ラスト・メッセージ

雪村晴佳
 Chapter.1

    1

 昼下がりの普通電車は、少ない乗客と気だるい空気を運んでいく。都市近郊の私鉄沿線とは言え、ちょうど街と街との間のエアポケットに当たるこのあたりは、急行に乗る客は多くても普通列車に乗る客は少ない。最近ようやくベッドタウンとして日が当たり始めたものの、その状況は今のところは、古い田園風景と同じデザインの並ぶ建売住宅が混ざった、妙にアンバランスな風景を作り出しているに過ぎない。
 駅に滑り込んでドアが開いた途端に、蝉時雨が流れ込んできた。
 ホームに降り立って、溜め息をつく。長い旅からやっと帰ってきたかのような、そんな気分。特になんと言うこともない、小さい頃から数えられないほど乗り降りしたいつもの駅なのに。
 跨線橋を上がったところに、改札口がある。無人駅のくせに、ちゃんと備え付けられた自動改札。それに切符を投げ込むと、静寂を破って一瞬機械がうなり声を上げ、そしてすぐにまた静寂が戻ってくる。
 僕は額ににじむ汗を掌で軽く拭うと、駅を出る階段を下り始めた。
 ちょうどその時、背後から声がした。何か慌てて飛んできたかのように、多少息が切れている。
「か……兼田?」
 聞き覚えのある声。
「あ、東山。ただいまー」
 振り向くと、予想通りの顔があった。野球部所属の、けっこう日によく焼けた顔。
 振り向いた僕の顔を見て、何故だか東山は顔を引きつらせた。何か顔についてるのかな。左手で顔をさすってみるものの、何も付いてはいない。
「僕の顔がどうかした?」
 聞き返す僕。そして今度は、ぽかんと口を開けて、僕の方をしげしげと眺める。
 そして、やっと紡ぎ出す言葉。
「兼田……嘘だろ。幽霊なんて」
「ゆーれい?」
 今度は僕の方がぽかんとする番だった。
「俺は確かに葬式に出たんだよ。……ああ、奥山が泣いてたよ。よく覚えてるよ」
 思わず自分の足元を見る。足はちゃんとある。
 ついでに言えば、東山はそういうたちの悪い冗談を言うタイプではない。
「嘘だろ? 俺は棺も見たんだよ。何でだよ」
 まるで怒っているかのように僕に怒鳴りつける。
「な、何怒ってるんだよ」
 その剣幕に思わず少し身を引きながら、僕は訊き返した。
 その言葉に、東山は黙り込んだ。
「……本当に分からないのか?」
「だから何のことなんだよ」
 また無言。
「……分かった。とにかく家に帰る前に、俺の家に来いよ」
 そう言うと僕の手をぐっと握って引っ張る。口調こそ抑えめだが、有無を言わせぬ口調。
 仕方がないので僕もそれに合わせる。
 もう一度僕の顔をじっと見ると、東山は言った。
「何が何だか分からないようだが、先にこれだけは言っておく」
 そして、彼は言った。
「お前は……兼田昭成は、この世にいるはずがないんだよ」
 咄嗟に返答が出来ず……僕はまた、ぽかんと口を開けた。

    2

 東山の家は、僕の家とは駅を挟んで反対側にある。もっとも僕の家のある南側が町の中心で、駅の北側は少し歩けば田圃が広がるような地域だ。その駅の北側の階段を下りて、歩いて1分か2分。本人曰く、家で踏切が鳴り出すのを聞いてからでも電車に乗れる。彼の家はそんな場所だ。
 半ば強引に彼の家に連れて来られた僕は、食堂に通された。
「……シャワー浴びてきていいか」
 不意に東山が言った。
「シャワー? 僕に何かするつもりじゃないよな」
「馬鹿野郎っ!」
 軽く冗談をかました程度のつもりだったのに、やたらと必死に怒る東山。
「俺の気持ちが分かってるのかよ!」
 何も言えずに無言でいると、彼はしばらく経ってから吐息を付いた。
「ま、お前に言っても仕方がないよな……」
 そう言ってくるりと背を向ける。
「待てよ、僕にはまた状況が掴めないんだ。説明しろよ……」
「とにかくシャワーでも浴びて頭でも冷やしてくる。話はその後だ」
 振り向かずに歩きながら、声だけを返してくる。

 それから暫くして風呂から上がってきた東山は、手に一枚の新聞を持っていた。
 一面のトップには、一段ぶち抜いた大見出しが躍っている。そこに書かれた文字……「関西空港発ジェット機墜落、一三九人死亡」。その下には、翼が吹っ飛び折れ曲がった見るも無惨なジェット機の写真が大きく載せられている。
「うあ、酷い」
 思わず呻き声を上げる。
「……今から十日ほど前の新聞だ。その様子じゃ、何も分からないらしいな」
「久しぶりに帰ってきたからな」
 そう言うと、東山はまた絶句した。
「……じゃあ聞くぞ。どこに行ってたんだ、兼田」
「え、どこって……」
 そう言いかけた僕の台詞が途中で止まる。
 あれ?
 何してたんだっけ?
「あ……あれ?」
 思わず口に出す。
 それだけじゃない。よく考えると、そもそも今日駅に降り立ったのは間違いないものの、電車に乗り込んだ記憶が存在しない。
「あれ。き……記憶喪失?」
 黙りこくった僕に、東山はさっきの新聞を、記事の一点を指しながら僕に差し出した。
 『お亡くなりになった方たち』とか見出しがついていて、その下に沢山の名前が並んでいる。そしてその中央付近、東山が指していた辺りには、こう。「兼田昭成(一六)」
「……僕?」
 呆然と呟く。
「ああ」
 小さく東山が頷く。
「誤報って事はないわけ?」
「兼田の親がちゃんと遺体を確認したらしい。……飛行機事故の遺体とは思えないほど、きれいな状況だったらしい」
 何を言っていいか分からずに黙り込む。
「俺は葬式に行ったんだよ。……ああ。はっきり言うよ。めちゃめちゃ泣いた。……なのに、何で今頃になって出て来るんだよ。幽霊のくせに!」
 段々と激昂して声が大きくなってくる。
「何でだよ、馬鹿野郎……」
 それっきり俯くと、左手で眼をこする。
 僕は声をかけることすら出来ずに、呆然としていた。
 普通だったらこんな話、ドッキリか何かとしか思えないだろう。しかし、東山はそういうことをする性格じゃないし、何より途切れている自分の記憶が、少なくとも自分に何か重大なことが起こったことを物語っている。
 しかし正直言って、この段階に至っても、僕には実感がなかった。ふぅん、僕は死んだのか、とどこか別の世界のことのように思っていた。

「これからどうするんだ?」
 不意に東山が訊いた。
「これからって?」
「……このまま家に帰るのか?」
 言われてみればそうだ。このまま家に帰ろうものなら……大騒ぎになるのは目に見えている。もちろん家に帰りたい気持ちは山々だけど……ちょっと、まだ気持ちの整理が付いていない。
「何なら今日は俺の家に泊まっていかないか? ちょうど両親もいないし」
「あれ、どうかしたの?」
「銀婚記念の夫婦2人っきりの旅行だと。2、3日は帰ってこない」
「……あ、そう言えばそんなこと言ってたな」
 仲がいいこった、と半ば呆れたように東山が呟いていた記憶がある。
「やっぱり、そんな風にちゃんと記憶が有るんだよな……」
 ため息混じりに東山が言った。
「複雑だよな。いつも通りであることが、こんなに悲しいなんてな」
 数瞬黙った後、ちょっと姿勢を正して続ける。
「ま、それで今日はどうする?」
「取り敢えず……泊まっていくよ」
「分かった。よぉし、この機会だから普段訊けない事を色々と訊いてやるか」
「おいおい」
 苦笑して僕は答えた。
「最後なんだし正直に答えろよな」
「はぁい」

    3

 その日の晩、僕と東山は二人で色々と話をしていた。
 友達のこととか、学校のこととか、担任の悪口とか。……意識的に、僕の葬式とか思い出とかはお互い話さないようにしていた。
 そして話題は、いちばんありがちな話題……つまりは恋愛話になっていた。
「好きな奴とかいないのかよ」
 東山の言葉に、ちょっと焦って返事をする。
「え、まあ……い、いないよ」
「本当か? 正直に言えよ、おい」
 その剣幕に押されて思わず黙り込む。
「一応……北原さんとか」
 小声で僕は言った。
「北原? マジ?」
「……うん」
「あ、でも分かるような気はするな」
 そう言われて、僕は照れ笑いを浮かべた。

 北原さん……北原遥さんと出会ったのは、高校の入学式の日のこと。男女別に出席番号で並んだとき、ちょうど隣り合わせになったのがきっかけだった。見かけは小柄で、眼が大きいなというのが第一印象だった。そこから、高校で初めての友達として何となくよく話をするようになり、ちょっと気弱だけど明るくて一生懸命な北原さんに僕はいつの間にか惹かれていた。夏休みが明けて二学期が始まったら、僕は自分の気持ちを伝えようと思っていた。……今となっては叶わない夢。

「北原さん……葬式の時、来てた?」
 敢えてタブーを破って、僕は東山に訊いた。
「ああ……良く覚えてる」
 東山はちょっと俯いた。
「北原、ものすごく泣いてたぞ。制服を涙でびしょびしょにしてたよ。……そっか。もしかしたら、北原も知ってたのかもしれないな、お前の気持ち」
「そっか……」
 何も言えない。

 ふと壁に掛かった時計を見ると、既に〇時を回っていた。
「そろそろ寝た方がいいんじゃないか?」
 僕が声をかける。
「そだな」
「片付け手伝うよ」
 そう言って僕は先に立ち上がった。
「……あ!」
 急に東山が叫び声を上げる。
「どうしたの?」
「お前の身体……少し、透けてるぞ」
 僕は凍り付くと、自分の手を電灯にかざした。
 確かに……手の向こうに、うっすらと電灯が透けて見える。普通に電球の前に行くと透けて見える、と言うレベルではない。明らかに、身体自体が僅かに透き通っている。
「……まさかとは思うんだが」
 東山が言った。
「兼田がこの世にいれるのって、ほんの短い間じゃないのか?」

 Chapter.2

    1

 冷静さを失って……それでも何とか冷静を装おうとしている、そんな放送が飛行機の中に流れる。元々語学なんか得意じゃない僕には英語の放送は良く分からないけど、一つだけ何度も繰り返される単語があった。……"crash"。英語が得意じゃない僕でも、その単語の意味ぐらいは分かった。つまりは、墜落。
 客室の中に、酸素マスクがぶら下がる。……あまりにも非日常すぎて現実感のない光景。冷静さを保ちきれなくなった機内放送が、金切り声に変わる。大きく傾いていた機体がぐらりと傾き、そしてほとんどまっさかさまと言ってもいい角度になる。
 窓の外。海原の中に小さく見えていた島が、あっという間に近付いてくる。
 そして、全身をぐちゃぐちゃにする衝撃が、全身に響き渡る……

 叫び声を上げると、僕は布団から跳ね起きた。
「だ、大丈夫か?」
 ふと気が付くと、目の前に東山の顔がある。まだ少し焦点の合わない眼で、その顔をじっと見つめる。
「凄くうなされてたぞ……見てるこっちが怖くなるくらいに」
 僕は一つ大きく息を吐き出すと、言った。
「……夢、見てた」
「ん?」
「飛行機が墜ちたときの夢」
 黙り込む東山。
「ああ。思い出したよ。……全部」
 全ての思い出が急に蘇ってくる。
 楽しみにしていた海外旅行。近所の商店街の福引きの一等賞だったそのチケットを僕が手に入れたのは、別に抽選に当たったわけでもなく、単なる偶然だった。本来当たった近所のおばさんが、母親の急病とかで行けなくなって、そしてチケットは僕に回ってきた。
 ……僕にとって、そもそも飛行機に乗ること自体が初めての体験だった。まして、二泊三日の短いツアーとは言え、海外旅行。初めて手にしたパスポート。奮発して買った旅行カバン。全てが僕にとって、胸をときめかせる代物だった。
 飛行機が離陸した瞬間、僕は思わず「おおっ」と歓声を上げていた。周りのツアー客はみんな、これから始まる旅への期待で胸がいっぱいだった。
 それが……こんなことになるなんて。
 眼を閉じると今でも、あの瞬間の情景が目に浮かぶ。悲鳴と怒号が飛び交う、文字通り阿鼻叫喚の情景。そして視界が真っ赤になって、そして全てが見えなくなった瞬間を。
 思い出したくもない……でも、心に焼き付いて離れない情景。
「僕、死んでしまったんだよな……」
 今更のように実感が湧いて来る。
 自分が既にこの世の人間ではないと言う事実が、こんなに重苦しくのしかかってくるとは思わなかった。
「今、ここにいる『自分』は、本当の肉体じゃないんだ……」
 涙が出るより先に、寂寥感ばかりが込み上げてくる。
 ふと気が付くと、東山がタオルを差し出してくれていた。
「さんきゅ。大丈夫だから」
 無理に笑顔を作ると、僕は体を起こした。
「そう言えば、兼田の身体、また薄くなってるな……」
「やっぱりそっか……」
 不思議に、僕はそれを簡単に受け止められた。
「で、今日はどうするんだ?」
 東山が無理して努めて平静に話そうとしているのが、僕から見ても良く分かる。
「我が儘なんだけど……外に連れていってくれないかな」
「おい、見つかったら騒ぎになるぞ」
「それを承知で。頼む。どうしても……もう一度、自分の生きてきた場所を確認しておきたいんだ」

 僕だとばれないように、深く帽子を被らされて、ついでにサングラスとかまでかけさせられて、僕は外へと出た。
 見慣れた町並み。今まで十六年間、ずっと飽きるほど眺めてきた町だ。そんな町を、今日は注意深く眺めながら歩く。どんな些細なものも見落とさずに、心の奥に焼き付けられるように。ブロック塀の上に座って、欠伸をする猫。汚くてほとんど使ったことのない、公園の公衆便所。雲の彼方を飛んで行く鳥たち。自動車がぶつかって傾いた「駐車禁止」の標識。子供の頃いつも遊んでいた空き地にたった、六階建てのマンション。……そして、こんな町で暮らしてきた思い出、この街で会った沢山の人々。
 全てを焼き付けるつもりで、僕は町を歩き回った。夏の太陽はじりじりと熱かったけど、そんなことはどうでも良かった。自分のいた証を、少しでも残しておきたかった。食事を取ることすら忘れて、僕は歩き続けた。そして東山も、文句一つ言わずそんな僕に付き合ってくれた。……ずっと、寂しそうな顔をし続けて。

    2

「明日の朝、もうここを出るよ」
 僕が言うと、東山は意外にも、そうか、と頷いただけだった。
「騒ぎになってもいい。最後に、自分の今まで生きてきたことを、少しでも焼き付けておきたいんだ」
「分かった。……気を付けろよ」
 そう頷いてから、思い出したように僕に訊く。
「北原に会いに行かなくて良かったのか?」
 僕はゆっくりと首を振った。
「いいよ。……もう消えちゃうのに、会っても仕方がないだろ」
「心残りはないのか?」
「ああ」
 嘘だった。でも、会ったらきっともっと心残りになる。それが怖くて、自分自身に「心残りはない」と言い聞かせようとしていた。
「本当か?」
「……ああ」
 辛うじて頷く。
 東山は僕の眼をじっと見ると、言った。
「……まあ、自分の思うとおりに、勝手にしろよ」
 ため息をついて言う東山。
 ……ごめん。

 電気を落とした後も、僕はなかなか眠れなかった。幽霊が眠くなると言うのも変なのかもしれないけど……。
 僕は既にこの世の人間じゃない。……もう、戻れない。自分の身体だって既に骨だけになってしまったし、今だって徐々に身体が薄くなっている。多分、保ってあと1日、という所だろう。
 でも何故、僕は魂だけこの世に残ってしまったんだろう。そんな強い恨みがあったわけでもないし、ましてや誰かに恨まれていたわけでもない。この世に執着する思いはそりゃ人並みにはあるだろうけど、そんなに極端にあったとは思えない。おそらくは色々な要素の偶然が重なり合って出来た、束の間の奇跡という奴だろう。
 この神様のくれたチャンスに、僕は何をすればいいんだろう。
 自分という存在が完璧に消えてなくなる前に、僕は何をすればいいんだろう……。

 自分が死んでしまうなんて、事故の瞬間まで考えもしなかった。……いや、事故の瞬間でさえ、僕は奇跡を信じていた。実際あの墜落事故で死んだのは約半数。残りの半分は、怪我を負いながらも生き残っている。
 でも、現実に僕は死んでしまっている。幽霊として存在する今の状態を「現実」と呼んでいいのか分からないけど、とにかく僕は命を落とした。……そして、その代わりに僕は、幽霊となって戻って来るというとんでもない奇跡を体験している。こんな奇跡が起きるくらいなら、それを事故の時に起こして欲しかった。

 ……今の自分の存在って、何なんだろう。
 今こうして考えている「僕」は何者なんだろう。
 もう、僕は本来の……人間としての「兼田昭成」じゃないけど、でも、僕はやっぱり僕だよね。
 たとえ今日が最後の夜だとしても……今、ここに、人間じゃないかもしれないけど、確かに「僕」はここにいる。そう思いたかった。

 Chapter.3

    1

 夢の中、北原さんが笑っていた。
 いつもの高校の教室。目の前では、中年にそろそろ差し掛かろうとしている世界史の教師が、プリントに沿って丁寧に授業をしている。……そんな中、僕と北原さんは机の下でこっそり紙切れをやりとりしていた。面倒くさがって席順まで出席番号順にしてしまった担任に今は感謝。おかげでこうして授業中でも通信できるんだから。
『今見てて思ったんだけど、菅原先生の髪の毛って最近ますます後退してない?』
 僕が紙切れを回す。直後彼女の方を見ると、彼女は必死で笑いをこらえていた。
 しばらくして紙が帰ってくる。
『変なこと突然言わないで。うっかり笑い声出したらどうするのよ』
 小さくふくれてみせる彼女。
 僕は思い付いて、さらにもう一度紙を回す。
『こうやって紙でやりとりしてるから、カミがなくなっていく、とか』
 今度の返事は一瞬だった。
『それしょーもないよ』
 がーん。がっかし。
「おい、兼田、黒板はそんなところにはあらへんでー」
 前から教師の声がして、僕は慌てて黒板の数式を見る。よそ見をしている間に、黒板は数式でいっぱいになっていた。僕は慌ててノートを広げて、数式を写し取る。ちらりと横を見ると、彼女がすまなそうに小さく手を合わせていた。

 ……哀しいくらいいつも通りの、日常の光景だった。

 目が覚めると、そこは東山の部屋だった。隣の東山の布団は既に空になっていた。もう既に起きていたらしい。
 部屋の鏡を覗き込むと、もう自分の身体はかなり希薄なものになっていた。……多分、今日一日保たない。せいぜい昼過ぎと言うところだろう。
 窓の外を見ると、朝日がまぶしかった。こんなすがすがしい朝も、多分もう二度と体験できない。当たり前のように存在していた何もかもが、僕にとって二度と体験できないものになっていた。
 上半身だけ起こして布団の上でぼんやりしていると、東山がお盆を持ってやって来た。
「簡単なものしか作れなくてごめんな」
 そう言っている彼の持ったお盆の上には、ごはんにみそ汁、それにアスパラガスの付いたベーコンエッグが載っていた。
「和食も洋食もごちゃごちゃだけどな」
 口調だけは何とか軽い調子で言う東山。
「いや、嬉しいよ。ありがと……」
 本来なら粗食に当たるような、簡単な朝食。しかしこの食事は、生まれてから今までで一番美味しいように思えた。
「あー、美味い。生きてて良かった」
 場を明るくしようと呟いて……あわてて口を押さえる。
 死んでるんだっけ、自分。

 そして、別れの時。
 玄関先で、僕と東山はじっと立っていた。
「何て言えばいいのか分かんねーよ……」
 俯いたまま、押し殺したような声で東山は言った。
「元気でいろよ、でもないよな。……成仏しろよ、か?」
 そこで声を詰まらせる。
「ああ。……そっちこそ、お元気で。またどこかで会えるよ、きっと」
「畜生……ちくしょうっ!」
 泣きながら、東山は悪態をついていた。
 最後に僕は、両手でぎゅっと東山の両手を握り締めた。
「じゃあな」
「ああ」
 それっきり、僕は振り返らなかった。
 振り返った瞬間に、名残が惜しくて泣きだしてしまうと分かっていたから。
 振り返りたい気持ちを必死にこらえて、僕は東山の家を後にした。

    2

 彼の家が見えなくなったところで、どこに行こう、と空を見上げる。
 ふと気が付いた。今日は水曜日。ということは、母親は午前中はスーパーのパートに出かけて家にいない。そして当然ながら、父親は会社に行っている。
 ……ということは、今なら自分の家に帰れるはず。
 僕は息を一つ吸うと、早足で駅の跨線橋を抜けて、いつもの駅から家へのルートを辿った。

 昨日は眺めるだけだった自分の家の玄関に立つ。ドアをひねると、鍵がかかった感触が帰ってきた。間違いなく、今は誰もいない。留守だ。
 鍵の隠し場所は分かっている。玄関の手前に並ぶ植木鉢のうち、手前から三つ目のイチゴの鉢の裏だ。……そう、いつもの場所。
 そこから慣れた手触りの鍵を取り出す。どこかの土産らしき無事カエルのキーホルダーも、何度も見たそのままだ。
 鍵を差し込むと、簡単に扉が開く。
 久しぶりの「我が家」。下駄箱の上に乗った一輪挿しも、雲をかたどったような変な形の玄関マットも、全てがいつも通り。
 誰もいない家に向かって「ただいま」と言うと、僕は自分の部屋のある2階へと階段を昇った。
 階段を上がって、正面のドアを開ける。
 ……そこは、僕がいたその日のままで残っていた。まるで、僕の帰りを待っていたかのように。片隅に積み上がった漫画の山も、高さの調整のために何枚も椅子の上に積まれた座布団も。
 一瞬、まだ日常に戻れるんじゃないかという気がした。
 しかし、机の上を見たとき、そんな僕の気持ちは粉々に打ち砕かれた。
 そこだけ片付けられた机の上には、高校の入学式の時の僕の写真が飾られ、そしてその前には花が生けられ、線香が立てられていた。
 ……もう、僕の居場所はここにはない。
 そう思ったとき、涙が溢れて何も見えなくなった。
 誰もいない家で、薄れかけた僕は、ただただ泣き続けていた。

 涙が引いたとき、僕の心は妙に落ち着いていた。
 そうだ。
 やっぱり……北原さんの所に行こう。
 心残りになっても、何でもいい。
 彼女には……僕が存在した、最後の証を伝えておきたい。
 ほとんど透け透けになった身体を起こすと、僕は走りだした。……時間がない。
 神様、もう一度だけ奇跡を下さい。
 どうか、間に合わせて下さい。

 Chapter.4

 庭に出て飼い犬を撫でていた北原遥は、ふとどこからか声がしたような気がして、後ろを振り返った。
 そこには、ほとんど透き通った状態で……ぼんやりと、人の姿が見えていた。
「……兼田くん?」
 信じられないような声で、北原が呟く。まるでかげろうか何かのように、ぼんやりと……しかし確かに、そこには兼田の姿があった。
「間に合えて良かった。……会えて、良かった」
 うっすらとした陽炎が動いて、そして兼田の声がはっきりと聞こえた。
「消えてしまう前に、一つだけ……北原さんに伝えておきたくて」
 どんなに薄れていても、北原には兼田の顔がはっきりと見えていた。
「僕は……僕は、北原さんのことが、好きでした。……いや、今も大好きです」
 照れくさそうに、兼田が微笑む。
「……それだけ。それだけ、言いたかったから」
 その言葉が終わる前に、北原は叫んでいた。
「私も。私も好きでした!」
 そして、そのまま兼田の顔に自分の顔を近付ける。
 一瞬、……唇が触れ合ったのを、微かに、しかし確かに感じた。
 そして気が付くと、兼田の姿は消えていた。
 呆然と立ちすくむ北原の耳に、どこからか、声だけが聞こえた気がした。
「本当に、ありがとう……」
 北原はじっと立ちすくんで、そのまま動けなかった。
 そして庭の土の上を、数滴の雫が濡らした。
 さっきまで撫でられていた犬が、怪訝そうに鼻を擦り寄せた。


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