佐久間大地
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眉間に皺が寄っていた。四六時中そんな顔をしているわけではないが、妙に堂にいっている。彼女はその妙に彼女にしっくりくる表情で彼の方を睨んでいた。
「つまらないわ、歩(あるき)。」
古妃(ふるひ)が呟いた。
「つまらない、って言われましても。」
「つまらないものはつまらないのよ。暇だわ。」
「暇でしょうな。」
歩は比較的どうでも良さそうに返した。
「近畿地方は大雨だそうですよ。どう足掻いても『計画』は台無しですな。」
「恐れ、よ。近畿地方に大雨の恐れ。まだ確定したわけじゃないわ。」
歩は窓の外を眺めた。一瞬辺りが白くなったかと思うと、その白は闇に解れていく。雷だ。
「一応近畿の端ですな、ここは。」
「五月蝿いわ、黙りなさい歩。」
苛々とした声で古妃が言い放つ。彼女が楽しみにしていたらしい――――彼女はあまりに意地っ張りで口に出して楽しみだ、等と言わない――――『計画』は中止だった。どちらが言い出したわけでもないが暗黙の了解。だが、理屈ではわかっていても感情が納得いかないらしい古妃は歩にきつく当たる。
「また……そうですな、三日後くらいにしますか。」
「貴方、三日後に生きてる保障はあるわけ?」
「ないですな。」
投げやりと言うよりは冷めた調子で歩が答えた。いつも彼はこんな感じだ。結局、飄々として全て擦り抜けていってしまう。
「当初の契約としては……」
歩が大人びた笑みで雰囲気を遮った。
「あんたは僕を信じない。僕もあんたを信じない。違いましたかな?」
「こんな時もそれ? 極論ね。」
古妃はぱんぱんに用意の詰まったリュックサックを名残惜しげに眺めた。
無性に何処かへ行きたかった。
目的が必要なら、埋蔵物探しでも死体探しでも何でもいい。
何を探すのかは分からないけれど
とにかく探せる何かが欲しかった。
それは、何でも手に入る立場に居る古妃の、幼い頃からの願いだった。
歩は立ち上がって伸びをした。
「さぁて、そろそろ行きますかな。」
「お茶くらい飲んで行きなさい。」
古妃は歩に言う。歩は顔だけ古妃の方に向けて笑った。
「随分と態度のでかいお誘いですな。」
「命令よ。」
低い声で古妃は返す。声が上ずらないか気になった。傲慢で自尊心旺盛、好奇心と冷徹さを兼ね備えた女、それが自分だ。素顔を誰にも見せられないのなら、仮面は体の一部になる。古妃は歩を真っ直ぐに見つめた。
訳の分からない男。
自分が彼を『拾って』きた時から
透明で、懐かしくて、見えない男。
「紅茶を頂けますかね?」
「そこのミネラルウォーターで十分でしょう。」
「お茶じゃありませんな。」
「揚げ足取りは時間の無駄よ、歩。」
古妃は硝子のコップを二つ、乱暴に机の上へ置いた。
「注いで。」
「やれやれ、どちらがお呼ばれしているのだか。ストップを言って下さいよ?」
歩は呆れた顔をしながらも、古妃のコップに水を注いでくれた。
水。
流れていく。
落ちていく。
水が、コップの縁から溢れた。
「言わないわよ。」
古妃は低い声音で呟いた。呟いていてもそれは低かった分、鮮明に歩へ届いた。
「言わないわよ。」
もう一度、古妃は繰り返した。
「我侭ですな。」
間髪入れずに、古妃が冷たく言った。
「貴方を拾ってやったのは誰よ?」
水。
机の縁を伝って、
跡形も無く落ちていく。
乱すことは無く、
乱れることも無く、
ただ侵食していく。
「あんたですな。」
のんびりとした声で歩が返した。
「貴方を元気にしてやったのは誰よ?」
「あんたですな。」
同じ調子でまた歩が返す。
「貴方を」
「はぐらかすのは時間の無駄ですな。」
水が、溢れて
彼の靴の端を濡らした。
革の靴はそれでも侵食されることはなかった。
「……薬はどれくらい要るのよ。そこに置いてあるので足りるの?」
諦めたように古妃が漏らした。
何を言っても無駄なのだ。
彼を蝕んでいる病は止むことが無い。
それでも引き止める事が出来ないのは
それが法則だからだ。
「さぁ……神のみぞ知る、と言う所ですか。」
歩は水を注ぐのを止め、手を伸ばした。彼の飼い猫がその手に纏わりつく。猫の足が軽く水をはねる。
「行くの?」
「行きますよ、時間が時間ですからな。」
歩は軽く壁にかかった時計を見ると、椅子に掛けてあった帽子を被った。
「似合わないわよ、その帽子。」
「形見でしてな、手放せないんですよ。」
だがその似合わない黒の変な帽子が無ければ歩ではない、という気もした。古妃は笑った。
「幾つ形見があるのよ、貴方。この前は歳時記だったじゃない。あれはどうしたの?」
「和歌で人生は満たせませんな、少なくとも僕の場合は。筆も持っておりませんし……性分に合いませんでね。」
歩はこうやって嘘をさらりと漏らす。
彼のこの癖を、古妃は好きだった。
彼といつも繰り返す、この別れのやり取りを、古妃は好きだった。
彼の返すその仕草を、古妃は好きだった。
「和歌には筆? ちょっと短絡過ぎじゃない?」
「俗な人間ですからな。」
歩はぼそりと言うと机の上に手を伸ばした。飾られた花が、小さな薬達に影を落としている。その腕を、古妃は捕らえた。
「忘れていることはない?」
この別れのやり取りを
「お礼ですかな?」
古妃は好きだった。
「十四・五の子供じゃないわよ。お礼なんて猿でも出来るわ。」
「辛辣ですな。」
歩は笑った。
でも、何も言わなかった。
やっとめぐり逢えた、
手に入らないもの、
追いかけられるもの、
探し続けられるもの。
「さよなら。」
そう言い出すのはいつも古妃の方で、歩はいつも何も言わない。
代わりに彼の黒猫がミャアと申し訳程度に鳴く。
それっきり。
此処に居て
隣に居て
いつもそのひと言が出てこずに、古妃は金しばりに遭ったように動けなくなる。
この別れのやり取りを、古妃は好きだった。
閉じられた扉から、視線が何時までも離れなかった。
水が腕の端に触れて白い腕を染めていく。
動かない、動けない。
水が伝っていくのを古妃は肌の感覚で辿っていった。
「さよなら。」
繰り返す声音だけが脳の端で響いていく。
わんわん鳴って
まるで真空のようだ。
涙が頬を伝っていくのが硝子のコップに歪んで映った。
「さよならだわ。」
手に入れたようで離れていく。
掴んだと思った瞬間には消えている。
次に何時会えるかなんて知らない。
生きているのかどうかすら
知らない。
「さよなら。」
水が指先を濡らして
声を涙が壊して
狂ったようにいつも
感覚だけが鮮明で
言葉だけがいつも
形にならない。
知っている?
でも、どちらも言い出さずに別れていく。
知っている。
だから、どちらも言い出さずに別れていく。
分かっている。
理解してる。
――――知っているから。
【無伴奏透明/closed】