黙葬

佐久間大地





『ねぇ、いつか貴方に会えたことが、
幸せだと思える日が来るのかしら?』

















        01
 『彼女』の話をしようと思う。
 『彼女』は、僕の父の別れた妻、すなわち僕の母親だ。なら、母と言うべきかも知れないが、僕は父が可哀相なのでそんなことは言えない。『彼女』は『彼女』なのだ。
 僕は『彼女』と一か月に一回しか会えないことになっていた。いや、父は少なくともそう言った。だが、父の仕事を把握していた『彼女』はよく父のいない日にやってきて僕と一緒に過ごした。一度など、父が仕事を途中で切り上げて帰ってきてしまったが、彼女はいけしゃあしゃあと「今日は十月分の前借りに来たの。」と言って笑った。


 『彼女』は読書が好きで、高尚に生きようとしていた。少なくとも、僕にはそう見えた。『彼女』はよく、昔話のように旅の話をした。何度も同じ話をするので、僕は内容を憶えてしまっていた。

 『北海道に行ったことがあるわ。あれは、確か大学生の頃。私が大学生だった頃だから、もうずいぶん昔のことね。あの頃は、本当に電灯が無くて、道なんて真っ暗だった。本当の闇って奴よ。星の光が凄く綺麗だったもの。多分、もう一生見れないんじゃないかしら。
 その時にね、不思議な人に会ったわ。何か、こう、存在感が希薄でね、冗談じゃなく透き通って向こうの景色が見えそうな雰囲気だった。今思えば、何かクスリでもやってたんじゃないかしら。一緒にヒッチハイクしてね、別れ際にまた会いましょう、って喫茶店の店名書いたメモを渡されたの。
 その時、漠然と思った。
 帰らなきゃ。でないと、二度と戻れなくなる。』

 『彼女』は笑って僕に何かの本を差し出した。
「何?」
「これ、読んだでしょう? この中の『ヒッチハイカー』っていうのが、その人のこと書いた詩よ。」
僕はぱらぱらと頁をめくってみた。実際、僕はその本(自主製作という奴だ。)を何度も見たことがあったし、最初の詩など憶えてしまっていたが、(『四月の雨』と言う題名の詩だ。これがまた『彼女』らしいのだ。)『彼女』の前で読むのも悪くない気がした。



『彼女』は割合厭世的な雰囲気を好む人だ。だから、例えば吉本ばななの『哀しい予感』の主人公の姉さんだとか、江國香織の『落下する夕方』の……あぁ、名前は忘れたけれど、いわゆる変わった人、なんかに憧れている。

 「そうね、憧れてるわ。でも、本当にあんな風になってしまう気がして。」
尋ねると、『彼女』はそう答えた。僕は少しむっとして反論した。
「無理だよ。意外にモトコさんは神経質だし、子供みたいな人、夫に持ってるだろ。絶対無理だって。」
「そうね、捨てられないわよね。」
『彼女』はそう言った。
 それが、離婚の前夜のことだ。

 僕はその次の日、突然父と母に呼ばれた。二人の妹も一緒だった。並んだ父と母は、つまり『彼女』だが、白い紙を前にしてやけに冷静な顔をしていた。『彼女』は疲れたように笑った。僕は、それで全てをわかってしまった。
 父と『彼女』は離婚した。
 二人の妹は『彼女』が引き取り、僕は父の元に残った。『彼女』は、最初から僕を連れていく気はなかったらしい。当然の如く、僕の分の荷造りはされてなかった。『彼女』は笑って「あの人のこと宜しくね。」と言った。僕は頷いた。
 そうして、僕と『彼女』は別れた。












『僕は彼女を肯定するには年をとりすぎていた。』



















        02
 『彼女』は『彼女』の言う楽園に引っ越したらしい。妹二人と楽しく過ごしているようだった。
 僕はというと、父と不和ではなかった。だが、多分父は僕を掃除婦としか思っていないであろうし……、つまり、何というかそういう感じだった。
 『彼女』が出て行っても僕の生活はあまり変わらなかった。僕は父のためにテレビのチャンネル権を譲り、食事を作り、父の寝た後に煙草の処理などをした。

 『彼女』は時々、僕の所へやって来た。
 僕は『彼女』の為にエリック・クラプトンの曲をかけて、いつも待っていた。『彼女』はエリック・クラプトンが好きなのだ。いつもながら、何というか、高い理想の持ち主だった。

 『この声よ。いつもさ、私の為に唄ってくれる気がするのよね。他の人がそう言うと、何を寝惚けたことを、って思うんだけど。』

 『彼女』は少し理不尽だ。僕は『彼女』が僕のベッドに腰掛けて美術館のカタログを眺めている間、勉強している。もうすぐ大学受験なのだ。わざわざこんな時に、離婚しなくたって良いのに。『彼女』は時々甲高い声をあげながら、それに見入っている。そして父が帰ってくる頃になると、徐に身を起こしてカタログを元の所に戻し、何も言わずに出て行く。僕は勉強をしている。それでも、『彼女』がドアを出て行く音がすると、窓に顔を近付けて『彼女』の後ろ姿を見ているのだ。『彼女』は振り返らない。わざとなのか、無意識なのか、僕は知らない。


 『彼女』は最近、僕に『彼女』が死んだ時の話をよくする。というのは、『彼女』の父、すなわち僕の祖父が死にそうだからだ。『彼女』は、僕に言う。
「死ぬ時……、うーん、葬式ね。エリック・クラプトンかけてね。『tears in heaven』が良いな。」
「うん。伝えとくよ。」
「誰に?」
「だって、僕もその時死んでるかも知れないしさ。」
「そんなこと言わないの。親より先に死ぬのは、月並みだけどやめて欲しいわ。」

 『彼女』は理不尽だ。ある時、こんなことを言っていた。

 『死んだ時に、咲くんは何が欲しい? あ、遺産の話よ。私、家とか道具とかぐらいしか持ってないわ。
 ……そうだ、咲くんには本をあげる。千冊以上あるわよ。全部あげるわ。くだらない本もあるし、全部読む必要、ないけどね。咲くん、本好きみたいだから。水ちゃんや忍ちゃんは、すぐに汚しちゃうだろうしね。』

 そんな事を平気で言う。だから僕は、僕が死んだ時の話ぐらいさせてほしいのだ。そりゃ、彼女が死ぬ方が先だろうけれど、そういうのは、僕は好きじゃない。
 本当に、好きじゃない。


























『駄目なんですよ。そういうの。
幸せに、依存できないんです。』


















        03
 突然だが、僕の思考の七十パーセントは『彼女』のコピーである。もっともらしいことを言っているけど、『彼女』がいなければ、いわゆる高尚なことなんて言えやしない。僕はまだ高校生で物事なんて良く分からない、と言えばそれまでだ。でも、『彼女』はそんな事はないと言っている。高校生の頃の彼女は、今の僕よりずっと高尚だったのだろうか。


 よく、『彼女』は昔、父のことが好きなのかどうかわからない、と言っていた。こう何年も一緒にいるともうそんなことはわからない、空気みたいね、と笑った。
 彼らが離婚した今では、『彼女』のその笑いが何を意味していたのか、僕にはよくわからない。
 『彼女』は結婚して幸せだったのか?
 あるいは、父といて幸せだったのか?
 あるいは……――
 僕といて、幸せだったのか?


 僕は『彼女』の書いた小説を読んだことがある。僕の心の中と、とてもよく似た話だ。でも、『彼女』の小説の方が大人だ。ずっと洗練されていて綺麗だ。突き離すでもなく、馴れあうでもなく。そして、微妙に優しい。でも、何処か『彼女』の、『奇妙になりたい』と言う意識が伝わってくる。特別だ、とか、何か高尚な者になりたかったのだろう。そういう、気配がする。
 『彼女』は、多分一線を越えられなかったのだ。
 だから、僕の父の妻になり、僕のような子供を持ち、ありきたりな母になり、思考だけが高尚になってしまったのだろう。
 僕はそんな『彼女』が好きなのだ。もし『彼女』が、『高尚なひと』になっていたら、顔面を張り倒していたかも知れない。僕は、多分勝てない物が嫌いだ。自分の土俵に乗らせない奴も。大人でありたいから、そいつの前では子供になってしまう『高尚なひと』が嫌いなのだ。


 僕は小説を書く。『彼女』が僕の小説を誉めたことは一度もない。わざとらしいだとか、つまらないだとか言う。確かにその通りだと僕は言う。『彼女』が見え見えで面白くないと言う度に相槌を打つ。
 僕はそうやって、大人であるふりをする。でも、心の中は苦しくて、吐きそうで、『彼女』の詩を口ずさみながら溜息をつく。

 『他に上手く書ける人がいるのに、私がどうして書かなきゃいけないの? そう思ったの。』

 『彼女』は、そして小説を書くのをやめたらしい。今から思えば、『彼女』なりのジレンマと負け惜しみだったのだろう。『彼女』は面白くない、と言った。自分の書いた物は先が見えるからつまらない、と言っていた。そして、僕の話も。読み返してみると、『彼女』の目指していたものと僕の目指しているものは似ていた。何者にも捕らわれず、時の制約無く、自由に生きる人々。何処か危うくて、壊れている人々、いわゆる『高尚なひと』だ。
 『彼女』は僕の小説を面白くない、と言った。
 僕もそう思う。見え見えで甘っちょろい。そして、少しだけ壊れている。
 でも、僕は自分の書く物が好きだ。『彼女』の話も。
 僕はまだ子供で、だるくて、罪深い。
 『彼女』は違う。
 でも、僕は……――
 それを、そのだるい罪深さを、忘れたくないのだ。


















『未来は誰の心の扉も平等に叩くって言うけどさ、
 あれって、都合の良い言い訳じゃない?』


















        04
 『彼女』が死んだ時のことも、話そうと思う。
 『彼女』が急死したのは三か月前の冬の日だった。喉頭癌だった。父は覚悟していたらしく、冷静だった。取り乱したりなどしなかった。妹たち二人は泣いていた。
 僕は、ただ『彼女』が死んだと聞いたとき、どうしようもなくなってしまった。ただ、父の顔をまじまじと見つめ、妹たちの泣く声をバックミュージックにして、心をモノクロにしていた。
 『彼女』が死んだ。
 それは、三か月前の冬の日のことだった。その前は、受験頑張れ、と言って笑っていた。その前は、祖父の株式のことで悩んでいた。その前は……、その前の前は……。
 あぁ、でも。
 もうその後はないのだ。
 『彼女』が死んだ。
 僕はどうしようもなくなった。『彼女』、死んだんだ。そう、漠然と考えた。もう、あの人はいないんだ。父のことや妹のこと、僕のこともおいて、逝ってしまったのだ。


 エリック・クラプトンをかけた。
 大音量で。
 『彼女』がいつか言っていた秘密の図書室……、つまり本だけを集めたマンションの一室、に鍵をかけて。
 ずっと、エリック・クラプトンを聴いていた。
 『彼女』の小説を読んだ。詩も読んだ。十数冊の大学ノートを机の前に平積みにした。

 そうして、僕は慰めるようなエリック・クラプトンの声の中で泣いた。
 日溜まりが、僕のそばのベンジャミンの鉢に染みついていた。葉がたくさん散らばっていた。
 『彼女』の小説はどれも書きかけで、尻切れなものばかりで、千切れるような感じがした。
 そうして、『彼女』は僕の中で死んだのだった。


 僕は『彼女』の葬式には出なかった。『彼女』は骨だけになり、骨も墓へと移って僕の前から消えてしまった。『彼女』の知り合いが時々やってきて、僕の所にお悔やみを言っては去った。父は痩せたようだった。二人の妹は泣きはらした目をして慰め合っていた。
 そして、僕は本の山に囲まれて死にそうだった。
 何を見ても、何を読んでも、僕がどう考えるのかわからない。『彼女』がいなきゃ、わからない。『彼女』は何処へ行ったのだろう。僕の思考は空転し続けた。

 『帰らなきゃ。でないと、二度と戻れなくなる。』

 僕は『彼女』の言葉を繰り返した。多分、僕はもう帰れない。僕へ還ることはできない。『彼女』は、僕に何も教えてくれなかった。『彼女』は死んでしまった。
 僕は、それが今でも許せない。
 僕はまだ子供で、依存症だった。
 何も見えなかった。
 ただ、『彼女』のその全てが戻ってこないかと思っていた。
 言うなれば、余りにも唐突だったのだ。
 そして、理不尽で、冷たかった。
 電車の音が聞こえなくなる一瞬のように、『彼女』は僕の全てからかき消えてしまったのだ。



















『どうでもよく生きている奴と、
 どうでもよく死んでいる奴と、
 そうでない奴と。』

















        05
 僕はそれからずっと本だらけの例の部屋で過ごした。『彼女』の遺産だった。
 誰も尋ねてこなかった。時々、電話の音だけがかしがましく響き、僕が出ないでいると切れた。僕は『彼女』の残した本を読んでいた。数えたら千二百七十一冊あった。同じ本もあったから、全部で、多分読むことになるのは、千二百冊程度だ。
 僕は、がむしゃらだった。
 ただ、縋り付くものを求めるように、それへと執着したのだった。


 そうして読み続けるうちに、僕はその紙切れを見つけたのだった。『アデン・アラビア』という本から出てきたそのメモには、明らかに『彼女』でない字で、北海道の住所と喫茶店の店名があった。

 『帰らなきゃ。でないと、二度と戻れなくなる。』

 僕は、途端に恐ろしくなってしまった。その、『彼女』の台詞が何度も頭の中で再生された。ただ、恐ろしくて恐ろしくて、僕は靴をひっかけて外へと駆けだした。走って、走って、家へと戻った。
 父が随分と青くなった、そして痩せて一気に老けた顔をして、僕を出迎えた。僕は黙って家へ上がり、『彼女』の仏壇のある和室へと足を運んだ。そして線香を焚いて、遺影へ手をあわせた。
 父が徐に口を開いた。
「母さんな、咲巳のこと、ずいぶん評価してたぞ。」
「うん。」
「あの子に任せれば、安心だって言って笑ってた。」
「うん。」
「……ひどいな。」
「……うん。」
 僕は父と顔を見合わせた。父は僕の肩に手をおいて、静かに泣いた。僕はどうしようもなくて、『彼女』の写真を見ながら涙を流した。

 『彼女』が死んだ。
 それは、三か月前の冬の日のことだった。


 今でも、朝起きれば『彼女』がいる気がする。
 同じ本を買ってしまったと、不機嫌だったり。
 弁当を作るのが面倒くさいと、愚痴を言ったり。
 歴史はこんなに凄いのだと、やたらと僕を呼んだり。


 『彼女』が死んだ。
 それは、三か月前の冬の日のことだった。
 僕は今でも時々、あのマンションの一室にこもり、大音量のエリック・クラプトンと共に怠惰な時間を過ごす。


 モトコさんが死んだ。
 僕の唯一の『高尚なひと』が死んだ。


 モトコさんが死んだ。
 それは、僕が高校三年生だった頃の、ある冬の日のことだった。




               《『mokusou』 closed》









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