Black Light 特別編

―innocent children―

いづみ
 どこまでも広がる青い空。
 涼しげな風が、森の木々の間を吹き抜ける。どこかで鳥の声がしていた。

 その一角。切り立った崖がそびえその下が草原になった場所に、二人の少年の姿があった。草の中にしゃがみこみ、時々移動しながら手を動かしている。
 おもむろにその一人が立ち上がった。
「インジェ兄ちゃん!ねー、このくらいでいい?」
 大きな声を出しながら、野草のいっぱい入った籠を頭の上に掲げていた。
 年の頃はまだ7、8歳。ほぼ黒色の髪を短く切りそろえ、少し大きめの服を着ている。浮かべた笑顔が愛らしい。
 一方の声をかけられた少年は、立ち上がって相手の方を見て答えた。
「見えないぞ!ナイ、もっとこっちに来いよ!」
 立ったその背はさっきの少年よりも高かった。13,4歳ぐらいだろうか、似たような服を着て左手に野草の束を掴んでいる。少し気の強そうな顔立ちに赤みのかった髪がよく似合う少年だった。
 籠を持った少年がこの少年に駆け寄ってきた。差し出された籠の中身を覗いて呟く。
「オレのと合わせたら十分だな。」
 そして自分の持っていた草をその中に放り込んだ。
「じゃあ帰ろうよ。のどかわいた。」
「そうだな。…ばあちゃんも待ってるしな。」
 手ぶらになった少年は、さっきまでしゃがんでいた地面に手を伸ばしてあるものを拾い上げた。
 それは杖だった。簡素ながらもしっかりとした彫刻が施され、その柄には細かな紋様も刻み込まれている。さらには先端に大ぶりの宝玉が付けられていた。…つまり魔法使い(メイジ)の杖だ。ただしその長さは少年の身長よりもさらに長かった。
 少年は慣れた手つきで杖を持ち替えて、ついさっきまでかがめていた腰を伸ばした。視線は自然と空に向かう。視界の端で、シルエットのように見える崖から何かが飛び出すのが見えた、
 一瞬岩のように見えた。しかし、その影にやけに出っ張りが目立ち、しかもその出っ張りが動いたのだ。―あれは、人だ。
「ナイ、こっちに来い!」
 反らしていた背を戻して、先に歩き出していたもう一人の少年の手を掴んで引き寄せる。そして再び空を見上げると杖を両手で握り地面に突き立てた。
「どうしたの?」
「黙ってろ!…風よ、彼の者を支えよ(イ・ホペ・インダ・ト・レス・ウンディ・ヘ)!」
 呪文とともに、杖の先端で空気が大きく渦を巻いた。辺りの空気が急速に集められる。目で見えそうなほどに濃い塊となった空気が、その落ちゆく影めがけて放たれた。
 籠を持った少年は空を見て驚きの声を上げた。上から、落ちてくる人の姿があった。そしてすぐ近くで突き立てられた杖から放たれた空気の塊がその相手に当たったかと思うと、まるで水の中に入ったかのように落ちる勢いが弱まったのだ。
 しかし落ちていることに変わりはなかった。少年はしばらく杖を握りしめ、歯を食いしばって力を込めたが、ついに耐え切れず杖を大きく横に振った。
 杖の動きに合わせ影も大きく横へ―すなわち、広がる森の方へ跳ね飛ばされるように飛んだ。
 そして。
 一瞬の間の後、辺りに木々のへし折れる音が響いた。

 影の落ちた先。木の枝が折れてぽっかり開けた空間に、その人物の姿があった。折れた木の枝や葉に半ば埋もれるようにして一人の青年が座り込んでいる。
 黒色のロングコートに、それよりもなお黒い漆黒の長髪。手袋をはめた片手で頭を抱え込んでいる。開いた目は、切れ長で、髪と同じく黒い瞳をしていた。
「…いてて…。」
 青年が軽く頭を振ると、その頭上にあった葉がかさりと落ちた。
 しばらくそのまま座り込んでいたが、やおら立ち上がると全身を手で払った。服に刺さった小枝を引き抜く。コートの所々に裂けた跡などもあったが、体には怪我はないようだった。青年は自分の腰にある片手剣の存在を確認して、一緒になって落ちた荷袋を拾い上げた。
 乱れた髪を手で軽く整えると、頭上を見上げた。折れた木の枝に少しだけつらそうな表情を見せる。そして辺りを見回し……遠くから自分を見つめる二組の瞳を見つけた。

「君たちが、僕を助けてくれたのかい?」
 警戒しているらしく自分をにらんだまま動かない二人の少年に対して、青年は優しげな声で尋ねた。
 二人の少年のうち背の高い方が小さくうなづいた。だが少し離れたその場からは近寄ろうとしない。青年は苦笑した。
「ありがとう、助かったよ。…ついでに悪いんだけど、ここから街道に出る道を知りたいんだ。教えてくれないかい?」
 そう言って両手を上げ敵意のないことを示す。少年はしばらく青年を見た後、ぼそりと答えた。
「いいけど、街道沿いに今から歩いて夜までに着ける村は一つしかない。オレたちはそこに帰るから、よっぽど急ぎの旅でないならこっちに来た方がいいと思う。」
「…分かった、じゃあ君たちの村に行こう。」
 青年はその少年の言葉に素直に感心した。自分の方にはこれといった問題もない。だからその言葉に甘えることにした。
 青年が返した答えにようやく警戒を解いたらしい少年が、もう一人の少年の手を引いて木の陰から姿を見せた。
 青年に返事をしていた少年は年上のようであり、手に不釣合いなほど長い杖を持っていた。ただ魔法使いと言うことはさっきの事で分かっていたから青年は驚きはしなかった。そして出てきた少年は両手で大事そうに野草の入った籠を抱えている。二人の服装はよく似た、この辺りではごく普通のものだ。あるいは兄弟かもしれない。
 幼いほうの少年が、警戒などとはもはや無縁の表情で青年を見て言った。
「お兄ちゃん、名前なんて言うの?」
「ナイ!」
 強くたしなめられ、ふくれっ面をしてそっぽを向く。
 そんな二人に対して青年は少し笑いながら答えた。
「僕の名は、フォン・ナシィだよ。ナシィって呼んでくれればいい。」
 そっぽを向いていた少年は、ナシィの言葉に再び輝いた眼を向けた。
「ぼくと似てるね!ぼくは、ナイ・テネシオ。でね、兄ちゃんが…。」
「インジェ・テネシオ。」
 ナイはさっきまでの警戒が嘘のように人懐っこい声で名乗り、一方のインジェは仏頂面を隠そうともせずに短く答えた。そして引いていたナイの手を離す。
「ほら、ナイ。ばあちゃんが心配するからさっさと帰るぞ。それからお前…ナシィ、遅れずについてこいよ。」
「ああ。分かったよ。」
 ナシィが答えるとインジェは森の中を向き早足で歩き出した。ナイも慌てて後を追う。
 ナシィもそんな二人を穏やかな目で見ながら、その後ろを歩き出した。

 二人は草木の生い茂る森を全く苦にした様子もなく歩いていた。
 まだ人の手はほとんど入っておらず、もちろん道などは全くない。しかし少年たちは慣れているのか特徴ある木や岩を目印として迷わずに歩いていた。インジェが先頭で辺りに注意を払いながら歩く。道は分かっていても、飢えた獣にいつ出くわさないとも限らない。そしてナイはインジェの後を歩くナシィに並ぶように歩いていた。
「ねぇねぇ、ナシィ兄ちゃん、さっきの痛くなかった?」
 初対面ながらすっかりナシィになついたらしいナイが、ナシィに話しかけた。少しだけ心配そうな顔をしている。
「大丈夫だよ。君の兄さんが、魔法で助けてくれたからね。」
 ナシィが兄のことを口に出すと、ナイはひどく嬉しそうな表情になった。
「うん。兄ちゃんは強い魔法使いだもん!」
「そうだね。人間の魔術師(ウィザード)として、かなり優れた才能がありそうだ。」
「兄ちゃんはすごいもん!エルフにだって負けないよ!」
 真剣になって言い張るナイに対し、ナシィはすぐに謝った。その先には黙ったまま前を歩くインジェの深い赤味のかった髪がある。
 魔法使いとしての力量を決めるのは、その人物の持つ魔力である。知識や技術は訓練などでも身につけることができその影響も大きいのだが、使える魔法の大きさを決めるのは結局のところ魔力の大小なのだ。そしてこの潜在魔力の大小は一目見ることで知ることができた。―髪と瞳の色である。魔力が高ければ高いほど、その髪と瞳の色は鮮やかな原色に近づく。色は個人の誕生石と同じ色だ。ただ、人間とエルフという異種族ではその魔力の量は大きく異なる。人間ではその魔力の大きさがいかほどであっても髪の色は黒を基調としたものになるし、逆に生来高い魔力を持つエルフでは全ての者がかなり鮮やかな色の髪を持つ。
 これが、ナシィがインジェについて『人間の魔術師としてかなり優れている』と言った理由だった。
 そしてナイがまだ不満げな顔をしていたので、ナシィは話題を変えた。
「ところでナイ、君の村は何て名前の所だい?」
「んーとね、メアドの村。」
 以前に道を尋ねた時に名前だけは出た村だった。村の様子が気にはなったがこの位の子供ではそこまでは聞けないだろう。
「お兄ちゃんはどこの人?アドの村?それともナディスの町?」
 それぞれメアドの村の両隣にあたる村と町の名だ。
「いや…もっと東の、遠くから来たんだよ。」
「どれくらいかかるの?」
「そうだなあ…。」
 ナシィはふと遠い目をした。眼前に広がる森の彼方、果てしない空を見つめるかのように。
「昔から旅をしていたから…もう分からないくらいだよ。」
「ふーん。」
 一瞬つまらなそうな顔をナイは見せたが、その表情はすぐに笑顔に変わった。
「じゃあ、遠くの話をしてよ!東の方には竜がいるんでしょ、ぼく本で読んだよ!」
「いいよ。東の果てに住む竜の伝説や、そうだな。村よりも大きなロック鳥の話を知ってるかい?」
「知らない!そんな大きな鳥がいるの?」
 ナイが目を丸くする。その驚きに溢れた表情にナシィは微笑んで答えた。
「僕は見てないけどね。ずっとずっと前のおじいちゃんが見たっていう人から聞いたんだよ。…そうだな、どうせ今夜は村に泊まることになりそうだし。村に旅人を泊める宿はあるのかい?」
 少し考えてからナシィは言った。その言葉にナイは嬉しそうな笑顔を見せた。
「うん!じゃあ、ぼくの家に来てよ!」
「うーん。嬉しいけど、家の人に迷惑が掛かるといけないからぼくは宿に泊まるよ。」
「だから、ぼくの家に来てって言ってるじゃん!」
 ナイの言葉にナシィが戸惑っていると、今まで黙って前を向いて歩いていたインジェが顔だけ向けて言った。
「だから、オレたちの家が宿をやってるんだ。『森の小道亭』。…一応村にはあと一つ宿屋はあるけど、そっちは高いからな。それからナイもちゃんと説明しろよ、ナシィはうちが宿屋やってることなんか知らないんだからな。」
「はーい。ね、大丈夫でしょ?」
 説明に、少しだけ客引きの言葉も付け加える。二人の服装や様子を見る限りでは問題は無さそうだし、別に高級な宿に泊まる気もない。何よりわざわざ助けてもらった恩もある。この二人の家に泊まることにナシィは決めた。
「そうなんだ。じゃあせっかくだ。君たちの家の宿にお客として泊まることにするよ。」
「じゃ、その大きな鳥の話もしてくれるよね?」
「ああ。旅の途中でたくさん話も聞いたし、いろいろ話してあげるよ。」
 その言葉にナイは目を輝かせてナシィの足に抱きついた。少しバランスを崩しそうになって、体を立て直したナシィの手がその頭を軽く撫でる。
「ナシィは吟遊詩人でもやってるのか?」
 ナイとナシィの会話をちゃんと聞いていたらしく、インジェが歩きながら聞いた。
 歌と物語の語り手として旅をする職業が吟遊詩人。話をたくさん聞いた、という言葉からインジェはそう思ったらしかった。
「いや、一応は剣士(ソーズマン)さ。まだまだ駆け出しだけどね。」
「剣士?」
 おもむろにインジェはナシィの方を振り返って立ち止まった。全身を確認するように見て、腰の片手剣に目を止める。合わせて足を止めたナシィの足をつかんでいたナイは、その兄の様子に気がつき目線の先に手を伸ばそうとした。
「おっと、これは危ないからね。」
 気がついたナシィが剣を鞘ごと手の届かない高さにまで持ち上げる。
 だがインジェはその何気ないやりとりも目に入ってないようだった。うつむいたその顔にはひどく思い詰めたかのような色があった。
 しばし無言の間があった後、顔を上げた。
「…戦えるんなら、村で、力を貸してくれないか?もちろん、仕事代は村長から出る…はずだから。」
「一体、どうしたんだい?」
 その様子に気付いたナシィが剣を戻しながら言った。
 インジェが言葉に詰まりながらも話を続ける。
「村に、また『あいつ』が…魔物が出たんだ。こっちだって戦ってる。けど追い払うだけで、とどめをさせずにいて…。」
「じゃあ、どうして村で冒険者(アドベンチャラー)を雇わないんだ?旅の冒険者が来ることもあるだろうし、来なくともナディスの町まで行けば依頼の口はあるはずだ。」
 ナシィの言葉は正しかった。実際、村人が実情はどうあれある程度対抗できている魔物相手ならばちゃんとした冒険者を一人か二人雇えば十分対処できるだろう。
 しかしインジェはその言葉に対してきつく唇を噛み締めた。目元が険しくなる。
「村長が別に雇うまでもないって…多分もうすぐ死ぬだろうし、雇うのは色々都合も悪いとか言いやがって…。でも、『あいつ』のせいでオレたちはっ!」
 それまでの歯切れの悪い口調を急に変え一気に喋ろうとした所で、インジェは突然我に返ったかのように口をつぐんだ。深い怒りと悔しさに歪んでいたその顔を隠すかのように素早く下を向く。
 この急激な変化に戸惑ったナシィは、コートの裾をまだ持っていたナイの方をそっと見た。しかしナイも兄のこの様子に不思議そうな顔でナシィを見上げた。
 再びインジェの方を見た。動く気配はない。
「…何があったというんだ?」
「いいよ、もう。なんでもない。どうせ余所者の手を借りたりしたら村長が嫌な顔をするに決まってるんだ。…自分で何とかするから。」
 先ほどまでの激しい感情の表れがまるでなかったかのように、呟くようにインジェは答えた。そのままナシィの返事も聞こうともせずに踵を返す。
ナシィもまたその仕草に開きかけた口を閉じた。少なくとも今のインジェには話す意思はないだろう。聞き出すことなどできはしない。
 再びインジェは歩き出した。ナシィも、不安そうに自分と兄を見るナイの背を軽く押して足を踏み出した。
 杖が草を払い、葉のこすれる音が聞こえる。
「…それに、『あいつ』は、『あいつ』だけは……。」
 握った手に力を込め、胸から抑えきれないかのようにこぼれたその声は、そうした音にまぎれて誰の耳にも届くことはなかった。
 薄暗い森の中、どこかで鳥が鳴き声とともに飛び立ったようだった。

「あと少しで街道に出る。そしたら、村は目の前だ。」
 体と草木がこすれる音、風と獣のざわめきしか聞こえなかった中でインジェが言った。
 ナシィはその言葉で森の中を見回した。確かにさっきまでよりも少しだけ辺りが明るくなっている。進む先に目を凝らすと、まばらになった木の向こうに道らしきものが見えた。
「ねぇ。」
 コートが引かれる感触と声に、ナシィは脇を見た。ナイがじっと見上げていた。ただその目は、少し前までのように何の屈託もなく自分を見上げてはいなかった。
「何だい?」
「…ここに、いつまでいてくれるの?」
 ナイの目には、どこか寂しげな雰囲気があった。こんな幼い子にはあまり見られないような、望みながらも何かあきらめのようなものがあった。
 だが、その言葉には答えられない。
「とりあえず、2,3日ならいてもいいけど…。」
「ねえ、もっといちゃダメなの?」
「それは…できないよ。」
 自分の言葉にナイが悲しそうな目をしたのが、はっきりとナシィには分かった。コートを握りしめる手の力がかすかに強まる。
 そこに前を見たままのインジェの言葉が飛んだ。
「ナイ、いいかげんにしろ。」
「だって…。」
「ダメだっ!」
 厳しい声だった。身を一瞬ビクッとさせたナイが今にも泣き出しそうに肩を震わす。コートを掴んでいたその手がゆっくりと滑り落ちた。
 ナシィの手がそのまま黙っていたナイの肩に触れた。
「そう長くはいられないんだ。一応、僕は旅をしている。まだ一つの所に留まるわけにはいかないんだ。」
 同じ人のいる地に、関わりを持ったまま長く居続けることはできないだろう。だが関わりをもたずにいることなど決してできはしない。だから、旅を続けるしかない。…口には出さずそう胸の内でナシィは呟いた。
「…わかった。」
 ナイは目を潤ませ大きくうなづいた。
 そのすぐ後に辺りは明るくなった。

 森を抜け、インジェが道へと曲がった先に村を囲む塀が見えた。歩いてほんの数分。
「意外と大きめの村だね。」
 町で名前しか出なかったことや宿の数から想像していたよりも、塀が囲む土地は広そうだった。
 すぐに門の前に着く。改修された後のある大型の門は今は開放されていた。すぐ側の小屋から自分たちを見ていた門番にナシィは軽く会釈する。そのどことなく期待と不安を交えて自分を見る目に、村にとっての余所者の微妙な存在を見た気がした。
「とりあえず一度家に戻るけど、構わないよな?」
「ああ。確か『森の小道亭』だったね。」
「うん。こっちだよ!」
 笑顔に戻っていたナイが力強くナシィの手を引いた。まっすぐ目の前の広い通りに向かって歩き出す。
 旅人が最初に通るであろう道だからなのか、大通りには普通の村人のための店に混じって旅の道具屋などもあった。だが全体的には規模に対し閑散とした通りである。
 見回したナシィはすぐに原因に気付いた。日中だというのに閉まっている店が多いのだ。さらに付け加えるならば、男手がほとんど無かった。威勢のよい呼び声を上げているのはいずれも女性であり、子供と老人ぐらいしか男性は見られない。
 どうやら考えていたよりも実際の状況は悪そうだ…そうナシィが思った矢先、宿屋を示す古びた看板が目に入った。同時にナイが声をかけてくる。
「あそこだよ!」
 指差した先には宿そのものの看板があった。歩いて近づきながらそれを見る。
 『森の小道亭』。古びてはいるが、よく手入れされた看板だった。店の外観にもさびれた雰囲気は感じられない。
 インジェが扉を静かに開いた。
「ただいま。」
「ただいまー!お客さん連れてきたよー!」
「お邪魔します。」
 扉の先は小さな食堂になっていた。店内は窓から差し込む光で明るかったが、人の姿はなかった。と、カウンターの奥から一人の老婆が姿を見せた。
「お帰り。それから、あんたがお客さんだね?いらっしゃい。」
 質素な服に身を包んだ老婆は、柔和そうな笑みを浮かべてナシィたちの正面に来た。顔には深い皴が刻まれその重ねてきた年月の長さを思わせるが、腰はそれほど曲がっておらず声もはっきりとしていた。
「どうも。個室で、二泊頼みたいのですが。」
 ナイのさっきの表情が頭をよぎったが、まずはこれだけにしておいた。今は、ナイは自分の前に出ているためその顔を見ることはできなかった。
「どうぞどうぞ。今は他にお客もいないからね、好きな部屋を選ぶといいよ。じゃあ…ナイ、手を洗ってきたらこの人を二階に案内しておやり。」
「はーい!」
「じゃ、オレはこれを洗ったら出かけるからな。」
 インジェがナイの手から籠を取った。そのまま店の奥に入っていく。
「ちょっと待っててね。」
 ナイもそう言って、店の奥に小走りで入っていった。
 その二人を見守る老婆の横顔をナシィは見た。微笑む口元が、どことなく二人に似ている。恐らくは祖母なのだろう。その眼差しは優しかった。
 小さな水音が、したと思ったらすぐに止んだ。鍵束を濡れた手で持ったナイがさっきと同じように小走りで戻ってきた。
「おやおや、ナイ。ちゃんと手を拭かなきゃいかんよ。」
 老婆の言葉に慌てて自分の服で手を拭う。
「じゃあ、案内してくれるかい?」
「うん!」
 ナイがナシィの手を引いて、小さな階段を元気よく上っていった。

 二階の一部屋、窓から森がよく見える一人部屋をナシィは選んだ。
 鍵を一つナイから受け取ると、ナイはすぐに下に戻っていった。後でいろんな話をしてねと期待に満ちた目で念を押すのは忘れずにいたのだったけれども。
 扉を閉めて窓を全開にする。使い込まれた木枠の窓は小さな音とともに開いた。この古い宿で同じことが一体何回繰り返されたのだろうか。日差しがガラス越しではなく直接部屋に降り注ぐ。
 窓の前に立ったナシィの髪を、森から吹いた風が優しく撫でた。その柔らかな感触にナシィは微笑んだ。だがその顔にはどこかを振り返るような色もあった。
「…まぶしいな…。」
 昼下がりの太陽はまだ強く輝いている。空を見上げたナシィは片手を額にかざし、それでもなお眩しそうに目を細めた。
 室内であるのにロングコートを着て手袋もはめたまま、手にしていた荷物―といっても小さな荷袋だが―を机の上に置く。袋の中身は旅をするにはいささか妙だった。食料や水の類は一切なく、小物と着替え一式。そしてさらに布で巻かれた物があった。靴一足ほどの大きさのその物は何重にも包まれているらしく、その正体をうかがうことはできない。ナシィはその袋の中から貨幣の入った革袋だけを出して懐にいれ、再び荷袋を体にくくりつけた。まだきちんと直してなかった長髪を部屋の鏡を見て軽く結わえる。
 身支度を整えると、ナシィは窓を閉めて部屋を出た。

 二人の姿が見当たらなかったので、二泊分の宿代を老婆に支払うとナシィは一人で村を見てくることにした。
 宿屋から一歩足を踏み出すと、日光が全身を包む。暑くなりそうだったがコートの胸元を少し開けるだけにして歩き出した。
 大通り沿いに一度村の入り口まで戻る。ゆっくりと確認しながら歩くと気が付いた。閉まっている店は色々だが、武器・防具の店は必ず開いてないのだ。大通りの男手の少なさも合わせて考えれば何が起こっているのかは想像がつく。
 ナシィの表情は暗くなった。ハンターを雇おうとしない村は旅の途中でいくつも見てきたしその理由も様々だったが、一つ言えることはある。魔獣も魔物も、素人だけで何とかしきれるものではないのだ。追い払うだけならあるいは可能かもしれない。だが、一度村を狙うと決めたのならきっとまた襲ってくるだろう。こうなればもう追い払うことは無理だ。そしてハンターを名乗って旅するだけの実力を有する者でなければ、仕留めることはできない。
 村を見たところ、ハンターを雇う金もないほど貧しいとは全く思えなかった。近隣でも特に大きな町の隣にあるおかげか山地の村としては裕福な方だと言ってもいいぐらいだ。そしてインジェは確かに『魔物』と言っていた。ならば今の状況はさらに悪い。魔力を備えた知能の高い獣にすぎない『魔獣』ならば、人が制することもできる。しかし『魔物』は元々こことは異なる異界の生物。この世界にいる人の手に負えるものではない。どこからか現れ野生化したものも多いが、呼び出した術者が制御に失敗して逃走したものもいる。無論後者の方が強い力を持ち、さらに人に対する憎悪を抱いていることもほとんどだ。自世界から無理やりに召喚され帰ることもできなくなった魔物は、自分を召喚した人そのものに憎しみを持つからだ。今回のケースがどのような状況にあるのかはまだ分からないが、いずれにせよこのままにしておけないのは間違いない。
 さらにもう一つ。インジェが洩らした言葉、「あいつのせいでオレたちは…!」。自分の物にしてはいささか長すぎる杖を持っていた彼が、この魔物と何らかの特別な関わりがあるのは明らかだった。ただあの時のナイの態度を見る限り、ナイは何も知らされていないに違いない。
 ナシィは宿の方向を振り返った。
 自分の行動は単なるお節介かもしれない。今の自分にできることなどごくわずかだろう。それでも、放っておきたくはなかった。…崖から落ちたあの時、二人に出会ったのが一つのきっかけだったのかもしれない。時間そのものなら、本当は十分にある。
「何にせよ、あの子らに話を聞かなきゃな。」
 気の強そうなインジェの顔を思い出して一人苦笑交じりに呟き、ナシィは再び顔を上げた。
 入り口から村を囲む塀沿いに村内を歩く。どうやらこの塀は獣避けの簡素な物に補強を施したものらしい。しかし元が木製の簡素な物なため強度に不安が残る…と思っていると、先で壊れた塀を補修しているのを見つけた。
 そのまま歩いて近づく。
 作業をする人手の中、話し合う老人と男性の姿があった。土木作業のための軽装の男たちの中でその二人だけが整った服装をしている。
 ナシィが何気なく見ていると、偶然辺りを見回した老人と目が合った。老人が会釈する。
「すみません。この塀…何かあったんですか?」
「お前さんは旅の者かね?」
「ええ、そうです。」
 ナシィは自分から声をかけた。このことに関わると決めた以上、情報は少しでも集めておいた方がいい。
「メアドの村によくいらっしゃった。もう村の中は歩かれたのかな?見ての通りの穏やかな村じゃから、ゆっくりとしていかれるがよろしかろう。そうじゃ、宿はもうお決めなさったかね?中央の大通り沿いに二軒あるが、好みに合わせて選ぶとよい。一つは…。」
「い、いえ。宿はもう『森の小道亭』に決めましたので。」
「おお、あそこになされたか。あそこは老夫婦が二人で経営する静かな宿じゃ。安い値段で自慢の名物料理が食べられるぞ。お金に余裕があるならおかみに…。」
 よく喋る老人だった。
 村の宣伝やら何やらを聞きながらナシィは思った。口ぶりから察するに、恐らくこの老人は村長かそれに近い職にあるのだろう。そして、横に立つもう一人の男は冷静な目で自分を見ている。
「…でな、一度聞いてみるとよい。聞いとるかの?」
「あ、はい。また明日にでもしてみます。それより、この塀は…。」
 本題を再びナシィが尋ねると、老人は一瞬鋭い目を向けたように思えた。しかしすぐにさっきまでと同じにこやかな表情で答える。
「すっかり忘れとったわい。これか?ついこの間、狩りで仕留め損ねた手負いの大熊が暴れての、村の側じゃったもんでこんなことになってもうたんじゃ。じゃがそこで我が村の自警団が…。」
 再び大げさな身振りまで加えて長話を始めた老人には構わず、ナシィはその塀を観察した。しかしもっと近づかないと細かな様子は分からない。塀はかなりの力で壊されたみたいなので辻褄は合っているようだが…。
「こら、ちゃんと聞いとるのかね?」
「え?あ、はい。」
「全く、最近の若いもんは礼儀がなっとらんな。まあとにかくそんなわけじゃ。」
「…はい。」
 さすがに老人は機嫌を悪くしたようだった。そこに、今まで無言で立っていた男が小声で静かに言った。
「…村長、そろそろ。」
「そうか。ま、ともかく。お若いの、ここは平和な村じゃ。のんびりとしていかれるがよいじゃろう。わしは用事があるので失礼するが、何か知りたいことがあればこの男に聞くとよい。それではな。」
 村長か何かと判断したナシィの考えは正しかったようだ。
 老人は横の男に二、三言伝えると一人で歩き去っていった。後に残った男はそれを見送ってナシィに向き直った。
「さて。何か聞きたいことはありますか?」
 まるで事務的に用件だけを伝えるような冷淡な言い方だった。
「この塀が壊された、その時のことについて詳しく知りたいのですが。」
「その事ですか。ま、いいでしょう。」
 慇懃無礼。そんな言葉がナシィの頭をかすめた。
「一週間前のことです。自警団の団員七名が班を組み、この村の周辺の森で狩りにあたりました。その際に発見した一頭の熊に矢を放ち斬りかかった折に、左足を傷つけるも動きを止めるに至らず逃走。この塀に体当たりをかけ破壊して村内に侵入し、偶然そこを歩いていた親子に襲い掛かったがこれを自警団の追撃によって撃退しました。…以上ですが、他に何か?」
「…いえ、結構です。」
「そうですか。では、失礼します。」
 そう言うやいなや、男は修復作業の場に加わりその中の一人と相談を始めた。
 ナシィは少し迷ったが結局その場から先に歩いていった。横目でその塀の近くの地面を見たが、すでに人の足で散々踏まれており獣の足跡の判別もできなかった。内心に少々納得のつきかねるものを感じつつも早足でその場を去る。
 気分はどうあれ冷静さまでは失っていない頭でナシィは今の出来事を考えていた。あの男はともかく、村長もどうも疑わしい。仮にも一つの村を治める者、単なる長話好きの老人でもないだろう。結果として村長にあまり質問できなかった事も事実である。考えすぎと言えばそうかもしれないが…。
 どこからか不意に聞こえてきた声に、ナシィの思考は中断させられた。周囲を改めて見回すとちょうど道が分かれている。正面は今までどおり塀に沿って進む道、左手には村の中央に向かう一本の通り、右手には外に出る門があった。声は左の方から聞こえてきた。すでに昼も過ぎている。あまり遠出をしては宿に戻るのが遅くなってしまうだろう。ナシィは左手の通りに足を向けた。

 民家が散在する通りを抜けると正面に広場が見えてきた。声は、その広場からする。
 近づいてみて納得した。若者から中年に近い男性までが二十人ほどで、剣や槍などの訓練をしていた。聞こえてきたのは気合を込めたその叫び声だったのだ。木刀のぶつかる堅い音が響きわたる。
 その様子を見ながら歩いていたナシィは、近くで魔力の集まりを感じた。その方向に目を懲らすと広場の奥で魔法使いのものらしき杖が動いているのが見えた。広場の端を回ってその場所に向かう。
「大地よ、力強き腕と化して彼の者を砕け(イ・ホペ・ラン・ト・レカル・エイル・レス・ヘ)!」
 若い叫び声がした。屈み込み地面に手を突いている人物の正面で、土が言葉の如く腕状に持ち上がりその先に立てられた人形に襲いかかる。しかし同時に出現した光の壁がその腕と激突した。壁が前に進もうとする腕を止める。
 拮抗した両者の力にそれぞれの魔法が同時に安定を崩し始めた。腕にはひびが走り湿った土がこぼれ、壁からは光が閃光となって飛び散る。
 だがこの状態は長くは続かなかった。わずかに腕の力が強く、壁から散る光が激しさを増す。音を立てずに火花が走り、壁が振動した。
 次の瞬間、壁は澄んだ破壊音とともに拡散する光と化した。
 全てを見ていたナシィは壁が壊れる瞬間に顔を手で覆っていた。純粋な光が肌を灼く。
 顔を上げたナシィの先には、座り込んだまま肩で息をつくインジェ、そして倒された人形とその横に同じく疲労しながらも立っている男の姿があった。
 一息ついてから地面に転がった杖を拾ったインジェは、そんなナシィの存在に気がついた。ナシィも片手を挙げて挨拶し近づく。
「なんだ。見てた、のか。」
「まあね。魔法の実戦訓練かい?」
「そんなとこ。」
 疲れているせいもあるだろうが、インジェの口は少し軽くなっていた。とはいえ息切れのせいか言葉は途切れがちになっている。
「そっちこそ、何で、こんな所にいるんだ?」
「村を歩いてたらたまたま訓練しているのを見つけたんだよ。…一応はみんなで対抗しようとはしているみたいだね。」
 ナシィは後方を振り返った。そこでは村人たちが武器の訓練を続けている。
 確かに村人たちは皆訓練をしていた。だが熱心なのはごく一部。ほとんどの者は適当に木刀や槍を振るっている。時折響く叫び声も、よく聞いてみると二、三人のものにすぎなかった。
「半分以上は村長とかの命令で仕方なくやってるのさ。対抗する気なんかあるもんか。」
 インジェは憮然とした面持ちでぼそりと言った。
「だが、それじゃ危ないな。」
「どうせそいつらは、いざ本番となったらすぐ逃げ出すに決まってるよ。…怪我一つさえしないうちに。」
 目の前を睨みながらそう口にした時、少し離れたところからインジェを呼ぶ声があった。転がった人形の横に長い杖を持った男が立っている。インジェは手を挙げて、少し待って、と返事をした。
「ナシィ、もう宿まで帰るのか?」
「そうだね。夕方になる頃までには戻るつもりだったし。」
「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐに切り上げてくる。」
 インジェはそう言うと、立ち上がって男のところに歩いていった。少し話し込んだ後すぐに戻ってくる。
「話はつけた。家まで帰ろう。」
「いいのかい?」
「どうせもうすぐ終わる時間だったから。大きい魔法を使えるまで休んでたら先に時間が来るし。」
「今戻っても、終了の時間までいても同じってわけか。」
「そう。」
 二人は並んで大通りを歩き出した。
 西の空がほのかに赤く染まり風が吹いている。すでにインジェの呼吸も落ち着き、帰る足取りも速くなっていた。
 正面を見たままインジェがぽつりと言った。
「そういや、ナシィって旅をしていたんだよな。」
「ああ。何か聞きたいことでもあるのかい?」
 ナシィが顔を向けると、逆にインジェは黙り込んだ。ただ、何かを考えているその表情を見てナシィは静かに待った。
 しばし迷っているかのような間の後、インジェはもう一度口を開いた。
「…魔物と戦ったことはあるのか?」
「それは…一度だけなら。」
「一度だけ?何だ…。」
 その表情に落胆の色が浮かんだ。そのまま再び口を閉ざしたインジェに今度はナシィから尋ねた。
「魔物について、何か知りたいことでもあるのかい?」
 インジェは何も答えなかった。少しだけ不機嫌そうな表情のまま前を見て歩いている。
「…無理に答えなくてもいいよ。でも、よかったらその魔物について教えてくれないか?何か手助けができるかもしれない。」
 その言葉に、インジェの横顔にかすかな驚きが混じったのが見えた。だがその表情はすぐにもとの厳しいものに戻る。
「…どうせ、戦ってはくれないんだろ?村長からの金だって出るわけないんだ。」
「お金のことはいいんだ。命を助けてくれた、そのお礼だよ。…ちゃんと完全に追い払えるかどうかまでは話を聞かないと分からないけどね。」
 落ち着いた口調で話したナシィに、初めてインジェは振り返った。驚いた顔のままナシィを見上げた。だがナシィがそのインジェに微笑みかけるとあわててさっきまでのように進行方向に向き直った。ナシィは優しげな笑顔のままインジェを見続けている。
「…ありがと。」
 そっけない口調だったが、確かにインジェはそう答えた。それに対しナシィは言葉ではなくうなづきを一つ返し、自分も前を見て歩き出した。
 夕暮れの村は今日最後の賑わいを見せている。
 その先で、『森の小道亭』の看板が薄赤く染まりながら二人を待っていた。

 入り口の扉が開いた瞬間、勢いよくナイが飛び出してきた。
「おかえりなさーい!」
 そのまま驚くナシィの足に抱きつく。するとインジェがその襟首を後ろに引っ張った。
「いいかげんにしろ。ほら、お客さんが帰ってきたってばあちゃんの所に言ってこいよ。」
「はーい。」
 ナイは渋々離れると、ナシィの顔を見てにっこりと笑った。
「ちゃんと、夜に話はしてあげるからね。」
「うん!」
 元気よく答えてナイは宿の奥に駆けていった。
「ったく、あいつは…。」
 その後ろ姿に呟いたインジェの姿に、ナシィは思わず笑ってしまった。しかしインジェに振り返られて慌てて目をそらす。
 インジェは少しだけむっとした表情で言った。
「夕飯の品は何がいい?希望があるなら伝えとくから。」
「そうだね…何でも、名物料理があるらしいからそれにしようか。」
 村長の長話を思い出してナシィは何気なく口にした。しかしその言葉に驚いたのかインジェは即座に早口で答えた。
「村長に会ったのか!」
「そ、そうだよ。…何で分かったんだい?」
 戸惑うナシィに、少しだけ苛立ったような顔でインジェが説明した。
「『名物料理』なんて大げさな言い方するのは村長がおべっか使う時だけだよ。どうせ、村長の長話につき合わされたんだろ。」
「ああ、その通りだよ。」
「村長のやつのよく使う手だ。何かまずいことがあると、急に長々と話し出してごまかすんだ。いつもはほとんど自分では話さないくせに…。」
「…え?」
 あの長話はやはりただの趣味ではなかった、ということか。
 ナシィは自分があしらわれただけと知りつつもその見事な手腕に正直感心していた。確かに本題に戻ろうとした時に一瞬だけ見せた、あの疑わしげな鋭い目を見れば納得がいく。
 が、そんなナシィの様子にインジェの不機嫌さはますますつのったようだった。
「村長の奴め…。」
「こらこら、村長様のことをそんなに悪く言うものじゃないよ。」
 いつの間にやってきたのかあの老婆が部屋の奥からインジェに声をかけた。ただ言葉こそたしなめるものではあるが、それほど強い咎めの響きはない。
「いいんだよ、あんな奴はっ!…そうだ、ナシィにあれ出してやってよ。村長から聞いたらしいから。」
 インジェは一瞬驚くべきほどの強さで反論したが、すぐにその表情を戻して付け加えた。
「あれだね?じゃあナシィさん、少しここの席で待っていて下さいな。今夕食をお持ちしますので。」
「ありがとうございます。」
 ナシィが礼を述べると、老婆は笑顔を返して奥に戻っていった。
 残ったナシィとインジェはすぐ近くの席に並んで座る。灯りのまだともされていない室内は、沈みかけている太陽のために薄暗かった。
「…村長にはどこで会った?」
 手にしていた杖を机に立てかけてインジェが質問した。
「村の塀沿いに歩いていてちょうど壊れている所でだよ。塀の壊れている理由を聞いたら、一度はぐらかされてその後熊のせいだと教えられた。それからそこに一緒にいた男の人も同じことを言ってたな。」
 ナシィの説明を聞いてインジェは舌打ちした。
「村長と、今日の修理班は三班だから…何か冷たそうな男だったろ。」
「ああ。」
「自警団の班長の一人だ。あくまで隠そうとしやがって…。」
 怒りすら混じった目で薄暗い室内を睨み付けて呟く。
「やっぱり、あれは君の言う魔物の仕業なんだね。」
 ナシィは念を押した。
「そうだよ。でも村長が村の奴ら全員に口止めしてるから、外から来た人とかにはまず分からないさ。いつまでも隠し通せなんかしないに決まってるのに。」
「それに反対している人はいないのか?」
「今のところはいない。…オレ以外は。村長は、仕事自体は優秀だから。あの村長になってから確かに村は豊かになったみたいだ。だからその村長が言えばまず誰も反論なんかしやしないさ。…自分たちが相手にしてるのがどんな奴なのかも考えもせずに。」
 吐き捨てるような言い方だった。
 インジェのいうことは確かにうなづけるものだった。地方の村、特に貧しい小村などでは村長は絶対的な権力者となることもある。そしてこの村の場合は村長が実際に有能であり村を栄えさせているのだから、その存在はより確固としたものになっているだろう。
「そうか、村の事情はこれでだいたい分かったよ。」
 ナシィはうなづいた。そしてインジェの目をはっきり見て言った。
「一つ教えて欲しい。インジェ、君はなぜその魔物にそこまでこだわっているんだ?…君たちの身に何があったっていうんだ?」
 酷な質問であった。だが、ナシィはそれを口にした。
 インジェが森で示した態度や今までの様子を見れば、このことはインジェの心に何らかの暗い影を落としているのは明らかだった。触れられるだけでもつらいことだろう。
 それでもあえて尋ねた。ただ魔物を殺せば済むことなら、ナシィ個人の考えには反するが何とかなるだろう。しかしインジェのこの苦悩が単にそれだけで解決されるのかどうかの見極めが必要だった。
「……。」
 インジェは何も答えなかった。うつむき加減のまま身動き一つしない。
 夕日すら沈みつつあるのか、部屋の暗さが増してその表情を見ることはできなかった。

 ナシィはじっと待っていたが、この沈黙は不意に破られた。
 部屋に老婆が入ってきたのだ。それに気付いたインジェは自分から杖を手にして立ち上がると、すぐに部屋のランプに魔法の光をともし始めた。食堂全体が穏やかな、暖かみのある光で照らされる。
 歩いてくる老婆に聞かれないようにナシィの方に身を寄せて、小声でインジェは言った。
「ナシィ。…また、後でいいか?」
「!…ああ。待っているから。」
 ナシィも小さくうなづいた。
 インジェはそれだけ聞くとすぐに老婆の方に向き直った。何気ない、まるで普段のような口調で夕飯のことなどを尋ねる。そしてその会話も早々に切り上げると足早に奥に去っていった。
 その会話の後で、老婆が夕飯の載せられたお盆をナシィの座る机に置いた。
「お待ちどうさま。『森の小道亭』自慢の一品、山菜鍋だよ。今日採りたてのだからね。」
 まだ煮え立っている鍋からは白い湯気とともにだしの香りが漂っている。
「どうも。いただきます。」
 さじですくうと、どこかで見覚えのある山菜が出てきた。ナシィは最初にインジェたち二人と出会った時にナイが大事そうに抱えていた籠を思い出した。
「どうだい、おいしいかい?」
 気さくに老婆は話しかけてくる。店内には他に客もおらず、話をするにはいい場である。
 ナシィは口の中身を飲み込んで答えた。
「ええ。おいしいです。」
 老婆は嬉しそうに目を細めた。どうやらこの鍋は彼女が作ったもののようだった。そういえばこの宿は老夫婦が二人で経営していると聞いた。
「ところでナシィさんや。どちらの方から来なすったかね?」
「東の…カルディから来ました。」
「あれま、そんな遠くから来なすったのかね!まだそんなお若いのに。」
 カルディはここよりも遥かに当方の土地の名。老婆は驚きに目を丸くして言った。
「…ええ。ずっと、昔から旅をしてましたから。」
 ナシィの手にしていたさじが鍋にあたる堅い音がした。
「おやおや、鍋が冷めてしまいますな。ごゆっくり味わってくだされ。」
 口元に手を当てて笑いながら、老婆は店の端の小さなカウンターの中に入った。棚に並んだカップを一つ一つ布巾で丁寧に拭っていく。
 ナシィは再び鍋を口にした。
 静かで、穏やかな時間がここにはある。店の古さはどれほどのものなのだろうか、壁や床を埋める落ち着いた色合いの木が室内に安らぎをもたらしている。静かでありながら決して暖かみを失っていないその雰囲気は、そのまま老婆のいるこの店の有様を表しているかのようだった。
 いつの間に夕日が沈んだのか、空は赤みを残しながらもその色を黒く塗り替えていた。窓の向こうに輝きだした星の光が見える。
 森から吹いた風がカーテンを小さく揺らした。
「…ごちそう様でした。」
 近づいてきた老婆に鍋を手渡す。
「おいしかったです。野草はこの辺りのものですよね。」
「そうじゃよ。ああ、何か飲むかね?」
「じゃあ…お茶を。」
「はいはい。」
 老婆はカウンターの中に入りカップと茶葉を取り出した。ナシィもそれについていき、カウンターに席を移す。その目の前に淹れたての紅茶がすぐに出された。
 カウンターを挟んで向かい合う。香りが、その間を埋めた。
「そういえば、ナシィさんはうちの子たちと森で会ったそうだね。」
「ええ。お恥ずかしい限りですが、森の中の崖から足を滑らしたところをインジェ君に助けてもらったんです。」
 苦笑交じりに答える。
「あれま!怪我はなかったのかい?」
「大丈夫ですよ。インジェ君の魔法が…。」
「いやいや魔法っていってもそれだけ危ない目にあったんじゃ、今、薬を…。」
「だ、大丈夫ですってば!」
 奥に戻ろうとした老婆を慌てて引き止めた。それでもまだいぶかしむ老婆に、ナシィは自分の服の袖をまくって見せた。確かに両腕には引っかき傷一つすら残っていない。
「ほら。」
「本当だねえ…。」
 それでも心配だったのか、老婆はナシィの腕を取るとしげしげと眺めた。
「まあ怪我がなくてよかったよ。…ひょっとしてナシィさんも魔法使いかい?」
「僕は違いますよ。ただの駆け出しの剣士です。」
 下を見て服の袖を戻しながらナシィが答える。
「でも一人旅なんだろう?腕がしっかりしてなきゃできないことだよ。」
 なおも感心する老婆に、ナシィははっきりした苦笑を見せた。
「運…いや、悪運(・・)が強いだけですよ。」
「そういうもんかねぇ。」
「ええ。今日だって、崖から足を滑らせたりしているんですから。」
「ああ、そうだったね。」
 老婆も口元に笑みを浮かべて大きくうなづいた。ナシィも静かに紅茶を口に運ぶ。
「でも無事に助かってよかったよ、本当に。あの崖の上の森には危ないもんがいるから…。」
「危ないもの?」
 ナシィが顔を上げると、老婆は目線を外して気まずそうに口に手を当てていた。
 ついさっきの会話が思い出される。インジェは村人全てが口止めされていると言った。ならば、当然この老婆も魔物のことについて知っていて、口止めまでされているとしてもおかしくはない。ましてや『危ないもの』といった後のこの仕草を見れば明らかだ。
「あの森に、何がいるんですか?」
「何って、森には危険な獣もおるし…。」
 そう答えながらも、老婆は視線をさまよわせる。
 ナシィは確信した。だが、直接そのことを尋ねても老婆は答えないだろう。しかしこの老婆がインジェ自身、そして彼に関わるその魔物のことについて詳しく知っているのも間違いあるまい。少なくとも自分よりは今の状況をある程度客観的に見て、このままでいいのかを判断できる人物のはずだ。
 この老婆には苦しい選択をさせることになるだろう。それでも。
 迷った末、口を開いた。
「今日、村を歩いていて壊れた塀を見つけました。手負いの熊に壊されたと聞きましたが、あれはそんな生易しいものではないと思います。」
 言葉を続けながら老婆を見つめる。
「村の外の者である僕に何を隠しているのか、またなぜ隠しているのかは分かりません。しかしこのままでは危険なことだけは分かります。…話せないのならば構いません。ですがよろしければ、そのものについてどうか教えていただけませんか?」
 答えはなかった。
 老婆は目を伏せてナシィから視線をそらしていた。深い皺に覆われたその顔からは何一つ心の動きを読み取ることはできない。だが、こうやって黙っていることこそが迷いの証でもあった。話すことは村長に対する裏切りになる。しかし黙っているわけにもいかない事情がそこにはあるに違いない。
 ナシィもまたそれ以上は何も言わずにいた。判断を老婆にゆだねた以上、この先にまで自分は踏み込めはしない。決してそうするわけにはいかない。
 カーテンが小さく揺れていた。不思議なほど森は静かだった。穏やかな光に満ちた部屋の中で、窓の向こうの景色だけが果てしない闇を見せている。
 その窓からの風が置かれたカップの水面を波立たせた。一瞬香りが消える。
 老婆は顔を上げた。そして、答えとなる問いを口にした。
「あの子が…あの子が、あんたに言ったのかね?」
「…いいえ。」
 偽りの答えをナシィは返した。一つには自分の目的のため、そして同時に彼のための嘘を。老婆には申し訳ないが口止めを破ったものには何らかの形で罰があるだろう。しかしそれまでも彼に味わわせて、その苦しみと怒りをこれ以上強めさせたくはなかった。
 そしてこの思いは老婆も同じだった。深くその頭を下げた。
「それならば…お願いします。あの子を、助けてやって下され。」
 願うように、祈るように老婆は自らの思いを告げた。

 それ(・・)がこのメアドの村近くに住み着いたのがいつごろかは分からない。ただ、そのしるし…足跡や食われた大型獣の残骸などが目立ってきたのは数年前のことだった。森での調査ではそれ(・・)の存在を見つけることはできなかったが、危険なことだけは判断できた。
 だが対策のための村会議が出した結論は意外なものだった。この近隣の町村を治める領主との関係が思わしくないゆえに、村でそれ(・・)を退治しこの村の力を示そうと考えたのだ。それ(・・)がせいぜい魔獣程度と思われていたのも不幸だった。
 そして、それ(・・)はついに村に現れた。まだ補強が途中だった塀をたやすく破壊して村内に侵入したのだ。しかし村での対策は進んでいたため、自警団によってそれ(・・)はすぐに追い払われた。負傷者も予想より少なく済み、また簡単に追い払えたことに村人はみな安心した。…誰一人として、手負いの相手の恐ろしさにまで考えは至らなかった。
 このすぐ数日後、再び、それ(・・)は村を襲った。
「あれは一年ほど前の夜中じゃったな。皆、それを追い払ったことに安心しておった。夜番の二人を残して団員も休んでおったよ。もちろん、普通の村人もじゃ。だから私が最初目を覚ましたときは何事が起きたのかも分からんかった。」
 老婆はそう言って、自分のカップに三杯目の茶をついだ。
「後で聞いた話では、四番の二人は大慌てで村の詰め所に向かったらしい。その後を追ってそれは村内に入ってきおったんじゃ。…まだろくに鎧も身につけていないまま、若いもんが逃げまどう羽目になった。運悪く命を落としたもんも出た。」
 言葉が途切れると、森の木々が揺れる音がかすかに聞こえる。風は強さを増していた。老婆が茶を一口飲んだ。
「その頃には私も何が起きたのかを知ったよ。どの家も扉を固く閉ざし、それが早く行ってしまうことを祈った。私も慌てて階段を下りてこの部屋に来た。」
 そこまで話して、老婆は顔を少し伏せて深くため息をついた。ここまでゆっくりと思い出しながらではあるが全てを話してきた彼女の目に、始めてたゆたいの色が浮かんだ。
 ナシィは終始無言のまま、決して目をそらさずにその話を聞いていた。この突然の沈黙にも全く動じることなく待ち続けた。だが組んでいたその手には無意識のうちに力を込めていた。
 突然、森から獣の雄叫びが聞こえた。静かな夜にその声は長く、長く響いた。
 その声に老婆は一瞬はっ(・・)とし目を見開いた。
 伏せていた顔を上げ、再びその口を開く。光の角度のためかその顔はうっすら青ざめて見え、声すらもかすれて聞こえた。
「私は扉を閉めようとしたんじゃ。じゃが、その扉をあの子は…。」
 先を続けようとしたその瞬間。
 きしんだ音とともに、再び(・・)扉は開かれた。

 開かれたのは、宿の奥に続く扉だった。
「ナシィ兄ちゃん、お話聞きに来たよ!」
 そしてその扉の向こうから現れたのは期待に眼を輝かせているナイだった。
 この一瞬の出来事に息をのんでいた老婆が、ようやく言葉をつなぐ。
「ナシィさんや、私も家の用がありますし、続きはまた明日にでもお話ししましょう。」
 微笑を浮かべた老婆の顔は全ての思いを隠しきっていた。そこには先ほどまでのたゆたいや苦悩など微塵も見られなかった。そして、すぐ近くには笑顔で待っているナイがいた。ナシィが選べる選択肢は一つしかなかった。
「…わかりました。」
 ナシィがうなづくと、老婆は自分の飲みかけのカップを持って奥に戻っていった。幾度となく開かれたであろうその扉のきしむ音は、さっきとは異なりほとんどしなかった。
 老婆が去るとナイはさっそくナシィの隣の席に座った。ナシィが話を始めてくれるのを今か今かと楽しみにしてその横顔を見上げている。
 だが一方のナシィは次の言葉が出せずにいた。老婆が最後に言おうとしていた言葉が、耳に残って離れずにいる。―『あの子は』。かすれた声は、何に対する思いの表れか。
「ナシィ兄ちゃん?」
 不振がるナイの声に我に返った。
「ああ、ごめん。ちょっと思い出してたんだ。どんな話があったかな、って。」
 言い訳をして、微笑む。老婆は自らの話を切り上げ、全ての思いを顔にすら出さないようにしてここから離れていった。自分もまたその思いに応えねばならない。
「あの、村よりもおっきな鳥の話が聞きたい!」
「ロック鳥の話だね。確か40年ぐらい前に僕が…。」
 ナシィが話を始めようとした時に、またも扉が開かれた。
 今度は、服を外出着から室内着に着替えたインジェが立っていた。もちろんナシィはすぐに来た理由に思い至った。ただここでこれ以上ナイを待たせるわけにもいくまい。
 インジェは一瞬落胆の表情を見せると扉を閉めようとした。
「インジェ、これから伝説について話すんだけど、君も聞かないか?」
「…いいよ別に。」
「魔術士にとっての勉強の機会だよ。精霊や魔物(・・)について知っておくことはきっと役に立つはずだ。」
 言い訳めいた口調にはなるが、言っている内容は正論である。
 そしてインジェにもそれが分かったのか、あるいは今のナシィの一言が気にかかったのか閉めかけていた扉を再び大きく開いて部屋に入ってきた。ナイのさらに隣の席に座る。
「ねー、早くそのろっく鳥(・・・・)の話をしてよ!」
 そして案の定待ちきれなくなっているナイがナシィの手を掴んでせきたてた。
「そうだね。ずっと前に聞いた話だけど、今から数百年も昔。ある山あいの村で…。」
 ようやくナシィの話が始まった。
 ナイは真剣な顔で、一言一言にうなづきながら熱心に聞き入っている。インジェも少し退屈そうではあったものの話はきちんと聞いていたようだった。
「…こうして、その狩人は村一番の大金持ちになったそうな。めでたし、めでたし。」
 話し終わると同時にナイから拍手が上がった。
「ねぇ、そのロック鳥って今もいるの?」
 ナイの質問にインジェが考え込むそぶりを見せたので、ナシィはすぐには答えずそっと目くばせをした。当のインジェはそれに一瞬戸惑ったようだったが、その後すぐに自分から話し始めた。
「確か、北のヒグ山脈に大型の鳥―山鳥(マウンテン・バード)ってのがいるはずだ。牛一頭ですら運べるほどの大きさがあるらしい。」
その答えに、ナイは兄を尊敬の目で見上げた。
 インジェは照れているのか少しだけ顔を赤らめ、ナシィの方に顔を向けて言葉を続けた。
「大きさから言って、多分これがロック鳥のモデルだろ?伝説とかは話が大げさに伝わるもんだし。」
「そうだろうね。それに、『ロック鳥』の伝説はヒグ山脈からある程度離れた所でよく聞いた。これは昔は山鳥が飛来していたからだと思う。もっと近い所だと、今でもわずかとはいえ見られるからね。」
「…詳しいんだな。」
 インジェが意外そうに言った。
「いや、母親がそういう伝承について昔調べていたらしくてね。おかげで行ったこともない場所や見たこともない生物とかに妙に詳しくなっちゃったんだよ。」
 ナシィが笑って答えると、今度はナイがうらやましそうに言った。
「いいなー、そんなお母さんがいて…。」
 一瞬静寂が訪れる。なんとなくだがその理由に感づいたナシィはすぐに言葉を続けた。
「じゃあ、代わりに(・・・・)いろんな話をしてあげるよ。次は、海に住む大ダコの話はどうだい。」
「うん!」
 ナイは元気よく返事をした。それを見るインジェの目も心なしかさっきよりも和んだ眼差しになっているようにナシィには思えた。
 夜が更けていく。どこかで、フクロウが鳴いたのが聞こえた。

「…というわけで、そのあわれな旅人は、一週間後にようやく森から出してもらえたとさ。」
 ちょうど八つ目の話が終わった時だった。
 奥に続く扉が開くと同時に、ナシィの見知らぬ初老の大柄な男性が部屋に入ってきた。
「お前ら、部屋にいねえと思ったらこんな所におったか!もう寝る時間だぞ。」
 見た目の年齢に反して、よく筋肉のついたしっかりとした体をしていた。顔の皺と完全な白髪を除けば10は若く見えそうである。そしてこの太い声はインジェたちに向けて放たれたもののようだった。
「えー、あと少しだけ。」
 文句を言ったのはナイである。
「だめだ!…ん、お客か。家のボウズどもが邪魔してすまんかったな。」
「いえ、別に構いませんよ。むしろ助けてもらったのはこちらの方ですし。」
「あのね、インジェ兄ちゃんがね、崖から落ちてきたナシィ兄ちゃんを助けたんだよ!」
 ナイの勢いづいた言葉をなぜかインジェは一瞬止めようとしたが、できずに終わると舌打ちしてそっぽを向いた。
 老人が再びナイを見る。だがその目は険しくなっていた。
「崖から?一体どうやって助けたんだ、言ってみろ。」
「…えっと…。」
 老人の急に厳しくなった口調に、ナイは言葉に詰まってうつむいた。
 そのまま老人がナイを睨み付けている中で、インジェがあからさまなため息をついた。森の近く、夜の静けさに包まれていたこの部屋でその音ははっきりと聞こえた。ナシィが耳を疑ってインジェの方を見たのと同時に、老人は手を机に叩きつけてインジェに怒鳴った。
「インジェ!まだお前は魔法使いの真似事をやっとるんか!」
「…人の勝手だろ。」
 座ってそっぽを向いたままインジェは答えた。
 当然、老人の怒鳴り声は続く。
「いい加減にしろと言っとるだろ!そもそもお前は…。」
 インジェは老人の大声を顔を背けながら聞いていた。目を閉じたその表情は単に膨れているようにも見える。だが、机についた手の爪先だけがゆっくりとではあるが強く机を引っかき続けていた。丁寧にならされた机の表面に細かな傷が生まれていく。
「聞いとるのか?だいたい、魔法使いなんかろくな目にあわんわ。お前の…。」
 その瞬間手の動きは止まった。直後その手で机を殴りつけ、立ち上がり老人以上の声でインジェは叫んだ。
「親父の事は関係ないだろっ!」
 その声と仕草に老人は言葉を失い、怒り交じりの複雑な表情で視線をそらした。そしてそのままインジェは立ち尽くしていた。その拳がさらにきつく握りしめられていく。
 誰も、何も言えずにいた。
 少しばかりの間があって、再び口を開いたのはインジェだった。
「…じゃあ、ナイと一緒に部屋に戻るからな。」
「勝手にしろ。」
 老人はカウンターの内に入って向こうを向き、適当にカップを掴むと磨き始めた。
 そしてインジェはナシィの方を振り返ると、憮然とした表情のまま上を指差し「後で」と唇だけを動かした。
 全く口を挟めずにいたナシィは一瞬戸惑ったものの大きくうなづき「分かった」と声には出さず答えた。
「ほら、ナイ。戻るぞ。」
「…うん。」
 インジェが肩を軽く叩くと、身をこわばらせていたナイも椅子を降りた。涙を流してこそいなかったがその目はうっすらと赤くなっていた。
 ナシィの見送る中、二人は扉を後ろ手で閉めて去っていった。そして扉が閉まると同時に老人もカップを片付けた。ただ仕事のフリ(・・)をしていただけだったらしい。
「みっともないところを見せてすまなんだな。」
 老人はナシィの方を振り返り静かに言った。先ほどまでの激しい言い争いとはうって変わった表情と声だった。
「いえ…。」
 返事に困ってナシィがこれだけ短く答えると、老人はカウンター内の椅子に腰掛けた。うつむき加減のその姿はなぜか始めて見た時よりも小さく見えた。
「わしも、何もあの子が憎いわけではない。大事な孫達の一人なんだからな。それに他の子らはみなあちこちに行っちまったが、二人はここにおってくれる。どれほど嬉しかったことか。」
 老人は淡々と語り始めた。だがその目線はナシィにではなくすぐ前の空間に向かい、あたかも独り言を洩らすかのような口ぶりだった。
 部屋を照らす灯りの陰となって、老人の表情ははっきりとは表れていなかった。…あるいは表情もなかったのかもしれない。
 そして老人の独白をナシィは黙って聞いていた。
「だから、あの子らにはこの宿を継いで平凡でも平和な生活を送って欲しいんだ。いや、これはそう長くないわしの願いだな。他にこの宿の跡継ぎもおらんくなったからな。」
 老人は目をかすかに細め宿の部屋全体をゆっくり見回した。その目の動きは今ここにいるナシィを捉えていないかのようだった。
「別にこの宿のことはさておき、普通に幸せになってくれりゃいいんだ。母親も病で亡くしたっていうのに、何も、わざわざ危ない仕事を選ばんでも…また同じことになる(・・・・・・・)かもしれんのに。」
 老人の言葉に、ナシィはようやく気がついた。なぜインジェがあれほど魔物を憎み、同時に村長らに対してまでも怒っていたのか。そしてさっきまでの言い争いで突然態度を変えた理由に。おぼろげだが答えが見えた気がした。
 だが一方で老人はこのナシィの態度の微妙な変化を別なものととらえたようだった。
「何も言わんでくれ。別に魔法使いを危ないもんだとか思っとるわけじゃない。ただ、もう孫にまで同じ目にあって欲しくはないだけだ。」
 そこまで呟くと老人は膝に手を置いて立ち上がった。そしてはっきり他とナシィの方を見て口にした。
「…老人のたわごとだ。忘れてくれ。さて、何か飲むか?」
 見えるか見えないかの、かすかなあきらめにも似た表情を老人はもう消していた。
「いいえ。そろそろ部屋に戻りますから構いません。」
「そうか、分かった。ゆっくり休んでいってくれ。」
 ナシィは軽く礼をして立ち上がると、老人にお茶を飲み終えたカップを渡して二階に向かった。
 その後ろでは、夜の冷めた空気に混じって小さな水音だけが響いていた。

 部屋の中でナシィが荷を整理などしていると、戸を小さく叩く音がした。
 その音に気がついたナシィはすぐに扉をそっと開けた。扉の向こうには、何か思いを固めたような顔をしたインジェが一人立っていた。
「ナシィ、いいか?」
「ああ。とりあえず入ってくれ。」
 インジェが入るとナシィは再び音も立てず扉を閉めた。
 部屋には小さな丸机と二つの椅子が備えられていたが、ナシィは既にそれらを部屋の中央に運んでいた。机を挟み向かい合う形になっている椅子の片方にインジェを座らせ、その机の中央に置かれたランプの灯りを大きくしぼった。
 代わりに窓とカーテンを完全に開く。森からの新鮮な空気が流れ込み、月明かりが部屋をうっすらと青白く染め上げた。だが黒いコートを着たままのナシィの姿はその光の影のように映し出されていた。
 そして、ナシィも椅子に座った。
「さて、と。…ここなら時間は十分だろう。話したくないことは黙っていてくれて構わない。話せることから話してくれないか?」
 穏やかな口調でナシィはインジェに呼びかけた。
 机の上のランプの光は、互いの顔をおぼろげにしか見えなくしている。だが部屋全体を照らす月明かりのためか体全体の動きを見ることはできた。
 ナシィの言葉に対してインジェは目を伏せて何も答えずにいた。しかし手をしきりに動かし、落ち着かないそぶりを見せている。話のきっかけを掴めずに躊躇しているようだった。言葉を出そうとして、出せずに代わりのため息がこぼれている。
 森からの物音だけが部屋では聞こえていた。その静けさが二人を飲み込み、押しつぶしていくように広がっていく。言葉を放とうとするインジェの動きすら徐々に小さくなっていった。まるで何かの束縛を受けてでもいるかのように。
 長い沈黙の末、ナシィが先に口を開いた。
「さっき、君のおじいさんとおばあさんが少し話を聞かせてくれた。」
「!」
 インジェが顔を上げた。
 待ちきれなかったわけではない。ただ待つのではなく、自分からきっかけを作ることに決めたのだ。
「おばあさんの方は、さっき君たちが話を聞きに来るまでの間だ。ここの上の森、つまり僕が落ちてきた場所に魔物がいること。そして魔物が村の周囲に現れるようになって…一年前に何か(・・)があったことまでを聞かせてくれた。ちょうどその時にナイが入ってきたからその時のことまでは聞けなかったんだけどね。」
 インジェはナシィの言葉を無言のまま聞いていた。途中、強く何かを思ったのかその体が動いた瞬間もあったが、ナシィは口調を全く変えずに最後まで話しきった。
 再び言葉が途切れる。カーテンが風に波打ち、部屋を照らす灯りが揺らめいた。
 静寂の中でインジェがついに言葉を口にした。
「ナシィ。一つ、気になってたんだ。」
 その口調はどこか強張ったものだった。
「何だい?」
「ナシィは、本当に崖からただ落ちた(・・・)だけなのか?」
 ナシィは一瞬言葉を失った。
「オレは、あの時にナシィが崖から飛び出したように見えたんだ。落ちただけならあんな風に崖から離れるはずがない。…ひょっとして、『あいつ』に遭ったのか!」
 声量こそ小さかったが強い声だった。明らかな疑いを抱き、ナシィを睨み付けている。
 ナシィはその言葉に対し瞳を閉じ、身動き一つしなかった。―ややあって口を開く。
「君の言う『あいつ』と、僕が遭ったものが同じかは分からない。君の話を聞かない限りは。」
 薄暗い部屋の中、はっきりとは見えていないはずだったが、ナシィはインジェの目を見て答えた。
 この言葉にインジェはわずかに視線の先をずらした。その顔は見えない。
「…分かった。じゃあ先に、じっちゃんが何を話したのか聞かせてくれよ。」
 平坦な調子の声だった。
 ナシィはうなづいた。
「おじいさんは、僕に話してくれたわけではないんだ。あくまで独り言だ。…あの人は純粋に君の幸せを願っていた。平凡でもいいから幸せになってほしいと。魔法使いになって『同じ目』に遭わないでほしいと。」
 言葉を切る。
 インジェは、何も答えようとはしなかった。
「…二人とも、君の事をひどく心配していた。そして君たちの過去について余所者の僕には話さなかった。だから僕はその魔物についても、そして君たちに昔何があったのかも分からないんだ。」
 小さく息をつく。
 ナシィはインジェの顔を正面から見据えていった。
「話してくれないか?」
 穏やかな、だが真摯な思いのこもった声だった。
 月のある夜の元でその姿はうっすらと浮かんでいる。それは向かいに座るインジェも同様だった。
 インジェは、顔の前で組んでいた手を机に下ろした。ランプの灯りがかすかに震える。
「そうだな…黙っていちゃ、だめだよな。」
 自らに言うように放たれたその声は、大人びて強気を保っていた少年の声ではなく年齢相応の感情を表に見せた子供の声だった。
 風が流れる。森がざわめき、再び静かになった。だがその静けさはもう人を呑むようなものではなくなっていた。
 そして、インジェははっきりと答えた。
「一年前のあの日。村を襲った魔物を相手にして……父さんは殺されたんだ。」

 深夜。家の皆が寝静まった中、一人机に向かうインジェの姿があった。
 書斎全体には灯りはともされておらず、机の上に作られた小さな魔法の光だけがその手元を照らしている。開かれているのは魔術士用の呪文書だった。
 真剣な面持ちでそのページをめくるインジェは、ふと顔を上げて横の扉を見つめた。呪文書に栞を挟みこみ立ち上がる。光を手にして、そっと扉を開いた。
「…父ちゃん、母ちゃん…。」
 聞こえてきたのはナイの声立った。寝言だ。だがそのか細い声は涙交じりだった。二人の寝室に入って、先に一人で寝ているナイの手をインジェは両手で包み込んだ。
 眠っていたナイが目を開いた。
「…兄…ちゃん?」
「ああ。ナイ、大丈夫か。」
 ナイはしゃくりあげながら、赤い目で不安げに兄を見ていた。
 そんなナイの手を握ったままそっと言葉をかけるインジェの手は優しげだった。
「うん…ねえ、兄ちゃん。」
 横になったまま反対の手で目をこすって、少し落ち着いたらしいナイが尋ねた。
「何だ?」
「父ちゃん、いつ帰ってくるの?」
 寂しさと、だがいつか帰ってくるという期待が混じった表情だった。
 インジェは顔を伏せその手を強く握った。
「きっと…きっと、いつか帰ってきてくれる。だからお前もいい子にして待ってなきゃダメだぞ。」
 そして、ナイに向かって笑いかけた。
 永遠にそれはありえない。死んだ人が帰ってくることなど決してないのだから。けれどその残酷な真実を知るには、ナイは幼すぎる。
「うん…。」
「明日も早いんだから、ちゃんと寝ろよ。…ここに、いてやるから。」
「…うん。分かった。」
 ようやく安心したらしく、ナイは再び瞳を閉じた。すぐに柔らかな寝息を立て始める。
 完全にナイが眠ったのを見届けると、そっとその手を離してインジェは立ち上がった。静かに扉を閉ざす。
 無言のまま、光を浮かべた右手を振った。ゆるやかな軌跡を残して光球は机の上に戻る。しかしインジェはその場を動こうとはしなかった。
「…絶対に、『あいつ』は…。」
 激しい憎悪を込めたその目は暗い部屋の一点だけを見つめていた。
「魔物は…許さない。」
 その視線の先には彼の杖が立てかけられていた。

 ちょうどそれと前後する頃の時刻。
 同じように暗く静かな部屋の中で、ナシィは一人夜の森を見つめていた。
 窓の向こうの空には月と星々が輝きを見せている。部屋に差し込む光は、灯りが消されたために強さを増しているように見えた。雲の姿はない。
 時折吹く風が窓のカーテンと立っているナシィの髪を揺らした。コートは着ていなかった。あちこちに補修の跡がある半袖の上着に対し、あらわになった腕と胸元には全く傷は無かった。月の光はその肌を白く照らしている。
 ナシィは一人、今日の出来事を思い出していた。
 森に入ったのは全くの偶然だった。たまたま道を歩いていた行商隊と出会い、この先の道が大きく曲がっていて森さえ抜けられれば次の村に早く着けると知ったのだ。方角さえ正しければ問題はないと聞いたし、森を歩くのは好きなのでその方法を取ることにした。
 最初のうちは何の変哲もない森だった。だが少し歩くうちに、中〜大型の獣の存在が少ないことに気がついた。恐らくは肉食の魔獣か魔物がいるのだろうと想像がついたが、この森に危険なものがいるとはとりたてて聞いていなかったのでそれほど問題はないだろうと思っていた。
 結果的にこの判断は誤りだった。姿を見せた魔物は、突然襲い掛かってきたのだから。
 手持ちの片手剣ではいささか心もとなく、どう対処するか考えつつ移動していたらよりにもよってその先は崖になっていた。落ちればかなりの深手を負うかもしれなかったが、少なくとも目の前の相手からは逃れられる。
 結局、崖下に逃げることを選んだ。幸いすぐ先には森がまた広がっている。木の上にさえ落ちられれば、何とか助かるだろうとふんだのだ。そして崖を蹴って飛び出した。
 …ちょうどこの瞬間をインジェは見つけたのだ。
 魔物はさすがに崖下までは追ってこなかった。だから、すみかにでも戻ったのだろうと考えていた。
 インジェの口から、『村に出る魔物』の話を聞くまでは。
「黒牛…黒い雄牛(ダーク・ブル)か。」
 広がる夜の闇を見て呟く。
 その名はナシィが遭遇した魔物の名。そしてインジェが語った、父親の命を奪った魔物の名だった。
 牛という名に反して獰猛な肉食の魔物であるが、知能はそれほど高くはない。この程度の魔物なら誰かの召喚ではなく、異世界との小さな門が自然に開いたときに紛れ込んだ可能性が高いだろう。数年前に突然存在が確認され出したことからもそう言える。
 だが野生化した魔物だからといって放っておける事態ではもはやないだろう。既に村を何度も襲っているのだから、この村を攻撃対象として記憶していることは間違いない。
 ナシィは、窓枠に置いていた手を組み直した。
 黒い雄牛は殺さねばなるまい。そうでなければ犠牲者が増え続けるだろう。
 しかしナシィの脳裏には一つの懸念があった。魔物の話をしていた時のインジェの目には、深い憎悪があった。…彼はきっと父の敵を討つだろう。だが、その後は。
 立ち尽くすナシィの目には、静かな悲しみがあった。
 その先には夜の森があった。まるで命を持たざるもののように、森はただ静かにそこに存在していた。
 月だけが、全てを照らしていた。



 翌朝、ナシィが朝食を終えて一息ついている所にインジェとナイが姿を見せた。二人とも外出着に着替えている。さらにナイの手には籠が、そしてインジェの手には杖が握られていた。
「ナシィ兄ちゃんおはよう!」
「おはよう。ナイ、インジェ、これからどこかに行くのかい?」
「うん。森に、兄ちゃんと野草採りに行ってくるの。」
「森に?」
 危険だ、と言おうとして思いとどまった。昨日だって二人は森の中にいた。優秀な魔術士の卵であるインジェがいるのだから大丈夫だと思っているのかもしれない。実際、インジェの話と見せてもらった地形図から考えればあの辺りは安全だと考えられる。
 とはいえ万が一のことを考えるとやはり心配だ。
「そうか。なら、ちょうど時間もあるし一緒に手伝おうか?」
 同行を願い出るとすぐにナイは喜びの顔を見せた。一方のインジェは少し戸惑っているようだ。
「おやおや、いいのかい?」
 カウンター奥から老婆が声をかけてきた。遠慮を見せてはいるものの拒んでいる雰囲気は全くない。
「ええ。インジェ、君さえよければ行かせてもらうよ。」
「別に…どっちでもいいよ。」
 インジェがあっさりとそう答えると、茶を飲み干してナシィは立ち上がった。カウンター内に立つ老婆に空になったカップを渡す。
「よし、さっそく行く…。」
 そこまで言って自分の服を見た。コートを脱いだままの今、半袖のシャツに長ズボンと言ういでたちだが、そのシャツにはあちこちに穴を繕ったまだ新しい跡がいくつもある。
「…から、ちょっと待ってて。」
 ナシィはすぐに自室に戻った。

 コートをまとい片手剣も身につけた状態で、ナシィは二人と外に出た。昨日と同じく快晴の空が広がっている。
 既に開いた店も増えつつある大通りを三人で歩いた。まだ朝のうちなので、若い男性が開店を手伝う姿もいくつか見られた。あちこちから会話が聞こえてくる。
 そんな中でインジェがあくびを一つした。
「インジェ、眠いのかい?…夕べは遅くまでかけてしまってすまなかったね。」
 口元に手を当てていたインジェが、慌てて表情を戻して答えた。
「別に関係ないよ。いつも、もっと遅くまで起きてるから。」
「お兄ちゃんね、難しい勉強してるんだよ。それで強い魔法使いになるんだって。」
「ナイ、言いふらすなって言ってるだろ。」
 そう言ってインジェはナイの頭を小突いた。
「強い魔法使いか…力は、時には人の心を歪ませもするからな。」
 ナイの言葉を聞き何気なくナシィは口にしていた。だが、その言葉を聞いたインジェは少し不機嫌な表情を見せた。
「分かってるよ。力は正しく使わなきゃいけないってやつだろ。うんざりするぐらい何度も聞かされたからそれぐらい知ってるさ。…分かってる。」
 そう言って少し足を速めた。ナイが慌ててそのすぐ後ろを追いかける。
 何かに苛立っているような言い方だった。『分かってる』とは言っていた。しかし、苛立つのはその言葉をどこかで否定している部分があるということだ。
 ナシィは前を歩くその姿にかすかな不安を感じつつ、村の門に近づいていった。
 先に着いたインジェが門番と二,三言言葉を交わす。明らかに年上だろう門番はインジェに敬礼をした。それに慣れた様子でうなづいて、インジェはナイの手を引いて門をくぐっていった。
 その後を通ったナシィは、自分を見る門番の目が昨日とは少し違うことに気付いた。変だというのではない。逆に何とも思ってないような目だった。注意は向けつつも前のような期待や不安といった感情は全くない。恐らくはインジェが何か告げたのだろう、そう思ってナシィも門をくぐった。
 門を越えて数十歩の所で、ようやく二人に追いついた。インジェはまだ少し不機嫌さを残した表情だったが、その早足だけは元に戻っていた。
 インジェが追いついてきたナシィに気付いた。横目でちらりと見上げる。
「手伝ってくれるんなら、先にどんな草を採るか教えとくよ。」
「分かった。名前を言ってくれればいいよ。」
 ナシィがそう答えると、前を向いていたインジェは振り返った。
「本当に、いろんな事に妙に詳しいんだな。」
「旅の生活が長いからね。必要にかられて覚えたようなものさ。」
 納得したインジェは二,三の薬草の名を告げた。いずれもあまり保存の効かない種類の物だ。そしてナシィはその草の種類から、誰かがかなり重度の胃腸の病を患っている事に気づいた。
 インジェが言葉を続ける。
「それで分かったと思うけど…じっちゃん、かなりタチの悪い病気にやられてるんだ。」
 かけがえのない家族を思ってか、いつもよりしんみりとした口調だった。
 昨日の晩、老人の振る舞いはそんな病など微塵も感じさせないものだった。しかし一言だけそれを裏付ける言葉もあった。『そう長くないわしの願い』、老人自身、自分の病を理解しているのだろう。
「…だから、君たちの身を案じていたのか。」
 インジェは複雑な表情を見せた。
「じっちゃんは病気の事は知らないはずだ。それとは関係ないよ。それに…『あいつ』は絶対に仕留めなきゃいけないんだ。だから何て言われても魔術士は止める気はない。」
 はっきりと言い切ると、無造作に横の森に足を踏み入れた。
「昨日と同じ場所だよ。」
 一瞬戸惑ったナシィのコートを引っ張ってナイが言った。改めて辺りを見回すと、確かに昨日森から出てきた所と同じ場所である事がナシィにも分かった。
 今度もインジェが先行し、手にした杖の末端で時折草をかき分けながら進んだ。すぐ後のナイが歩きやすいようにしっかりと草を払っているようだった。ただし頭上はそのままだったので、背の高いナシィはたまに身をかがめたりしなくてはならなかったのだが。慣れた手つきで最小限必要な分だけ木をたわませたりしながら後ろをついていく。
 森の様子にはこれといった変化はない。まだ昼前なので、草木に朝露が少々残っている程度だ。時折撥ねてくる水の気持ちよさに、ナイが嬉しげな声を上げた。
 微笑ましげな光景に、知らず知らすのうちにナシィの口元にも笑みが浮かぶ。
 その時、後ろからかすかに木が揺れる音がした。
 すかさず鋭い目で振り返ったナシィの前、今さっき歩いてきた道に一つの影が飛び出してきた。
「巨大百足(ジャイアント・センティピード)だ、離れろっ!」
 声を出して呼びかけながら剣を抜いたナシィに、その影は襲いかかった。
 姿を現したのは人間の大人並の体長をした巨大な百足だった。虫とはいえ、その麻痺毒は猛獣の動きをも封じる強さを持つ。
 ナシィは噛み付こうとする百足の牙を片手剣で受けた。硬質の衝突音が響く。迫る勢いを腰を落として体で受ける。
 刃の向こう、繊毛の生えた口から毒性の唾液が滴り落ちた。付着した手袋から臭気が漂い出す。
「くっ!」
 両手で剣を掴み、強引にその頭を地面に叩きつけた。しかし甲皮には傷がついたもののさしたる打撃を与えられたわけでもなかった。再び百足はその顎を持ち上げた。
 もう一度剣の腹で受ける。かわせば体の関節を狙うこともできただろうが、後ろに無力のナイがいる状況ではそうするわけにはいかなかった。
 百足が顎を鳴らした。
「インジェ!」
「分かってる!もう一度だけ何とか弾いてくれっ!」
 返事と共にインジェの杖がナシィの側に突き出された。既に先端の宝玉には魔力が集中している。
「いくぞっ!」
 再びナシィは剣を振った。引き離された口から切れた繊毛を飛ばし、またもナシィに飛び掛かる。
 その口に、インジェの杖が正面からぶつけられた。
「炎よ、その前に進め(イ・ホペ・フィレ・ト・ゲイズ・ヘ)っ!」
 叫びと同時に杖に集まった魔力が燃え盛る炎に姿を変えた。その全てが口内に放たれる。体内を焼かれる苦痛に口から唾液と煙を吐いて巨大百足が暴れ出す。ナシィはコートの端で、すくんでいるナイの頭を覆って身をかがめた。足を痙攣させた百足の節々からも煙が上り始める。
 その顎が鳴った。そして大きく身をのけぞらせると地面に倒れ、それきり動かなくなった。
 ナシィはそれを見届けてから立ち上がり、コートを持ち上げた。下からナイが顔を出す。
「…すっごーい!」
 百足の死体を目にしたナイは声を上げた。
「兄ちゃんもナシィ兄ちゃんも強いんだ、あんな大きな虫を倒せるなんて!」
 本当の事を言えば雑魚の部類に入る相手ではあるが、眼を輝かせているナイを見て黙っておくことにした。苦笑しつつ手袋と剣の汚れを拭う。
「インジェ、助かったよ。ありがとう。」
 だが肩で息をつくインジェの方を振り返ったナシィの顔からはその笑みは消えていた。
「…だけど、ちょっといいかい?」
 インジェが顔を上げた。
「インジェ、どうしてあそこで炎の魔法を使ったんだ?」
「何だよ、急に…。」
 ナシィの言葉に不審げな顔を見せたが、その目が真剣なことに気付きインジェは口を閉じた。少し考えてから返事をする。
「別に理由はない。体内から狙えばどの属性だって有効だと思ったし。」
 魔法には属性がある。魔術士が主に用いるのはこの世界を構成する地水火風の四つの元素の力を使う精霊魔法。聖職者などが主に用いるのは光の力を使う聖魔法。そしてもう一つ、使える者は限られているが、闇の力を使う闇魔法。ここでのインジェの言葉は四元素の属性を意味している。
 その言葉にナシィは少し厳しい口調で告げた。
「四元素の魔法を同様に使いこなせるなら、使う属性はよく選んだ方がいい。今の状況で火の魔法を使うのは得策じゃないはずだ。」
 インジェの表情が険しくなった。
「何でだよ。大体、魔術士でもないナシィに何でそんなことが分かるんだよ。」
「…魔術士と一緒に旅したこともあった。その時の経験だ。」
 黙りこんだインジェに、ナシィは厳しくなりすぎないように気をつけつつ話した。
「まず、同行者に無防備な者がいるなら、その相手を守ることを優先的に考えないといけないはずだ。今、ナイは戦うどころかあの唾液から身を守る術ももたないんだ。」
 そう言ってナイの方を見る。当のナイはこのやり取りには全く気づいてない様子で、遠くから今さっき倒した巨大百足の死体を見ていた。
 インジェは顔を少し背けただけだったが、目だけでそれを見てうなづきはした。
「そして、あそこで火の魔法を使わない方がいいのにはちゃんとした理由があるんだ。今だって暴れて体液を吐き出しただろう。甲虫類なら、例えば体温を低下させれば動けなくなる。だから水…氷の魔法を使えば安全だったはずだ。それにそうしていればわざわざ殺さなくて済んだかもしれない。」
 それまでは黙って聞いていたインジェが、その最後の言葉にだけは納得がいかない面持ちでナシィに顔を向けた。
「たかが虫なんか、別に殺したって問題ないだろ?」
 言い放った言葉にナシィの表情が再び厳しいものへと変わる。
 しかしそれにすら構わずに、インジェは次の言葉を口にしていた。
「向こうがこっちを狙ってきたんだ、こっちだって自分の身を守るだけだ。あんな奴らに殺されてたまるかよ!だったら、先に仕留めてやるさ。何か間違ってるか?それにあいつらを生かしておいたらまた襲ってくるかもしれないんだ、さっさととどめを刺せばいいんだよ!」
 声を荒げたインジェの顔には、憎悪があった。だがそれは目の前の相手に向けたものではなかった。その目はここ(・・)にはない。
 それに気付いたナシィが静かに言葉を続ける。
「追い払える相手は、追い払うだけでいいんだ。自分から相手を追い詰めてみすみす危険を増やすことはない。殺すのは…それができなくなった時だけでいいんだ。」
「じゃあ、襲ってきた相手を逃がせって言うのか?また来たらどうするんだよ!」
「それは…危険な相手ならば、もう殺すしかないだろう。手負いのまま逃がすのは危険だから、自分たちの身を守るには…確かに仕方がない。」
 そう言うナシィの顔には、はっきりとした苦悩があった。しかしインジェはそれには気づかずに言葉を返した。
「なら結局同じだな。もう『あいつ』は殺しちまえばいいんだ。」
「インジェ!」
「分かってるよ!…今回のはナシィの言う通りだ。だけど『あいつ』は必ずオレが殺す。言ったよな、それだけは何があってもやるって。」
 ナシィは何も言えずにいた。少なくとも、黒い雄牛に関してはその言葉は事実だ。そして今のインジェの頭にあるのは、それを殺すことだろう。
 その後のことは…その時が来てからでしかない。
「…ああ。」
 短い一言だけをナシィは返した。
 その言葉にインジェは納得した顔を見せて、ナイの方に振り返った。声を掛けて再び森を歩き出す。
 低く張り出された木の枝が押しのけられ、葉を震わせて元に戻る。
 ナシィの胸に巣食う不安は残り続けていた。無言のまま後をついていくその目はまたもインジェの背を見つめ続けていた。
 よけたはずの木の枝が顔に当たり、ナシィは一瞬顔をしかめた。

 目的の草原(くさはら)にはすぐに着くことができた。
 ナシィにとっては同じ地面に立ってでは始めて見る場所だったが、ナイの言葉ですぐにそれと分かった。崖下、日差しの関係かほんの少しの空間にだけは木ではなく背丈の低い雑多な植物が生えている。
「ほら、これだよ!」
 ナイは辺りを眺めていたナシィの前に立って一本の草を差し出した。頼まれていた薬草だ。ナシィがうなづいて答えるとすぐに次の草を摘みにかかった。慣れた手つきで作業をしていく。
 インジェの方を見ると、彼もまた一人で作業を始めていた。つまりは勝手にやればいいということのようだ。
 ナシィも腰をかがめた。手袋を外して早速目に入った一本を摘み取る。
 薬草独特の匂いがほのかにした。右手の爪先に緑がにじんでいった。
 しばらくそのままで作業を続けていたが、ある程度集まったところでナイがナシィの下に来た。
「ねー、ナシィ兄ちゃん。ちょっと手伝って。」
「ん、何だい?」
 ナシィは立ち上がってナイを見た。
「こっち来て。」
 ついていくと、ナイは崖の前のある一点で立ち止まった。
「ここの花を採りたいの。」
 ナイが指差した先には、崖から直に一輪の花が咲いていた。白く丸い花びらが風でかすかに揺れている。
「これかい?」
「そう!」
 ナシィが指をさすと、はっきり答えた。特に何ということもないただの花だったが、採りたいのならば一輪ぐらいいいだろう。
 早速手を伸ばしたがあと少しの所で届かなかった。数回試し、結局諦めて手を下ろす。
「困ったな…インジェに頼もうか。」
 ナシィが頭をかいていると、ナイは少し考えてこう言った。
「肩車してよ!」
「肩車?」
「うん。それなら多分届くでしょ?」
 確かにそれなら何とかなりそうではある。しかし…。
 ナシィははっきりと戸惑いの表情を見せていたが、ナイは構わずにその手を下に引っ張った。どうやら乗るから背中を下げてほしいらしい。
 インジェの方をそっと見たが、かなり離れた所にいるためこのやり取りには全く気づいてないようだ。
 ナイが掴んだ手を駄々をこねるように強く振った。
「…仕方ないな、いいよ。その代わりちゃんと頭の上に片手を置いて、気をつけてあの花を採るんだよ。」
「うん!」
 その満面の笑顔に、ナシィは苦笑した。手にしていた薬草を籠に入れて手袋をはめ直し、裸足になったナイを肩に登らせる。小さな足をしっかり握ってナシィは立ち上がった。
 ナイが歓声を上げる。
「うわぁ、高ーい!」
「右とか左とか、ちゃんと口で言うんだよ。」
「はーい。」
 返事はしたもののどうも聞いてないようである。
 ナイは物珍しそうに辺りを見回した後、ようやく崖の方を見た。
「もっとこっち!」
「いた、いたたっ!み、右なのは分かったから髪を引っ張らないで口で…。」
 乱暴に髪を掴まれたままナイの指示に従ってナシィは移動した。
「あ、ストップストップ!」
 ようやく届く位置に着いたらしく、ナイの体が動いた。慌てて肩にかけた足をしっかりと掴んで落とさないように固定する。
 ナイは花の根元を引っ張って抜こうとしたが、固い崖に根を下ろした花は動こうとしなかった。力を込めて何度も引くが土がこぼれもしない。
 腹を立てたナイは、ナシィの頭を掴んでいた左手を離して両手で花を握った。渾身の力を込めて思いっきり引く。
「えいっ!」
 その途端、花は根を残しながらちぎれてしまった。
 反動でナイの体が後ろにかしぐ。突然のことにナイは花を放り出して手を伸ばした。ナシィの側頭部に指がかかる。
「うわわっ!」
 巻き込まれてバランスを崩したナシィは、それでもナイだけは何とか守ろうと懸命に身を起こした。しかし倒れようとした体は戻せない。
 結果として、ナシィは上半身だけは地面と垂直に起こしたまま地面に腰を打ちつけた。
「―!」
 声も出せない程の痛みに体を硬直させる。
 頭にしがみついて目をきつくつむっていたナイが、恐る恐るその目を開いた。様子に気づいて肩から降りようとするが、ナシィに足を掴まれたままだったので動けなかった。振りほどこうとするがほどけない。ナイはナシィの頭をバシバシ叩き、耳も引っ張った。
「ナシィ兄ちゃーん。」
「…何やってたんだよお前は。」
 顔を上げたナイの前には、さすがに気がついたらしいインジェが立っていた。
「ナシィ兄ちゃんが動かないの。」
「は?」
 そう言ってナイはまたナシィの頭を叩いた。しかしナシィが動く気配はない。
「ほら。」
「…ホントだな。でも何でだ?」
 インジェもナシィをつつきながら言った。
「あのね、肩車してもらってたの。そんで花がちぎれてね、ナシィ兄ちゃんが倒れて動かなくなったの。」
 最初は全くわけの分からないといった顔をしていたが、ナイが指さした先にあったちぎれた草の根と今の二人の姿勢にインジェはようやく意味を理解した。
「ったく、そんなことならオレに言えば簡単に取ってやったのに。」
「はーい。」
 ナイが返事したと同時に、やっとナシィの体が少し動いた。
「あ、動いた。ナシィ兄ちゃん、早くはなしてよー。」
 そう言ってまた耳を引っ張った。長髪の下に隠れて見えなかった耳が、露わになった。
 そしてそれを見たインジェは表情を変えた。
「ナイっ、ちょっと手を離せ!」
「え?」
「いいから!」
 言うが早いか、インジェはナイの手を強引に離させた。その途端痺れがようやく取れたらしいナシィの手が緩んだ。
 ナイが肩から後ろに転がり落ちる。
「兄ちゃんっ!」
 だがナシィの耳に手を伸ばしたインジェには、涙目で怒るナイの姿はもはや見えていなかった。
 そしてナシィははっきりと意識を取り戻した。その瞬間、目の前にあるインジェの顔に驚いた。しかしその手が自分の耳に当てられていると気づき、顔色を変えた。
 呆然とし、半開きになっていたインジェの口が動きを取り戻す。
「ナシィ、まさか、お前…。」
 驚きの表情のまま、インジェがその手をゆっくりと横に引いた。手にかかっていた長髪が滑り落ちて戻っていく。
 だが、その耳は完全には姿を隠さなかった(・・・・・・・・)。
「…お前、エルフだったのか!」
 思いもよらなかったことを目の当たりにし、その声はうわずっていた。
 それは同じ世界を生きる人(ヒト)にして、人間とは異なるもの。人間とはよく似た姿をしながらも遥かに高い魔力と寿命を持つ。そしてその血は決して交わることはない完全な異種族。―それが、エルフ。
「………。」
 ナシィは目を伏せ、何も答えなかった。
 インジェが露わにさせた耳はエルフ特有の長く尖った耳だったのだから。
「何だよ…ちっとも気づかなかった。」
 インジェは耳を離したまま動きを止めていた手を地面についた。
 気づかなかったのも無理はなかった。ナシィの髪は、生まれながらにして高い魔力を持つエルフならば持たないはずの黒髪である。耳が隠れた状態では、外見上は何ら人間と変わりなかった。
「…すまない。」
 顔を伏せたままナシィは言った。
 誰の言葉もなく、沈黙が訪れる。どこかで鳴いた鳥の声だけがはっきりと聞こえた。

 と、突然その耳が掴まれた。
「ナシィ兄ちゃんエルフだったの?知らなかったー!」
 全く無邪気な声で言い,ナイが耳を横に引っ張っていた。
 出し抜けな行動にナシィは戸惑って顔を上げた。するとその前で、インジェが平然とした顔をしていた。
「ナシィ、何驚いた顔をしてるんだよ。」
「…え?」
「あ、耳が長ーい!」
「どうかしたのか?」
「え?」
「見て見て、先が尖ってるよ!」
 二人がちぐはぐな会話をしてる中、ナイだけは一人ナシィの耳を引っ張っている。
 するとインジェは眉をひそめナイの方を見て言った。
「ナイ、お前ちょっとあっちに行ってろよ。少し二人で話があるから。」
「何で!」
「大体お前、草採り終わったのかよ。」
 口を尖らせて文句を言おうとしたナイだったが、その言葉に途端に勢いを無くした。
「…まだ。」
「じゃあ、それ済ましとけよ。こっちもすぐ済むから。」
「はーい。」
 ナイがしぶしぶ去ったところで、あっけに取られていたナシィがようやく口を開いた。
「い、インジェ、…いいのか?」
「いいよ、やってないナイの奴が悪いんだから。」
「いや、そうじゃなくて…。」
 ナシィが言葉に困っているとインジェは笑って言った。
「エルフだって黙っていたこと、気にしてんのか?」
 ナシィは正直唖然とした。
 何の屈託もないインジェの表情、そこにはさっきまでの驚きや動揺といったものは全く残っていなかった。
 一瞬妙に空しいような気分になった。しかし、すぐに思い直す。少なくとも自分がインジェたちを騙していたという事実は変わらないのだから。
「…まあ、そうなるかな。」
 様々な思いを胸に持ちつつもそう口にしただけでナシィは少しうなだれたが、インジェがその顔を覗き込むようにして言葉を続けた。
「関係ないよ。そりゃ驚きはしたけど、単に分かんなかっただけだし。それにうちの村はエルフに対して何とも思ってないから。さっきのナイの様子見れば分かるだろ。」
 元々その文化や性質の違いから別の集落を作って生活することが多かったため、人間とエルフは互いに排他的なところがある。だからインジェの言ったのとは逆に、エルフに対して警戒をする人間の村もかなりあるのだ。
「確かにそうだね。」
「ああ。」
 ナシィが小さく笑って言うと、インジェも笑顔で答えた。
 インジェの肩越しに何気なく辺りを見る。日の光が届く草原は、不思議と静かで穏やかな場所だった。
 二人とも何も言わず座っていたが、おもむろにインジェが体を起こした。
「…それより、一つ頼みがあるんだ。」
「何だい?」
 インジェの表情は真剣なものに変わっていた。一度息を落ち着かせてから、言葉を口にする。
「ナシィ。魔法を、教えてくれないか?」
 はっきりとした声だった。そのまま身を乗り出すようにして、目を輝かせて言い続ける。
「エルフは人間よりずっと強い魔法を使ってるはずだ。それを知りたいんだ!」
 声が放たれた。だが、その後再び沈黙が訪れた。
 ナシィは何も答えずに黙ってインジェを見ていた。その目に宿るどこか哀しげな色に、インジェがかすかに動揺する。
「ナシィ、どうして…!」
 さらに言葉を続けようとしたインジェが、その動きを止めた。
「…ごめん。そう言えば、ナシィは魔法が…。」
 漆黒の髪は魔力を持たない何よりの証。申し訳なく思いうつむいたインジェに、ナシィは静かに言った。
「いいんだ、それは。確かに僕は、ある事情があってもう二度と魔法を使うことはできないんだから。」
「…もう?」
 インジェが顔を上げた。その表情が期待に満ちていく。
「じゃあ、少なくとも知ってはいるんだよな!だったら説明だけでも、呪文だけでもいいから教えてくれよ!」
 だが、ナシィは首を横に振った。
「それは、できないんだ。」
「何でっ!」
 期待を否定されたインジェの口調は、無意識のうちにか荒いものになっていた。そのインジェに、ナシィが冷静に語りかける。
「よく聞いてほしい。僕はエルフの魔法を知っている。そしてそれを他人に教えようと思えば多分できるだろう。だけど、それを君が使えるようにすることはできないんだ。」
「どうしてだよ?何で、オレじゃ駄目なんだよ!」
「インジェ、君だからってわけじゃないんだ。そうじゃなくて、人間にはエルフと同じ魔法は使えないんだ。…それだけのことなんだ。」
「な…。」
 会話の中で自然と動いていたインジェの手が、地面に落ちた。
「エルフの魔法が特別に優れているということはない。ただ単に、生来の高い魔力をもって魔法の源となる様々な精霊たちを呼んでいるだけなんだ。そして人間では魔力の性質が合わないから、この方法は使えないんだ。」
 ナシィは穏やかに、真実だけを語った。その目にはごまかしや作為の色などなかった。
 しかしインジェはその言葉に唇を噛み締めた。
「何で…だよ。」
 地面に置かれたその手に力がこもる。土を、草の根をえぐり、強く握りしめられていく。
「何でなんだよ!何で、何でエルフだけしかできないんだよ!何が生来だっ!どうして…どうして人間じゃ駄目なんだよ!」
 肩を震わせ、拳を地面に叩きつける。
「インジェ、落ち着くんだ!」
 ナシィがそのインジェの肩を掴んだ。しかし、インジェは顔も上げずにその手をはね除けた。
「エルフにも、魔獣なんかにも力があるのに…どうしてなんだよっ!」
「インジェっ!」
「弱すぎるんだ、今の力じゃ…『あいつ』を殺せないんだっ!」
 叫び、泥に汚れたその手を再び振り上げた。
 その瞬間ナシィがその手を掴んだ。また振り解こうとしたが今度はどれ程激しく抵抗しても離れなかった。怯んだインジェが顔を上げる。
 ナシィは厳しい目をし、その顔を見て言った。
「インジェ、なぜ力にこだわる?今の君には黒い雄牛を撃退するのに十分な力がある。決して弱くはない。」
「だったら…だったらどうして一年前父さんはああなったんだっ!今のオレにはまだ父さんほどの力はない、それなのに何でそんなことが言えるんだよっ!」
「インジェ、それは違う!」
 強い言葉だった。本心から放たれる言葉の重みが、胸を打つ。
「あの時、君の父親は…村人のためにほぼ一人で戦ったんだ。魔物には決して一人では勝てないだろう。けれど、君は違うはずだ。今度こそは戦おうとしてる村人だっている。だから大丈夫だ。」
 口を閉ざしてうつむいていたインジェの手からは徐々に力が失われていった。
 そっとその手を地面に置く。インジェの肩は、力なくかすかに震えていた。
「信じて…信じて、いいのかよ。ナシィを当てにして。」
「ああ。きっと、大丈夫だ。そして僕も誓おう。あの魔物から君たちと村を守る。…この身を懸けて。」
 ナシィは力強くうなづいた。
 立ち上がり、手を差し出す。
「さあ戻ろう、家族が心配するから。」
 言葉にインジェがゆっくりと顔を上げる。
 目をこすり、その手を握りしめて立ち上がったインジェの前に、籠一杯の草を摘み終えていたナイがゆっくりと近づいてきた。
「兄ちゃん…終わったよ、帰ろう。」
 恐る恐る尋ねるナイの頭を、インジェは顔を見られないよう上から押さえる手で乱暴に撫でた。荒っぽいがその手には愛情があった。
「そうだな。…ありがと。」
 抵抗していたナイは、そう言って手を離したインジェを見上げた。一瞬戸惑い、次いで笑顔を見せる。
「うん!」
 ナシィも何も言わずに微笑みを浮かべて、その光景を見つめていた。
 薬草の匂いが風に乗って流れていった。



 それから少しの間は、何事もなく時間が流れていった。
 ナシィは『森の小道亭』に泊まり村に長期滞在することを決めた。無論ナイは、その理由は知らないとはいえ大喜びした。
 日中はインジェの訓練に主に付き添い、エルフの魔法こそ教えなかったものの、全ての魔法に共通する基本法則やそれに伴う様々な知識をインジェに教えていった。インジェもまたその教えを素直に受けて、訓練を積んでいった。
 インジェは自分から熱心に訓練を行っていた。その行動には迷いなど存在しないかのようであり、また自警団に対する今までの拒絶するような態度を少しだが改めたために、自警団内でのインジェに対する評価が変わり始めていた。
 そしてナシィも、わずかではあるが余所者という扱いを受けなくなっていた。
 一時的なものであったとしても確かな変化があった。

 そして四日が過ぎた。


 その日もナシィたちは薬草を採りに行っていた。
 帰り道、森の中を歩きながら何気ない会話が交わされる。
「ところでナシィ、今日は何をやるつもりなんだ?」
「そうだな…基礎も整ってきたし、そろそろ応用に入ってもいいかな。」
「ホントか!もう待ちくたびれたよ。実戦的な魔法とかなかなか教えてくれなかったからな。」
 インジェが嬉しそうに口元に笑みを浮かべて言った。そこにナイが不満そうに言う。
「兄ちゃんばっかり、いつもナシィ兄ちゃんといてずるい!たまには代わってよ。」
「あのな、オレは何も遊んでるわけじゃないんだぞ。訓練してるんだからな。」
「だってぼくばっかり家のお仕事しなきゃいけないんだもん。前は訓練とかなんてあんまり行ってなかったくせに。」
「あれは魔法の練習に付き合ってくれる相手が忙しかったからだ。今はナシィが…。」
「ずるいー!」
 インジェの言葉を理解しているのかいないのか、ナイは頬を膨らませたままだった。
 言い争いの結論はつきそうにない。見かねたナシィがナイに語りかけた。
「ナイ、君のお仕事が家の手伝いなように、インジェは訓練することが今の仕事なんだ。別にずるくも何ともないんだよ。」
 膨れっ面がきまり悪そうな表情に変わる。
「だって…ナシィ兄ちゃん、いっつも昼間は家にいないじゃん。たまには一緒に遊んでほしいのに。」
「あのな、ナシィは一応余所から来た客だってこと忘れるなよ。いつも言ってるだろ、お客は絶対に遊び相手とかじゃないって。」
 口を挟んできたインジェの言葉にしゅんとなる。
「分かったか?」
「…うん。」
 ナイはしぶしぶと答え、インジェもまたちょっと困った顔をしていた。
 現在この二人には親はいない。ナイは父親が死んだという事だけは知らないにしろ、その寂しさからか誰かにいてほしいと思うのは仕方のないことなのだ。これだけは祖父母がどれだけ愛情をかけて育ててもどうしようもないことなのかもしれない。そしてそれを自分もまた分かっているからこそ、インジェもまたナイを厳しく叱ることはできないのだ。
 なんとなく気まずい間ができる。
「そういえば、もうすぐ村の議会が開かれるって知ってたか?」
 インジェが再びナシィに話しかけた。ナシィが首を横に振る。
「いや、初耳だけど…インジェも出るのかい?」
「まさか。未成年は駄目だから。大体オレまだ14だぞ。」
「14?」
 ナシィは思わず驚きの声を上げてしまった。今までてっきり15,6ぐらいだと思っていたのだ。落ち着いて見直すと、確かに15,6にしては体つきが幼い。
「いくつだと思ってたんだ?初対面の相手とかからは、あまり間違えられたことはなかったんだけどな…。そういうナシィはいくつなんだよ。」
 不審気に言ったインジェに、ナシィは少し口ごもってから答えた。
「…65。」
「65?」
 言葉を聞いた二人の声が重なる。
「65なんてじいちゃんと同じぐらいだよ!ナシィ兄ちゃんておじいさんだったの?」
「いや、僕はエルフだから…。」
 その言葉にインジェだけは気がついたようだった。
「確かエルフの寿命は人間の約4倍だったから…16なのか?」
「いや、若い時の成長は実際はその計算よりも少し早いから、人間に合わせた年齢で言えば今は大体20ぐらいだ。」
 一人首を傾げているナイに、インジェが説明する。
「あのな、エルフって種族はオレたち人間の大体4倍の速さで成長するんだ。だからナシィの年齢も、見た目よりずっと上なんだ。分かったか?」
「ふーん。でもやっぱり、65歳ならおじいさんだ。」
 ナイの無邪気ながら厳しい一言にナシィは苦笑いしてため息をついた。
「で、話がそれたけどその村会議のことだよ。」
「ああ。」
 ナシィが答えると、インジェが真剣な口調に戻って話を進めた。
「今度の村会議で、噂なんだけど自警団の縮小の話が出るらしいんだ。」
「何だって?」
「今だって自警団の活動のせいで村の生活は悪くなっていってる。そのことにあちこちから苦情が出ているんだ。」
 毎日通る村の大通りも、人手が絶対的に不足しているために確かに寂れた雰囲気があった。この現状を第一に考えるならば、今の自警団に対し不満が出てもおかしくはない。
「しかし今になって縮小かい?まだ魔物は去ったわけではないのに。」
「ああ。ナシィはあの崖の上で遭ったみたいだけど、ここしばらく村には姿を見せてなかったから。そろそろ死んだんじゃないかって声が出てきてる。」
「自警団や村長側の意見はどうなんだ?」
「村長は当然反対するみたいだ。ただ、自警団内でもこの意見に賛成する奴は多いと思う。未だに戦う気のない奴も多いだろうし。」
 そう言ったインジェの目には、まだ悔しさがあった。握った杖で乱暴に地面を突く。
「ただ、それは魔物がまだ生きていることを知らないからの意見だろう?それをちゃんと伝えてからじゃないと、判断はできないよ。」
「…ああ、そうする。村長に直接言いに行かなきゃ。」
 答えに反し、口調にはどこか嫌悪感があった。
 その目線を落とした横顔にナシィの表情が曇る。父親の死の原因は、もちろんそれが全てでは決してないが、村長らが決めた村の方針にあるのも事実だ。その事がある以上インジェは村長らに対しても、恨みにも似た感情を感じてしまうのだろう。
 許せないものではある。だが、それだけに囚われていては何も見えなくなる。
 森を抜けて日差しが強くなった。
「インジェ、ちょっと…。」
 呼びかけようとしたナシィが、不意に言葉を止めた。
 振り返ったインジェが、手を目元にあてがって鋭い目で村を見るナシィの行動に気づく。インジェも同じように村の方を見つめた。
 やけに慌ただしく、たくさんの人が村の入り口辺りを走り回っていた。その中には武器を手にした若者の姿も多くあった。
 インジェが顔色を変えて村の方向に駆け出した。そこにこちらに気づいた門番も駆け寄ってくる。遠くから叫んだ大声だけが先に届いた。
「た、大変ですっ!インジェさん早く!」
「どうしたっ!」
 ナシィがナイの手を引いて駆け寄ったところで、門番が先に行くインジェの元に辿り着き足を止めた。呼吸を整えもせずに喋り出す。
「インジェさん、大変です!あれが…『黒牛』が、村に!」
「何だって!」
 インジェは杖を持ち直すと再び走り出した。その横についていきながら、門番がこちらです、と案内をする。
 状況を理解できないまま兄に置いていかれそうになったナイが声を上げた。
「兄ちゃんっ?」
「ナイ、お前は家に戻って大人しくしてるんだ!いいなっ!」
 一瞬だけ振り返ってそう叫ぶとインジェはそのまま村に向かって駆けていった。
 ナシィも走り出そうとしたが、横に立つナイの姿に思い止まる。
「ナシィ兄ちゃん、ねえ、兄ちゃんはどうしたの?」
「それは…まず言われた通りに村に戻るんだ。いいね!」
「う…うん!」
 とりあえずナイがうなづいたのを確認すると、ナシィはその手を引いて走り出した。
 門番のいないまま開かれている門を越える。
 正面の大通りとそれに続く道は人が溢れていた。戦いに向かう者、逃げる者、見に行こうとする者。様々な人で入り乱れている。
 あちこちから怒鳴っているかのような声が聞こえる中、ひときわ大きな叫び声が右手の方向から繰り返し上がっていた。人の多さもあり、襲撃現場が近い事が分かる。
「ちょっとごめんなさい!」
 ナシィは右手で道を開いた。反対の手は、ナイの小さな手を離すまいと強く握り締められている。
 人の波の中をくぐりながらナイも叫んだ。
「ねぇ、一体どうしたの!」
 遅れまいと懸命に走り、片手では薬草の入った籠を大事に抱え込んでいる。
「…村を襲う魔物が現れたんだ、インジェはそれを倒しに向かった。」
「ええっ!」
 ナイの顔に脅えが走る。
 ナシィはその手を引き寄せ、密集地帯を一気に抜けた。走れば宿まではすぐだ。
「ナイ、大丈夫かっ?」
「うんっ!」
 涙ぐみかけていた目をこすってナイは気丈に答えた。
 ようやく宿が見えてきた時、ナシィはその前をうろうろしている老婆を見つけた。
「おばあさん!ナイ君を、頼みます!」
 呼びかけたナシィの声に老婆が振り返る。
「ナシィさん!おお、わかったよ。こっちにおいで、ナイや。」
 ナシィが手を離すと同時に、ナイは老婆の胸に飛び込んだ。そのまま強く抱きつく。
 その頭を優しく撫でながら、突然思い出したかのように老婆は顔を上げた。
「あの子は、インジェはどうなされた?」
「魔物のところに向かいました、僕も今から行きます!」
 短く答えるとナシィは地面を蹴って駆け出した。来た道を逆に戻る。
「あの子を…あの子を、どうか頼むよ!」
 その悲痛な叫びを背中に感じながら、ナシィは全力で走っていった。

 人の流れと声を頼りに、ナシィは魔物の元へ向かった。
 すぐに人垣にぶつかる。周囲を見回し、その一角で人の動きが激しい場所にナシィは飛び込んだ。
 進もうとする波に紛れ輪の内側にたどり着く。顔を出した瞬間、響いた叫びと共にナシィの顔に血のしぶきがかかった。
「!」
 辺りで悲鳴が上がる。手袋の甲で頬を乱暴に拭い、その方向を見た。
 怪我の痛みに倒れうずくまる人の向こうで、黒色の毛に身を包んだ魔物が兵に囲まれながらも激しく暴れていた。
 後ろ足で人を蹴りつけ、はね飛ばす。近くにその一撃を腹で受けたらしい男が倒れていた。金属製の鎧の中央が完全に貫かれ、そこから流れた血が汚れた血だまりを作っていた。
 そして魔物が激しく首を振った。側頭部の二本の角、さらに額の中央(・・・・)の三本目の角(・・・・・)が立ち向かう人々をなぎ払う。絶叫と共に再び血しぶきが上がった。
 『黒い雄牛(ダーク・ブル)』。村を襲い、そしてインジェの父を殺した魔物がそこにいた。
「大地よ、彼の者をその内に捕らえよ(イ・ホペ・ラン・ト・トゥインラド・ヘ)!」
 インジェの声だった。
 その呪文と共に黒い雄牛の足元の地面が動き出す。まるで軟体動物のようなしなやかさでその四つ足を掴もうとした。
 だが黒い雄牛も激しく抵抗をしていた。幾度もその土を振りほどき、近づく者をその足と角で迎え撃つ。
 またも一人の男がその蹴りを受けて地面に叩きつけられた。その分空いた空間に、片手剣を抜いてナシィは飛び込んだ。
 剣の刃を逆向きにして左手に持ち替え、右手を重ねてえぐるように斬りつける。
 魔物の左腰からどす黒い血が噴き出した。同時に蹴り上げたその左後ろ足がナシィの太腿をかすめる。
「ぐっ!」
 さらに蹴りを放って地面についた足が、瞬間沈み込んだ。
 黒い雄牛がバランスを大きく崩す。
「やったぞ!」
 誰かが叫んだ。別の男が正面から剣を振りかざして斬りつけようとする。だがそこに制止の声も飛んだ。
 男は構わずに剣を振り下ろした。
 その時、強く大地を蹴った雄牛が頭を振った。三本目の角が男の無防備になった腹を鎧ごと抉り取った。
 血を吐いて倒れた男をさらに踏みつける。それを足場代わりにして蠢く大地から逃れた黒い雄牛は、全身から血を流しながらもすぐ後ろの森に駆け込んだ。しかし背の至るところに剣や槍を刺したままのその足取りは、決して速くはない。
「逃がすかっ!」
 わずかな間の出来事に次の行動が取れずにいた男達の中で、インジェの声がひときわ大きく響いた。杖を手にして黒い雄牛が去った道へ駆け出していく。
「インジェ?」
 声と共に何人かの男がその後を追う。ナシィもその中に加わっていた。
 しかし破壊された塀を越えた瞬間、明らかに自然のものではない突風が彼らを襲った。
「うわあっ!」
 悲鳴を上げて倒れる者もいる。ナシィは身をかがめて重心を落とし、その風に耐えた。
 突風はすぐに吹き抜けていった。だが顔を上げたナシィは舌打ちした。既に森に駆け込んだ黒い雄牛とインジェの姿は、完全に見えなくなっていたのだから。
 それでも風が吹いてきた方向を見て森に入ったナシィは、点々と残る黒い血だまりを発見した。それを目印としてインジェが走っていった後を追う。
 深追いはいけない。恐らくかなりの魔法を使い疲労した状態では、追い詰められた黒い雄牛の反撃をしのぐことはできないのは明らかだ。
 眼前の木々を見つめて走るナシィの耳に、インジェの魔法を放つ声が響いた。

「風よ、薄き刃となりてその身を削れ(イ・ホペ・インダ・ト・ニーダ・スリグ・スォル・ヘ)!」
 振った杖から幾つもの真空の刃が生まれ、目の前の黒い雄牛に切りかかった。
 インジェは肩で息をつきながら、流れる汗を拭いもせず身構えていた。意識を集中して風の刃を既にある傷口に集中する。
 血のにじんでいる傷がさらに大きく抉られて新たに血しぶきが上がった。
「後少しだ…やっと、こいつを…殺せる!」
 深い怒りを持ったインジェの目に、暗い光が宿る。その目に今映っているのは、黒い雄牛が苦痛に吼える姿だけだった。
 黒い雄牛が、苦痛からか身をかがめた。インジェは新たな魔法に移ろうと風を解いた。
「いけっ!炎よ、全てを(イ・ホペ・フィレ)…。」
 インジェがとどめを確信したまさにその瞬間。風の刃から開放された黒い雄牛は再び立ち上がり、杖を手に立つインジェを狙って大地を蹴った。
 その角が陽光を反射する。
「うわあっ!」
 地面に倒れこみ、辛うじてその一撃をかわした。だが黒い雄牛は突撃がかわされたのに気づくやいなや、再びその顔をインジェに向けた。
 血走った目が合う。動こうとしたが、立てなかった。
 忘れていた、あの時(・・・)から封じ込めていたはずの恐怖が胸を染めていく。あの時に決めたはずだった。絶対に、『あいつ』をこの手で殺すと。
 魔物が目の前で大地を蹴ったのが、まるで現実感のない映像のようにはっきりと見えた。その足音すら遠くから響いていた。
 ―また、殺される。
 ついにインジェは、迫り来る魔物に対しその瞳を閉ざした。

 恐れていた衝撃は来なかった。
 不自然なまでの静寂に、恐る恐る瞳を開く。
 目の前に、立つ人の姿があった。黒いコートが風になびいて広がる。
 思わず口が動きその名を呼んでいた。
「―ナシィっ!」
 しかしインジェは次の瞬間、息を呑んだ。その背を貫く黒光りした角の存在に。
 だがナシィはそれにもかかわらず素早く剣を持ち替えた。そのまま大きく振りかざし、黒い雄牛の片目に突き刺す。
 激痛に絶叫が上がった。
 黒い血にまみれた剣が抜かれる。その時、黒い雄牛はナシィの体から強引に角を抜き取った。その体を前足で蹴りつけ跳ね飛ばす。
 木の根元に叩きつけられ、ナシィはその場に崩れた。
 黒い雄牛が森に逃走する。既にかなりの深手を与えていることは分かっていたが、インジェには追うことはできなかった。
 雄牛の重い足音だけが耳に響く。
 そして、その姿は木々の向こうに消えた。
 呆然と座り込むインジェが、突然我に返った。辺りを見回し、うずくまるナシィの元に駆け寄って膝をつく。
「ナシィ!しっかり、しっかりしろよナシィ!」
 涙声で叫び、力なく垂らされたその片腕を掴んで必死に揺すった。
 気がついたのかナシィは顔を上げた。苦痛に顔をしかめ、口から血を流しながらもあくまで優しげな声で答えた。
「インジェ…無事、だったか。」
「オレは平気だよっ!それよりもナシィ、その傷…。」
 声を上げていたインジェが、その動きを不意に止めた。
 目線の先、深く貫かれた傷が当てられた片手の奥で動いていた。呪文など何一つ唱えられていないというのに、出血が止まり、肉が繋がり、傷が急速に癒えていく。
 さらに流れた血は、体の表面では鮮やかな赤を保っているのにも関わらず体を離れた途端にその色を黒く(・・)変えた。
 この事実に気づいたインジェは、顔色を変え1、2歩後ずさると立ち上がった。両手で必死に杖を構え、その先をナシィに向ける。
「ナシィ、どういう事だよ…!」
 驚きに見開かれた目は、同時に別に感情をも宿しつつあった。
 信じられなかった。いや、信じたくなかった。だが目の前の光景から顔を背けることはもうできなかった。
 そのインジェの突然の行動に気づいたナシィは、苦痛にまだ顔をしかめつつもその目を静かに受け止めていた。そこには諦めにも似た感情があった。
 インジェの体が震えていた。ただの疲労かそれとも怒りか、自分で気づいてすらいないのかもしれない。その口が、全ての思いを言葉に変える。
「何で…なんでお前が魔物なんだよっ!」
 叫びは、静寂を取り戻していた森にこだました。
 ナシィは何も答えずにただインジェを見つめていた。言葉にもその表情は変わらなかった。既に、手を当てられていた傷は完全に塞がっている。
 こらえきれずに下を向き、涙をその目ににじませながらインジェは叫び続けた。
「何で魔物なんかが助けに来るんだよ!魔物のくせに…父さんを殺した奴らのくせにっ!」
「インジェ…。」
 その言葉にナシィは立ち上がった。一歩、足を踏み出す。
「来るなっ!」
 インジェが顔を上げた。ナシィの目の前に再び杖を突き出す。
「近づくなっ!お前が…お前が魔物だから…。」
 向けられた杖の先は小刻みに震えていた。
 ナシィは何も言えずに、片手をわずかに差し出した姿勢のままインジェの前に立ち尽くしていた。
 二人は無言のまま向き合っていた。森の中ならば聞こえてくるはずの様々な音すら、今は聞こえなかった。
 人間ならよかった、エルフでもよかった。…人なら、よかった。
 睨み付けていたインジェが、遂に耐え切れずに目を外した。
「何でだよ…ちくしょうっ!」
「インジェ!」
 渾身の力を込めて叫び、インジェはもと来た道に駆け出した。
 ナシィが手を伸ばす。しかし、届かない。かけた声は空しく消えていった。
 走り行く後ろ姿が木の向こうに見えなくなった。
 ナシィは伸ばしたその手を、ゆっくりと引きながら握りしめた。そして強く首を振る。
 木のざわめきが聞こえた。森に、いつの間にか音が戻っていた。

 夕日が空を紅に染め変える。
 飛び立った鳥が、一つの黒い影となって光の中を舞う。
 地面に横たわる自らの影を長く伸ばしながら、ナシィは村へと戻っていた。
 門番がその姿を見つけるやいなや、慌てて目線をそらした。まるで相手の存在すら気づいていないかのように、完全な無視という姿を装って。
 ナシィはその行動に気づいていたが無表情のまま静かに門に足を踏み入れた。
 魔物は人に仇なす、恐るべき存在。人々の一般認識はそうであり同時にそれはおおむね間違いではない。ましてや、今魔物に襲われている村ならばその感は尚更だ。その思いはたやすく変えられるものではない。
 門の壁を影が横切っていった。
 大通りは夕暮れの賑わいを見せてはいた。しかし昨日と比べてさらに閑散としている。人通りが、まばらとも言えるほど少なかった。響く呼び声がどこか寒々しい。
 昼間の魔物の襲来が原因なのは明らかだった。対抗したときにかなりの数の負傷者が出ただろう。その手当てに追われている人の数もまた多いはずだ。
 ナシィはその奥へと歩いていった。こういった人たちにまでは話が伝わっていないのか、自分の姿を見て不自然な反応をするものはいない。表情にこそ出なかったが、胸の内にかすかな安堵と悲しみを覚えつつ道を急いだ。
 『森の小道亭』の看板は、いつもと同じように道を見下ろしていた。その正面まで歩いて一度立ち止まる。外には誰の姿もなく、まだ灯りがともされてもいなかった。
 ナシィは軽く看板を見上げ、扉を開いた。
「いらっしゃ…。」
 赤色の夕日が差し込む部屋には、老人と老婆が待っていた。
「…おやまあ、お帰りなさい。ええと今夜はどうしますかね?食事なら、すぐにできますよ。」
 一瞬の沈黙の後、老婆は急に多弁になった。一方の老人は無言のままナシィを厳しい目で見ていた。
 ナシィは既にインジェが真実を伝えたことを悟った。
「いえ…事情があって、すぐにここを発とうと思いまして。」
 はっきりとナシィは答えた。―もう、ここにはいられない。
 老婆の顔に安心と狼狽の矛盾した感情が現れる。老人が一歩前に進み出た。
「手を出せ。」
 言われるままにナシィは片手を差し出した。その掌に、十数枚の銀貨が落とされた。
「今までの代金だ。ここを、出ていってくれ。」
「お前さん!」
 うろたえた老婆を無視し、老人はナシィに告げた。
「黒牛も去った。後は、あんたさえいなくなればこの村は元に戻る。あの子も危ないことをせんで済む。…すぐに出ていってくれ。」
 明らかな、拒絶。だが孫を思う老人の気持ちは本心からのものだ。
「…分かっています。今、荷をまとめたらすぐに行きます。」
 その思いは理解できた。そしてそれを否定する気など全くなかった。
 だからナシィは答えた。軽く礼をし、銀貨だけは机に残して部屋に向かう。光が届ききっていない暗い階段を一歩ずつ上っていく。
 背後で聞こえた老人と老婆のやり取りにも振り返らずに、ナシィは壁の向こうに姿を消した。

 部屋の窓からは赤く色づいた空が見えていた。窓に立つナシィの背には、既にまとめられたわずかな手荷物がくくりつけられていた。
 夕日は山の端に姿を消しつつあった。直接陽が入る部屋からは暗くなり始めているであろう向かいの空を眺めることができなかった。柔らかな光がナシィの頬を染める。
 森と空を見るナシィの目には冷たい悲しみがあった。旅の中で何度も繰り返されたこと。エルフでないと知られ拒絶された時には、その地を去るしかなかった。慣れてはいる。だが、痛みは決して消えはしない。
 ナシィは前に手を伸ばした。小さく軋んだ音を立てて窓が閉じる。カーテンも閉めると、室内は急に暗くなった。布越しのかすかな陽以外に光はない。
 そして、扉は完全に閉ざされた。
 階下に降りたナシィが見たのは、一人で困っている老婆の姿だった。
「すみません。」
 背後から声をかけられ、一瞬身を強張らせたのがはっきりと見えた。
「な、何ですか?」
「一つ尋ねたいんですが…インジェとナイ君は、どこに?」
 老婆が息を呑む。
 本当のことを教えてくれるかは分からなかったが、それでも最後に確認だけはしておきたかった。
「インジェは、村の自警団の詰所の方に…ナイは分からん。少し前まではインジェと一緒にいたはずなんじゃが…。」
「分かりました。どうも、ありがとうございました。」
 安心し、微笑む。インジェとはもう会うわけにはいかなかった。そして、ナイとも会えない。―会えば、傷を増やす。
「本当に、ナイのことは分からんのじゃよ。だから…。」
 動揺する老婆に、ナシィは再び声をかけた。
「大丈夫です。…すぐに、ここを出ていきますから。」
「そ、そうかね…。」
 納得したらしい老婆をその場に残したまま、扉に手をかける。
「お世話になりました。それでは。」
 老婆はその場に立ち尽くしたままだった。未だ混乱しながらただ見送るだけだ。
 ナシィは深く黙礼すると、外へと出ていった。

 暗くなり始め、人の姿も減った道をぬけてナシィは村の外に出た。
 今日の朝も三人で歩いた道を、今、一人で歩き出す。短い間の出来事が、全てを変えた。インジェの叫んだ姿が虚空に浮かぶ。
 『何でだよ!』…事実は変えられない。かつて自分の身に起こった事はゆるぎない現実だったのだから。今はもう悔やんでもいない。
 ナシィは足を止めた。ちょうど、ここから森の奥に入っていった。
 最初に出会った場所。黒い雄牛から身を守ろうとしたのがきっかけだった。…恐らくあの傷ではもう死んでいるだろう。村も安全になるはずだ。
 …残ったインジェのことだけが気にかかっていた。『魔物』に対しての強い怒りを持ち魔法を使い続けていた彼が、父の敵を討ち終えてどうなるのか。
 だが、もう自分の言葉は届かないだろう。…できることは何もない。
 夕闇が木々を黒く塗りつぶしていく。ナシィは、再び足を踏み出そうとした。
「待って!」
 その足が止まった。聞き覚えのある声に振り返ったナシィは、目を見開いた。
「ナシィ兄ちゃん!待ってよ!」
 全速力でナイが駆けてきていた。そのまま立ち尽くすナシィの足にしがみつく。
「ナイ?どうして、君が…。」
「ナシィ兄ちゃん、いてくれるって言ったじゃんか!何でぼくを置いてくんだよ!」
 泣きじゃくりながら、決して離れまいと強く足を抱く。
「家に帰ろうよ!そんで、もっといろんな話をしてよ!約束してたでしょっ?」
「ナイ、僕は…。」
「やだよ!置いてっちゃやだよっ!置いてっちゃ…。」
 しがみついたままナイは泣き続けた。コートの裾を強く強く握りしめる。
「ナイ、よく聞いてくれ。僕は…。」
「違うもん!ナシィ兄ちゃん悪い奴なんかじゃないもん!兄ちゃんは近づくなって言ったけど、そんなことないもん!」
 その言葉を聞き、ナシィは言葉を失った。
 恐らくインジェはナイにも伝えていたのだ。真実の全てではないかもしれないが、少なくとも自分から離れるようにとは。
 父を失い、またも置き去りにされたとナイは思うだろうか。だが…自分はもう彼の元にいるわけにはいかない。
「行かないでよ、ナシィ兄ちゃん…。」
「…ナイ。」
 震えるその小さな肩に、ナシィはそっと手を重ねた。
 空が色を失う。立ち尽くす二人の姿すら黒く染め変えて。

「ナイっ!」
 叫びが、闇を貫いた。
 顔を上げたナシィと振り返ったナイの向こうに、長い杖を構える影があった。
「ナイ!早くそいつから離れろ!」
 杖を正面にかざしいつでも魔法を放てる体勢のままインジェが叫んでいた。
 ナシィは肩に当てていた手を離した。しかしナイは、横にしがみついたまま動こうとはしなかった。真っ赤に泣き腫らした目でインジェを睨んでいた。
「離れろって言ってるだろ!」
「いやだっ!」
 小さな体に精一杯の力をこめて、思いを放つ。
「絶対にやだっ!ナシィ兄ちゃん、いてくれるって言ってたもん!」
 インジェが表情をいっそう険しくさせて一歩足を踏み出した。ただ立ったままその姿を見つめるナシィのコートを握りしめ、ナイも自分から前に立った。
「ダメだっ!そいつと一緒にいてはいけないって何度言えば分かるんだ!」
「何でダメなの!ナシィ兄ちゃん、悪い人じゃないもん!いい人だもん!」
「バカやろうっ!そいつが…そいつがいい人(・)なわけないんだっ!」
 杖の根元を地面に叩きつける。その鋭い音にナイの体が一瞬強張った。
 握り締めたもう一方の手を震わせ、インジェは見開いた目で正面からナシィを睨んだ。その目を今埋めていたのは、弟を守ろうとする兄の思いだった。
 強く噛みしめられていた口が再び開く。
「そいつは、あの黒牛と同じ…魔物なんだぞっ!」
 空気を震わせんばかりの叫びが辺りに響き渡った。一瞬の静寂が生まれる。
 ナシィはかすかに目を細めた表情のまま静かにインジェを見つめていた。しかしその目には、幾度も重ねられた消えない悲しみがあった。
 インジェが肩で大きく息をつき、顔を伏せた。夜の闇がその顔を隠す。
 だが、ナイは言い切った。
「まもの(・・・)だから、何なの?ナシィ兄ちゃんは何も悪いことしてない!ぼくを守ってくれた!」
 その言葉に二人(・・)が息を呑んだ。―インジェと、ナシィ自身が。
 それもまた、もう一つの真実。幼いナシィがその心で捉えた事実がそこにはあった。
 しかしインジェは激しく首を振ると、さらに一歩を踏み出した。
「いいかげんにしろ、ナイ!そいつから離れろっ!」
「嫌だっ!」
 一歩、また一歩。少しずつインジェは近づいてきていた。ナイは何度も首を横に振った。
 二人の距離は後数歩だった。
「こっちに来るんだ!」
「嫌だ!―嫌だ嫌だ嫌だっ!絶対に…いやだっ!」
 叫んだ次の瞬間、全く出し抜けにナイは森へと駆け出した。
「ナイっ!」
「ナイっ?」
 インジェとナシィの声が重なる。
 予想などつかなかったこの事態に、一瞬対処が遅れた。ナイの姿が森を覆う闇の中に薄れていく。
 ナシィは後を追って走り出そうとした。
「―大地よ、彼の者をその内に捕らえよ(イ・ホペ・ラン・ト・トゥウィンラド・ヘ)っ!」
「なっ?」
 その足が地面に縛り付けられた。倒れたナシィはすぐに顔を上げてインジェを見た。
「インジェ!これは…!」
「お前は来るなっ!さっさと、ここを出ていけ!」
 怒りに満ちた目で叫ぶ。自分の行動と言葉の矛盾に気づかないほど、その心は平静を失っていた。だがその杖だけははっきりとナシィに向けられていた。
「そんなことを言っている場合か!夜の森が、どれだけ危険か分かっているだろっ!」
 ナシィが始めて声を荒げた。このままではナイの身が危ない。そしてその思いは二人とも同じはずだった。
「ナイはオレが守るんだ…お前さえいなけりゃよかったんだ!」
「インジェ!」
 インジェもまた、後も見ずに駆け出して森に飛び込んだ。
 名を呼んだナシィの声は流れ去り、闇に消えた。
 冷えた風だけがその場に残っていた。

「ナイ、どこだ!返事をしろっ!」
 森に駆け込んだナイを探して、インジェは名を呼び続けた。杖の先に集めた光が煌々と辺りを照らしている。だが、ナイの足取りを追うことができなかった。
「ナイっ!」
 声を上げながら走り続ける。弟の足はそれほど速くはない。まだ遠くには行っていないはずだ。ならば、きっと見つけられる。
「―?」
 気配に振り返り杖を振る。しかし、その先の空間に動くものの姿はなかった。
 詰めていた息を吐き、再び走り出そうとしたインジェが突然足を止めた。耳を澄ます。
 木々の向こうから、風よりも大きく葉が揺れる音がした。獣かも知れない。だが、他にあてなどない。
 インジェは音のした方向に走り出した。
 道を塞ぐ木の枝を払い、ひたすらに前に進む。音は続いていた。近づいてきたせいか、走りながらでもかすかに聞こえてきた。
 夜の闇は心をも覆う。ともすれば浮かびそうになる悪夢を、インジェは何度も首を振って否定した。今は、ナイを探すことだけを考えていればいい。
 杖に集めていた光を、大きく広げる。
「光よ、我が前をあまねく照らせっ(イ・アセ・リト・ト・フィル・アル・フロン・メ)!」
 手にしていた杖を振った。
 飛び立った光が闇を消し去っていった。―そして、残酷な真実が姿を見せた。
「なっ…。」
 眼前の光景に思わず足を止める。
 何の変哲もない森の一角。斜め前の木の根元には探していたナイが座り込んでいた。
 そして、その前で光に照らされていたのは…『あいつ』の姿だった。
 体の傷は残っている。黒い血が、なおも地面に滴り落ちている。死んでいて当然のはずだった。だが、闇を払った今、目の前に広がるのは紛れもない現実なのだ。
 黒い雄牛がこちらを向く。片目は潰されていた。残された一つの目には異常な光が宿っていた。牙をむいた口からは、大量の涎が流れ落ちていた。―完全に狂っていた。
 口が開き、舌が動くのがはっきりと見えた。その蹄が大地を二、三度叩く。そして強く蹴った。
「ぐっ!」
 転がり、突進を辛うじてかわす。黒い雄牛がその横を通り抜けた。巻き起こる風と石のつぶてが腕を打つ。一本の木に雄牛が激突する音が響いた。
 インジェは立ち上がり、杖を構えた。
「光よ我が元に集え(イ・アセ・リト・ト・レス・ヒス)!」
 辺り一帯を照らしていた光が、再び杖の元に収束した。森が本来の闇に近づいていき、黒い雄牛の姿もその中に溶け込んでいった。
 木に突き刺さった角が抜かれた。深くえぐられた木が、ゆっくりと後方にかしいでいく。
 再び蹄が大地を叩いた。インジェは光を放つ杖を手に身構えた。黒い雄牛の目が、その光を捉える。頭を下げ、角を前に差し出す。
 インジェが杖の先を下げたと同時に、黒い雄牛が再び大地を蹴った。
「光よっ(リト)!」
 片目を狙って杖を叩きつける。その瞬間、杖の先端の光が眩いほどに強まった。
 閃光が一瞬辺りを覆った。
 残光の中、杖が宙に飛ぶ。
 黒い雄牛はそのまま別の木に激突した。インジェが地面を受身すら取らず転がった。
 森が、再び静けさを取り戻した。
 光が消えた空間には、木の葉に隠され月明かりすら届かない。動くものの姿は捉えられない。そこからは獣すら姿を消していた。
 音もなく風が吹いた。血の臭いが流れていく。動いた葉の隙間から、斑に月光が地に落ちた。
 黒い雄牛が、頭を動かした。木がかしぎながら他の木までも巻き込んで倒れていく。
 開かれた空間の中、流れる血をかすかに光らせて黒い雄牛が立っていた。
 咆哮が上がる。黒い雄牛はもう一度地面を叩くと、唸り声を上げて何(・)も(・)ない方向に(・・・・・)突進をした。
 またも木に頭を打ちつける。角が幹を深く貫いた。額の皮がはがれ、新たな血が流れる。
 見開かれた目は完全に焦点を失っていた。血が流れ込む中、瞬き一つすらしない。
 そしてインジェが地面に手をついて立ち上がった。赤い血の混じった唾を吐き口を拭う。倒れた拍子に唇でも切ったのか、血の味がしていた。
 体は痛む。だが、動きに支障はない。月明かりを頼りに転がった杖を拾い上げた。確認したが破損はなかった。ようやくため息をつき、後ろを振り返る。
 黒い雄牛が闇雲に突進を繰り返していた。魔物を払う力を持つ光の魔法で目を灼いたのだ。しばらくは、何も見えはしないだろう。…時間稼ぎにはなる。
 辺りを急いで見回し、座り込んだままのナイを見つけ出した。駆け寄り肩を揺する。
「ナイ、しっかりしろ!大丈夫か?」
 言葉に気がついたのか、ナイが顔をしかめた。ゆっくりと目を開く。
「…兄…ちゃん?」
「ナイ!怪我は…どこか痛いところはないか?」
「ううん、平気。」
 そう言って目をこする。どうやらただ気絶していただけだったらしい。
 安心したインジェは座り込んだままのナイを抱きしめた。
「よし…じゃあ、帰るんだ。こんな危ない所にいちゃいけない。」
 杖を突いて立ち上がる。その手を、ナイが掴んだ。
「兄ちゃん、ナシィ兄ちゃんは!」
 さっきまでの弱々しさが嘘のように、ナイは強くインジェの手を引いた。
 だがその手を振りほどいてインジェは言った。
「あいつはもういない。だから、帰ろう!」
「うそだっ!」
 ナイが急に立ち上がった。そのままインジェの服の胸元を掴んで揺する。
「ナシィ兄ちゃんが行っちゃうわけないっ!」
 その自分を見る強い目に、インジェは動揺した。
 父を亡くした時から、急に諦めのよくなっていた弟。なのに、どうして今こんなにも強く抵抗しているのか。その変化は嬉しかった。だが、なぜ今なのか。なぜあいつなのか。あいつはここにもういない―魔物なのに。
「…あいつは行ったんだよ。今だって、ここにいないだろ!行っちまったんだ!」
「そんなことない!」
「ナイ!」
 大声にナイが動きを止めた。開いた目から大粒の涙が零れ落ちる。
「何で…何で、いなくなっちゃうの…?父さんも、ナシィ兄ちゃんも…。」
「仕方ないことなんだ。オレがいてやる。だから、まずここを出よう。」
「…うん。」
 ナイの頭を撫でて、インジェは来た方向に向き直った。
「!」
 その先で、黒い雄牛が同様にこちらを振り返った。
 一瞬息を呑む。だが、すぐに思い直した。光によって視力はまだ失っているはずだ。こちらを見たのもただの偶然に過ぎない。
「大丈夫だ。さあ、行くぞ。」
 不安がって震えるナイにもう一度振り向き、肩に手を当ててやった。
 仕留められるものなら、今すぐ仕留めたい。しかし今はナイを連れ帰るのが先だ。
 ナイがようやくほっとした顔を見せた。だが、次の瞬間その顔が凍りついた。
「兄ちゃん、後ろっ!」
 振り返ったインジェの前には、まっすぐ自分めがけて駆けてくる黒い雄牛の頭があった。
 その角が月明かりを反射して白く輝いた。
「伏せろ!」
 ナイの肩を抱いて地面に転がった。
 一瞬の差で、その後の空間を黒い雄牛が貫いていった。闇の奥で幾度となく聞いた鈍い音が響く。
「兄ちゃん、大丈夫?」
 体を先に起こしたナイが涙声で言った。
「あ、ああ…ちくしょう、何で分かったんだ!」
 吐き捨てて体を起こす。だが、黒い雄牛が去ったはずの方向を見たインジェは驚愕に目を見開いた。
 黒い雄牛が明らかにこちらを振り返って、大地を蹴ったのだから。
 身を起こして逃げる間などもはやなかった。その血塗られた角が自分達を捉えるまでは、わずか一瞬。
 だからインジェは片手でナイの背を突き飛ばしながらもう片方の手を迫り来る魔物に向けてかざしていた。
 視界が暗くかすむ。
 その目には深い憎しみを込めた、決意が存在した。

 衝撃が、インジェの体を横に(・・)跳ね飛ばした。

 顔を上げたインジェは、呆然とその光景を見つめていた。
 既視感(デジャヴ)。
 風に広がる黒いコートと、それを貫く黒く濡れた角。全てが同じ光景だった。
 逆手に剣を構えた手がゆっくりと振り上げられる。
 黒い鮮血が、虚空に散った。
「!」
 声は、出なかった。
 しかしその音に気づいたナシィが苦しげに首を曲げた。
「二人とも早く逃げろ!こいつは…!」
 だが、次の瞬間動いたのは黒い雄牛だった。ナシィをその角で貫いたまま再び大地を蹴る。大木の幹に、その頭を自らぶつけた。
 鈍い音が、骨の砕ける小さな音を交えて響いた。ナシィの口からかすかにうめき声が洩れる。
「ナシィ兄ちゃん!」
 先にインジェに突き飛ばされ、身を起こしていたナイが声を上げた。来てくれた喜びと目の前の光景の衝撃にその声を震わせる。
「早く…早く、ここから逃げろっ!」
 胸を貫かれ、血を吐きながらもナシィは言った。その血が黒い雄牛の背に飛び、混じり合う。
 来るはずがなかった。魔法でその足を止めた。出ていけと叫んだ。目の前の黒い雄牛と同じ魔物だった。
 ―なのに、その相手は目の前にいた。自らの身を犠牲にしてまで、自分たちを助けて。
「…何で、何でお前がここにっ!」
 叫んだインジェが、はっとして口をつぐむ。
 黒い雄牛の耳が(・・)、こちらに向けられていた。目が見えてなどなかったのだ。音…その声(・)が、黒い雄牛を招いていたのだ。
 全ての思いを堪え、歯を食いしばって立ち上がる。
「兄ちゃ…!」
 声を上げようとしたナイの口を塞いだ。もう一方の手でナイの体を抱く。抵抗して暴れるナイを無理やり抱え込んだ。
「インジェ、ナイ、行くんだっ!」
 その声に一瞬ナイの力が緩んだ。すかさずインジェが走り出した。
 闇の中に二人は身一つで飛び込んだ。その姿がすぐに見えなくなる。
 黒い雄牛がその足音に首を向けようとした。だが、押さえつける力が緩んだのに気づいたナシィがその顎を膝で蹴り上げた。
 動きを完全に封じられた今、できるのは黒い雄牛を引きつけておくことだけだった。
 再び黒い雄牛が頭を押しつけた。木がミシリと音を立てる。
「がっ…!」
 口から血が溢れ出した。

 インジェとナイは夜の森を走り続けていた。
 杖を持たない今、魔法を使うのにはかなりの負担がかかる。だがかざした右手の先から光を放ってインジェは駆けた。左手でナイの手を強く握る。
 ともすれば足がもつれ、倒れそうになる。前に広がる木の枝や草を払うことすらできずにその中に飛び込んでいく。鋭い葉が頬をかすめ、細く血がにじんだ。
「あっ!」
 石に躓き、バランスを崩して遂に倒れた。ナイと繋いでいた手が外れ、魔法すら消えて辺りが闇に包まれる。
「兄ちゃん、しっかりしてよ!」
 ナイが肩を揺すった。痛みに耐えながら、手をついて何とか顔だけでも起こす。
 見上げた先に初めて星の輝きが見えた。―出口は、もう目の前だった。
「ナイ、お前は…村に戻るんだ。」
 息を切らしながら告げる。
 肩を揺するナイの手の動きが激しくなった。その声はもうほとんど泣いている声だ。
「やだよ!兄ちゃんも、一緒に来てよ!」
 苦しさに目をつぶる。
 視界には、何も映らない…闇すらもそこにはない。月の光も夜の闇も存在しない。残るのは、真に純粋な思いだけ。
 頬を水滴が打った。その冷たさと温かさに、インジェは再び目を開いた。
「オレは…あいつ(・・・)のところに行く。」
 静かな声。光を失った中、その表情は誰にも見えなかった。
「だったらぼくも行くよっ!」
「ダメだっ!」
 そう言って、動きを止めたナイの手を掴み肩から引き剥がした。
「何のために逃げたか、分かってんのか!」
「!」
 掴んだ手が一瞬反応したのが分かった。
「…お前は村に急いで戻って、自警団の奴らを呼ぶんだ。いいな!」
 言葉に、泣きながらナイがうなづいた。
「じゃあ、早く行けっ!」
 すくんだ肩を叩いて、インジェは叫んだ。
 涙を腕で拭って、ナイが立ち上がる。そのまま一人で森を飛び出していった。
 足音が遠ざかる。仰向けにインジェは再び倒れこんだ。激しく息をつく。開いた目には月が見えた。満月を迎えようと真円に近づきつつある月が輝く。
 その姿がにじんだ。知らぬ間に、涙が流れていた。
 これは…目に汗が入ったんだ。そう自分に言い聞かせて手に力を込めた。土を握りしめ、体が起きる。
 視線の先が暗く変わる。闇色の森、風は流れていない。
 インジェは片腕で目の前の枝を掴んだ。

 ナシィは息すら止めて、その場にいた。
 胸を押さえつける力は緩まない。辛うじて自由になる足でその体を何度も蹴りつけた。しかし度重なる傷に痛覚も麻痺したのか、黒い雄牛は身じろぎ一つしなかった。
 インジェたちを逃がしてからそれなりの時間は経っているはずだった。後は目の前の魔物を倒せば、全てが終わるはずだった。…だが、完全に圧迫され動くこともままならない。
 口から血を吐いて咳き込む。足元には既に大量の血だまりがあった。その量は人の一人分の血液の総量をはるかに超えていた。
 黒い雄牛の目ははっきりとナシィを見上げていた。血に濡れた瞳が、瞬きをした。
「―風よ、大いなる刃となって斬れっ(イ・ホペ・インダ・ト・ニーダ・ウォルド・スォル・ヘ)!」
 突風がその血を巻き上げた。
 黒い雄牛の体に突如裂け目が生まれ、新たな血が噴き出す。
 ナシィは顔を上げた。その先に、両手を前にかざして立つインジェの姿があった。
「なぜ戻ってきた!」
 叫びは声にならない。潰れた肺からは血だけが溢れた。
 身構えるインジェの足が痙攣していた。体への負担は限界に達している。だがその腕に再び魔力が集中した。
「もう一度(エン)、行け(ニーダ)っ!」
 手から放たれた真空の刃が、黒い雄牛の額の角を打ち砕いた。
 魔物の絶叫が空間を埋め尽くす。
 黒い雄牛が頭を振った間をつき、ナシィは縫いつけられていた体を木から引き剥がした。胸に空いた穴から血がさらにこぼれた。
「インジェ、しっかりしろ!」
 膝をつき、崩れたインジェの元に駆け寄った。体を抱き起こす。
「何で戻ってきた!そんな体でっ!」
 放った言葉に、インジェは閉じかけていた目を開いた。かすれた声が返ってくる。
「あいつは…オレが、倒すんだ…。ナシィ(・・・)なんかに……。」
 はっきりと、ナシィの名をもう一度呼んでいた。そのままインジェは完全に目を閉じた。
「インジェ!」
 反応はもう無かった。体から、力が抜けている。だが辛うじて呼吸だけはしていた。
 その時、感じた気配にナシィは顔を上げ振り返った。黒い雄牛が、焦点のあった目で自分を見ていた。
 気絶したインジェの体を横たえすかさず逆に飛ぶ。その先に黒い雄牛は突進をしてきた。
 身をひねる。しかし、かわしきれずに脇腹を大きく抉られる。
 ナシィは膝をついた。傷はすぐに塞がり始めるが、激痛に唇を噛む。遠くで黒い雄牛が木をよけてその向きを変えるのが見えた。
 転がっていた片手剣を拾い上げた。同時に、黒い雄牛が残る二本の角をかざして突っ込んできた。
 激突の直前に体をずらし、剣を突き出す。
 刃が背に食い込み、その突進の勢いで肉が裂けていった。
「!」
 だが、その手が不意に剣を離れた。勢いに負けたナシィの体が跳ね飛び、木の根元に叩きつけられた。再び血が服を染める。
 ナシィは手をつき顔を上げた。剣は黒い雄牛の背に突き立ったままだった。しかしその走る勢いは衰えていない。
 周囲を見回す。インジェは倒れたまま動かず、他に武器も転がっていなかった。
 黒い雄牛の目がこちらを捉える。憎悪と破壊。正気でも狂気でも、それは同じことだった。
 ナシィの目が、地面のある一点で止まった。
 木を盾にして突進をかわし、その腕を落ちた荷袋から飛んだ荷の一つに伸ばした。布で幾重にも巻かれたそれを拾い上げ、別の木の後ろに飛んだ。
 ナシィの左手が大きく動いた。乳白色の薄く長い布が、暗い森の中で宙を舞う。荷袋の奥にしまわれさらに布で包まれたその荷が、姿を現す。
 片手で掴めるほどのささやかな物。複雑な印様の刻まれたそれには、長剣の柄らしきものがつけられていた。だがその先は幅広で短い。まるで刃を持たない剣が収められた鞘であるかのように。
 ナシィはその柄に手をかけた。
 黒い雄牛がナシィの前方に回り込む。かわしたナシィの側で、大木が突進を受けゆっくりと倒れていった。
 その奥で、一つの目だけが青白く光る。
「…扉を支えし者よ(ゲイト・ルーレ・オネ)、我が力と引き換えにその道を開けよ(ビ・メ・アル・ヘアルティ・リレイス・ヨウル・ティヘ)!―解呪(ディ・スミ)!」
 その身から魔力を失ったはずのナシィが、呪文と共に剣を抜き放った。

 ―確かなる刃が、そこには存在した。
 剣の鍔の中央で、瞳が開く。それは生物とも物体ともつかない奇妙に歪んだ存在にして、この世にはあらぬものだった。赤茶けた疣に覆われた皮膚が脈動を始める。そのあちこちから不規則に生えるのは、赤黒くそして鈍く輝く牙らしきもの。
 そしてその先端、肉を内側から弾けさせたようにして現れていたのは、闇よりもなお黒き刃だった。
 木の隙間から洩れる月明かりがかすかに辺りを染めていた。夜の闇の中、その闇よりも、何よりも黒い刃が見えた。あたかも自ら光を放ち闇を払うかのごとく姿を現していた。
 黒き輝き。そこにあるのは光とも闇ともつかぬ…虚無。
 ナシィは正面に剣を構えた。柄の牙に何箇所も貫かれたその手が震える。既に血を流しすぎていた。体を支え、この剣を振るい続けるだけの力はもう残っていない。
 遠くで黒い雄牛が角を正面にかざすのがおぼろげに見えた。蹄が大地を叩く音が届く。
 薄れそうになる意識を必死に保ち、ナシィは正面の魔物を見据えた。手に渾身の力を込めて蠢く剣を掲げる。放てるのは、この一太刀のみ。
 蹄が強く大地を蹴った。

 振り下ろされた刃は、黒い雄牛の体を完全に貫いていた。





 あの時。…一年前、まだ自分は幼かった。
 いつも父さんの後をついて歩いていた。自警団の中でも父さんは一目置かれるほどの魔術士(ウィザード)だった。様々な魔法を使いこなして戦った姿は、遠くから見ていても本当にすごいと思い、憧れた。
 『あいつ』が追い払われて四日後ぐらいだった。その日も魔法の練習をしてて、もう危険はなくなったのに練習のキツさは代わらなくて文句を言った日だった。
 疲れきって、早々に寝てしまった。…何一つ気づくこともできずに。
 夜明けごろばあちゃんに起こされた。その言葉に慌てて飛び出した。だけどもう、何もかもが終わった後だった。
 父さんは杖を手にしたまま倒れていた。血の気の無い青白い顔は、不思議にいつもとあまり変わりがなかった。
 あの晩、父さんはばあちゃんの制止も聴かずに家をでて、『あいつ』と真っ向から戦ったという。そしてこれで村は平和になるはずだった。
 でも、『あいつ』は死ななかった。父さんを殺した『あいつ』は死んでいなかった。
 だから杖を受け継いだ。父さんと同じように自分で戦うと決めた。
 『あいつ』を必ず殺すと、決めた。


「…インジェ。」
 肩に手をかけ抱き起こしながら、ナシィはもう一度名を呼んだ。
 するとインジェは体をかすかに震わせた。瞳が開く。
「!」
 肩に当てられていた手をはね除け、インジェは自分から起き上がった。意識を失うほどの疲労はまだ癒えていないにもかかわらず、その動きは素早かった。一度首を振って左右を見てから、鋭い目でナシィに尋ねる。
「あいつは!」
「…死んだよ。もう、現れはしない。」
 そう言ってナシィは自分の後ろに横たわる黒い雄牛の死体を振り返った。それを見たインジェの目が驚きに見開かれる。
「お前が、殺したのか?」
「ああ。」
 ナシィは小さくうなづきただ一言答えた。
 完全に両断され二つに分かれた死体は全く動かなかった。体から流れた血は、草の生えた大地を自らの体と同じ黒色に染めていた。既に何本も木が倒されたせいか、深い森なのに月光はその姿をはっきりと照らしていた。
 インジェは呆然とし、次いで下ろした手で大地を握りしめた。その目に涙がにじむ。
「やっと…これで、終わったんだよな。」
「ああ。もう、村に『黒牛』が現れることはない。…誰も殺されることはなくなる。」
 その言葉にインジェはナシィを振り返った。だが、目が合った瞬間にその目を伏せた。口ごもりながらも言葉を口にする。
「どうして…どうして、助けに来たんだよ。」
「約束していただろう?魔物から、君たちを守ると。」
 インジェは再び顔を上げた。しゃがみこんだナシィの服は、無残にあちこち裂けている。体に傷こそないものの、あちこちに浴びている黒い返り血がそれまでの出来事を物語っていた。なのに、眼差しはひどく優しい。
「そうじゃない!そうじゃなくて、どうして、お前が…。」
 こぼれそうになる涙をこらえてインジェは目を強く閉じたが、その声は震えていた。
 ナシィはその場を立つと遠くに転がるインジェの杖の元に歩いた。
 投げ出された杖を拾う。古びた杖は、月の輝きを受けうっすらと白く光を放っていた。軽く握り、インジェの方を振り返る。
「さあ、戻ろう。ナイを村に帰したんだろう?だったら今頃心配して待っているはずだ。」
 そう言って杖を差し出した。インジェは黙ってその杖を受け取った。
 重みが手にかかる。
「…ああ。」
 しばらくの沈黙の後、短く言葉を返した。しかしインジェは動こうとはしなかった。
「どうした?」
「…いいよ。先に、戻ってろよ。」
 顔を上げないまま、ぶっきらぼうに答えた。影になった表情は見えない。
 ナシィが首を横に振った。
「そういうわけにはいかない。それに、あそこに帰らなければいけないのは…君のはずだ。」
 優しげな口調には同時に強い響きもあった。
 だが、インジェは顔を伏せたままそれでも立とうとはしなかった。黙りこくって返事すらしない。
「家族を心配させちゃいけないよ。立てるかい?」
 手を差し出す。すると、インジェは何も言わないままだったが顔を背けた。
 ナシィは思わず苦笑してしまった。
「そういうことか…とりあえず、その杖は自分で持っててくれよ。」
「え?」
 戸惑うインジェを、ナシィは両腕で抱き上げた。
「な、何すんだよ!降ろせ!」
 うろたえ、口では激しく抵抗するが、手には言葉ほどの力はない。
「歩けないんなら仕方ないだろう?早く戻らなきゃいけないんだから。それからあんまり暴れないでくれよ。こっちも力は強くないんだ。」
 そういうナシィの足つきは自分で言うほど危なくはなかったが、とりあえずインジェは抵抗するのをやめた。ただ、さすがに顔は背けている。
 足元から虫の声がした。
 ナシィはゆっくりと歩き出した。その体にしがみつきながら、インジェはそっぽを向き続けている。
 目の前にある死体が遠ざかっていった。
 闇の中にその姿が見えなくなっていく。それでもインジェはその空間をずっと見つめていた。
 疲れきった体に、ナシィの手の感触だけが感じられる。
「…ナシィ。」
 目線を外したままぼそりと呟いた。
「何だい?」
「ナシィは…結局、何なんだよ。魔物のくせに…。」
 インジェのその言葉を耳にしたナシィの顔に複雑な表情が浮かんだ。
 風が吹きぬけ、その乱れた髪を後ろに流していく。
「…僕は、僕だ。それだけはずっと変わらない。」
「どういうことだよ?」
 夜の森を見つめながらインジェが言葉を返す。その口ぶりに変化はない。
 ナシィは先に広がる暗がりを見つめていた。月は遠い。
 しばらく考え、再びその口を開く。
「僕は…かつてはエルフだった。」
 インジェの目が見開かれた。
 そのインジェの背を静かに見つめながら、ナシィは足を進めた。抱き上げているために顔は見えなくとも、その体の動きははっきりと伝わってくる。
 ナシィは自らの過去を話し始めた。

「僕は、元々はエルフだった。ある地で60年ほど、普通に暮らしていた。今朝の話で答えた65歳という年齢はその頃のものなんだ。…だがある時、ある事が起こった。」
 ナシィの声はあくまで穏やかだった。淡々と真実を話していく。
 インジェは無意識のうちに、掴んでいたナシィの服を強く握りしめていた。その手をわずかに引き寄せながら聞く。
「何があったんだ?」
「―僕が、死んだんだ。」
「!」
 インジェがナシィの方を振り返った。だがナシィは正面の道を見ながら変わらぬ口調で話し続けた。
「ある男とのいさかいの果てだった。争いに敗れた僕は、あの瞬間に命を落とした。」
 驚きにインジェは言葉を失っていた。
「だが、その僕の遺体を男はある女性の元に運んだ。その人はエルフの女性で、一つの強い想いの元に禁断とされる研究を行っていた。…それが、死者蘇生だったんだ。」
 一度言葉を切る。
 胸に様々な思いが去来するのか、それを整理するかのような間を取って、さらに続ける。
「本来なら、それは成功するはずのない実験だった。…死んだ者を生き(・・)返(・)らせる(・・・)ことは決して不可能なのだから。」
 虚空を見上げ、呟く。
「偶然が重なったんだ。…生ける屍(・・・・)という、魔物が生まれたのは。」
 そして口を閉じた。一瞬目を伏せ、再び前を見たナシィの顔は話す前と何も変わりはなかった。
 インジェがようやく口を開いた。
「ナシィは…後悔してるのか?」
「いや。」
 はっきりとナシィは否定した。その言葉は強かった。
「後悔はしていない。およそ百年…あの人が僕を生き返らせてくれたからこれだけの時間が生まれた。様々な事を経験できたのはそのおかげなんだから。」
 見た目には20歳ほどの青年にしか見えないナシィの表情には、その年月を重ねたから持ちえる深さがあった。
「そういえば…君を見ていて、あの人のことを思い出したよ。」
 ナシィがふと言った。
「え?」
「あの人が禁断の研究に手を出したのも…愛する夫の死が理由だった。近くの人間の村に出かけていて魔物と一人で戦い、その命を落とした。」
 インジェは自分の手にしている杖に視線を落とした。
「彼女もまた、村の人々に対して心を閉ざしていたんだ。」
 その表情が変わる。ナシィはその背中に語りかけた。
「インジェ、聞いてほしい。…彼女の場合はそれが17年間も続いた。その過ちに気づいた時には、もう手遅れだったんだ。だけど君は違う。…分かるね。」
 インジェは小さくうなづいた。
「ああ。…努力は、するよ。」
 すぐには変われはしない。だけど、変わろうと決めた時から変化は始まる。
 ナシィは満足げに微笑んだ。その表情に気づいたインジェが、再び顔を背ける。
 互いに何も言わないまま、しばらく歩き続けた。
 さっきまでは聞こえなかった鳥などの鳴き声が耳に届いてきた。この辺りは、もう普通の森だ。木々の葉に隠されて月明かりはほとんど届かない。
 そしてその中でインジェは気づいた。両手で自分を抱えてる今、ナシィは前にある草木を手で払うことはできない。だから、自らの体でそれを受けて移動してきたことに。
「ナシィ、大丈夫か?」
 声に気づき、ナシィはインジェの方に少し顔を向けた。
「ああ、傷はもう完全に塞がってるし、重さのことなら心配は要らない。森を出るくらいまでなら何とかもつよ。」
 そう言ってナシィは笑顔を見せた。
 求めていた答えとは違っていたが、インジェはそれでも納得した。何となくだが、ナシィの言っていたことの意味が分かった気がした。…ナシィは、やはりナシィなのだ。
 ただ一つだけ胸の内に引っかかっているものがあった。それを口にする。
「…魔物って、結局何なんだ?教会の人は悪しきものだと言ってた。だからオレたちも小さい頃からそうやって教わって、そう思ってきた。けど…。」
 顔を伏せた。言葉を口にしながら、ナシィの顔を見ることができなかった。
「魔道書の中では、魔物の定義を何といっていたか覚えているかい?」
 前を見つめながらナシィは聞いた。
 インジェは少し考え、答えた。
「『異界の生物』、その総称だった。」
「そう。…それだけのことなんだよ、きっと。」
 ナシィはただ、その一言を答えた。
 インジェが顔をナシィの肩に押し当てる。小さなその手を、ナシィは強く抱きしめた。
「ほら、もうすぐだ。」
 顔を上げたナシィの前、立ち並ぶ木々の向こうで星々が輝きを見せていた。
 そしてその下で、揺らめく人工の光が待っていた。

 森を抜けた。
 町の灯りとは異なる、街道を動く光がいくつもあった。
 ナシィは胸元のインジェを見た。そして顔を上げ、光を見つめた。
 その光が動く。光はナシィたちから離れた所で集中した。ざわめきが聞こえた。
 ナシィの瞳にその光が映る。かすかにうつむいた時、そこから光は消えた。
 その中の一つが、おもむろにナシィたちの方に近寄ってきた。
「ナシィ兄ちゃん!」
 ナイが、灯りを手にして二人の前に現れた。
「―ナイ?」
 インジェが顔を起こす。そして二人の目が合った。
「兄ちゃん、自警団の人も呼んできたよ!もう大丈夫だよ!」
 幼いなりに力強く答えたその言葉に、インジェが笑みを浮かべた。
「いや、それはもういいんだ…ナシィが、終わらせてくれたから。」
 そう言ってインジェはナシィを振り返った。その目はかすかに濡れていた。
 ナシィが膝をつく。
「インジェ、もう、大丈夫だな。」
「あ、ああ。…ありがとう。」
 インジェがナシィの腕から降りた。多少よろけたが、杖を支えにして何とか立つ。そこにナイがしがみついた。
「兄ちゃん、痛くない?大丈夫?」
「大丈夫だ。…ナイ、お前のおかげだよ。」
 不思議そうに見上げたナイに、インジェは言葉を続けた。
「お前があの時、ナシィを止めていてくれなきゃ…きっと、だめだったから。」
 そしてナイの体を抱き寄せた。
 ナイも素直にそれを受け入れていた。
 近づいてくる多くの光が、その姿を照らし出していた。
「…インジェ、ナイ。」
 その姿を見つめていたナシィが、二人に呼びかけた。揃ってナシィの方を振り返る。
「もう、村も安全になった。これからは二人で家族と幸せに暮らしていってくれ。」
 その言葉にインジェがいぶかしむ。だがナシィはそれに構わず微笑みを見せた。
「ナイ。これからは、おじいちゃんおばあちゃん、そしてインジェと一緒に、喧嘩せずにいるんだよ。」
「う…うん。」
 かすかな戸惑いの表情を見せながらも、ナイはうなづいた。
「インジェ。これからは、ちゃんとナイを守ってやるんだぞ。…君は、強くなった。」
「分かったよ。けど…ナシィ、突然どうしたんだ?」
 ナシィの顔に一瞬悲しげな光が浮かぶ。
 インジェらを囲む光は、さっきからあと少しのところで動きを止めていた。
「…ここで、お別れだ。」
「えっ?」
 ナイがナシィに駆け寄ろうとした。しかし、片手でそれを止める。
「インジェ。約束は果たされた。『黒い雄牛』が死んだ今、僕はまた旅に戻る。」
 魔物から二人と村を守る…魔物が死んだ時、その約束は完遂された。今、ナシィがここにいるべき理由はない。
 インジェが詰まりながらも反論する。
「そりゃ、約束はそうだったけど…何も今すぐ出ていくことはないだろう?せめて、明日ぐらいはいてくれてもいいはずだ。」
 ナシィは首を横に振った。
「それはできないんだ。…僕が、魔物だという事実がある以上は。」
 インジェが顔色を変えた。
「そんなこと、もう関係ないだろう?ナシィが黒牛を倒してくれたんだ、みんなだって分かってくれるさ!」
「インジェ、僕は去らなきゃいけない…ここにはもう、いられないんだ。」
「何でそんな…?」
 声を荒げたインジェの前に、突然一つの影が現れた。インジェは一瞬声が出なかった。
「―村長?」
「ナシィさんと言ったな。分かっておられるなら、話が早く済んで助かる。」
 村長はナシィの正面に立った。かつての好々爺の姿はそこにはなく、村を治める者としての威厳と厳しさを持った老人がいた。
「村長、どういうことだよ!」
「インジェ、話は大体今ので分かった。お前は『黒牛』をついに倒したんじゃな、よくやってくれた。」
「オレじゃなくて、ナシィが…。」
 言葉を続けようとしたインジェは、何も言えなくなった。
 自分を見る村長の目があった。これほどまでに厳しい目は、始めて見るものだった。圧倒されて、声が出なくなった。
 村長はインジェを制すると、再びナシィに向き直った。
「ありがとう。村人を代表し、わしが感謝の意を伝えよう。本当にありがとう。」
 インジェの目に一瞬安堵の色が浮かんだ。しかし次の瞬間、その目は見開かれた。
「そして…ここから出ていってもらいたい。」
 ナシィを見上げた。しかしナシィのその顔には驚きすらなかった。全てを受け入れる表情だった。
「ええ。分かっています。いたずらに村の方々を恐れさせたくはありません。」
「…済まんな。だが、もうこれ以上魔物を村に入れるわけにはいかんのだ。」
 淡々と語る村長の言葉に、インジェはナシィの言葉の真意を理解した。
 あの時までの自分と同じだった。魔物である、ただそれだけの理由でナシィを拒絶していた。今、それをするのは多くの村人なのだ。
 何も言い返せなかった。言葉は、無力だった。
「村長さん、一つだけいいですか?」
「何だ?」
「最後に…二人と、少しだけ話をさせてください。」
 インジェは唇を噛んだ。もう、ナシィを止めることはできないとはっきりと悟った。
「いいじゃろう。三人だけで、別れをしてくれ。」
 村長はそう言うと、周囲を囲む光に戻っていった。
 インジェはようやく呪縛が解けたかのように足を踏み出した。ナシィを見上げた。
 ナシィは無言のままうなづいた。その目にはゆるぎない決意があった。
 言葉を出せなかった。
「…ナシィ兄ちゃん、いっちゃうの?」
 ナイの小さな声が、不思議なほどはっきりと聞こえた。その目から涙がこぼれ落ちる。
「ナシィ兄ちゃん、いてくれるんじゃないの?ちゃんと戻ってきてくれたのに、またいっちゃうの?」
 ナシィの片手がその肩を離れた。立ち尽くすナイの泣く声が聞こえる。
「ナイ…置いていくんじゃない。また、旅に出るだけだ。」
 ナイがその顔を上げる。ナシィはその頭を撫でながら言った。
「また、いろんな話を聞いてくるよ。だから、次に会った時、新しい話をしてあげるよ。」
「ナシィ、それは…。」
「インジェ。…いいんだ。」
 偽りの言葉を咎めようとするインジェに、ナシィは首を振った。
「だからナイ、大人になったら、この広い世界のどこかで必ず会おう。」
「…ホントに、会える?」
「ああ。君が旅に出たら、きっと、どこかで会えるよ。」
 ナイはうなづいた。そこにナシィが小指だけを出して握った手を差し出した。
「約束だ。」
 その小指にナイの小指が絡んだ。
 指切りをして、ナシィが体を起こす。
「インジェ。」
 呼びかけた言葉に、インジェが再びその目をナシィに向けた。
「まだ、全ての心の整理はついてないだろう。だけどもう、『黒牛』は死んだんだ。…少しずつでもいいから過去ではなく今を見ていってほしい。」
「…ああ。約束、するよ。」
 インジェもまたうなづいた。その顔には全てを受け入れた心が形となっていた。
「二人とも…元気で。」
 ナシィが道の先に足を踏み出した。
 その後に駆け寄ろうとしたナイを、インジェが抱きとめる。
 振り返ったナイは、前に進もうとする力をなくした。
 始めて見る光景だった。インジェが、拭いも隠しすらもしないで涙を流していた。
 その目は先を見ている。ナイもまた、再び前を見た。自分を抱く手を同じように抱きしめた。
「ナシィも、元気でな。」
「ナシィ兄ちゃん、ばいばい。」
 光の中に立つ二人の子供が、その背に声をかける。
 ナシィの黒いコートが闇に溶け込み始めた。その姿が見えなくなっていく。


「ナシィ!」
 言葉に、ナシィの足は止まった。
「―ありがとう!」
 闇の中振り返った。
 顔はもう見えない。ただにじんだような光が一帯を明るく染めていた。
 ナシィは、大きく、力強くうなづき返した。見えなくても伝わると確信していた。
 そして再び歩き出す。


 果てしなく広がる闇の中に、ナシィの姿は消えていった。




あとがきのたぐいのおまけ。   by.いづみ。

…というわけでっ!“Black Light特別編 −innocent children−”はいかがでしたか?いやはやすっかりおなじみのいづみです。
今回は説明から。この作品は今を遡ること○年、浪人時代の夏休みに私が全精力を注ぎ込んで作り上げた作品です。で、実はコレ、家にあったワープロで書いてたんですが…印刷原稿を作るだけでデータを取ってなかった(汗)。というわけで「本年度は新作ではなく旧作のリメイクとかをしちゃおう計画」のもと、まずは完全移植としてこの作品を選びました。
そういうわけなので、文章とかは一部の誤字の訂正をした以外は当時のままです。
今見ると稚拙さもあちこち目立ちますが…まあ、一つの記念として。それに、この作品は私の中でもお気に入りの一作です。文章の荒さはさておき、話の流れ、特に後半の引っ張る力は今見ても自分ではいい感じだと思ってます。今の私にこれほどの勢いある話が書けるか…じ、自信ないなあ(冷汗)。
まあつっこみどころ満載なのは認めますよええ。そりゃところどころの文のまずさや展開の強引さ、描写の少なさや不自然さとかありますが。大体後編ってわずか一日の出来事だし(早)。でも何より一番アレなのは、ラストのシーン。いくらあのイメージ、あのシーンを描きたかったからって、話の展開にちょっと無理があるだろっての!(爆)
ふ、つっこみはこの辺にしておくか…。それでは当時の回顧もついでに。
もともとこの話は高校の文芸部誌に文化祭用OB特別原稿として書かれたものでした。文化祭は九月末だったので〆切は八月末と思い、書き始めたのが六月。で、浪人らしく勉強しつつのんびり書いてた七月頭のある日の後輩との会話。
私「原稿遅れ気味だけど、何とか八月末には仕上がると思うからねー☆」
後「あの、今年の〆切は八月十日ですよ。文化祭が九月半ばに早まってますから」
私「…え。」
というわけでそこから大慌て、勉強道具をうっちゃって、原稿に完全集中モードっ!なのに話がなかなか決まらなかったり演劇部の活動に影響されて文章がおかしくなったり〆切目前にスランプ入ったりとどめにゃラストが最後まで決まらなかったり。徹夜までして修羅場って、結局一日だけ〆切を破ってどうにか提出。…もちろん、その後の苦労はいうまでもない(笑)。
うん、今となってはいい思い出です★(ホントか?)
そしてこの話は単発だったので今までの作品(…といっても実質はB.L.−0だけですが)を読んでくれてた人にちょっとサービス的。最後のインジェとの会話で出てきた過去話がそれでした。
…当時の思い出はこんなもんかな。あの頃は若かった…原稿にあそこまで打ち込めたのが懐かしい。ってそんなこと言ったら今はどーするよおい!(セルフツッコミ)
まあお楽しみいただければ何よりです。私自身もこの話はお気に入りだし、実はシリーズの中で人気も高い作品。未読の方はこの機会にぜひ、ということで。
まあストーリーは王道だけどね。ナシィがどっかの村とかで誰かと知り合って、仲良くなってから正体ばれて拒絶されて、その後事件を解決してその相手とだけは交流を取り戻す……マンネリやん!ま、パターンを使ってるのはこれと最初のB.L.と一応B.L.−1ぐらいのもんか。…でも王道パターンとか好きな自分を否定できないのが辛いところ。えへ(死)。
ま、それでは今回はこの辺で。次回は旧三部作のどれかのリメイクがあって、その後にお待ちかねの新作、B.L.−2の執筆予定です。乞うご期待っ!
ではまた。感想などはいつでもお待ちしておりますー☆
ごきげんようっ!

〈END.〉


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