪をないがしろな扱いにはしないと思う」
ふんふんと頷く私。
「早速行こ……」
宏美が言いかけて、言葉を止めた。私と朝香も同時にその事に気付いて、三人で顔を見合わす。
一番近い警察署があるのは、さっき逃げてきたばかりのあの通りだ。……もちろん逆方向に行っても交番はあるけど、かなり遠い。あの黒服たちはすでにかなり迫っているかも知れない。
考え込んでいると、親切そうな方の青年が言った。
「俺たちが届けようか?」
私たちの視線が、一斉に彼の方に向く。
「……いいんですか?」
「ここまで来たら乗りかかった船だし」
青年はそう言って微笑んだ。
文句なんて、あろう筈がなかった。それに、少しでも早く、指輪を自分の手元からどこかにやりたいという気持ちもあった。
私は左手をそっと開くと、指輪を彼の手の平に渡した。
「じゃあ、行ってくる」
軽く手を振ると、二人は走って公園を飛び出していった。
「じゃ、行こうよ」
そう言って、私たちが公園から出ようと歩き始めたとき。二人の出ていったのと逆の入り口から、今度はさっきの三人の黒服の男が走ってきた。
「おい、指輪はどうしたんだ」
男の一人が言う。さっきと同じ声だったが、その声はもはやさっきの慇懃さを失い、代わりに焦燥感が色濃く漂っていた。
私はその顔、というより深く被ったその帽子を睨み付けながら、言った。
「もう人に渡しました」
「なに? 誰にだ!」
「さっきの若者の二人組です。今頃は、大通りの警察に届けてくれているはずです」
三人は顔を見合わせた。そしてそのうちの二人が、飛び出すように大通りの方向に向かって走り始めた。
そして残った一人……リーダー格らしき男は、その場で膝をついた。
「何て事をしてくれたんだ……」
絶望した声。その声に違和感を感じて、私は彼に声をかけた。
「どういうことですか?」
無言のまま、男は胸の奥に手を入れた。……私たちを殺す気?
一歩引いた私たち。そして、男はその手を再び引き抜いて、私たちの方に突きつけた。
そこに握られていたのは、黒い手帳だった。手帳の表紙の上の方には、五角形に似た金色のエンブレムが付いていた。
「……警察?」
私たち三人が、同時に声を上げる。
「ああ」
沈んだ声で言う男。
と言うことは……?
顔を見合わせる。
「君たちが指輪を渡した奴らの方が、落とし主……あの指輪で世界をかき乱そうとしている連中だよ」
そう言って、男は虚ろな笑いを浮かべた。
この時ほど、運命の意地悪さを実感したときはない。
まさか、こんな事があるなんて……。
私は自分の愚かさに、傷つき落ち込んでいた。
あの後、取りあえず私たちは、近くの交番……本来なら指輪が届けられるはずだった、大通り沿いの警察署に向かった。
鮎田という名前らしい黒服の男は、私たちを無言のまま、警察署の二階に通した。間もなく近くの部屋から、悲鳴と怒号と嘆息の入り交じった声が聞こえてきた。
数分後、彼は戻ってくると、私たちの調書を取り始めた。
鮎田さんは、何も言わなかった。
私たちの行動に文句を付けることもなかったし、なぐさめることもしなかった。
ただ、事務的に淡々と調書を取った。
それが、私の心には痛かった。
取り調べが終わったときには、もはや深夜と呼ぶべき時間になっていた。
私は迎えに来た母親の車で、家に帰った。……親には、単に盗品の指輪を拾ったことだけにしてあるらしい。
「大変だったね」
母親がねぎらいの言葉をかけてくれる。しかし私は、ぼんやりと外を見ているだけだった。それを疲れているせいと取ったらしく、あとは黙って、ただじっと車を走らせていた。
家に着いて車から降りたとき、ふと私は空を見上げた。
普段、日暮れ間もなくに見上げていた夏の大三角形は、既に西の彼方に消えて、代わりに東には、はやくも冬の星座の一部であるスバルが見え始めていた。
そして、それから数ヶ月。
その後、あの指輪がどうなったのか、私は知らない。
結局、あの指輪がマスコミの話題になることはなかった。事件としてはおろか、与太話としても。今日も世界のどこかで民族紛争が続いているし、どこかでは内戦をやっているし、最近アフリカのある国で軍事政権が倒れたりもしたけど……ともかく、とりあえずは世界は平和だ。
学校のそばで街路樹が倒れた事件は、不思議な話として少しの間騒がれたが、気が付くと忘れ去られていた。途中で幹が折れたままだった木もいつしか撤去され、今は土だけが綺麗に整地されている。
私の部屋は、あの日の晩には綺麗に片付けた。真夜中までかかったので、次の日の学校は眠たかったが。警察に呼ばれたことは一時期同級生の間で評判になっていたが、それも一時のことで、そのうち誰も話題にしなくなった。
平穏な日常は続いてゆく。街路樹の葉はいつの間にか散ってしまい、冬が始まろうとしていた。
どうしても気になった私は、ある日の晩、思い切って警察署に電話をかけてみた。
「鮎田さん、いらっしゃいますか?」
しかし、帰ってきた答えは、素っ気ないものだった。
「鮎田という者は本署にはおりませんが……」
私は更に、最近までいなかったか、聞いてみたが、過去数年そんな者はいない、との返事だった。さらに指輪の件を訊いても、そんな事件はない、の一点張りだった。魔法の指輪どころか、盗品としての指輪の事件すら無いというのだ。
あまり詳しく問い詰めると却って怪しまれそうなので、私は電話を切った。
あの指輪は、いったい何だったんだろう。
あの時鮎田さんが言った「世界をかき乱す」というのはどういう事だったのだろう。あの指輪を狙っていた集団とは。……いや、鮎田さん自身、本当に警官だったのだろうか。彼の言ったことは本当のことだったのだろうか。それすら確実な証拠はない。
そしてそもそも、あの指輪の正体は……。
ため息をついて、私は空を見上げた。
ベテルギウスとシリウスとプロキオンが、美しい冬の大三角形を作っている。
やっぱり、冬の星座が一番いいな、と思う。一等星だけで7つ。夏の明るい天の川もいいけど、やっぱり星が一番綺麗な季節と言えば冬だ。今日は空気が澄んでいて、正三角形のまん中を流れる天の川もうっすらと見えている。
と、その時。
天の川のまん中で、突然星が光り始めた。
「超新星?」
私は大声を出した。私の目の前で、その光は見る見る明るくなって行く。
超新星。恒星が爆発した時に起こる現象。……つまりはその星の最期を示す現象だ。
私は息を呑んで、その光景を見守っていた。
(完)