星を見る人

jt

 星に似ている。
 闇夜に散って在る戦の篝火《かがりび》が。こうして遥かに見下ろせば、漆黒の中に点々と、互いに位置を揃えるでもなく、紋様を見せるでもなく、しかし見渡せば何やら意味を為して見える。これは東の討伐の、千と八百と二十あまり一つの軍勢。まだ倒れた者は出ていないらしいから、数は合っているだろう。
 「何を見ているのですか?」
 凛と紡がれる声。闇の空と山の端の境の僅かばかりの青みに似る。下を見下ろす少年……縁丸《ゆかりまる》に問うた。
 「篝火が星に似ています」
 答える声は数えで十三。まだ息が細く頼りないが、しっかりと背筋を伸ばしている。それでも、幾分は弁解する様な緊張が見えるだろうか。
 「光が似ているのですか?」
 この問いは、弟子の成長を確かめる問いだ。
 「いいえ、散り様《よう》と集い様、各々の在り処の定め様が似ています」
 星を光と見るうちは、星宿を学ぶことは出来ない。星とは即ち、星の占める在り処だ。この世を緩やかに広げられて波打つ布とするなら、それを止めている針。世の波打ち様を定めているもの、その定め様を表しているものが星だ。占うと占めるは同じ字を書く。
 「では、権少尉《ごんのしょうい》殿は良い陣を敷かれた様ですね」
弟子の答えは満足が行くものだったのだろうか。答えはただ静かに声のみ。少年はほっと小さく息をついた。
 ここは陣の後ろ、尖った山の山頂の、方丈ばかりの岩の上。女ながら当代一の宿曜師《すくようし》と名の聞こえる『和間姫輔《かずまのひめすけ》』が警護の者もつけず、その一人弟子の縁丸と二人きり、岩に毛氈《もうせん》を敷いて座している。
 縁丸が身を乗り出した。目を細めて、陣の彼方を見る。星にはあり得ぬ一列に点々と並んだ光が、陣に回りこむ様に動いている。
 「何が見えますか?」
 弟子の気息《きそく》の乱れを聞いて、宿曜師が問う。
 「怪しい松明が見えます。小勢ながらも敵の夜討ちかと……報せなくて良いのでしょうか」
 「星には出ていません」
 「けど……」
 報せねば兵が死ぬかも知れない。
 「報せる術《すべ》もありません」
 言われて気付けば。遥か下の陣へ急を知らせる術が、この岩の上には無い。しかしそれならば、宿曜師は何のためにここにいるのか。命をかけて侍《さぶら》う兵たちが、何故宿曜師を頼るのか。
 まだ宿曜師でもない縁丸はただ息を呑み、目を凝らす。自分の心の臓の鳴りが聞こえ、それに合わせて目に映る火も揺らぎ霞む気がする。あるべき呼吸法を忘れている弟子を、しかし師はまだ咎めない。
 火が瞬き、乱れた。
「あ……」
 呟いて、つばを飲み込み、息を一つ吐いてから師に知らせる。
 「火が消えました……潜んでいた兵が首尾良く防いだのでしょうか」
 師は答えない。弟子も答えを待ってはいない。始めから、星に出ていなかった事なのだ。
 「星を、御覧なさい」
 「はい」
 答えて縁丸は、しかし言いつけに背いて、師を見る。微かな後ろめたさも、師を見れば溶けて消える。
 師は天を見ている。女の身の狩衣から白拍子になぞらえる馬鹿者もいる。足元こそ端然と座した形だが、左手はその脚の上において八角の鏡を載せ、右手は重ねた足の後ろに突いて、悠々と後ろに逸らした上体を半ば腕に預ける。自然、頭《こうべ》が後ろに垂れる。行儀の良い殿上人《てんじょうびと》の姿勢ではない。けれど。
 師は美しい。とても美しい。
 絵草子の姫君達とは師は似つかない。切れ長の目に瞳は大きく澄んで、頬の線は丸い膨らみに乏しい。髪は自分で適当な長さに切って結っている。口元も筆先で引かれた点ではなく、僅かに笑みの形をとる様に唇を合わせている。
けれど、月も無く、ただ星の光だけがある中で、師は柔らかく輝いて見える。闇の中で、この人だけは美しく、天を仰いでいる。天と地の間にいる。星と同じように在る。
 縁丸が師から学んだ星見の心得はまだたった二つ。目と呼吸。
 目はただ一心に星を見る。天に捕らわれず、星のある天を星々のそれぞれの在り様と共に納める、澄んだ鏡となる。呼吸は目を乱すことなく、心を揺らすことなく、天に繋がる気を己の内に満たして、その身を天に通じるものにする。
 師はまさにその通りに、天を仰いでいる。その瞳を覗くことが叶えば、当《まさ》に斯《か》く在るべき星宿をそのままに見て取ることが出来るだろう。この人が、星宿だ。星を見ることは、星になることだ。
 師を見れば、宿曜師の在る意味にももはや迷うことは無い。それは星宿と同じものだ。天の下でこの世が全て在るべくして在るのだと、それを確かに教えてくれるものだ。
 世のことは全て、闇雲な気まぐれでばら撒かれるものではない、誰かの思惑で何かの術で振りまわされるものでもない。それは確かに斯く在るべきもので、その上で人は己の信じる通りに営めばいい。運命が確かだからこそ、不確かさに脅かされず人は日々を積み重ねて歩むことが出来る。安心できる。
 そういった考えが当っているのかどうか、師に確かめたことは無い。けれど、当っていると思う。天を仰ぐ師を見てきたからこそ、まだそれが何であるかわからぬ星見を縁丸はひたむきに学んできたのだ。
 また、飛来する矢の一本にも命を脅かされる兵たちにとって、宿曜師に見守られていることが、気まぐれから守られて全てに意味があることが、どれほど不安を拭ってくれることだろう。
 もう一度、篝火を見渡して。縁丸も天を仰いだ。

 岩の冷たさと平らかさを伝える毛氈の上に、仰向けに体を横たえて。
 松明を見ていた目に、始めは天は闇だ。けれど次第に、明るい星から、目が捉え始める。そして……星の光は、瞬きながら滲んでいる。雲がある。
 「見えますか」
 「いいえ、まだ」
 それだけ答えて、あせる気持ちの中で、思い出す。
 まず、息。多くは要らない。また、急いでもいけない。天にまで通じる気を取り込み、天に吐くのだから。息をするよりもまず、体の内を広く取る。無理な力を入れず、気の行き渡る場所を広く広く取って行く。ゆっくり。次第に、体が消えて行く。広くなる。いつしか、体中が緩やかに、気を巡らせ、天と通じる。
 そして、目。眉根に力を入れて瞳を凝らしたところで、光しか見えない。一つの点しか見えない。それは星宿を見る目ではない。
縁丸は一度、目を閉じる。呼吸。目もまた天の一部。気の巡るところ。呼吸。開く。天へ、星へ、開く。そのとき目は点に絞られない。星を受け止める鏡になる。星を、見る。
「見えます」
在る。雲の向こうにも、在る。雲を通して光がここに届いているのかどうかは、知らない。けれど星には意味が有る。在るべきところに在る。
「巡っています」
星は巡る。その、一瞬一瞬には毛ほどのものでしかない動きも、大いなる巡りであるが故に、見える。動いた位置が見えるのではない。動いているというその事が見えるのだ。一様に、天を巡る。中には幾つか、他と違う動きをする星も有る。不意に現れる星も有る。身じろぐ星も有る。流れる星も有る。それで星宿は変わる。互いの位置が、意味が、変わる。一瞬とて同じであることは無い。けれどそのいずれも、気まぐれには生まれない。全てに意味が有る。どの星も、一つの流れを動いているのだ。それも見える。
今までになく目が澄んでいる。見つめた師の姿が、宿った様に。
星を見た。星を見た。星を見た。天を見た。意味が有った。
星宿を読み、意味を解釈する術は、知らない。主だった星の名も、それぞれの役割も、知らない。縁丸は書物に学んだことが無い。目を持たずして理《ことわり》を学んではならない。星を読む理が、星を見る目を歪める事もある。と、師から禁じられている。
けれど、星は見える。縁丸はいつからか、自分の星図を胸の内に持っている。あるべき意味とは恐らく何も関係なく、子供の目でもあるが故か、星に形が見える。茫洋と、重なって。
桜がある。花びらが風に舞い、流れを作る。霞か、雲か。時には椛《もみじ》の錦にもなる。雲を行く舟がある。梅もあって、丁度傍らに鶯もいる。その根元のあれは松虫なのだと、この秋捕まえて知った。扇もある。髪を十二単に流した姫君もいる。牛もいる。車を牽いている。大きな蟷螂《かまきり》がこれを狙っているけど、いつも追い着かない。犬もいる。母犬だ。子犬もいるから。子犬は母犬に甘えて転げまわって……と、欠けている。
星が欠けている。光を見れば有るか無きかも確かめられぬだろう小さな星だが、それでも有るべきところに、無い。欠けている。師は気付いているだろうか?自分が先に気付いたのだろうか?
「子犬の尾が、欠けています」
言ってすぐ、しまったと思った。耳も頬も赤くなって、目の前が昏《くら》くなった。何と子供っぽい間違いをしたものだろう。子犬は自分が勝手に見ているものなのに。師はなんと言うだろう?
「ええ、欠けていますね」
星の様に静かに。
「私も子犬を見ていました。昔に。懐かしい……けれどこれは由々しい事。補います。用意を」
縁丸はすぐに立ちあがった。恥も安堵も追いやって、気息を整えながら、すぐに用意を進める。

毛氈の上には昼の内から文机《ふづくえ》が置いてある。小さく装飾も無いが、確かな職人の手になる、狂いの無いものだ。師が八角鏡をこの上に置く。特に確かめずとも、その向きは星に照らして正しいものだ。
ここに縁丸が水を張る。小さな手桶は有るが、柄杓は使わない。手で汲む。手の水もまた天に通じる様に呼吸を保ちながら、星の光を映す鏡面に、水を静かに落とす。僅かな量だ。僅かな水が鏡面を満たして、新たな鏡面となって天に真っ直ぐ向き合う。
白い紙で慎重に手を拭ってから、硯箱を開く。闇夜を反射して細かな粉が入っている。火粉《かのこ》という。原石は水に似ている。これを細かく細かく、一つ一つの粒が消えて水に似るほどに擦り砕いたのが火粉だ。手にとって、一様になるように水面に撒く。水と同じ色の細かな粒子は、水面を全く乱さないでその面《おもて》を作る。そうなる様に丁寧に根気強く粉を擦るのは、日中の縁丸の大切な仕事だ。
用意は出来た。師は机に向かい、縁丸は傍らに侍る。
師の手には糸のごとく細い細い鉄。その先は赤く焼いてある。そのままで保つ様に工夫した矢立という道具から取り出したものだ。これを長い二本の手指で挟み、星を見る目で鏡を見て、星を、点ける。水面を踊る様に早く師の手は動き、鉄の先の熱が火粉に灯って、白い明かりになる。星に似ている。光がでは無い。散り様と集い様、各々の在り処の定め様。迷わず、師は星宿を描く。自分の目で見て。
縁丸もそこに星を見る。子犬ではない。同じく映している訳ではない。けれどそれは確かに星だと、彼にも、見えて来る。
星に、なって行く。
師の手が止まった。縁丸を見る。縁丸は師を見て、それから鏡を見る。
「出来ましたね」
師が言った。問われたのではないか、と、縁丸は懼《おそ》れた。鏡を見る。鏡に星を見る。鏡を見る。星宿を探す。手に汗が滲む。
ついに気息が乱れ星を見る目を失う前に、縁丸は思った通りを言った。
「まだ、足りません」
師はすぐに応えなかった。目を閉じて、しばし瞑目した後。鉄線を挟んだ指を、縁丸に差し伸べた。
「では、あなたが足しなさい」
受け取らねばならなかった。受け取るとき、師の指が震えていると気付いた。暖かいとも、冷えているとも思った。

鏡を見る。自分の指先を見る。震えている。息が出来ない。それともつい強く吐いた息が水面を乱したのだろうか?鏡の天が揺らいで霞む。不確かな光しか見えない。真の天を仰いだ。揺らいでいるのは縁丸の目だ。
師の姿は、見ることが出来なかった。天からも目をそらし、鏡を見た。じっと。何も見えない。気ばかりがあせる。
見かねたのだろうか、見きったのだろうか、それとも、別の意味か。師が問うた。
「私がやりましょうか?」
師の声に初めて息遣いを感じた。けれど、震えは無い。強い、或いは……。
「いいえ」
そう、切り出す声が、掠れた。けれど次の一言は、確かに言えた。
「ただ、手伝ってください」
「そう。私に出来ることならば」
師の声は落ち着いていると思えた。けれども少し早く聞こえた。
願いを言う。師に。
「星を、見てください」
縁丸は師を見る。真っ直ぐに見る。師は、目を閉じた。深く、息を吸った。そして吐いた。吐いて息が消えた。いや、整った。目を開く。鏡よりも夜空に近い瞳が、縁丸を見た。そして、告げた。
「今、星を見ています」

長い時間、かもしれない。後にして思えば丁度一呼吸。縁丸は師の瞳だけを見ていた。真っ直ぐに見ていた。自分が映っていると、思えた。天を仰ぐ。天を見る。星を見る。星宿が見えた。師を見る。星宿が見えた。師の瞳にも、星宿が映っていると、見えた。鏡を見た。星が有った。星宿が欠けていた。在るべき点を打った。
細い鉄は、夜風にとうに冷めていた。けれど、確かに星を打った。
そのまま、じっと待つ。鏡に目を落として、師の言葉を。
「これからは、書物も学びましょう」
師の声が、僅かに華やいで聞こえた。

鏡から目線を上げて行く。術は終わったが、実のところ普通に目に見えて確かなことが何かあるわけではない。目を凝らせば、光を点した火粉から微かに煙が昇るのが見える。けれどもそれは風になぶられてあやふやだ。ただ、星を見る目には。確かに昇る星が見える。天に上る。追って見上げる。在るべき星が全て在る。星宿。子犬も見えた。はしゃいでいた。
わからないことは、ある。在るべき様に在り変わらない星宿を、補うとは何か?そも欠けるとは何か?術によって星宿を欠く輩《やから》がいるのか、それとも人の身は僅かなりとも星宿に定められた災いに抗う術を持っているのか、或いは、補われるべく定められて補われているのか。
判らない。これ以上突き詰めて考えたことも、無い。なぜなら。
星を確かめるとすぐに、縁丸は師を見る。この時ばかりは、師が、笑うのだ。いつも静かに微笑んでいる印象は有るが、本当に微笑を見ることが出来るのはこの時だけだ。
星を見て。心持ち大きく長い息を唇から漏らして、目を細めて、師は微笑むのだ。とても、美しく。
今宵も、師は微笑む。微笑む師を、縁丸は見た。優しい瞳に縁丸を映して、微笑みかける師を。
縁丸は明日から書物を学び始める。


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