いづみ
ふと感じた気配に、彼は机上の手を止めた。
無造作に羽ペンを置いて立ち上がり、窓の元へと歩む。
ガラスを押し開け見下ろした先にあるのは自邸の庭だ。その一角に使用人たちが集まっているのが見える。
口を閉じ目を凝らす。
夕暮れの赤橙色の光が辺りを染める中、街の喧騒に混じり聞こえてきたのは、いつになく慌てた声だった。
「――ここ――いないぞ!―どこ―――っ、」
「―向こうの―――お前は――!」
石塀と植木に囲まれた小さな空間の中で、声を荒げてしきりに周囲を見回す使用人たち。
何らかの異常―恐らくは招かれざる者の侵入が起きたと理解した彼は、急ぎ窓を閉めると机に戻った。
乱雑に散らした書類を引き出しにまとめて押し込み、乾き始めたペン先をインク壷に放る。壁にかけたフックから上着代わりのローブを掴み扉へと向く。
その間、時間にすればわずか二呼吸ほどの短い間。
だが彼はそこで動きを止めた。
刺すような瞳は微動だにせず扉を見つめる。
―ノブがかすかな音を立てて回ったのは、その次の瞬間だった。
灯りが差し込む。音を殺してゆっくりと開いていく扉。
立ち止まった彼が見つめる前で扉は開ききり、そこには一つの姿が現れた。
「…『永遠の命を保つ魔法の指輪』を渡してもらおう、クラフェティ・プロテック。」
そこに立っていたのは、彼と同様に険しい眼をした一人の男だった。
「交渉をするには礼儀を知らぬようだな。」
しかし次の瞬間、彼―プロテックは小さくため息をついた。
現れた男は何も答えない。その眼に宿る鋭い光にも、変化はなかった。
互いに身動き一つすることなくしばし見つめ合う。
この停滞した沈黙を破ったのは、プロテックの再度の吐息だった。
手にしていたローブを引いたままの椅子に投げ、男の方へと一歩近づく。
「…座れ。まずは話を聞こう。」
そう言ってプロテックは左手を振った。その先にあるのは、部屋の一角で低いテーブルを囲むようにして置かれた古風なソファーだった。
彼はそれだけを示すと後は踵を返し自分の書き物机へ歩いた。
机上に置かれた小型のランプを手に取る。それと相前後するようにして、背後から金属の鳴るかすかな音が響いた。
無言のままプロテックは真っ直ぐにソファーに向かい、腰を下ろすとランプの光量を調節した。老いが見え始めたとはいえまだ力を失っていない大柄な体を受け止めて、ソファーのスプリングが小さくきしんだ音を立てる。
その影が背後の白壁にうっすらと映るほどに光を強めたところで、ようやく彼は顔を上げて扉の方を見た。
そこには、相変わらず無言のまま立つ男がいた。先ほどとの違いはその背後で閉ざされた扉だけだ。
「座らないのか。」
「必要ない。」
「そうか。ならば好きにしろ。」
プロテックはそう言うと、再び視線をテーブルへと戻した。
再びの短い沈黙。
窓越しの赤い光が座るプロテックの影を前方に長く伸ばす。
その影を静止させたまま、プロテックはまた口を開いた。
「用があるなら早くしろ。こちらも忙しい身でな。」
「―っ、さっきも言っただろう。『永遠の命を保つ魔法の指輪』を渡してもらう。」
男の言葉は一瞬の間を置いて返された。
その声音は先ほどのものと変わりはない。しかし、その前の一瞬の空白に感情の乱れが洩れ出ていた。
プロテックは視線を向けないまま会話を続ける。
「何故だ。」
「…あれは、お前たちが持っていてはならぬ物だ。」
その言葉にプロテックがわずかに顔を上げた。
改めて扉の方に目を向ける。そこに立つ男は細く切れ上がった目で彼を見下ろしていた。
閉ざした扉と燈したランプが男の姿をはっきりと浮かび上がらせる。細身の長身にまとうのは幾つもの傷を刻んだ皮鎧、そして短く刈り上げた色鮮やかな青髪と長く尖った耳がプロテックの目には入った。
「エルフの民がわざわざ人里の屋敷まで来るとは、ご苦労なことだ。」
相手の種族と言葉の意図を理解して彼は呟く。男は眉一つ動かさない。
しかし、一呼吸挟んで続けられた言葉にその不動だった表情が崩れた。
「…だが、屋敷への無断侵入とはいささか無礼の度が過ぎるな。」
瞬間、険しさを増すと共に怒りさえも露わにした目で男がプロテックを睨みつける。
「侮辱か?」
「事実を述べただけだ。」
だがプロテックは全く声音を変えることなく、平淡に答えた。
立ったままの男が右手の拳を握りしめる。
男は、その手を何かを払うかのように振りほどくと無言でプロテックの元に歩み寄った。
プロテックはソファーに深く腰掛けたまま男の動きを目で追う。
大股で近づきプロテックの脇に立った男は、次の瞬間、背を向けると彼の正面の椅子に腰を下ろした。そのまま両の掌で膝を掴む。
「…無礼の件は謝罪する、これしか手段がなかった。」
一息で吐き出すかのようにそう言って、男はその場で頭を下げた。
見つめるプロテックは、その指先が男自身の膝の上で引きつったかのようにかすかに震えていることに気づいたが、すぐにそれからは目を外し男と向き合った。
「分かった。では、改めて話を聞こう。」
あくまで淡々とプロテックは言葉を続ける。その物言いには相手を詰問する様子も警戒する様子もない。
男は一瞬探るような眼を見せたが、すぐに元の険しい表情に戻ると硬い声で言い切った。
「先ほどから言っている。―『指輪』を渡してもらおう。あれはお前たち人間が扱えるものではない。」
沈黙は、短かった。
「断る。」
男が言い切ったのと同じ明確さで、プロテックもまたはっきりと首を横に振った。続けてそのままの姿勢で静かに告げる。
「自分の所有物を、正当な理由も無く欲しがるような相手にくれてやるほど私はお人よしではない。」
そう答えて彼が男に向けた目は冷めたものだ。
だが男はそれに対しては何の反応も示さず、ただ同じ言葉を返してきた。
「理由は先ほど述べた通りだ。あれは、人間の手に負えるような代物ではない。」
その表情は貼り付けたかのように硬く動かない。
プロテックは呟いた。
「なるほど、ではエルフならばそれを扱えるから、無料でよこせというのか。」
「―そういうことではない。」
すかさず男の言葉が返ってくる。ことさら感情を抑えこんだかのような、低く吐き捨てるような物言い。
プロテックは男のその様を冷淡な瞳で見つめながら、おもむろにゆっくりと指を組んで、間を置いて言った。
「分からんな。我々、短命な人間には永い命など過ぎた代物だとでも言うのか?」
「そうではないと言っている!」
対する男が声を荒げた。同時にテーブルの天板に叩きつけた平手が、押さえつけるかのように不自然に強張っていく。
男とプロテックは互いにそれ以上は迫ることなく向かい合っていた。辺りに静寂が落ちる。
深呼吸するような間、それを挟んで男はわずかに身を引くと再び話し出した。
「…どうやら説明をした方が、早そうだな。」
その口調は先ほどまでと同様だが、狭間の呼吸が荒い。
「そうしてもらえるとこちらとしても助かる。」
対するプロテックは落ち着いた態度を変えることなく、静かに答えた。
男の手が机を離れて自身の膝元へ移る。
更にしばしの逡巡するかのような間を置いて、ようやく男はプロテックに向き直って言った。
「単刀直入に言おう。あの指輪は、『永遠の命を保つ』ようなものではない。」
「―ほう。」
プロテックの表情が、少しだが感心するかのようなものに変わる。
男は調子を変えることなく、ただ事実を事実として報告するかのように言葉を続けた。
「あの指輪に宿っているのは闇の力。人間がそれを手にすれば、得られるのは永遠の命などではなく忌まわしき死のみだ。」
一瞬男の目が険しさを増す。口調こそそのままだったが、最後の言葉を告げる時その表情に浮かんでいたのははっきりとした嫌悪だった。口にするのもおぞましいかのように。
「そうか。」
プロテックは深くうなづきながら、ただ一言だけ答えた。そのまま考え込むかのように目を閉じる。
対する男の肩から、わずかに力が抜けた。安堵と、恐らくは相手の目が無いことで緊張が途切れたのだろうか、その口元に小さく笑みのようなものさえ浮かんだ。
しかしそれは、次の瞬間に消え失せた。
「だが、断る。」
髪と同じ青色の瞳が見開かれる。
「何だと、人の話を聞―」
「二度も言う必要はない。」
男はソファーから前に詰め寄ろうとしたが、プロテックの放ったたった一言でその動きは止まった。
その場で立ちあがろうとした姿勢のまま男は目の前の相手を睨みつける。
当のプロテックは、悠然とソファーに腰を下ろしたままその瞳を見つめ返した。
「あの指輪をただ渡すことはできない、それだけだ。」
その目の冷徹な鋭さが増す。
向き合う男の目に宿る力が、一瞬弱まった。しかし次の瞬間その全てを否定するかのように、男は視線を外して首を小さく左右に振った。
張り詰めた糸を断ち切って改めて男はプロテックと向かい合う。
「…もう一度言わせてもらう。あの指輪は『永遠の命』など授けない。闇の魔力を持ったただの魔道具だ。」
言葉こそ丁寧に説明するかのようなものだったが、既にその口調には苛立ちめいたものが見え隠れしている。
言い終えた男は再び険しい眼でプロテックを睨んだ。
プロテックもまた再度うなづいた。その瞳を逸らすことなく男へと向ける。
「分かっている。」
そして、何の迷いもなく、それまでの男の言葉も意に介しないかのように明言した。
「あの指輪が永遠の命をもたらさないことなど、始めから知っている(・・・・・)さ。」
「―なっ。」
男はプロテックの目の前で息を飲んだ。
あまりの驚きにか、それまで保っていた表情さえも忘れて呆然と見開いた目だけが辛うじてプロテックを見つめていた。
それにも構わずプロテックは淡々と続ける。
「だが、いずれにせよこのまま指輪を渡すことはできない。」
静かな口調に変わりはない。
皮肉めいた笑みを浮かべることもなく、プロテックは一方的な結論を当然のように告げた。
「…用はそれだけか?ならばすぐに帰るがいい。」
「ふ―ふざけるな!」
我に返った男が、その言葉をかき消すかのように叫んだ。
怒りと動揺にか、異様なまでに見開き血走った目が刺し殺さんばかりの強さでプロテックを睨みつける。
「分かっていただと?ならば、何故指輪を放棄しようとしない!あのような忌まわしきものをっ!」
男は激昂して机に両手を叩きつけ立ち上がる。
それに、プロテックはただ視線だけを動かして答えた。
「指輪の放棄などできん。」
「何故だっ!指輪に力などない、使うことなどできないというのに何故放棄することができないというんだっ!」
身を乗り出した男が何度も拳を机に打ちつけながら興奮のままに叫ぶ。
それに眉をひそめるでもなく、何ら嫌悪を示すことさえなく、静かな表情のままプロテックは言葉を返した。
「使うなど誰が言った?使えるか使えないかなど、どうだっていい。」
「何だと!」
一際強く拳を叩きつけた男が肩を震わせて彼を睨みつける。
プロテックは、深く座っていた身をおもむろに起こした。静かだったその目に針のような光が宿る。
そして、それが絶対の真実であるかのように、一片の迷いもなく彼は男に向かって言い放った。
「私はただ、このままでは、今の条件では指輪を渡すことはできない。そう言っただけだ。」
揺るがぬ眼が真っ向から男の瞳と向き合う。言葉を返そうと息を吸った男が、そのまま息を飲み込む。
その瞬間、場が静止した。震えていた空気が動きを止める。
残響が消えて静寂が戻った時、それまで固く握りしめられていた男の拳がわずかに緩んだ。
「…どういうことだ?」
姿勢は身を乗り出したそのままだが、その目には少し前のように険しくも冷静な光が戻っている。
先ほどまでの叫びが存在しなかったかのような静かな部屋の中で、プロテックはただ一言こう答えた。
「指輪を求めるのならば渡してもよい。―ふさわしい対価を用意するのならばな。」
再度静寂が訪れた。
互いに鋭い目を向け合ったまま、身動きすらないまま空白だけが長く延びていく。
「…何だと?」
その中で、男が呟いた。
問いの言葉にプロテックは一旦目を閉じた。わずかに考えるような間を置いて、再びその目を男に向ける。
「こちらも説明した方が早いだろう。何、簡単なことだ。あの指輪は既にその価値が定まった。だから指輪を欲するのなら、それと同じだけの価値のある物を用意しろと言っているのだ。」
「何を…。」
「分からんのか。これは取引だ、完全に公平な、な。」
プロテックはそう締めくくり、それきり口をつぐんだ。
沈黙は一瞬だった。
「―馬鹿な!あの指輪に何の価値があるというんだ、愚かなことをっ!」
男が再び声を荒げ叫んだ。目の前をなぎ払うかのように、右の腕が宙を切る。
「取引だと―ふざけるのもいいかげんにしろっ!」
「ふざけてなどいない。」
目の前を勢い良く通過した拳、それに対し全く身を引くことなくプロテックはただ言葉を返した。
「金貨にして八千枚、それが指輪の値段だ。それを上回る金額を払えるのならば先約を断ってお前に売却してもよい、そう言っているんだ。」
「値段、だと―」
男が息を呑む音が、響いた。
唐突に、不自然なまでの静寂が生じる。
だが次の瞬間男の叫びがそれを消し去った。
「―金銭か!富か!何て愚かな話だ、己が触れているものの真の価値を理解しない奴らがっ!もういい、愚かな人間たちとこれ以上話していても無意味だ!全てを押し流せし爆流の飛沫よ(ルニン・マニ・ワテル・フェイル)、我が眼前の(レカル・フィル)―」
吐き捨てた男が立ち上がり、右の手をかざして一息で呪文を紡ぐ。
座り見つめるプロテックの前で、その掌の中心に濃厚な水の塊が湧き上がり今にも解き放たれんと歪む。
呪文の最後の一節が唱えられようとした時―。
「―力か。」
呟きは、独り言のように小さなものだった。
しかしその瞬間、男の言葉が止まった。
「…何だと。」
代わりにその口から洩れたのは問いかけるような呟き。
その身を傷つける魔法を目前にして、身構えることもなく、ただたった一言だけを呟いた目の前の初老の男性に向かって、男は問いかけていた。
「エルフの民よ。一つ問いたい。」
しかしプロテックはそれを無視するかのように、逆に尋ねた男に向かって問い返した。
「何だ。」
男は彼に向けて右手をかざしたまま、その手に宿る刃を向けたまま答える。
プロテックはそれまでと変わらぬ微動だにしない瞳で男を見つめて、言った。
「お前は何故あの指輪を求める。」
男の目に険しい光が宿る。
「破壊するためだ。」
答えは即時だった。
だが、プロテックは更に問うた。
「何故破壊しようとする。」
男の目にかすかに戸惑いの色が浮かぶ。
それを見つめながら、プロテックは再度繰り返した。
「答えろ。何故指輪を破壊しようとする。」
男の目に浮かんだ戸惑いが、一瞬、その色を増す。
しかし次の瞬間、その戸惑いは完全に消え決然とした声が響いた。
「指輪による被害から、人を守るためだ。」
その言葉には何一つ迷いはなかった。自分の行いに絶対の自信と正義を持つ者だけが放つ、決して揺るがざる断言。
再び、わずかな静寂が訪れる。
プロテックはゆっくりとうなづいた。
そして視線を男に向けたまま、同じように断言した。
「私も、人々を守るために、この指輪を破棄することはできない。」
男の手がわずかに下がった。
「…どういうことだ?」
だが、その瞳の険しさは変わることなく、声に宿る不穏な響きはむしろ増していた。
その時唐突にプロテックがその視線を男から外した。
男は反射的に身構えたが、立ち上がった彼は男には目もくれず窓へと歩いた。
未だ魔法を解除しない男に対して完全に無防備な背を向けたまま、プロテックが窓を押し開ける。
沈みかけた太陽の光がその瞬間解き放たれた。
「…この街を見るがいい。」
眩しさに目を細めた男が、その言葉に再びプロテックを見つめる。
プロテックは窓の脇に立っていた。窓からの逆光でその表情は影に塗られていたが、声の響きには何一つ変化はなかった。
男は右手に水塊を浮かべたまま、ゆっくりと窓辺に近づく。
そして言われるままに眼下の風景を見下ろした。
赤橙の大地。夕日に染まった一面の土地がそこにはあった。
目が慣れるにつれてその場に存在するものが形として見えてくる。赤く照り返しの光を放つ石壁と長く伸びた影。不揃いに置かれたブロックのように様々な佇まいを見せる家並み。一際広い通りには無数の出店とそれ以上の人影が動いている。
男の耳に、遠く、かすかに喧騒が聞こえた。
「この街は、守られている。」
隣から響いた声に男が振り返る。
そこには、同様に街を見つめるプロテックの姿があった。
その表情こそ変わっていなかったが、静かな声の内には厳しさと同時に慈しむかのような深さがかすかにあった。
「…ああ、その通りだろう。」
男もそれにつられるかのように呟きで答える。
しかし次の瞬間、先ほどまでと同様に険しい瞳を再びプロテックに向けて男は言い放った。
「だからこそ、指輪はここにあってはならないんだ!」
男がその胸元でかざした掌の上には、未だ水塊が浮かんでいた。その力を内部に抑えきれないかのように小刻みに震え続け、透過する赤い彩りを絶えず変化させている。
だが、プロテックはそれに目をくれることもなく、無言のまま街を見つめていた。
一時の沈黙。
振り返ったのはプロテックだった。
「―この街は守られている。では、守っているものは何だ。」
再度の問いかけは当然のように放たれた。
喧騒を遠くに聞く中、男もまた当然のようにそれに答えていた。
「集落にはほぼ全て自衛組織が存在する。この街もそうだろう。」
男は眼下の街並みに再び目を向ける。
「その通り、このスロウドの街は街の人間からなる自警団によって守られている。」
プロテックもその横で街に向き直った。
二組の瞳が赤橙の街並みを見下ろす。
黄昏の色が視界を埋め尽くす。
「…それが、指輪とどう繋がる。」
男が呟いた。
それに対してもプロテックは問いで返した。
「自警団の運営にかかる金額がどれほどのものか知っているか。」
男はしばし考えた後、首を横に振った。
「…いや。」
「年にしておよそ三百万G、金貨三万枚だ。」
男からの言葉はない。
一呼吸を挟んで、プロテックは説明を続けた。
「しかし都市から与えられる資金は実質二百万程度に過ぎない。毎年、約百万Gも不足しているのだ。」
「…。」
男の表情は変わらない。プロテックも視線を街に向けたまま、同じ口調で告げた。
「私がそのうちの半分を負担している。」
「―何だと。」
振り向いた男の言葉は一瞬の間を置いてのものだった。
五十万G、それは例えば一人の冒険者が稼ぐならば優に十年を越えるほどの金額だ。
プロテックは何の感情も見せることなく、ただ静かに、当たり前のように言葉を重ねる。
「だから、私はそれだけの金銭を稼がねばならないのだ。」
「あの指輪を売却してか。」
「そうだ。」
ぎり、と男は歯軋りをした。
「―あの指輪がどれほど危険なものかを承知していてか。」
「そうだ。」
プロテックが返す言葉には、何の違いもなかった。
男の掌中で水が音高く跳ねる。
「何故だ、指輪に延命の力がないことも、その危険も承知の上でどうしてそのような行為ができる!」
男の叫びが響き、再び静寂が落ちる。
険しい眼が睨む中、プロテックはゆっくりと男の方を振り返った。
鋭い目は圧するかのように男を冷徹に見つめていた。
「お前は何故ここに来た。」
「何…。」
繰り返された問いに、男が訝しみの目を向ける。
それを見たプロテックはわずかな間を挟んでから言葉を加えた。
「言い直そう。お前は何を聞いてここに来た。」
「『永遠の命を保つ魔法の指輪』がここにあると聞いてだ。」
男が即答する。プロテックもうなづきを返し、そして言った。
「そう、その通りだ。…ここに存在するのは決してただの魔道具であってはならない。『永遠の命を保つ魔法の指輪』でなくてはならないのだ。」
その瞬間、男は彼に向けていた目を見開いた。
「全て承知の上で、そう公言したというのか!」
「私は何も語っていない。」
驚きの言葉に対し、プロテックは静かに首を横に振った。
「私は何も言わず、この魔道具を得ただけだ。ただ、私が最後に行った冒険が『永遠の命を手に入れた魔道士』の屋敷の探索であり、私は他の財宝を仲間に譲ってこれを入手した、それだけのことだ。」
「詭弁だ!お前が街の噂を知らぬはずがないだろう!」
「言っただろう。私は、これが永遠の命を保つ魔法の指輪『ではないこと』を知っていると。」
プロテックは冷徹に答えを返した。
男は反論しようとしたが、口を開いたきり次の言葉は出てこなかった。怒りと興奮に紅潮した顔を彼に向けるばかりだ。
「その噂を信じる信じないはそれぞれの自由だ。それを信じて、これを八十万で買い取ろうとするのもな。」
訪れた静けさの中でただ静かに、相手のことも意に介さないかのような口調でプロテックは言った。
「…では、それで指輪を買い取った相手が死のうと構わないというのか。」
絶句していた男が、何かが落ちたかのように、先ほどまでの興奮状態とはうって変わった低い声でプロテックに問いかけた。
絶望に似た暗い光と今にも襲いかからんとする殺気さえはらんだ瞳でプロテックを睨む。
「商売の基本の一つに、取引相手をきちんと把握することがある。」
しかしプロテックは平然と言葉を返した。
「向こうが指輪の調査のために魔法使いを雇い入れたことぐらいは分かっている。」
「調査、だと。」
男が言葉を繰り返す。
「ああ。…そもそも、この指輪を受け取る時に、『決してそのまま使ってはならない』と厳重に注意を受けていたのでな。」
うなづきを一つ挟んで、プロテックは言葉を加えた。
静かな呟き。その口元に、かすかに懐かしむような微笑が一瞬浮かぶ。
「受け取る…お前はどのようにして、その指輪を手に入れたというのだ?」
男は質問を重ねた。その声は相変わらず硬いが、攻撃性よりは警戒の度合いが増している。
「言っただろう、冒険で入手したと。」
答えるプロテックの表情はつい先ほどまでの冷淡なものに戻っていた。その視線が窓の向こうに移る。
「その際に仲間の魔術士に簡単に調べてもらったのだ。幸い品が彼女の興味の対象外だったから、こちらに譲ってもらうことができた。」
彼の目は、街並みを広く見つめていた。
返ってくる言葉はない。
しばしの間を経て、男もまた窓の向こうにその目を移した。
互いに無言にして、無動。
長い沈黙の後、プロテックは、穏やかな口調で呟いた。
「…私はもう冒険者としては引退した。今、金を得るにはかつて集めた物品の売却と商売しか方法がない。」
男が言葉を挟む。
「街でも有数の富豪となってもか。」
「確かに稼いではいるが、その分使っているからな。金が必要なことには変わりがない。」
プロテックのその言葉に、男は周囲を見回した。
プロテックがいた部屋、恐らくは彼の書斎なのだろう。だがそこにあるのは華やかな装飾の欠片もない実用のみの家具だった。壁際に置かれた、かつての栄光を偲ばせるようなごくわずかの古びた装備品だけが飾りとして置かれているきりだ。
男の様子に気づきプロテックが目を向ける。一瞬の後、視線を戻した男とその目が合った。
二人は何も言わずにただ見つめ合う。
幾度目かの短い沈黙を経て、おもむろにプロテックは部屋の中央に向かってゆっくりと歩き出した。
男はその後を一瞬追おうとしたが、思い直したかのようにその場で足を止めた。赤橙色の空を背に窓辺に立つ。
「―私にも家族がいる。愛する妻と子供がな。」
歩くこと数歩、背中越しにプロテックは語り始めた。男は無言でその背中を見つめている。
「また、この家では十一人の使用人を雇っている。」
呟きながらプロテックは歩き続け、そして窓の向かいの壁へと着いた。
そこには無数の細かな傷を付けた無骨な戦斧が装飾として掛けられている。
「そしてこのスロウドの街がある。自警団が守る街。ここは私の終の棲家だ。…私の、街だ。」
プロテックは何ら身構えることなく、ただ静かな姿勢でその斧の前に立った。
男もまた何も答えず、ただじっとその背中を見つめるきりだ。
―次の瞬間、風が鳴った。
「だから私には指輪が必要なのだ。」
男は目を見張った。
それは一瞬だった。それまで身構えることなくただ立っていたプロテック。だが、今彼の手には先ほどまで壁にかかっていた斧が握られていた。
かざした手の先に伸びた斧。本来なら両手で扱うのがふさわしいであろう、無骨な鋼の塊である長柄の戦斧。だが片手で真っ直ぐに突き出されたそれは、微動だにすることなく男の正面に向けられていた。
距離にして十数歩。わずかな空間を挟んで、プロテックと男は今一度向き合っていた。
男もすかさず右手を構える。窓からの逆光の中、胸元で揺れる水塊が影の中でぴちゃりと音を立てた。
「だが、あの指輪を見過ごすわけにはいかないのだ!」
首を振って、何かを断ち切るようにして、男は再び叫んだ。
「何故だ。」
プロテックもまた再び問い返す。
「生命を弄ぶもの、災厄をもたらすであろう存在を見過ごすことなど俺にはできんっ、―悲劇が起こる前に人とその生命を守らねばならないのだ!」
男は声を荒げて答える。シルエットの肩を震わせながら、強く吐き出すようにして。
その残響はすぐに消える。
静寂の中、直立した姿勢のまま片手で斧をかざしたプロテックが、一歩前に踏み出した。
男が両手を前に突き出す。水塊の端に届いた陽光が、一瞬の光跡を見せた。
「今一度お前に問う。」
プロテックは、もう一度言った。
二人の距離が更に一歩近づく。男が、身を強張らせる。
音はない。空気さえも動いてはいない。
沈みゆく陽の紅の光に染まった中、黒く、冷徹な瞳を向けながら、プロテックはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「―お前は何のために(・・・・・)指輪を求めるのだ?」
次の瞬間、男の絶叫が響いた。
「しかし、俺は――!」
その手が勢い良く突き出される。
極限までせき止められた水塊が、その瞬間、弾けた。
階段を駆け上り、長い廊下を走り抜ける。
辺りに人の姿はない。厚手の絨毯が敷かれているはずの通路に荒い足音が響く。
三つ目の角を折れて左手の扉。
ノックなどしていられない。ノブに手をかけ、体重を乗せるようにして一気に開いた。
「―あなた、ご無事ですか!」
「ああ、大丈夫だ。」
突然に音高く開いた扉。
そこに現れた妻の姿を目にして、プロテックは優しく答えを返した。
安堵か、彼女はその表情が緩むとともに姿勢が崩れそうになる。
プロテックはすぐに近寄るとそっと妻の手を取った。
「心配はいらない。私は、この通り無事だ。」
「よかった…二階で使用人たちが皆倒れているので、何かが起きたのじゃないかと心配になって。」
大急ぎで駆けてきたのだろう、火照った顔をして肩で息をしている初老の妻を、プロテックは優しく支えるように抱きとめた。
「いや。それよりも、君が無事でよかった。」
「私たちは、みな大丈夫です。」
「そうか。」
気丈にも笑顔を見せようとした妻に、プロテックもまた穏やかな微笑で答えた。
ふと思い出したかのように顔を上げる。
プロテックは妻の肩を軽く叩き、彼女と共に部屋の窓辺へと移動した。
開かれたままの窓からは自邸の庭が見える。そこでは、既に捜索を半ば終えた使用人の一部が周囲の見回りを続けていた。
夕日はついにその姿を森の彼方に半ば沈め、いつしか闇が空の端より降りてきている。
「騒ぎはここまで聞こえた。何が起きたのかまでは、把握できなかったがな。」
静かにその光景を見下ろすプロテック。その横顔に、彼の妻が語りかけた。
「誰かが家に入ってきたのでしょうか。」
「…さあ、それは調べてみないと分からないだろう。」
ほんのわずかに間を置いて、プロテックはいつものように淡々とした声で答えた。
彼の妻は一人うつむき、顔を曇らせる。
「泥棒かしら。だったら、急いで倉庫の中身を確かめませんと。」
心配げにそう呟いた妻を見て、プロテックもうなづきを返すと彼女の肩に片手を置いた。
「ああ、そうだな。…ちょっと待ってなさい。」
顔を上げた妻をその場に残して彼は書き物机の前へと歩いた。
机の上には広げられた複数の書類と羽ペン、そして小さな輝きを示したランプが置かれている。彼は書類の束を軽く揃えて机の引き出しにしまい、羽ペンをインク壷に沈め、ランプを手に取った。
振り返って妻に声をかける。
「さあ、そろそろ行こうか。」
「はい。」
うなづいた彼女の元に近づき、その前に立つようにして扉へと向かう。
その途中に、低いテーブルがあった。磨かれた黒い天板が陽光を反射して鈍い輝きを見せている。
―その上に、ぽつねんと、薄汚れた皮袋が置かれていた。
彼は歩きながらそれを手にすると、無造作に懐へとしまった。
「あら、何ですかそれは?」
妻の声が背後から聞こえる。
彼は妻に背を向けたまま、ただ一言を答えた。
「…何でもない、ただの小物さ。」
掴み上げた一瞬、青い輝きを見せた拳大の塊を胸元に隠して。
常と変わらない、何気なく、平淡な声で彼はそう言った。
―end.
〈あとがきのたぐいのおまけ〉
―といったところで『Treasure of Career』は終了となります。読了、まことにありがとうございました(礼)。
というわけでお久しぶりです、いづみでございまーす♪ライトなファンタジー担当のモノカキと自称しているのがそろそろ微妙な気がしてならないこの頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか(哀)。そもそも忙しさを言い訳にろくに小説書いてないけどな…勉強とか読書とかゲームとかしてたから(おい)。
閑話休題。さて、短編連作シリーズの三作目はいかがだったでしょうか?『魔法の指輪』にまつわる物語、今回はちょっと変わったアプローチでのお話です。…えらく地味な話ですが(爆)。いや、指輪の持ち主として上がっていた「街一番の富豪」、そしてかつてある神官と共に冒険に赴いた一人の冒険者、そんな彼のお話というわけです。地味だけど。
で、今回の反省点その一。落ち着いた話を書きたいならそれなりに見られる文章を書くこと。今回は話が地味、というか展開やアクションで目を引くタイプじゃなくて会話主体の物語だったからねー。描写力とか語彙力のなさがまる分かりになってアイタタタ(痛)。
反省点その二。頭のいい人物を書けるようにがんばりましょう。…いつもの主人公はノリで動いていたり考え方がどこか幼かったりと作者の幼さを如実に反映した素敵なキャラクターなんですが、今回は老獪、とまでは行かなくともきちんと頭のいい大人の男を描こうとしたんですが……何かが、何かがまだ違う気がするよ(泣)。あ、ちなみにもう一人の男は頭よさそうに見えて実はまだまだ若いってイメージなのであれでもまあOKかと。いい感じにやりこめられてればいいんだけど。
…やっぱりコレはやや異色の話でしたな。つーかもはやライトなファンタジーと言っていいのか?いや、まだまだ人物が軽いからライトでいいのか。ならよし(涙)。
といったところで感想はおしまいにしよう。行が無いのでさくさく進めます。では次回予告。ついに次回で連作は最終編に。というわけで、最後の語り部は…「彼」です。この物語の恐らく全体を見届けることができた彼の目で、もう一つの指輪の話を語ってもらいましょう。…新歓号に連作の最終回をもってくるなというツッコミはなしね★(コラ)
それじゃ本日はこの辺で。また次作でお会いしましょう。し〜ゆ〜♪
(P.S. 今作の一番の苦労どころは、実は「値段」に関してでした。いや、以前の作品で宿泊費とかを適当にしてたので、そこから物価のおよその相場を見当づけて、更に中世ヨーロッパの都市の人口やら国民に対する兵隊の率やら収入に対する税率やらをある程度は調べて大雑把に計算して…で、出てきた結果はあんなアバウトな数字なんですが(死)。でも書いた以上はあれがウチの世界での公式設定になりますからな。ツッコミはほどほどにお願いします(苦笑)。…でもやっぱり疲れたよー。)
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