もう彼女は大人になっていた。
もう何度のクリスマスを迎え、何度の新年を送ったことか。
もう彼女は、かつてサンタクロースに贈りものをもらったことを忘れ掛けていた。
それは父の安っぽい扮装だったように思う。
確かめたわけではないが、そう思っている。
真夜中にもらったのだから、もらったのだと理解する前に彼女が眠ってしまうのも当然だ。
忘れ去られる思い出であるのも、さるべきこととうなずける。
そういえば、このときだったか、別のときだったか、彼女の欲しいものが毎年ケーキだったため、いわゆるお誕生日会のケーキそのものがプレゼントになってしまい、あらたまって渡すプレゼントがなくなってしまう、と嘆かれたことがあったような気がする。
ともかく、その年が明けたときも、正月には無事に雑煮を食べていた。
今と違うのは、祖父母がいるかいないかということ、それだけ。
どうしてこんなもの、拾ってしまったのだろう。
友里は思った。
社のロビーで友人に別れを告げたのはつい数分前のことである。
闇のなか、駅までたどり着き、地下鉄に乗る。地下鉄に揺られながら、彼女は何とはなしに吊り下げられた広告に目をやっていた。
どうしてこんなもの、拾ってしまったのだろう?
不可解だった。
それは家に帰ればまだあるはずだった。捨ててはいないのだから。
不意に列車のスピードが落ちる。視線を窓ガラスの向こうに飛ばすと、いくつか高いビルが見えた。その一つに、青地に白い色の文字で書かれた看板がどしっと乗っていた。その看板の会社がどんな企業なのかは知らなかったのだが、その名前は嫌というほど目にしていた。なぜなら、その駅が降りねばならない、いつも利用している駅だったのだから。
電車の扉が開く。
いつものように改札には無愛想な駅員がいた。自動化された改札を、ほうけたように眺める駅員。
彼は、ただ足音とともに横切り行く人々を見ていた。
駅前にはバスのターミナルがあったが、人はいない。
ほとんどの蛍光灯もいつの間にか切れている。唯一の蛍光灯がバスの時刻表を照らす。時刻表は汚れて、透明のはずのプラスティックはところどころ黄色に変色していた。端のほうに大きなひびがあり、特にそこが黄色かった。
腕時計を見て、それから時刻表を見た。
この時間のバスは一時間に一本あるかないかなのだ。
彼女のアパートはバスターミナルからそう近くなく、冬になり、寒くなると、どうしても家まで歩くのが億劫になる。が、さして遠いわけでもなく、バスがくる時間まで大して待たなくてよいときにだけ、バスに乗ることにしていた。
不幸なことに、今夜は歩くことになった。
ターミナルの通りから道を一つ奥に入れば、車の音さえなく静寂である。
明かりと言えば小さな街路灯だけが点在する住宅街。
アパートは住宅街の真ん中に立っている。
周囲にはそれよりもずっと低い建物ばかりしかなく、意外と見晴らしはよかった。
積載限度五百キログラムのエレベータに乗り込むと、彼女は九階のボタンを押した。
自分の部屋を開けると、リビングに、いた。
どうしてこんなもの、拾ってしまったのだろう……
「お帰り!」
彼は、ソファに座ったまま、首だけこっちに向けてそう言った。
表情から察するに、テレビには飽きたようである。
「今日の夕食は俺が作ったんだ。今日も遅いから、君が作るとなると、そんなことせずにどこかで買ってくるでしょ。だから、作ったんだ」
今の今まで飽き飽きしていたことが、彼をおしゃべりにしているらしい。
「わざわざオリーブオイルも買ってさ」
数日前、一際冷え込んだ夜。
友里はバスターミナルに少年を見つけた。
むしろ、目に入らないほうがおかしいくらいだった。
彼は時刻表の前、壊れかけたベンチで震えていたのだから。
この時期には薄着と思える恰好だった。
彼に声を掛けたところまでははっきりと覚えていた。
だが、そこから先がどうしても思い出せない。
ぼんやりと、何か自然な成り行きだったという記憶はある。
実に不可解な話だ。
少年の名はケイと言った。
どう見ても中学生か高校生ほどにしか見えない。
彼女とは少なくとも十以上は年が離れている。
昼間はアルバイトをしているようだった。
どこかと聞いてみたら、近くのファミリーレストランだった。
調理免許も持っているらしい。
今晩作った料理は、実際かなりの出来だった。
「レストランのメニュー、ぜんぶ美味しく作れるように修行中!」
なぜか自慢げに言っていた。
「明日、休みだろ?」
友里がうなずくと、
「俺も休みなんだ。どうしても見たい映画があるんだ。連れてってよ」
返事をしないでいると、彼は続けていった。
「絶対面白いからさ。俺、タダ券持ってるんだ」
案の定、少なくとも彼女にとって、それは面白くない代物だった。
もっとも、彼の表情を見る限り、誰もがそれほどつまらないと思う映画でもないらしい。
帰ってくると無性に腹立たしくなって、何でこの家にいるのか問いただしたくなった。
「ねえ」
「なに?」
まだケイは映画の余韻に浸っていたのか、顔が笑っている。
余りに楽しそうだったので、友里は訊く気も失せてしまった。
「何でもない」
「気になるよ。言えよ」
「君は変なやつだな、と思っただけ」
でたらめに受け答えしたつもりだったが、途端に笑みは掻き消えた。
「やっぱり、ヘン?」
しまった、触れてはならないことだったんだ、そう直観した。
「……俺、一つだけ知ってるんだ」
喉に無理に力を入れて、やっとケイの口から出た言葉だったように思える。
「世界の秘密」
「ただいま」
帰ってみると、彼がいないと解った。返事がまったくない。
今日の疲れがどっとのし掛かってきた。
壁かけのカレンダーを見ると、今日は十二月二十三日だった。
あと一日くらい、ここにいればよかったのに。
それは無意味な、もし彼がいれば理不尽な願いだった。
十二月二十四日にはもう予定が入っているのだから。
でも、あと、一日くらい……
時計の針は、あと五分で明日となるように指していた。
ずっと昔は、その日が来るのを心待ちにしていた。
今はそれほどでもないかもしれない。
「じゃあ、さよなら。また電話する」
そう言って、彼女は車に乗った男に手を振って別れた。男のほうは怪訝な気持ちを顔に出していたけれど。
十二月二十四日の夜だった。
アパートの前まで送ってもらったので、降る雪も気にならなかった。
さっきまではこの白い雪の雰囲気に浸りもした。
でも、車の中と外ではまるで違うもののようにも思える。
ベッドにもぐると、冷たい。
それが温かいと感じられるときには、彼女はもう眠っていた。
――こんこん――
物音に彼女は目覚めた。
窓ガラスを叩く音?
彼女の部屋は三階だった。
それが奇妙だとは思わなかった。そう思えなかった。
カーテンの隙間から眩しい光が漏れている。
朝日のためにそうするのと同じように、カーテンを引いた。
「やあ」
ほのかな光たちの中に、ケイがいた。
ケイは赤い服を着て、ベランダにいた。
「その恰好は……?」
「わからない? サンタだよ。サンタクロース!」
ちゃんと、あの赤い帽子も被っている。
ガラスの戸を開けると、服のすき間から冷たい風が吹き込んで、彼女を冷やした。
ケイが雪のついた厚手の革手袋をはずし、あたたかい手で彼女を引っ張り出すと、不思議なことに、まったく寒くなくなった。
トナカイがひくソリに乗っているサンタクロース。
その影がたくさん空を駆け巡っている。
降りしきる雪は光の粒へと姿を変え、サンタクロースを導いている。
光の雪も空を飛び交う。
窓のすぐ側には1台のソリがあった。ケイのソリなのだろうか。
「時間が止まってるんだ。動いてるのは俺たちと雪だけだよ。
人間にバレないようにプレゼントを配るんだ。バレると消えちゃうのさ。
でも、もう、人間に感づかれないように配ることなんかできなくなってきたんだ。
もしかしたら、来年の今日にはこうしてここにいることはないかもしれない。
だから、今年は友里に俺の手からプレゼントを渡そうと思ったんだ。
ずっと見てたよ……友里のこと」
箱を手渡した。
(前にも一度だけ渡したことがあったけど、覚えてないよね?)
それだけは口に出して言わなかった。
彼女は箱を受け取った。
「俺が焼いたケーキだよ」
ただそれだけ。彼にはそれだけ言えただけで十分だった。
ベランダの手摺りを乗り越え、真っ赤な鼻のトナカイに手を伸ばした時、
「待って。一緒に食べようよ」
彼は振り向いた。
彼女は彼の手を握った。
「駄目だよ。まだ配っていないのが山ほどあるんだ」
それでも友里はケイをはなさなかった。
「私も一緒に配るから」
ケイはかすかに笑った。