CLIMB THE LADDER

雪村晴佳

 黒い雲の奥に電撃が走るのを見て、俺の背中にまた寒気が走った。
 慌てて下を見て、再び寒気が走る。眼下に広がる街は、ミニチュアという域を超えて、まるで色とりどりの砂を撒いたかのような光景になっていた。
 俺は梯子の段を握り締めると、ゆっくりと唾を飲み込んだ。

 天まで伸びる梯子、の噂。
 それを最初に聞いたのはどこだったのか、今となっては覚えていない。おそらくどこかの飲み屋のカウンターで聞いたのだと思うが、何せこっちも酔っていたので正確なことは覚えていない。「5年目」に入った大学生活(当然ながら、俺は医学部でもないし、ついでに言えば院に進学したわけでもない)。更には5月という季節も手伝って、俺は無気力に陥っていた。……単位はまあそれなりには取っていたので、暇と言えば暇だった。
 ――満月の午前0時、市立動物園の中央広場の真ん中に、天まで伸びる梯子が現れる――
 その噂は、そんな俺にとって、格好の暇つぶしになる話題だった。もちろんそんな訳の分からない話を信じていたわけではない。しかし、夜中の動物園に忍び込んで、ありもしない物を探す……それは刺激に飢えていた俺にとって、格好の「面白いこと」だった。
 満月の夜。閉ざされた動物園のゲートを慎重に越えると、ライオンが寝言のようにもごもごと呟き、カバが大きく欠伸をしている中を抜けて、俺は中央広場に向かった。
 休日の昼間は家族連れで大にぎわいの中央広場も、今は静まり返っている。生け垣で囲われた円形の空間には、人一人いない。……そして、梯子も。
 ま、天まで伸びる梯子なんてものがある訳ないよな。まあ夜中の動物でもたっぷり見物して帰るか。
 そう思って身を返そうとしたとき、不意に目の前に天から光が降ってきた。
 そして、その光はゆっくりと形を取ってゆき……そして、光が引いたとき、そこに現れていたのは黒く頑丈な、そして天へと続く梯子だった。

 そして……俺は、その梯子を登り続けている。一向に終わりの見えない梯子は、どうやら雲の奥へと続いているようだ。
 そもそもどこに続いているというのか。……考えられる一番可能性の高い場所は、天国、とでもいったところだろうか。俺としてはそれでもいいような気がしていた。雲の上に天国があるんなら、それはそれで面白い。生きた身でそこに向かった人間なんかいないだろう。ついでに言えば、飽きればこの梯子をもう一回降りれば下界に戻れるはずだ。
 あるいは神様がいるなんてのも面白そうだ。別に宗教を信じるわけではないが、神様とやらがいるのならぜひ会ってみたいものだ。考えただけで心が躍る。
 ……それにしても、登り始めてから何時間経ったんだろう。
 そう考えたとき、急に俺の背中に悪寒が走った。
 ……もし、このまま夜が明けたら……?
 分かり切っていることだが、昼間にこんな梯子は存在しない。と言うことは……消えてしまうのだろうか。とすると俺はどうなるんだ? 支える物がなくなった俺は……下界にまっさかさま?
 風呂上がりで腕時計を付けてこなかったことを俺は後悔した。……今から降りたとしても時間は有るかどうか分からない。いや、むしろ無さそうな気がする。
 頭上を見上げると、雲はかなり近くまで迫っている。おそらく目的地は雲の向こう。……よし、行こう。
 俺は大きく息を吸うと、残った力を振り絞ってさらにスピードを上げて梯子を登り続けた。
 しばらく経つと、身体が雲の中に入りこむ。雲の中はまるで霧がかかっているかのようで、本当にすぐ前しか見えない。それでも、一段ずつ確かめつつ梯子を登っていく。
 不安と期待で胸をいっぱいにしながら。
 ……そして、ついに雲を抜けた。
 そこには、何もなかった。
 ……本当に何も。
 そして梯子自体も……雲を抜けたその場所で、ぷつりと切れていた。唐突に、梯子の段は終わっていた。そしてその先には……何もなかった。
 俺は呆然と天を仰いだ。
 ……嘘だろ?
 嘘だと言ってくれよ、神様。
 何故だか笑いが込み上げてきて、俺は虚ろな笑い声を空いっぱいに響かせた。

 その時、ふと我に返る。
 ……俺には時間がない。
 朝が来れば、この梯子はどうなるか分からない。
 とにかく、急いで降りなくては。間に合うかどうかは分からないが、……いや、間に合わせなくてはならない。絶対に。
 だが、その時。俺の気持ちを嘲笑うかのように、俺の顔に一陣の光明が差してきた。
 太陽の、光。
 それと同時に、足元にあった梯子はたちまちのうちに薄れ……そして、消えた。
 当然の如く、俺は自由落下の法則に従って、下界へと落ちていく。
 あっという間に遠ざかる雲の奥で……俺は、神様の笑い声とやらを聞いた気がした。


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