『妖精の輪の内側に触れると、妖精の国に連れていかれてしまう』
                ―アルクハイク地方の民間伝承

「―違うわ。」
 毅然とした声が、響いた。
 フェイベルは、思わず顔を上げていた。闇の中に銀髪の少女が立っている。
 彼女は、フェイベルに向かって首を横に振った。
「ヴィッテは消えてなんかいない。貴女を待ってる。」
 座り込んだフェイベルに、その手を差し伸べる。
 そして微笑んだ。
「行こう。私たちで、あの子を迎えに行こう。」

Folk tale.

いづみ

 茜色の空の下、歩く二つの影がある。
「もう、すっかり寒くなったね。そろそろ手袋が必要かな。」
「そうね。」
 指先にそっと息を吐きかけて笑う金髪の少女と、うなづいて微笑みを返す銀髪の少女。
 人々が家路を急ぐ夕暮れの通りの中、二人もまた早足で歩いていた。不意に吹きつけてきた風に、金髪の少女が上着の襟を押さえる。一瞬身を強張らせてから、続けて口にした。
「霜焼けができると仕事にも困るし。この前、お店できれいなのを見つけたのよ。…でも買うと高いし、自分で織った方がいいかな。」
「それも、いいかもしれないわね。」
 返ってきた言葉に、彼女は笑顔を見せると提げた篭に視線を落とした。中にあるのは紡いだばかりの生糸。また同じ篭は銀髪の少女の手にも提げられていた。
 それから歩くことしばし。二人は十字路の前で足を止めた。道行く人たちの狭間で、金髪の少女は手を振る。
「今日もお疲れ様。それじゃ、また明日ね。」
「また明日、フェイベル。」
 別れ道。さよならを告げて、少女らがそれぞれの方向へ離れようとしたその時―。
「ねえちゃーん、たいへんだ!」
「ヴィッテが、さらわれた!」
 幼い声が響いた。

 二人の少女が振り返る。
 そこには、背後から駆け寄ってくる二人の幼い男児の姿があった。
「ラッド!いったい、どうしたの?」
 二人のうち先を走る男児に向かって、金髪の少女―フェイベルが呼びかけた。
 ラッドは精一杯に走ってくる。その姿を改めて見た時、彼の真っ赤になった顔の中で何故かその目までも赤いことに彼女は気づいた。
 そうして駆け寄ってきたラッドは彼女の前で立ち止まった。膝に手をつき、息を切らしながら、それでも顔を上げて彼は言った。
「ねえちゃん。その、ヴィッテがいなくなったんだ…。」
「ヴィッテが?」
 弟の口から唐突に出てきた末妹インヴィッテの名、そして続く言葉にフェイベルは怪訝な顔をして身を屈めた。目の前のラッドに視線を合わせ、その瞳を見つめて再度尋ねる。
「ヴィッテがいなくなったって、どういうこと。何があったの?」
「遊んでたら、いつの間にか、いなくなってて…。」
「森で、さらわれちゃったんだよう!」
 そこに遅れて駆け寄ってきた、もう一人の更に幼い男児が横から声を上げた。
「あ、黙ってろって言っただ…」
「あんたたち、また自分たちで森に行ったの!あれほどダメって言ったのに!」
「ごめんなさい!」
 ラッドが口を挟むよりも早く、フェイベルは二人まとめて叱りつけた。二人の謝る声は今にも泣きそうなものだった。
 そこにもう一つの声が下りてきた。
「ねえ。さらわれたって、どうしたの?」
 三人が顔を上げる。そこには、佇む銀髪の少女がいた。
 フェイベルがすかさず言葉を返す。
「それが、うちの妹のインヴィッテがいなくなったって……いなくなったってどういうことなの!」
 言いながら血相を変えて彼女は振り返った。二人の男児が、一瞬びくつく。
 ひどく怯えた表情を彼らは見せていた。その態度に、フェイベルが疑わしげな目を向ける。
 不自然な沈黙の間があった。ややあって、二人の少女が見つめる中、突然ラッドは声を上げて泣き出すとともに大声で叫んだ。
「ヴィッテは、妖精にさらわれちゃったんだよう!」

 それは、確かにそこにあった。
 枯れ葉を除けた剥き出しの地面。焦茶色の湿った土の上に、古ぼけた人形が転がっている。
 その横には白い茸がぽつんと生えていた。いや、一つではない。
 それはあたかも人形を囲むかのように、円を描いて、幾本もの白い茸が生えていた。
「妖精の輪(fairy ring)。」
 その名を呟いたのは、銀髪の少女だった。
 森へと足を踏み入れたフェイベルらが見たのは、無造作に打ち捨てられたインヴィッテの人形と、あの『妖精の輪』だった。
 ―ラッドと弟、そしてヴィッテの三人は森に遊びに来ていた。正確には、面倒を見るよう母に言われていたヴィッテを連れて、ラッドらが森に遊びに行ったのだった。だからラッドも最初こそ気にしていたものの、弟と二人で遊んでいるうちにヴィッテのことをすっかり忘れてしまっていた。夕方になって暗くなり始めたので、帰ろうとしたその時…一人で遊んでいたはずのヴィッテの姿はどこにも見当たらなくなっていた。
 後に残されていたのは、ヴィッテがいつも抱えていた人形。そして『妖精の輪』だった。
「妖精の輪にさわったから、ヴィッテは、妖精にさらわれちゃったんだ…。」
 遊んでいた森の中の場所へとフェイベルらを案内したラッドが、そう言ってまたぽろぽろと涙をこぼす。
「そんなこと、あるわけないでしょ!きっと森の奥に歩いていっちゃって、迷って帰ってこれなくなっているのよ。」
 泣き出した二人の弟に向かってすかさず、あたかも怒鳴るかのような強い語調でフェイベルが言い放つ。あたかもラッドの言葉を完全に否定するかのように。
 『妖精の輪に触れると、妖精に連れていかれてしまう』―それはこの地方に住む人間なら誰もが知っている言い伝え。
 それを知っているからこそ、フェイベルは違うと断言した。そして言葉を続ける。
「急いで戻るわよ。村に戻って、大人の人にも頼んで皆で探せばきっと見つけられるはず…。」
「いいえ。それじゃ、間に合わないわ。」
 だが突然に、弟らへ告げる彼女の言葉は遮られた。フェイベルが振り返ると、銀髪の少女が目を伏せて首を横に振っていた。
「もう日が暮れる。その前に探しに行かないと、見つけられなくなる。」
 夕暮れの帰り道から、更に弟らが遊んでいた場所へ。たどり着いた森の中、今木々の切れ間から見上げた空は既に色を失い始めていた。
「でも、わたしたちだけで夜の森に行くなんて無茶よ!獣だっているし、何があるか分からないわ。」
 まだ成人の歳も迎えていない若い少女。たとえ二人だとしても、灯りさえ持たずに夜の森に行くなんて考えられない。
 フェイベルはすぐさま言葉を返したが、しかし向かい合う少女は再度首を横に振った。
「まだ、暗くはないわ。今なら間に合う。」
「でも、どうやってこの広い森を探すって言うのよ!それに戻ってこられなくなったらどうするのよ。」
「小さな子の足なら、それほど遠くまでは行ってはいないはずよ。それに…私たちには、これがあるから。」
 声を荒げるフェイベルに対し、少女は静かに告げる。そして取り出したのは紡いだ生糸だった。
 驚きの表情を見せたフェイベルをあえて無視するかのように、無言で糸の端を目の前の木―妖精の輪の前に立つ樹に結びつける。
 更に身を屈め、それから振り返った。
「行きましょう、ヴィッテを探しに。私たちで。」
 そう言ってフェイベルに手を伸ばす。差し出されたのは、地面に転がっていたあのインヴィッテの人形だった。
 驚き、ただ呆然とその全てを見ていたフェイベルの視線が人形の上で止まる。弱々しい日差しが、かすかにその顔を照らしている。
 彼女は人形を手にした。
「…分かったわ。そうね、わたしたちで急いでヴィッテを探そう。」

 二人の弟らは村へと帰らせた。もちろん大人を呼びに行くように言い聞かせて。
 そうしてフェイベルらは森の奥へと足を踏み入れた。
 声を上げて妹の名を呼びながら、しかし当てもなく、先へと進んでいく。深い森の中で他に動くものの姿は見えない。
 だが糸束が一つ尽きる度に、確実に空は光を失っていった。時間が経つにつれ、影が広がるにつれ、焦燥感だけが増していく。
 四つ目の糸束が尽きて新たな糸を取り出した時には、辺りは、完全に夜の闇に包まれていた。
「…繋げられたわ。さあ、行こう。」
 足を止め、しゃがんで糸の端を結んでいた銀髪の少女が立ち上がる。
 しかしフェイベルからの返事はなかった。
「フェイベル?」
 少女が名を呼び、同時にうつむく彼女へと手を差し出す。
 フェイベルはその手を取った。しかし、言葉が出てこない。
「どうしたの。」
 少女が再度呼びかける。
 思わず、その手を強く握っていた。
「何でもないわ。行こうか。」
 そして顔を上げたフェイベルは、笑って答えた。そのままその手を強く引いて、率先するように歩き出した。

 妹の名を呼ぶ。足を止め、帰ってくる言葉がないか耳を澄ます。何も聞こえてこないことが分かったら、また少し歩いて呼びかける。
 二人は他の会話をするでもなく、ただそれだけを繰り返し続けた。
 夜の森は足元がよく見えない。不意に、木の根に足を取られて転びそうになる。二人で揃って転んだことも何度かあった。何度だったかは、思い出せなくなっていた。
 時折、遠くで叫びが聞こえた。悲鳴のような獣の鳴き声に思わずその場で立ち止まる。そんな時は、二回、もっと大きな声で繰り返して妹の名を呼んだ。
 それでも返ってくる言葉はなく、歩いた距離だけが、いたずらに増えていった。

 木々の間から落ちる月明かりだけを頼りに、奥へと歩く。
 並んだ二つの樹の間を抜けようとした時、突然、胸元に押さえつけるような感触が生じた。
「何っ?」
 思わず繋いでいた手を離す。同時に、その瞬間に感触はぷつりと途切れた。
「どうしたの?」
 背後から少女の呼びかける声がする。フェイベルは振り返って答えた。
「今、ここに何か変な感触があって…。」
 そう言いながら臍の少し上辺りを示す。
 少女からの言葉はなかった。考え込んでいるのか、この暗がりではその表情を見ることさえできない。
 不意に少女が動いた。フェイベルの隣に並ぶとその場にしゃがみ込み、しきりに、あちこちに手を這わせる。
「…あったわ。」
 突然の思わぬ行動にフェイベルがただ見守る中、少女は地面に触れていた手を差し出した。
 戸惑いながらもその手に触れる。握らせるようにして渡されたのは、ごく細い感触だった。
 反対の手も出して調べる。指先で感じる縒れた感触。それは毎日繰り返して手に馴染んだもの。
 紡がれた生糸が、そこにはあった。
「そんな…何で!」
 何があったのかを理解したフェイベルは、思わず叫んでいた。
 歩いていた時に胸元に触れたのは、ここまでの道のりで残してきた糸だった。それが体に引っかかり切れてしまった。
 だがそんなことはどうでもよかった。大事なのはそんなことじゃない。
「ずっと、奥に歩いてきたつもりだったのに、何で戻ってきているのよ!」
 上げた声は、悲鳴に近かった。
「森では真っ直ぐ歩いているつもりでも、いつの間にか曲がってしまっていることがあるらしいわ。」
 隣で、少女が答えていた。いつもと変わらない静かな声で。
「でも、これのおかげで分かってよかった。またここに繋いで歩けば…」
「―無茶よ!ずっと進んできたつもりなのに戻ってきてるのよ、これじゃあヴィッテを探せるわけないじゃない!」
 その瞬間、握りしめていた糸を投げ捨ててフェイベルは叫んでいた。隣に立つはずの少女にも構わず腕を振る。手を離れた糸が闇へと消える。
「それにこんな森の中で、どうすればあの子を見つけられるって言うのよ。もう真っ暗よ、これじゃあの子がいたって見えるわけないじゃない!」
「フェイベル、落ち着いて。」
「落ち着けるわけないでしょう!どうしてそんなこと言えるのよ、どうしろって言うのよ!」
「フェイベル!」
「―っ!」
 叫んでいたフェイベルが、そこで息を止めた。それから呼びかけに気づいたかのように少女の方を振り返る。
「フェイベル。」
 少女がもう一度呼びかける。フェイベルは何かを抑えるかのように強く唇を噛んで、そして再度口を開こうとした。
 その時、近くでざわめく音がした。
「…何?」
 二人は反射的にそちらを振り返る。
 木が揺れて葉が擦れるような、そんな音がしていた。
 暗闇の中、その姿は見えない。辺りはひどく静かで、それだけがはっきりと聞こえる物音は、どれだけの距離なのかも分からない。
「ねえ、何なの?」
「…。」
 堪えきれないかのように口にするフェイベル。だが少女の返事はない。
 二人が佇む前で、物音だけが響く。
 音はいつしか大きくなっていた。知らぬ間に距離が徐々に近づいてくる。
「何なのよっ、何がいるのよ!」
「分からないわ!」
 短く叫ぶように言葉を交わす。いつしかまた取った互いの手を握りしめながら、二人の少女が立ち尽くす。
 眼前の低木が、揺れる。
 近づく音。
 影が。
「―いやーっ!」
 瞳を閉ざし、フェイベルは悲鳴を上げた。

 その前を、ごく小さな影が駆け抜けていった。

「…イタチ。」
 悲鳴の残響が消えた後、ぽつりと、呟く声が聞こえた。
「え?」
 おそるおそる、フェイベルが目を開ける。
 そこには何もなく、何も起こっていなかった。
「イタチよ。イタチが走っていった…それだけだった。」
 静かに、少女が口にした。
 次の瞬間フェイベルはその場に腰を落としていた。
「…何よ、それ…。」
 呆然と、先ほど何かが飛び出すのが見えた低木を見つめる。こんもりとした影は微動だにせずそこにあった。
 辺りはまた静寂に包まれていた。
「フェイベル、大丈夫?」
 短い間を挟んで、少女が呼びかける声が聞こえた。だがすぐ隣にあるはずのその声は、ひどく遠くに聞こえた。
 眼前には真っ暗な、夜の闇だけが広がっていた。果ての無い、終わりの無い森。
 肩に提げた篭がゆっくりと落ちる。虚空を見つめたまま、一言、フェイベルは呟いた。
「…もう、無理よ。」
 その声からは完全に力が失われていた。
「…フェイベル?」
 少女が気遣わしげに名を呼ぶのが聞こえる。だが彼女はそのまま視線を落とした。
「これだけ探したのに、見つからなかった。おかしいじゃないの。」
 座り込み、うつむいたまま彼女は一人口にする。疲れたのだろうか、胸を埋めていた恐れが麻痺したかのように鈍っていた。これまでの歩みで傷ついた手足が痛みを訴え始める。
「森には狼がいる。獣がいる。魔物だっているかもしれない。」
 倒れた篭の中から糸束が散らばり、人形が横たわっていた。瞳をかたどった丸く冷たいビーズがわずかな月明かりを映して虚ろに輝く。
「ねえ、どうしてヴィッテが無事だなんて言えるの?こんな森の中で、暗闇の中で―見つけるなんてできっこない!」
 感情の高ぶりと共に大地に打ちつけた拳は震えていた。吐き出すような叫びが、広がる静寂を貫く。
「…そう、見つけられるわけがなかったのよ。」
 そして、再び力ない呟きが洩れた。
「フェイベル?」
「言い伝えにあったじゃないの。『妖精の輪に触れた者は連れていかれてしまう』」
 聞かされた話を思い出す。あの時は、ただのおとぎ話だと思った。そう思っていたし、だからこうして森へと妹を探しにやってこれた。
 だけど彼女は見つからなかった。
「もうあの子は連れ去られてしまったのよ。」
 今まで堪えていた言葉が零れ出す。信じなかった。違うと思っていた。はっきりと否定した。…それは、認めたくなかったから。
 どこにも、あの子は、いない。
「そう。ヴィッテは妖精にさらわれてしまった…言い伝えの通りに、消えたんだわ。」
 涙の雫が、落ちた。

「―違うわ。」

 毅然とした声が、響いた。
 フェイベルは、思わず顔を上げていた。闇の中に銀髪の少女が立っている。
 彼女は、フェイベルに向かって首を横に振った。
「ヴィッテは消えてなんかいない。貴女を待ってる。」
 座り込んだフェイベルに、その手を差し伸べる。
 そして微笑んだ。
「行こう。私たちで、あの子を迎えに行こう。」
 フェイベルは見上げる。
 少女は静かにその手を差し出していた。何度も転んで、泥と擦り傷で汚れた手を。
 他人であるはずの自分と、自分の妹に向かって。
 滲んでいたはずの視界が戻ってくる。
 少女は微笑んでいた。
 立ち上がろうとする。震える手は、強張って上手く伸びなかった。
 だけど動かないわけじゃない。ゆっくりと、少しずつだけど伸ばしていく。あの手へ、あの笑顔へ。
「…ええ。」
 フェイベルは、もう一度、差し出されたその手を握りしめた。

 糸束を渡して、木に縛りつけてもらう。
 少女が紡いだ糸束は既に使い切っており、フェイベルが渡した束も残りは少ない。
 それでも彼女は繋いだ手を握ると、また歩き出そうとした。
 しかし、その手は逆に引っ張られた。
「どうしたの?」
 今までに無かったことに、フェイベルがその行きかけた足を止めて尋ねる。
「…どうしてイタチが走っていったのかしら。」
 立ち止まったままの少女が、呟いていた。
 野生動物が自ら人間の前に姿を見せることは確かに珍しい。だが、それはヴィッテを探すのには何の関係もない。
「分からないけれど、何かがあったんでしょうね。」
「…。」
 少女は答えない。それどころか、繋いだ手を引いて歩き出そうとした。
 フェイベルは声をかけようとして、その口を閉じた。どうせ歩く方向には当てがあるわけではない。ならばそちらに行っても同じことだ。
 だから少女に引かれるまま歩くことにした。目の前の茂みを強引に掻き分けてでも、構わずに。
 張り出した木の枝が引っかかり、裾が引っ張られた。仕方なく手を伸ばして絡んだ枝を外す。
 そうして顔を上げた先に、横たわる姿があった。
「見つけた…」
「インヴィッテ!」
 先に気づいて呟いた少女の言葉に重ねるようにして、フェイベルが叫んだ。
 一本の大木の前に幼女が横になっていた。月明かりに照らされたその顔は、まるで眠っているかのように穏やかだった。
 繋いだ手はほぼ同時に外れる。フェイベルは駆け寄ると足元の土にも構わず跪き、横たわるその体を抱き寄せた。
 温かかった。鼓動が伝わった。穏やかな吐息が、頬を掠めた。
「フェイベル、妹さんは…。」
「大丈夫よ、無事よ!」
 後ろから聞こえた少女の言葉に、涙を溢れさせながら、振り向きはしなかったがフェイベルは思いっきり笑って答えた。手にした体を更に強く掻き抱く。
 同時に腕の中でその体が動くのが感じられた。
「…う、うん…。」
 小さな声が、耳に届く。
「インヴィッテ!無事だったのね、本当にあなたなのね!」
 名を呼び、その肩に顔をうずめる。
 肩の向こうから、かすかな、だけど確かな言葉が聞こえた。
「……おねえちゃん…?」
「よかった…見つかって、本当によかった…!」
 目を覚ました彼女をきつく抱きしめながら、フェイベルはそう言った。
 遠くから彼女らを呼ぶ声が聞こえてくる。森で消えた幼女とそれを追って森へと入っていった少女らを探す村人たちが近づき、またここまで同行したもう一人の少女に見守られる中、フェイベルはようやく見つけ出した妹の温もりを感じていた。

 幾つもの灯りが森を照らし、闇を払う。
 森に入り、糸を頼りに二人を追ってきた村人たちに囲まれながら、フェイベルらは来た道を歩いていた。
 彼女らの蛮勇を叱る言葉もあったが、何よりも、無事に三人ともが見つかったことを喜ぶ言葉が彼女らにはかけられた。
 疲れきった体を支えてもらいながら少女らは足を進める。インヴィッテは村人に背負われ、また眠っていた。
「無事に見つかってよかったわね。」
「ええ。…何もなくて本当によかった。」
 改めて口にされた銀髪の少女の言葉に、フェイベルは苦笑交じりの微笑みで答える。
 ―二人が見つけ出したインヴィッテは、ただ眠っていた。外傷などは一切無く、本当にごく自然に眠っていただけだった。
「それにしても、こんなところまで一人で歩いたなんて。」
 暗い森の中。見回しても、先は闇に溶けて見えない。
 ―落ち着いたところで、フェイベルはまずどうしてこんなところまで一人で来たのかをインヴィッテに尋ねた。そこで彼女は、ごめんなさいと謝りながらも、楽しそうな笑顔で答えを返した。
「それがただ大きなリスを追いかけていっただけだなんてね。」
 一人で遊んでいた時に見つけた大きなリス。それを追いかけていき、途中で見失って、疲れて一休みしたらそのまま眠ってしまった。インヴェットの言葉から分かったのは、これだけのことだった。
 不安と心配が解消され、ようやく得られた安堵からフェイベルは笑う。
「…それは、本当にリスだったのかしら。」
 そこにぽつりと声が聞こえた。
「え?」
 フェイベルが振り返る。銀髪の少女が、遠い目をして一人呟いていた。
「大きなリスは、本当にリスだったのかしら。あるいは、あのイタチは?」
「それは、あなたが見たんじゃ…」
「暗闇の中で飛び出したのを一瞬見ただけ。…そもそも、あそこであのイタチが現れなかったらどうなっていたのかしら。」
 少女の呟きに、フェイベルの顔に一瞬また恐れがよぎる。
「それは…」
「偶然?奇跡が起こった?…あるいは、導いてくれた……」
 森を見つめる少女が、口を閉ざす。
「…何が?」
「……。」
 一瞬の沈黙の後、少女はおもむろに振り返ると笑顔を見せた。
「無事にインヴェットが見つかってよかった。見つけられて、よかったわ。」
「え、ええ。」
 彼女の言葉につられてフェイベルも笑う。
 だけど、その笑いはまた途切れて…沈黙を挟んで、彼女はもう一度口を開いた。
「…ねえ。一つだけ、教えて。」
 隣を歩く銀髪の少女に向かって尋ねる。
「何?」
「あの森で、わたしが泣いた時にあなたは言ったよね。『違う』って。」
「ええ。」
 少女は微笑みのままフェイベルに対してうなづく。フェイベルも同じように微笑を浮かべて、言葉を続ける。
「…どうしてそう言えたの?言い伝えが違うだなんて。あの子が消えていないって。」
 互いの笑顔はいつもと変わらない。それぞれ、村で向け合っていたのと同じ笑顔。同じ存在。
「なのに、今になって、偶然じゃないだなんて。導かれたって。」
 インヴェットは無事に見つかった。もう怖くはない。恐れるものは何も無いはずなのに。
 なのにどうして言葉が止まらないのか。何故、彼女から目を外せないのか。
「……ねえ、あなたは、何を知っているの?」
 ―わたしは何を恐れているの?
 木に遮られ、一瞬月明かりが途切れる。闇の中に表情が消える。フェイベルの視界から少女の姿が隠れる。

「…私がここにいるから。」

 次の瞬間、再び月が現れた。
 銀の髪を光らせ、少女は、同じ表情で嬉しそうに笑っていた。
「インヴェットは妖精にさらわれて消えてしまわなかった。私たちが見つけることができた。―分かってるのは、これだけよ。」
「でも、」
「あきらめずに探したから、助けてもらえたのかもしれない。…でもそんなことは分からないから。私には、分からない。」
 そう言って、いつもの笑顔で、銀髪の少女は微笑んだ。
「帰ろう、私たちの村へ。」
 再び差し出された手。それは土にまみれ、汚れた、温かな手。
「……そうね。」
 差し出された手をフェイベルもまた握って。
 そうして、二人の少女は並んで家への帰り道を歩いた。

                         ― end.






〈やっぱり本誌には未掲載のあとがきのたぐいのおまけ〉

 というわけでどーも、いづみです。” Folk tale.”の読了、まことにありがとうございました。ちなみにタイトルの時点で感づいた方もいたかと思いますが、本作は” Fairy tale. “との連作になっております。まあ内容を見れば分かりますね。多分。
 というわけでこのあとがきのたぐいのおまけでは、” Fairy tale. “では語りきれなかったちょっとした補足をしたいと思います。
 それすなわち―作品制作の裏事情。例年秋の風物詩としておなじみ、京都大学11月祭。通称NF。ワタクシいづみの所属する『創作サークル名称未定』でも、この時に合わせて作品を制作して製本して販売するという企画があります。というわけでそれに合わせて先行して書かれたのが、幻想組曲あと250号に載せた” Fairy tale. “です。さらにその後、NF期間中販売を行う教室に置いたりその他宣伝用に掲示したりするための閲覧冊子用に、続けて書いたのがこの” Folk tale.”というわけでした。背景設定はこんなものです。
 そしてここからが真の裏事情。…この閲覧冊子。規定は、わずか『3P』なのです。(+本誌プレビューの1P)さて。ここまで読んだあなたなら分かるはず。…この原稿、素で7Pありますよね……。というわけでまず三段組に変更、更にページ端の余白を削って面積を稼ぐ、まだ全然足りないのでこの際読みやすさをかなり犠牲にしてフォントを更に小さくして圧縮(つかフォント8ってワードの最低値だろ)、それでも足りるわけが無いので荒業、プレビューページまでの侵食(※一応前例アリ)までも使用して…どうにかプレビュー込みのトータル4Pに仕上げました。いや内容は何も変わらないんでここで語っても意味は無いんですが、この苦しい戦いの記録を残したかっただけです(泣)。というわけでリアルでその原稿とこの原稿の両方を見られたあなたはラッキーです。おめでとう。比較すると…作者の無駄なあがきがよく分かるかと(涙)。
 はい。じゃシメの言葉へ。総制作時間多分7時間ほど。本文9万字超。密かに〆切を破って編集者さん申し訳ありません(謝)。突貫工事の原稿で、あちこちがぼろぼろの穴だらけなような気がしますが……見苦しいものをお見せして本当にもうすみませんでございます。
 それでは本日はこれにて。またどこかでお会いしましょー。
 
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