雪と花


 0. あざみ 
 生れ出てから十八年と三月がたち、そんな風のない秋初めて人の死を目の当たりにした。祖父が私が生まれる前に亡くなった以外は健康な家族に恵まれていて、ニュースの文字以外の死は初めてだった。その、名も知らぬ人は突然私から一メートルもないところに降ってきて、私にまで鮮血はそそいだ。青いシャツを着ていたためどす黒く見える血の痕を眺めつつ、どうせ死ぬなら美しくという誓いを我が身にたてて、困惑の海と化す百貨店の前をひとり離れた。風のない、晴天の秋だった。どうせ死ぬなら、そう、白い雪の上に真っ赤な花びらを敷き詰めて、美しい最期でしたと言われて逝きたいと思った。

 「天気いいね」
 こんな日には秋に見た死体を思い出す。あのショッキングな出来事に遭遇してしまってからしばらくは死体よりもシャツの血痕がとれないことばかり気にしていたけれども、日数を重ねるごとに当時は思い出すこともなかった性別もわからぬ人が脳裏をかすめる。それは死体の映像が惨たらしく珍しいものであったからというより、それが自殺にまで追い込まれてしまった人の哀しさを象徴する一種のモデルのような気がして恐ろしかったからだ。人はこうまでなれるのだ、と、こうまで不幸に堕ちることができるのだ、と。その言葉は私が勝手に後々うかぶ映像に付け足したモノローグに過ぎないことはわかっていたけれども、もはやその台詞と映像とをもとのように別々には見ることができなくなっていた。不可逆変化だった。
 「暑いよ」
 日ざしは暖かすぎて冬服を着ていた私達には不愉快なものに近かった。もうすぐ冬が終わる。私達は春を迎える。暑い暑い、と呟く恋人を盗み見しながら、私は歩いていた。風のない、冬の終わり。どうしてこんなに生に満ちた気候の中死に急ぐ人がいるのかというのは無意味な問いだと知ってはいる。しかし問うてしまう。そうしないと保っていられない程私自身が限界にいた。

 私は恋人のことも友人のことも好きだったが、それがいけなかった。友人からのメールは恋人といる時にもお構いなく届いて二人の時間に侵入してきたし、恋人は私のメールに返事を出すのは面倒くさがっても友人には別だった。そんなことは私と恋人の間に支障をきたすことはないと知りつつもそうした事実を恋人の口から聞いてしまうのが辛かったが、隠しておいてくれればと表面で願う心の芯では隠し事をされる辛さはとうに知っていた。だからこそ私はそんなこと気にしていないという振りをして、更なる二人の関係についての情報を恋人から仕入れるのに必死だったのだ。矛盾し過ぎていた。この矛盾が存在しうる限り私は幸せになれないと知った。恋人と友人の共有するものはコンピュータにしっかりと残されていて、私は自分の中でそのメモリを、二人の秘密という甘い響きで呼んだ。そしてその秘密を暴きたいという衝動を、プライバシーという現代社会の流行語一つで抑えていた。その薄い抑制装置はすぐに外れそうだったがそれよりも私自身の方がもっともろい存在だったので、そのストッパーに手をかけるなどという愚行には及ぶ心配はないと確信していた。
 「メール、はやく返事返せって言われたよ」
 私は友人のことも恋人のことも本当に大好きだから、憎むべき者がいなくなる。恋人が私を愛していることもわかっていて、友人が私を好んでいることもわかっているのに、こればかりは頭で解決できるものではないなと思って私は笑う。私だって言いたい。返事、はやく、までは私には勿体無くて言えないけれども、せめて頂戴、と。こんなことを繰り返していてもまだ私の心はひび割れないとなんの根拠もなく信じ過ぎていた。憎しみを向ける相手が一人もいないのに憎しみを抱え、やり場のないその鉾先が全て私自身に向かっているのを感じながら。

 そうしたことを一人でいる時思い出すと、限界に気付くことはあった。そんな時は恋人と話したい衝動が突き上げてくる。が、そんな時に限って恋人の携帯電話は鳴らなかった。お客さまのおかけになった番号は電波の届かないところにあるか電源が切ってあるためかかりません。アナウンスを何度も聞いてしまう。それは仕方のないことで恋人に悪い点は何一つとしてない。私にだってもちろん悪い点はない。けれどもどうしようもない空白から私は憎しみをまた自分に向ける以外の方法がないことに気付いてしまうのだった。もうそこまで、堕ちてしまったのだから。

 眠りにおちかけた私がふと目を開けて飛び起きる。予想通り窓の鍵は開いていて、私は厳重にそれを閉め、再び微睡む。淡い安心感がそっと身を包むがそんなベールは朝になって脳が活性化したらはがれてしまうもの。
 あぁ、いつから私はこんなに臆病者になってしまったのだろう。いつからこんなに哀しい存在に成り果ててしまったんだろう。
 カーテンがそっと外の闇をうつす。二月が終わる。季節の最後の抵抗か、明日は雪だということを天気予報で言っていたような気もする。

 どうせ死ぬなら、そう、白い雪の上に真っ赤な花びらを敷き詰めて……

 私は恋人のことも友人のことも心から好きだったし、恋人が私を本当に愛してくれているのも友人が私を本当に好んでくれているのも知っていた。
天気予報は正解だったらしく、雪が、晴れた空に申しわけなさそうに降っていた。寒い日、というか、冷たい日、という方がその冬の終わりを的確に表していた。私は水のほとんど涸れた川に架かる橋の中央に立って、そのコンクリートで固められた川床を見た。雨になると水量が増して、大きな川と化す場所だ。雪はそんな川にも私にも橋にも同じように降っていた。しんしんという擬態語が相応しい程静かに降っていた。白い雪。それと対をなすような赤い花を無意識に目で探したが、枯れ草だらけの河原にそんなものがあるはずもなかった。椿など、人工庭園にでも行かない限り都会には縁がないものなのだ。仕方ないな、と思った私はもうすでに狂っていたのかもしれない。狂いつつも恋人や友人にかかる迷惑を心配していた。そうして私は冬の終わりの日に自分で赤い花を咲かせた。橋の欄干の上。当然のことながら途切れた動脈に赤い花を脈打たせつつ、体は落下する。仕方がなかった。他に私に残されていたのは、私が愛するものを憎むという道だけだったのだから。どうしてそれ以外の方法はないのかと問われることがあったら、答は決まっていた。
 頭では解決できる問題ではなかったのだ。

 冬の最後の冷たい日、白い雪の上に真っ赤な花びらを敷き詰めて、私は自分への誓いだけは守りとおした。橋の欄干に、愛しているよと本心からのメッセージを恋人に残して、愛のかわりに私自身を壊した。これで私の気持ちが崩壊してしまうことはないということに満足して。
 哀しさだけは拭えず。
 仕方なく。
 美しく。


 1.
 家の電話器がその日曜日初めて鳴ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。僕は料理用の木製スプーンを左手に持ちかえて受話器を手にした。
「怖い夢を見たの」
電話越しのあざみは言った。そして、スターバックスに来てとだけ告げると一方的に切ってしまった。スプーンからは野菜スープの汁が鍋に規則正しい間隔をあけて移っていく。僕はしばらくそのもう完成間近のスープと手の中でツーツーという遠い音をたて始めた受話器とを見比べていたが、あきらめてコンロの火を消した。部屋に行って着ていたTシャツを脱ぎ捨てると薄手のトレーナーを被る。キッチンの前を通り過ぎるとトマトが香った。その真っ赤な色を連想させる匂いに少し戸惑いを覚えたが、気の変わらぬうちにと慌ててハイカットのゴム靴に足を入れた。そしてまだ四月だというのに太陽を遮る力がどこにも潜んでいないような街に出ていった。

あざみは寝起きの表情で、テラスの席に座ってミルクにアーモンドシロップを入れていた。僕は空腹でコーヒーなど飲めそうになかったので、アイスティーを手にあざみのテーブルへ向かった。
彼女はデニムスカートにしわのついたTシャツを合わせていた。いかにも最近一度学校に着ていったため出しっ放しになっていた服を身につけただけ、という感じがした。こう見るとあざみはまだ到底大学生とは思えなかった。大通りを行く人々は僕らを高校生カップルと思っているだろうが、高校生というのもカップルというのも僕とあざみを表現するのに正しくなかった。
「怖い夢を見たの」
あざみは電話で言ったことを繰り返した。知ってる、と言うように僕は軽く首を縦に振った。あざみのブラシをとおしていなさそうな肩までの髪のゆるいくせ毛を眺めていると、彼女が先程目覚めて震えながら電話に手をのばした様子が想像できた。おそらくカーテンで日光を拒絶したぼんやりとした光景の中でシーツを体に巻き付けながら。
「私とトモが歩いてるの」
トモというのは彼女の恋人だった。あざみは僕より一つ年下で、現在学年の上では僕と同じである。知り合ったのは一年前に予備校に彼女が講議を受けに来ていたからで、その時すでにトモの存在はあった。二週間前あざみは僕の第一志望校に、僕は僕の第二志望校に入学したところだった。
「トモは私を見て笑うの。あざみって呼びながら。私も笑う。そしてけんかもするのよ、少し。でもいつの間にか仲直りが済んでいて。手もつないだり。ふざけあったり」
「それで?」
あざみがミルクを飲み終えても十数秒口を開かなかったので、僕は尋ねた。答が返って来るのにもまた数十秒を要した。
「終わりよ」
「終わり?」
「そう。そんな夢だったの」
彼女は空のグラスに口を近付けて、気だるそうな声をくもらせた。
僕はまた恐がりのあざみがホラー映画のような夢を見たのだとばかり思っていたので拍子抜けした。どこが怖いんだ、と言いかけたがやめた。今あざみのいる状況を考えるとそんな軽い突っ込みをすることができなかった。
あざみはトモとの交際で悩んでいた。大学合格という通知を手にしてから彼女の周囲の大人達は勉学だけでなく生活においても厳しくなっていて、あれこれと二人のことに口出しをし始めた。噂もエスカレートしていき、あざみの少しの動きが何十倍にも誇張された。両親達が介入してくるのは仕方ないのよ、と、あざみは数日前に言っていた。だって自分達の娘なんだから。でも、それ以外の何にも知らない人がどうして私を追い詰めていくの。
「幸せだった頃の夢」
あざみの言葉は半分歌っていた。幸せだった頃。それは彼女とトモがお互いのことだけを見ていればよかった頃だ。大喧嘩もし、泣き、怒る。そんなことも含めて彼女は幸せと呼んだ。
「今は幸せじゃないの?」
二人は別れたわけではなかったし、昔程ではなくとも度々会っていた。
「わからない」
それは僕の質問から話をそらすための技巧でもなく、本当にわからないのでわからないと言っているものだった。彼女はグラスのストローを折ったり戻したりしていた。騒がしい街並の奥の方から途切れ途切れにギターを奏でる音が聞こえていた。店内からのBGMとそのストリートミュージックの断片が微妙に混ざりあって新しいリズムを生んでいた。
「わかってるのは私が強くないってことぐらい。古今和歌集の女の人だったら駆け落ちでもしてるでしょう。源氏物語とかになれば、辛くても相手のためとか言って別れちゃうの」
「またえらく古い比較対象だな」
あざみは僕には答えずに、黙って人ごみの方を見つめて目を細めた。店の中が静かになったせいで、ギターの曲が流れてきた。あざみは音を聴いているような表情にも見えた。
氷の入った僕のアイスティーは手をつけられないまま徐々に分離していた。ストローで軽くかき混ぜると色が上の方にも戻る。僕はシロップをそれに注いだ。透明なシロップは紅茶の中でクルクルと先程僕がストローで描いた方向に沿って跡をつけた。二人で座っていながら話もせずにそうしたものを見ていると、全てが音楽に耳を傾けているようだ。目の前のアールグレイでさえも。
僕はグラスに触れることなくあざみと一分違いで駅前のスターバックスを去って、冷めてしまったスープが待っているマンションに戻った。


 2.
 五月になった。特に望みもしていなかったゴールデンウィークがやってきた。僕はすることが何もなかったので、バスに乗って本屋へ行くことにした。本を買って四日間の暇をうめようとしたのだ。
このところ、何も目立ったことのない生活を繰り返していた。本来大学一年生と言えば、目新しいことばかりで大変有意義な日々に囲まれるものだ。しかし僕は何事にも夢中になれなかった。一つ年上だから、など自分に言ってみても納得いくはずがないのはわかっている。そんなものは関係ない。あざみの通う大学に入ったばかりの同い年の旧友たちの声は、僕の知る弱々しいものから弾んだものへといつの間にか変化していたのだから。
時計を見ると午後二時ちょうどだった。時刻表を探すまでもなく市バスがやって来て、僕を乗せると排気ガスを大きな塊にして揺れた。車内は木曜日の昼過ぎにしては混んでいたが、皆が座れる程度だった。僕の座席の前のシルバーシートでは、日本人によく似た顔つきの年配の女性達が地図を広げて何やら早口の言語を発していた。
三つ目の駅で若い女性が乗って来た。彼女はしばらく車内を一覧した後に空いていた僕の隣の席に座った。茶色がかった肩下のストレートヘアで白のシャツワンピースを着た、ごく普通の女だった。
「ああっ」
女は僕の隣に腰をおろすかおろさないうちに、クリーム色の紙袋を手に小さく叫んだ。もちろん僕はその叫びを独り言だと思っていたので、無言のまま彼女の手にある袋を見つめていた。
「間違えたのよ」
僕の反応など関係なく、どうしたのと訊ねられたかのような口調で彼女は叫び声の理由を説明し始めた。
「本。違う本を買っちゃったわ」
本を買ったという言葉に反応してそんなところに本屋があったかと迷った。彼女は僕がどんな感情を抱こうが、お構いなしに話をすすめていった。
「私ね、いつもこうなのよ。買う本をわかって本屋に行くのよ、でも気付くとぱっと手にした本を買ったあと。おかしいでしょう。そんな本、別に必要だから手にとったわけじゃないんだけど、買ってるんだから。しかも本だけじゃないの。小さな雑貨とかの時もあるし、洋服の時だってあるわ。男物の服とか買ってるんだからもうここまでくると笑い事ね。恋人だっていないのにどうしようもないんだから」
「あげるわ」
僕の手に本の袋を押し付けるようにして、彼女は次の駅で降りた。僕はただ読むものを探すためバスに乗っていたのでその次の駅で降りて道路を横切り、反対車線の同じ系統のバスに乗った。
バスの中で袋を眺める。クリーム色の上には緑の字で有名な大型書店の名前が書かれていた。顔をあげて窓から外を見、僕は自分が女の乗ってきた駅で降りる予定だったことにその時はじめて気がついた。駅の数をそのために数えていたというのに。いずれにせよ定期券なので無駄はないし、逆に本屋に行く手間が省けて嬉しかった。
バスの窓は道路から高くて街路樹の枝が近くなる。僕は何度も通り過ぎていく黄色く反射した葉を眺めていた。ガラス越しのゴールデンウィークは映画のようで、僕はただ寒すぎる車内に座って見ているだけでよかった。空高く舞い上がる赤い風船の行方だとか異常な程の日射しの強さだとか、そんなものが僕に及ぼす影響を忘れていることができた。本屋の袋が重く、腕に少しくい込んだ。

家に帰って本を取り出し、小さな絶望を感じた。本は写真集だった。分厚そうだったので四日間を一冊で乗り切れると思っていたので残念だ。なぜバスを乗り換えた後にでも本を見ようとしなかったのだろう。そうすればもう外に出る必要もなかったのに。冷蔵庫にはかなりの量の食料が買い溜めてあった。
とりあえず写真集を観察することにした。表紙には知らない外国人の名前が大きく印刷してあった。裏返すと小さな$135という文字を発見した。本をくれた女のことを思い描いた。本当に、一体何を間違えてこんな本を買ったのだろう。少し気の毒な気がした。一万三千円相当もあれば安物のシャツを三着買ってもまだ千円は残る。
あざみがトモは写真が好きだと言っていた。僕は別に写真に興味がないので、彼女に渡せば有効利用される方に流れていくだろう。もしかするとトモはこの表紙の名前を知っているかもしれない。けれどもそのままあげてしまうのも女に悪い気がして、僕は何気なく本をめくった。予想通りよく似た白黒のページが何枚にもわたって展開されていた。部屋のカーテンは閉めたままだったが、それを見るのに障害がないほど明るいぐらいに外は晴れたままらしかった。
もう十分だ、と早くも思い始めた次のページだった。そこにもこれまでの十数ページと同じような写真があったことに変わりはなかった。特に目立つこともなく、ある外国人の作品のうちの一つだった。しかし僕はその写真に何故か心惹かれた。本当に理由がわからなかった。自分がそのページで止まっていることすら僕には不思議だった。写真の中心は小さく写った黒い猫だった。猫は壁の上で後ろを向いて座り、尻尾をたらしていた。壁の前を人が行き来している。曇った空とコンクリートの壁とは猫のいる位置でちょうど分かれていた。それは写真の二分の一を示していた。壁は白く、特に黒い猫のそばは対比されるためか光る程白く見えた。まるで雪だった。人々は忙しそうに、ぶれていた。よく見ると数人が通過していることがわかった。こういう写真はレンズを開けっ放しにして撮ると聞いたことがある。この写真では人をレンズを開けっ放しにして撮影した後で猫と合成したのかと思って解説に目をやると、合成ではないという英文をたまたま読み取ることができた。数人がフレーム内の端から端までを通る間、黒猫はじっとしていたのだ。尻尾を揺らすこともなく。行き交う人の忙しさには目もくれず、ただ白い空を眺めていたのだろう。
僕はそのページを閉じて本をまた袋に入れようと思った。が、入れることが出来なかった。一枚の写真なんてじっと眺め続けるものではないのだと自分に言い聞かせようとしたが、また見たいという衝動はなんとなく拭い去ってはいけない気がした。
結果的に僕はゴールデンウィークをその写真一枚で持ちこたえ、外出することなく済んだ。他のページは特に気になる写真もなく、僕は百ページ以上あった本の残りを数分で見終えていた。休みが終わればあざみに渡そうと思っていたが、残りの三日が過ぎてもその本は机の上を離れなかった。


 3.
 雨の日、というのを忘れてしまった気がする。ここ二週間近く雨は降っていない。傘も見かけないのはおそらく靴箱の中にまぎれているからだろう。休み明けの校内はどことなく落ちついていると共に少し閑散としている。大教室に入ったが生徒数はかつての三分の一にも満ていなかった。僕は真ん中あたりの列にある長椅子の端に座って、筆箱も出さずに鞄を抱いて前を見た。教卓のそばの窓からは種類のわからない大きな木の緑がのぞいていた。光はここでも完全に窓ガラスに遮断されていた。外にはのどかな初夏が広がっているなんて本当に信じられないような空気が流れることもできずに留まる。どうして窓をあけないのだろう。皆が、窓に一番席が近い生徒さえも感じているのにここでは窓を開けに行く人はいない。客観的な教室だ、と他人事のように僕も思った。
「おまえはどう?」
何が、と聞き返しそうになった。右を見ると隣の生徒が、そうだなぁというように左手の爪で机をコツコツと鳴らし始めたので、その問いが彼へのものだったと知った。その動作のため僕の腕に伝わる振動も手伝ってか、僕は彼の答えを慎重に聞き取ろうと耳を傾けた。二列前の右から三番目に座っているロングヘアの女の子の評価かもしれない。今日の夕食のメニューかもしれない。僕は考えられうる限りもっとも僕にとってどうでもいい答を予め考えておいて、彼の返答がくだらないものであった時に備えた。しかし青いチェックのシャツを羽織った男はそれ以上に絶望的な話題に対して議論をしていた。
「生まれかわりねぇ……」
僕は生き物が生まれかわるだなんて馬鹿馬鹿しくて考えたくもなかった。プロテスタントの学校に通っていたが、その宗教を受け止めようとしたことは一度もなかった。奇跡だとか神の恵みだとかそんな言葉を使ってものごとを決めつけて目を輝かすなど、人間が勝手に自然現象をグループ判別しようとしているだけの単なる傲慢な行為にしか思えなかった。確か生まれかわりは仏教的概念でキリスト教では復活があるだけだった気もするが、そうした区別はあまり関係ない。仏教は神のような既存の偉大なものを設定しないから僕の中ではキリスト教よりは上位に位置しているが、やはり生まれかわりだとかいう奇妙な自意識はいただけない。そういえば数年前にもどこかの国の王の生まれかわりだとかいう少年が話題になっていた。どうしてそんなことで人は騒ぐのだろう。そもそも生まれかわるとはどういうことなのだろうか。たとえかなり妥協して生まれかわることがあるとしたとしても、その場合前世の記憶は残らない。つまり意識は肉体と共に死んでいるのと同じことになるのに。一体何が残ったまま、変わるというのか。すっかり変わってしまったものはもう過去の人物とはアイデンティファイされない。
黒板を見てやっと今が思想史の授業だということを知った。教室は一応覚えていたけれど、教科などは最近気にしなくなっていた。東洋思想史。やはり生まれかわりは仏教的な発想だったわけだ。
「人はきっといくらでも気付かないうちに生まれかわっているんだよ」
青シャツが言った。
そのとたんに教室中の生徒がそろって大きな動きを開始したので、その言葉が何かの合図だったのかと思った。時計を見るとちょうど授業終了時刻だっただけで、僕が腕時計から目を離すともう教授は荷物を全て抱えて出ていった後のようだった。現実はともかく、僕の中では彼の言葉が何かの合図だとしても完全に納得がいく程その言葉は鮮烈に聞こえた。なぜだろう。考えてみても、なんとなく、ぐらいしか答えが出ないのはわかっていたので、僕はただそのまま言葉の並びを忘れてしまわないようにそれを口の中で繰り返した。おかしなものだ。先程まで、教授の与える話題で稚拙な議論をすることしか出来ないと見下しかけていた生徒の一言に、こんなに傾倒するなど。

教室から見えていた木は桜だった。入学したての頃には花を咲き散らしていたはずの桜。東洋思想史で使う大教室はその他の授業でも何度か使用しているはずなのだが、前の窓からのぞくピンクの花というイメージは僕の頭の中には残っていなかった。つい一週間前までは教室に入りきらない生徒達で桜の木が完全に隠されていたことを思い出すのに時間はかからなかった。
高校時代の女友達との電話越しの会話を少し思い出した。霊だとか超能力だとかそういうものについて彼女が話を持ちかけてきた時。僕はそういう話題にはうんざりしていたので、それらが全て存在しないもので、テレビなどで取り上げられているのは作りごとだと手短に鋭く主張した。
「科学で証明されないんだから」
「確かにそうよ、テレビなんてデマもいいとこだわ」
「そうだろう」
「でも、科学をここで持ち出してきてもいいのかしら」
「なんで」
「科学で解明されないものは信じない、みたいな口ぶりだけど、今現在の段階で解明されてないだけだとしたらどうかな。将来、幽霊とか超能力とかが解明されることはないって何で言い切れるの。地動説だって昔の科学では解明できなかったけど、今は当たり前じゃない。地球が回ってるだなんて当時の人にしてみれば恐怖よ。幽霊なんか通り越しちゃうぐらい怖かったんじゃない?」
僕の負けだった。
では生まれかわりもいつかはきちんと解明されるのだろうか。そうかもしれない。けれども解明されたところで、一体何を持って生まれかわりと言うのかという僕の疑問は残る。
桜は葉の形を見ないと桜とわからない程緑だった。そしてこれもまた冬になると、イチョウや白樺と同じ、枝と幹だけの姿になる。けれども春には毎年美しい花に埋もれる。これは、生まれかわりと呼べるかもしれない。
人はきっといくらでも気付かないうちに生まれかわっているんだよ……
青シャツの男に彼の言ったことの意味を詳しく聞きたい衝動に駆られたが、辺りには彼どころか生徒の姿自体がなかった。警備員が一人ゆっくりと中庭を横切ってこちらに向かっていた。もう五限が始まる時間を十分程過ぎていた。警備員が僕に声の届く領域に辿り着く前に、僕は自転車にまたがって下宿に向かった。


 4.
 その夜、レポート用紙が切れていたのでコンビニに買いに行って部屋に戻ると、どういうわけかあざみがいた。彼女はフリルのついた真っ赤なワンピースを身にまとっていた。あざみなら着ていても違和感なく、その上、品性に欠けることもなかった。真っ白な部屋の床にそんな格好の女が座っているというのはなかなか絵になる光景だった。どこかの前衛的なブランドの広告写真のようだと思った。彼女のつまさきから少し離れたところに、洒落た英文字が並んでいてもおかしくない。
「私、飛び下り自殺を見たのよ」
首を動かすことなく止まったままの姿勢でマネキンのようなあざみが口を利いた。
「死にかける、ほんの数日前」
彼女の自殺未遂はよく知っている。
「あの時のこと少し話させて」
僕が承諾する間も待たず、あざみは今年の二月のことを描写し始めた。
彼女は僕の通う予備校の近くの川で自殺を計ったのだ。コンクリートで作られていたのでそれを川と呼ぶかはわからないが。その日あざみはおそらく自習をしに来ていたのだと思う。橋の欄干に立って手首を切った。川にそのまま落ちていく予定だったのだという。それは僕も気付いていた。まず、僕がその事件を目撃していたのだから。彼女を助けたのは近くを歩いていた年配の女性だった。あざみは計画とは反対に、川床ではなく橋の歩道に落ちていった。あまり高くない距離とはいえ、頭をうって即死することが可能な程度だった。結局彼女にはその女性のおかげで落下による傷は一つもなく、あるのは動脈の近くを切り裂いた一生傷だけだった。
あざみが手首に刃物を当てる前に助ける者がいなかったのは今思えば不思議なことだ。彼女はその雪の日に不釣り合いなシンプルな飾り気のない白のノースリーブドレスを着ていた。それだけでも目立つのに、あざみは橋の欄干の上に裸足で立っていた。そんなところに乗るなんて異常な行為に決まっている。誰かがすぐに止めに入ってもよかったのに。例えば、僕が。
ただ、真っ白な薄着で雪の降りしきる中橋の欄干に立つ女と言うのは美しすぎた。そういう女が全て美しいかはわからないが、その時のあざみは美しすぎた。誰かが動けば崩れてしまいそうにも見えた。まだ髪は胸より下ぐらいまで伸びていて、先の方で緩いウェーブを作っていた。僕も含めてその場にいた者は、あざみの手首から鮮血が飛んであざみの手から銀色のナイフが落ちていくのを見つめた。助けなければ、という常識的な意識よりも先に、白い中に散る真っ赤な色と流れる黒髪を見続けたいという美的感覚が働いていた。あざみの血はその光景の中では花びらに思えた。真っ赤な花びら。死の文字が頭に浮かんだのは彼女の上体が急に傾いてからだった。僕が叫び声をあげるのとほとんど同時に、あざみに最も近いところにいた女性が走って彼女を受け止めた。それすらもまだスローモーションの芸術的な映像に見えなくなかった。
あざみに今自殺理由を聞いて、なぜあの時風景がそこまで美しかったのかを感じた。全く理論に基づいたものではないが、おそらくあざみが哀しさの中にいたからだと思う。燃えゆく紫禁城や、鉄砲などの瞬殺道具が登場する前の戦場跡が奇妙に美しかったであろうのと同じ理由で。
「今となって、かもしれないけど。あの時はそれでも二人のことだった」
あざみは老けたように思えた。大人びた、とかではなく。僕の前に座っているのは十八歳のふりをした七十歳のあざみだという感覚に取り付かれた。それは彼女の目のせいだと思う。彼女は僕が帰ってきてドアを開けた時から口以外の場所を動かしていなかったし、髪一本さえもそよぐことがなかった。目も、ずっと床の一点を見ているようで見ていなかった。高校の理科教室の戸棚に入ったはく製のアルマジロを思い出した。ビー玉の目だ。
「そう、あの時は、あんな風になっても二人のことだった。あの時は私の中がダメだったのよ。もう二度とあんなことは出来ないわ。あの時は私がおかしくなったのが先、今は周りが反射したのが先」むき出しの手首に傷が見えた。大きな消えない傷だ。僕は、三月になってから何度もあざみに会っているので見慣れているはずなのに、傷口に釘付けになった。そして目を離すと、いつの間にか、真っ白だった部屋が青色にトーンダウンしていた。紫色に見えるワンピース姿で、あざみは紺色のソファに横向きに寝そべるように座っていた。僕は彼女が動いたことに気付いていなかったが、光景をそのまま受け止めた。こんなソファがあったのかなんてことを考えることを思いつきさえもしなかった。
あざみは不意に眠り始めた。瞼だけが動いた。その下の目はまだビー玉と同じで一点を見つめているのだろうか。
僕はソファに近付く。ゆっくりと、白い床を傷つけないよう、あざみを壊さないよう、慎重に。
あざみが目を開けた。やはりビー玉だ。けれども彼女は今度は僕の方を向いていた。
「だめなの、もう、雪がないの……だめなのよ」
白い手が伸びてくる。僕は恐怖を覚えた。やっと、怖いと思った。そう思うと家に帰ってからのあざみの全てを怖いと感じ出した。僕はこの状況から逃げ出そうとした。が、どこへ逃げるのだろう。僕の部屋はここだというのに。あざみの手は僕を掴む。服の裾を握り、僕を離すまいとすがりつく。
「雪がないのよ、もう……」
振り払おう、と決心した。

重いボールペンの落ちる音が部屋中に響いた。大切なペンだ。僕はその入学祝いの品を慌てて無意識に拾い上げた。大丈夫、傷はない。
教室に座っていることに気付いたがその事実を信じるのは容易ではなかった。こぎれいな部屋だ。白い壁には落書きが一つもないし、机も磨いてある。そんな教室にいるということは今は火曜日の五限のはずだ。そういった表面的な情報はすぐに集まった。けれども致命的なものがなかった。鞄の中を探っても手帳はなかったし、カレンダーも見当たらない。それに見つかったところでどのみち答えは探せない。
今日は何日なのだろう……。
僕は学校に足を運んだ覚えもないし、ましてやこの教室に入ったなどさっき知ったところだ。生徒達が笑った。僕が寝起きで慌てていることに対して笑っているのだと恥ずかしくなったが、すぐに教授の冗談に笑っていると知った。

授業はすぐに終わり、僕は外に出た。小雨が降っている。意識が曖昧なままさすがに一ヶ月近くも過ごしていたわけではないだろうから、五月の曇り空。雨は細かかった。ほとんど誰も傘をさしていなかった。
「今日は雨か」
家に帰ったら傘を探さなければならない。本当に靴箱の中に入ったままなのだろうか。
肩までの髪の長さの女生徒が僕を追いこして屋根の下で止まった。彼女の髪はブラシを通していないようにゆるいカーブを描いていた。
あざみ?
都合よく振り向いてくれた少女はあざみとはまったく別の顔をしていた。よく見ると、スリムジーンズをロールアップして体の線が不格好に見える安物らしい柄のプルオーバーシャツを着ていた。スニーカーがバランスを余計崩している。素材とシェイプにこだわるあざみはこんな服装を嫌っていたというのに。
悔しさと惨めさで笑ってしまう。どうしてここにあざみがいるだなんて勘違いしているのだ。こんな所にいるはずがない。あざみはこんな大学にはいない。僕の通う大学になど。


 5.
 マンションの入り口の自動ドアは、銀色のふちをしている。つまりふちだけ鏡になっている。僕は先程の自嘲を引きずったまま鏡に近付いた。ひどい顔をしているに違いない。
が、鏡は僕を映しかけるととたんに左右に開いて去っていった。自動ドアなのだから当然のことなのに、僕はひどく驚いてしまった。僕の顔は左右に引っ張られて歪んだままちぎれていったように見えた。

階段を上がって玄関にたどり着くと、あざみがいた。
「ごめんなさい、いきなり。このマンションの正面玄関の暗証番号は前に教えてもらったから、勝手に入っちゃった」
僕は別に構わないといってあざみを部屋に入れた。彼女が僕の部屋に入るのは珍しいことではない。高校時代、よくあざみは制服のままここに話をしに来ていた。気温はゴールデンウィークとうって変わって低く、あざみは震えていた。よく見ると髪や服に水滴が付いていたのでシャワーを浴びることをすすめた。
「もしよければ、だけど」
そう付け足して新しいライトブルーのバスタオルを手渡すと、彼女は何も言わず勝手にシャワールームへ消えた。
雨は激しくなっていた。僕はベランダをそっと覗く。案の定タオルや下着が並んでぐったりとしおれていた。今更取り込んだところでまた洗濯しなければならない。ざぁ、と雨滴が道路にはねて車にひかれる音がする。もう梅雨になろうとしているのだろう。見上げると雨の日の空は曇っていると表現するのを戸惑う程真っ白で、どこを見つめればいいのかわからなくなり下を向いた。まるで雪山の遭難者だ。左耳に雨の音とは違った水の音が聞こえる。僕はできるだけ小さいサイズのシャツと半ズボンを選んで、そっと洗面所に置いてまた居間に戻った。白いソファとテーブルのセット。大きすぎる洋服のあざみは、ありがとう、と僕の入れたココアに口をつけた。
「甘い」
無表情な機械の声だった。甘くて嬉しいだとか嫌だとか、そんな感情が一切含まれていない声だった。液体がアルカリ性だと報告する学生のようだと思った。同じ声で、彼女は客観的に言った。
「覚えてる?私が死にかけた日」
そして彼女は昔話をした。当時の気持ち、情景、雪。僕も夢で見たのと同じように僕の記憶をたどる。橋、髪、赤い花びらの鮮血、雪。
僕は夢を思い出して恐ろしかったのとあざみの自殺理由が何度聞いても苦しみに満ちているのとでかなり混乱していたので、ココアには触れもしていなかった。マグカップの中は分離し、どろどろした濃い液が抜けた上部には白い粒子が浮いてきた。そんなふうになったココアはもう飲みたくなかった。
「どうかしら」
三十分近く一人で喋った後、あざみは空になったココアのマグカップを片手にかかげて覗き込みながら言った。
「私、どうなると思う?」
「どうって?」
「この後。あの時みたいに思い込みだけで突っ走って、季節違いの格好で橋まで行くことなんてできないと思うのよ。あんな幸せな生き方じゃなくって、今の私は選んでる。どこに行けばいいのか、どうするのが自分にとって一番利益があってしかも相手の自分に対する評価を下げないのだろうか、だとか。全部計算しちゃってるから、下手に動けないんだと思うのよ」
突っ走らないのはいいことだという一般論を述べてみたが、彼女は首を大きく左右に振るだけだった。
「結局あなたはわかってないわ。なんにも」
僕にはそれ以上に言うことばを探せなかったし、まず、僕はあざみと二人でこの部屋で話しているという状況を恐れていた。夢が先走っていたのだ。あざみの目は夢と同じビー玉だったし、彼女は僕のソファに寝そべるように座っていた。
「綺麗に死ねることでさえも喜びだった」
あざみは昔話の中でも、綺麗に死にたいといっていた。夢の中でも。そして僕は夢の中でその理由を知っていた。現実の彼女の口からはその話はまだ聞いていなかった。
「なんで綺麗に死にたいと思った?」
この質問をすることで恐怖を振り払うつもりだったのだ。まさか夢と同じことはあるまい。夢なんてしょせんは自分の脳がつくり出した空想ごとなのだから。違う答えを期待して尋ねた。
「昔??当時にしては少し前ってことになるけど、飛び下り自殺を見たの。街で偶然、歩いてたら人が降ってきた。汚かったわ」
どうしてこんな質問をしてしまったのだろう。わかっていたのだ。残りの可能性には期待しつつもこの答えが返って来ることは、直感的にわかっていた。僕はあざみから直接聞く前にその質問の答えを知っていた。汚い、と人を表現したあざみの口調もさっきの「甘い」と同じで、なんの評価もその形容詞には与えずに事実だけを僕に伝えていた。夢の中であざみが僕にすがりつく光景と台詞が浮かぶ。また、雪がない、と言われるのだろうか。もしそうならば彼女が僕の服の端をつかんだところで大学の講義室に戻るのだろうか。そう思ってもみたが、僕は今が完全に現実の時間だと言うことをはっきり知っていたので、気休めにもならなかった。
が、シャワーを浴びてホットココアを飲んだ後なのに青白いあざみはそのことばには行かなかった。代わりに。
「本能ってどう思う?」
「殺すことなのよ」
事態がのみ込めていない僕の返事を待たずに自分の出した問いに自分で答え、あざみは部屋を出ていった。シャワールームで大きすぎる服からまだ少しだけ湿っているワンピースに素早く着替えて。


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