それは、何気ない日常の一コマ、で終わるはずだった。
いつものように、何事もなかったように見過ごして、それで終わりのはずだった。
あんな気さえ、起こさなければ。
あの日から、日常は変わった。
だって、この人付き合いをしない私が、あろう事か、
――天使≠ニ、付き合うことになったのだから。
***
放課後、学校からの帰り道。
「はあー……もう、全く」
扇谷千里は道すがら、盛大なため息を吐いた。
それもそのはず。この日は前の月に受けた模試が返却され、しかもその後担任との面談があったのだから。面倒くさがりの千里にはそれだけでも十分に不機嫌の要素になるのだが、今回はそればかりではない。その模試の結果が思わしくなく、おかげで担任にはあれこれと小言を言われたのだから、尚更である。
「何が志望校変えろだ。ふざけんなっての」
悪態をついて、歩みを速める千里。その足は、向こうに見える公園へと向いている。
*
扇谷千里は、地元の高校に通う三年生。つまり、受験生である。だが、彼女は世の受験生のように、予備校に通ったり、遅くまで学校に残って自習したりすることもなければ、かといって早々に家に帰って勉強することもなかった。寸暇も惜しいはずなのに、放課後はいつも通学路上にある公園で何をするでもなく時間を潰して帰るのである。それも、日がとっぷりと暮れるまで。傍から見れば、受験をしない人間のする行為に見える。
だが彼女は決して受験をしないわけではない。私立大を受験することになっていた。それなのに彼女がまるで勉強をする素振りを見せないのは、短期集中で勉強するタイプからなのかも、単に自分の学力に自信があるからなのかもしれなかった。
とにかく、そんなわけで周囲とは全く違う行動を取り続けている千里は、クラスで異端視されていた。だが、彼女はまるで気にも留めていない。むしろ一匹狼でありたいという雰囲気さえ醸し出していた。千里は、そういう人間だった。
*
公園に到着した千里は、ベンチに腰を下ろすと、先ほど学校で買っておいたジュースを取り出し、飲み始めた。
いつもの公園。高一の半ば頃にふと立ち寄って、その雰囲気を気に入ってからというものの、千里は放課後暇さえあれば立ち寄るようになっていた。公園という割には遊具が少なく、したがって子供もあまり訪れないここは、静かで自然の多い場所を好む千里にはうってつけの場所だったのである。
この日も案の定、人っ子一人いなかった。千里はのんびりとジュースを飲みながら、読書に耽る。読書好きの千里は、一旦読書を始めると没頭して、時間すら忘れてしまうことが多かった。
だから、読みかけだった分厚いハードカバーの本を最後まで読み終わるまで、もはや日が暮れようとしていることに気がつかなかった。顔を上げた千里は、辺りがすっかり薄暗くなったことを知ると、帰ろうと腰を上げた。そして備え付けのゴミ箱にジュースの缶を捨てると、出口に向かって歩き出した。
その時。
「……?」
視界の隅に、何かが映った。
気になって、それの方に顔を向ける。そしてそこにあったものを捉えた瞬間、千里は瞠目した。
一人の少女が、倒れていた。
地べたにそのままうつ伏せになっているせいか、ただ単に眠っているようには見えなかった。そのせいもあって、普段滅多に他人に関心を持たない千里も、流石にこのまま放置して帰るのは憚られたのだろう。少女の許へと歩み寄ると、一通り呼吸と怪我の有無のチェックをした。幸い、呼吸も正常で、目立った怪我もなかった。今はまだそんなに寒い季節ではないし、置いて帰っても問題ないだろう、と千里は判断した。連れて帰って世話するなど面倒極まりない。置いて帰ろう。そう決めて、千里はその場を離れようとする。
が、少し気になって、歩み出そうとする足を止めた。千里は振り返って少女を――少女の顔を、まじまじと見つめる。
(こいつ……!)
この顔立ち。そう、それは紛れもなき――
「ちょっと、あんた」
気付けば千里は、少女に声をかけていた。反応がないのを見るや、少女の身体を強く揺さぶる。早く起きてくれ、と思った。自分でも気付かないうちに。
「ん……」
少女が目を開けた。まるで寝起きのような声を上げる。そのあまりにも間の抜けた様子に、千里は苛立ちを感じた。
「あんたね、こんなところで寝てどうするのよ。馬鹿じゃないの?」
一息に吐き捨てる。棘だらけの言葉が飛び出した。初対面だと言うのに、いきなりの毒舌。だが千里は気にも留めない。
少女は千里の辛辣な言葉に、これといった反応を見せなかった。怯えの表情すら浮かべない。それどころか、目をぱちくりさせて、驚くような問いを口にした。
「あの……ここは、どこですか?」
「はあ?」
千里は思わず、大声で言っていた。
そして呆れ返った。寝惚けているとしか思えない。この世のどこに、自分が寝ようと決めた場所のことを忘れる者があるものか。とんでもない馬鹿じゃないか、と千里は思う。もはや、少女の身に異変があったのではないかという、先程までの疑念は消え失せていた。そんなことを考えていたことすら、馬鹿馬鹿しくてならない。
それでも、千里はため息混じりに答えてやる。
「あのね、ここは公園。この辺は私の地元で、あそこの高校に通ってるんだけど。で……」
ああでこうで、とこの辺の土地について説明する。少女は神妙な顔つきで聞いている。ひとしきり説明し終わったところで、自分知らない奴相手に何べらべら喋ってるんだ、と千里は少し嫌悪する。
「あ、ありがとうございました。……でも、やっぱりよく分からないです」
少女はおずおずと言った。その言葉に、千里は露骨に眉を寄せる。
「……今の説明で分からなかったわけ?」
「い、いえ、そういうわけではなくて……思い出せない、んです」
千里の些か怒気を含んだ声に一瞬少女は怯えたものの、すぐに発言を訂正する。
「ふうん。じゃあ、寝る前の記憶が抜け落ちてるわけか……。さしずめ、記憶喪失と言ったところか」
そう言ってみると、不意に笑いがこみ上げてきた。自分はこんな人間相手に、熱心に説明をしていたと言うのか。笑わせてくれる。
少女はそんな千里をきょとんとして見ていたが、やがて唐突に声を上げた。
「あ! 思い出しました!」
「どうしたのさ」
千里が少女の方に目を遣ると、少女は嬉々とした表情を浮かべ、こちらを見返してくる。まさに子供の目だ、と千里は思った。
少女はそんな千里の心情など知る由もなく、ただ無邪気に笑顔を向けて、そして言った。
「私、天使なんです!」
*
「はあっ?」
それが、少女の言葉を聞いた千里の、最初の反応だった。
今度こそ、千里は呆気に取られた。そもそも翼がないし、どう見たって人間だ。それに何より、あまりにも言っていることが非現実的で、信じろという方が無理がある。もはや呆れも通り越して、言葉も出なくなった。
「……あの、どうされたんですか?」
暫く言葉を発さずにいると、少女が小首を傾げて、心配そうに聞いてきた。あんたのせいだよ、と思いつつ、千里は盛大なため息を吐く。
「……あんた、本当に馬鹿じゃないの?」
千里はそれだけ言った。いろいろと問うべきことはあったが、今は到底言う気になれなかった。自分はどうやら、本当にとんでもない馬鹿者と関わってしまったらしい。面倒なことになってしまった。
適当にあしらって、置いて帰ることも出来ただろう。だが、今の千里はどうにもその気にはなれなかった。この少女のことが気になって仕方なかった。むしろもっと知りたいと思った。だから。
「とにかく、いつまでもここに居たって仕方ないでしょ。……うちに、来なさい」
自分でも驚くほどすんなり出たその言葉。どういうわけか、顔が微かに熱を帯びている。見られたくなくて、すっと視線を逸らした。
少女の方はと言えば、予想外だったのか一瞬驚いた表情を浮かべたものの、すぐに柔らかい笑顔に戻って言った。
「あ、ありがとうございます。お世話になります!」
こいつ住み込む気満々か、と一瞬思ったが、自分から家に来いと言った以上、余計な突っ込みはしないことにした。
「礼はいいから。……それより、あんた名前は?」
「名前?」
千里が何気なく聞くと、少女は首を傾げた。
「うーん……ごめんなさい、思い出せないです」
済まなさそうに少女が言う。てっきり名前も思い出したのかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。それなら、と千里は切り出す。
「名前決めてもいい? ないと呼びにくいから」
「あ、はい」
少女はこくんと頷く。千里は少し考える風な表情を浮かべ、そして言った。
「ばんり。一万二万の万に、里見八犬伝の里、で万里」
「ばん、り」
少女は与えられたその名をかみ締めるように呟いた。それを見ると、千里は思い出したように付け足した。
「ああ、私は扇谷千里。ちさと、と呼ぶように」
「はい、……千里さん」
「さん、は別に要らないんだけど」
律儀に『さん』付けで呼ぶ少女――万里に千里は思わず突っ込んだが、いくら言っても聞かないだろうことがなんとなくわかったので、もう取り立てて言うこともないか、と千里は思った。別に『さん』付けされるのが不快なわけでもないのだから。
「さ、帰るよ。さっさと来て」
言うが早いか、千里は出口に向かって足早に歩き出す。万里は慌てて、小走りで千里の後を追いかけた。陽はとうに暮れ、辺りも随分暗くなっていた。
万里は知らない。
何故、千里が見ず知らずの少女を家に連れ帰ったのか。
そして、
何故わざわざ『万里』という名を付けたのか――
**
住宅地の中のバス通りというのは、平日だろうが休日だろうが車の天下であることは間違いない。さらに保育園やスーパーなんかが近くにあると、交通量は飛躍的に増加する。
しかし、一本脇道に入ると、そこは、閑静以外のなにものでもない。土曜日ともなると、車の気配すらせず、斜向かいの小学生の弾くモーツァルトが耳に触れてくるばかり。そんな場所で、彼女は目覚めた。
「……なさい。起きなさいってば。もう九時よ、ばんり!」
耳に飛び込んできた「ばんり」という文字が自分のことを指すのだと気付き、慌てて彼女は飛び起きた。つり上がっていた千里の眦が、わずかに緩む。
「やっと起きたわね。服はそこに置いておいたから、早く着替えなさい。朝ごはんの支度も出来てるわよ」
「はっ、はい、ありがとござひましゅぅ……」
言いながら、再び睡魔に連れ去られそうになる万里。少し大き過ぎるパジャマを纏った体が、ぐらりという音を立てそうな勢いで右斜め後方へと傾く。
「あ、ちょ、万里、また寝ちゃだめでしょ! 万里!」
万里の予想外の行動(?)に、近所迷惑も憚らずについつい千里は絶叫してしまうのだった。
*
「それで、どういうわけなの?」
「うにゃ?」
あんずジャムをつけた食パンを口いっぱいにほおばりながら、首を傾げる万里。それがすっかり自然な光景であるかのように、千里には思えた。
「うにゃ、じゃないわよ。まったく。とにかく、自分がわかってることを全部話しなさい。口の中が空になってからでいいから」
千里は、とにかく話を聞いてみようと思った。その上で、万里を家に置くかどうかを判断するつもりだった。
「……えと、昨日も言いましたけど、とにかく私は天使なんです。それから、」
「ちょっと待って。天使が一体どうしてこんなところにいるのよ?」
至極当然の疑問だ、と千里はひとりごちた。
「私、天上で悪いことをして落とされてしまったんです。だから、今の私には羽もないんです」
そう言う万里の目は澄み渡っていて、とても嘘をついているようには見えない。かといって、真実であるとは到底考えられなかった。
「堕天使ってこと?」
「はい、多分そうなんじゃないかと」
「多分、ってあんた、自分のことでしょう? ちゃんと説明しなさいよ」
「すいません。でも私にもよく分からないのです」
困り果てたような顔を見せる万里。そんな万里を見ているうちに、少なくともしばらくの間はこの子を家においてもいいかな、という気に千里はなるのだった。
*
そうして、千里と万里は一つ屋根の下で暮らし始めた。
自分より幼いであろう万里を見るにつけ、どこか学校に通わせてやりたいと思う千里だったが、本名も年齢も住所も判らないとあっては、弱冠十八歳の少女にそれを乗り越える術はなかった。
初めのうちは万里を家から出さないようにしていたが、この暮らしに慣れてくると、毎日夕方、二人は商店街まで買い物に行くようになった。
万里に出来るのは買い物かごを持つことぐらいのものだったが、いつだって万里は真剣だった。
決して穏やかな毎日ではなかった。千里が万里に向ける言葉に棘のないことの方が少なかったし、万里は万里で、千里の願いを叶えると言ってきかず、「小さな親切、大きなお世話」を地でやらかしていた。むしろ、ほのぼのとした日常には程遠いと言えた。
それでも、それなりにうまくいっていた。少なくとも千里は、そう思っていた。万里が突然、いなくなるまでは。
**
気がついた時にはもう万里の気配はなかった。だから、家を飛び出したのがどれくらい前なのかも分からない。
今になって思えば、きっかけは晩ご飯の下ごしらえだった。無理やり手伝いを志願してきた万里が、今月通算十八枚目の皿を割ったとき、千里はついこう口走ってしまった。
「あんたなんか、邪魔なだけなのよ。これ以上余計な仕事を増やさないで」
万里は一瞬目を見開いて、悲しそうな顔で千里を見つめていたが、千里がこれ以上は何も言いそうにないと察すると、音もなく部屋から出て行った。
千里はちょうどいい薬になるだろうと思って、しばらく一人で料理を続けていたが、いつまで経っても万里は戻ってこない。普段なら、怒っても十分すればケロッとした顔で現れるというのに。
一時間ほど経ったころだろうか。千里はようやく万里がもうどこにもいないことに気付いた。何よりの証拠は、彼女の靴がなくなっていたこと。
様子を見ようと千里は料理を続けていたが、どうにも落ち着かない。ついに魚を焦がしてしまうに至って、彼女はやっと手を止めた。
一体どうしたというのだ。
あの子を――万里を家につれてきたのは、記憶を失くした万里を、そのまま放ってはおけないと思ってしまったから。
ただそれだけのこと。そのはずだった。
いつも冷たく当たられていることに、嫌気がさしたのかもしれない。それとも、突然、記憶が戻って、本当の名前も、家族も、自分の住む街も思い出して、帰ってしまったのだろうか。
どちらにしろ、それならば、それでいいではないか。千里が困るようなことは、何も無い。
でも、現実は違う。
胸が、苦しい。手をあてれば、生まれてから鳴り続けているはずの鐘の音に、違和感をおぼえる。
吸い込む空気は、まるで羊羹の形をしているような気がする。重くて甘ったるく、文字どおり息が詰まる。
居るはずが無いと解っているのに、何度も彼女の部屋を覗いてしまう。初めのころは、単なる入れものに過ぎなかったのに、万里はそこで確かに生活していたから。つい五時間ほど前までは。
部屋の窓から、外が見えた。だが、万里の姿など、あろうはずもなかった。
薄明の空は、ゆっくりと闇に染まっていく。
その闇にすべてが覆われた時、万里との絆が完全に断ち切られてしまう。そう、千里は決めつけてしまった。
仕方がなかった。今日の闇は、そんな想像をさせてしまうくらいに、美しかった。
ジョンジーにはベアマンさんがいた。だから、最後の一葉が落ちてしまっても、彼女は生きていられた。しかし、千里の心には二人の万里しか居なかった。そもそも、他に誰かいたら、万里を拾いなどしなかった。
そうだ、万里なんかいなければよかったのに。だったら――
そう思いかけて、千里は自分の愚かさに気づいた。
「私はなんてことを……万里、ごめん、ごめんね」
最近はいつだって、万里のことを考えていない時はなかった。
コロッケの安売りをしていたら、万里と一緒に食べたらどんなに美味しいだろうと思い、背丈がぴったりの服を見つけると、頭の中で万里に着せてみるのだ。
学校にいる間だってそうだ。こんなくだらない授業を聞く暇があれば、万里に勉強を教えてあげられればどんなにか楽しいはずなのに。
それなのに、「ほんとうの」万里の前では、どうしても素直になることが出来なかった。そればかりが悔やまれた。
万里に傍に居て欲しい。たった一つの願いさえ、叶わないのだろうか。
いつの間にか、彼女は泣いていた。
*
瞳から零れ落ちた雫を感じて、顔を覆った両手が濡れていることに気づいて、そうして自分が泣いていることを知った。誰かを想って涙を流すなんて、一体どれだけぶりのことだろうか。
――誰の、ために?
言わずもがな。
出逢って、共に暮らして、そしていなくなった、万里のため。
自分でもわからなかった。どうして
姉以外の者のために、こうも胸が締め付けられるのか。こんな感情は、あの日――姉を失った日になくしていたはずだった。なのに、それは今、千里の心に確かに存在し、彼女を呪縛していた。
万里が、いない。そのことが酷く、辛い。
千里には、この感情を否定することなど出来なかった。自分の気持ちを封じ込め続けられるほど、千里は強くなかった。彼女は、脆かった。硝子のように。
思えば、姉である万里を亡くした時、自分が如何に彼女を必要としていたかを強く感じた。失って初めて、千里はそれを悟ったのだ。そして今、もう一人の万理すら失くした千里は、あの時と全く同じモノを感じている。
だから、はっきりとそれを認めた。
自分は、すべてを万里に依存している。かつて姉に対してしていたように。
宵闇が天空を染め上げようとしていた。闇が深まるほどに、千里の心は締め付けられる。万里もそうなのだろうか。
千里は立ち上がった。いつまでもこうしてはいられなかった。
「捜しに、行かなきゃ」
家を出る。いつしか心の隙間を埋めてくれた、彼女を捜しに。
――もう一度逢えたら、自分はこの想いを、素直に彼女に伝えられるだろうか。
*
家を飛び出してから、もうどれくらい経ったのだろう。
風は、相変わらず冷たい。気付けば空は暗くなり、気温もぐんぐん下がってきて、寒さが身に凍みるようになっていた。今更のように、コートを持って来ればよかったな、と思う。今の万里は、部屋着のままだった。
それでも、万里は取りに戻ることはしなかった。いや、出来なかった。
千里と暮らすようになって以来、万里はずっと、千里と打ち解けるための努力を重ねてきた。幾度となく願い事を聞こうとしたのも、自分を家に置いてくれた千里に何かをしてあげたかったからに他ならなかった。恩返しが、したかった。
それなのに、その想いは空回りし続けた。千里が心を開いてくれることは、一度もなかった。受け入れられているとは、到底思えなかった。そのことが、悲しくてならなかった。
どうすれば、千里に受け入れてもらえるのだろう。最近の万里は、そればかりを考えていた。考え付く限りのこと――とはいえ、その数は少なかったが――を試してみたが、千里は冷たい反応を返すのみだった。
そして今日、万里は耐えられなくなって、家を出た。
千里が自分に冷たく当たるのは、偏に自分が千里にとって迷惑をかけるだけの存在に過ぎないからだと思った。何もかもが、千里にとっては大きなお世話だったのだ。全ては自分のせい。そう思わなければ、壊れてしまいそうだった。
だから自分はこれ以上、千里と一緒にいるわけにはいかなかった。いや、いてはいけない、と思い込んだ。そしてその思いは、万里を家出へと駆り立てた。万里を独りにした。
天上でもろくなことが出来ず、地上に落とされてもなお、万里は何も出来なかった。なんと情けない天使だ。こんなことなら、いっそいない方が、ましだろう。
きっと、千里は厄介者がいなくなって、胸を撫で下ろしていることだろう。これでよかったのだ。自分ももう、千里のことは忘れてしまえばよい。
なのに、万里の胸の中から、千里の面影が消えることはなかった。
忘れることなど、出来なかった。一緒に買い物に行った商店街を通れば、無意識のうちに、千里のことを考えてしまう。万里には、千里とともにいる記憶しかなかった。それは当然のこと。そのことがとても辛く、そして愛おしく思えて仕方がなかった。いつも隣に居てくれた彼女が今頃どうしているだろうかと考えると、胸が張り裂けそうだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
今は見えない彼女に向かって、必死に謝った。傍から見れば、すっかり葉を落とした桜の木にお辞儀をしている様。けれど、万里はそんなことなど気にしてはいなかった。この声が夜風に乗って千里の許に届いてくれたら、どんなにか良いだろう。だが、それは叶わぬ願い。
帰りたかった。帰って、千里にもう一度会いたかった。そうして、全てを話してしまおうと思った。
それでも、万里は家に帰ることは出来なかった。
今の万里に、千里に合わせる顔などなかった。会う勇気が、なかった。万里はどこまでも、気弱だった。
だから、彼女は向かった。いや、足が向かわせたと言うべきか。
――全ての、始まりの地へ。
*
捜し始めてから、もう随分と経つ。宵闇は、本格的に夜闇に変わりつつある。
近所一帯、特に、一緒に行った商店街の辺りは、もう一通り捜し終わった。
万里は、どこにもいなかった。行き違いになったという可能性は否定できないが、とにかく動いて――彼女の、そして自分のために行動していなければ気が済まなかった。
冬の夜は、凍えるような寒さを生む。自分の心とは裏腹に、澄み渡っている空が疎ましかった。万里がどんな服装で出て行ったのかは知らないが、コートは掛けられたままだったので、軽装で行ったのは疑いないだろう。この寒さは、相当応えるに違いない。
千里は万里のコートを携え、次はどこを捜すべきか考えた。とにかく、時間がない。夜の帳が下りるのは、もう時間の問題だ。早くしなければ、万里の身体が危うい。今もきっと、どこかで寒さに震えているのだ。彼女は。
万里を捜している間、不安は膨らんでいくばかりだった。危ういのは、彼女の身体ばかりではないのだ。全てが終わってしまう前に、何としても万里を見つけ出さなければならない。そのことが、千里を追い立てる。
あとは、どこを捜していない?
奇跡的に出逢えた少女、万里。彼女と暮らしてきた日々を、そしてその中で結ばれていった絆を、今ここで、運命という名の不条理に奪われてしまうわけにはいかない。
そして何より、万里という
今や千里の心に唯一存在する少女を、千里は絶対に失いたくなかった。今の千里は、万里が居るからこそ生きていられると言っても過言ではなかった。万里の存在が、千里の全てと言えた。それほどまでに、千里は万里に依存していた。
元来、千里の心に存在していた姉、
万里。彼女を失い、その上新たに存在するようになった少女――
万里をも失ってしまったら、どうやって生きていけと言うのだろう? 全てを失くしてしまった状態で!
万里を失いたくない。その一念が、焦りで混乱して、ともすれば思考停止しそうになる頭を、必死で回転させていた。
やがて、その思考は、一つの結論を導き出す。
公園。
そう、万里と出逢った、あの場所。
全ての始まりの地。
彼女がいるとしたら、もうそこしかない。そう思った。
――逢えたら、言ってしまおう。この想いも、何もかも、全て。
*
始まりの場所に着いた万里の身体は、もうすっかり冷え切っていた。もはや手足の感覚もない。
寒い、寒い、寒い。
凍えるような冷気に耐えかねて、万里はその場に蹲った。少しでも身体の表面積を狭めようとして、身を丸めた。それでも、寒風は容赦なく万里の懐へと潜り込んでくる。外気を遮る物を持たぬ万里の身体は、いよいよ冷やされていく。
やがて、万里はふと眠気を感じた。それはそのまま、問答無用で万里の瞼を閉ざそうとする。万里は流石に、今ここで寝たらまずいような気がする、と思った。もう千里に逢えないかも知れない、という不安が、胸を掠める。だがそれでも、万里は本能に逆らうようなことはしなかった。
急速に眠りに落ち行かんとする万里。薄れ行くその意識の中で、万里は自分の名が呼ばれるのを、ぼんやりと感じていた。
*
走りに走って公園へと辿り着いた千里は、ついに捜し求めていた姿を発見した。そこは、かつて二人が出逢った時、千里が本を読んでいた場所。
「万里っ!」
叫ぶや否や、千里は蹲っている万里の元へと駆け寄る。返事は、ない。嫌な予感がした。万里の身体にコートを被せると、身体を揺すぶって、もう一度その名を呼んだ。万里の身体は、氷のように冷え切っていた。
「……ふえ?」
万里が声を上げた。そのあまりに間抜けな返事に、千里は一瞬頭が真っ白になる。会ったら言おうと思っていたことも、全て吹っ飛んでしまった。
「ち、千里さん……」
漸く、万里が千里の存在を知覚した。その瞬間、万里は千里の懐に飛び込んできた。
「全く、どこ行ってたのよ! 心配……したんだから……!」
結局、千里が言ったのは、いつも通り若干棘を含んだ口調の言葉だった。それでも、「心配したんだから」の部分には、隠しきれない想いが恥ずかしさとなって滲み出ていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
万里は千里の胸に顔を埋め、ひたすら謝罪の言葉を口にした。時折、嗚咽が混じる。千里はそんな万里を強く抱きしめる。
「いいよ。いいから……うちに、帰るよ」
そう言う千里の瞳からは、この日二度目となる涙の粒が、今にも零れ落ちんとしていた。
*
歩くのがやっとという万里を連れて、千里は帰路につく。万里を抱き寄せるようにして進みながら、千里は逡巡していた。
逢ったら、思い切って言ってしまうつもりだった。今まで、伝えたくても伝えられなかった想いを、全部話してしまおうと思っていた。それは、こうして万里の姿を見つけるまで、変わらなかったはずだった。
それなのに、いざ万里と対面すると、言おうとした言葉は奥へと引っ込んでしまう。万里を前にすると、千里はいつもの千里に戻ってしまうのだった。そのせいで、想いを伝えられぬどころか、数々の誤解をさせていたかも知れないことも、十分に分かっていたのだが。
素直になれないばかりに、言わねばならぬことすら言えずにいる千里。そのために万里が傷ついていると知ってもなお、何一つ言い出すことが出来ず、あまつさえそれを万里のせいにしていた自分に、千里は嫌悪していた。独りになるといつも、冷淡な言動しか取れなかったことを酷く悔やんでいたのに。
言うなら今だ、今しかない。
それでも――言い出すことが、出来なかった。
上手く言える自信がなかった。言ったところで、いつものような口調になって、ごまかしてしまうに違いないのだ。ならば、言ったところで本当の想いなんて伝わらないだろう。それでは、何の意味もない。
それでも、万里ならわかってくれる。それくらいの自負はあった。結局、根拠のない不安は、全部千里の弱さだった。
躊躇っているうちに、家のある通りの角まで来てしまった。千里の心は、決まりそうになかった。それでも、何かを言わなければいけない。今日の日の代償に、それだけはなんとしても果たさねばならなかった。
だから、玄関の扉の前に着いた時、代わりに違うことを言った。
「万里。受験が終わったら、あんたに言いたいことがある」
千里が口にしたのは、想いを伝えるという行為そのものを先延ばしにすることだった。だが、期限付きだ。そうしないと、いつまで経っても言わない――いや、言えないだろうことは明白だったから。
「はい」
万里は驚いて顔を上げた後、神妙な面持ちで頷いた。
「ああ、でも……受かったら、だけどね」
そう付け足して、今のは言わない方がよかったな、と思った。これでは、期限を決めた意味がない。
そんな千里の気持ちを知ってか知らずか、万里は無邪気とも思える声音で、千里に宣言した。
「じゃあ、受かるように……千里さんの願い、叶えます」
まっすぐに千里の目を見つめてくる、万里。そんな万里の瞳に、
それが万里にとって一番の望みであるという想いを感じて――それでも、千里は相変わらずの突っ込みを入れてしまった。
「馬鹿。叶えるのは私だよ。あんたは……祈っててくれたらいい」
「……はい!」
万里の返事は、明るかった。こんな声を聞いたのは随分と久し振りのような気がして、千里は純粋に嬉しく思った。
――これは、絶対に受からなきゃいけないな。
万里の輝くばかりの笑顔を見ていると、千里の中には不思議とそんな決意が芽ばえていた。そして千里の顔にも、微笑みが浮かぶ。それは千里自身、その前がいつだったか思い出せないほどに、久し振りのことだった。
入り際、扉の隙間から覗いた夜闇は、今や再会した二人を護るかのように、優しく世界を包んでいた。
**
かくして再び、千里と万里の「日常」は戻ってきた。
千里はと言えば、相変わらず受験勉強に明け暮れる日々。高校生活最後の学期が終わり、学校に通うこともなくなってからは、こうして一日中家で机に向かっていた。本番を一ヵ月後に控え、千里は今まで以上の集中力でもって勉強に励んでいる。クラスメイトが見たら、仰天しそうな光景だ。
万里はそれを察したのか、千里が呼ぶか、あるいは特に重要な用事がある時以外は、殆ど千里の部屋には来なくなった。
万里が邪魔しに来なくなったことは、千里にとっては有難いことだった。これで心置きなく、勉強に集中できるからだ。
――いや、心置きなく、では語弊がある。
解き終わった英語の長文から顔を上げ、千里は密かに呟いた。
集中できるのは確かだが、こうして一段落ついた時は、決まって万里のことを考えてしまう。それは、いつも心の奥底で万里のことを気に掛けているからに他ならない。独りになって、寂しい思いをしていないだろうか。そして――また、いつかのように居なくなったりしていないだろうか。
不安にはなった。心配になって、時々、部屋を覗きに行ってみようかと思うこともあった。それでも、千里が実際にそれを行動に移すことは無かった。千里には一つの確信があった。
万里は、もう絶対に居なくなったりしない。
明確な根拠は何もない。ただ、あの日の帰り、「千里の願いを叶える」と宣言した万里を見た時、それは絶対的な真実として千里の心に刻まれたのである。だから、千里はこうして受験勉強に打ち込めている。
そして、その真実が覆されることようなことは起こらなかった。呼べばすぐに来てくれた。食事の時も、一緒にいてくれている。万里の姿を見る度に、千里は安心した。万里と過ごす数少ない時間が、今の千里にとって最も人心地のする時間だった。万里の存在は、今までと同じく、いや、それ以上に千里の心を優しく癒していた。
そして、千里がここまで受験勉強に集中できているのには、もう一つ理由があった。
それはあの時千里が交わした、万里との約束だった。入試に受かったら、万里に自分の想いを打ち明ける。元々は千里が個人的にそう決めただけのことで、それをただ万里に伝えておいたというだけのことに過ぎない。「受かったら」と言った以上、受からなかったら、何も言わないつもりだった。それが本来の自分の望みとは正反対であるとしても。
だが、万里は千里が受かるように祈る、と言った。「千里の願いを叶える」という万里の提案は、断った。もし仮に万里が本当に天使で、願いを叶える力があるのだとしても、千里はそれに頼るつもりは全くなかった。千里には、万里のその気持ちだけで充分だった。自分のことを想ってくれている、それが千里には嬉しかった。
そんな万里のために、今の自分が出来ること。自分に出来る、たった一つのこと。
何が何でも、受からなくっちゃ。
入試に合格すること。それが、万里の想いに応える、一番の方法。そして――自分の本当の望みを果たすための、随一の手段でもあった。
だから、そのための努力は惜しまない。今や約束≠ニなったそれを、千里は違えるつもりは一切なかった。千里は、そういう人間だった。
**
「じゃあ、行ってくるから」
「はい。頑張ってきて下さい。……お祈り、しています」
入試当日。試験会場となった大学の正門前で、千里は万里に告げた。万里は頷いて、そして千里の目をまっすぐ見つめて、言った。
この日の朝、万里は試験会場まで一緒についていきたい、と志願した。
「寒いところで一人で待つことになるけど……いいの?」
「はい。ちょっとでも千里さんに近い場所で、お祈りしたいんです」
それは万里の、本心からの言葉。そう感じた千里に、断る理由などなかった。
「じゃあ、さっさと準備して」
「はい!」
とびきりの笑顔を見せて、万里は頷いた。そしてぱっと身を翻して、出かける準備を始める。
そんな万里の姿を見ていると、入試目前の緊張というのも、幾分とほぐれてくる。本当に、微笑ましい。つくづく、万里は心を癒してくれる存在だな、と千里は思った。
――万里がいてくれて、本当によかった。
*
思えば、高校受験の時、自分の隣には、姉がいた。
双子であったが故に同時期に高校受験を迎えた二人は、互いに励ましあって受験勉強を進めていた。互いに協力し合い、二人揃って合格できるように努力を重ねてきた。
千里は、
万里と同じ高校を志望した。万里は、好きにしたらいいよ、と言うだけで、反対はしなかった。万里ほどの実力は持っていなかった千里ではあったが、それでも必死に勉強し、入試直前には同等ぐらいの力を身につけていた。
それは――偏に、
万里と共にあり続けたいがためであった。
当時の千里は――今もそうだと言えるが――万里の存在なしには生きていけなかった。その性格故にどこに居ても友達を作らなかった千里には、文字通り万里しかいなかった。離れることなど、出来なかった。
万里がいるから、千里は独りではなかった。千里にとっての唯一の存在が、共に戦う仲間として、いつも傍に居た。千里は、万里と共に受験という戦いに臨んでいた。入試当日でも、教室こそ違ったが、すぐ傍に万里の存在を感じていた。
だから、自分との闘いとも言われる受験も、孤独に押し潰されることなく、乗り切ることが出来た。万里がいなかったら、とうの昔に挫折し、高校に入学することもなかっただろう。千里は、今でもそう思っている。
そして千里は、大学受験も姉と一緒にやるつもりだった。当然の如く、千里は万里と同じ大学を目指すことに決めた。やはり、独りになることなんて出来なかったのだ。万里は、本当にいいの、と聞いてきただけで、特に反対することはなかった。
二人は高校受験の時と同じように、勉強に励んでいた。千里はどこまでも、万里に付き随うかのように行動し続けていた。いつも主と片時も離れず存在し、同じ仕草を行い続ける影法師の如く。
――だが突如として、千里は独りになってしまった。
高校生活最後の夏休みが終わりを告げようとしていたある日、万里は不慮の事故でこの世を去った。主を失った影法師に、独りで生きていく術などありはしなかった。万里を失うことは、千里にとっては自らの存在の全てを失うことと同じだった。これからの人生など、どうでもいいやと思うこともしばしばあった。平静を装ってはいたが、千里の心はどうしようもなく乱れていたのだ。
当然、受験勉強など手に付かない。手につくわけがない。折角上がってきていた成績も、あっという間に落ちてしまった。だが、千里にはもうそれすらも気にしなくなっていた。それでも志望校だけは変えなかったのは、姉の遺志を継ぎたいという、
千里のたった一つ残った願望のため。
とはいえ、それが叶う可能性ももはや低い。千里はただ、現実から逃げるかのように、馴染みの公園で時を過ごすようになった。
たった一つの願望が一瞬にして絶望に変わる、それだけが恐ろしかった。あるいは、あわよくその願望が実現してしまったなら、一体千里は何を目標にして、何に依って生きていけばいいと言うのか。今や千里は、死刑執行を独房で待つだけの囚人だった。「人生」も「世界」も「現実」すらも、千里から遠くかけ離れたものとなっていた。
そんな失意の日々の中、千里は
万里に出逢った。
それは千里にとって、まさしく奇跡と言えた。偶然なのか運命なのか、そんなことを気にするより前に、奇跡の一語に尽きる。万里を連れて帰ったのは、記憶喪失の万里を放っておけなかったからだけではない。
彼女の姿に、紛れもない姉の面影を見たからだった。
だから、千里が万里を家に連れてきたのは、ある意味当然の行動だった。万里を世話するのは大変ではあったが、千里は苦にはならなかった。むしろ、姉を失って以来色をなくしていた日々に、再び彩りが戻ってきたように感じていた。純粋に、嬉しかった。……そんな気持ちを素直に万里に見せることはなかったけれど。
千里は、もう独りではなかった。
いつも傍にいるわけでも、同じ戦いに挑むわけでもない。それでも、千里はずっと万里の存在を隣に感じ続けていた。万里が家出した時でさえ、そうだった。身体は離れても、心は離れずに。それが二人のあり方だった。
万里は千里に、生きていくための力をくれた。今ならそう、言い切れる。今の千里がすべきこと、それは受かるようにと祈ってくれている、万里の想いに応えることだ。それだけでよかった。
彼女がいなければ、決してここまで来ることは出来なかったのだから。
――試験が始まるまで、あと三十分。
*
キャンパスへと消えて行く千里を見送った万里は、人混みから離れ、誰もいない構内の隅の木陰までやってきていた。常緑樹なのだろう、冬真っ只中にも関わらず、その大木は緑の葉を万里の頭上に広げている。その姿に何となく優しさを感じて、万里はじっと大樹を見上げていた。
記憶を失くして公園に倒れていたところを千里に拾われてから、万里は千里のために何一つすることが出来なかった。天使だというのに、願いを叶えてあげようとすることすら出来なかった。そのことに悩んで、千里との関係に苦しんで、家を飛び出したこともあった。
だが――今は、千里のために出来ることがある。
それは万里にとって、天使として¥奄゚て千里にしてあげられることだった。千里と出逢って以来ずっと抱き続けていた願望が、ようやく現実のものとなったのだ。家出から戻ってきたあの夜、千里が「祈っていてくれたらいい」と言ってくれた時、どれほど嬉しかったことか。
千里のために祈ること。万里は今、そのことに至上の喜びを感じていた。
「千里さん。大丈夫ですよ。私が、ずっとずっと祈ってますから」
ふっと綺麗な微笑みをその顔に浮かべて、そして目を閉じて、万里は祈りを捧げ始めた。
*
試験官が現れて、諸注意がなされ、問題用紙が配られた。
会場が静かになり、部屋全体に緊張が走る。会場入りして以来平常心を保ち続けていた千里も、流石にこの雰囲気に呑まれそうになる。
自信がないわけではない。万里との約束を果たすと決めたその時から、絶対に失敗しないようにと、出来る限りの努力を続けてきた。それでも今、千里の胸には一抹の不安が過ぎる。
その時だった。
――千里さん。大丈夫ですよ。私が、ずっとずっと祈ってますから。
その声は、確かに千里の心に響いた。
「万里……」
周りに聞こえないように、そっと吐息だけで呟いた。千里は、不安と言う名の靄が晴れていくのをはっきりと感じた。
いける。絶対に大丈夫だ。そう思った。
隣にではないけど、私には万里がいるから。
「ありがと」
再び息だけで呟いて、深呼吸をする。千里はもう、完全に落ち着いていた。
そして――試験が、始まる。
*
校門から入って来る人がピタッといなくなった。門より内側だけが異空間になったかのように、静寂があたりを包む。試験が始まったのだろう、と万里は感じた。
大木の陰に座っているのに、不思議と寒くはない。万里は視線の先で頑張っている千里を応援しながら、どうして天使の自分が「試験」を知っているのだろうか、とぼんやり考えていた。
ずっと昔、試験というものを受けたような記憶がある。確かにこの独特の雰囲気を経験した。
それならば、自分は天使ではないのだろうか。もちろん、天使にだって同じような試験があるかもしれない。しかし、万里は最近折りに触れて、もしかすると自分は人間なのではないか、という気がするのだった。
人間の生活にあまりに適応している、ということだけではない。千里が自分に向けてくれる温かい感情を受け留める、何か人間的な部分が、少なくとも自分の中にはあるはずだ。
では、万里が天使だという根拠は一体どこにあるのだろう。必死に頭を回転させるのだが、何一つとして確実なものはなく、あるのは断片的で曖昧な記憶ばかり。それとて、大部分はつい最近、ようやく思い出せたのだ。
それは、一人の女性との出遇い。名前すら思い出せやしないが、彼女は千里と同じくらい若く、驚くべきことに万里と瓜二つの顔をしていた。もっとも、彼女の方から話し掛けてこなければ、万里が気付くことはなかっただろうが。
――あなた、ひとりなの?
この言葉だけは、忘れたことがない。事あるごとに、確かなリアリティを持って頭の中で響くのだった。
しかし、その後のことはほとんど憶えていない。万里が思い出せたのは、彼女が万里の話を心底楽しそうに聞いてくれたことだけ。
万里が話し終えると、彼女は不意にこう口にした。
――あなたは、天使なのね。
この後どうなったのか、万里は思い出すことが出来なかった。だが、この世界に落とされる原因になったのだから、良いことでないのは確かだった。
それにしても、万里には未だにその言葉の意味がよく分からなかった。天上にいる者は皆天使ではないのだろうか。
あそこが確かに天上の世界なら、今自分がいるこの世界と何も変わりはしない。いや、違う。天上に千里はいなかったし、下界に名乗らずの女性はいない。けれど、そんなことをいくら考えてみたところで結論は出なかった。
万里は首を捻る。本人は至って真剣なのだろうが、傍目には可愛らしい仕草にしか映らない。
マフラーをすり抜けて寒さを運んで来る風が、万里を現実に引き戻した。かなりの時間が流れたらしく、日は幾分陰り始めていた。万里は、今は千里の合格を祈ることに集中しようと思うのだった。
**
合格発表まであと一週間と迫った日の朝、千里は万里を連れてある場所へと向かった。万里が天使なんかではなく、れっきとした人間だと証明するために。
千里にはある程度の勝算があった。どこからどう見たって万里は人間なのだから、後は千里の中にある「天使」という幻想を打ち砕くだけで良かった。
キーワードは、試験が終わった後に万里から聞いた話にあった「万里と瓜二つの顔」という言葉。まだ万里に話してはいなかったが、千里は万里と瓜二つの人間を知っていた。いや、「知っていた」どころの話ではなく、それこそが、千里が万里を家に連れて帰ったきっかけだった。
万里と瓜二つの人間、それは今は亡き千里の姉、
万里のことだった。
程なくして二人は目的の場所に到着した。二人が出逢った公園に面した大通り。その脇に立つ一本の電柱、そこに、花束が手向けられている。万里が事故に遭った場所。
千里は以前から、しばしばこの電柱を見に来ていた。公園を訪れる度その前を通るということもあるが、毎日のように供えられている花束が気になっていた。
この花束の主が、万里が事故に遭った現場に居合わせたのなら、何か分かるかもしれない。千里はそう期待していた。
千里はいつものベンチに座る。ここからは、電柱がばっちり見えた。隣に収まった
万里には千里の意図が読めないらしく、如何にも挙動不審だ。
「万里」
「は、はい!」
「……ふふっ」
「どうしてそこで笑うんですか!?」
やけに畏まっている万里を見ていると、自然に笑みがこぼれてしまった。万里は万里なりに、ここにいることの重さを感じているのかもしれない。だったら、ここにいる理由くらいはちゃんと話してあげないといけない。素直に。取り繕わず。心のままを。
「ごめんごめん。今度こそ本題。万里、あんたは……あっ」
再び話し出したその刹那、花を抱えた男性が電柱の前で立ち止まったのが千里の目に入った。思わず千里は駆け出していた。取り残された万里は目を丸くしている。
まだ年の若い、と言っても千里より一回りは上であろう彼は、置かれていた花束を交換して、手を合わせていた。
「あの、すいません」
「えっと……何でしょう」
「あそこに座っている女の子に見覚えはありませんか?」
千里が示したのは、ベンチに座ったままの万里だった。
*
結果から言うと、彼は万里を知っていた。千里の推測通りだった。
近くで主夫をしているという彼は、その日、いつものように商店街へ買い物に出かけた。この公園の前を通りかかった時、誰かが道路へ飛び出した。ここはいつも通行量が多いから、「危ない」と彼が思ったときにはもう手遅れで、あたりに独特の鈍い音が響いていたという。
幸い、誰かが救急車を呼んでくれたようだが、去るに去られずしばらくその場にとどまっていると、一人の少女が、あまりの衝撃に涙も流せず、顔面蒼白となって立ち竦んでいるのに気付いた。彼が話しかけても目はうつろで、生返事を繰り返すばかり。その少女が万里だった。
三人はベンチに座っていた。彼が話し終わると、千里も万里の記憶を彼に聞いてもらう。彼は終始頷きながら聞いていたが、最後にこう言った
「それは多分、現実を受け入れることが出来なかったからなんだろう。彼女に言われた天使≠ニいう言葉を設定として取り入れて、自分が全ての責任を負うしかなかった。でも、その負担すら大きすぎて、記憶を失ってしまったと考えることは出来ないだろうか」
なるほど、と千里は思った。それなら、万里が口にしていた「悪いこと」の説明もつく。目の前の霞が晴れていくように思えた。
三人分のお礼をして彼を見送った千里は、ずっと神妙な顔つきで話を聞いていた万里に向き直った。
「私は……天使じゃなかったんですか?」
「ええ、そうよ。あんたは正真正銘人間だったのよ」
「…………」
「……万里?」
千里は不安だった。真実を知って絶望した万里が、またどこかへ行ってしまいはしないかと。
「千里さん、私嬉しいです。だって、千里さんと同じ人間になれたんですから」
しかし、その心配が杞憂に終わったと知って、万里がこんなに喜んでくれているのを見て、千里はこれまでの全てが報われた気がした。
「馬鹿。あんたは初めっから人間だったのよ」
そんな言葉しか返せなくても、今日は気にならなかった。だって、こんなにも万里が喜んでくれているのだから。
**
そして、合格発表の日。
「あれ? 千里さん、どこに行くんですか?」
朝、大学まで結果を見に行こうと身支度をしていると、万里が不思議そうに聞いてきた。
「ああ、見に行くのよ。合格発表をね」
「今日だったんですか! ……あ、私も一緒に行っていいですか?」
言うと思っていた。千里には特に断る理由もない――いや、むしろ一緒にいてほしかった。承諾すると、これまた案の定、万里はぱっと顔を輝かせて、ありがとうございます、とお辞儀をした。そしてパタパタと小走りで、自分の部屋へと戻っていく。
可愛いもんだ、と思って、千里は再び支度に取り掛かる。入試が終わってからもちゃんと取っておいた受験票を、そっと鞄に入れた。
*
大学の最寄り駅を降りて、二人は人混みの中を歩き出す。
今日は曇りがちだったここ数日とは打って変わって、雲ひとつない青天が広がっている。お蔭で明け方はかなり冷え込んだが、陽が昇ってからは空気も暖かさを孕んでいる。まだ肌寒い季節ではあったが、そろそろ春が近いことを感じさせる、そんな陽気だった。
「今日は、なんだかいいことありそうですね」
万里が天を仰いで言った。千里は、そうだね、と言いながら、同じように空を見上げる。澄み渡った空は、確かに幸福を予感させる気がする。
今の千里にとって、いいこと≠ニは何だろう?
やはり、入試に受かることだろうか。それは確かにそうだろう。だが、千里にはそれだけではない気がした。もっと千里を――そしてきっと万里をも――幸福にしてくれる何かがあるような、そんな予感がしていた。
「あ、あそこですね!」
万里が指差した先には、数週間前に入試が行われた、大学の校舎。その正門の辺りには、既に人垣が出来ている。発表までまだ三十分以上あるというのに、気の早いものだと千里は思う。やはり、ここが人生の分岐点だと思うと、家でじっとしていることなどできないのだろうか。そう言う千里達も、それなりに早く来ているわけだ。二人にとっても、今日は大切な日となるに違いなかった。
大学構内に入るとますます人は増え、二人は半ば人混みに呑まれるようにして掲示板が見えるところへと辿り着いた。合格者の番号が貼り出されるのであろう掲示板の前は既に黒山の人だかりで、貼り出されてもとてもじゃないが番号は見えなさそうだ。千里は思わず溜息をついてしまった。
「す、すごい人ですね……」
「手、つないでなさい。はぐれたら大変だから」
「あ、はい!」
呆気に取られて呟く万里に、千里は鋭く言って手を差し伸べる。万里はしっかりと手を握ってきた。万里の手は小さくて冷たかった。なのに、繋がれた手を通して万里の温もりが確かに千里に伝わってくる。それが、千里の心を落ち着けてくれる。
そういえば今日の万里はいつになく饒舌だな、と千里は思った。万里にとっては、という話である。普段、万里は自分から話しかけることは殆どないからだ。やはり、自分が人間≠ナあることをしかと認識したからではなかろうか。そう思って、千里は
すっかり人間らしくなった万里の様子を嬉しく感じていた。
*
もう随分待ったなと思った頃、漸く発表の準備が出来たらしく、係員が結果を貼り出しにやってきた。場に言い知れぬ雰囲気が漂う。
結果の書かれた紙が、貼り出された。
数瞬の後に、辺りから歓声やら悲鳴やらが響いてくる。千里は騒々しいな、と思いつつ聞き流す。万里はといえば、急に沸き起こった騒ぎに驚いて、辺りをきょろきょろと見回している。
千里達は無理に人混みを掻き分けることはせず、ある程度人が減るまで待っていた。今更、待つことなど苦にならない。……万里は、もうすっかり落ち着きをなくしていたが。
暫く経って、漸くボードの前にいる人間が少なくなってきた。千里は万里の手を引いて前まで行くと、そこで初めて受験票を取り出し、番号を調べ始めた。万里がその脇で千里を見つめている。
やがて。
「……あった」
瞬間、万里が満面の笑顔で千里に飛びついてきた。
「わあ! 千里さん、おめでとうございます!」
あまりの勢いに、千里は思わずよろめいてしまう。それでも何とか体勢を立て直して、万里をふんわりと抱きしめた。
「ありがと、万里。本当に、あんたのお蔭だよ」
「そ、そんなことないですよ! 千里さんが頑張ったからですよ! ……私、千里さんが合格して、本当に嬉しいです!」
まるで我が事のように喜んでくれる万里。それが千里には何よりも嬉しくて、もう一度万里を強く抱きしめて――
「まだ、約束が残ってたね」
万里には聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、千里は囁いた。
そう、家出をした万里が千里と再会した、あの夜。千里は確かに言った。「入試に受かったら、あんたに言いたいことがある」と。
あの時先延ばしにした行為を、千里は今日こそやり遂げるつもりだった。もう、逃げはしない。今なら絶対に、言える気がするから。全ての想いを伝えきれる、自信があるから。約束は、必ず果たす。
未だ笑顔で千里の合格を祝い続けている万里の横で、千里はきっと表情を引き締めた。
*
合格発表からの帰り、千里達はあの公園へと立ち寄った。
二人の全てが始まったところ。そして、再び邂逅した場所。
千里は万里をベンチまで連れて行き、二人して腰を下ろす。桜にはまだ少し早かったが、其処ここでタンポポが花を開いていた。
「約束通り、話をするよ」
「……はい」
万里が真剣な表情をして頷く。千里は若干の沈黙の後、口を開いた。
「万里。私はずっと、あんたと一緒にいたい」
「千里さん……」
万里が少しばかり驚いたように、千里の方に顔を向けて呟く。千里は俯き加減で、何かを堪えるように地面の一点を見つめていた。
一緒にいたい。ただその一言を言うのに、こんなにも勇気が必要になろうとは。今までずっと素直になれず、自分の本心を隠し続けていた万里の前で、今千里は初めてその想いを打ち明けた。それは千里にとって、まさしく自分との闘い。長い間勝てずにいたその闘いに、千里は漸く勝利した。
一度
柵が壊れれば、流れ出す水は止まるところを知らない。抑えていた千里の想いは、堰を切ったように溢れ出す。
「私はずっと前から……いや、初めて逢った時から、あんたに一緒にいて欲しいって思ってた。嘘じゃないよ。恥ずかしくて言えなかっただけ」
万里はただ静かに、千里の言葉に耳を傾けている。
「あんたが家出した時、どれだけ寂しくて、辛かったか……。それでやっと分かったんだよ。私は、あんたがいなくちゃ生きていけないってね」
その言葉を聞いた時、それまで黙って話を聞いていた万里が、初めて口を開いた。
「……私も、です」
「え?」
一瞬、千里は耳を疑った。万里も自分と同じことを考えていようとは、夢にも思わなかった。
「私、千里さんが全然受け入れてくれないって思い込んで……悲しくなって、家出したんです。でも、独りになってみたら、千里さんに会いたくて、一緒にいたくて仕方なくなって……でも、怖くて戻れなかったんです」
万里の声が、次第に小さくなっていく。
「でも、その時よく分かりました。私はもう、千里さんなしには生きていけないんだ、って。だから、私も千里さんと一緒にいたいです」
「そう……だったの」
千里が言うと、万里はこくん、と頷いた。万里は万里で、今まで自分の想いを言えなかったらしい。きっと、その気弱な性格ゆえであろう。不思議な偶然だな、と千里は思う。
「話戻すよ。最初に私があんたを連れて帰ったのには、ちゃんとわけがあった。言ったかもしれないけど……あんたが、
姉さんにそっくりだったからだよ」
万里は思い出す。千里に逢う暫く前、偶然出逢った、自分にそっくりの少女。
「あの時はびっくりした。本当に姉さんかと思ったもの。話してみて、やっぱり違うよな、とは思ったけど……あまりにも似てたから、あんたを姉さんの代わりにしようと思った。『万里』ってつけたのも、そのせい。『ばんり』は……私が姉さんを呼ぶ時の、名前だった」
「そう、だったんですか……」
万里が呟く。その声には、どこか悲しそうな響きが混ざっていて。
「でも、違う。今はもう……あんたが姉さんとは違うって分かってるから。自分は天使だって言ってたからとか、言動が幼いからとか、そういう違いじゃなくて。
あんたは、
姉さんよりもずっと深く、私のことを想っていてくれた。
……それが、一番の違い」
え、と言って、万里が千里を見る。その眼には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「本当……ですか?」
「嘘言ってどうするのよ。私も思い返してみたんだけどね。私は昔から姉さんに依存してて、姉さんも同じだと思ってたんだけど……よく考えたら、姉さんは私に依存してはいなかったんだ。姉さんは私のことを心配もしてくれたし、いつだって助けてくれたけど、姉さんは自分一人でも生きていける、もっと強い人だったんだ」
そう。姉も同じように依存していると感じていたのは、千里の勝手な思い込みだったのだ。
「本当、私は馬鹿だったよ。せっかく私のことを想っていてくれたのに、あんな酷い振る舞いしてさ。今更、って感じだけど……本当に、ごめん」
「はわ! そ、そんな! 千里さんは、全然謝ることないですよ! むしろ謝るのは私の方ですって……!」
わたわたと慌てふためく万里を、千里はどうにか宥める。なんで万里が謝るんだ、と思って、思わず苦笑する。
「それで。晴れて人間≠セと分かったあんたに、お願いがある」
千里は真剣な表情になって言った。万里も落ち着いて、次の言葉を待つ。
「万里。私の、妹になってほしい。私は姉さんみたいに強くないから、あんたが一緒じゃないと駄目なのよ」
まっすぐに万里の眼を見据えて、千里は告げた。ずっと言おうとしていた、千里の本当の
願望。
「……えっ? い、いいんですか!?」
困惑した声を上げる万里。――その実、表情からは嬉しさが滲み出ている。
「いいに決まってるでしょ。私の方から言ってるんだから」
最後にちょっと瞳をそらしたのは、千里の精いっぱいの強がりだったのかもしれない。そう言ってやると、万里はこれ以上ないほどの笑顔を浮かべて、わっと千里に抱きついてきた。
「じゃあ、喜んで! 私、千里さんの妹になれて、本当に嬉しいです! 有難うございます!」
礼を言うなんて妙に律儀だなあ、と思いつつ、そこがまた可愛いんだよな、と千里は感じる。万里を抱きしめると、彼女はより一層千里に身を預けてきた。
「もう、ずっとずっと、一緒ですよね!」
泣き笑いのような顔で、万里は言った。千里はそんな万里に、ふんわりと微笑み返す。
「勿論だよ。ずっと、一緒にいよう」
「はい!」
千里の言葉に、万里は力強く頷いた。
*
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
「そうですね! ……千里お姉さん!」
あれから暫く、二人は公園にいた。千里が帰ろうと言ったのは、つい今しがたのこと。
「だからさ、万里……敬語、要らないって」
呆れたように千里が言う。万里は先程から、千里がいくら言っても敬語を使い続けていた。――もっとも、初めは「お姉さん」とすら言わなかったのだから、それに比べれば進歩した方ではあるが。
「仕方ないじゃないですかあ……癖なんですよう!」
ちょっぴり膨れっ面をしてみせる万里が可愛くて、千里は姉冥利に尽きるなあ、と思った。
空はちょうど、夕焼けから夜闇に変わろうとしている。西の空には、太陽が残したオレンジ色と、闇が生み出した濃紺色が相まって、見事なグラデーションが広がっていた。
千里は純粋に、綺麗だなあ、と思う。そしてふと、昼間に見た雲ひとつない蒼穹を思い出した。
――全ての願いの、成就。
これがあの青空のくれた幸福なんだな、と千里は思った。
《あとがき》
初めましての方は初めまして。そうでない方はこんにちは。黒崎紗華(くろさきすずか)です。
まず見ての通り、この作品は絳河熾織さんとの合作です。私は初期設定作って、本文の三分の二ぐらいを書きました。……とはいえ、熾織さんからアイデアを頂いたからこそ、これだけ書くことが出来たのです。本当に有難いことです。
どうやら私が中身を語らねばならぬようなので、少しばかり。
すべては熾織さんから借りた、とある本を読んだことから始まりました。読了後、この物語の設定が頭に浮かんできたのです。しかし具体的な展開がまるで浮かばず、暫く放置していました。が、それを熾織さんに話して診たところ、合作しよう、ということになったのです。
登場人物についてですが、まず千里は(一応)ツンデレです。なかなか素直になれません。……こういう強がりでいて実は弱い心の持ち主、というキャラは私の中では十八番に近いものがあります。依存症、というのも好きな性格設定の一つだったりしますが。
それから万里(ばんり)ですが……“天使”という設定はその本の影響を受けたおかげですからともかく、気弱キャラというのは私が書くものとしては珍しい方ですね。“千里とは違う意味で”想いを伝えられない、それを描きたかったのかも知れません。
私としては、邂逅→別離→再び邂逅、その中での二人の内に秘めた想いを精緻に描き出すことを目標にしたつもりです。多分。
ちなみに題名ですが……当初は何も考えず付けたのですが、千里と万里、それぞれの抱える過去からの夜明け=黎明、という意味で、良い感じになっていると今では思っています。
……いい加減長くなりすぎましたね。ここらで熾織さんに筆を渡すことにしましょうか。また機会がありましたら、お逢い致しましょう。
此処で出逢えた貴方にも、“天使”からの幸福が授かりますように――
知らずに迷い込んできた貴方、これは運命です。これが運命と知りつつやってきた貴方、よろしくお願いします。未定メンバーの皆様、いつもお世話になってます。絳河熾織(こうか しおり)です。
この話の詳細については、合作相手の黒崎紗華さんが存分に語ってくれているでしょうから、僕からは一言だけ。
僕が直接的に書いた部分は全体の三分の一にも満たないのですが、「相補的関係」と「絶対性の崩壊」を如何にして表現するかに苦心しました。その辺りが美味く(誤植じゃないですよ)伝わっていればいいのですが。
それでは、またお会いできれば、その時に。
作品展示室トップへ
総合トップへ