ハートブレイク・トラベル

雪村晴佳

chapter- 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8

「次は、東奥山、東奥山――」
 テープに吹き込まれた案内放送が、単行のディーゼルカーの車内に流れる。
 山間部の小さな集落を辿るように延びる鉄路。わずか数人の客を乗せた車両を見ている限り、どう考えても採算が取れているとは思えない。おそらくはこのような閑散線区用に最近作られたであろう小さな車両は、確かに新しくて綺麗だけど……しかしそれでも客が乗っていないことの証明のように、新しい物に特有の独特な香りがまだ漂っている。
 向かい合わせの座席に広げた荷物を、僕は片付け始めた。あまり旅慣れていない証拠のように、リュックは色々な物でぎゅうぎゅうになっている。そして詰めにくくなった荷物は、本来サブバックの予定でリュックに入れていた布かばんにも溢れてしまっている。
 品川23時55分発の、大垣行き夜行鈍行。混雑した車内で辛うじて確保したボックスシート。眠れそうにないと思ったのに、気が付けば眠っていた。それを終点で降りて、そこから何度乗り換えたんだろう。鈍行を乗り継いで、聞いたことのない名前の書かれた駅名標を数え切れないほど見送って。
 視界を覆っていた林が不意に途切れて、山に挟まれるように田園風景が広がる。そしてその合間合間に、忘れられたように何軒かの家が建っている。
 列車がゆっくりとスピードを落とす。
 僕は立ち上がると、いちばん前のドアへと向かった。
 板を渡して屋根をつけただけのような小さなホームに、列車は滑り込んだ。
 降りる客は僕だけ。

 全ての始まりは、今年の春だった。
 19年目で初めて訪れた、半年間の片思い。初恋の病に冒されたオトコノコは、彼女の全てを自分に都合のいいように解釈する。優しさと好意の区別が付かなくなる。でも臆病な自分は、それを口に出すこともできないまま、ただ思いだけを募らせて行く。気持ちは募って、言えない言葉で僕の心臓はいっぱいになる。
 そして最後は、許容量をとっくに超えた心臓にはどうにも詰め込めなくなって、もはやその気持ちが溢れて逆流するように……僕は、それを伝えた。
 簡単に忘れるには、溜まった気持ちの量が大きすぎた。
 その返答を聞いた瞬間から、貯め続けた恋心たちはそのまま心の痛みになって、そして僕の心を痛めつけた。
 痛みに耐えかねた僕が選んだのは、それを精算するための旅だった。遥か彼方に行って、そして痛む心を何とか中和してやりたい。春休みに入っていたのが救いだった。
 もしかしたら「傷心旅行」と言う言葉に酔っていたのかもしれない。自虐的になって、こうなったらとことん悲しくなってやろうと心に決めていた。
 ……そして何かに追い立てられるように、僕は街を飛び出した。行き先どころか、何時帰るかすら決めない旅に。

 汽笛を鳴らして去っていくディーゼルカーを見えなくなるまで見送ってから、僕はホームを降りた。
 駅舎すらもなく、ホームの端の階段がそのまま道に直結している駅。入り口の柵にくくりつけられた時刻表に書かれた列車は、上下共に一桁の本数。
 僕は階段に腰掛けると、リュックにしまわずにおいた冊子を開いた。
 いくら当てのない旅とは言っても、さすがに最初の日だけは宿泊先を決めていた。「やまあい荘」とかいう名前の、村営らしい公共施設。敢えてここを選んだ理由は、ほとんど何も無さそうな田舎だったのと、1泊2食付きで4500円という料金の安さだった。
 駅から徒歩30分。駅前から電話すれば迎えが来るらしいけど、大して急ぐ理由もない。何もない駅前に一軒だけ佇む雑貨屋で缶ジュースを一本買うと、僕は田んぼの中を抜ける道を歩き始めた。


 辿り着いた「やまあい荘」は、思ったより綺麗な施設だった。むしろこのような田舎には不釣り合いなくらい。外見は今どき風のモダンなデザインになっていたが、中に入ってみるとレトロな純和風のロビーが控えていたりする。そのギャップが妙に田舎臭さを想起させて、僕は思わず苦笑した。
 フロントに置かれた中に鈴が入ったわらの人形を振ると、いかにもそこらの農家のおばさんと言った風情の女性が出てきて、やや訛りの強い口調で歓迎してくれる。そのまま案内された2階の部屋は意外に大きな部屋で、8畳のこの和室を今日は一人で使えるらしい。
 荷物を床に投げ出すと、僕は畳の上に体を投げ出した。
 昨日の今頃はまだ、自分の下宿にいた頃だった。……僕は何処まで行くんだろう。そんなことを考えながら天井を見上げる。
 今更のように寂しさが込み上げてくる。不思議に悲しくはなかった。ともかくも彼女に気持ちを伝えられた満足感は、不思議と僕の心を和ませていた。そして少なくとも僕の気持ちだけは、ちゃんと彼女に届いたと思った。
 ただ、行き場のなくなった気持ちだけが、今も膨らみ続けて、そして僕の心を痛めていた。
 ……忘れられそうになんか、ないね。
 小さく呟く。
 ……忘れられる訳ないよ。
 そんな恋じゃ、なかった、よね。
 今更のように、涙が溢れてきて、天井が見えなくなった。
 馬鹿みたい。
 今まで……振られてからずっと、涙なんか流したことなかったのに。
 今頃になって込み上げてくるなんて。

 いつの間にか声を上げて、床に突っ伏していた。
 ホント、馬鹿みたい。
 ばかみたい……

 服の袖がびしょ濡れになった頃、やっと僕は体を起こした。
 窓の外はいつの間にか夕暮れ。春の訪れにはまだ少し間があるものの、緑の芽吹き始めた林を、太陽が朱く染めている。都会ではまず目にすることの出来ない、360度夕焼けに包まれる感覚。その美しさに思わず息を呑む。
 その綺麗さに、改めて遠くに来たことを実感する。夕焼けって、何故こんなに切ないんだろう。綺麗なものほど、その内に秘めているのは切なさだと思う。
 最高に綺麗な夕焼けは、最高に切なかった。


 夕焼けがすっかり消えて、代わりに夜のとばりが空の上から地面へとゆっくりと降りてくる。薄暗くなり始めた部屋に灯かりを点けると、急に外が見えなくなり、代わりに自分の姿が窓に映る。去年の年末から切っていない髪の毛は大分と伸びて、真っ直ぐ落とすと目が隠れるくらいになっている。背は標準より少し低いくらい……高くもないし、かと言って可愛いと言ってもらえるほど低くもないというところ。眼鏡をかけた風采は、正直言ってお世辞にもいわゆるもてるタイプではない。
 それでも、ね。気持ちは通じると思っていたんだけど。

 好きな人がいたんじゃしょーがないよね。

 何度も何度も同じような考えを堂々巡りさせる。ほとんど何を見ても、最終的には同じ事を考え始めてしまう。仕方がないよ、仕方がないって。
 ちょうどその時、下から例のおばさんのやや甲高い声がした。ごはんできましたよ、って。妙に素朴なその声に、なんとなく安らぎを覚える。
「はぁい」
 特に意味もなく大声で返事すると、僕は下の食堂へと向かった。

 しかし、ログハウス風の内装(また雰囲気が違う……)の食堂には誰もいなかった。
 本来なら数十人が収容できるであろう食堂のテーブル。しかしそこには、一番手前に二人分の食事が並んでいるだけ。
「今日はお客さんが2人しかいなくてねー」
 僕の思いを裏付けるように、おばさんが呟く。……まあ、団体もいないのにこの季節にここに数十人の客が泊まっているのも逆に異常だけど。ひとりぼっちでなかっただけ、まだマシと言うものだろうか。僕は小さく息を吐いて、向かい合わせに置かれたお盆の一方の側に腰掛けた。
「じゃ、いただきます」
 小さく手を合わせて、箸に手を付けようとしたその時。
 さっき僕が下りてきた階段の方から、ばたばたと足音がした。ちょっとよろめいたらしく、「ととっ」という声がする。若い女性の声だ。……ちょっと興味が湧いて、思わず手を止める。
 数秒後、食堂の扉が開く。入ってきたのは多分僕と同年代くらいの、ショートカットの女の子。
「え、お客さんこれだけ?」
 開口一番、女性らしい澄んだ声と、それに似合わぬ素っ頓狂な口調。僕とおばさん、ほぼ同時に苦笑。一瞬遅れて、失礼に気付いた彼女も苦笑い。
「あ、席ここでいいんですね」
 照れ隠しみたいに言って、僕の前に腰掛ける。軽く切りそろえた髪が揺れる。
 僕はちょっと目を伏せた。何だかなぁ。女の子とサシで向かい合って食べるのって……。妙に照れくさいし、緊張してしまっていた。ついでに言えば、女性という存在自体に対する微かなおびえもあったかもしれない。ようやく男子校の風土病たる女性恐怖症が治りかけていたのに、今回のことで僕はそれを再発させかけていた。
 言葉もないまま、目の前の山菜ごはんをもぐもぐと頬張る。うん、確かに美味しい。……しかしその美味しさを半減させるような、張りつめた緊張の糸。向こうも同じように、野菜炒めをもごもご。だぁっ。何なんだよこの間は。
 結局堪えきれずに、その糸を切ろうとした時。声をかけて来たのは向こうからだった。
「あの、どこからいらっしゃったんですか?」
「あ、東京ですー」
 東京と言っても大分と西寄りだけど。
「そうなんですか。私関西なんですよ。兵庫県のT市」
「え? じゃあ僕の実家のそばじゃないですか」
「え、そーなん?」
 思わず関西弁が出る彼女。僕も同じように答える。
「僕はH市なんやけど」
「嘘。隣町やん」
 取り敢えず、何となくだけどそれで打ち解けた。山菜ごはん、もぐもぐ。美味しい美味しい。
「学生さんですか?」
 取り敢えず丁寧語に戻して聞いてみる。
「ええ。今度2回生になるんですけど」
「あ、同い年」
 今日は偶然が重なるなぁ。
「ほんまに?」
 驚くと関西弁になる。まあ僕も同じようなものやけど、ね。
「ほんまほんま」
「……ま、私は一浪してるけどね」
 て、ことは一つ上かぁ。一応、僕は現役だから。
 いつの間にか、最初の緊張はかなりほぐれていた。まあ、完全に、とまでは言えなかったけど。旅先でたまたま同じ宿に泊まった人に過ぎない、という思いが、むしろ気軽に話を盛り上がらせてくれたんだと思う。しかも、大体地元ネタというのは盛り上がりやすい。特に関東暮らしが長かった僕は、久しぶりのコアな地元の話がとても楽しかった。古くからあった本屋が最近つぶれた話、私鉄の運賃が高いという愚痴、あるいは……。
 気が付くとすっかり打ち解けていた僕と彼女。
 食事を食べ終わっても、セルフのお茶を飲みながら、僕らはまだ話し続けていた。
「そう言えば、これからの予定ってあるの?」
 何となくそんなことを聞いたのは僕の方だった。
「いや、特に考えてないけど……そっちは?」
 聞き返される。 
「僕も特に予定はないんやけど……」
 そこで一瞬、妙な間が空く。
 僕は次の言葉を言い出すかどうか、一瞬逡巡していた。……おそらく、普段の僕ならとても言わない、言えないような言葉。でも、旅先という異世界の高揚感が、その言葉を後押ししてくれた。
「何なら、ご一緒しません?」
 ええい旅の恥はかきすて。ナンパの恥もかきすて。
 そして返ってきた言葉は、意外にも。
「……、うん、じゃあそーしようよ」
 何故だか僕の方がどきりとした。
 頭の中が一瞬空っぽになった後。
「おっけ!」
 明るく返事。
 やっほー。
 束の間のお付き合いに振られたウサでも忘れよう。


 翌日の朝。
 目を覚まして寝ぼけ眼で枕元を見ると、腕時計の針は8時を少し回ったところを指していた。
 ほとんど夢すら見ずに、ぐっすり眠っていたらしい。夜行列車であまり眠れなかった反動だったんだろうか。
 布団の中から天井を見上げて、昨日のことを思い出す。
 昨日、結局あの後……食堂からロビーに場所を移して、僕と彼女……栃原佐奈、って名前だったっけ……はかなり長い間話を続けていた。旅先で出会っただけの人間という疎遠感が、かえって僕たちの心の距離を近付けて開放的にしてくれる。そう言えば、ロビーの隅に将棋盤が置いてあったので、2人で将棋を一局指した。何でこんな所で(しかも女の子と!)将棋を指してるんだろう、とか思ったけど、その馬鹿馬鹿しさが妙に心地よかった。ちなみに勝負の方は、実力伯仲したいい勝負だった。……お互いのヘボっぷりで。
 そして今日……特に予定のないもの同士、一緒に行動しようと言う約束。
 今でも嘘みたいな記憶。
 いや。夢を見てないんじゃなくて……実はこの記憶自体が夢の中の出来事なんじゃないんだろうか。
 そんな僕の思いを遮るように、昨日の晩同様のおばさんの声が聞こえてきた。……朝食が出来たらしい。
 僕は体を起こして軽く首を振ると、服を着替えてから、部屋にかかった鏡の前で髪の毛を軽く梳いて部屋を出る。
 ちょうどそこで、彼女とばったり。一応ちゃんと梳いてはあるみたいだけど、ほんのちょっとだけ髪の毛が跳ねてて。目も少し細くなってて。
「おはよ」
 まだほんのちょっぴり寝ぼけた様子で。
 で、僕に言った言葉。
「今日、どこに行くか考えた?」
 胸がどきんと高鳴って。
 で、更にとどめの一言。
「一緒に動くって昨日ゆーたもんね」
「うん、そうそう」
 やっとそれだけ答えるのが精一杯。
「決まらへんのやったら、私が勝手に決めてまうよ?」
「……何か良いアイデアでもあるん?」
「ないけど」
 そこまで話してやっと元の自分に戻ってくることに成功。
「ま、朝食でも食べながら考えましょーか」
「そーしよ」
 僕が言うと、彼女もあっさりと頷いた。


 板を渡して屋根を付けただけのような小さなホーム。
 JR三福線、東奥山駅。昨日一人で降り立った駅。そして今は、二人で列車を待っている駅。ようやく暖かくなってきた太陽が、僕たちの影を作る。
 結局、予定のなかなか決まらなかった僕たちは、宿舎のおばさんに相談して、双龍渓とかいう渓谷を見に行くことにした。渓谷なんて地味だけど……まあ、実のところ行き先なんてどこでも良かったのだ。「どこか」取り敢えずの場所があれば。
「長閑やなぁ」
 彼女が呟く。独り言のようにも話しかけたようにもとれる調子で。
「うん」
 田園風景を抜けて林の中へと消えていく線路は、思わず本当にここに列車が来るんだろうかと思わせるような雰囲気がある。ちらりと腕時計を見る。あと5分くらいかな。
「何だか、変な感じ」
 彼女がもう一度呟いた。
「何が?」
「こうやってとんでもない田舎に来て、で、知らないオトコノコと旅をしているって」
「僕も同じ。……そもそもOKが出るなんて思ってなかったし」
「……ナンパしたの、初めてでしょ?」
 不意にこっちを見て微笑む。
「分かった?」
 照れくさくなって下を向く。
「慣れてる人は、そんな照れくさそうに言わへんって」
「そーゆー演技をする人もいるよ?」
 切り返すと、ちょっと口元を上げる。
「栗山さんが演技やないって事ぐらい分かるって。それにそこまで演技が上手い人なら、騙されてもえーかなと思ったし」
 そんなものなのかな。
「第一こんな田舎までナンパしに来る人はいないと思う」
「……なるほど」
 確かに。
「でも、良かったの?」
 僕が訊き返すと、首をちょっと傾げてから答えが返ってくる。
「いいよ、どうせ一人旅も暇だったし。こーいうのも面白いんとちゃうかな」
 ちょうどその時、遠くの方から汽笛が響いてきた。
「あ、来たみたいやね」
 彼女に言うと、僕はホームの端から目を細めた。細く長く続く二本のレールの向こうから、小さな気動車がゆっくりとこちらに向かって走ってくる。
 彼女が思いだしたように訊いた。
「どこまで乗るんやったっけ?」
「えーと、田村川駅。で、そこからバス」
「分かった」

 間もなく、昨日と同じようなディーゼルカーがホームに止まる。
 扉を開いて僕たちを乗せると、すぐにまた走り始めて、そしてまた林の中へと入っていく。
 ロングシートに二人並んで……でも少しだけ間を置いて腰掛けて、僕はそれをぼんやりと眺めていた。


「次は、終点、双龍渓、双龍渓です。本日は太陽交通バスにご乗車いただきありがとうございました……」
 まるでマイクロバスのような小さなバスを、終点で降りる。……行楽シーズンになるともう少し賑やかなんだろうけど、今は周辺は閑散としていて、観光バス対応の大きな駐車場がその広さを持て余しているかのようだ。
 バス停のポールを覗き込んで、帰りのバスを確かめる。記された時刻はわずか4つ。今乗ってきたこのバスが折り返してしまうと、次のバスは昼の二時頃までない。
「ほとんど何もないね」
 苦笑しながら彼女が言う。……見当たるのは駐車場の端に売店があるくらいで、他には民家ですらほとんど見当たらない。
「まあ、渓谷を見に来たのに家ばかりというのも嫌でしょ」
「そりゃそーだけど」
 売店の脇に、渓谷を辿るハイキングコースの看板が立っていた。
「じゃ、行こっか」
「あ、ちょっと待って」
 彼女が売店の方に走っていく。トイレか何かかなと思ってみていると、すぐに戻ってきた。
「はい、これ」
 彼女が差し出したのは一本の缶ジュースだった。もう一方の手には、紙パックのジュースを持っている。自分の分らしい。
「あ、さんきゅ」
 財布を出そうとポケットに手を突っ込む。
「おごりでいーよ」
「え、悪いって」
 僕が手を振ると、彼女はその手に強引にジュースを押しつけた。
「えーからえーから」
「あ、じゃあ」
 申し訳ないと思いながら受け取る。ごく普通の缶コーヒーだ。ふたを開けると、微かにいい香りが漂ってくる。彼女はその様子を面白そうに見守ると、自分の紙パックにストローを差し込んで吸い始めた。
「ところで」
 僕はそれを見て声をかける。
「何で豆乳なの?」
「好きなんよ」
 照れくさそうに言う。
 でもよくそんなもの売ってたな。

 2本の渓流が絡まるように、うねうねと急曲線を描きながら流れているのが良く分かる。確かにそう、まるで2匹の龍が絡み合うかのように。
 そんな渓谷が一望できるあずまやで、僕たちはぼんやりと座っていた。どうせ早く戻っても、バスが来るまでは時間はたっぷりある。
「さすがに渓流だと涼しげだなぁ」
 僕が呟くと、彼女がすぐに返してくる。
「今はまだ春先だよ」
「突っ込まない」
「関西人はボケとツッコミが命って言うし」
 そんなこと言ったの誰だよ。
 しばらく無言の時間が過ぎて、何となく不意に目があって、慌てて目を逸らしてちょっともじもじする。
「やっぱり何か変な感じだね」
 彼女が苦笑しながら言った。
「一人旅の筈なのに、しかも異性と旅しているなんて」
「僕、異性との二人旅なんて初めて」
「そんなも私もよ」
「ま、普通はそーか」
 そんな初体験が失恋の直後だなんて、何だかちょっと皮肉な気もする。
「しかもそんな旅の行き先が、こんな人の少ない渓谷。若い男女の行き先じゃないわよ、絶対」
「いいんじゃない、人気の少ないところで二人っきりって、何だかロマンチックで」
 ああっ自分でも恥ずかしいようなことを。歯がぷかぷか浮いて飛んでいきそう。
 ちょうどその時、下の方から足音がした。
「ほう」
 そう言いながら、定年を少し過ぎたぐらいという感じの、首にカメラを下げたおじさんが現れる。
 僕は赤面して下を向いた。……まさか、聞かれてないよね?

 その日の夜の宿は、ここから大分と南の街の郊外にあるユースホステルにした。帰りのバスに乗る前に、売店の公衆電話から素泊まりで予約を入れておく。
 帰りのバスは列車ときれいに接続していて、田村川駅ではほとんど待つほどのこともなくすぐに乗り換え。街まで直通する列車は、今までの一両から二両編成になっていた。
 終点に近付くと、周りに一気に民家が増えてくる。ずっと田舎にいただけに、その風景はまるで異世界から現実世界に帰ってきたかのようで、妙に懐かしく、そしてほんの少し寂しかった。


 途中で夕食代わりにお好み焼き(!)を食べたりしていたので、ユースホステルに着いたのは夜の八時頃だった。部屋に荷物を置いてから、談話室の方をのぞいてみる。
「こんばんはー」
 僕が挨拶すると、部屋にいた二人から同じように挨拶が返ってくる。茶髪の大学生っぽい人と、赤いシャツを着た二〇代後半くらいの人だ。
「今日は泊まり客はこれだけですか?」
「みたいですよ」
 こんな感じで、いつの間にか世間話になる。今までの旅行の話とか。
「あ、栗山さん、こんなところにいたんだ」
 その時、彼女が入って来た。
「私も入れてもらおうっと」
 そう言って、当たり前のように僕のすぐ隣に腰掛ける。
「部屋どうだった?」
 僕が訊くと、彼女は楽しそうに答える。
「いい感じ。海がよく見えるし」
「そうそう。眺めがいいのが嬉しいなぁ」
「昨日は山並みだったし……よく考えるとものすごい対照的な景色だよね」
「あ、そう言われてみれば」
 二人で笑い合う。
「あ、でも昨日の方が建物は綺麗だったかも」
「こういう古びた感じもキライじゃないけど」
 その時、不意に茶髪の人が言った。
「お二人、恋人とかそんなのなんですか?」
 一瞬、二人で顔を見合わせる。
 かぁっと頭に血が上って。
「ちゃ、ちゃいますよ!」
 慌てて否定する声は、馬鹿みたいにきれいにハモっていた。
「あ、意外」
 無責任に言う赤シャツの人。
「……見たところもの凄く仲良さげだし、昨日も同じ所に止まっていらっしゃったみたいだから、てっきり彼女と二人で旅行中かなって」
「いや、単なる偶然です。たまたま行き先が同じだったんで」
 本当はちょっと違うけど。
「そうですよ。全然知らなかった人ですから」
 彼女も頷く。
「いっそ本当に恋人になっちゃえば?」
 茶髪の方が不意に言う。
「旅先の出会いって格好いいだろ」
「いや、そんなものじゃ……」
 僕は恥ずかしくて顔を上げられない。
「あの……私、先に失礼します」
 彼女が不意に言うと、他の人の「じゃあ」と言う声も聞かずに、慌てて出ていく。
「じゃあ僕も」
 僕も後を追うように腰を上げた。
「頑張れよ少年」
 無責任に言う赤シャツ。
「何を頑張るんですか、何を!」
 もう顔なんか真っ赤っか。

 その後お風呂に入ってきてから、床に寝そべっていると、不意にドアが叩かれた。
「ちょっといい?」
 彼女の声。僕は体を起こすと、答えた。
「別に構わないけど……」
 そう言いながら、立ち上がって入り口の方に向かう。
「でも、何?」
 ドアを開けながら聞く。
「明日、どうするんかな、って思って」
 うーん。
「ちょっと迷ってるんだけど……えーと」
 そこでちょっと言葉を切って、言う。
「食堂ってまだ使えたっけ」
 僕が訊くと、彼女はちょっと首を傾げた。
「分かんないけど。取り敢えず行ってみる?」

 さっきまで騒いでいた二人も部屋に帰ってしまったらしく、誰もいない食堂はただ電灯だけが点いていた。
「迷ってるって?」
 一番手前の椅子に腰掛けながら、彼女が言った。
「……そろそろ、帰らなくちゃな、って思って。バイトとかもしなきゃいけないし、
 それに何より、いつまでも傷ついているわけにはいかないから。早く忘れて次の恋を探す、とか言ったらちょっとわざとらしい表現になってしまうけど、でも、過去は清算しなくちゃいけない。
「……私も、それを言おうと思ってたんだ」
 少しの間を置いて、彼女が言った。
「路銀も尽きてきたしね」
「それはある、僕も」
 二人で苦笑。
「で……あの、折角だから途中まで一緒に帰らない?」
 彼女の言葉に、僕はすぐに頷いた。
「栃原さんさえ良ければ、喜んで」
 ……そのあと、少し雑談をしてから別れる。
 結局、さっきの話は、全く話題に上ることがなかった。


 翌日、僕たちは朝早い内にユースホステルを出た。駅前のコンビニでパンとジュースを買って、電車の中で軽く朝食をとる。
「そうだ、どこかに寄らない? 今日中に帰れればいいんでしょ?」
 僕が言うと、彼女はすぐに頷いた。お互い、何となくぎこちなく。

 途中の駅で降りて、街を歩く。一通り街を歩き回った後、小さな資料館のおっちゃんから美味しいと強く勧められたラーメン屋で昼食を食べる。
 そして、その近くからロープウェイに乗って丘に登って、そのまま展望台に登る。眼下には、山と海に挟まれるように細長く延びる市街地や、その向こうに広がる瀬戸内海が見て取れる。たくさんの島が散らばる多島海。街で一番眺めのいい場所。
 相変わらず普通に会話している。でも何かがかみ合っていない。そんな状態。
 僕はぼんやりと、この傷心旅行のことを思い出していた。多分ここが、立ち寄る最後の場所。……失恋した日のことが、遠い昔のようにも今日のことのようにも思える。
 ため息をつく。
「あのね」
 その時、展望台の柵に身を預けて、不意に彼女が言った。
 僕が彼女の方に向き直ると、彼女は続けた。
「実はね。私、この前失恋したんだ……」
 僕の足が凍り付く。
「……今どき馬鹿みたいでしょ、傷心旅行なんて。でも、じっとしているのは辛くて。少しでも早く、気持ちに整理を付けたくて」
 俯く彼女の声が、微かに震える。
「精一杯、無理して普段よりもずっと明るく振る舞ってたんだけど。……やっぱり、駄目みたい」
 え? ……ええっ?
「一方的に片思いしてただけ、なんだよね」
 大きくため息をつく。
「……僕も」
 小声で呟く。
「え?」
 彼女は顔を上げると、僕の方を振り返った。
「同じ。……僕も、傷心旅行」
 信じられないものを見たように、彼女の眼が大きく開かれる。
 数瞬の沈黙。
「……ってことは、私たちって実はふられたもの同士やったわけ?」
 唖然とした口調で言う彼女。
「そういうことになるよね……」
「……何よそれ」
 再び俯く彼女。
「呆れた」
 心底呆れきった口調。
「馬鹿みたい……」
 最後の方は消え入るようになって、そして彼女はまた下を向いた。
 再び海の方に向き直って、ぼんやりと景色を眺める彼女。
 僕は黙って、彼女のすぐ隣に回る。
「……半年くらいかな、片思いしてたの」
 彼女の方は向かないまま、呟く。
「今になってみると、馬鹿みたいだけど……あの頃は、彼女のトモダチとしての好意を全部勘違いしてた。もうちょっと、別の意味での好意かな、って」
 彼女からの返事は返ってこない。
「笑われると思うんやけど。……初恋、だったから。高校まで男子校だったし」
 それは自分自身の胸のつかえを吐き出す作業。……一度言葉が溢れ始めると、もうそれを止める事なんて出来やしない。
「もう無我夢中で、世界が自分の都合のいいようにしか見えてなかった。自分なりに一生懸命もがいてた。最初から無理だなんて知らずに」
 大きくため息をつく。
 しばしの空白。
「……栗山さんって、何か子供みたい」
 彼女が言った。
「私も……やっぱり同じだけどね」
 ため息一つ、二つ。
「……でも。恋をしている間、それだけで、生まれてから今までで最高に幸せだったよ、私」
 ちょっと寂しそうに笑う。
「その幸せをくれた人に、感謝しなくちゃいけないと……思うんだけど……」
 そこから先は言葉にならない。
「……うん、僕も」
 あとは言葉もなく、また景色を眺めていた。
 太陽の光が海面に反射して、きらきらと輝いていた。


「東京行き快速ムーンライトながら号、発車します」
 放送と共に、発車のベルが鳴り響く。車端にあるドアの閉まる気配は、さすがに車両の真ん中近くだと感じられない。そして、一度ごとんと少し揺れてから、列車が動き始める。
 駄目元でみどりの窓口で聞いたら意外にも入手できた指定券を手に、僕は窓際の席に座ってぼんやりと外を見ていた。
 窓の外を、駅名標がゆっくりと流れていく。
 明日の朝には、僕はもう東京に帰っている。

 わずか数時間前には、僕はまだ京都駅に立っていた。
 駅前のバスターミナルには、今も市営バスが次々と出入りしている。そして広い改札口のコンコースを、家路に向かう通勤客が急ぎ足で通り過ぎて行く。
 本当なら、もっと手前で別れるはずだった。兵庫県内に住んでいる彼女が、わざわざここまで来る理由はない。僕は東京へと向かい、そして彼女は自分の家へと帰るはずだった。でも、結局ここまで来てしまった。……二人の、最後の限界線。
 駅前の喫茶店で、コーヒーを飲みながら話した。
 お互いの相手に対する気持ちなんか、何も言えずに。
 ただ、楽しい旅行だったね、ありがとう、と。話せることなんてそれだけだった。
 その時間が大事な時間だった。
 でも、「永遠」なんてものはどこにもない。
 そして、電車の時間が近付いていた。……東京行きの夜行に間に合う最後の新快速の時間が。

 東海道線のホームまで歩く間、僕たちは無言だった。
 階段を上がりきると同時に、新快速がホームに滑り込んでくる。
「じゃ、バイバイ」
 僕が言うと、彼女は小さく笑った。
「気を付けてね」
 軽く手を振ってみせる。
 ……そして、彼女、栃原さんは、最後に一言呟いた。
 発車のベルが鳴り響く。
 ドアが閉まる直前の最後の一瞬、僕は大きく頷いた。

 窓の外は闇。日付も変わってしまった今、家々の明かりすらほとんど消えてしまっている。その闇を引き裂くように、煌々と明るいままの列車が駆け抜けて行く。そして窓は、僕自身の姿を映し出す。
 窓の向こうの自分をしばらく見つめてから、僕はリクライニングを倒した。
 天井を見上げて、そしてゆっくりと目を閉じた。
 最後の彼女の言葉が、耳の奥でリフレインしていた。

「……また、会えるよね」


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