温度

jt

 ただただ雪と風が続いている。冬である以上に北の、そして高い、『白い悪魔』の斜面。風も雪も淡々と静かだ。宵の紫の薄闇の中に、斜めに霞んで落ちて行く雪。それだけ。
 全てが冷たい。冷気とは、熱即ち生気を含まない状態のことだ。静かで、一様に変わらない。永遠に。
 勇敢でそして少しばかり無謀な男が、重い装備で仰向けに斜面に縫いとめられて、白く重い雪に塗り込められて行く。
 それでも、昼の光がもう少し強い間は、男は体の熱で雪に抗い続けていた。肺に力のありったけ、残る命のありったけをこめて、『は』の形に目一杯開いた喉から吐き出した熱で顔に掛かる雪を吐き飛ばし、凍りつく雪を溶かして。
 今は、もう。吐くべき熱が無い。体は凍ってもう自身にも何処に有るのやら判らない。男の埋まっている雪の斜面を、他の斜面と全く同じように無表情に雪風が通りすぎる。奪うべきものはもう無い。眉も髭も白く凍った顔も、次第次第に雪山の一部になっていく。切り裂く鋭さがあるのは冷気だけだ。それももう、男に何の関心も抱かない。
 男に残されたのは気持ちばかり。『チクショウ!』を繰り返して。諦めている。まだやたらに腹ばかり立てたまま自分の死ぬ時をぎろりと睨んでいる。
 その、もう霞んだ目に。霞の中に。一様に見えて微かな濃淡の向こうに闇を控えた紫とぼやけて紫に滲んだ白の中に、揺らぐ影が映った。指先を立てたように細く。彼方を横切って行く。
 目を凝らす。救助かもしれない。もう声も出ず腕も上がらないが、祈る。
 すると、近づいてくる。祈りを聞きとめたのか。こちらに向いて、近づいてくる。
 じっと見る。次第にシルエットが明らかになっていく。
 女だ。濃くなって行く闇の中に艶然と立つ。白い髪と白い着物。髪は風に靡かずにすり抜けて、虹の光沢を僅かに見せながら透き通って紫に融けこんでいる。或いは、透明な宵の空気を一杯に含んでいる。着物のほうは風を受けている。細い肩と腕の先に、長く広い袖がたなびいて遊んでいる。そうしたことばかりは遠目にはっきり見えて、それがどのような女であるのか、生身の部分は不思議と印象が薄い。
 落胆。すぐに続いて自嘲。
 ああ、雪女だ。ハ・・・・・・。そんな月並みな幻影で終わるのか。
 つまらん話だ。半ば目を閉じて、雪女の訪れを見ている。どうでも良いものとして。今更氷の息を吐き掛けられようと、そんなものは吹雪と大差ない。零ひく零は零だ。
 ただ……女が目の前で足を止め、斜面に貼り付けの男に向かい合って立つと、その姿は色味を帯びて明らかになった。肌に直に羽織った単衣は襟を完全にはだけて胸元が覗いている。柔らかい胸、細い肩、整って冷たい顔立ちに細い眉。微かに笑みの形。そして、その肌は滑らかに美しく……褐色。赤みの強い瞳には、雪に埋もれない強さを光らせて。
 もう凍えた脳で、男、少しばかり笑う。雪焼けでも有るまいに…どういう幻覚だ?
 日に焼けたのとは違う、生のままの褐色に輝く肌。雪の中で、それは血の赤よりも強く生命の熱を感じさせる。有り体に言って、血色が良い。
 赤みの強い瞳には、雪に埋もれない強さを光らせて。唇を動かした。瞳がひときわ、雪に煌く。
「ほら、やっぱり。ああ、嬉しいこと。暖かい者を見つけた」
 呟きが白い湯気を帯びないのが不思議なほど、艶やかな熱のこもった声。
 男、死に際に、腹が立つ。なんとなく、大人気無く。凍って固まって倒れて、そして活きの良い雪女に見下ろされて、『温かい者』呼ばわり。体が動けば蹴り飛ばしたい。
 あっち行け。あんたのご馳走ならもう冷めてるぜ。体が動けば蹴り飛ばしてやるところだ。それとも、組み敷いて抱くか。
「ああ、暖かいこと」
 頬に置かれた手がやはり氷のように冷たいのかどうか、男の頬にはもう判らない。ただ、女の肌は、男に熱を与えはしなかったのは確かだ。きっと肌に滑る雪に対するのと同様に。そして、その手は吸い付くようにただ柔らかい。頬を撫でて降りる。首筋をくすぐる。そのまま雪と防寒着の下の筈の男の胸に触れて……心臓を掴み取った。
 瞬間。男の目から、最後の生気が消えた。最後に女へ感じた皮肉も、微かな奇妙な愉悦も、自分の死への怒りも。凍る。
「ごちそうさま」
 魂を失い、真に冷え切った躯を視線で舐めて。
 目を細めて。余韻を名残惜しむようになおも男の口元を弄んだ指を離して。雪女が呟いた。
 その声は抑揚を失ってあくまでも冷たい。『白い悪魔』が女を形どっているかの様に。
 だんだんに区別を失う雪と闇に輪郭を融かして、女は去った。男の所在はもう誰にも判らない。


作品展示室トップへ
総合トップへ