聞いていたつもりはなかったが、耳に入ってきたTVの天気予報では、今日は午後から雨になると言っていた。
そうと知っていて傘を持たずに学校に行った結果がこれだ。面倒臭いを理由に行動したおかげで学校の玄関口で雨宿り、という余計に面倒な事態になってしまった。
とはいえ、こんな場所で待つのがかったるいだけで、早く帰宅したからといって別段することがあるわけでもないから、どっちでもいいことだ。俺にしてみれば時間をつぶす所が少し変わった程度に過ぎない。
雨を降らせている乱層雲が作る灰色がかった空が、今の俺の心境を真似しているように思えて、少しムッとした。
しばらくは雨足が弱まりそうになかった。このままここに突っ立っているのも馬鹿らしいので、濡れるのも構わずに帰ることにした時、背後から聞き覚えのある女の声がした。
「菊池君。」
生徒玄関には俺1人しかいない。そういう確証があって、声のした方に振り返った。相手は同じクラスの片山だった。
片山は左胸に校章の刺繍が施されている青色のジャージ姿だった。何部に所属しているかは知らないが、今日はこの通りの雨だから室内練習の最中なのだろう。走り込みをしていたのか、肩で息をしている。
「雨なのに傘差さずに帰るの?」
「傘をなるべく持ち歩かない主義だからな。雨に濡れたところで、風邪を引いても死にはしない。」
多少突き放した言い方に、彼女は少し困惑した表情を見せた。
「傘貸そうか?私が帰る頃には雨も上がってると思うから、使っていいよ。」
「別にいい。そんなに強く降っているわけじゃない。」
「そう…。」と彼女はつぶやくように言うと、別れの挨拶をして去っていった。
どういうつもりで彼女が声をかけてきたのかよく分からず終いだったが、いちいち詮索する気にはならなかった。
今一度空を見やる。依然として雨は止みそうになかったが、この中を駆けていったところで、さしてずぶ濡れになるとは思えなかった。だから走らずに歩いて帰ることにした。
帰路が半分くらいにさしかかったところで、急に雨粒が倍以上になって降りかかってきたので、雨をしのげそうな建物に駆け寄った。
小さいビルと言っていい大きさのその建物は、各階層の境界辺りがそれぞれ突出した作りになっており、今の場合で言うと、1階と2階の間から突き出した部分のおかげで、その真下に当たるこの位置は雨に濡れずにすむようになっていた。
雲は益々厚みを増していき、辺りを一層暗くする。更に土砂降りになることはあっても、あと数分かそこらでは止みそうにもない。
「ふぅ…。」と俺はため息をついた。
既に今年2回目の衣替えを迎えて学生服の上着を着るようになったとはいえ、それほど寒くない日が続いていた。けれど、今日は陽が全く射さないため気温が上がらない。こうして動かないでじっとしていると、服の濡れた箇所が蒸発する度に熱を奪っていくので寒気がする。
ポケットに両手を突っ込んで僅かばかりの暖をとる。
――ん?
唐突に自分の現在地に違和感を覚えた。
「こんな所に、こんな建物があったか?――」
自分が背を向けている建物に向かって呟くように言った。それは紛れもなくこの小さいビルを指す。
俺はビルの方に向き直った。一言で言ってみすぼらしい建物だ。
コンクリートむき出しの灰色の壁は随所に黒ずんでいて、その具合と来たら不気味以外の形容を持ち得ない。窓がやけに小さく、ちゃんと役割を果たしているのか疑問だった。
そして入り口であろう、これまた貧相な仕立てのドアの上には看板があり、半ばかすれた文字で、
『ねはんクリニック』と書かれてあった。
高校に入学して以来、歩き続けてほぼ2年になる通学路の途中であるにもかかわらず、ここに病院があるなんて今の今まで知らなかった。が、こう地味ではそうあっても不思議ではないな、と思った。
しかし気になったことがそれとは別にあった。建物についている小さい窓があまりに暗すぎるのだ。この天気では、中で仕事をするには明かりを付けていなければならないはずだ。終業時間としてはまだ早すぎる時刻だが、かといって休業日と書いた札が掛かっているわけでもない。
ここでふと1つの結論に至った。
この病院はとっくの昔から潰れていたに違いない。病院のこのぼろさ加減はそれを十分に語っていると言って良い。
そう判断すると、俺はドアノブに手をかけた。どうせ雨で身動きがとれないのだから、暇つぶしにこの中を探検してやろうと思ったのだ。
鍵が掛かっていることも可能性としては考えられたが、所詮それは可能性に過ぎなかった。ノブもドアの蝶番もとても滑らかに動いて見せた。
開かれた扉の先に待っていたのは、――
目の前には非常に薄暗い空間が広がっていた。ドアを開けた所から入る光でさえ数メートル先を照らせない。例の小さな窓からの光なんて正にあって無いような程度だ。部屋の中にはもう1つだけ光源があった。非常口を示すランプと思しき緑色の光が、奥の方で点滅しているのが見える。いずれにしろ、部屋の内部を知るには不十分な光量だった。
室内を確認しようと目を凝らしていたので気付かなかったが、中からは、腐敗臭に埃っぽさを加えた、いかにも身体に悪い空気がこっちに向かって流れ出してきていた。俺はたまらず顔を背けて咳き込んだ。
刹那、その咳き込む声に反応したかのように、部屋の奥から人の声が聞こえた気がした。驚いた俺は息を潜め、もう一度その声らしきものを聞き取ろうとした。
「どうぞ中に入ってください。」
焦点を定められない暗闇の奥から、男の声で今度ははっきりとそう聞こえた。
想像以上の環境の劣悪さに、さっきまでの冒険心はかなり萎えていたが、まだ僅かに残っていたそれは、俺にこの場から引き返すことを許さなかった。
ひどい空気をなるべく吸い込まないようにして、俺は病院内へと足を踏み入れた。
とりあえずは非常口のランプであろう光に向かって、足先で安全を確かめるようにして慎重に歩みを進めていく。部屋を支配する闇は何もかもを飲み込んでしまうかのではないかと思えたが、実際のところ、この部屋には何も無いようだ。何にも蹴躓くことなく目標の明かりの下まで容易に辿り着くことが出来た。そして明かりの正体はやはり非常口のランプだった。
非常口の前に来てすぐに、俺の背後の方でカチッというスイッチが入ったような音がした。後ろを向くと、頼りない緑色光でも、さすがにそこが、ある部屋の入り口であることが分かった。入り口についているドアは少しだけ開いており、ドア上のプレートには『院長室』と書かれてあった。
それと同時に院長室の中で明かりがついたのが見えた。どうやらさっきのスイッチ音はこれのようだ。
「どうぞ中へ。」
さっきと同じ声でずっと鮮明にそう言われた。この部屋に声の主が、つまり人がいるのだ。
こんなところに人がいるとは到底思えなかったから一瞬躊躇したが、今更後には引けなかった。この場から逃げることに不思議と身体が拒否反応を示したのだ。一呼吸おいて意を決すると、俺はドアを開けて院長室へと入っていった。
明かりは机の上に備え付けられているスタンド1個だけだった。当然、部屋はこれまでと同様に全体として暗い。スタンドはただ、それがおかれている机と俺がこれから腰掛けるであろう丸椅子と、そしてこの病院内でおそらく唯一の人間の片腕を照らしていた。
「まあ座ってください。」
男性の声は、この不気味な病院の主に似つかわしくないほどハキハキとした明るい声だ。年齢は30代後半といったところか。
俺は言われるままに、それでも依然として少なからぬ警戒心を解くことなく、丸椅子に座った。椅子が軋む音が部屋に響く。響き方からしてあまり広くない部屋らしい。
椅子に座ってもなお、ライトが照らし出す男の姿は右手1本だけでしかない。まるで右腕の肘から先の部分を残して、他の部分を全て魔法か何かで消してしまっているように思えた。自分の目に映るのは机とライトスタンドと右手だけで、あとは暗闇。そのあまりに奇妙な光景に、自分が別世界に飛ばされてしまったかのような錯覚を覚えた。
あれこれととまどっている俺のことなんかお構いなしに、男は話を始めた。
「『ねはんクリニック』へようこそいらっしゃいました。ここには院長の私1人しかいませんが、宜しくどうぞ。」
院長を名乗る男が話す度、欧米人のオーバーなボディアクションみたいに右手が引っ切り無しに動くので、あたかも右手が男そのものに思えてきた。
「突然ですが、――」
よく訳の分からない無駄話をしていたかと思うと、本当に突然「右手」はそう切り出してきたので、何事か、と俺は身体を少し強張らせた。
「貴方、心を病んでいますね。」
こちらの顔色を窺うかのように少し間を空けてから、続けて言った。
「尤も、心を病んでいるからこそここにいる。ここに辿り着く人は皆心を病んでいるのですから、ある意味当たり前のことなのです。」
「ちょっ、何を言い出すのか――」
「右手」は俺の声を遮って更に言った。
「心の病は大変です。偽薬(プラシーボ)はあれど、特効薬がありませんからね。
心の病はやがて身体の病を引き起こしてしまいます。身体の病が心の病を引き起こしたときは、薬で身体の病の方を治せば心の病の方も治りますが、心の病が先の場合はそうもいきません。ひいては、心の病からの身体の病が更なる心の病をもたらす、という悪循環にも繋がりかねません。
当クリニックでは、患者さんの心の病だけを専門に診る、『死科』という、これまでになかった新しい科だけをやっています。名前の方は、この病院名然り、私のネーミングセンスを理解してもらうという形で納得してください。」
そう言うと「右手」はハハハと笑ったが、はっきり言ってとても笑えたものじゃない。
もはや今までの言動から、こいつがやばい人間であることが嫌なくらいに分かった。
俺はすぐさま立ち上がってこの場から一目散に逃げ出そうと試みた。しかし、それは出来なかった。自分の意志とは裏腹に、足が全く動かなかったのだ!
この寸劇に気付いたのか、「右手」はさっきとは打って変わって怪しい笑い声を上げて見せた。
「帰ろうとしても無駄ですよ。貴方の心の病んだ部分が、私に診てもらわずしてこの場を去ることを拒んでいるのですから。」
「右手」がそう言うやいなや、今度は全身が、冷たい手で押さえつけられた感じがして鳥肌が立った。そして次の瞬間には俺の身体が意志のコントロールから完全に独立してしまったかのように、微塵も反応を示さなくなってしまった。
俺は不意に息苦しくなった。身体が俺自身が望むのとは異なったペースで呼吸をするからだった。
動かない身体に、襲いかかる窒息感。全てがマイナスのこの状況下では、さすがに手の打ちようが無かった。
「右手」は話を続けた。
「死科は精神科とは大きく違います。何故なら、死科では患者を診るだけではなく、薬を処方します。それも効き目がちゃんとある薬です。
ただし、この薬はまだ厚生省では認められてはいませんが。
でも大丈夫ですよ。使用法さえ守っていただければ絶対に安全です。」
聞き捨てならないことを次々と口走った挙げ句、「安全」と言われたところで、その信用度は限りなくゼロに近いのは明らかだ。
こいつの話を聞いていると気が狂いそうでたまらなかった。なおもペラペラとしゃべり続ける「右手」を完全に無視して、俺はこのあとの我が身のことを案じ続けていた。
するとやがて、ずっと息苦しかったせいか、「右手」の声が遠くなって、そして意識が薄れて…。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
意識が戻ってきた俺がまず考えたのはそのことだった。
もう「右手」の声は聞こえない。息苦しさも無くなっている。鼻を刺激して止まないあの臭いも消えている。それならここは一体何処なのだろう。
あの世ではないことを祈りつつゆっくりと目を開けた。
……。
…朝だ。
大量の光を久々に目に受けてそう思った。ゆっくりと広がっていく視界に映ったのは、見慣れた天井だった。
寝起き特有の気怠さは瞬時になくなって、俺はガバッと飛び起きた。
手に握られていたのは俺の布団だった。辺りを見回してすぐに、ここが俺の家の俺の部屋であることが確認できた。
「夢…だったのか?」
こういうときに実は夢オチだった、というのは俺が一番嫌いなパターンなのだが、今回ばかりはそうであることを願った。
心身が分離していたときの恐怖を思い出して、両手を見た。指の1本1本がちゃんと思い通りに動かせたので一安心した。次に探るように身体を撫で回してみたが、特に異常は無さそうだった。
ようやく気持ちが落ち着いたので、軽く伸びをしてベッドから降りた。
目の前にはいつもと同じ場所に学校へ行く用の鞄があった。今はそんな些細なことが俺を何よりも安心させてくれた。
しかし、何気なく机の上に目を向けた瞬間、身体がぴたりと止まった。
愛用の目覚まし時計の針が午前8:02を指していたせいもあったが、それだけではなかった。その隣に、金平糖そっくりな物が沢山詰まった、立方体のガラスの箱があったのだ。もちろん、こんな物を持っていた記憶はない。親に聞けば早いのだろうが、俺はもう何年も前から親と冷戦状態になっていて、そうする気にはなれなかった。
とにかく、今はもうあれこれと悩んでいる暇はなかった。光速で制服に着替えると、とりあえず鞄にあのガラスケースを詰め込んで1階に下りて、今度は亜光速で顔を洗い、歯を磨くまで合計10分ちょっとで家を飛び出して行った。
学校にはすんでの所で遅刻せずに済んだ。だが、遅刻しなかったのはいいが、箱のことばかりが気になって、結局授業なんてさっぱり耳に入らなかった。
普段は1コマ1コマが無限地獄に思える授業も、こう考え事をしていると流れるように過ぎていって、気が付くともう昼休みになっていた。
しかし、病院に入ってからの記憶がほとんど無くなっていたため、結論が何も出せず終いだった。
やはり、唯一病院と関係のありそうなあの箱が手元にないと、何も思い出せないのではないだろうか。そう考えると、俺は購買部のパンと飲み物と箱を携えて、滅多に人の来ない校舎裏へと駆けていった。
箱を手にとって眺める頃にはパンと飲み物はすっかり無くなっていた。昨日の夕食を食べた記憶も無かったため、丸1日ぶりに食事を採った感じすらした。
箱は濁りも曇りもない完全な無色透明で、工芸品のような彫り物がなされている。その中に入っている、ざっと100粒くらいの金平糖は、これまた心洗われるように美しい透明のピンク色をしている。
どちらも飽きることなくしばらくの間は見入っていられる物だったが、金平糖の方は特に俺を魅了してやまなかった。
あれからどれくらい金平糖を見ていたのだろうか。意識が若干朦朧としてきた。
それにつれて金平糖の美しさは増していくばかりだった。そう、それはあまりに美しく、とても美味しそうだった。すると突然、俺の心臓は激しく脈打ち、呼吸が一気に荒くなった。いつぞや体験したばかりのあの息苦しさが再び舞い戻ってきたのだ。
「がっ、…はあっ、はあっ、はっ!」
次の瞬間の光景に俺は目を見張った。手の感覚が無くなったかと思うと、激しく痙攣しながらも、ケースを開けて中の金平糖を取り出そうとしていたのだ。またしても身体が自分の意志とは関係無しに動いてのことだ。
震える右手が、金平糖を1つ取り出すと、今度はそれを俺の口に運ぼうとする。俺にはそれを止めることが出来ない。金平糖が唇に当たったとき、病院であの医者の右手が言ったことを1つ思い出した。
『ただし、この薬はまだ厚生省では認められてはいませんが。』
もしもこの金平糖が奴の言う薬だとしたら…。冗談じゃない!認可された薬だって飲み方を誤れば死に至ることがあるというのに、あまつさえ認められてもいない薬なんて絶対に飲むわけにはいかない。どんな副作用で苦しみ悶えるか分かったものじゃない。それ以前に、下手すると天国直行便になる可能性だって大有りだ。
そんな俺自身の悲痛な叫びをあざ笑うように、口が大きく開いていく。そして右手が容赦なく口腔内に金平糖を放り込んだ。それが舌先に触れたかと思うと、勢いよく挟んできた上下の両の歯によって瞬く間に粉々に噛み砕かれていく。その断片が舌の上に転がり込んできたと同時に俺は思わず呻いた。
「うぇぁっ!」
初めて味わう金平糖は洒落にもならない代物だった。不味い。やけに後味の悪い苦みと、硫黄を煮詰めたような強烈な悪臭とが口の中いっぱいに広がり、それに喉の奥を指で直に突いた時の激しい嘔吐感を伴った。
自然と目に涙が溢れ、呻き声が止まらない。
地面に向かって今すぐにでも吐き出したかったのだが、身体はそれとは逆に上を向いて、咳き込ませることもなく確実に極悪な金平糖を嚥下していく。
その様は拷問といっても過言ではなかった。
金平糖はちょうど普通サイズだったとはいえ、それを粉微塵になるまで相当噛み砕いてから飲む、を繰り返すのだから、その間、生きた心地がまるでしなかった。
美しい物には棘がある、とはよく言ったものだが、これが単なる棘だったほうがどんなに楽なことか。一瞬たりともこいつを美味しそうだと思ってしまった自分を憎まずにはいられなかった。
金平糖を完全に飲み干した頃にはもう身体の自由は回復していた。
しかし、戻ってきた身体は妙に疲れた感じがした。それと金平糖による精神的ダメージもあって、午後の授業は午前以上に散々だった。幸か不幸か、学校にいる間にそれの副作用みたいなものは起こらずに済んだ。
さっきの一連の出来事で確信が持てた。あの金平糖のような薬を俺に差し向けたのは、間違いなく昨日の医者だ。
放課となった今から即行で奴の病院に乗り込んで、金平糖の残り全てを奴に飲ませて地べたを呻きながら這いずり回らせずには、腹の虫が収まらない。
昨日とは正反対の、スカッと晴れた空の下を怒りに身を任せて駆けていった。
ところが、昨日と全く同じ道を通っているはずなのに行けども行けども、あのオンボロ病院が見つからなかった。途中で戻ったりもしたが、とうとう見つからないまま家に着いてしまった。自転車で再び探しに行っても良かったのだが、陽が沈みかけていたのでやめることにした。日没後はあの医者のけったいな魔力もどきの力が、より強力になっているような気がしたからだ。殴り込みをかけるなら、日中の方が何となく良い気がした。
今日はそのあと、夕食後と就寝前の計2回、身体に金平糖を飲まされた。
次の日から、薬の服用ペースは食後毎回の1日3回に落ち着いていた。
初めて金平糖を飲まされるようになってから4日が経過していた。毎日念入りに身体を調べてはいるが、やはり異常は見つからない。医者が服用法を間違わなければ大丈夫だと言っていたのを思い出して、とりあえずは正しい飲み方をしているのだろうと思うようになっていた。とはいえ、あれを飲んだ直後は相変わらず悶える羽目になるのだが。
その後も病院の在処、医者の居所は分からず終いだった。2、3日前までは、奴にも薬を飲ませて同じ目に遭わせずにはいられなかったのに、その怒りは不思議と日に日に薄れていった。そして1週間後にはもう医者のことなんてどうでも良くなっていた。
それと同時に、俺自身にある変化が起こっていた。それは身体的な変化ではなく、精神的なものだった。
心が晴れやかになってきた。
薬の服用時以外は、毎日が頗る清々しい気分なのだ。こんな感じは、悩みを悩みと思っていなかった小学生の時以来に思われた。
朝に気持ちよく目が覚めるようになった。頭がとてもすっきりしていて機嫌が良い。朝食も毎日しっかり採るようになった。おかげで学校でも1限目から冴えた状態で授業を受けられるようになっていた。
クラスのみんなとよく喋るようになった。今まで自閉気味で学校には友達と呼べる人がほとんどいなかった俺だが、自然と自分から声をかけるようになり、今ではクラス全員とすっかり打ち解けていた。いつの間にか先生達からの信頼を得るようにもなっていた。教室にいることが、学校にいることがこんなにも楽しくて、充実しているのはこれが初めてのことだ。
そして何よりも俺が自分が変わったと思えたのは、親と和解できたことだ。
どちらからとはなしに、俺が高校に入学した頃には既に互いに口を利かない関係になっていた。理由は当の俺にも未だ不明だった。ただ、段々と親を鬱陶しく思うようになり、時として罵るようになっていて、特に父親とは顔を合わせる度に醜い口論が繰り返された。母親はそんな俺への接し方が分からず、横でおろおろするしかなかった。意図せずして出来上がった深い溝を埋める手段も見つからないまま、長い月日が経っていたのだ。
どういう風に問題が氷解したのかははっきりとは覚えていないのだが、気が付くと、同じ食卓を囲むようになり、昔通りの普通の家族の会話が交わされるようになっていた。
一時期は家にいることが非常に苦痛に感じられて、何度か発狂しそうになったこともあったが、お互いの蟠りが無くなった今、家はこの上なく居心地のいい場所となった。
学校で御機嫌なのも、家での生活が変わったことによる影響を大いに受けているのだろう。
全てが旨くいくようになっていた。毎日が楽しくて仕方なかった。こんな調子だから、いつからか医者のことなんて頭の中から消え失せていた。
薬を飲み始めて2週間になろうというときに再び変化が訪れた。
それまで薬は1日3回服用していたのだが、ここに来て起床後すぐの1日1回に変わったのだ。
それだけではない。この世のものとは思えなかったあの金平糖の味が、最初の頃に比べて、無いも同然になっていたのだ。慣れたのかと考えたりもしたのだが、それにしてはあまりに極端な変わり様に思えた。
それと、これは何も昨日、今日に始まったことではないが、飲んで3日になる頃からその直後にある種独特な膨満感を覚えるようになっていた。空いた腹が満たされていく感じとは違っていて、こんな表現が適切なのかは分からないが、強いて言えば、心の隙間が満たされていくような感じがするのだ。
高校に入って、自分の居場所が無くなってから特に感じるようになったのは、自分の心の何処かに、ぽっかりと空虚な穴のようなものが開いた感じがするようになっていたことだ。初めのうちは見向きもしなかったが、やがてそれは拡大していき、俺自身を蝕んでいった。そしてそこから来る苛立ちがあって、心を病むようになったように思える。
あの薬は正に特効薬としてその穴を直に埋めていくような感じがした。
「菊池君って最近すごく変わったよね。」
クラスで仲良くなった男女複数人と一緒になって、昼食を食べるようになっていた。机を隣に並べる片山が、俺にそう話を切りだしてきた。
「どういう風に?」
明るくなったとか、よく喋るようになったとかその類の変化を指すのだろうが、他の人にはどう変わって見えているのか敢えて聞いてみたかった。
「よく笑うようになったし、あととても話しやすくなったよ。ちょっと前までは、『俺は1人で生きているんだ、ほっといてくれ』って感じしかしなかったから。」
後半に関しては御名答。片山は実に人を見る目が確かなようだ。
「そうだな、近頃心身共に充実している気がするからな。絶好調、ってやつか。」
俺は軽く笑うと、親が作った弁当を口にした。
その日もみんなと笑いの絶えない昼食となった。
放課後、帰宅しようと下駄箱を開けると、そこには見慣れない手紙のようなものが入っていた。何かと思って取り出してみると、とても綺麗な字で、
『菊池 浩介さんへ』と書いてあった。
封筒の裏には『中井 未央』と書いてある。差出人の名前だろう。
紛れもなく俺宛の手紙のようだ。
その場で徐に開けると、中に入っている便箋を取り出した。
中身は、読んでいてこっちが少し恥ずかしくなるくらい、俺のことをべた褒めした内容のラブレターだった。最後の部分には、今日の午後4:30に西棟校舎裏に来て欲しいと書かれていた。
ラブレターなんてもらうのは生まれて初めてのことだ。嬉しさと期待と多少の不安が入り交じって悶々としているうちに、約束の時間になってしまった。俺は慌てて西棟に向かって走っていった。
向かった先で待っていてくれたのは、俺が予想していた以上に可愛い子だった。
「あの、先輩…。」
その子の口から紡ぎ出された愛の告白をしっかりと聞いた俺は、それを快諾した。
いつもより心なしか暗めな声のトーンで、片山が俺に声をかけてきた。
「未央ちゃんと付き合ってるって本当?」
「そう、だけど。」
少し違う片山の調子にちょっと驚いたため、返事がぎくしゃくしてしまった。
「とっても良い子なんだから泣かしたりしちゃダメだよ。」
「あ、ああ。分かってる。大事にしてるよ。」
それを聞いた片山は軽く微笑むと自分の座席に戻っていった。
その笑顔が、何処か悲しみを無理に堪えているように思えたのは気のせいなのだろうか。
未央と付き合いだしてから数日経っていた。毎日話している電話で彼女から、片山と同じ陸上部の後輩だということは聞いていた。だから片山が俺と未央との関係を知っていても別に不思議なことではなかった。
片山が俺に素っ気なくなってきた時期が、未央と交際し始めた頃と重なっているように思うのだが、2人の間に何かあったのだろうか。
色々と思案してみたが解答は得られそうになかった。心が晴れやかで、頭が冴えているつもりでも、やはり女心は到底理解し難いもののようだ。
と、珍しく頭を悩ませているところに、丸めた教科書の一撃が飛んできた。
「何だよ、齋藤。今の、結構勢いついてたぞ。」
俺の頭を叩いた教科書を手に、隣には片山の女友達の齋藤が立っていた。
「プレイボーイに天誅をお見舞いしたのよ。」
「いきなり叩いてきて、何が天誅だよ。」
「あんたねぇ、自分が何したのかまだ分かってないようね。」
「分からん。お前に恨まれるような真似をした覚えは全くないぞ。」
俺の飄々とした態度に頭に来たのか、むんずと俺の腕を掴むとそのまま廊下までずるずると引っぱり出した。
以前から口調といい、外見といい男勝りな奴だと思っていたが、腕力まで男並とは。
「大きな声じゃ言えないけどね、あんた最近女子の間で評判良いんだよ。」
「そいつは光栄だ。尤も、もう売却済みだけどね。」
未央くらいに可愛くて気だての良い子が彼女として側にいてくれるなら、浮気する気になんて到底なれない。
そんな俺の浮かれた心に釘を刺すかのように、齋藤が鋭くこちらを睨んだ。
「真奈美のことはどうするつもりなの?」
真奈美とは片山の下の名前だ。
「どういう意味だよ、それ。」
そう言いつつちらりと教室の時計を見た。昼休みが終わるまでまだ10分もある。暫くは解放されそうもなかった。
「まだ分からないの?あの子はね、高校入ったときからずっとあんたのことを気にかけているんだよ。」
婉曲的な言い方だったが、鈍い俺でもさすがに、片山が俺のことを好きなのだということが分かった。
言われて初めて、今更ながら納得できた。確かに片山はしばしば俺の近くにいた。薬を手に入れた日もそうだった。あらゆる他人と距離を置いていた約2年間に、最も多く会話を交わしていたのは間違いなく片山だ。俺がどんなに冷めた返事をしても、相手にしていないときでも構わずに俺に話しかけてきた。俺が明るく生まれ変われたとき、片山ももっと明るくなった。
齋藤との会話はそれっきりで終了したが、事実を知って受けた俺のショックは大きく、久々に午後の授業に全然集中出来なかった。その後は当然、片山の顔を見ることも出来なかった。
家に帰った後もひどく落ち着かなかった。夜に未央に電話していた時も、今度の日曜に遊園地でデートをする約束をしたことだけはちゃんと覚えていたが、終始上の空で、他にどんなことを話していたのかほとんど覚えていなかった。
片山を傷付けた。
頭の中で繰り返しそう呟いた。浮かぶのは、片山の笑顔が凍り付いて崩れていく様ばかりだった。未央とはまた違った愛くるしさを持つ微笑みが壊れて無くなる。心の臓がギュッと締め付けられる感じがして居たたまれなくなる。
俺は既に精神的にかなり疲弊していた。
「そういえば、――」
今日はまだ薬を飲んでいなかった。時計を見るといつの間にか日付が変わっていて、午前1時になろうかというところだった。
机の一番下の引き出しを開けて金平糖の入ったガラス箱を取り出した。見ると残りはちょうど半分程度になっていた。
いつもなら日付が変わる前に例の如く身体が勝手に動いて薬を口の中に放るのだが、両手を眺めてみても一向に動き出す気配がない。ここ最近は薬の味がしなくなったばかりか、服用のサイクルも次第に遅くなるなど、身体が薬をもう必要としなくなってきた気がする。考えてみれば、心の空虚な部分もいつからか気にならなくなっていた。心はいつも十分に満たされた感じがしていて、隙間なんか無いように思われた。
薬から解放された。とても安心した気持ちになれたが、折角の習慣をぴたりと止めてしまうのは、まだ少し惜しかった。何しろ飲み始めに散々な思いをしたのだから尚更だ。
そう思って金平糖を見ると、失われることのない美しい輝きを放つピンク色の宝石に再び魅了され、すっかりその虜になってしまっていた。一時は憎らしく思ったあの色が、俺をこれでもかと誘惑する。
これまた金平糖に負けず劣らず素晴らしい彫刻がなされたガラス箱の蓋を手に取ると、愛でるようにゆっくりと開けた。箱の中は無臭である。金平糖の、以前の強烈な臭いは、口の中に入って砕かれてからのものだ。
光り輝く金平糖をケース越しにではなく、直に手に取って見ても、手は少しも動こうとしない。俺は半ばうっとりとしながら初めて自分の意志で薬を口に入れた。片山のことでもやもやとしている自分の心を和ませてくれることを期待しながら、薬を噛み砕いた。
――!
俺は自分の口の中で起こっていることが俄に信じられなかった。
「美味しい!」
思わずそう叫んだ。
口の中には旬の柑橘類の爽やかな香りが広がり、さらりとした口当たりは、舌の上にしつこくない上品な甘さを乗せていく。ほっぺたが落ちそうなくらい、とはこのことを指すのだろうという確証さえ持てるほど、金平糖は美味しかった。初めて飲んだ時のえげつないまでの不味さは何処かへと吹き飛んでしまったようだ。
しかし、至福の時は1分と持たずに終わりを告げてしまった。
たまらず俺はもう1個を2本の指で摘むと、再び快楽の世界に入り浸った。
結局その日は10個も金平糖を食べてしまった。
舌が麻痺しそうなくらいになるまで至高の美味を堪能した俺は、片山のことなんかどうでも良くなっていた。
次の朝、俺は頭が痛いと親に言って学校を休んだ。もちろんそれは嘘だ。親が頭痛薬を置いて、2人とも仕事に行くのを確認すると、すぐにベッドから飛び起きて薬を取り出した。これで今日は1日中最高の時間を迎えていられる。俺は心を躍らせた。
早速今日の1粒目を口に放った。優しくそっと噛み砕いていく。
「あれ?――」
俺はすぐに異変に気付いた。
味が極端に薄くなっていたのだ。当然快感も僅かな程度しかなかった。
不良品を食べたのだろう、と気を取り直してもう1つを食べた。しかし、やはり結果は同じだった。それに味が更に無くなった気がした。
期待が裏切られて頭に来た俺は、今度は2個同時に口に入れた。
すると、一瞬頭の中でスパークが起こったかのような錯覚を覚えた。
「気持ちいい!」
ジェットコースターで急降下したときの快感にも、射精時の性的快感にも似た、俺の貧弱な語彙力では決して形容する術を持たない快感に、足がガクガクと震えた。
その快感の余韻が無くなる前に、もう一度薬を2つ一気に食べた。
ところが、1個だけを食べた時と同様、何の感じも覚えなかった。あっという間に粉々になった金平糖を嚥下した後も何も起きなかった。
そこで今度は5個も口に入れた。
「うあぁぁっ!」
叫びにも似た声を上げると、ベッドに倒れ込んでしまい、その場で意識が無くなってしまいそうになった。
ドクドクドクドク…
動脈が破裂してしまいそうなほどに心臓が激しく脈打ちだしたかと思うと、全身がビクッビクッと痙攣をし始めた。
「あ、…う、ああっ。」
呼吸はただひたすら荒くなるばかりで、まともに空気を吸うことが出来ない。身体はベッドの上でピーンと硬直したまま、死に際の両生類みたいに断続的に大きく痙攣をするばかりで、とても動かせそうにない。
息が苦しい。このまま窒息死してしまうのではないかと思った次の瞬間、
ビュワッ!
脳が、限界量を超えた脳内麻薬を分泌した。と、直感的に思った。それほどまでの押し寄せる怒濤の快楽の波に、僅かに残っていた俺の理性はすっかり飲み込まれて、跡形もなくなってしまった。
死ぬほどの苦痛から一転して訪れた果てしない快楽。その余りの落差に耐えられることが出来ず、もはや完全に気が触れてしまっていた。
貪欲に快楽のみをひたすら貪るだけの1匹の獣と化した俺は、もう人間と呼べる個体ではなくなっていた。
残り少ない金平糖を鷲掴みにして頬張った。口腔内がずたずたになるのも厭わない勢いで咀嚼すると、ごくごくと飲み込んだ。
直後、快楽に打ち震える身体を喜ぶように雄叫びに等しい奇声を上げ、狂ったみたいに部屋の中で暴れ出した。カーテンを引き裂き、本棚の中身をぶちまけ、枕を噛み千切っては、手当たり次第に物を掴んで壁や窓に投げつけるなどして、破壊の限りを尽くした。
暴れ回るのが一通り終わった時、身体が一瞬だけ止まった。
バチン!
俺の何処かで何かが大きな音を立てて破裂したかと思うと、突然その場に昏倒した。
原型を想像することが出来ないほど荒れ果てた部屋の中で、俺は再び意識を取り戻した。
意識を取り戻したと言っても、何かに焦点をろくに合わせられない上、全身がひどく痛んだ。俺はそれでも何とか身体を起こすと、机にしがみつくようにして立ち上がって、フラフラと壁に寄りかかった。鎖骨と肋の骨が何本か、それに右腕の骨が折れているのが分かった。着ている服もとうにずたぼろで、左足はずっぱりと切れた深い傷があって出血していた。髪に何かがこびりついていた。左手で触ってみると、それは固まった血だった。頭の方もかなりの血が出ているようだ。鏡は窓から外に投げ出されたのか見あたらなかった。今はそれが幸いだった。痛々しい顔を見る気にはなれなかった。きっと逃げ出したくなるほど醜くなっていることは分かっている。もうそれで十分だった。
プラスチックのカバーにヒビは入っていたが、時計はまだしっかり動いていた。針は午後4時ちょっと前を指していた。
11月も終わろうとしていたので、割れた窓から吹き込んでくる風はぴりぴりと冷たかった。部屋の気温はとても低い。厚手の服を着たかったが、この様では服を探して着れる余裕がないのは明らかだった。
取り返しのつかないことをしてしまったと悟った俺は、しばしの間呆然とした。
泣き叫びたかったが、出る涙もなかった。本来なら絶望しているところだろうが、そんな思考が出来るほどまともでもなかった。
投げ捨てられず、床に転がっていたガラス箱を拾い上げた。蓋は見あたらなかった。
中には残り1個になった金平糖が残されていた。
箱の口を唇に押し当てると、左手で持った箱を斜めに傾けた。コロコロと金平糖が転がって口の中に入った。
唇の端は裂けていて、口の中も血だらけだった。
最後の金平糖は何の味もしなかった。
とうとう空になったガラス箱を力無くベッドの上に放り投げると、まともに動かない左足をずるずると引きずって、俺は靴も履かずに家を出た。向かうところはただ一カ所――。
それからどうやって辿り着いたのか全く以て不明だったが、次に気が付いたときには、『ねはんクリニック』の入り口にいた。いつの間にか雨が降っていて、空は灰色一色だ。初めてここに来たときの光景と瓜二つだった。
入り口のドアはやはりあっさり開いた。暗い空間が眼前に広がっているのも以前のままなら、毒々しい淀んだ空気もそのままだった。しかし、中から声はしなかった。
十数日前と同様に、緑色光目指して進んでいく。飲み込まれそうな暗闇に萎縮することなく、マスクなしではいられないこの空気ももう気にならなかった。
院長室の前まで何とか着いたが、そのドアを開けると、ノブを掴んだ左手がドアに引きずられ、踏ん張りきれなくて倒れ伏した。立ち上がるだけの力は残っていなかった。
僅かな力を振り絞って、床を這って中へと入っていく。部屋の中は完全に真っ暗で、誰もいない気がした。それでも、何かにすがりつくように更に這って奥へと進んだ。
しばらく進んでから、机は入って右側にあったことを思い出して、方向転換しようと痛む左足を横にスライドさせた。すると足が何かにぶつかって、がらがらと硬質の物が大量に崩れ落ちる音がした。
そのうちの1つだろうか、左手の近くまで何かが転がってきた。それを左手に取ると、形状を確かめるべく、ぺたぺたと撫で回した。
初め球状の物かと思われたそれは、途中大きな穴が2つあって、そのすぐ下の真ん中辺りにもう2つほど、今度は小さな穴があった。更に下には小さな突起のような物がいっぱい並んでいた。大きさと形から考えて、それらはまるで歯のようだった。
…硬質物が何なのか分かった気がした。背筋がぞっとした。念のために丸くなっている所を、今度はさっきとは反対の方向へと撫でていく。すると指先が連続した小さな窪みに触れた。
!
俺は知ってしまった。これは紛れもなく――、
「どうかしましたか?」
突然背後から聞き覚えのある声がした。
せめて最後に奴の顔だけはこの目で見てやろうとしたが、振り返る為の力すらなかった。「先生…、何とか助けてください。」
奴の正体を知りつつも、俺は消え入りそうな声で命乞いをした。
1つには奴をどうにか欺いてこの場を逃れるため。もう1つはひょっとすると魔法のような薬を、俺に再び与えてくれるかもしれないという、叶うとは到底思えない望みが心の片隅にまだあったためだ。
「味がしなくなったら薬を飲むのを止めるように言ったのに、ちゃんと守りませんでしたね。」
今となっては後悔してもしきれない。身を以て体験したことで、使用上の注意がようやくはっきりと分かった。
「あれは心欠損症用の薬、心欠片だと教えたでしょう。
今の貴方は、欠片の採り過ぎで心がすっかり肥大して、もう破裂してしまっています。これでは明日生きていられるかも分かりませんね。
はっきり言って、もう手の施しようがありません。諦めてください。」
「そんな!…この前はいつの間にか気を失って、俺は…、薬のこと何一つ聞いてなくて…。見捨てないでください!」
今出せるありったけの声で懇願した。
背後にいるため、医者の姿は全く見えなかったが、訪れたしばしの静寂は、医者が首を横に振っているように思えた。
「菊池 浩介、誰も君には話していない。私は、君の中の病んでいた心の部分に話していたのです。現に薬を飲んでいたのは、ちょっと前までは君ではなかったはずです。」
話したことのない俺の名前を知っていることに、いちいち驚いている場合ではなかった。
結局、奴の力でも俺の命を救うことは出来ないと言うのだ。
「さあ、君と話す時間は終わりです。君が事切れる前に心欠片をまた採取しなくてはなりませんから。
特注の高価な機械で作るので、手間かかるんですよ、この薬。それなのに全部飲み干してしまうなんてひどいですね。
破裂した心の大半は使い物にならないだろうから、良くて80錠くらいでしょうか。」
そう言うと奴は、人の見えないところで慌ただしく何かの準備を始めた。
しかし、程なくして、
「おや、新しい患者さんのようです。とりあえずこっちは後回しですね。」
別の何かを動かすと、スイッチを入れた。あのライトスタンドのと思われる乏しい光が漏れてくる。俺を衝立のような物で覆い隠したようだ。
数刻して、新しい患者と思しき人物が部屋の中に入ってくる音がした。
誰かは知らないが、近い内に俺と同じような目に遭うのだろう。結構なことだ。苦しみ死んでいくのが俺だけなんてのは嫌だ。もっと多くの人間に泣き叫びながら死ねばいいと思った。
もはや人として間違った思考しか出来ないでいた。今の俺を動かすのは、憎い、恨めしいといった負の感情だけだった。
「………」
新しい患者の声が微かに聞こえてきた。今度の患者は女のようだ。
だが、何処かで聞き覚えのある声だった。
――!
この声は片山だ!間違いない。
そうと分かると、さっきまでの感情は一転して、俺は声を張り上げて彼女にこの場から逃げるよう伝えようとした。
「…んあっ、ふっ、あぁっ。」
しかし、どんなに頑張ってもはっきりと言葉が話せなかった。
「先生、何か呻き声のようなものが聞こえませんか?」
やった!もう少しだ、もう少しで片山がこっちに気付く。
そうすれば、俺は片山を何とか救い出せる。
「か…た、……ま、に、に……げ、…ろ…。」
かすれながらも片言の声が出せた。少しでも通じてくれただろうか。
「やっぱりしますよ。変な声。」
「そうですか?私には何も聞こえませんが。ちょっと待っていてください。」
奴はこっちに近づいてくると、何かのスイッチを入れた。
ゴゥンと俺の近くで音がしたかと思うと、意識が瞬く間に希薄になっていった。
奴は何をしたんだ?
そう思った数秒後には、単純な思考すら出来なくなっていった。身体を残したまま、俺自身が吸われるように消えていっていることも、既に分からなくなっていった。
最後に俺が思ったのは、奴は人を食――、
――――
(完)
後書き、のようなもの