Monochronika

die
SommerTage

一日デートしてくれない?


yoshikem




T

エリアネル・テルミチェットに関するレポート。

 エルフ。女性。約百歳。
 髪の色は白銀。日の光に透ける薄い銀髪は、彼女の魔力への親和力の高さを容易に窺わせる。
 特筆すべき特徴として、腰まで伸ばした長髪の先の方だけが漆黒に染まっている。理由は不明。他の村民に尋ねても知る者は無し。この件に関しては今後も調査を進める必要あり。
 生活力は限りなくゼロ。隣人であるシャルシュ・ワイゼンに食事の世話になっている。

 戦闘能力に関しては、究極的には未知数。
 但し、本村の森林警備隊における最強の存在であることは自他共に認めており疑いようがない。
 が、エルフの戦闘能力に関して、本村が特別に秀でていると言うことは無く、他聞に漏れず高い魔力に物をいわせた雑な魔法を使っている模様。この点も踏まえると、エリアネル・テルミチェットの実際の戦闘能力に関してはある程度疑問が残るところ。

 以下、調査を継続する。


U

 ジグ・ムーシカの一日は夜明けと同時に始まる。部屋に日が差し込んでくると目が醒めてしまうのは、魔導都市ヘクセンにいる頃も、そしてこのハルヨビの村にいる今も変わらない。長年の習慣とはそう簡単には揺らがないものなのだ。
 機械のように正確に、日差しを感じて目を開ける。
 眠気、無し。
 体調、異常なし。
 この村に、そしてこの家に世話になり始めてからそろそろひと月弱。暦は春から夏へと移りつつある。
 初夏の背中が徐々に見え始める晩春の頃。空気には夏の気配が徐々に混じってきて、まだ朝だというのに少し汗ばんでいる。窓を閉めたまま寝るのはそろそろ厳しい季節だろうか。しかし、他人の家に居候をしている身だというのに防犯上好ましくない状態を作るのも今ひとつ気が引ける。今度シャルに確認を取ってみるのも一つの手かも知れない。
 窓際まで行き、窓を思い切り開ける。
 夏の朝。東向きの窓。
 透ける藍色の空が向かいの家の屋根から白く染まっていくグラデーション。
 外気は思っていたよりもひんやりとしていて、頬を撫でていくのが心地よい。
 今日も一日、良い日になりそうな気がした。
 首や肩を回して、寝ている間に凝り固まった体をほぐす。これも一日の始まりを規定する習慣のようなものだった。
 そろそろ着替えようかと思ったところで、玄関の扉が開いて閉まる音がした。
 一日の始まりを確認しに行って来た家主が帰ってきたのだろう。
 たまには朝食準備の手伝いくらいした方が良いか。そんなことを考えて、手早く着替える。
 おっとうっかり。
 窓を開けっ放すのは防犯上宜しくないことに気付き、閉じて施錠。
 チラリと見えた向かいの部屋は窓を閉められ、カーテンも引かれていた。



「エリアさんは?」
「まあ、その内起きてくるんじゃないでしょうか。いつものことですから」
 シャルシュ・ワイゼンは苦笑しながらそう答えた。
 雑談をしながらも手の動きは流れるように滑らかで、見ている間に食卓には朝食の用意が揃ってゆく。
 今朝はいつの間に用意していたのか大きなパンとそれを切り分けるナイフ、それにバターとベーコンエッグ。あとはみずみずしいサラダが豪勢に盛られた大皿が食卓に彩りを添えている。
 シャルシュが盛りつけを終えた皿を、ジグが並べていく。急ごしらえのコンビネーションにしてはまあまあの出来。
 わずかな間に食卓が完成し、その頃合いを見計らったかのようにアリアが扉を開けて今へと入ってきた。
「おはようございます、兄様、シャル」
 寝ぼけ眼を擦るようなことはない、既に完璧に整えられた身だしなみと、いつも通りの薙いだ湖面のような涼しげな面持ち。
 騎士は市民の見本たるべしという、ジグからすれば若干悪習とも思えるような習慣に染まりきったガチガチの騎士であるアリアは、朝から隙がない。
 食卓に必要な皿が並びきっていることを確認すると、必要数が棚から出されていたコップにミルクを注ぐ。その数は三。出された四つのコップのうち一つが必然的に余る。
 空いたままのコップをごく自然な仕草で、つまりはまるでいつものことのように食卓の脇へと移すアリアを見ながら、ジグが苦笑する。
「……まあ、どうせ暫くは来ねえだろうけど」
 この食卓に想定されるもう一人の人物、エリアネル・テルミチェットは朝食が用意された時間通りに来ることはない。それはこの場に既に揃っている三人の間では確認するまでもない共通の認識であった。
 或いは、そうさせているのはジグとアリアの兄妹なのかもしれない。それまではシャルシュが食事を用意する時間に概ね起き出してきていたエリアがこうなったのはジグたちが村へ来てから。すなわち、彼らがシャルシュの家へと居候し始めてからである。
 常に一同の食事が終わった頃を見計らって顔を覗かせて、もっそりと食事をしていくエリア。それがジグたち二人を避けている行動だと見えない方がどうかしている。
 だから、少なくとも自分たちがここで食卓を囲んでいればエリアは来ないだろう。
 そんなことを、ジグも思っていた。
 だから、アリアがミルクを注いだ三つめのコップが背後からのっそりと奪い取られた時には、その手の主を見て本当に驚いた。
「んぐっ、美味しい。アリアちゃん、悪いけどもう一杯お願い出来る?」
 そんなことを言いながらコップを差しだしたのは、エリアネル・テルミチェットその人だった。
 ジグも、アリアも、そしてシャルシュでさえもやや唖然としてエリアのことを見つめる。
 その渦中にあってエリアただ一人のみキョトンとしている。
 朝っぱらから時間が止まってしまったかのような、奇妙な感覚。
「ん……、どうしたの、みんな変な顔して。にらめっこしてないで朝ご飯食べようよ」
 ぼさぼさの髪に手櫛を入れながら、寝ぼけ眼を擦りエリアが席に着く。
 それを見て、ようやくアリアは差し出されたままだったコップにミルクを注ぐ。
 ようやく動き始めた時間は、手綱を完全にエリアに握られていた。
 髪の毛はぼさぼさ。大きなあくびをしながらミルクを口に運ぶエリアの様子は、先ほど騎士の有様を思う存分に体現していたアリアとはかけ離れてだらしがない。良い意味でも悪い意味でもありのままで、端で見ている分には呆れるしかない。
 そんなエリアを横目で見ながら溜息をつき、アリアは四杯目のコップにミルクを注ぐ。
 いつもとはどこか違う朝食が始まった。

「そうだ、ジグ君、今日、私に付き合ってよ?」
 いつもとはちょっと違う雰囲気の朝食は、いつもとはちょっと違う言葉で締めくくられた。
 食後のコーヒーを飲み終えたジグが席を立とうとしたその瞬間を見計らっていたかのように、エリアの言葉は放たれた。
「は?」
 食卓を囲む他の三人の疑問符が綺麗に重なる。
 クリーンヒット。
 意表を突かれて返事も返せないうちに、エリアの言葉が続く。
「どうせ、暇なんでしょ。一日デートしてくれない?」
「デっ!?」
 アリアが筆舌尽くしがたいような表情になっているのはとりあえず置いておく。
「……いや、俺はこの村には任務で来てるから、暇ってわけじゃないんだが……」
 どうにかそれだけを言い返すジグに、エリアは苦笑を浮かべて応える。
「分かってるわよ、そんなの。付き合ってくれたら、多分貴方の任務にも良い事あるわよ」
「……そう言われても、少し考えさせてくれ」
 ジグがそう言って額を中指でとんとんと叩く。真剣に悩んでいる時の癖だった。
 正直、エリアの近くで時間を過ごすというのは魅力的だ。無論あくまで任務的な意味で。
 彼の目的を達成する上でこれ以上の好条件というのもあまり無い。
 だから、エリアの提案に乗る価値は充分以上にある。
 だが、果たしてそんな都合のいい話があってもいいのだろうか。
 そこに何らかのデメリットはないのだろうか。
 例えば、エリアはデートという名目で誘っている。それが一体どのような意味を持つのか。後でさんざんつるし上げられるようなことになるのはごめんだ。一体何が起きようとしているのか、冷静に考えて見極める必要がある。
 そんなことを考えていたら、表情が渋くなっていたらしい。エリアが苦笑をより一層深いものにする。
「そんなに難しく考えなくて良いってば。良いからついてくること。わかったら返事」
「ん……、まあ、いいけどな」
 渋々と言った様子で応える。
 可もなく不可もなく。大したデメリットがあるとも思えないなら、ここは思い切って乗ってみるのも一興ではある。
「おっけー。じゃあ、あとで家の前でね」
 いつの間に食べ終えたのか、エリアがそう言って席を立つ。
 それに頷き掛けて、微かな疑問。
 あまりに自然すぎて忘れてしまいそうになるが、ここはシャルの家であってエリアの家ではない。
「家って、どっちの家だ?」
「どっちだって一緒でしょ。隣なんだから」
 違いない。
 呆れた様なエリアの言葉に肩をすくめて同意した。



 森林警備隊【森の翼】は、このハルヨビの村において周辺一帯の安全管理を行う名目で組織された集団である。
 主な任務は森の中を通っている道の安全管理や、土砂災害などが起きた際の復旧。
 そして、森に出現する魔獣の駆除。
 どういうわけか、このハルヨビの村近辺ではひと月に一回程度魔獣が出現するらしい。その頻度は、これまでヘクセンの街で育ってきたジグからすれば異常と言えるものだ。
 人里近くには普通魔獣は現れない。逆に魔獣が現れないところに人里が出来ているのかもしれない。その二つのいずれが先かは論じるに値しない。ただ一つ確かなことは、ある程度の規模で人が住んでいる場所のすぐ近くに魔獣が現れることなど、普通は数年に一度起きるかどうかと言う天災のようなものなのである。
 それが、この村ではひと月に一度。
 エルフの村ならそんなこともあり得るのか。そんなはずはない。今までそんな話は聞いたこともない。
 この村は、異常だ。
 そんなところに住むからこそ、きちんと整備された自衛機構が必要だったのだろう。
 初めて扉を開けて入った【森の翼】の事務所内。和やかそうに談笑している面々は、一目で実力者と分かるオーラを放っているように見えた。
 木造の、十数メートル四方はある一階建ての建物。その中には余所とは違う独特の空気が漂っていた。
「ようこそ、我らが事務所へ」
 茶化してそんなことを言いながら、エリアは事務所の奥へと入っていく。
 完全にアウェーの状況。自分の居場所など在るはずもない他人の領域で、どことなく肩を狭めながらその後をついていく。
 前を行くエリアに訊ねる。
「ここに来る必要あったのか?」
「勿論よ。だって、デートなんだし」
「……さっぱり意味が分からないんだが」
「まあ、良いって事良いって事」
 そう言いながらエリアが入っていくのは、事務所の中でも比較的奥の方。日当たりの悪いスペースに設えられた小部屋だった。
 扉を手前に開けて、エリアが中に入る。部屋の中は光が差し込んでいない、とても薄暗い場所のようだった。
 影の中へと姿を消すエリア。その後に、誘われるかのようについて入る。
 部屋の両側は棚。倉庫なのか、農具やら雑多なものがかごに入れられて積まれている。明かり取りの窓は小さいものが一つ。その前に大きな箒が何本も積まれているので殆ど意味を成していない。
 薄暗くて狭苦しい、どこか心がざわつくような空間。
 その奥でエリアはこちらへと向き直っていた。
 うつむき加減なのと薄暗いのとで表情は見えない。
「ふふふ、素直に入ってきちゃって良かったのかな?」
 うっすらと見えるその口元。端がにんまりとつり上がるのが見える。
 背筋をはい上がってくる猛烈な寒気。
 立て付けの悪そうな耳障りな音をたてて、ジグの背後で扉が閉じる。
 暗くて狭い閉塞空間。明かり取りから漏れるわずかな光だけが、室内を照らしている。
 エリアが一歩踏み出す。
 知らず、一歩後ずさっていた。
「こぉんな狭いところで二人っきり。何があっても知らないよ?」
 窓からの光が一筋、前へ出たエリアを照らす。
 彼女の右手がすっと上がる。
 そこに握られていたのは、

 一本の鉈

 ちゃきん。
 そんな効果音が似合いそうな構図で柄が握り直される。
 鈍く陽光を照り返す刃は、どう見ても切れ味が悪そうだった。
 あれで られたら痛そうだなぁ……。そんな思考が浮かんで霧散する。
 埃の舞う倉庫の中にあって、鉈を片手に佇むエリアの姿はどうにも異様で、空恐ろしく、そしてどこか幻想的だった。
「で、なんの冗談なんだ、これは」
「はぁ……、もっと怖がってくれないと面白くないじゃん。あんた、冗談通じないって言われてない?」
 それまでの非現実的な空気があっという間に雲散霧消し、エリアがいつものおどけたような調子でそう言った。
 予想通りと言ってしまえばその通りの展開に、肩をすくめる。
「こういうの、慣れてるんで。全然殺気もなかったしな」
「そうか。つまり兄はいじめられ慣れてると」
「ちょい待てや」
 勝手に想像を膨らませている様子のエリアに、ストップを掛ける。人の過去を妙な具合に想像されても困る。
「でもって、妹はブラコン。うわ、あんたら兄妹って何気に濃いわね……」
「ほっとけっての。あと俺はいじめられ慣れてねえ」
 好き勝手に妄想を膨らませてくれたエリアに溜息をつきながら、ジグは改めて辺りを見回した。
 薄暗い以外は何も特別なことなどない、ごくごく普通の倉庫である。
 先ほど扉が独りでに閉じたのは、恐らく偶然とは言えかなり驚いたが、それだけだ。
 用がなければ来るはずもない、何の変哲もない場所。
「で、こんなところに何の用だ?」
「何の用ってわけでもないんだけどね」
 片手で器用に鉈を回しながら、エリアが呟く。
 いちいち鉈が恐い。
 おもむろにこちらを向いて、ジグのことを上から下まで一通り眺めてからの問い。
「あんた、得物はもってきてる?」
「見ての通りだが」
 両手を広げる。それと同時にローブの裾が広がって持ち上がる。
 腰には大剣が一振りと、その脇に腕の長さの半分ほどの剣が一振り。よく見れば革の鎧も着けているようで、簡便な戦支度としては充分な装備だった。
「はあ、なんでデートにそんな厳めしい装備なのよ。そんなんじゃ彼女出来た時に退かれるわよ」
「本当にデートに誘われてたなら、もうちょっと考えてただろうけどな」
「あっそ。下手な誘いで悪うございました」
 軽快なやりとり。
 口先だけでたたき合う冗談の中に、ついと真剣みを混ぜ込む。
「それで、何に付き合わせようって言うんだ?」
「ただのパトロールよ、パトロール。まあ、出そうってのは事実だけどね」
 そんなことを言いながら、エリアは鉈を腰に差し込み、更に棚の奥からナイフらしきモノを取り出してくる。鞘から出されたそれは綺麗に研がれているように見えた。
「出そう?」
「そう。多分今日辺り来る。そんな気がするのよね」
「それは……つまり、魔獣が?」
 疑うような目つきのジグに対して、エリアは何でもないことのように頷いてみせる。
 なんとなく予想はしていたが、いざ実際に言われてみるとやはり驚く。
 勿論、そんな風にあっさりと魔獣の出現を肯定してしまうことに関してもそうなのだが、出そうな気がする、などという感覚はそもそもジグには理解出来ない。
 エルフの寿命は人間の約五倍。外見の上ではジグと大して変わらない年に見えるエリアは、その実ジグの五倍もの年月を生きてきているのだ。それだけ長く生きていると何か新たな感覚を得られるものなのかも知れない。
「はぁ……、なんつーか、流石に年季の入ったエルフは違うね。伊達に長生きしてないっつーか」
「そお? でもまだまだアンタと並んでたら充分カップルに見えるつもりではいるんだけど」
 おどけたようにそう口にするエリア。
 薄明かりの中で微笑む彼女の姿を上から下まで眺めて、小さな溜息。
「まあ、ギリギリおば、」
 言いかけた言葉は、顔面を襲った強烈な衝撃と共に途切れた。
 涙でにじみそうになる視界に見えたのは、いつの間にか鉈を握り込んだ拳。
「あんまり妙なこと言ったら殴るからね」
「……もう殴ってるじゃねーか」
 顔をしかめながら呟く。
 ちゃきん。そんな効果音が似合いそうな構図で鉈の柄が握り直される。
 あ、デジャヴ。しかも今度はどことなく殺気付き。
 身の危険を感じると同時に謝罪の言葉が口から滑り出ていた。
「すいませんでした」
「分かれば宜しい」
 そもそも、あの鉈は先ほど腰のホルスターに収めていたはずなのに……。
 初撃が鉈でなかった事に精一杯の感謝をしておくべきなんだろうな。

 エリアの装備が整ったのを見計らって倉庫を出る。
「倉庫、別に俺が付き合うこと無かったな」
「まあまあ、そう言わずに」
 腰の左右に鉈を下げ、背後のホルダーにはナイフが四本。厳めしい装備を整えたエリアのあとをあきれ顔で付いていく。
 倉庫の中で妙なやりとりがあった所為か、【森の翼】事務所内にいることに対して何も感じなくなっていた。肩身の狭さもない。まるで昔から自分がいた場所のような、そんな気分になる。
 事務所内を倉庫から入り口まで、距離にすればなんてことのない短い通路を抜けていく。休憩スペースとなっているのか、ソファの横を通り抜けようとしたエリアが不意に呼び止められた。
「おっ、嬢ちゃん、彼氏連れでパトロールか?」
「あははー、そう見える?」
 立ち止まって応対をするエリアに付き合って、ジグも足を止める。
 ソファには壮年のエルフが二人腰掛けていた。顔には若干見覚えがあった。が、言葉を交わしたことは無く、名前すら知らない。
 エルフの見た目で壮年ということは、人間ではどれほどの年なのだろうか。考えてみるのだが年月の長さに想像を諦める。
 やはりエルフと人間は隔たりのある種族だと、こんな些細なことでも実感する。
「どうしたのよ、溜息付いちゃって?」
「なんでもねえよ」
「ふーん。あ、そうそう。この二人、【翼】が誇るご老体のガルフとディアンのおっちゃんね」
 エリアがそう言って二人を紹介してくれるのだが、紹介された方はどうにも心穏やかでは無さそうだ。それもそうだろう。今の紹介は、あんまりだと思う。
 苦笑しながらエリアを睨み付ける二人を眺めながらも、自分に罪がないことを信じてお辞儀をする。
「はじめまして。ジグ・ムーシカです。えっと、まあ話は耳に入ってるとは思うんですが……」
「ああ、シャルの坊主の所に転がり込んだっていうな。まあ、よろしく頼むわ」
 銀髪碧眼、ややずんぐりとした体つきの方の男――ガルフが手を差しだしてくるのを握り返す。
 もう一人、薄茶色の髪の毛を肩まで伸ばした長身痩躯の男、ディアンとも同じように握手を交わす。
「にしても、珍しいな。嬢ちゃんが誰かを連れてくなんて。お前さんにも怖じ気づくなんて可愛いところがあったんだな」
「ガルフのおっちゃん、とうとうボケた? 誰が怯えてるって言いたいのかしら……」
 生憎とこちらに背を向けて喋っていたエリアの表情はジグには見えなかったのだが、ガルフの反応を見ているだけでどれほどの形相だったのかは容易に想像が付く。
 ヒエラルキー、と呼べるようなものではないのだろうが、少なくともエリアが【森の翼】内において怒らせてはいけない存在と認識されている、ということは今ので想像が付いた。
 つい先頃、自分が身を以て体験した通りで、間違いない。
「まあ、その話は置いといて、だ」
 話を逸らす意味合いも込めてだろう。ガルフは思い出したように手をポンと打った。
 何かを見定めるかのように、エリアの顔をじっと見つめる。
「何よ?」
「いや、嬢ちゃんが助っ人を連れて行くのは、タイミング的にはピッタリかも知れねえな」
「どういう意味かしら?」
 怒気を孕んでいるのがはっきりと分かるエリアの声。だが、そんなことは気にせずにガルフは続きを口にする。
「最近、出るらしいんだよ」
 妙にもったい付けられたその言葉に、エリアとジグは思わずお互いに顔を見合わせる。
 出る、というのはつまりアレのことか。
 エリアが先ほど言っていた予感はずばり的中したと言うことなのだろうか。
 ならば早く行って退治しなければ。
 エリアも同じようなことを考えたのだろう。肩をすくめて呆れた様に言う。
「そろそろ来ると思ってたのよ。だからこうして準備万端で出て行こうって言うのに」
「ん、なんだ。んじゃあ、お前さん、もう恐くなくなったのか。つまらんなぁ。唯一の可愛げがこれでおじゃんか」
 意外そうに、そして至極残念そうにディアンが呟いた。
 なんだか、話が猛烈にかみ合っていないような気持ち悪さを感じる。
 エリアが恐る恐ると言った様子で確認する。
「あのさ……、一応聞いておくけど、出るって魔獣の事よね?」
 その問いに不思議そうに二人が顔を上げる。そこで、ようやく向こうも状況を理解したらしい。
 つまり、エリアたちが猛烈に話を勘違いしていることに。
 けろりと応えたその言葉。
「嬢ちゃん、出るって言ったらアレに決まってるだろ。お化け」
 ひぃっ、と引きつるような呼吸の音だけが聞こえた。
 恐る恐る覗き込んだエリアの表情は、見事なまでに固まっていた。
 季節は初夏がもうじき見えようかという、晩春。
 肝試しには、少し早い。


V

「あんた、そういうの、苦手だったんだな」
 苦笑しながら前を行くのはジグだ。
 森の勝手は知らないというのに、エリアは後ろからついていくといって聞かない。これが本当にあの強気のエルフ女と同一人物なのかと疑ってしまいそうになる。
 人は誰でも苦手なものの一つや二つあるものだと思うから別に構わないのだが、それにしても意外と言えば意外だった。
「魔獣相手は全然平気だってのに、お化けが駄目とはねえ……」
 ジグはまだこの目で見たことはないが、聞けばエリアネル・テルミチェットはこのハルヨビの村でも屈指の使い手で、倒した魔獣の数は既に知れず、噂では魔獣よりも上の存在、あちらの住人である魔族すらも倒したことがあるとかなんとか。それが本当なら、人間の街なら吟遊詩人に英雄譚サーガの一つや二つを歌われていても不思議ではない。あまりにも凄すぎる為眉に唾を付けなければならないとは思うが、それでも火がなければ煙は出ない。エリアの実力が非凡なものであるのは確かなのだろう。
 今ジグの後ろで体を抱えるようにして怯えながらついてきている姿からはとても想像が付かないが。
「ま、魔獣は幾らでも倒しようがあるじゃない」
「でもお化けは倒せないってか?」
 草を切り払いながら、道無き道を進む。因みに右手にはエリアから渡された鉈。確かに草木を払うにはこれが一番効率が良い。
「じゃあ、あんたはお化けの存在を信じてるってわけか?」
「信じてるわけ無いじゃないの!」
 ひときわ大きな声。
 一瞬びくっとなりながらも、頭に浮かぶのは強烈な違和感。
 信じていないのに、恐い。
 それは一体どういう事なのか。
 お化けがいると信じているのなら、存在しているだろうお化けが恐いというのは分かる。だが、信じていないのなら端から存在していないも同然のものに怯えを抱くというのはどういう事か。
 素直な感想が口をついて出た。
「わけわかんねー」
「なによう。当たり前でしょ。そんなの、いるって分かってるんだったらぶっ潰せば良いんだから恐くなんて無いわよ」
 さらりと恐ろしいことを言う後ろのエルフ女。
 その理屈で言えば、この世にある全ての存在は自分より弱くて倒しようがあるから恐くない、と聞こえてしまう。
 いや、事実彼女の頭の中ではそう言う理論が展開されているのだろう。
「でもね、お化けは、いるかいないのか分からないから恐いの。いるの? いないの? はっきりしてよ! って思うじゃないの」
「いや、いないだろ、普通に考えて」
「分からないでしょ、そんなの。普通に考えてって、そもそも何よ。普通じゃなく考えたらいるかも知れないんでしょ。いるかいないか分からないってことは、倒せるか倒せないか分からないってことなのよ」
 この女の頭の中は何でそんな物騒な二元論になっているのか。
 頭痛を感じながら、ジグは肩をすくめる。
「じゃあ、俺が断言する。お化けなんていねえよ」
 目の前に張り出した太い木の枝に鉈を思い切り打ち込む。
 一撃では折れなかった為、枝は鉈ごとぐらんぐらんと大きく揺れた。
 まるで、強気と弱気の間を揺れ動いたエリアみたいだと思った。
「断言って何。根拠でもあるの?」
「ねえよ」
 もう一撃。
 それで、枝は幹から切り離されて足下へと落ちる。
 落ちてしまえば揺れることもない。地べたに寝そべった枝は安定したものだ。
 その枝を一瞬見つめて、そして道の脇へと蹴飛ばす。
「根拠なんてねえ。けど、いるかいないか分からないってことは、いないかいるかも分からないってことだろ?」
「はあ? 何が言いたいのよ?」
「俺にもよくわかんねえ。なんせ俺はお化けなんて端から気にしてないからな。人でも魔獣でもない良くわからねえものは、とりあえず出てきてから考えればいいんだよ。いないかも知れない奴のことをあれこれ考えてたって仕方ないだろ。んなもんは、出会ってからどうするか考えればいいの。倒すにしろ、仲良くなるにしろ、それからで充分。違うか?」
 振り返ると、エリアはぽかんとした顔でこちらを見つめていた。
 あんまりにも無防備なその表情。普段とは違う初めて見る印象に、意表を突かれる。
「な、なんだよ、そんな顔して」
「いや……、なんていうか……、意外だと思ってね」
「何がだよ?」
「あんたがそういう事言うの」
「どう思われてたのか、是非お伺いしたいね」
 嫌味で言ったつもりのその言葉に、予想を遙かに上回る素直な返事があった。
「いや、今まであんたは、『自分は自分、相手は相手』って感じで悩んでる人も放っておくようなタイプだと思ってたんだけどね。まさかこんな風にアドバイスを貰えるとはねー」
「俺だって人助けする時はあるさ。市民の啓蒙は騎士の勤めなもので」
 エリアの言うことが大体的を射ているのが悔しい。
「いやー、それにしても、今のはちょいと目から鱗だったかも。こりゃ、おっちゃんたち、本気で残念がらなきゃねー」
 今まで縮こまっていたのが嘘のよう。
 うーん、と一つ伸びをしたあとは、エリアはいつも通りの強気の表情に戻っていた。
 もともと芯は強いのだから敢えて弱点を無くしてやるようなことは言わなくても良かったか、というような気がするが、もはや完全に手遅れである。
「さー、先行こ、先! 私の直感ではあっちの方に出る気がするのよ」
 そう言うや、エリアはジグの手から鉈を奪い取って振りかぶり、目の前の藪に向かって一閃。
 すぽっ
 小気味良すぎる勢いですっぽ抜けた鉈は、数メートル先の大木の幹に鈍い音をたてて突撃した。
 幹に出来た凹みに目をやって苦笑い。そして、エリアに視線を移して、その手がわずかに震えているのが見えた。足も。「あれ?」などと言いながら手を握り直しているその表情も、笑ってはいるがどこかかたい。
「ま、理屈でなんでも解決すれば世の中苦労はねーよ」
 心の芯から恐いものを克服することは難しい。ましてや、相手が目に見えておらず、自分もわけがわからないままに怖がってしまっているというのなら尚更だ。
 お化けという酷く抽象的な存在に対する恐怖。エリアのそれは病的とすら言えるような代物で、ここまでとなれば何らかのトラウマが原因にあるような気がするのだが、そこまで立ち入る理由はジグには無い。
 一つ確かなことは、ガルフとディアンはまだ当分の間はエリアをからかうことが出来そうだ、ということである。



「で、もう一度訊くけど、これはパトロールなんだよな」
 下草をかき分けながら進むこと、更に一時間ほど。ジグがうんざりしたように訊ねた。
「そうだけど、どうかした?」
「目的は……、なんだったっけ?」
「そろそろ魔獣が出そうな気がするから、そいつの退治」
「出てこねえじゃねえか、魔獣」
 進んでも進んでも森、森、森。
 自分が今いる場所とハルヨビの村と位置関係は概ね把握出来ているつもりだが、それでもよく知らない森の中をぐいぐい進んでいくことに不安がないはずはない。
 後ろにこの辺りの森のスペシャリストがいるとしても、いざ一人になってみればいつ迷子になるとも分からないのだ。
 そんな状況で、不確かな目標だけを目指して闇雲に進めるほどジグはお気楽ではない。
「大体、本当にその感って当たるのか?」
「当たるわよ。百発百中。今まで私が出るって思った日には、必ず連中出てきてたんだから」
「無茶苦茶だな……。大体、予感って何なんだよ。神様のお告げか何かか?」
「そうかもね」
 冗談で言った言葉にあっさりと同意されると、思わずたじろいでしまうものだ。
 神様。
 そんな常識外れの単語があっさりと肯定される。それは一体何の冗談なのか。
「あ、退かない退かない。こればっかりは私、自分でも説明出来ないから何とも言えないのよ」
「どういう意味だ?」
「そのまんまよ」
 エリアの声のトーンが変わった。そう感じたジグが振り返ると、丁度彼女は上から垂れ下がってきた蔦を払いのけたところだった。
 鬱陶しそうに蔦をちぎって後ろに放り投げたあとで、こちらを見る。
 その目は決して嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
 間違いなく本気。
 自分の持っている得体の知れない力に対してどう向き合えばいいのかを決めかねている、迷いを孕んだ表情だった。
「気がついたら、そうだったの。魔獣アイツらの気配って言うのかな、そういうのがなんとなく感じられて、出てくるって言うのが判るようになってたの」
「……本当なら、便利なもんだな」
「本当だってば。信じなさいよ」
 信じている様子が欠片もないジグの言葉に、エリアが怒ったように言い返す。
 それを軽く躱して、次はどちらへ行こうかとエリアに訊ねようとした時。
 視界の隅を何かが通った。
 黒くて、小さくて、人型をした何か。
 がさがさと茂みをかき分けながら、比較的高速で進んでいく影。
「子供?」
「え?」
 呟きにエリアも彼の視線を追って振り返る。
 二人の視線の先には、確かに子供がいた。黒、というかブラウンの肌に、砂の色をした髪の毛、それから闇のように深い色の瞳。体には申し訳程度の襤褸を纏って、それが引っかかるのも気にしない様子で森の中を進んでいく。
 何でこんな森の奥に、一人で?
 エリアとジグは村からそれなりの距離を進んできている。つまりここは充分に人里離れた森の奥だ。間違っても子供がふらふらと迷い込んで良い場所ではない。
「ちょっと、君。こんな所にいたら危ないわよ」
 慌てた様子でエリアが声を掛けるが、その黒い子供は気付かない様子で茂みの中へと消えていった。
「……放って置くわけには行かないよな」
「そう、よね。なんせ、今日辺りアイツらが出るわけだし」
 出る、か。
 そう言えば、魔獣以外にもこの森に出る可能性のある奴がいたことを思い出した。
「出る……か。もしかしてアイツが例の?」
「と、とりあえず捕まえて事情を聴きましょうか!」
 誤魔化すようにエリアはそう叫んで、子供が消えた茂みへと飛び込んだ。
 それを追って茂みへと飛び込むも、一度生まれた疑念は瞬きのうちに冗談みたいに膨らんで行くのだった。
 なにせ、あんな子供がこんな所に一人でいるのは不自然すぎる。絶対に、何かが変だ。ジグ自身は信じているわけではないが、お化けという話もあながち冗談では済まないのだろうか。
 そんなことを考えながら、エリアのあとを追う。

 黒い子供の背中は、見えたり消えたりした。
 ジグは騎士として色々な訓練を受けているから森の中を進むのだってそれなりに慣れているつもりだったし、ましてやエリアは森林のスペシャリストだ。森を早く進むことに関して彼女以上の者などそうそういようはずもない。
 であるにもかかわらず、黒い子供にはいつまで経っても追いつくことが出来なかった。
 まるで幻のように消え、そして見失ったかと思うとからかうかのように再び現れる背中。
 それを追っていくうちに、いつの間にか二人は森の中の泉のほとりに出ていた。
 十メートル四方ほどの大きな泉のこちら側にエリアたち、そして向こう側に黒い子供がいる。
 子供は一度こちらを振り返り、そうして小さく手を振ったような気がした。
「おい、待て! どこへ行くんだよ!」
 そんなジグの言葉も聞こえていない様子でふらっと再び森の奥へと消えてしまう子供。
 彼を再び追い始めようとしたジグは、しかし不意に右腕を思いきり捕まれて足を止めた。
「どうした……んだ?」
 訝しみながら振り返ったその先。
 頭を押さえながら、エリアが緊張感に満ちた表情をしていた。
「来るわ」
「来るって……、もしかして」
 ジグがそう訊き返すが早いか、辺りの空気が思いっきり変わったのが分かった。
 それまでの安穏とした日常の空気から一転、殺伐とした、この世のものでないような異質な空気。
 魔力に対して鈍感な人間であってもはっきりと感じ取ることが出来るほどの、吐き気のするような風。
 ざらつくそよ風がジグのローブの裾を揺らす。
「……二つ、かしらね」
 エリアが睨み付けた泉の中央。
 いつの間にか、虚空から吸い出されてきたかのようにそこに黒い点がいた。
 エリアの言う通り二つ。
 その二つの点が、泉に落ちた。
「来そうだな」
「そうね」
 二人して苦笑いを浮かべながら水面を見つめる。
 初めは波紋。
 そして、さざ波。
 見ている間に面白いほど変化していく水面に大波が起こるのにはさほど時間が掛からなかった。
 ジグが剣を、そしてエリアは鉈を抜きはなった。
 次の瞬間、水面が大きく盛り上がった。
「……でけえ」
「ちっちゃいわねえ……」
 二人の感想は全く真逆で、それは二人が別々のものを見ているからだった。
 湖面から現れたものは二つ。
 一つは巨大な水柱。こちらを威嚇するかのように轟轟と音を立て続けている。
 もう一つは水の球。まるでボールか何かのように球状にまとまった水がこちらを睨み付けるかのようにして宙に浮いている。
 どちらも普通の水ではなく漆黒の色をしていて、魔獣のような特徴はある。と言うことは冗談でも何でもなくあれが今回の魔獣の姿なのだろう。
「どっちやる?」
「じゃ、俺は直接やり合うのが好きなんでちっちゃい方を」
「諒解。じゃあ、私は大きい方ね」
 二人のやりとりを理解したと言うわけでもないのだろうが、水塊の方がジグへと跳びかかってきた。

 物は試しで剣を振るう。
 真正面からやってくる。
 水の魔獣、なんてものは今まで聞いたことも見たこともなかったが、やはり見た目通りに斬撃の手応えがない。
 魔獣でも何でもない普通の水に剣を突き込んだ時のような感触。
 水塊の中に剣が潜っていくだけだから、当然切り分けられるわけでもなければはじけさせられると言うようなこともない。
 つまり、そのままの勢いで水塊はこちらへと突っ込んでくる。
 そのまま触れてしまうことに本能的な拒否感を感じて、体だけを反らしてどうにか魔獣の突撃を躱す。
 背後で地面にぶつかった魔獣がばしゃぁと言う音をたてたのが分かった。
 四散した液滴が再び一つにより集まって、水塊をなす。
 斬っても斬っても終わりそうにない敵。
 正直、嫌になりそうだった。
「さて……どうしたもんか」
 自分の顔と同じくらいの高さにふよふよと浮かび、隙あらばこちらへと突撃してこようとする漆黒の水塊を眺めながらジグは考える。
 直接攻撃が良いから、と言って選んだ割には、恐らくこの敵に物理的なダメージは通用しない。
 見れば先ほど斬りかかった剣の表面にはいつの間にかびっしりと真っ黒な錆が浮いているし、先ほど奴がぶちまけられた地面は所々溶けているかのように抉れている。
 冗談じゃない。あんなのとスキンシップしながら戦ったら、絶対に無事では済まない。
 ならば、考え方を変えよう。
「黄昏の空、燃え上がる」
 口をついて出てきたのは、何度暗唱したかも分からないようなごくごく基本的な魔術の呪文。
 魔術を扱う上で避けて通ることの出来ない火水地風の四大属性。その中でも、初等魔導でもっとも早く教えられる炎の呪文。
 何千回と練習した、最も自信のある魔術式を、水塊の突撃を躱しながら展開していく。
 出来れば、泉からは少し離れて、かといって森にもそんなに深くは入り込まない場所。
 エリアとはすぐにでも合流出来そうな範囲に水塊を誘導しつつ、ジグは魔術式を展開していく。
「其れはあまねく存在して恵をもたらし、時に災いをも運んでくる」
 呪文を一言告げる度に、周りの世界を確実に変えていく感覚。
 生憎と人間の目には見ることは出来ない。ただ、この理論が正しければ自分の周りには精緻な魔術式が描かれているはず。その思いの元でジグは呪文を唱えていく。
「汝、今ここに焚き上がれ」
 そうして紡がれる最後の言葉。
 もしも、ジグに魔導の力の流れを見ることが出来たなら、己の周りに張り巡らされた無数の魔術式の糸を見ることが出来ただろう。ちょうど夕焼けの色をした真っ赤な炎の魔術式の糸が。
 そして、その糸に魔力が通る。
 自然界から吸い上げた魔力が、強烈な勢いで吸い込まれていく。
 次の瞬間。
 その場に炎が現れた。
 何もない空中。何を燃やすわけでもなく、唐突に炎が現れた。
 呼び出された炎は獲物に襲いかかる狼の群れのように、ジグに跳びかかろうとしていた水塊に食らいつく。
 漆黒の水が真っ赤に燃え上がるのに、さほど時間は掛からなかった。
 炎の中で燃やされる水がどんどんと体積を減らしていき、次第に真ん中あたりからボコボコと泡が出てくるのも見えた。
「よし、これなら行ける!」
 ジグはニヤリと笑みを浮かべながら小さくなっていく水塊を見つめる。
 勝利、確定。
 いざやってみればあっけないものだった。何より全然すばしっこさがない。こういう敵を相手にするのは非常に楽だ。
 炎に対する魔術の制御からは気を抜かないまま、ジグは前方で猛烈に湯気を上げる炎の塊を見つめる。
 油断があったと言えば、その通りだったのだろう。
 今にも消えてしまいそうか、と言うところで、流石にそのまま消えさてしまうのは嫌だったのか、手のひらに一杯ほどの最後の欠片。それが炎の外へと飛び出した。
 制御が甘かったのか。あるいは体積の減った魔獣が最後の最後でそれまでは無理だった大きな動きを見せたのか。
 いずれにしても、その飛躍はジグの予想を完全に外れていて、漆黒の水滴が今にもジグの元へと急襲。
 直撃まで、瞬き一つ。
 思わず目を閉じるのと、耳をつんざくような雷鳴が轟くのは同時だった。
 瞼を灼く白い光。
 そして、いつまでも襲ってこない衝撃。
 恐る恐る瞼を開く。
 足下には何かが焼けこげたような跡。
 雷の魔法だろうか。まさかそんなに都合良く現実の雷が起こるはずもない。空だって晴れているのだし。となれば、今のはエリアのアシストだろうか。だとすれば助かったという他ない。
 ほっと一息を吐いてもう一つの戦いへと目をやる。
 向こうはまだ戦いが続いているようだった。



 最初はただの水柱だったものが、いつの間にか水の巨人の形を作っていた。
 その腕が振るわれるのを、エリアが器用に躱している。
 漆黒の水。恐らくはあれも当たれば無事に済むものではないのだろう。エリアの背後、恐らく魔獣の腕に撫でられたと思しき木が真っ黒に炭化しているのが見える。
 攻撃を単調に躱しているだけだったエリアが、不意にこちらを見た気がした。ジグと目が合う。その視線が、少し悔しそうに見えた。
 一瞬の後、ジグにも分かるほどの明確な冷気がエリアを中心にあふれ出す。
 秒読みで下がっていく温度。
 気付けば、仁王立ちになったエリアが水柱に向かって手のひらを向けていた。
 どうやら魔法を行使しているらしい。水柱の魔獣がその足下、つまり泉ごとどんどんと凍っていく。
 春先に泉一つを丸ごと凍らせるなんてどんな魔力だ、と呆れながらも、これで自分が手伝う必要は無くなったなと感心する。
 流石はエルフ。魔法を使わせたら自分なんかとは全然規模が違う。これだけの規模の魔法を扱えるのなら、恐らく先ほどジグのサポートで放った雷もお茶の子さいさいなのだろう。
 エリアの口元が笑みに変わるのが、ジグのいる場所からでも見えた。
 そして、それが油断だったのだろう。
 凍り付いた水柱の魔獣。そいつが、まるで最後の力を振り絞るかのように胴を捻った。
 仁王立ちしているエリアの元へ猛烈な勢いで迫る氷柱。当たれば無事では済まない。
 まずい。そう思って駆け出すが、絶対に間に合わない。まるでこま送りの光景を見ているかのような感覚。
 エリアの表情が驚きに変わるのがスローモーションで見える。
 そして、どこからとも無く飛来した三本の矢が、エリアに迫ろうとしていた氷柱を粉々に砕いたのも。
「え?」
 間抜けな声が口から漏れる。
 それは、それほどに幻想的な光景だった。
 砕け散った氷がキラキラと宙に舞う中、威風堂々と敵を睨み付けるエルフの戦士。それはまるで英雄譚の一場面のようで、その主人公であるエリアはどうしようもなく格好良く見えた。
 次の瞬間、空気が猛烈な音をたててうねった。
 同時にもみくちゃにされるかのように粉々に粉砕される氷柱の魔獣。
 風に舞う氷の欠片が地面へと落ちて、そのまま風に霧散して行くのを見て、エリアが一つ大きな溜息を吐くのが見えた。



「まあ、何にせよ助かったわ」
 顔を合わせて開口一番、ジグはそう言った。
 あの水塊の魔獣。その相手をすることそれ自体はジグの実力を持ってすればなんてこともない。ただ、簡単なことであればあるほど、ほんの少しの油断が恐い。そのことを、ジグは分かっているつもりだった。
 だったのに油断があって、窮地に陥りかけた。そこを助けてくれた雷の魔法。あれはエリアが打ってくれたものだと思って感謝の意を示したのだが……。
「何の話?」
 エリアはそれだけ言うと首を傾げた。
「それより、さっきの最後の矢、あんたの? 本当に助かったわ。流石に一瞬胆が冷えたからね」
「それこそ何の話だ?」
 今度はジグが首を傾げる番である。
 先ほどの矢は彼とは一切関係がない。
 恐らくエリアがどこかの段階で罠を仕掛けておいたのだろうと思ったのだが、よくよく考えるとそんな器用なことが出来るような時間的余裕はなかったし、あの時のエリアの表情は完全に予想外の出来事に遭遇した時のそれだった。ならば、あの氷柱の最後の一撃はエリアにとっては完全に意表を突かれたもので、それを救った矢もまた彼女とは全く関係のないものなのだろう……。
「え?」
 二人して顔を見合わせて、首を傾げる。
 一体、それはどういう事だ。
 さっぱりわけが分からない。
 まさか、この場に他に誰かいるとでも言うのか。
「くすくす……」
 木の葉が擦れるような笑い声に、二人して辺りを見回す。
 そして、同時にそれを見つけた。
「さっきの子供」
 泉のほとりに腰掛けてこちらを眺め、足を氷の上に置いては滑らせて遊んでいる。
 その様子が無邪気で思わず頬が緩みそうになるが、問題はそこではない。何故そんな子供がこの場にいるのか、だ。
 或いは、信じられないことだが先ほどの雷と矢はこの子供の放ったものだったのだろうか。
 誘われるように彼の方へと一歩を踏み出そうとしたその時。
「くすくす」
 ひときわ大きく笑った子供が、その場から跳び上がった。
 泉のほとりに腰掛けた姿勢から、器用に空中にその身を投げ出す。
 そして、そのまま虚空へとかき消えた。
 何もなかったかのように、あとには凍り付いた水面だけが残る。
「……消えた、よね」
「そうだな」
 エリアと二人、呆然として互いを見つめ合う。
 まるで狐か何かに摘まれたみたいな、そんな感じ。
「……今のって、お化け? 何? 何だったの?」
 エリアの叫び声が森の中に響いた。


W

エリアネル・テルミチェットに関するレポート。

 エルフ。人間での外見年齢は二十歳過ぎ。
 髪の色は白銀。高貴なる白ノーブル・ホワイトの最上級である銀髪は魔力親和性の高さを伺わせ、その外見に違わず大規模な魔法を容易に扱っている。
 詳しくは不明だが、《あちら側》の存在が《こちら側》に現れる事を直感的に知ることが出来る様子。精度や理由については不明。今後も更に調査が必要。
 生活力はほぼゼロと思われ、隣人であるシャルシュ・ワイゼンに食事の世話になっている。非常な大食家である。

 戦闘能力に関しては、特務騎士の平均は上回っている模様。
 魔獣を相手にする戦闘でも一切の物怖じが無く、冷静かつ的確な戦略で対処することが出来ている。
 過去にも相当量魔獣戦を経験していると思われる。
 魔法に関しては大規模な四大属性魔法までは扱える模様。より高位の光属性に関しては不明。

 以下、調査を継続する。





to be continued




WEB版あとがき

 Monochronika die SommerTageをお送りいたしました。
 いつもとは少し雰囲気を変えて(?)、スピンオフ短編のような展開ですね。いや、そんなことをするほど本編がしっかりしていない、と言われてしまえばそれまでなのですが。
 SommerTage、つまり夏編です。英語で云えばSommer Days。このSTの位置づけは、宇宙戦艦ヤマモト・○ーコで言えばOpt.シリーズのようなものでしょうか。短編で独立したストーリーは展開させつつも、本編と絡めて色々な物語が動いていく、という感じでしょうか。
 そう言う意味では、スレイ○ーズのすぺしゃるや、魔術師オー○ェンの無謀編とは少々意味づけを変えているつもりです。
 ということは、つまり今回提示された出来事の内のいくつかは今後本編で重要な役割を担うかもしれないという可能性があったりするんですが……、それがどうなるかはまたのお楽しみに、していただければ幸いです。
 STはもう何編かを作りたいと思っております。具体的には次の一回は少なくともSTです。
 こうして色々な展開が出来るという点では、幻想組曲の発行回数が増えたのは良い事かなと思います。忙しいですけれども。
 それでは、今回はそろそろ失礼いたします。

 yoshikemでした!

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