夜。車の中。
私は後部座席に、身を預けている。
運転席には父親。
助手席には母親。
疾走する狭い空間に、三人。
走る。走る。
前方。
一台の、車。
こちらに、迫る。
対向車線を、はみ出す。
風のように、迫る。迫る。
月が、紅い。
衝撃。
鋼鉄の身体が、ひしゃげる。
何かが潰れる、嫌な音。
むせ返るような、鉄錆の匂い。
生命が散ったと、直感する――
*
(夢、か)
柿崎静香は目を覚ました。いつものベッドに、横たわっている。どうやら今のは、全部夢だったらしい。いや、そうでないと困る。静香はそっと、胸を撫で下ろす。
あの夢を見たのは久し振りだ。しかし当然ながら、何度見ても気分の悪くなる夢だ。出来ればもう、二度と見たくはない。あの時のフラッシュバックなど、もうごめんだ。こんなもの、文字通り、『悪夢』だ。
*
静香にとって、この交通事故の夢は実話でもあった。静香の両親は、丁度この夢と同じような交通事故で亡くなった。相手は飲酒運転だったらしい。静香が十一歳の時であった。
その事故は、実に凄惨なものであったらしい。前の座席部分は完全にひしゃげ、見るも無残な姿だったという。当然両親も共に潰され、正視に堪えぬ酷い有様だったそうだ。その光景は、今も静香の眼に焼きついている。だが、後部座席に座っていた静香は奇跡的に軽傷で済んだ。きっと、両親が命を賭して守ってくれたのだろう。静香は今も、そう思っている。
一人っ子だった静香はその後、祖母の家で養われた。祖母は静香を大切に育てた。祖母は決して裕福ではなかったが、小学時代からいじめに遭いがちだった静香を、県内有数の私立女子中学校へと入学させた。祖母はいつも「入学できたのは静香が努力したからよ」と言うが、静香は全部、祖母のお蔭だと信じて疑わなかった。何せ、祖母に言われなければ受験すら考えていなかったし、塾に通うこともなかったのだから。
静香は中学では成績はトップクラスだった。だからクラスの者から尊敬されもしたが、逆に妬まれもした。我こそはと思っていた者達は、余程悔しかったのだろう。静香に対し逆恨みをしていた。それはこのような世界では付き物とも言える。だから当然の如く、静香はよく嫌がらせを受けた。だが、静香は誰にも打ち明けたりはしなかった。特に、祖母には。それは、嫌がらせが小学校の時ほど酷くなかったせいもあるが、何より世話になっている祖母に余計な迷惑をかけたくないという思いからだった。
そんな祖母は、静香が十六歳の時にがんで亡くなった。その日も、月は紅かった。最愛の祖母の死。悲しいはずだというのに、何故か静香の眼から涙が零れることはなかった。心が、凍り付いていた。ただ、感情という感情が消え失せていただけだった。静香はそんな自分に嫌悪する。月が、紅い月が自分を狂わせたのだと思った。そんなこともあって、静香は月が嫌いになった。殊に、紅い月は。彼女にとってそれは、間違いなく誰かの死と、それを悲しまぬ嫌悪すべき自分とを意味した。
静香はその後、親戚を頼ることになった。静香はその親戚については名前しか知らなかった。親戚は静香に、そのまま祖母の家に住むように言った。もはや家族というものを失った静香にとって、一人暮らしという状況はよいものと言えるのかよく分からなかった。だが、文句は言わない。というのも、親戚は静香の生活費や学費を、全て負担してくれたからだった。
静香は高校でも非常に成績がよく、皆に尊敬され続ける存在だった。もう嫌がらせもない。だが、純粋に尊敬されるような立場となり、周りからちやほやされるようになったからといって、静香は驕り高ぶったりしなかった。謙虚だった。……いや、むしろ無関心という方が近かった。
静香は、いつも一人だった。度重なる不幸による家族の喪失というのもあるが、理由はそれだけではない。彼女は何故か、友達というものを作らなかった。いや、作ろうとしなかった。誰かが話しかけてきても、最低限の受け答えをするのみで、友人関係を築こうとするそぶりはない。静香は、冷めていた。中学の時まで以上に、無感動になった。それはまるで、自分という領域を侵されないよう、頑なに他者を拒んでいるように見えた。
それは、静香自身が無意識の間に心に築いていた、見えない『壁』のようなものだった。静香は愛する者の『死』という恐怖から己の心を守るために、自然と心を閉ざしていたのである。無意識のうちに。だがそれだけではない。大切に思う人を作ってしまえば、失った時に受ける打撃は大きい。それでも、静香は涙を流せない気がした。そんな自分を、他人に見せたくはなかった。だから、誰とも交流しなかった。祖母の死によって凍りついた心は、元には戻らなかったのである。
何はともあれ、静香は周囲の期待を裏切ることなく、難関大学に進学した。教師を初めとする周囲の喜びようは並々ではなかったが、静香は全く気にも留めていなかった。否、関心がなかった。皆が拍子抜けするほどに。静香には、大学合格ということはそんなに騒ぐことでもないと思っていた。勿論、それは高慢なんかではない。純粋に、そう思っていただけだ。
静香は大学に通うようになっても、やはり無感動だった。友達を作ることはなかった。今まで通り、たった一人で、当たり前のように日々を過ごしていた。孤独。独り。それが静香の日常であり、スタンダードであった。
――『彼』に、出会うまでは。
*
静香はベッドから身を起こす。秋になり、朝の空気もかなり涼しさを帯びている。窓を開け、心地よい微風を肌で感じながら、大学へ向かうための準備を始める。まずは、朝食作りだ。
*
一回生の後期。新入生の誰もが、もうすっかり大学という新しい世界にも慣れてきた時期。
静香も随分慣れてきている。広いキャンパスのどこに講義の行われる教室があるのかも、かなり把握した。もう戸惑うことなく、普通に学生生活を送っている。高校時代と、同じように。
そう、何も変わることなく、今までと全く同じように――
いや、一つだけ、違う。
今の静香は、過去の静香は決して持っていなかったものを持っていた。それは静香自身、思っても見なかったものである。そして、静香が今まで拒み続けてきたものにも通じる可能性のあるもの。
静香は、一人の青年と懇意にしていた。
名を、樋口優也という。静香と同じ学部に所属する、一回生。見た目は実に大人しそうだ。だが彼こそ、誰一人として近づけないという静香の無言のオーラをものともせず、静香に話しかけてきた人間である。
しかし、優也は特に社交性のある人間ではない。それどころか、むしろないに近い。それが証拠に、優也は普段、殆ど独りで行動している。そんな優也が何故自分なんかに近付いてきたのだろう、と静香は思う。同族の気配でも感じたからだろうか? だがそんなもの、静香には分からない。
初め、優也は講義で顔を合わせた時ぐらいしか静香と話はしなかった。独りに慣れており、それなりに好んでもいる静香にとって、それは願ったり叶ったりだった。あまりベタベタされたのでは、調子が狂うし気分もよくない。だから静香には、傍目にはあまり親しい友達同士とは見られないような、この状態が丁度よかった。
静香が優也と交わすのは、何気ない世間話。とはいえ、下世話な話はあまりせず、大抵は政治など、ニュースで話題になった項目について話している。時にはちょっとした討論のようなものも行っていた。静香は政治などに関してはある程度の知識を持っていると自負してはいたが、優也は静香の上を行っていた。静香は優也の言葉から学ばされることが多かった。
それから暫く優也と交流していくにつれ、静香はあることに気付き始めた。
――自分は、世界を知らなかったのだ。
言われてみれば当然だった。自分は今まで、ずっと他者を拒絶し、近づけさせなかった。独りでいた。それはつまり、自分の殻の中に閉じこもっていたということ。世界を見ようとしなかった証。これでは『井の中の蛙、大海を知らず』もいいところだ。静香はそっと自嘲する。
それから静香は、優也と話す時には世界を広めること≠意識するようになった。自分の持っている世界が狭いことは以前から頭では分かっていたのだが、それを静香は改めて認識したのだ。優也の話から感じられる世界≠ヘ想像以上に広く、多様だった。そしてそれは、静香にとって非常に新鮮だった。世の中には、自分では考えもつかないような意見を持っている者もいる。静香は今、井から外に顔を出して大海を眺めている蛙だった。
やがて二人は会話を重ねるうち、より相手自身のことが知りたくなったのだろう、互いに自分のことを話題にするようになった。普通なら先にそれをするのだろうが、不思議なことにこの二人は違った。きっと二人はどちらも、相手のことを詮索するのが嫌いだったのだろう。
何はともあれ、二人はそのお蔭でか、それまでよりも随分親しくなった。それが、夏休みの始まる少し前のこと。
そして、今に至る。
*
大学に向かう準備を済ませた静香は、陽光降り注ぐ外に出る。そして、玄関を出たところで鞄から携帯電話を取り出し、画面を確認する。メールが来ていないことを確認すると、静香は携帯電話を鞄に仕舞い、歩き始めた。
夏休みの間、二人は主にメールでやり取りをしていた。この時にはもう、例の討論めいた会話だけでなく、自分の身近に起こった話なども自然とするようになっていた。静香はやがて、優也を『友人』として意識するようになった。長年友人を作ることを拒み続けてきた静香は、それまで優也を『ただの話し相手』としか認識していなかったのである。
今日、静香は二限目と三限目の講義で優也と一緒になる。ふと静香は、二限目と三限目の合間の昼休みを優也と共に過ごそうか、と考えた。その方がより長い間会話できるし、何より楽しいだろう。それはいい。誘おうではないか。……そこまで考えて、静香はふっ、と笑う。
――何考えてんだ、自分。
何を下らない事を考えているのだろう。優也がそんな事を承諾するとは思えない。それに自分から優也に「一緒にお昼食べよう」なんて、恥ずかしくて言えたものではない。自分はどうかしている。
つまらない考えを脳内から振り払い、静香は大学に向かう。一限目の授業までは、まだ二十分はある。
昼休み。何もないはずだった。いつも通り、独りで昼食を取るつもりだった。だが。
今、静香の前には、優也がいる。
それは静香にとっては意外と言っていい出来事だった。優也の方から、静香と昼食を取りたいと言い出したのだ。静香はごく普通に承諾した。断る理由なんて、どこにもない。
静香は内心、この偶然に驚いていた。丁度朝考えていたことが、思いもしない形で実現したのだ。まさか、向こうも同じことを考えていたのだろうか? 静香は不思議に思う。
だが、さしあたり気にすることもないだろう。そう思って、静香は平静を取り戻す。何事もないかのように、優也と話しつつ、昼食を食べる。誰かと食事をするのは、案外気持ちのいいものだ。友人と、他愛のない会話をしつつ、食事を取る。予想以上に、楽しい。感情を表には出さないものの、内心静香は、喜びを感じていた。
そろそろ、食事も終わりに差し掛かった頃。
「樋口君」
静香が優也の名を呼ぶ。
「どうしたんですか?」
「あ、いや。また樋口君とお昼食べられたらな、と思っただけですよ」
気付けばその言葉は、静香の口からポロリと零れていた。言ってしまってから、言うんじゃなかったな、と少し後悔する。しかし。
「ああ、そういうことですか。それなら、喜んで。僕も、柿崎さんと食べてると楽しいですし」
優也はあっさりと承諾した。また静香は軽く驚く。それでも、その驚きは顔には出すことなく、静香は言う。
「有難うございます。では、また一緒に」
*
この日全講義を終えて家に帰った静香は、ベッドにごろんと横になると、己の身を思考の海に沈めた。
(今日の樋口君との昼食は楽しかった。誰かと一緒に食事するなんて物凄い久し振りだったけど、案外いけるものね。またやりたい。
……それにしても、最近自分は変わってきた気がする。どうして自分は、こんなにも樋口君に心を許しているんだろう。何で『友人』だなんて思っているんだろう。自分は絶対に、友達なんか作らないはずなのに。……いや、作れないはずなのに)
静香は思い出す。あの日、祖母が死んだ時のことを。窓から、夕闇を照らす月の光が差し込んでくる。
(そうよ、樋口君なら大丈夫だとは思うけど……また失いでもしたら、私はまた悲しく……いや、失っても悲しまずに涙も流さないのよ。おばあちゃんが死んだ時みたいに。私ったら本当に、最低だわ)
優也との昼食の思い出という明るい事実を考えていたはずなのに、何故か思考がどんどんネガティブになる。静香は時々、酷く後ろ向きな思考に陥ることがあるのだ。それは殆どの場合、自己嫌悪だった。祖母が亡くなった時の、自分に対する。ちなみに偶然か必然か、静香が自己嫌悪に陥る時は、決まって月が明るい時なのだった。
静香は普段は気丈に振舞ってはいるが、実は案外脆いのである。精神的に。周囲は誰も気付いていない。それどころか、静香自身、それには気付いていないというか、気付いていない振りをしている。静香は強くて、脆いのだ。まるで硝子のように。
(とにかく、樋口君とはあまり深い付き合いはしない方がいいわね。樋口君だって、望んでいないだろうし。……いや、そんなことは抜きにしても、私はもう、またあんな、悲しみに涙も流せぬ自分になるのは嫌だ。樋口君には見られたくない。絶対に……)
見られないためには、どうすればいいか。思い詰めた彼女が出した答えは、唯一つ。
樋口優也と、交流しなければいい。
(それは……嫌、だ……)
そう、独りでい続ければいい。そう頭では分かっているつもりでも、心が許可してくれない。静香の中の何かが、優也を離したくない、と叫んでいる。矛盾する、頭と心。どうせなら、一つにまとまって欲しい。静香はそう思う。
とにかく、何と言おうと、優也と交流すべきではないのは明白だ。だがそれを分かっていながら、当たり前のように優也に未練を残している自分がいる。また静香は、そんな自分に嫌悪する。どうするのかはっきりしない己が、嫌になった。自己嫌悪が加速する。そうなると、静香には止められない。考え出すと止まらなくなる性質なのだ。暗澹としたどす黒い思考が、急速に静香の頭の中で渦巻いていく。もう、抜け出せない。
嫌だ嫌だ。もうあんなのは嫌だ。肉親が死んだのに涙すら流さぬなんて、とても人間とは思えない。最低だ。こんな自分なんか、いなくなればいい。いやだ。嫌だいやだいやだ――
――いきた、く、ない。
い き た く な い 。
渦巻いた思考の果て。唐突にそう思って、そこでぷつんと思考が途切れる。一瞬の空白の後、静香はふっとため息をついた。つい先程までの自分を思い返して、笑う。何を自殺志願者みたいなことを考えていたのだろう。馬鹿馬鹿しい。もうこんな下らない思考はやめよう。
開き直ったかのように自分を嘲笑ったところで、部屋に無機質な電子音が響く。静香は携帯電話を手に取る。画面には『新着メールあり』の文字。受信ボックスを開く。
メールの送り主は、樋口優也だった。
*
翌日、夕方。最後の講義が終わった後。
静香は、優也と共に大学構内の食堂にいた。
前夜のメールで、優也の方から誘いをかけてきたのである。静香も丁度暇だったので快諾した。……とはいえ、その実、静香はこれ以上優也と交流を深めるのはやめたほうがいいのではという考えもまだ持っていた。要は完全には開き直れていなかったのである。しかしこの時は、優也に会えるという純粋な喜びの方が勝っていた。だから不思議と、迷いはなかった。後から思えば、静香にとっては滑稽とも思える行動であった。人間とは不思議なものである。
昼休みでもないのにわざわざ会った割には、この二人の会話内容はいたっていつも通りである。もし事情を知る者がいたら、何のためにわざわざこの二人は会ったのだろうと思うだろう。だが、実際はこの二人は単に会って話したくなったから会っただけである。それ以上でもそれ以下でもない。実に単純な理由だ。普段と同じように、二人の会話は盛り上がる。
だが、突如その会話は、ふっつりと途切れてしまう。
それは何の話をしていた時だっただろうか。優也が静香の触れて欲しくないところに触れてしまったのか、突如静香の表情が曇った。正面に座っていた優也は、敏感にそれを感じ取る。そして怪訝そうに訊ねてきた。
「どうしたんですか?」
「……いえ、何でもありません」
静香は出来る限り平静を取り繕って、そう答える。だが、その声にいつもとの違いを認めたのだろう。優也はまだ心配そうに見つめてくる。
「気分を害されたのでしたら、すみません。……でも、本当に、大丈夫ですか?」
もしかしたら、見破られているのかもしれない。隠しているつもりが、隠せていないのかもしれない。静香の意思に反して、気持ちが焦る。心臓が、早鐘を打つ。
「大丈夫、ですから」
何とかそう答えて顔を背け、嵐が過ぎるのを待つ。何も訊かないで、そのまま終わって欲しい。私の弱みを――弱みと思っているモノを――どうか暴かないで欲しい。……いや、私は無感動な強い女だ。私を守る『壁』を、崩されてなるものか……!
かつて感じたことのない程の強い動揺の中、必死に願う。己という硝子≠ェ壊されてしまわないことを。
だが、世界はそう甘くはなかった。
「悩み事があるんだったら、遠慮なく言って下さいね。一人で抱え込んだりしないで下さい」
瞬間、静香は硝子≠ェ砕け散ったのを知った。
どうしてこんなに優しい言葉を投げかけるのか。静香は信じられない思いで聴いていた。こんな人間に、無駄に片意地を張ってばかりの人間に、どうしてこれほどまでに純粋な思いをぶつけられるのか。静香の『壁』は今、ぼろぼろと崩れ始めていた。あまりにも無垢で優しい、優也の一言で。
「……人目のつかないところに行きましょう」
静香は席を立つ。この期に及んで、まだプライドだけは維持しようとする自分。馬鹿げていると思いながらも言ってしまったことを少し後悔したが、優也は決して嫌がることなく、素直に従った。人目につきにくい場所まで移動すると、静香は訥々と語り始めた。己の過去を、現在を、そして前日に考えていた忌むべき思考を。
優也は時々相槌を打つほかは、殆ど黙って聞いていた。嫌悪の表情など、一度たりとて浮かべなかった。静香が語り終えると、優也はまずこう言った。
「柿崎さんは、決しておかしくなんかないですよ」
予想外の言葉。静香は面食らった表情を浮かべる。
「大切な人の死をそんなに見てきたら、誰だって、心が壊れてしまわないように、無意識のうちに防衛してしまうと思うんですよ。死を前にしても悲しみが浮かばないのは、感情を消してしまうことで、それ以上心が傷つかないようにしているからじゃないでしょうか」
優也の言葉が耳から滑り込んで、脳へと浸透していく。そしてはっとさせられる。言われてみれば、それもあるような気がする。いや、むしろその方が正しい気もする。ということは。
もしや、私は間違っていた――?
「いいえ、例えそうだとしても、私は本来人間が失くしてはならない感情まで失くしてしまっているんですよ? 私の感情はもう麻痺してしまっているんです。そんな正当化されていいものとは思えません」
認めることは出来なかった。もう弱みも全て吐露してしまい、何の恥じらいも虚栄もいらないはずだというのに。ただ『認める』というごく単純な行為が、静香には出来なかった。それは静香にとって、『強く無感動な女』としての最後の抵抗だったのかもしれない。
だが、それを知ってか知らずか、優也はそれに対する返答を遣す。
「そんなことはありませんよ。むしろ人間として普通じゃないでしょうか。自我が壊れてしまう前に、自動的に対策が取られるというのは。……僕にだって、本当のことは分からないですけど。でも一つだけ言えるのは、少なくとも僕は、『死』に耐えられなくなって壊れてしまった柿崎さんよりも、今の柿崎さんの方が良いと思っているってことです」
静香の身体が、否応なしに硬直する。思考が止まる。
(どうして、どうしてそんなことが言えるのよ……。私は、私は……)
再び静香を襲う動揺。自分が何なのか分からない。ここまで信念が揺らいだのは、静香にとって初めてのことだった。狼狽する心。だが、それでも静香は表情には殆ど表さなかった。ただ、押し黙るのみ。
「偉そうな言い方になりますけど、僕は、柿崎さんはそんなに気を病んで、自分を貶めることはないと思うんですよ。さっき言ったことは抜きにしても、誰かが亡くなって、悲しみを覚える人もいれば、悲しみじゃない何か、例えば喪失感とかを感じる人もいると思うんです。だから、柿崎さんの感じていることは、決しておかしくなんかありません」
優也が結論を導き出す。静香は最早、何も言えなかった。もう、反論する言葉などなかった。今や静香は、自己否定と嫌悪を繰り返していた過去の自分を恥ずかしくさえ思っていた。そして、自分にそれを気づかせてくれた優也に、何か言いようのない感情を抱いていた。それは感謝なのかも知れないし、尊敬なのかも知れない。
「あ、あともう一つ。いくら自分が嫌になっても、死んじゃ駄目ですからね」
「……分かっています!」
真顔で付け足された言葉。いたたまれなくなって、思わず叫んでしまう。そして顔を背ける。それほど深く、優也の言葉は胸に突き刺さっていた。静香は恥ずかしかった。自己嫌悪のあまりに、死にたいなどと考えていた自分が。どうして自分はこんなに愚かなんだろうと思って、また自己嫌悪に陥りそうになって、何とかそれを食い止める。今言われたばかりだ。自分を貶めるなと……。
いつの間にか日は暮れ、辺りには闇が広がっていた。先程まで見えていた月も、今は雲に遮られていて見えなくなっている。
「すっかり、遅くなってしまいました。ごめんなさい」
謝る必要など無いというのに、律儀に謝ってくる優也。静香はそんな優也を見て、ふ、と微笑みを浮かべた。人前ではいつも無表情だった静香がこうして笑うのは、どれほど久し振りのことだろうか。
「大丈夫ですよ。それよりも今日は本当に……有難う、ございました。随分と、気持ちが楽になりました」
述べた言葉。それはいつものようにただ中身のこもらない空虚な言葉ではなく、紛れもない静香自身の感謝の意が込められていた。親戚からの経済的な支援はあったとは言え、長い間ほぼ独りで生きてきた静香にとって、ここまで他人に心から感謝する機会は滅多になかった。だからこそ、もう忘れかけていた気持ちを思い出させてくれた優也の存在が、静香には非常に貴重なものに思えた。
「それなら、よかったです。じゃあ……暗いですし、そこまで一緒に帰りましょう」
優也の言葉に、静香は頷いた。二人で帰る、夜の道。温かい想いが、静香の胸を満たしていた。
――もう、私は、大丈夫だから。
*
それから数日が経った、ある日のことだった。
その日も最後の授業を終え、静香は帰路へとついていた。この日は優也とは会っていない。授業が一つも被らなかったからである。
今の静香は、見た目こそ今までと変わってはいないが、内面的には随分と変わっていた。もう、自分を否定的に考えるようなことはしなくなった。今を生きている自分という存在を、自信をもって認めることが出来るようになったからである。
(それもこれも、樋口君のお蔭だね)
ふ、と笑って、空を見上げる。雲ひとつない。天空を包む静謐な闇が、静香の視界を埋め尽くす。綺麗だ、と思って、静香は夜空を見渡そうと頭を廻らす。
(!)
一つの光が、目に入った。あまり明るさを感じない、くすんだ光。瞬間、静香の身体が強張る。
紅い月が、夜闇に浮かんでいた。
静香の脳裏を、嫌な予感がよぎる。過去の経験から、今から何が起ころうとしているのか、静香には想像がついていた。危ないのは――そう、樋口優也。
どういう行動を取るべきか暫し思案していた静香が、取り敢えずは優也に連絡を取ろうとした、その時。
「事故だ!」
遠くから、叫び声が聞こえた。瞬間、静香の身に戦慄が走る。静香は咄嗟に、その声のする方向へと駆け出した。
息せき切って現場に到着した静香の目に映ったものは、ある意味彼女が予想していた通りの光景だった。
トラック。ひしゃげた自転車。道路脇、冷たいアスファルトの上に横たわる、一人の青年。
静香は周りに集まり出していた人々を押しのけ、青年の許へ近付いた。青年の顔を見る。間違いようもない。
樋口優也。
心に、重い衝撃が走る。息をするのも苦しいぐらいに、胸が締め上げられる。頭上には紅い月。またあの時のように、目の前で命が散ってしまうのだろうか? 再び目にすることになろう『死』の恐怖が、静香を縛り上げる。過去の自分の姿が、胸に去来する。
誰かが既に呼んでいたのだろう、救急車のサイレンの音が、夜闇の沈黙を破って近付いてきていた。
白いベッド。白いカーテン。白い壁。
先程までの夜の漆黒から打って変わって、何もかもが清廉な純白の部屋の中。そこに、静香はいた。ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰掛け、静かに目を閉じる優也を見つめている。
あの後静香は、優也を乗せた救急車の救命士に頼んで、この病院まで一緒に乗せてもらっていた。今まで人の死に直面した時の静香の経験や、優也が親族などではない赤の他人であることを考慮すれば、ここで静香がこのような行動を取るのはある意味考えられないことと言えた。
病院に着いて暫く経った頃、静香は医師から優也の容態を聞かされた。
――意識不明だが、命に別状はない。
聞いた瞬間、静香は安堵した。どうやら今回は、死に直結することはないらしい。だがその一方で、いつ容態が悪化して優也が死に至るか分からないという恐怖も、同時に感じていた。
優也は微動だにしない。静香はそっと席を立ち、窓の外を眺める。月が、視界に入る。もう、紅くはなかった。
(大丈夫、だ)
根拠はないが、そう思った。……いや、静香にとってそれは、十分に根拠となり得るものだった。紅い月と、死の関係。それを、静香は経験上把握している。だから、確信はないとは言え、静香はひとまず安心できた。
優也の眠るベッドに戻る。椅子に腰掛け、もう一度優也の貌を眺める。その静謐な寝顔は、先程から微塵も変化していない。動きそうにない。意識がないのだから当たり前だ。だが、そう思ってはいても、やはり不安は付き纏う。その時、静香はふと思い立って、眠りについている優也の胸に手を置いてみた。触れた手が、やんわりと優也の鼓動を返してくる。
――生きて、いる。
感じた優也の生命。この手に伝わってきた命の灯火を、今静香はしっかりと受け止めていた。それを自覚した瞬間、静香の視界がぼやける。目元に、熱いものを感じる。静香自身よく分からないままに、ほろりと零れた、一雫。
静香は、涙を流していた。
あれ程『死』に触れ、それでも決して涙を見せなかった静香が、今優也という人間の確かな『生』を目の当たりにして、大粒の涙を零している。泣いている自分が、信じられなかった。涙など、とっくの昔に封印していたはずなのに。静香の心の中で、決して融けぬ氷となっていたはずだというのに。
一度融けた氷は、水という至極透明な液体となって流れ続ける。己が意思とは無関係に溢れ続ける涙を見て、ふと思った。
人間に必ず付き纏う『生』と『死』。『死』を氷に例えるなら、『生』はそれを融かす炎だろう。『死』によって凍りついた心は、『生』という優しい炎に包まれて、氷が融け元の暖かさを取り戻すのだ。今の静香のように。
静香の顔に、柔らかい微笑が浮かぶ。じっと優也の寝顔を見つめていた静香は、不意に決めた。
優也が目覚めるまで、ずっと傍にいよう。
目覚めた時に、優也が孤独になってしまわないように――
*
夜闇に降り注ぐ月光。
その光は、
生きとし生ける者の心を狂わす、
死者に手向けられし清冽なる
鎮魂歌。
そして『死』という名の氷を融かすのは、
この世の何よりも暖かな、『生』という灯火。
今此処にある『生』が、一つでも多く『死』の呪縛を解き放たんことを。
Fin.
《あとがき》
どうも、黒崎紗華(くろさきすずか)です。初めましての方は初めまして。
これは2007年の幻想組曲あと248号に載せたもの、つまり私にとっては初めての外部公開作品になります。
この物語は、ある意味意識改革も兼ねて書いていました。それまでは、『死』に主眼を置いた物語ばかり書いていました。それを、『生』に向け変えてみたのです。そうそう、もう一つ、『非現実』の物語ばかり書いてたのから、『現実』に眼を向けるようになった、というのもありましたね。……でもどちらにせよ慣れていなかったもので、上手く書けた自信はなかったのですが。
それから、ほんの一部ではありますが、初めて実体験を元にしたストーリーを組み込んでみました。どことは言いませんけどね。それまでは物語構成のすべてを想像力一つに頼ってきたので、これも新たな試みの一つになります。
そんな感じでしょうか。個人的にはまだまだ改善すべき点も多いように思えますね。……というか、ほのぼのした(してなくても良いのですが)青春モノが書けるようになりたいです。シリアス一辺倒じゃなく。
そこそこ書いたので、この辺で終わりにしましょう。ではまたいつか、どこかで。
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