Black Light-2. -appearance-

いづみ

chapter: 2-1, 2-2, 2-3

第二章 Contract.〈前〉



 転がった金属の器は、甲高い音を立てて地面の上で回った。
「どういうつもりなんだっ!」
 男が叫ぶ。その額には青筋が浮かび、紅潮した顔と共に激怒していることが一目で見て取れた。
 さして広くはない部屋。所々に高価そうな調度品が幾つか置かれているものの全体の調和は取れておらず、どこか安っぽい印象があった。足元に敷かれた織り込みの細かな絨毯も薄汚れて色褪せている。その上に、たった今机の上から投げ出された小物が散らばっていた。
 男の視線の先にはもう一人の人物が立っていた。
 彼は小柄な体にまだ幼い少年を思わせるあどけない顔をしていた。だが無邪気そうに笑う中で、その一つきりの目は冷徹に男を見ている。
「どういうつもりって、何が?」
 全然分からないといったそぶりで聞き返す。しかしそれも本心からではないことを、浮かべた薄い笑いが証明していた。
 直後、答えと言わんばかりに男が拳を机に打ちつけた。
「ふざけるのもいい加減にしろ!手を出すなと言っておいたのにあれは何だっ!」
 叫び声は虚しく響き渡った。
 少年は眉一つ動かさずただ楽しそうにそれを眺めている。
 大声で怒鳴り息苦しくなったのか、男は身を折って咳き込んだ。
 静まり返った部屋の中にかすれた音だけが響く。
 呼吸が落ち着いたところで男は顔を上げた。少年はその場から動かずにさも楽しそうに見つめていた。
「悪いねー、知らなかったんだよ。」
 ひらひらと片手を振る。それはまるで子供をあしらうかのような仕草だった。
 男の目が少年を射殺さんばかりに睨みつける。
 次の瞬間、少年は突然詰め寄った男に襟首を掴まれて勢いよく壁に叩きつけられた。
 それでも少年は楽しそうな表情を全く変えない。
「痛いね。手を離してくれない?」
 苦しげな様子など全く見せずにそう言う。
 男は舌打ちして、その手を乱暴に離した。引きずられて少年が一歩よろける。
 少年はすぐに体を起こしたが、その後は壁についた手を埃を払うかのように二度叩いただけだった。
「…くそ、何でこんなガキが…。」
 男は忌々しげに呟いた。少年に聞こえるほどの声でだ。
 明らかな罵りの言葉にも少年は顔色一つ変えなかった。ただ、一見心からのものに見える楽しげな笑いを浮かべているだけだった。
 赤い唇が嗤うように動く。
「安心して。上にはうまく言っておくよ。」
 男には、その笑みは嘲っているように見えた。
 唇を噛み切らんばかりの強さで噛みしめる。だが、こうした仕草の一つ一つも奴には笑いの対象になるのだろうと彼自身思っていたゆえに、そしてその理解は正しかったがゆえにその苛立ちは増すばかりだった。
 男は、腰に下げていた曲刀を抜くと間髪入れず横に一閃した。
 刃が少年の眼前を走る。風を受けた前髪が小さく揺れた。
「忘れるなよ。貴様があの使いじゃなけりゃ、この場で叩っ斬ってるところだ!」
 少年は瞬きをした。その顔が驚きの表情を作る。
 それは男が初めて見た笑い以外の表情だった。
 だが次の瞬間には、少年は元と同じ笑みを見せてこう言った。
「覚えておくよ。ま、悪いようにはしないさ。」
 そしてくすくすと笑い出す。
 男は忌々しげに、だが同時に薄ら寒いものを感じつつ、その笑いを睨みつけていた。





 ジンスがとつとつと語ったのは、この村が隠し続けていた一つの事実だった。

 それはもう随分と前、今は亡き先代の村長が任に就いて少しした頃。唐突にその掟は告げられた。
 内容は短いものだった。
「森の盗賊のことを外の者には伏せておくこと。盗賊に襲われそうになったらこの村の名と私の名前を出すこと。」
 ただ、それだけ。そしてそれは守られた。自分たちの身を守りたいと思った村人たちによって。
 今もなおそれは守られている。

 ―簡単な話だった。明かされれば何ということもない謎。
 淡々と、しかしひどくゆっくりとジンスが話す間、ナシィら三人は何も言わずにそれを見守っていた。
 全てを語り終えたジンスが大きく息を吐く。ただ一つきりのランプの光が揺れた。
 静寂が再び場を闇の中に塗り込める。
「…で、あなたの娘はその盗賊たちにさらわれたとでも言うの?」
 口を開いたのはミーアだった。
 闇に輝く瞳が座るジンスを映し出す。
「そうだ。あいつ、プリーヤは奴等にさらわれた…他にどうだと言うんだ!」
 握りしめられた拳が膝を打つ。吐き出された叫びは光乏しき部屋に響き渡った。
 その瞬間ついに堪えきれなくなったかのように、セインは痛ましさに満ちていたその視線を落としうつむいた。白い手袋に包まれた両手も互いに堅く握られている。
「何故、家出じゃないと分かるのですか?それをできれば聞かせて下さい。」
 対してその痛みを同様に感じながらも問いかけたのはナシィだった。黒き姿はこの闇と半ば同化している。
 ジンスは叫んだ時と同じ瞳でナシィを睨んだが、一度目を閉じて間を置くとまたゆっくりと語った。
「ここからいなくなる前日の夜。俺は、あいつを許したんだ…代わりにその男を連れてこいと。だからあいつは、『明後日には出かける』と言ったんだ。…明日ではなく、明後日と。」
 思い返すような口調。
 ジンスと娘が結婚について意見が合わず口論が続いていたという話はナシィらも耳にしていた。
 だからそれで理解する。娘のプリーヤは父の承諾を得た。まるで家出のように姿を消す理由はどこにもないと。
 納得をして、ナシィはうなづいてみせた。
「分かりました。…しかし、盗賊は村人に手を出さないと言ったのではなかったのですか?」
 彼の悲しみと怒りをひしひしと感じる。心苦しいが、それでも事実の確認のためにはまだ聞かなくてはならないだろう。だから質問を重ねる。
 そしてこの問いかけに対し、ジンスはまるでナシィがその盗賊であるかのように怒りのこもった目を向けた。
「奴等がそんな約束を守るわけがない!所詮は盗賊なんだ、村の者の命などどうでもいいと思ってるに決まっている!」
 充血した、赤い目だった。激情のままに叫ぶ。
 ナシィは息を飲んだ。
 そして目の当たりにしたジンスの様に、もうそれ以上の質問を抑えた。ジンスの語った言葉は彼にとっては紛れもない事実だ。今ここで必要なのは真相を求めることではない。
 黙ったナシィに代わり、その言葉を告げたのはミーアだった。
「分かったわ。」
 思いを受け止めて、答えた。
「―あたしたちもその盗賊を追ってここに来ました。その依頼を受けます。」
 それは彼の背負った苦しみ、悲しみ、それら全てを受け取るという意志の表明でもあった。
 その一言にジンスが顔を上げる。
 苦悩に満ちていた表情はわずかに喜ぶものに変わった。だがそれはすぐに元に戻る。
「…俺の手元には、今、金はほとんどない。娘を助けてくれるなら借りてでも何とか金を作るが、それが十分なものになるかは分からん。」
 苦々しげな口調でそう呟く。
 これにもミーアは分かっているといった顔で言葉を返した。
「構いません。あたしたちも盗賊を狙っています、報酬はいりません。」
 そう言って確認するようにナシィとセインを見た。もちろん異論のない二人もうなづく。
 ジンスの顔から初めて、身を削られたかの如き苦しさが薄れた。
 その時現れた表情は、長い時を経てようやく待ち望んでいたものを見つけた人のそれだった。
 姿勢を起こして深く頭を下げる。
「頼む…。娘を、助けてくれ。」
 かすかに震える声。闇に囲まれたその姿は、ひどく小さなものに見えた。
 だがミーアは何も答えず、二人も共に無言のままのうなづきを答えとしただけだった。

 話を終えて疲れた顔を見せたジンスに、また明日の夜詳しいことを聞きに行くと約束を取りつけて三人はその家を後にした。
 暗い道を歩いて宿に向かう。
 乾いた土に足音は響かなかった。ただ時折砂が散るような小さな音がするだけだ。
 宿への道の先頭を歩いていたのはミーアだった。その後ろを並ぶようにしてナシィとセインがついていく。
 誰も、何も言わなかった。
 通りには他に歩く人もない。灯りの消えた道を三つの影は進んでいた。
 その帰り道の半分を過ぎたところで突然にミーアは振り返った。
「さっきの依頼、あれで構わないわよね。」
 立ち止まり二人を見つめる。声音には少しの硬さがあった。
 合わせて足を止めたナシィとセインも首を縦に振った。
「ええ。…まずは、明日の話を聞いてからですね。」
 続けてナシィが言葉による答えを明確に口にした。
 そう。プリーヤを探し出すという依頼を受けたものの、詳しい話はまだ何も聞いていない。
「まあね。それでも、一番の謎はこれで解けたわけだけど。」
 唯一はっきりと分かったのは、村ぐるみで盗賊を隠していたことだけだ。
 だが、それが分かれば今までの奇妙な事態も全て納得がいった。
 連行して翌日に姿を消した盗賊は自警団が解放したのだろう。村に来る商人が護衛を求めないというのも盗賊に襲われないなら必要性が大幅に減るからであるし、店側としても護衛の仕事など求めるわけがない。
 そして―ジンスがたった一人で悩み苦しんだ末に、真実を自分たちへ語ったことも。
 立ち並ぶ家々をナシィは見回した。
 この夜の闇の向こうには森が広がっている。そこには獣や時折さまよい出る魔物に交じり、盗賊が息を潜めている。
 自らを狙う刃は外に向けられた。その内側は守られる。
 乾いた砂の音がまた聞こえた。
 ナシィは村に向けていた目を一度閉じ、再び歩き出した。足音が重なり合う。
 前を歩くミーアの背に向けて尋ねた。
「…それで、どうしますか。」
 変わらずに規則正しい足音が耳に届く。
「どうもこうもないわね。やることは一つでしょ、盗賊の今の頭を捕まえて魔剣の話を聞き出す。」
 返ってきた言葉は、まるで空は青いという当たり前のことを言うかのようにあっさりと放たれたものだった。
 その通りだった。
 捜し求める唯一の手がかり。それをここで失うわけにはいかない。かつて誓った目的を果たすために。
 そのつもりでここに来たのだから。
「ええ。…そうですね。」
 だから、その決意は変わらない。
 ナシィは一つうなづくと、視線を真っ直ぐ前に向けて歩いた。
 その先でミーアが肩越しに軽く振り返った。だが、その目が捉えていたのはナシィではなかった。
「セイン。分かってるわよね。」
 その一言に、無言のまま歩いていたセインも顔を上げた。
「…はい。」
 わずかな間を経てはっきりと返事をする。その顔は何かの覚悟を決めたかのように険しかった。
 表情を見たミーアが、また前を向いて背中越しに語る。
「言っておくけど、この村の現状を壊すのをためらっているのなら大馬鹿者よ。」
 その言葉は鋭かった。
 セインは表情を変えず、うなづきもなくそれを聞いた。
 ただマントの下で、ライセラヴィの紋章を印した胸元の飾りをそっと右手で押さえていた。
 歩き続けながらミーアは言った。
「この村の行動は間違っているわ。―結局は自分たちだけ助かればいいってことなんだから。」
 いささかの迷いもなく、断言して。
 セインは一瞬足を止めた。
 ―そう、ここは違う。村人を襲わない盗賊は代わりにその外の人々を襲っているのだから。かつて神官として訪れた、『守り神』の守るあの村では決してない。
 右手が握りしめられる。
「はい。」
 手にした杖が地面を打つ。
 それを合図とするかのようにセインは再び歩き出した。
 ミーアは振り返らなかった。ただ、前を向いたままその唇に小さな笑みを浮かべた。
 そして横を歩くナシィも同じ決意を受け取るかのように、静かにまた真摯な瞳でセインを見つめていた。


 三人は宿の扉を開けた。そこには案の定誰もいなかった。
 泊まっている冒険者もほとんどいない上に、余所者の自分たちがいることで飲みに来る村人の客も減っている。夜中まで飲んでいる客などいるわけがなかった。
 無人の食堂には最低限の灯りしか残されていない。
 暗がりの中で、セインが借りていたマントを脱ぎミーアに手渡した。
「ありがとうございました。」
 受け取ったミーアはそれを手早く丸めた。
「ん。―とりあえず今夜はもう遅いし、明日は朝食を二時(とき)ほど遅らせましょうか。」
 そう言ってそのマントを抱えると、そのまま立ち並ぶテーブルと椅子を器用に避けて真っ直ぐ階段に向かった。
 ナシィも後を普通についていったが、セインは手にした長杖が邪魔になるのか時折椅子にひっかかりそうになった。
 それでも何とか椅子を倒すことなく追いつき、連れだって階段を上る。
 が、上りきるかきらないかの所で突然ミーアが立ち止まった。
 後ろの二人がその背にぶつかりそうになる。
 何事かとナシィが脇から覗くと、見慣れた顔と目が合った。
「…あれ、皆さんお揃いでどうしたんですか?」
 目をこすりながら立っていたのは寝巻きを着たイディルスだった。見たところついさっきまで眠っていたようではある。
 すぐさまミーアがやれやれといった風情で答えた。
「ちょっと野暮用でね。そういうあんたこそ何してるのよ、こんな時間に。」
 時刻は真夜中。宿に泊まっている普通の冒険者ならあまり起きている時間ではない。
「え、ボクも野暮用ですよ。でもミーアさんたち、そんな格好でどこかに出かけてたんですか?」
 イディルスは目の前に立つミーアを少し濡れた指でさした。
 鎧までも身につけた完全武装に手には丸めたマント。いかにも、どこか外に行っていましたと言わんばかりの服装だ。
 言い訳のし辛い状況の中で、イディルスが目を光らせた。
「あ、もしかして何か仕事の準備ですか?ずるいなあ、ボクも手伝わせて下さいよ。せっかくの縁なんですから。」
「そんな大層な縁があんたとあるとは思わないけどね…。」
 ミーアは額に手をやった。何とかこいつには知られないようにして仕事をしたいところだったのだが。
「あ、もしかして隠すつもりですか?えー、だったらボクは皆さんにずっとついていきますよ。そうすれば分かりますからね。」
「あのねえ。」
「断るってことはやましいところでもあるんですか?やっぱりこっそり仕事するつもりなんだ。」
 すっかり困り果てたミーアの様子に気づいているのかいないのか、イディルスは勝手に話を進めていた。本人は仕事に加わる気が満々らしい。
 だがミーアから見てみれば、一年目のひよっこ剣士が入ってきたところで邪魔になるのは一目瞭然だった。ましてや今回の仕事はそんな生易しいものじゃなくなってしまったのだ。
 そんなミーアの内心の考えにはお構いなくイディルスは喋り続けていたが、ミーアが反応を返さなくなったのでもう攻撃の効果がなくなったと思ったのかその矢先を変えてきた。
「本当のところはどうなんですか?ねえ、セインさん。」
 ミーアの後ろで首を傾けて覗き込んでいたセインは、突然の指名に驚いた。自分を邪気のない目でじっと見てくるその姿にうろたえる。
 そう。一見、邪気はないように見える。
「え、ええと、それはその…。」
 無駄な嘘をつくわけにはいかない。が、ミーアの行動を見ていれば正直に話すべきじゃないことぐらいは分かる。
 慌てるセインに向かってイディルスはしきりに話しかけてきた。
「教えてくださいよ。セインさん、ライセラヴィの神官なんでしょ。じゃあ正直に答えてくれますよね?」
「え、あ、う…。」
「まさか嘘をつくだなんてことしませんよね。大丈夫、これでもボクは口が堅い方ですから。」
 手ごたえありと見てあれこれと追求してくるイディルスの言葉に、セインはすっかりパニック状態に陥ってしまった。
 セインは嘘をつけない。そのことに先に気づいたナシィがとっさにフォローしようとする。
「まあ、待って下さいよ。こんなところで夜も遅くじゃ何ですから。」
 その言葉にイディルスはようやくナシィの方を見た。
 恨みがましいような視線でじとーっと見つめる。
 瞬間、ナシィもセインの動揺が伝染したような気になった。
「まあ、そうですけど…だったらさっさと答えてくれればいいじゃないですか。それともここでは話せないような込み入った話だと?」
「そ、そうです。」
 そして思わずナシィはうなづいてしまった。
 次の瞬間振り返ったミーアとセインの目が突き刺さる。
「え、やっぱりそうなんですか!何だ、水臭いですよ皆さん。だったらそんな隠さなくても…。」
 更に急に明るくなったイディルスの態度に、ナシィは今度こそ本当に慌てた。
「あ、あの、実際もう遅いですから、明日話しますよ。だから今夜はこれで…。」
 とりあえず思いついたままに口走る。
 イディルスの目が輝いたように見えた。
「分かりました。じゃ、今夜は遅いですし、明日のお昼に話を聞きますよ。明日に、必ずね。」
 敗北確定。
「…はい。ではおやすみなさい。」
 ナシィがそう答えると、満足したのかイディルスは挨拶もそこそこにすぐさま踵を返して自分の部屋に戻っていった。
 後に残されたのは立ち尽くす三人。
 ナシィは恐る恐るミーアを見上げた。視線が合う。
 ミーアはにっこりと笑うと、人さし指で手招きした。
 目は笑っていない。
 ナシィは肩を落として、招かれるがままにミーアらの部屋に連れ込まれた。


 そして翌日の昼。
 三人はイディルスを交えて会議室に集まっていた。さすがに食堂で話すのはまずいと思ったのでミーアらが自室をまた提供したのだ。
 椅子の数が足りないので、腰掛けたのはナシィにセインにイディルス。ミーアはまたベッドの上であぐらをかいた。
 開いた窓ではカーテンがはためいている。
「で、皆さんはいったいどんな事件を見つけたんですか?」
 餌を見つけた子犬のように嬉しそうにイディルスは言った。
 その姿にミーアが深くため息をつく。
 だが、軽く首を振って顔を上げると、それまでとは異なる真剣な表情でイディルスに問うた。
「…言っておくけど、これは冗談抜きで大変な仕事よ。その覚悟はある?」
 その声音さえも変わっている。
 三人の下した結論はこうだった。
 身の回りをうろちょろされて邪魔されるよりは、いっそのこと巻き込んでしまった方が監視がしやすい。仮にも一年を生き抜いた冒険者の端くれだ、全くの足手まといにはなるまいと信じて今回の依頼にだけ引き入れることにした。
「え、やだなミーアさん。ボクはいつだって仕事は真剣にやってますよ。」
 イディルスはいつものような軽口で答えたが、自分を見る目が全く笑っていないことに気づいた。一瞬決まり悪そうな顔をする。
 だが態度を改め、初めて見せる真面目な表情でうなづいた。
「…はい。」
 その返事を聞きつつも、ミーアは更に念入りに問いかけた。
「この仕事は命がけになるかもしれないわ。そして絶対に他言無用よ。悟られてもいけない。それをできる自信はある?」
 これが必要な条件だった。
 場合によっては盗賊のアジトを強襲する必要がある。そこでの戦いは当然危険なものになるだろう。
 だが何よりも重要なのは、自分たちがこの依頼を引き受けたことを村人に知られるわけにはいかないことだった。そうなればジンスとアフィリクトの身に危害が及ぶ可能性がある。これまで自分たちの身を守るために外の人々を盗賊に売ってきたのだから、保身のために最悪彼らを犠牲にすることも考えられた。
 ミーアの問いかけはこうした内容も説明しないただの一言だったが、イディルスはまだ事情を知らないながらもその彼女の様子と場の雰囲気に事態の重さを悟って真剣な目で答えた。
「はい、頑張ります。」
「…努力だけで結果が伴わなくちゃ意味がないからね。」
 ミーアから更に厳しい言葉が飛ぶ。
 イディルスは顔をしかめたものの反論はせずにただうなづいた。
 それを見てミーアの表情が少し和らぐ。
「覚悟はできてるみたいね。それじゃ、説明するわ。」
 そしてあぐらをかいていた足を下ろすと、ジンスの依頼とそれにまつわる事実を説明した。
 伝えたのはほぼ全てだ。唯一語らなかったのは盗賊を追う理由のみ。個人的に恨みがある、とミーアが偽りの理由を引き受けた。
 事実を知ったイディルスの顔がさすがに曇る。
 事態の厳しさに驚きを隠せないではいたものの、後には引けないことも自覚して話に口を挟むこともなく聞き入っていた。
 一通りの説明を終えたミーアが最後にもう一度イディルスを見つめ、問うた。
「この話を聞いた以上、もう逃げられないわ。いいわね。」
「分かってますよ、ボクにだってそれぐらいのプライドはあります。必ず、プリーヤさんを助け出しましょう。」
 冒険者としての誇り、それに違わず覚悟を決めた顔。
 その一言にはミーアは答えず、ただ右手を差し出した。その目が微笑みと共に真っ直ぐイディルスを見つめる。
「じゃあ、仲間として。これからはよろしく。」
「よろしくお願いします。」
 イディルスも真っ直ぐに右手を出す。力強く握手をした。

 ナシィ、セインとも印となる握手を交わして二度目の挨拶が終わったところで、本題に入った。
「じゃあ、今回の依頼にどう行動するか。少し落ち着いて考えましょう。」
 ミーアはそう言って腕を組んだ。三人を確認するようにゆっくりと首を回す。
 詳しい話を聞けるのは今夜であるが、行方不明の少女のことを考えるとこの一日も惜しい。一刻も早く、できる限りの手を打つ必要があった。
 まずは話を切り出したミーア自身が静かに言った。
「…正直に答えて。プリーヤはまだ生きていると思う?」
 残酷な言葉だった。だが、これを言わねば始まらないと考えての言葉だ。それに応じて取るべき行動も大幅に変わる。救出か、殲滅か。
 口にしたミーアの瞳に憂いが混じる。
 耳にした三人も同様だった。重い表情が並ぶ。
 その中で、この質問にうなづきを返したのはセインだった。
 ミーアの視線に促されて自分の考えを口にする。
「確証は全くありません。ですが、この盗賊と村人の取引が今まで成立しているのですからこれまでそれは破られていなかったはずです。だから今回もまた、彼女は無事だと…思います。」
 最後にわずかに口ごもった。
 楽観的な考えに立っていることは自分でも多少は分かっている。だから歯切れの悪い説明になった。
 机の上で緩く組まれていた両手の指先に、かすかに力がこもった。
 それに対しナシィも意見を述べる。
「ですが、今回はその前例が破られているのではないでしょうか。…例えば今までに村人の誰かが何日もの間姿を消した後に帰ってきたことがあったのなら、ジンスさんは誘拐された娘を探してほしいとまでは言わなかったはずです。」
 セインと異なる意見だったが、これもまたありうることだった。そもそもプリーヤの失踪が盗賊によるものだったのならばその時点で取引の契約が守られていないといえる。もし何らかの事情があって預かっているのなら、盗賊側からジンスの元に連絡があってもよさそうなものだ。
 特にセインに直に語りかけるようにして、ナシィは考えを説明した。
「ならば、わざわざ盗賊が取引を反故にした理由は何なのですか?」
 それを正面から受け止めてセインは問い返した。
 確かにそれは疑問だった。盗賊側からしてみればこの取引は守られていた方が都合が良いはずだ。
 さもなくば最初にあの盗賊を連行した時の態度と矛盾する。ジンスから聞いた取引の内容を考えると、この村近辺にいる盗賊団は多分複数ではないだろう。つまり彼らは問題の盗賊団の一員であるということだ。
 彼らは自分たちが助かると明らかに確信していた。しかしプリーヤが姿を消したのはもう二週間も前になる。彼らが自分たちから契約を破ったのならこの確信は成立しない。
 ただ、可能性はある。
「…それは分かりません。ただ、僕たちがここに来た時の盗賊は契約を破ったとは思えない態度でしたが、今のジンスさんと周りの様子をこうして見ていると全て分かっていてやったのかもしれません。」
 実際に契約を破った可能性が高い今の状況でも、村人は皆契約が守られたままだと思い込んでいる。ジンスとアフィリクトがいくら訴えても伝わっていないのだ。
「後は、僕たちに追われたことで彼らがここから逃げる気になった…だからもう最後だと手を出したとも考えられます。」
 この村の近くに潜む盗賊団。それは間違いなく、自分たちが追ってきた盗賊団でもあった。
 時々考え込みつつも言葉をまとめてナシィは答えた。
 セインもうなづいてそれを聞いていたが、この最後の言葉には首を傾げた。
「でもそれはおかしくないですか?」
 ナシィが改めて目を向けるとわずかに間を置いて意見が来た。
「確かにここに彼らは逃げてきましたが、取引のある限りじっとしていれば自分たちの身は守れたはずです。わざわざ行動する理由がないのでは。」
「いえ、それでも最終的には時間の問題のはずです。だからやはり逃亡を考えたとは思いますよ。」
 その言葉にセインも口を閉じた。
 だがナシィも次に言うことが思いつかない。
 どちらの考えにもそれなりに正しさと矛盾点がある。判断はつかない状態だった。
 蝉の声。窓の向こうから遠い音がかすかに聞こえてくる。それは森と村から生まれる音。
 皆が黙ったその時に、手を打つ小さな音が響いた。
「ひょっとして、盗賊とは関係なく森か街道で何らかの事件に巻き込まれただけじゃあ?」
 どこか少しのんびりとして聞こえる声で、イディルスは思ったことをそのまま口にした。
 …確かにその可能性もあった。
 盲点を突かれた、といった表情をナシィとセインが同時に見せる。
 そしてミーアがまとめた。
「結局、これは分からないってことよね。判断のつかないものをいつまでも考えていても仕方ないし…じゃあ生きてると仮定して話を進めましょ。」
 確認するように残りの三人を見渡す。
 三つのうなづきが返ってきたので、ミーアも納得したかのようにうなづき返すと次の言葉を告げた。
「プリーヤがアジトに捕らえられているとして、そこにはどう向かう?」
 それが問題だった。
 自分たちで探すなど下手に動くと向こうに気づかれる可能性が極めて高い。人質の奪還が目的である以上それは避けたかった。最悪の場合は契約を口実にプリーヤだけでなく村全体にも危険が及ぶ。
 しかし以前に聞き出した情報だけでは、この広い森の中から自分たちの力だけでアジトにたどり着くことはできないだろう。
 ナシィが言う。
「まずは、場所を知る…ある程度は特定できる人を味方につけないとどうしようもないのでは。」
 誰かにアジトの近くまで案内してもらうか、せめて詳しい地図を書いてもらう必要があった。
 それにはうなづきが返ってくるものの、ナシィ自身その先の考えが出てこない。
「それを知っているのはどなただと思いますか?」
 セインの問いかけにも憶測で答えるしかなかった。
「少なくとも自警団の中には知っている人がいるでしょう。後は、立場を考えると村長の部下にも一人ぐらいは知っている人がいると思いますが…。」
 確実なことは言えない。あるいは誰一人知らない可能性だってある。盗賊が保身を第一に考えるならアジトの場所は完全に伏せているかもしれなかった。
 …だからそれを知ったがためにプリーヤが殺されたとも考えられる。
 言葉を中途で止めて黙り込んだナシィに、イディルスが少し身を乗り出すようにして言った。
「だったらちょうどいいや、自警団に聞けばいいじゃないですか。」
 言い分だけなら割と妥当な線ではある。しかし。
「彼らが僕らに協力してくれるとは思えませんが…。」
 ナシィの言葉にはミーアも深くうなづいた。
 それでもイディルスは更なる言葉を重ねる。
「でも本当のことを話したらあの人たちも分かってくれるかもしれませんよ。だってプリーヤさんの家出が誘拐だと分かったら、さすがに動いてくれると思いますけど。」
「―いや、それは無理ね。」
 おもむろにミーアが腕組みしたまま言った。
 イディルスが向き直ったのを見て、その目をじっと見つつ説明を重ねる。
「一つには、ジンスとアフィリクトがあんな状態なのに何も手を打っていないこと。あてにはできないわ。それに、さっきも言ったでしょ、秘密は守らなきゃいけないって。彼らに真実を話しても協力が得られなかったとしたら?ジンスたちにどんな危険が及ぶか分からない。」
「…そうですが。」
 納得がいかない、といった顔つきをする。
 そこに言葉を付け加えたのはセインだった。
「でも、他に可能性のある相手が今は思いつきません。まずは自警団をもう一度あたってみてもよいのではないでしょうか。」
 イディルスが我が意を得たりと言わんばかりにうなづく。
「そうですよ。それに誰かに尋ねなければ、情報は全然手に入りませんよ。」
 警戒をするあまりに手がかりを入手するきっかけまで失っては何にもならない。
 それには反駁もなかったらしく、しばらく考え込んだ後にまあいいかとミーアも認めた。
「他にないんじゃしょうがないか。うん、一応今夜ジンスにこれも聞いてみるとしても、一旦は話を聞きに行くしかないかな…。」
 視線を外し多少顔もしかめて呟く。
 ナシィとセインはその仕草を見て、ミーアがつい四日ほど前に自警団相手に一人怒鳴ったことを思い出した。もちろん何も知らないイディルスは気づかずに満足げな顔を見せている。
 表情を戻してミーアがナシィらに言った。
「ただやっぱり協力者以外には知られないように、内密に接触するように心がけてね。よろしく。」
「え、ミーアさんはどうされるんですか?」
 イディルスがごく普通に問いかける。
 ミーアは一瞬鋭い目を向けたが、彼はまだあの事実を知らないことに気づいて理由を口にした。
「私はあそこに悪い意味で顔が割れているしね…行かない方が安全かと思って。」
 言っていることは確かに事実であり正論である。ただ口にはしないものの、行きたくないというニュアンスを言外に込めていた。
「じゃあボクらに任せて下さいよ!きっと上手くやりますから。」
 それを見抜いたのかはよく分からないが、イディルスは大袈裟に胸を叩いて主張した。
 ミーアを含めた残りの三人はそれを見て密かに苦笑をした。


 細かい打ち合わせを更に幾つか重ねた後、四人は宿を出た。
 まずは自警団に向かう。ミーアだけはそれに同行をせずセインの代わりに神殿に向かい、今日はジンスの家には行けなくなったという伝言を引き受けた。
 昼の大通りには普段より人の姿も少ない。その中で三つの短い影が大地を進んでいく。
 それは、三人がその道を抜けた先にあった。
 村の一角に孤立して建つ石造りの建物。
 これでここに来るのはナシィにとっては四度目だった。わずか六日間で足繁く通ったことになる。
 表には人の姿はない。窓は開いているが、覗き込むくらいなら先に挨拶をするべきだろう。
 ナシィもミーアほどではないが既に自分の顔も覚えられているだろうという自覚はあった。しかし自分の場合はここにもう一度来る理由もあったので、前に立つことにした。
 扉を叩く堅い音が響く。
 足音の後に現れたのは、偶然にもつい四日前の午後にナシィが直接対面した相手だった。
 これがどう転ぶかは分からないがとりあえずにこやかに挨拶はする。
「あ、こんにちは。先日の件で伺いました。」
 声をかけた瞬間、男は表情を曇らせた。
 それにはもちろん気づいたものの、ナシィはおくびにも出さずに言葉を待った。
「ああ、あんたか…悪いな、どうも奴らには逃げられちまったからどうしようもなかったんだ。運が悪かったな。」
 口先だけは申し訳なさそうに慰めの言葉を吐いていた。だが探るように見る目が何よりも確かに本音を物語っている。
 この前の会話は短かったが、印象が強かったので覚えてはいた。そこから言葉を選んでいく。
「頼んでおいた荷物も駄目だったんですか?」
 後ろでセインが何か言おうとするのを感じたが、片手でそれを見えないように制した。
 嘘をつけないのは事実でも、必要のないことまでそのまま全て語らせるほど厳しい教えではなかったはずだ。分かってくれると判断して話を進める。
「ああ、そういえばそんなことも言ってたな。一体何が取られたんだ?」
 話は一応聞いてくれるようだ。門前払いの心配がなくなったことに安心して、ナシィはハッタリを始めた。
「それがちょっと困ったことになりまして…。」
 まずいといった表情を形作り口八丁で語り出す。
「実は友人の依頼で研究のサンプルを運んでいたんですが、それが一見宝石風なんですよ。」
「研究のサンプル?」
「ええ。何でも高い魔力を強引に結晶化させたものらしくて、強い刺激を与えると―ドカン!」
 大声を上げて気を引く。更には一瞬たじろいだ男の目を覗き込むようにして話を続けた。
「ま、そういったものです。だけどおかげで報酬がフイになりそうで、困ってしまって。…あきらめるしかないですかねえ。」
「あ、ああ…そうだろうなあ。」
 男は強引に迫られた時のように慌しくうなづきを繰り返した。
 種蒔きに加えて多少は動揺させることもできたのに満足し、話を次に移す。
「そう言えば、盗賊を逃がした犯人は分かりましたか?」
 その一言に男は我に返って表情を引き締めた。しかし目がまだ少し泳いでいる。
「ああ。あいつなら、もう街の方にやったよ。罰金と引き換えに親戚に預けた。ここには二度と帰ってこないだろう。」
「そうですか。それじゃ、仕方ありませんね。」
 村の商店で聞き込みを続けていた間に自警団を見に行ってなかったことを少し反省する。だがこれは今更仕方がない。嘘だろうと分かってはいるがこの線の追求はあきらめることにした。
「分かりました。だったら、自分たちで探してみますよ。」
 今度は自分から一歩引いてみる。
「そうか?じゃあ、頑張ってくれ。」
 男はナシィがあっさり引いたので安心した。そこに切り返す。
「ですから、何か彼らに関する情報を頂けませんか?いえ、お手は煩わせません。情報さえ頂ければ自分たちで全て調べますから。」
「いや、そうは言っても…。」
 視線を外して口ごもったところに更に畳み掛ける。
「その犯人の方に聞いて多少は分かったこともあるんでしょう?自力で調べたいので、せめて手がかりが欲しいのです。」
「手がかりねえ…。」
「それに我々ではこの辺り一帯の地理すら分からないんですよ。自警団の方なら付近の森についてある程度は把握しているでしょう。違いますか?」
「まあ、それくらいは分かっているが…。」
「ですよね。だから、せめて地図か何かを見せていただけないでしょうか。できれば詳しい話を聞けたらよいのですが、そうしたものに詳しい方はみえませんか。」
「いや、でもな、俺にそんなことを言われても…。」
 男は困り果てている。うるさく重ねられた言葉にいい加減嫌気がさしてきているだろう。
 そこでナシィは最後の依頼を丁寧に口にした。
「いや、色々と迷惑でしたね。すみません。じゃあここの団長の方に取り次いでもらえますか?そちらから直接話を取りつけますから。」
 頭を下げて丁重にお願いをする。
 それまで苦々しい顔つきだった男が、少し戸惑いを見せた。気が緩んだのかそれまでの高圧さがやや薄れたようだ。
「それなら、何とかならなくもないが…。」
 困りながらも、半肯定的な台詞を口にした。とりあえずこれなら上手くいきそうだ。
 男が手をかけた扉を開こうとする。そして奥への誘導のためにか後ろを振り返った瞬間、その手が止まった。
 いつの間にか通路には別の男が立っていた。ちょうど今さっき、中の扉から出てきたところのようだ。
 そしてその姿にナシィとセインは見覚えがあった。
 あれは二度目にここを訪れた朝、自分たちに入り口の所で応対した男だ。
 嫌な記憶が蘇る。それは向こうも同様だった。
 ナシィたちに気づいた瞬間、あからさまに嫌悪を露わにしてこの入り口までやってきた。
「…またあんたらか。何のつもりか知らんが、とっとと帰ってくれ。」
 つっけんどんな言葉。ナシィも不快感を覚えたが、何とか抑えて丁寧な口調のまま言葉を返した。
「いえ、そうはいきません。たった今許可は取りました。ここの団長の方に会わせてもらいます。」
 きっぱりと主張する。さっき聞いた男の言い分は曖昧だったが、ここで引いては勝ち目はなかった。
 出てきた男が急に表情を変える。脇に身を寄せていた、今まで応対していた男を睨みつけた。
「なにぃ、許可を下ろした?おい、勝手なことをするなよ。」
「待ってくれ、俺はまだ許可をした覚えはないぞ!」
 このやり取りの後、更に二人の間で短い言い争いがあった。
 だが間もなく結論が出たらしくこの男は再びナシィたちの方を振り返った。先ほどまでいた男は一歩後ろに下がり、彼が前に出る。
 男は狭い入り口に仁王立ちになってより高圧的に言い放った。
「とにかく許可はしない。だから帰ってくれ。」
「いいえ、それは困ります。」
 男とナシィの視線が真っ向からぶつかる。
 男は苛立ちを見せたが、ナシィは態度も変えず顔色もそのままに主張した。
「話が違います。僕たちは、自分たちであの逃げられた盗賊に取られた物を取り返しに行こうとしてるだけです。そのために団長の方に会わせていただこうと…。」
「んなこと知ったこっちゃねえよ。」
 男はナシィの言葉さえも強引に遮った。
 さすがに表情が険しくなる。後ろではさっきから一言も発することができずにいたセインとイディルスが不安げにそれを見つめていた。
「何故駄目なのですか。だったら理由を話してください。」
 ナシィはもう一度だけ丁寧に言ったが、既に言葉の端には抑え切れない怒りが滲み出ていた。
「そんなこと教える義理はねえ。もう一度言うぞ、帰れ。」
 だが男は高圧的な態度を崩さず、脅すように言う。
 ナシィははっきりと拒絶した。
「お断りします。」
 許可を取らないまま一歩前に出る。
 その正面で、気づいた男は何も言わないでいきなり扉に手をかけた。
 勢いよく扉が引き寄せられる。
 だが、ナシィはその扉を手で掴んで止めた。
 男が意外そうな表情を一瞬だけ見せた。すぐにそれは怒りに変わる。
「何だ。」
「どういうつもりですか。」
 扉の隙間越しに鋭い目が交差する。
 身長はほぼ同じ、真正面からの衝突だった。
 舌打ちの音とともに男の口が再び動く。
「ふざけるのもいいかげんにしろよ。」
「ふざけてません。中に入れるか、それが駄目ならちゃんとした理由を聞かせて下さい。」
 男の荒っぽい口調に対してナシィは静かに言う。だがその言葉に宿る響きは似たものだった。
 互いに睨み合ったまま、退く気配はどちらも微塵もない。
 誰一人口を聞けぬまましばらく張り詰めた沈黙があったが、答えは返ってきた。
「…理由か。ああ、理由ならあるぜ。聞かせてやるよ。」
 扉を引いていた手の力が緩む。不意の変化にナシィは一歩よろけた。
 視線が外れる。
 言葉が放たれたのは、その瞬間だった。
「お前らみたいなのはな…邪魔なんだよ!」
 怒りと苛立ちのない交ぜとなった激しい叫び。同時に勢いよく扉が引き寄せられる。
 一瞬男の暗い表情が見えたと思った時には、手を引き離されたナシィの目の前で耳に痛い音を立てて扉は完全に閉ざされていた。
 そして始まりと同じように、三人がその場に立ち尽くす。
 足元にはまたかすかに砂埃が舞っていた。

 掴む物を失った右腕を半ば呆然としたような目で見つめながら、ナシィはただ立っていた。
 その肩越しにそっと声がかけられる。
「ナシィさん、大丈夫ですか?」
 振り返るとセインが自分の顔を見つめていた。
 杖を両手で握り、心配そうな表情を見せている。
 それを見て我に返った。少し落ち着いたところで手を下ろし、言葉には微笑で答えた。
「…ええ、もう落ち着きました。」
 そう言って、一歩後ろに立つイディルスの前に移る。
 イディルスもいささか不安げに見つめていた。彼にも一言謝る。
「失敗しちゃいましたね。すみません。」
「あ、でも、あれじゃ仕方ないんじゃないんですか?あんなこと言われちゃどうしようもないですよ。」
 自分たちが自警団を避けていた理由を今こうして目の当たりにして、少し驚いているようだ。そして情報を聞き出すのも上手くいかなくて当然だと納得したらしく、あっさりとあきらめの言葉を吐いた。
「ひどいですね。これじゃミーアさんが嫌がるわけだ。前からここってあんな感じだったんですか?」
「…ええ、まあそうです。捕らえた盗賊に面会を申し込んだ時からこんな調子でした。」
 扉を閉ざした建物を振り返った。見る人に威圧感を覚えさせるような変わらぬ佇まいを見せている。
 ナシィの答えにイディルスははっきりと同情を顔に出した。
「うわ、そりゃ大変だ。お疲れ様でした皆さん。全くひどい話もあったもんですね。」
 それには苦笑で答えるしかない。ナシィとセインは互いに目線を交わして苦い笑いを浮かべた。
 落ち着いたところで、とりあえずここを離れることにする。
 歩きながら簡単に話す。一旦宿に帰ってミーアと合流し、特に何もなければ大人しく夜を待つことにした。
 そうして自警団の前を離れて村の内部に入ったところで、突然イディルスが足を止めた。
「あ、お二人ともこれから真っ直ぐ宿まで戻られるんですよね。」
「ええ。そうですが、何か?」
 セインが問うと笑顔とともに答えが返ってきた。
「いや、ちょっと行きたい所があるんで先に戻っていて下さい。」
「ですが、ミーアさんは多分もう帰ってきていますよ。一緒に戻った方がいいと思いますが…。」
 ナシィは多少引き止めるように言ったが、イディルスは横に首を振った。
 照れ笑いめいた曖昧な微笑を見せて一歩後ろに下がる。
「でもまあまだそんな急に行く羽目にはならないでしょう?神殿にちょっと出かけただけなんですから。」
 確かにその通りではある。
 それに今の段階ではそうできることもあるまい。
「じゃ夕方までには宿に戻ってきて下さいよ。それと、あまり先走らないで下さいね。」
 ナシィは念のために釘を刺してはおいた。
 その言葉には軽いうなづきとともに返事がくる。
「分かってますよ。それじゃ、また後で。」
 右手を振ると、イディルスはそのまま大通りの中に入っていった。
 人込みに紛れてその姿はすぐに分からなくなる。
「じゃあ僕たちは先に戻りますか。」
「そうですね。」
 イディルスを見送ってから、二人もまた彼とは別方向に歩き出した。
 村の中を改めて眺めながら歩く。
 ナシィたちの前には、立ち並ぶ商店がそれぞれに客引きや商いをする姿があった。
 平和な村、しかしそれを保つのは村人ではなく盗賊たち。
 自分たちのやるべきことに迷いはない。ただ、その後にこの村がどうなっていくのか、それが少し気がかりだった。
 大抵の村は自警団によって自衛の道を選んでいる。だがこの守られることに慣れた自警団が、取引によって守り手になっていた盗賊を失った時に自分たちでこの村を守っていけるのだろうか。ここは街道から外れており訪れる冒険者も少ない。
 自分たちがそこまで面倒を見る義理はないが少しだけ気になった。
 セインと互いに何も言わないまま、ナシィはそんなことを考えながら村の通りを歩いていた。
 宿が道の先に見えてくる。
「すみません。」
 背後から声をかけられたのはその時だった。

 セインの部屋にまた三人が集う。
 今回はナシィとセイン、そしてもう一人の男性が椅子に座っていた。
「始めまして。オレは、レヴィシオン・アルチャイスと言います。」
 青年は自分の名を名乗った。
 ―宿を目前にしてナシィらを呼び止めたのは彼だった。
 ナシィには見覚えがあった。以前自警団の詰所に行った時、中から顔だけ見せたレヴィスという名の青年がいた。すぐにそれと分かる。
 最初レヴィシオンは二人に向けて、自警団に盗賊を連れてきた人たちかと問いかけてきた。
 互いに顔を見合わせたが、セインはうなづいてそれを肯定した。
 するとレヴィシオンは相談があると言っておもむろにナシィの手を取った。
 どこかの店に行くつもりだったらしいが、幸い自分たちの宿が目の前だったのでそちらに入ることにする。
 部屋に通して椅子を提供するとレヴィシオンはまず頭を下げた。
「お願いします。この村を、何とかして下さい!」
 それは突然の言葉だった。
 戸惑いながらもまずは席に座ってもらう。
 話はちゃんと聞くことにして、とりあえず名を尋ねたところだった。
 名乗ったレヴィシオンはそのまま一礼した。ナシィらは、彼が顔を上げたところで更に詳しく自己紹介をしてくれるように頼んだ。
 彼はこの村の者であり、現在自警団に入って仕事をしているとのことだった。少年期は勉強のために離れた町まで預けられており、ここに帰ってきたのはつい二年前に成人した時のことだという。
 相手の確認ができたところでナシィたちも名乗り返した。冒険者であることまでは話したが、村に来た理由や現在の状態などについてはまだ伏せておく。
「…それで、一体どういうつもりで僕たちのところに来たんですか?」
 探るようにナシィが問いかけると、レヴィシオンは少しうつむいて迷うそぶりを見せた。
 じっと待つ。すると決心がついたのか、顔を上げて答えた。
「あなたたちは、あの盗賊をどうするつもりだったんですか?」
 問いかけの形だった。
 ナシィはセインと目を合わせた後、自分がイニシアチブを取って話を進めることを目配せで決めた。
「盗まれた物を返してもらうつもりでした。」
「それ、ホントなんですか?」
 聞き返してくる。
 迷ったが、最初の一言―『この村を何とかしてほしい』の言葉を信じてある程度は正直に答えることにした。
「…いえ。口実です。実際は彼らからアジトの場所を聞き出すつもりでした。」
 これくらいなら例え自警団に知られても構わなかった。向こうもこの程度は疑っているだろう。
 その理由までは語らずに、ただやろうとしていたことだけを答える。
 するとレヴィシオンは安堵の息をついた。
 驚くナシィたちの顔を見て、改めて述べる。
「いえ、安心したんです。あなたたちは、ちゃんとあの盗賊を相手取る気があることが分かって。」
 ナシィは彼の意図が見えずじっとその様子を見守った。
 ややあってレヴィシオンも返事はないが自分に視線が向けられていることに気づき、自分から進んで話し始めた。
 彼がここに戻ってきたのは二年前。家業を継ぐにはまだ早いので一旦自警団に入ることになった。そこで初めて知らされたのが、この村が隠し通している取引のことだった。
 村人は当然のようにそれを受け入れているが、彼は違った。預けられた先でその町の自警団の活躍を直接見てきたがために、それが明らかにおかしいと思ったのだ。だが見習いがそれを訴えても受け入れてもらえるわけがなかった。
 だから二年間じっと待っていた。この村を訪れて、盗賊を退治してくれるほどの冒険者の存在を。それを信じつつ大人しく自警団の仕事をして内部での信用も得ようとしていたのだ。
 そして今、ふさわしい冒険者がこうして現れたので自分から接触を取ることに決めた。
 真剣に語るレヴィシオンの話を一通り聞いてナシィは納得した。
 嘘があるとも思えない。今更自分たちを自警団が探りに来るとも思えなかった。信じてもいいだろう。
 セインの方を見る。すると同様の考えをもったのか、ただ無言で目を見てうなづいた。
 その意思を受け取って再び向き直る。
「ええ。その通りです。僕たちはあの盗賊を追ってここまで来ました。」
 ナシィの言葉に、レヴィシオンは表情を明るくした。
「そうですか、よかった!ありがとうございます。」
 もう一度机に手をついて頭を下げる。ナシィはそれを見守った。
 だがこれだけで話を終わらせるつもりなどない。
 顔を上げたレヴィシオンに答える。
「お話は今ので分かりました。盗賊を相手取ることは約束します。ただそのために、僕たちから頼みたいことがあります。」
 聞く表情が引き締まる。戸惑いがないところを見るとある程度はそう言われることも考えていたようだった。
 ナシィは彼に対しての依頼を口にした。
「実はアジトの場所がまだ分かりません。だから、その情報が必要です。自警団の内部にならそれはありますね?」
 レヴィシオンは生真面目な顔でうなづいた。
「はい。まだオレは詳しくは知りませんが…。」
「それを何とかして手に入れてきて下さい。そうでなければ、僕たちも行動に移せないのです。」
 突き放すような言い方になるが、これは仕方なかった。
 この情報が手に入らなくては動けないのは事実だからだ。下手なことをしては村にも害が及ぶ。
 それはレヴィシオンも分かっているらしく、肯定の言葉が返ってきた。
「分かりました。何とか、してみます。…その代わりこちらからも一つお願いがあります。」
 ナシィの目を見て頼み込んでいた。
 もちろんそれを引き受けるつもりではあったが、まずは話を聞かねばならない。
「何ですか?」
 承諾の意を込めて問い返すと、レヴィシオンは視線を落としてやや緊張した面持ちを見せた。
 言葉を選ぶかのような短い間を経てから改めて顔を上げる。
 真摯な瞳がナシィとセインを見つめていた。
「…この村を、何とかして下さい。お願いします。」
 訴えは切なるものだった。この村に生まれ、戻ってきたために、彼はこれからもここで生きていかなくてはならない。
 その願いの重さを感じてナシィも深くうなづく。
「分かりました。」
 だがそれだけでは駄目なことも分かっていた。
「ただ、僕たちにできるのは盗賊を押さえこの村を解放するまでです。それからはあなたたちでこの村を守っていかなくてはいけません。」
 ナシィの言葉にも既にレヴィシオンは覚悟をしていたのか、迷いを見せることなく答えた。
「はい。―そのつもりです。」
 そして確かにうなづいた。
 双方の意思確認によって契約は成立する。ナシィたちは盗賊の完全な退治を、レヴィシオンはそのための情報提供を約束した。
 緊張が解けてレヴィシオンの顔にほっとした表情が浮かぶ。
 ナシィもそれに微笑を返した。同時に、安心感もあった。
 情報を得られる当てができたこともある。しかしそれよりも、この村の未来を考えている人がいることによる安心の方が強かった。
 これなら自分たちが盗賊を確保した後もきっとこの村はやっていけるはずだ。
 もう、不安に思うことはあるまい。
「本当に、ありがとうございます。」
 最後にレヴィシオンはもう一度深く頭を下げた。
 ナシィはそれに対して首を小さく横に振った。
 顔を上げそれを見て戸惑ったレヴィシオンに向かって言う。
「いえ、まだこれからです。…それではよろしくお願いします。」
 ナシィの言葉を聞き、その表情が鋭く引き締まった。
 机の上で組まれた手が強く握られる。
「はい。そちらも、どうかお願いします。」
 真剣な眼差しの中に答えはあった。
 窓からの光がその顔をはっきりと照らす。
 互いに確かなる決意を見せ、誓った。

 何か分かり次第この宿に来ることを約束し、レヴィシオンはここから出ていった。
 後には腰掛けたままのナシィとセインが残る。
 ナシィはセインの方に向き直った。
「話を勝手に進めましたが、あれでよかったですか?」
 自分がイニシアチブを取ったとはいえ、セインが何も言えずにいたことを思って声をかける。
 だがセインは微笑を見せてうなづいた。
「ええ。後は、ミーアさんが帰ってくるのを待つだけですね。」
 満足げな表情にほっとしてナシィも目を閉じた。
「そうですね…。」
 そこでようやく、ミーアがまだ帰ってきていないことに思い至った。
 神殿に伝言をしに行くだけだというのに帰りがひどく遅かった。本来ならとっくに帰ってきてもいい頃だ。
 何となく立ち上がって窓まで行き、そこから外の通りを眺める。
 見下ろしたがミーアの姿はどこにもなかった。
「大丈夫だとは思いますよ。きっと、寄り道をしているだけでしょう。」
 外を見つめるナシィに向かってセインは笑いかけた。多少は気がかりだが、ミーアなら大丈夫だという信頼がその言葉にはある。
 ナシィも振り返ってうなづきを返した。
「でしょうね。村の中で襲われることもそうないでしょうし、そうだったとしてもそう簡単にあの人がやられるわけありませんから。」
 ミーアの力量は短いとはいえ一緒にいたから分かっていた。ここに来る前に会った程度の盗賊ならば例え囲まれたとしても逃れられるだろう。
 イディルスも寄り道をすると言って別れたままだ。だから気にすることもあるまい。
 眼下では通りを歩く多くの人の姿が見える。
 ナシィは素直に窓辺を離れた。


 その少し前、ナシィたちが自警団からの帰り道に呼び止められた頃。
 ミーアはセインに頼まれた神殿への伝言を終えて大通りに出てきたところだった。
 ここから宿木亭までは真っ直ぐの道だ。すぐに帰れるだろう。
 そう思って気楽に歩いていたミーアだったが、その表情は突然に変わった。
 通りを眺めていた目が瞬時に細く、鋭くなる。
 その視線は時折人込みに遮られながらも確かにそれ(・・)を捉えていた。
「あいつは…!」
 小柄な体と見覚えのあるローブ、間違いなく最初の晩に酒場に現れた謎の客だった。
 彼が特に何か疑わしいというわけではなかった。分かっているのは相当な手練であろうことだけだ。
 ただ、嫌な予感がした。最後に残した心騒ぐ一言が気にかかっていたからかもしれない。
 そしてミーアは自分の直感を信じていた。
 まとっていたマントのフードを被る。
 気配を殺して、何気なく歩く様を装う。そう簡単には視認されないよう適度な距離を保ちつつ密かに後を追った。
 人込みの中に頭が揺れる。自分と同様にフードを被った姿は、小さいためにともすれば人に隠れて見失いそうになる。
 それでも村の中ではそれほど問題はなかった。道を歩く人がいるおかげでこちらもそれなりに身を隠しやすい。
 幸いにも相手は尾行されていることを感づいた様子もなく、ことさら振り返りもしないで真っ直ぐ歩いていった。
 やがてその姿が通りを抜ける。
 身を隠すために建物の陰に回ったミーアは、相手が村を出ていくのを目の当たりにした。
 道の北側の木陰を歩くその姿は、まるで散歩をしているかのようにリラックスして見えた。
 南にあるのは村の畑だ。街道を抜けてどこかに行くのだろうか?それならばさすがにあきらめるしかないだろう。早く戻らなければセインたちに要らぬ心配をかけるかもしれない。
 そう思って引き返そうと目線を外した矢先だった。
 もう一度顔を上げると、その姿は消えていた。
 突然の事態に目を見開く。
 一瞬の後、何が起こったかを理解した。すぐ横に広がる森に姿を消したとしか考えられない。比較的見通しのよい道、自分が視線を外していた間がわずかだったことも合わせれば他の選択肢はない。
 追うか戻るか。
 ミーアは覚悟を決めると陰から一歩踏み出した。
 相手が森から道に戻ってきた時のことを考えてそれなりに身構えながら歩く。
 目的の相手が消えた場所とその周囲のわずかな変化も逃すまいと目を凝らしつつ、早足で近づいていった。
 乾いた街道にはうっすらと足跡が残されている。それは子供のように小さいものだった。
 緊張のためか手に汗が滲み出す。
 だが結局、その場所の前に立つまで相手が再び現れることはなかった。
 目の前ではわずかに倒されて草が傾いでいる。ここから森の奥に入っていったことは間違いなかった。
 専門の狩人ではないが、経験のおかげである程度のことは分かる。森の様子を考えれば後を追うことは難しくないだろう。
 それを目の前にしながらミーアはもう一度だけ考えていた。
 相手はどういうつもりで森に入ったのか。目的は何か?
 それは分からない。ただ、この森に恐らくは盗賊のアジトがあるだろうということだけは分かっていた。
 ならば迷う必要もない。
 違ったら、素直に引き返すだけだ。どうせアジトの場所の当てがあるわけでもない。一人だったらそう簡単には見つからない自信もある。
 ミーアはマントを脱ぐと、広がる森に一歩足を踏み入れた。

 道は分かりやすかった。
 都合よく生えていた草や剥き出しの大地に足跡が刻まれている。
 出遅れた分を差し引いてもこれならば問題なさそうだった。帰る時も迷う心配はなかったが、念のために所々に印は残しておく。
 ある程度分け入ったところで速度を落とした。
 近づけば、向こうにも気づかれる危険があった。それは避けたい。
 周囲に気を配ってあちこち見回しつつ、更に歩みを進める。
 日の光が梢に遮られ、ほんの少しだけだが森の中は涼しかった。頭上では時折鳥の高い鳴き声が響く。
 まれに聞こえる草木を揺する音に振り返りもしたが、そこから何かが現れることはなかった。恐らくは獣が駆けていったのだろう。
 自分の神経がやや過敏になっていることにミーアは苦笑した。だが仕方ないと割り切り、もう少しそのまま歩むことにする。
 この注意が結果的に役に立った。
 更に歩き続けた先に、ようやく目指す相手の姿が見えた。視認できた瞬間に身を潜める。
 先手を取ることはできたようだった。相手が自分に気づいた様子が全くないことに安心して、姿勢を低くしたままその後を追った。
 相手は森の中で行くあてがあるのか、時折辺りを確認しながらもほとんど迷うことなく歩いている。
 どうやら思い切って取った自分の行動は間違いではなかったようだ。
 唇に笑いが浮かぶ。
 既にかなりの距離を歩いていた。そろそろ半時になるだろうか。
 まばらに落ちた日の光を受け、時に眩しい光が視界に広がる。
 ミーアは額にも滲んだ汗をそっと拭った。
 その時だった。
 不意に相手は立ち止まった。
 正面にはどうも自然のものではない傷を付けられた木が立っている。それを確認したかったが身を隠すのが先だった。
 ミーアはとっさにその場に屈んで息を潜めた。
 だが、相手は真っ直ぐ自分のいる場所に向かってきていた。
 気づかれたのだろうか。音を立てた記憶もなければ、相手が振り返って自分を確認したような記憶もない。
 しかし確かに近づいてきている。
 どうするか…迷ったのは一瞬だった。
「そこにいるんでしょ?出てきてよ。」
 幼げな声が響いた。中性的な感じのする高い声だった。
 答えられるわけがない。ミーアは息を殺したままタイミングを計っていた。
 すると相手はローブの下から片手を出した。
 短い手袋と、腕にくくりつけられた装飾品のようなものが見える。
 彼はその手を地面に向けてかざした。飾りの中央に付けられた大きな宝石らしきものがわずかに輝き色づく。
「来ないんならこちらから行くよ。…大地よ我が敵の足を喰らえ(イ・ホペ・ラン・ト・ドミナ・ヘ・フォート)。」
 感じた色濃い魔力の気配に、ミーアは呪文の終わりを聞くよりも先に飛びのいていた。
 直後に足元の地面が縄を描いて自分の足跡を飲み込む。
 視線が合った。
 相手の顔はフードに覆われてはっきりとは見えない。ただ、その唇が薄く笑ったような気がした。
 ミーアは懐に手を入れた。
 相手もそれに応じて身構える。向こうのローブの下から取り出されたのは鍔のない短剣だった。
 だがミーアは取り出した薄刃を相手に向かって投げつけた。
 それは短剣で受けられる。
 その瞬間、響いたのは鋭い金属音ではなく爆発音だった。
「!」
 飛び道具に偽装した煙幕がショックで爆発し、濃い煙を広げる。
 ミーアは迷わずに後ろへと駆け出した。
 背中の向こうで咳き込む声が遠く聞こえる。それを聞きつつも全力でその場から逃げ出した。
 戦って勝てるという保障はなかった。尾行をどこで気づかれたのかは全く分からない。自分の行動を振り返ってみても落ち度があったとは思えない。なのにそうやって気配を感じ取れたということは、予想以上に腕が立つということだ。
 今、一人で戦う相手ではない。
 目くらましをしたことで村までは逃げ切れる自信はあった。後を追われたとしても、ナシィやセインと合流すれば何とか戦えるはずだ。
 それでも敗北の苦味を感じた。
 揺れる草木の音が耳に響く。背後を見る余裕などない。
 舌打ちを一度だけすると、後は口を完全に閉ざしたままミーアは静かな森を駆け抜けていった。


 宿に全員が集ったのは夕方を迎える直前だった。
 先に、ミーアが息も荒くに部屋に帰ってきた。
 心配そうな顔を見せたセインに構わず、手にしていたマントを放り投げるとベッドに乱暴に腰掛ける。
「どうしたんですか?」
 問いかけには首を横に振った。そして一息ついてどうにか呼吸が治まったところで、口を開いた。
「…しくじったわ。詳しいことは後で皆の前で話すから。」
 それだけ言うと後はセインがいくら問いかけても答えなかった。
 少し経ったところでイディルスが両手に荷物を抱えながら帰ってきた。長期逗留の覚悟を決めたのかその中には食材やら小物やらがある。彼は真っ直ぐ自分の部屋に戻った。
 それぞれが落ち着いたところでまた部屋に集まることになった。

 夕暮れの赤い光の中で、昼間あったことを話す。
 ナシィは自警団の詰所での出来事と、更にはレヴィシオンの依頼の話をした。
 頼みと引き換えに情報を得る約束を取りつけた事に関しては、その場にいなかったイディルスが素直に感心してミーアも満足そうにうなづいた。
「村を何とかか…全部は手に負えないけど、多少は協力してやってもいいわよ。」
 ミーアが笑みを浮かべながらそう言ったのでナシィは思わず驚いてしまった。だがそれに対してはミーアは何も言わず、ただ唇に薄く笑みを乗せただけだった。
 一方のミーアも報告をする。ローブの男が現れた事と相手に森で見つけられて逃げるしかなかった事を語った。
 盗賊と関連がありそうな相手に警戒されることになったのには素直に頭を下げる。
 口調に混じるかすかに悔しげな響きと、事の重大さを感じてナシィが言った。
「それにしても、その男は一体何者なんでしょうか。」
 ミーアは口元に手をやったまま鋭い目のままで答えた。
「さあね。…盗賊の仲間だとしたら、相当厄介な相手になることは間違いないでしょうけど。」
 セインもそれには重い顔を見せた。
「そんな方だとは思わなかったのですが。」
「まあ確かに、最初の夜には助けてくれましたが…。」
 戸惑うような彼女の言葉に、ナシィはそれだけ言って口をつぐんだ。
 その後を継いだのはミーアだった。
「あの変な言葉を聞いたでしょ。さっきの行動もあるし、信用しない方がいいわね。」
 鋭い視線はセインに向けられる。言い放すような響きに、セインはうなづきながらも少しうつむいた。
「えと、一体それは誰なんですか?」
 話が見えなかったイディルスが問いかける。ただその表情もいささか重い。彼はまだ相手に会ったわけではないが、話の雰囲気からどんな存在であるかを多少は悟ったようだった。
 ミーアが最初の夜にあった事を説明する。
 只者じゃないと感じた事についてはナシィとセインも驚いた。あの段階ではそこまでのことには思い至らなかったからだ。
 指を顔の前で組み、ミーアが呟く。
「とにかく、アジトに行く時は気をつけた方がいいわね。一人で相手取るのだけはやめた方がいいわ。」
 厳しい目とともに言われたその言葉には場の全員が深くうなづいた。
 だが、それでもミーアの目からは厳しさが消えることはなかった。


 光の落ちた深夜。
 イディルスは、宿の一階で一人座っていた。
 ジンスの家には約束をした三人だけで行くのがいいと言われて一人だけ残されたのだ。
 言いたいことは分かるし話は後で全部聞かせてくれるとも言うが、取り残されたように思えるのはどうしようもない。
 机の上には既に空になったワインの瓶が立っていた。手にした二本目の瓶も既に三割はなくなっている。
 ランプは手元に一つだけ置かれて、それ以外の灯りはなかった。
 既に店主も奥に去っている。今ここにある酒が切れたら、大人しくあきらめるしかなかった。
 なみなみと注いだグラスを一気にあおる。
 ある程度飲み干したところで手を下げた。
 机とグラスのぶつかる硬い音が小さく聞こえる。
 元々酒は強かった。だから二本空けても二日酔いになることはない自信があった。どうせ話なら明日の朝に聞いても大した違いはないだろう。
 グラスに残ったワインを眺める。
 あまりおいしいとは思わなかった。
 仕事の重苦しさに少し嫌気がさす。体を張った仕事の経験だってあった。生き死にだってこの目で見てきた。ただ、動きたい時に自由に動けない今回の仕事の厳しさにいささかうんざりきていた。
 村の取引や人質を取られていることもあるだろう。だが、それで後手に回るよりはさっさと突っ込んで殲滅すれば片づくことだと思う。
「…やってられないよな。」
 独りでいても呟きが洩れた。
「そうだね、結構大変でしょ。」
 聞こえてきた返事にもついうなづいていた。
 一瞬後、思わず顔を上げて辺りを見回す。
「や、こんばんわ。」
 声はすぐ隣からしていた。
 暗がりの中にその姿が浮かぶ。
「…なんだあんたか。びっくりさせるなよ。」
 正体が分かり、安心した声がつい洩れた。
 相手はその唇に笑みを見せている。
 ここに来た次の日の夜に知り合った相手だった。共に飲んですっかり意気投合したのだ。
「ま、立ってるのも何だから座れよ。酒もまだあるし。」
「あ、うん。頂くね。」
 素直に座る。
 イディルスは残った酒をグラスに溢れんばかりに注ぐとそれを相手に渡した。自分は瓶に直に口をつけて残りを飲み始める。
「まあ聞いてくれよ、新しい仕事が見つかったんだけど、結構大変でさ。」
 愚痴を話せる相手が見つかったことに喜んで、イディルスは自分から話し始めた。
 相手はきちんとうなづいて相槌を打ちながらそれをじっと聞く。
 笑みを浮かべたまま、彼はそうやってただ静かにイディルスの話を聞き続けていた。


第二章 Contract.〈中〉



 夜明け前の闇の中にその音は聞こえた。

 叩きつけるようなノックの音に起き上がった。
 扉を開く。
 目の前にはこの宿の店主が立っていた。
「あんたらを急いで呼んでくれと言う奴がいる。仲間を起こして連れてきてくれ。」
 胡散臭げに自分を見つめながらそれだけ言うと、店主はすぐに階下に去っていった。
 ナシィは一度瞬きをすると、吊っておいたコートを片手に急いで部屋を出た。

 四人はほとんど着替えもしてないままの格好で階下に集った。
 明け方の薄明かりが静かな食堂を照らしている。その中で椅子に座り待っていたのは、つい昨夜に会ったばかりのジンスだった。四人の存在に気づいて顔を上げる。
 だがその顔色は昨日とうって変わって蒼白になっていた。
 ここまで走ってきたのか呼吸が荒かったが、顔色の悪さの原因はそれとは明らかに違うようだった。イディルスとは初対面のはずだがそれを訝しむ気配もない。
 突然、背を丸めて咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
 セインが駆け寄って背をさする。
 多少呼吸が落ち着いたところで、ジンスはおもむろに机に手をついて立ち上がった。
 見開かれたその目は赤く血走っていた。
「お、お前たち…これを見てくれ!」
 荒い息の中、震える手が差し出したのは一枚の紙と―どす黒い色に半ば染まった端切れだった。
 四人の目がその端切れに集う。
 手を伸ばしたのはミーアだった。素手でつまみ上げ、軽く触れる。
 暗い茶色の欠片がこぼれ落ちた。
「これは…血ね。」
 その言葉に残りの三人の顔色が変わる。
 ミーアはその布をジンスの手に戻すと、一緒に差し出された紙を手に取った。
 安物の紙には外側に多少土の汚れがついていた。それとは異なる黒いものが紙を透かした内側にも見える。
 何かが書かれているらしいそれを広げた。
「―地図?」
 横から覗き込んだナシィが呟く。
 確かにそれは地図だった。森の中の様子が幾つかの目印を伴って描かれている。だがその目指す先には、何の説明もなくただ小さな×印が書かれているだけだった。
 ミーアが皆に見せるように表を向けて高くかざす。その動作に答えて何かを口にする者はいなかった。
 沈黙を確認して再び地図を畳む。
 そして正面に立つジンスを見つめ、ミーアは静かに問いかけた。
「これはいったい?」
 ジンスの目は焦点を失ったかのように虚ろだったが、その言葉にようやく我に返ってミーアを見上げた。
 だがその視線はまたすぐに外れた。そのまま力なく椅子に腰を落とす。
 数回深く呼吸をしてから、か細い声で話し出した。
「今朝、家の前に置かれていた…誰もいなかった。」
 今日の朝、いつものように起きた時のこと。家の扉を叩く音がしたのでジンスは何事かと扉を開いた。
 だがそこには誰もおらず、ただこの地図と端切れだけが玄関先に置かれていた。辺りを見回しても通りには誰もいなかった。
 このジンスの話を聞きミーアは一人うなづいた。
「…なるほどね。」
 相手に姿を見せずに扉を叩く手段はいくらでもある。これは、姿を見せたくない理由があってのことだろう。―恐らくは決して良くはない理由で。
 そう判断してミーアはもう一つ問いかけた。
「地図は見て分かるわ。じゃあ、この血染めの端切れは何?これのせいであなたは急いでここに来たの?」
 見守る誰もが息を飲んだ。
 ジンスは片手に持っていた地図を机に置いた。未だ震えを止められない手で、その端切れをかざす。
 強張った顔が短い沈黙の中で激変した。
 不安に覆われ虚ろだった表情が、かつて闇の中で見たあの怒りに満ちたものへと変わる。
 これ以上などないほどの険しい目で端切れを睨み、ジンスはその一言を言った。
「これは…プリーヤのスカートなんだ。間違いない。」
 きしみ、かすれた声だった。
 その瞬間、四人は言葉を失った。
 このことが意味しているのは恐らく唯一つ。最悪の想像が各々の脳裏をよぎる。
 ジンスは視線を落とし、その端切れがまるで形見ででもあるかのように両手でそっと包み込んだ。粉となった血がその隙間から幾ばくかこぼれ落ちる。
 薄暗い部屋の中でそれは見えなくなった。
 ミーアは無言のまま机に一歩近づき、もう一度地図を手に取った。
 握りしめる。
「ここにこれを持ってきたのは、あたしたちにこの場所に行ってほしいということですね。」
 その問いに、返事の言葉はなかった。
 そこでミーアが見たのは、うつむいたままのジンスがただ小さくうなづく姿だった。端切れを抱えて力なく椅子に座っている。
「…分かりました。すぐに向かいます。」
 ミーアは席を立った。イディルスがわずかに戸惑いを見せたようだったが、構わずに下りた椅子を片づけた。
 残りの者も立ち上がる。複数の足音と椅子を引く音が重なった。
 ミーアは後ろも振り返らずに先に歩き出そうとした。その背に、言葉が飛んだ。
 ジンスの小さな声は震え、ひどく聞き取りにくかった。
「頼む…どうか、プリーヤを…。」
 言葉はそこで途切れていた。助けてほしい、その一言が放たれることはなかった。
 これが届いた時にもう分かったのかもしれない。それでも、一縷の望みを託しにここへと来たのだろう。
 今自分たちができること。それは、その思いに応えてこの地図が示した場所へと行くことだ。
「はい。」
 だからたった一言だけを告げて、ミーアはそこから歩き出した。その姿が光の届かない暗い影へと消えていく。
 同様にナシィもその場を離れようとした。だが、セインは立ち止まると逆にジンスに歩み寄った。
 気づいて振り返ったナシィにセインが一瞬その目を向ける。
 無言でごく小さくうなづきを返すと、ナシィはそのままイディルスと階段へ向かった。
 三人の姿が壁の向こうに消える。
 ただ一人残ったセインは、ジンスの前に跪きその手を取った。
 端切れを包む両手を更に自分の手で上から包み込む。
 ジンスが目を向けた。
 そこに、セインは微笑みかけた。
「あきらめないでください。私たちも、できるだけのことをします。」
 そっと手を握る。
 ジンスは何も答えなかった。
 ただ、その瞳から涙が一筋零れ落ちた。


 晴れ渡った空の下、広がる森を目の前にして四人は集っていた。
 それは奇しくもミーアが昨日森へと踏み込んだあの場所でもあった。逃げ出す時になぎ倒した草がまだ傾いたままだ。
 自分の足跡を見下ろしていたミーアが振り返って、全員に告げた。
「…覚悟はしていてね。」
 説明もなくたった一言だった。
 だがその言葉に皆がうなづいた。文字通り覚悟を決めた、厳しい顔を見せている。
 それを目にしてミーアの唇に満足したかのようなかすかな微笑みが浮かんだ。
 冷えた空気。早朝の森は日差しに照らされながらも木々自身がそれを遮って薄暗さを残している。
 深い呼吸を一つすると、微笑みを消してミーアはためらうことなく森に足を踏み入れた。その後に続いて三人も分け入る。
 白く輝く太陽が梢の向こうに隠れた。
 下生えを踏みしめる。ちぎれた草は、緑の跡を靴に残した。

 この地図の存在。恐らくこれは罠だろう。
 プリーヤを襲った相手が自分たちを誘い出そうとしているに違いなかった。血染めになった端切れの存在と自身の姿を見せないことからそれは分かる。
 しかしこれを無視するわけにはいかなかった。ようやくできた盗賊のアジトへ向かうつてはまだ時間がかかるであろう以上、彼女の安否を確かめるためには例え罠でも一刻も早く相手と接触する必要があった。
 何より、朝から宿に駆けてきたジンスの必死の訴えに応えなければならなかった。
 だからミーアはナシィらをつれて急いで宿を発とうとし、同時にイディルスに対しては森に向かうことの危険性を告げて待っていてもいいと言った。
 だがイディルスは首を横に振った。真剣な目でミーアを見つめる。
 それで十分だった。
 誰もがこの先には危険があると確信しつつそれでも行くことを決めた。

 導きのない森の中で、地図とコンパスを手にミーアが先頭を歩く。次いでイディルス、セイン、ナシィの順だ。
 森での活動にある程度慣れているのはミーアとナシィだった。セインとイディルスも仕事の中で森に入ったことはあるが、慣れているというほどではなかった。
 ミーアの指示で周囲のそれぞれ任された方向に視線を向けて注意しながら進んでいく。
 静かな森の中で聞こえてくるのは、草を踏む足音とイディルスの金属鎧が鳴る音、そして時折高く響く鳥の声だった。
 まだ朝の早い時間帯。森には夜の湿り気と涼しさが残っている。
 正面の草を払ってミーアが呟いた。
「…それにしても、何を企んでいるのかしらね。」
「え?」
 セインが一瞬視線をミーアに向けた。
「この地図をよこした奴よ。本当に盗賊かしら。」
「ですが、他にどんな相手がいるんですか?」
 後方に注意を向けるナシィも言葉だけで会話に加わる。
 ミーアは前方を睨みながら言った。
「盗賊が何のために地図を渡したのかってことよ。」
 汗を拭ってイディルスが答える。
「ボクたちが邪魔だからじゃないんですか?」
「そうだとしたら、いつの間に分かったのかしら。」
 響きは低かった。
 刃を握る手に力がこもる。
「相手は、あたしたちがジンスに雇われたことを知っていることになるわ。あれだけ接触を控えめにしていたのにね。」
「…私のせいでしょうか。」
 セインが一言呟いた。
 狭い森では時に邪魔にもなる長杖を身に抱くようにして歩く。
「そうじゃないわ。まあプリーヤを襲った相手ならそれくらいのことは想像がつくでしょうし。それに、今回の仕事をここで動かせているのはセインのおかげよ。」
 宿に現れた奇妙な老人。セインが彼の元に行かなければそもそもここに来ることもなかっただろう。
「気になるのは相手にあたしたちの存在が知られていること…全員で村を離れたのは失敗だったかもしれないわね。」
 ミーアが舌打ちをする。
 それを耳にしたナシィが表情を変えて振り返った。
「それは、この地図自体が罠だということですか?」
 一瞬、先頭の歩みが止まる。
 初めてミーアも振り返った。
「…今更それを言っても仕方がないわ。せめて急ぎましょう。」
 淡々とした響きだった。それだけ言って、また前を見て歩き出す。
 イディルスとセインがその後を再び進み始め、一歩遅れてナシィも足を踏み出した。
 確かに森に入ってから多少の時間が既に経っている。今から村に戻って果たして間に合うのか、それは何とも言えなかった。
 今は先に向かい目的地に何があるのかを確かめるしかない。
 不安を打ち消すかのように、ナシィはまたミーアに話しかけた。
「邪魔な僕たちを地図で誘い出しておいて、村を襲うつもりだと言うんですか?」
「可能性の問題よ。ありえないことじゃないわ。」
 焦りを感じて早口に話すナシィに対して、ミーアは冷静な口調で答える。
「最も、盗賊から取引をフイにする理由があるかどうかは知らないけれどね。」
 前だけを見て歩き続ける。
 ナシィも任された領域である後方を振り返りつつ進んだ。
「あそこには自警団もありますし、引退したとは言えソロボさんは外務出身の高位の僧です。少なくともあの村は無力ではないはずです。」
 間を歩くセインが口にする。それは事実であり、またそれを自分に言い聞かせようとするものでもあった。
 悪い考えを追い払うかのように首を振り、再び周囲への警戒を続ける。
「でも、どうして盗賊たちはこんな回りくどい方法を取ったんですかね?」
「それを聞きたいのはあたしの方よ。」
 イディルスの問いかけにはミーアは冷たい言葉を返しただけだった。
 更に呟く。
「罠ならかかっても壊せばいいのよ。仕掛けた犯人がいるなら万歳だわ、どういうつもりか聞き出してやる。」
 言葉はあくまで淡々としていた。
 だが、険しく正面を見据えるその目は内心の怒りと決意を露わにしていた。
「…確かにここで考えていても仕方ありませんよね。今は行くしかないんですから。」
 ナシィもそう言って、想像を打ち切った。何も考えないようにして周囲に対する警戒を続ける。
 それきり誰もが口を閉ざした。
 厳しい表情できつく口を結んだまま、ただ辺りだけを意識して歩き続けていった。
 夏なのに冷えた森の空気は少しずつ肌を冷やしていった。


 ―そして、目的地にたどり着いた。
 地図に記された×の印。それが示していたものが、確かにそこには存在していた。
 だが。
 それは、目の前の最後の茂みをミーアがかき分けた瞬間。
「う、うわあっ!」
 一目見たイディルスは叫び声を上げた。
「…何てこと。」
 ミーアが静かに呟く。
「そんな…。」
 ナシィもそれきり言葉を失った。
「―こんな、こんなことって!」
 そしてセインは膝をついた。

 そこにあったのは、変色した血溜まりと崩れた肉の欠片。
 それは既に原型を失いつつある少女の遺体だった。

「…うっ!」
 青ざめたイディルスが口を押さえて近くの茂みに駆け込む。
 ミーアはそれを一度だけ振り返ると、しゃがんだままのセインに声をかけた。
「セイン、イディルスをお願い。…立てる?」
「はい。」
 セインもまた青白い顔色をしていたが、ゆっくりと立ち上がるとその茂みへと歩いていった。
 それきり二人には構わず、ミーアは遺体の元に歩み寄りながら言う。
「ナシィ、あんたも離れてていいわよ。あまり見られたもんじゃないから。」
「…僕なら大丈夫です。」
 そう答えてナシィもミーアの横に並んだ。
 遺体を見下ろす。
 そこにあったのはもはや誰のものかも判別のつかない肉片だった。
 いかなる方法で殺されたのかも分からない。血と肉によって描かれた形はもはや辛うじて人型を保っているにすぎなかった。
 夏の蒸し暑い森の中で腐敗が進行し遺体は朽ちつつある。蠢き這い回る無数の虫が草さえも茶色く染める。
 剥き出しとなった骨の白さだけが、その中で浮き出たように鮮やかな色を見せていた。
 ミーアはしゃがみこんだ。
「間違いないわね、これ…この子がプリーヤよ。」
 腐肉の下から血と泥に汚れた布を引き出す。
 ひどく汚れ、またあちこちが裂けていたが、確かにそれはプリーヤが着ていたスカートだというあの端切れと同じ布だった。
 沈黙に耐えられないかのようにナシィが呟く。
「…彼女は殺されたのでしょうか。」
 それはこの遺体からでは分からなかった。
 だがミーアは手を出し、遺体の向こうを指さした。
「それは何とも言えないわ。ただ、ここについ最近来た者がいることは確かよ。」
 その先にあったのは、茂みの下に隠れるようにして息絶えた痩せこけた狼の死体だった。
 ミーアはそこまで歩いていき、足を掴んで茂みから引きずり出した。
「な…!」
 狼には首がなかった。
 引きずられた跡に、半ば固まりつつある赤黒い粘性の液体が残る。
「…手負いだったみたい。だけど、それでも首を落とすなんてそれなりに腕は立つようね。」
 右の後ろ足に傷があったが、これは半ば塞がっていることから殺される以前に負ったものだろうと想像がついた。そしてわずかに残る喉元は鋭利な刃物で切り落とされたのかほぼ平らな切り口を見せている。
 遺体の状況を見る限り、こちらはつい昨日殺されたばかりのようだった。
「この狼を殺した相手が、ジンスさんの家に地図と端切れを届けたのでしょうか。」
「多分ね。わざわざ端切れを取りに戻ってきたのかもしれない。」
 ミーアが立ち上がる。再び少女の遺体の前に立った。
 そこにセインとイディルスが戻ってきた。イディルスは青ざめたまま、セインの肩を借りるようにして歩いてくる。
「…大丈夫?辛いならそこの木陰で休んできてもいいわよ。」
 ミーアが慰めるように言う。
 だがイディルスは首を横に振ると、借りていたセインの肩から手を離した。
「いいえ、もう平気です。」
 そう言い切り、遺体を正面から見つめた。何かをこらえるように唇を噛みしめる。その顔に現れた表情は、これまでのどこか子供じみたものとは完全に異なっていた。
 ナシィがさっき分かったことを二人に告げる。
 遺体が間違いなくプリーヤのものであることを教えると、セインは立ったまま手を組んだ。目を閉じ短い祈りの言葉を捧げる。
 再び見せた瞳には悲しみと共に怒りが宿っていた。
 イディルスも口を開くことはなく、ただ険しい目を遺体に向けている。
 そして説明が終わったところで、ミーアがおもむろに言った。
「…それにしても、ホントにこれだけだったとはね。」
 その言葉に残る三人もハッとした。
 罠はなかった。
 あれだけ警戒して行ったにもかかわらず、ここまでの道程には罠は存在しなかった。
 そしてこの地にたどり着いた時も何も起きなかった。
 遺体に動揺し、周囲への警戒が確かに一度おろそかになった。襲うならその瞬間だろう。だが、そうした気配は一切なかった。
 つまりここには罠も待ち構える相手も何一つ存在しなかったということだ。
 ただ物言わぬ遺体だけが待っていた。
 ナシィが確認するかのように問いかける。
「やはり、あの地図自体が罠だったのですか?」
「さあね…仮にこの地図が無ければあたしたちは絶対にここに来れなかったことは確かでしょうけど。」
 届けられた地図が示していたのは、所々に作られた目印とその間の距離、正確な方角だけだった。これが無ければ森の奥深くにあるこの場所には決してたどり着けなかっただろう。
 だからこそ、この地図を送りつけた相手の意図が分からなかった。遺体のある場所をわざわざ教えてくれたというのは人質はいないということを暴露したに等しい。
「地図をくれた人は、プリーヤさんをさらった犯人とは違うのでしょうか。」
 同じ考えに基づいて生じた疑問をセインが周りに尋ねる。
「分からないわ。犯人でもなきゃこんな森の奥深くの遺体なんか気づかないわよ。まあひょっとしたら、偶然見つけた親切な人が教えてくれたのかもしれないわね。」
 皮肉な笑みとともにミーアが言った。
 脳裏によぎったのは昨日見かけたあのローブの男だ。
 森に向かって歩いていった。腕も立つ。そして、自分に向けて攻撃を仕掛けてきた。
 疑うに足る相手であることは間違いない。分からないのはその意図だった。
 彼が自分たちをここに呼び寄せて遺体に会わせたのは何のためか?
 …考えても分からない。だから考えるのは後にすることにした。
「ま、その話は後にしましょ。今はこちらを調べるのが先よ。」
 それぞれに黙って考え込んでいる三人に向かって、ミーアはことさら明るい声をかけた。
 返事はなく静かな目だけが返ってくる。それは仕方がないだろう。
 それでも、まず自分から先へ進めようと言葉を続けた。
「死因はもう分からないかもしれないけど、何か手がかりが残されているかもしれないわ。手伝える人は手伝って。」
 そう言ってしゃがみこむ。
 それを見て、その横に並んでしゃがんだのはナシィとセインだった。イディルスは何を思ったのかその場に立ち尽くしたままだ。
 沈黙の後、おもむろに口を開く。
「…彼女の死体を調べるんですか?」
 いつになく真剣な声だった。
 その声色の重さにミーアが振り返った。自分たちを見る険しい目に、厳しい口調で答える。
「ええ。そうじゃなきゃ、彼女が何故死んだのかも分からないわ。少しでも手がかりが必要なのよ。」
「ですけど、何もこんな…っ。」
 イディルスは一瞬言葉に詰まり視線を落とした。だがすぐに顔を上げ、しゃがむミーアを見据えた。
「ここで一人死んだ彼女の死体を漁るなんて!せめて、手を触れずに埋葬をさせて下さい!」
 高ぶった声だった。
 決して死体を怖れているのではなくただその身を案じてのことだというのはその目で分かった。あまりにも無残な死に様に、もうこれ以上少女を傷つけたくないという思いが募ったのだろう。
 しかしそれでは何も進まないままだ。
 ミーアは一度目を閉じて立ち上がり、彼を見つめた。
「…イディルス。気持ちは分かるわ。だけどこのままじゃ彼女を殺した相手は突き止められない。これは、彼女のためにも必要なことなのよ。」
 穏やかかつ冷静な説得。その言葉の正しさにイディルスが反論を失う。
 そこにセインも立ち上がって声をかけた。
「彼女を葬るのは、きちんと調べた後でなくてはいけません。あなたの思いはきっと通じています。ですから、今は待って下さい。」
 告げられた神官の言葉に、イディルスは小さくうなづいた。
「分かりました…すみません。ボクも手伝います。」
 そう言って横に並び、自ら屈み込んだ。
「―早くやりましょう。このままにしておくのは、残酷ですよ。」
 横たわる遺体を見つめて訴える。
 その言葉に同意し、ミーアとセインも再び屈んだ。

 遺体に手を触れる。
 肉片は崩れかかっていた。取った手の中でちぎれ、腐臭と染みを残して下に落ちる。それでもまた手を出した。
 回収など不可能な遺体を丁寧に脇にどけて遺留品を捜す作業が続いた。
 その中で何かに気づいたセインが手を止めた。
 皆の目線を受けて右手を掲げる。差し込む日の光に照らされたのは、血にまみれた小袋だった。掌ほどのひどく小さな物だ。
 ミーアの指示でその中身が出される。
 現れたのは何枚かの銀貨と銅貨だった。小銭入れだったようだ。
「金が目当ての犯行ではなかったようですね。」
「それだったらこんな森の中にわざわざ遺体を残す必要もないでしょ。」
 ナシィの呟きにそっけなくミーアが答える。
 他に何も入っていなかったので、それは遺品としてまとめて回収しておくことにした。
 作業を続けていると次に見つかったのは一枚の紙だった。
 二つ折りにされてスカートのポケットに収められていたものを、偶然にもまたセインが見つけた。布の間から外へと引き出す。
 それは血に浸っていたために茶色く染まり、完全に張り付いていた。破らないよう細心の注意を払って剥がしていく。
 幸運にもその文字は判別できた。
 そこに書かれていたのは、愛の言葉だった。若者が恋人に囁く密やかながらも情熱的な告白。そしてそれは結婚を約束するものだった。
「これが、アフィリクトさんがおっしゃっていた手紙なんですね…。」
 セインは呟くと、手紙を再び閉じて半ば骨となった遺体の掌にそっと載せた。
 見つかったのはこれだけだった。
 そして辛うじて分かったこともあった。
 遺体の損傷が激しいのは恐らく獣に食われたからであろう。その大半が失われた腹部と、側に転がる狼の死体がそれを証明していた。
 だが結局のところ得られた情報はほとんどなかった。
 唯一はっきりと言えること。それは、プリーヤは捕らわれているのではなくずっと前に殺されていたということだった。

 四人がかりで掘った穴に遺体を移す。崩れかかった体を組み直すように順に土の上に並べていった。
 作業を終えた時には、そこに差していたはずの日の光は外れていた。空洞となった眼窩が穴の底で黒い影となっている。
 横たわった少女の遺体を前にして、ミーアは跪いた。
 片手を大地につけて少女に語りかける。
「何もできなくてごめんね。…せめて、仇は討つわ。」
 最後の言葉と共に向けられた瞳は冷たい炎を秘めていた。
 そしてミーアは目を閉じて、この世を去る死者への祈りを呟いた。
 その側に立つナシィもまた彼女を弔った。心安らかにその生命が大地へと還ることを願う。
 だが、イディルスは立ち尽くしたまま動こうとしなかった。かすかに涙の滲んだ瞳を少女に向けて唇を噛みしめている。
 三人もすぐにそれに気づいたが、ミーアだけはあえて声をかけた。
「イディルス。」
 答えはない。
 間を置いて、強張った口から吐息が洩れる。
「今は…今は、まだ祈りません。彼女を殺した奴を捕まえるまでは…。」
 青ざめていた顔からは血の色が失われたままだ。茶色く汚れた拳を握りしめ、イディルスはそう呟いた。
 彼の内にある思いの激しさは一目で分かった。だから、三人はそれきり何も言わなかった。
 そして四人は少女の体を埋めると、せめて墓標の代わりにと近くの若木をその上に植え替えた。芽吹いてから十数年ほどと思われる小さな木だった。
 もともと遺体があった場所の土も掘り返して汚れを埋める。
 最後に、巫女たるセインがライセラヴィの教義に基づいて死者に鎮魂の祈りを捧げた。
 大地に跪いて手を組み、天より照らす光に呼びかける。
「光よこの者の魂を導きたまえ(イ・ヴォルド・アセ・リト・ト・レヴェアル・ヘ・シュピライト)。…安らぎと幸福のあらんことを(ベ・イアセ・エン・ゴード)。」
 言葉は空に消えた。
 セインはそのまま胸の内で祈りを重ね、立ち上がった。
「…今はここまでにします。ちゃんとした葬儀を行うのは、ジンスさんの元でです。」
 神の下に死者の魂を届ける聖女、それを思わせるような静かな目をしてそう言った。
 もうここには何もない。あるのは遺体を埋葬した墓だけだ。やがてはそれも全て土に還っていくだろう。
 ナシィは少女の眠る大地を見下ろした。
 どうしてこの少女はこんな森の奥でたった一人死なねばならなかったのだろうか。彼女に何が起こったというのか?
 その問いに答える者はない。―胸の内に現れるのは何故か怒りよりも無力感だった。
 顔を上げたナシィは突然に歩き出した。
 声をかけたミーアに対し、振り向かずに答える。
「戻りましょう。ここでできることはもうありません。…もし、村が襲われていたなら取り返しのつかないことになります。」
 誰も異論はなかった。
 再び地図を頼りに引き返す。周囲への警戒もやめてただひたすらに急いだ。
 ざわめく森。もう日が昇ってからずいぶん経つ。上がり始めた気温は森の空気に重い湿り気をまとわせていた。
 遠くで足音に怯えて獣が逃げていった。
 だが、ただ前だけを見て歩き続けるナシィの目にはそれが捉えられることはなかった。


 村の入り口を抜ける。
 広がる光景は、何も変わりはなかった。
 家が壊された様子もなく、人が襲われた様子もなく、いつもと同じ営みが繰り返されているだけだった。
 自分から先行したナシィが息をつく。膝に両手を置いて一度大きく呼吸をした。
「心配はいらなかったみたいね。」
 その背に声が届く。
 背を伸ばして振り返ったナシィの後ろには、いつの間に近づいたのかミーアが立っていた。
「ええ、そうでしたね。」
 苦笑した。
 その向こうからセインとイディルスも歩いてやってきている。セインの見せた安堵の笑顔にも同じ苦笑で答えた。
 だが、それぞれが浮かべた笑みはどこか無理があった。
 そして追いついたところで、セインは皆を呼び止めた。
 一度わずかにうつむいてから見せた顔には緊張と共に影が混じっている。
 立ち止まって待つ三人に向けて、セインはきっぱりと告げた。
「私はこれからジンスさんの所に向かいます。…皆さんは先に宿に戻っていて下さい。」
 手にした形見の小袋を両手で握る。
 報告は一人でいい。不幸の知らせを届けるのに皆で行く必要はないと思った。
 しかしこの言葉に対し、ナシィははっきりと否を唱えた。
「いえ。僕たちも向かいます。…ジンスさんから仕事を請けた以上報告の義務もあるはずですしね。」
 僕たちという言葉に含まれたミーアも横でうなづく。
 一人で行くと言ったセインが何を考えているのかの想像はついた。だが直接の意味はなくとも、自分たちも彼の元へ行くべきだと思う。だからあえてその頼みは断ることにした。
 セインは一度驚いた顔をして、素直に頭を下げた。
「…そうですね。すみません。」
「謝ることはないわ。それよりも…イディルス。」
 ミーアは小さく首を振るとイディルスに向き直った。
 突然の指名に、それまで口を開くこともなく視線を落としたまま歩いてきていたイディルスが驚いた顔を見せた。
「何ですか?」
「あなたはどうするの?無理に来る必要はないわ。」
 イディルスの顔色が変わった。
 最初は信じられないといった顔をし、次いで怒りめいたものをはっきりと見せてミーアに食ってかかった。
「何を言ってるんですか!ボクも行きますよ、ボクだってこの仕事に関わっているんです!」
 彼もまた考えは同じだった。
 ミーアはうなづき、小さく苦笑を作った。
「そうね、悪かったわ。…ジンスさんにはこっちで話しておくから一緒に来て。」
「もちろんですよ。」
 険しい口調でそう言ってイディルスは自分から歩き出そうとする。
 数歩早足に歩いたところで立ち止まり、振り返った。
「早く案内して下さいよ、ボクはそのジンスさんの家の場所は知らないんです。」
 気づいたセインが慌てたように駆け出す。
 その後ろからナシィとミーアも並んで歩き出した。


 通された部屋は今までと同じ沈んだ空気に包まれていた。
 場所は全く異なっているのに、あの森を思わせる湿って暗い風が地を這っているかのように感じる。かすかに混じる薬草の匂いがそれを強めていた。
 同行したイディルスについて一言説明し、全員で机を囲む。椅子が不足したのでミーアは席を辞退し一歩下がって立った。
 部屋は暗いままだ。他の部屋からは光がこぼれてきているというのに、この部屋だけは常に太陽を避けるかのように窓を閉ざしていた。
 中に座るジンスは黙ったままセインを見つめていた。
 その表情は今は静かだ。だが、赤くなった目が彼の今までの様子と心情を物語っている。
 セインは呼吸を一つして、不安と緊張に高ぶった気持ちを抑えた。
 そして膝の上に置いていた手を机の上に出す。ずっと握っていた小袋をそっと横たえた。
 ジンスの目がそこに移る。
「これは…地図をたどった先で見つかったものです。」
 手が伸ばされた。
 泥と血に汚れた小袋。中から転がり落ちたのは数枚の貨幣だった。
 ジンスは一瞥した後はそれらに目もくれず、ただ小袋だけを凝視した。
 その目が事実に気づき、見開かれる。
「アフィリクトが作ってやった小物入れだ…これが、あったのかね。」
 かすれた声。
 確かにその通りだったが、セインは首を横に振った。地図の先にあったのはこれだけではない。
 戻した手を膝の上できつく握りしめた。茶色く染まった手袋がかすかに震える。
 顔を上げ、残酷な真実を告げた。
「プリーヤさんは、…亡くなっていました。」
 形にすればたった一言だった。
 静かな言葉は、そのまま闇に溶け失せた。
 場に静寂が訪れる。
 ジンスは目を瞬かせた。
 動きを止め、聞いた言葉が信じられないかのように黙ってセインを見つめる。
 だがその目が突然に曇った。
 がくりとうなだれる。背を丸め、肩を震わせる。その手が顔を覆った。
「……おお…!」
 嗚咽が洩れた。
 四人も沈痛な面持ちでその姿を見つめた。
 かける言葉もない。最愛の娘を奪われ亡くした父親を慰められる台詞などあるのだろうか。
 それでも、セインは口を開いた。
「…申し訳ありません。既に亡くなってかなり経っていましたので、遺体は森の中に埋葬いたしました。」
 葬った者の義務として伝えねばならない。
 ジンスは唯一の形見となった小袋を前にしてただ涙を流していた。
 手に覆われた顔は見えない。だが震える肩と、洩れる言葉にならない声が全てを示していた。
 セインは静かに待った。
 この悲しみを癒すには気の遠くなるような時がかかるのだろう。…いや、決して癒されることがないのかもしれない。
 ただ今は、涙を流し、事実を受け入れるための一時が必要だった。
 静かな部屋にかすかな嗚咽が聞こえる。
 アフィリクトは未だ何も知らず眠っているのだろう。他の部屋からの物音は何一つ聞こえなかった。
 そう、ジンスは己の悲しみを背負うだけではなく、妻の悲しみをも背負わねばならないのだ。
 彼の身を憂うと共に悲しみ、セインは神に祈った。
 どうか、彼に救いが与えられんことを(イ・ウォルド・アセ・リト・ト・サーヴェ・ヘ)―。
「―」
 その瞬間、かすかな声が聞こえた。
「え?」
 顔を上げて聞き返す。
 それはジンスのものだった。
 セインは身を少し乗り出してジンスの言葉に耳を傾けた。
 掌の隙間から声が洩れ聞こえる。
「…帰ってくれ。今は一人にしてくれ…。」
 それはジンスの叫びだった。
 か細く途切れそうなほどに弱い声、だがそこに込められた意志は頑ななものだった。
 セインは息を飲み、答えた。
「分かりました。…私たちは宿にいます。何かありましたら来てください。」
 そう言って立ち上がる。
 返事はもちろんなかった。だが、言葉は伝わっていると信じてセインは椅子をしまった。
 彼の言葉が聞こえなかった仲間たちが戸惑うのが分かった。しかしそれには構わずセインは歩き出した。
 彼女の姿にそれぞれも席を立つ。
 一人で先を歩くセインを追って、別れの挨拶を述べて順に部屋を出ていった。
 残されたジンスは動かぬまま、ただ静かに涙を流し続けていた。
 その姿は光なき部屋の中で今にも消え失せそうだった。


 セインは一人神殿に向かっていた。
 宿に戻ったところで、報告のために神殿に行く必要があることを三人に告げた。
 その時にミーアが心配そうな表情を見せていた。自分では分からないが、何か気がかりなものが表情に現れていたのだろうか。
 それでも構わずに神殿に急いだ。
 胸を覆うこの重い気持ちに押し潰されないよう、何かをしていたかった。
 神殿の通用口をくぐりその先の控え室の扉を叩く。
「何の御用で…なんだ、あんたか。」
 迎えたケップはセインを一目見ると、すぐに部屋に通してソロボを呼びに行った。
 その際にセインを椅子に座らせて、何を思ったのかとりあえず飲んでおけとお茶を置いていった。
 目の前には曇り一つない透明なコップ。
 セインは飲む気がしなかったが、それでもコップを手に取った。
 ポットに移されてからずいぶん経つらしくそれはぬるかった。掴んだ手に穏やかなぬくもりが伝わる。
 暑いはずなのに、その熱に触れていたかった。
 口はつけずにただそのコップのぬくもりを静かに味わっていた。
 少しすると足音が聞こえた。
 扉が小さな音を立てて開き、ケップに連れられたソロボが現れた。
 セインは黙礼を返すと再び手元に視線を落とした。その姿を一目見て、ソロボは向かいに座って話しかけた。
「どうしたのかね?」
 セインは顔を上げた。目の前ではソロボが穏やかな表情で自分を見つめていた。
 その目にある慈愛に不意に悲しみが込み上げる。
 だが先にやることがあった。伝えねばならない事実を正確に伝える。
 揺れ動く感情を抑えようと、ことさら静かな口調で話し始めた。
「…ジンスさんの元に、今朝、一枚の地図と端切れが届きました…。」
 小さな声はこの狭い部屋で二人だけに届いた。
 起こったことの全てを伝える。
 彼と妻の身を思い、手を差し伸べようとする神官たち。自分たちがどれほどの救いとなれるのかは疑わしい。それでも何かをしようとした。
 だがもたらされた結果は最悪のものだった。
 自分たちの行動は善行を装った自己満足にすぎなかったのだろうか。迷いはなかったはずなのに分からなくなる。
 それでもセインは自らの行いを語った。
 聴罪師に告白するかのように、だがその胸の内の思いは何一つ語らずに、事実だけを述べた。

 ―そして、何もかもが伝えられた。
 明かされた悲劇にソロボの顔が曇る。ケップに至ってはあまりのことに呆然として、話したセインをただ見つめるばかりだった。
 セインが目を閉じる。
 告白は終わった。後は、裁きを待つのみだ。
 ソロボがケップをたしなめる声はひどく遠くに聞こえた。
 閉ざされた瞳に映るのは先の見えない闇だけ。
 不意に、机に置かれたセインの手に触れるものがあった。
 そこに伝わるのは確かなぬくもり。
 目を開ける。
 先には、穏やかな目で自分を見つめるソロボの顔があった。
 その口がゆっくりと動く。
「…よく頑張ったな。」
 聞こえてきたのは優しい声だった。
 視界が滲む。
 セインは、ずっと抑えてきた涙が頬を伝うのを感じた。
 そしてそのまま泣き崩れた。


 宿木亭、一階。
 三人は一つのテーブルを囲んでいた。
 机の上には気休めにとミーアが頼んだ紅茶が三つ。だが、そのうちの二つは口をつける者もないままゆっくりとぬるくなっていた。
 唯一中身の減らされたグラスを片手にしてミーアが呟く。
「…いつまでもこんなところで落ち込んでいても仕方ないでしょ。」
 その言葉は目の前に座るナシィとイディルスに向けて放たれていた。
「分かっています。」
 ナシィが答える。
 だがその視線は落とされたままであり、前に置かれたグラスは触れられることのないまま雫を伝わせていた。
 遠くに響くのは蝉の声だろうか。
「イディルス、あんたも。」
 答えのなかったイディルスの名を呼んだ。
 ようやく顔を上げる。しかしその瞳の色は生気を失ったままだった。
 宿に戻った瞬間、二人はそれまでの緊張の糸が切れたのかまるで魂を無くしたかのように力を失った。
 それでもナシィは目的を忘れたわけではなく、ただあまりの出来事に言葉と覇気を失っているだけのようだった。今後のことを考えようというミーアの申し出にもちゃんと肯定の意思表示を見せた。
 だが、イディルスは…。
「イディルス。」
 もう一度名を呼ぶ。
「…何ですか。」
 返事までにはひどく間があった。その声色は沈み、また繰り返し名を呼ぶミーアに対してわずかに苛立ってもいるようだった。
 だがそれきり、何を言おうともしない。
 ミーアはグラスを机に置くと身を乗り出してイディルスを睨んだ。
「いつまで腐ってる気?」
 辛辣な言葉にも目立った反応はなかった。
 そう言ったミーアを暗い瞳で見つめるだけだ。睨むほどの力さえも感じられない。
 ミーアは再び椅子にもたれた。木が小さくきしんで音を立てる。
 腕組みをして更に言葉を重ねた。
「…あれがショックだったとは思うけど、だからってあんたまで沈んでても何にもならないでしょ。プロなら請けた仕事に責任を持ちなさい。」
 わずかにイディルスの眉が動いた。それでも、言葉は返ってこない。
 ミーアは小さく息をつくと、自分からそっぽを向き背もたれに片肘を乗せて続けた。
「それともこれぐらいでやる気をなくしたの?だったらさっさと仕事をやめて故郷にでも帰りなさい。」
 突き放す言葉はわざとのものだ。
 それを分かっているのだろう、ナシィも眉をひそめながらも口を挟むことなく自分たちを見守っていた。
 立てられたミーアの尾がゆるやかに揺れる。
「可哀想に、彼女も浮かばれないわね。仇を討ってくれるはずの騎士は腰抜けだったって…。」
 バンッ!
 残りの言葉は机を叩く音に打ち消された。
 ミーアが目を向ける。
 立ち上がったイディルスが、怒りに燃えた目で睨みつけていた。
「―いい加減にしろよっ!」
 悲鳴のような絶叫、それはこれまで胸の奥で渦巻いていた全ての思いが叫びとなって現れているかのようだった。
 机を打った拳が握りしめられる。顔は紅潮し、湧き上がった強い感情に普段とは口調までも変わっていた。
「何が浮かばれないだ!何もかもが手遅れだったんだよ!だから、こそこそしてないでさっさと探しに行ってればよかったんだ!」
 怒りにも似たその現れ。真っ直ぐな瞳は瞬きもせずにミーアを見つめている。
 同時に、机の上に雫が一つ、二つこぼれた。
 涙が頬を伝い落ちていた。
「責任とか、仕事とか、分かってないのはあんたたちの方だ!あの子の死体を無駄にいじくりまわして申し訳ないと思わなかったのかよ!今だって、こんな所でのんびりして…。」
 そこまで叫んだところで、イディルスは突然胸が詰まったかのように言葉を止めた。
 震える拳が再度握りしめられる。息を吸う、かすれた音が聞こえた。
「…もうあんたたちには頼らない!勝手にやっててくれ!」
 最後にそう言い放つと彼は踵を返した。
 そしてそのまま足音も荒く食堂から出ていった。向かう先は二階だ。恐らくは荷物の準備にでも部屋に戻ったのだろう。
 響く足音が遠ざかる。
 後にはナシィとミーアの二人だけが残された。

 静けさを取り戻した室内に、窓の向こうの音が聞こえ始める。
 ミーアが前髪をかき上げて椅子に深く腰掛けた。
「ちょっとやりすぎたかな。」
 舌を出したその笑みは、どこか冗談めいた作り物のように見えた。
 グラスを手にとって傾ける。
「ミーアさん、すみません。」
 そんなミーアにナシィは軽く頭を下げた。
 今までのミーアの言葉の意図が分かっていたからこそ感謝する。憎まれ役を買って出るほどの気力は今の自分になかった。
 そう言われた当のミーアは残りの紅茶を飲み干していた。
 空のグラスが机に置かれる。
「ま、気にしなくていいわよ。」
 そのふちを指で一回りなぞって、爪で弾く。
 透明な音はまるで空気の色を変えるように響いた。
 そしてイディルスが去った階段を見る。
「後は、これであの子もやる気を取り戻してくれればいいんだけどね。」
 小さなため息を一つ。唇に浮かぶのは困ったような微笑だ。
 ナシィもその背に同じ表情を向けている。
 しかしそれはすぐに消えた。
「…ですが、手遅れだったのは事実ですね。」
 呟きは重かった。
 打ち捨てられた無残な遺体。形を失くした顔の中で、虚ろな眼窩は宙を見ていた。
 その目が最期に見たのは何だったのだろうか。恐怖か怒りか―あるいは絶望か。
 うつむくナシィの顔に、何か冷たいものが当たった。
 思わず顔を上げる。ミーアが濡れた手を自分に向けていた。指を弾いて水滴を飛ばしたのだろう。
 いたずらをする子供のような瞳。たった一つの瞬きを境にそれは変わる。
「それを今言っても仕方ないでしょ。」
 向けた眼差しは冷静だった。
 かすかに苛立ちを交えた表情の中で厳しい瞳がナシィを見つめている。
「死体の様子を見れば、彼女が死んでもう相当な日数が経っていることは分かるわ。恐らくはあたしたちがここに来る以前に彼女は殺されていた。…冷たい言い方をするならば、彼女の死はあたしたちの責任じゃない。」
 確かに言葉には冷たさを感じたが、それは厳然たる事実だった。
 自分たちがジンスから仕事を請けたのはつい昨日のことにすぎない。一応、村に来てからならば一週間が経ってはいる。しかし遺体の様子は死後二週間以上も経ったものだった。つまり、プリーヤが殺されたのは恐らく失踪したその日のうちだと思われるのだ。
 だから自分たちは彼女の死には責任がない。―だが同時にそれは、今までの努力は何の役にも立っていなかったことも意味していた。
「…そうですね。」
 ナシィは沈黙を挟んでただ一言だけ答えた。
 その仕草をミーアはわずかに眉をひそめて見ていた。
 ただ、声をかけることはなかった。
 おもむろに振り返って窓の外を見る。
 まだ昼を過ぎて少しといったところだ。差し込む光は強く、短い影は地面にほとんど姿を映さない。
 照らされた大地が光を弾いて目を灼いた。
「あとは、セインね。神殿に行ってるはずだけど…。」
 そこまで呟いた時、ミーアの表情は曇った。
 再びナシィの方に向き直る。
 顔を上げたナシィに、ややひそめた声で問いかけた。
「…そういえば、盗賊との裏取引の話は村ぐるみみたいだけど。ここの神官はどうしているのかしら?」
 その言葉を聞き、ナシィもはっとした顔を見せた。
 神殿の者もこの事実は知っているのだろうか。それは彼らの教えにおいて認められるものではない。
 ライセラヴィの教えは魔とともに悪を強く否定する。盗賊の力を借りて自分たちだけが救われようというこの村の行動を肯定するとはとても思えない。
 知らないというのがまだ妥当だった。
 だが、知っていてあえてそれを黙認しているとしたら…。
「知っているはずがないと、思いますよ。」
 考え込んだ末に、自分の希望を交えつつナシィはそう答えた。だがその響きにはどこか不自然さが残った。
 それを感じ取ったミーアがいよいよ表情を険しくする。
 もう一度、窓の外を見つめた。
「…だと、いいけど。」
 セインはまだ帰ってこない。神殿で長話でもしているのだろうか。
 それはいったいどんな内容だろうか?
 窓の向こうからは、単調な蝉の鳴き声が繰り返し響いてきていた。


 影に染まる部屋の中。
 夜ではない。窓の向こうの光はまだ昼の強さを保っている。
 だがその窓を閉ざした空間においては陽光さえも届かなかった。布越しの光はおぼろげにしか世界を照らせない。
 その中では一人の女性が眠っていた。
 痩せ衰えた体。緩やかに組まれた腕は折れそうなほどに細い。
 ただその顔は幼女のようにひどく穏やかだった。
 傍らに座る姿が、その頬をそっと撫でた。
 たった一度。そして手は離れた。
 浮かび上がるのは老人の横顔。
 向けた表情は暗がりの中で笑っているかのようだった。
 声が洩れる。
「…決めたよ。今更何もかもが遅いのだろうが、それでも…。」
 震えた言葉はそこでかき消えた。
 唇だけに浮かぶ笑み。それは小さく、またひどく哀しいものであった。


第二章 Contract.〈後〉

第二章 Contract.〈後〉

 動き始めた時間は彼らに立ち止まることを許さなかった。
 今日も空は青い。
 夏の太陽はその光を分け隔てなく、また容赦なく世界に注いでいた。
 それはただ中に一人立つジンスの姿をも露わにしていた。


 セインが遅くに帰ってきた時、最初に告げた言葉はこうだった。
「明日、プリーヤさんの葬儀が行われます。」
 席を立とうとしたナシィとミーアはその言葉に体を止め、セインの目を見つめた。
 言葉の意味は分かる。だが、セインの口調には単にそれだけではないという雰囲気があった。
 セインは一旦目を閉じ、もう一度二人を見つめ返して言った。
「その時に、自分にもやるべきことがあると言いました。」
 静かな言葉はそこで切られた。
 動かずにいた二人が改めて座り直す。
 ミーアは視線を手元に落とし、眉間に小さく皺を寄せて呟いた。
「やるべきこと…何をするつもりなの?」
 セインも自分から歩み寄って席についた。
「分かりません。ただ、やるべきことだと言うきりでした。」
 首を横に振った。
 その表情が影になって見えにくくなる。
 窓の向こうはようやく訪れた夕闇に少しずつ光を失っていた。もう少しすれば店主が灯りを燈しに来るだろう。
 互いに沈黙する。短い間を挟んで、ナシィが確認のために問いかけた。
「ジンスさんが神殿を訪れたのですか?」
 セインは顔を上げた。
「はい。そして、私たちにそれを告げられました。」
 うなづき、何があったのか説明をした。

 真実を話し、セインが泣き崩れてからしばらく。
 抑えてきた胸の内をソロボに全て語って、ようやく落ち着いた頃だった。
 この裏手への通路の扉を叩く小さな音が聞こえた。
 それはひどく小さな音だった。いつから聞こえていたのかも分からないほどに。
 慌ててケップが出ていく。
 向こうの扉が開く音と同時に、彼のものらしい驚きの声が聞こえた。
 セインとソロボが訝しむ中で部屋の扉が開かれた。
 そこに立っていたのは、鋭い目で自分たちを見据えるジンスだった。
 突然のことにセインらが一瞬言葉を失う。だが彼は表情を変えることもなくただ告げた。
「明日、プリーヤの葬儀を行う。準備は全てこちらでする。昼過ぎに家に来てくれ。」
 それだけ言うと、すぐさま踵を返した。
 去ろうとするその背に声が飛ぶ。
「待つんだ、ジンス。どういうつもりなんだ?」
 立ち上がったのはソロボだった。席を立って歩み寄ろうとする。
 ジンスは扉の向こうで足を止めた。
「…やるべきことがある。俺がやらなければ、いけなかったんだ。」
 呟くかのような声が聞こえ、そして扉が閉ざされた。最後に一瞬見えたのはかつて見たのと同じ暗く冷たい目だった。
 ソロボは扉に手をかけたが、そこで動きを止めた。
 数秒立ち止まった後に振り返る。そのまま、自分を見つめる二人の視線には構わず再び席に座った。その表情はまるでただ独りで何かを抱えるかのようであり、先ほどのジンスが見せていたそれに少しだけ似ていた。
 正面に座るセインは口を開いた。
「ソロボさん、きっとあの方は…。」
「いや、何も言わんでいい。」
 言葉は遮られた。ソロボは首を横に振ると、視線を落としたまま呟いた。
「…ようやく、来るべきものが来たということなんだろう。」
「来るべきもの?」
 セインが問い返す。
 だがソロボはそれには答えようとはしなかった。静かに瞳を閉ざす。
 数瞬後、突然にその目をセインに向けた。
「すまんが、今日はもう帰ってもらえないか?」
 現れた瞳は鋭かった。
 セインが戸惑う。その様子を見てソロボは表情を和らげた。
「いや、ジンスが葬儀をするというのならこちらも色々と準備が必要になるのでな。」
「ならば私もお手伝いします。」
「…それには及ばんよ。それに、セインさんはそろそろ戻った方がよいのではないかね?」
 ソロボが窓の外を示す。見れば、道に印された影が向きを変えていた。その姿も長い。
 宿で三人と別れたのはまだ昼頃だったはずだ。いつの間にかかなりの時間が経過したことになる。それは、神殿への報告として出ていったにしては長すぎる時間だった。
 セインは頭を下げた。
「すみません。…それでは、一旦失礼します。」
 席を立つ。
 それに重ねるようにしてソロボは言った。
「ああ。できるなら、ジンスらを頼む。恐らくそう問題はないとは思うが…。」
 椅子を戻すわずかな間を挟んでセインは答えた。
「はい。」
 顔を上げた先にあったのは、ソロボの微笑みだった。
 だが、その顔色はどこか沈んで見えた。

「…というわけです。」
 ジンスが現れてからのことを一通りセインは説明した。
 窓の向こうは更に暗さを増している。夜の色が空を染めつつあった。
 ミーアが外を見つめ、呟く。
「ようやく来るべきものが来た、ねえ…。」
 視線は神殿の方向に向けられていた。もちろん、立ち並ぶ家々のためにその姿はここから見えはしない。
 ナシィが静かに言葉を続ける。
「そして、ジンスさんは『やらなければいけなかった』と言いましたよね。」
 念を押すようにセインを見つめる。
 うなづきが一つ答えとして返ってきた。
「葬儀を行う理由はきっと、娘の死が確認されたからでしょうけど…それだけじゃなさそうね。」
 その直後にミーアが間を置くことなく言った。
 はっとしてセインが顔を向ける。いつの間に視線を戻したのか、細く鋭い瞳が自分を見つめていた。
 ナシィも首を縦に振る。
「ええ。何より、あまりにも早すぎます。」
 プリーヤの死を告げてからまだ半日も経ってはいないはずだ。この行動の速さは何か急ぐ必要があるとしか思えなかった。
 だがその理由は分からない。
 ミーアは再度手元を見つめ、それから二人を順に見て問いかけた。
「一度、ジンスの所に行って話を聞きたいところだけど…。」
 語尾は消えた。席を立つ様子もない。ただ、口にしただけだ。
 ややあってからセインが小さな声で答えた。
「ですが、今日は避けた方がよろしいのでは。…なるべくならですが。」
 その視線は無意識のうちに下げられている。
 思い出されるのはあの時、残酷な真実を知らせた時に最後に聞いた言葉だ。嗚咽と共に放たれた叫び。
 だが神殿に現れた時にはその目は既に乾いていた。冷たい瞳は触れられることを拒絶するかのようだった。
「確かに今日はもう遅いですね。それに葬儀は明日の昼からなのでしょう?午前中に伺えばいいと思いますが。」
 夕闇に包まれた外を一瞥してナシィはそう口にした。
 ミーアからも目を閉じてのうなづきが返ってくる。
「そうね…それに、葬儀を実行するというのまで止める気はないから。ただ…。」
 そしてその目を開いて、はっきりと言った。
「ただ、彼女の死が明らかになるのだから―村の中で動きが起きるとは思うけどね。」
 視線だけが窓の外に一瞬向けられる。
 今まではプリーヤは家出と考えられており、だからこそ村の中には奇妙な無関心が存在していた。
 それが覆される時が来たのだ。
「…来るべきものが、来た、か。」
 一言。
 ミーアはその言葉を何気なく口にした。
 だが、それが背負うものゆえに、言葉は三人の中で奇妙に重く響いた。
 脳裏をよぎるのは一つの疑念。ソロボは一体何を言おうとしたのか―神殿は真実を知っているのか?
 沈黙が生まれる。その中に聞こえるのは部屋の外の音、一声鳴いて飛び去っていく鳥。
 答えはどこからも返ってこなかった。

 間を置いて、セインが顔を上げた。
 その表情にはどこか装ったような明るさがあった。
「そういえば、イディルスさんはどうされたんですか?」
 何気ない問いかけ。が、答えはなかった。ただし今度は沈黙の質が先ほどとは異なり、ナシィとミーアはどこか気まずそうな表情で不自然に視線を外していた。
 セインは一瞬戸惑い、次いで何かがあったということを察した。しかし内容までは分からない。
「すみません、何があったんでしょうか…?」
 恐る恐るといった様子で口を開くセインに、ミーアは苦笑した。
「いや、ちょっと派手に喧嘩したのよ。まあ明日にはもう元に戻ってると思うから。」
「そうですか?」
 思い出したあの時の彼の様子に、ナシィは横から口を挟んだ。
 ミーアが頬杖をついて顔を向ける。唇にはうっすらと笑みがあった。
「今は頭に血が上ってるだけよ。冷静になれば分かるでしょ、少なくとも今すぐ動くのは得策じゃないって。」
「…そうですかね。」
 微妙に納得がいかない部分もあったが、相槌を返す。
「まあ明日の葬儀の話もしなくちゃいけないし…後で直接あたしの方から言っておくわ。」
 そう言ってウインクを一つ。
 見せられたその仕草に、ナシィも同意をするしかなかった。小さなため息を洩らしつつも苦笑で答える。
 横では何となく雰囲気だけは分かったセインも小さく笑っていた。
 それらの仕草を見てミーアが微笑む。
「…ま、何はともあれ安心したわ。」
「え?」
 視線は二人に平等に向けられていたが、その言葉に対し首を傾げて尋ねたのはセインだけだった。
 ミーアはそれとは分からせないほどのさりげなさで彼女の方へとその目を向けた。
「神殿に行くまでは顔色が悪かったみたいだけど、元に戻ったから。」
 答えるその表情は穏やかだった。
 セインは一度目を瞬かせ、そして笑った。
「…ええ。」
 現れた微笑みは本来彼女がもつ優しさを取り戻していた。
 さっきセイン自身が語った話では詳しいことは省かれていたが、神殿で行われた長い会話がきっと癒しとなったのだろう。
 同様に思ったナシィも穏やかな微笑を見せる。
 その横では、ミーアがこっそりとナシィにも目を向けて、やはり安心したかのような笑みを浮かべていた。


 そして夜。とはいえまだ宵の口、眠るには早い時間。
 そんな時に、ランプの一つも持たずにナシィは宿の廊下を歩いていた。
 窓から差し込む光が辺りを照らしている。月明かりよりも家々の窓から洩れる灯の方が強い。だがそれでも闇を消すには小さく、視界の端々は黒く染まっていた。
 陰影に彩られた表情は静かだ。切れ長の瞳は真っ直ぐに行く道を見つめている。
 その足が止まった。ミーアとセインの部屋の前に立つ。
 顔を上げ、扉を叩いた。
 それはすぐに開かれてミーアが姿を見せた。
 ナシィの顔に一瞬安堵が浮かぶ。それに目ざとく気づいたミーアは訝しんで問いかけた。
「何?」
「あ、少しよろしいですか。」
 今ここで答えるつもりはないらしい。ミーアはとりあえずうなづいた。
「まあいいけど…セインも?」
「いえ、ミーアさんだけです。」
 安堵は、先にセインではなく自分が出てきたからのものだったようだ。
 ミーアは部屋を振り返って中のセインに一声かけると、ナシィの後についてその場を離れた。
 向かった先はナシィの部屋だ。扉が開き、連れられた客が通される。
 ランプが燈された部屋はそれなりに明るかった。
 机を挟んで二人は席につく。風通しの良い窓の前で薄いカーテンが揺れていた。
 先に口を開いたのはナシィだった。
「わざわざすいません。一つ、頼みたいことがありまして。」
「セインには秘密に、でね。」
 放たれたミーアの言葉は鋭かった。
 だがナシィはそれには何も答えなかった。真面目な目でミーアを見つめるだけだ。
 ミーアは一旦目を閉じた。しばしの沈黙を経てその口を開く。
「…いいわ。話を聞かせて。」
 そして瞳を開いて見つめ返す。その言葉の響きは穏やかだった。
 ナシィは素直に言った。
「明日、ジンスさんの所に行かれる代わりに神殿に行ってきてくれませんか?」
 口調はいつもと変わらないままだ。
 わずかな沈黙をもう一度挟んでミーアは言葉を返した。
「理由は?」
 向ける視線は静かながら真剣さをもったものだ。
「…神殿がどれほどのことを把握しているのか、確かめてきてほしいんです。」
 ナシィはそれだけ答えるとまた口を閉ざした。
 神殿が村の真実を分かっているのか。恐らくは何も知らないであろうセインに直接聞くことはできなかった。
 しかし知らねばならない。味方などほとんどいない今の状況で、彼らを信じてもいいのか。確かめる必要があった。
 ミーアは片手を上げ頭を掻いた。髪の擦れる小さな音とともに高い耳が揺れる。
 そして姿勢を戻し、はっきりと言った。
「それはあたしも考えてたわ。…でもどうしてあたしに頼もうと思ったの?自分で行ってもいいでしょうに。」
 微笑とともに、鋭かった声は普段のように少し軽いものになっていた。
 この態度の変化は同意を示すのだろう、そう思い安心したナシィの口元にも小さな笑みが浮かんだ。
「こういう会話はミーアさんの方が得意でしょう。僕が行っても言いくるめられてしまうかもしれませんよ。」
 苦笑交じりに答える。神殿を避けたい理由はそれだけではなかったが、とりあえずは明確な答えを返した。
「褒めてるんだかけなしてるんだか。」
 ストレートな物言いと揶揄するような響きは気を許している証拠だ。
 笑った後、ミーアは依頼に対してきちんとした返事をした。
「まあいいわ。ついでだからイディルスも連れていくけど、いいわね。」
「ええ。お任せします。」
 承諾に対しての礼として、ナシィが軽く頭を下げる。
 更にナシィはその頭を上げて言葉を続けた。
「―もうイディルスさんとは話をしたんですか?」
 この問いにミーアは首の代わりに手をかざして小さく横に振った。
「いや。でもまあ何とかするから心配はいらないわ。」
 そう答え、自分に言い聞かせたかのように一人うなづく。そして席を立った。
 合わせてナシィも立ち上がる。
「じゃ、ついでだしあたしはこれからイディルスの所に行ってくる。」
「よろしくお願いします。」
 一緒に出口に向かったナシィは扉を開けて手を添えた。
 その前を通過するかしないかの所で、ミーアはふと立ち止まった。
 横で見つめるナシィに顔を向け、一言告げる。
「…万が一の時は、よろしくね。」
 一瞬現れた表情はかすかに懸念を帯びていた。
「ええ。お互い様にですけどね。」
 答えるナシィの微笑みもまた、どこか似た心配めいたものを漂わせていた。
 扉を越えてミーアが振り返る。
 そこにあったのは、いつもの不敵な笑みだった。
「おやすみ。また明日。」
「おやすみなさい。」
 窓越しの夜空を背にして手を振るミーアに、ナシィも笑顔を見せた。


 道を歩いていると、自分たちに向けられる視線を感じた。
 まだ今は午前中だ。通りにいる人の多くはそれぞれの仕事の最中にあった。そんな中に不釣合いな気配。
 ナシィは振り返った。見知らぬ村人と一瞬目が合う。
 だが次の瞬間その男は急に目を落とし、再び作業を始めた。
 つい、ため息が洩れた。
「…どうかしましたか?」
 横からかけられた声にナシィは視線を戻した。
 隣に並んで歩いているのはセインだ。少し心配そうな表情で自分を見つめている。
「いえ…さっきから、こんなに注目を受けるのはどうしてかなと思いまして。」
 そう言っている間にも、進行方向のずいぶん先でこちらを見ていたらしい男性が慌てたように建物の影に姿を消した。
 繰り返される光景に少し嫌気がさす。ナシィはそっと視線を落とした。
 長い影が道の先に伸びていた。
 ―朝を迎えたナシィたちは、まず当初の予定通りジンスの家に向かうことにした。突然に葬儀を始めると言ったジンスの意図を直接聞くためだ。
 だが実際に今向かっているのはナシィとセインだけだった。
 ミーアは、ちょっとイディルスと話をしたいから宿に残るとセインに伝えた。そして確かにそのこと自体は嘘ではなかった。
 身支度を整えて宿を出たのがついさっき。
 異変に気づいたのはほんの数分後のことだった。
 いつものように村の道を歩いていたのだったが、しきりに気配を感じた。何度か振り返ったり辺りを見回したりするとすぐに分かった。
 村人たちが自分たちに注目をしている。
 昨日まではこんなことはなかった。時折視線を感じることはあったが、これは冒険者の存在が警戒されているこの村にあっては仕方がないだろう。だが今日は異常だ。露骨ともいえるほどの目に、ナシィはいつしか不安さえ感じ始めていた。
 隣を歩くセインも気づいてはいるようだ。だが、セインの表情にはそれらに対する不審の念はあまり見られないようだった。自分の取っている行動に強い自負を持っているからだろうか。
 それは分からなかったが、改めて聞くこともためらわれ、いつもより口数も少なにナシィは歩いていた。
 視線の先には並ぶ影が二つ。歩みに合わせて揺れている。
 夏の日差しは乾いた大地の上に、鮮やかなまでにはっきりと影を刻みつけていた。
 不意に、その一つが小さく動いた。
「ナシィさん、大丈夫ですか?」
 同時に聞こえたのはセインの声だった。
 少し体を傾げ、横から見上げるようにして自分の顔を覗き込んでいる。
 突然の行動に戸惑いつつナシィは小さく首を振った。
「ええ。…具合でも悪そうに見えますか?」
「少しですが。宿まで戻られますか?ジンスさんの所なら私一人でも行けますから。」
 善意以外何物も含まない親切な言葉に、慌てて首を横に振る。
「大丈夫ですよ。具合は悪くありませんから。」
 苦笑する。だが、この会話の最中にも感じた視線のせいかどこか張り付けたような笑みになった。
 それを目にしたセインが顔を曇らせる。
「ですが…。」
「体の方は大丈夫ですよ。」
 真剣に心配しているセインに対して、ナシィはきっぱりと答えた。
 しかし続く言葉では、声音が無意識のうちにどこか沈んだものになっていた。
「ただ…この視線が、どうにも気になって。」
 自分がいささか神経質になっているのを感じはするが、それが分かったからといって治まるものでもなかった。
 セインがそっと辺りを見回した。そして再びナシィの方を向く。
「視線、ですか。」
 周囲を気にしているかのような、ひそめられた声だった。
 ナシィは口には出さずにうなづきだけで答えた。
 セインから視線を外して前を見る。
 周囲からの目は更に増えていた。ジンスの家に近づくにつれてその数は増しているように思える。今や、通りにいるほぼ全ての人が自分たちに注目をしていると言ってもいいほどだった。
 あちこちで数人が連れ立って囁いているのも目にする。会話は聞き取れないが、その中で視線が向けられるのは分かった。
 肌にまとわりつくような不快感に足を速めたくなる。
 ここでこれだけの視線に晒されるのなら、ジンスの家にたどり着いた時にはどうなるのだろうか。
 強い不安を覚えながら、無言のままナシィは歩き続けた。

 ―その危惧は決して過剰なものではなかった。
 ジンスの家が見えてくるにつれ、その周りに集まっている人々の存在も見えてきた。
 三々五々になって遠巻きに囲む人の群れ。ナシィにはそれが、まるで死体を待つハイエナのようにさえ思えた。
 一瞬の後に自分の想像の不穏さに気づいて首を振る。
 ここまで来たのだからもう視線を気にしてはいられない。ナシィは顔を上げて真っ直ぐにジンスの家目ざして足を進めた。
 木を打つ高い音が耳に響く。誰かが木材でも使っているのだろうか。
 囲む村人の幾人かが近づいてくるナシィとセインに気づいた。互いに囁きを交わしつつ、自分たちから道を空けていく。
 人垣に入った亀裂を抜けて、二人はジンスの家にたどり着いた。
 そこにはただ一人で黙々と大工作業を行うジンスの姿があった。
 木に釘を打つ鋭い音が響く。それは周囲のざわめきをかき消すほどの強さがあった。
 ジンスは周囲を囲む村人たちを気にも留めず、一心不乱に作業を続けている。日を受ける背中には汗で濡れた服が張り付いていた。
 その姿が夏の陽炎にか一瞬揺らいで見えた。
 ナシィはもう一歩近づき、彼が作る物を見た。
 そして息を飲んだ。
 組まれているのは長方形の箱だった。白材の薄い板が木釘によって留められている。日の光を受けたそれは自ら輝いているようにさえ見えた。大きさは両手で抱えられるほどだろうか。人が入るには小さすぎるほどの。
 ―そう、それは棺だ。中に眠るべき死者をもたない空の棺だった。
「…ジンスさん。」
 言葉を放てずにいたナシィに代わり、セインが名を呼んだ。
 槌を打つ手が止まる。一瞬の間を挟んで、ジンスは振り返った。
 そこにはかつて見た一人の老人がいた。沈んだその瞳は、まるで全てのものを拒絶するかのように険しいものだった。
「…何の用だ。」
 しわがれた声が耳に届く。
 その態度の変化にセインは戸惑い、次に言うべき言葉を見失った。
 短い沈黙の間が訪れる。
 わずかに言葉を待ったジンスは、再び背を向けた。
「用がないなら帰ってくれ。今は忙しい。」
 再び木槌を振り上げる。
 堅い音が一つ響き、セインは自分を取り戻した。
「すみません。あなたが今準備されている葬儀のことについて、お話を伺いたいのですが…。」
 再度振り上げた手が止まった。だが振り向きはせずそのままの姿勢で答えた。
「…いいだろう。ここでは目がうるさい。中に来てくれ。」
 ジンスは立ち上がり、作りかけの棺を抱えた。周囲の好奇の目を全く気にすることなく家の扉を開く。
 その向こうは明るかった。
 かつて家の中を覆っていた闇は消え失せていた。開かれた窓が板張りの廊下を照らす。
 ジンスが、その奥へと入っていく。
 それに数歩遅れる形でナシィとセインも入り口をくぐった。
 扉を閉める。耳にまとわりつく雑音はようやく消えた。

 通されたのはいつもと同じ部屋だった。
 違いは、開かれた窓。差し込む光が部屋をくまなく照らしている。
 あの湿った重い空気は消えていた。代わりにあるのは乾ききった風だ。
 ジンスは荷を下ろすと通りに面した窓にだけ薄赤色のカーテンをかけた。陽を通した布は色が薄れたようにも見える。
 そして二人と向かい合う席に腰を下ろした。
 深い息を吐く。
「…それで、話というのは何だ。」
 最初に口を開いたのはジンスだった。
 この態度の変化にも多少慣れてきたらしく、セインは比較的落ち着いた口調で答えた。
「なぜ、急に葬儀を始めようと思ったのですか?」
 真っ直ぐに言う。だが机の上できつく組まれた指がその緊張を示していた。
 ジンスはそんなセインを一瞥し、答えた。
「あいつの死が確認できた、だから葬式を挙げることにした。それだけだ。」
 その声はあくまでも冷静だった。死者と直接の関わりをもたないナシィたち以上に。
 セインは息を飲み、それからようやく返事をした。
「…申し訳ありませんでした。私たちは何のお役にも立てず…。」
「いや。十分やってくれた。感謝している。」
 かけられた言葉はねぎらうものだった。
 だが、その響きはひどく無機質なものだった。感情が見えない形だけの言葉。二人を見る眼差しもまた同じく冷めたものだった。
 力不足を責められるのならまだ気持ちが分かる。娘を失った悲しみに心の安定を失ってもおかしくはない。だが、この冷静さは何だというのだろう。
 得体の知れない不安を感じながらも、セインは言葉を続けようとした。口を開く。
「あの、アフィリクトさんはどうなされましたか?」
 しかし出てきたのは本当に言いたい言葉ではなかった。
 ジンスの目が一度瞬きをするかのようにゆっくりと閉じられ、また開いた。
「親戚の所に今日一日だけ預けてある。葬儀が終わったら呼び戻すつもりだ。」
 その言葉には、確かに妻の身を案じての優しさが滲んでいた。
 少なくともその点では変わっていないようだ。…つまり、全ては始まりに戻ったということ。
 心を病んだ妻を守り、誰にも心を開かない、絶望を独りで背負った孤独な老人。
 何が彼を戻してしまったというのか。
 だがその問いには答えは一つしかなかった。全ての始まりにして悲劇となった、失踪した娘の死。
 ―そこには原因と結果だけが存在して過程が断絶していた。
 セインは息を吐いた。
「そう…ですか。それなら、安心ですね。」
 半ば反射的に答えを返していた。顔を伏せ静かに一人うなづく。
 ジンスの顔も見えなくなる。
 それは改めて見るまでもなかった。自分の胸に刻まれた、あの沈んだ顔。そして冷めきった瞳。
 だけど―望んでいたのは、決してこんな結末なんかじゃない。
「…ジンスさん。」
 顔を上げる。そこにいるのは、苦しみを抱えた人だ。
 自分は何のためにここに来ようとしたのか。この苦しみを、少しでも癒そうと思っていたのではなかったのか。例えそれが独善であり、自分が無力だったとしても。
 そうだ。まだ、何も終わってなどいない。
「どうして―」
 心を定める。ためらう必要などないはずだ。
 凍りついた静寂が破られる。
 セインはジンスの目を正面から受け止め、尋ねた。
「―何もかもを一人で背負おうとするのですか?」
 真っ直ぐな言葉と揺るぎない瞳。
 そして同時に、それは心から悲しむ瞳でもあった。

 乾いた空気はゆっくりと全てを灼こうとする。それはまとわりつくのではなく、無慈悲に何かを奪おうとするかのごとく肌を刺した。
 ジンスは目を閉じた。まるで、セインの瞳を避けるかのように。
「…決めたんだ。」
 ただ短い言葉だけが返ってきた。
「何を、決めたと言うのですか。」
 セインが静かに問う。
 ジンスの眉がかすかに動いた。だが、目は開かない。椅子に深く腰掛けたまま口だけで答えた。
「プリーヤはもう帰ってこん。…だから、例え誰が何を言おうと俺はあいつの死を悼む。それだけだ。」
「それは…いったいどういうことですか?」
 言葉が持つ不穏な響きに、セインは聞き返していた。
 だがその返答はなされなかった。
 ジンスはおもむろに席を立つと、脇の棚の上に置かれた棺を手に取った。背を向けたまま二人に告げる。
「もう話すことはない。俺は準備がある。帰ってくれ。」
「待って下さい!」
 反射的にセインは立ち上がった。
 だが、振り返ったジンスが見せた目に気圧され、その先を続けることはできなかった。
 静かでありながら決して揺るぐことのない強い瞳。それは痛々しいほどに冷めていた。残酷なまでに、狂ったかのように正気のままに。全ての思いをその内に抱えていた。
 再びジンスは背を向ける。
「…葬儀の用意は一人で行いたいんだ。」
 そう呟くとカーテンに手をかけた。
 一気に開く。差し込んできた眩しい光に、セインは一瞬目が眩んで動けなくなった。
 その肩を支えるように背後から手が添えられる。
「分かりました…僕たちにできることは、もう何もないのですか?」
 そっと触れた手。振り返るまでもなく分かった。いつの間にか立ち上がっていたナシィがジンスの背に声をかけていた。
 その言葉に混じって聞こえた気がした悔しさは、誰の、何に対してのものだったのか。
 ジンスは足を止めることもなくそのまま扉へと向かう。
 セインは動けなかった。ナシィの手は添えられているだけで束縛する力もない。前に出て追いかけるのは簡単だろう。
 だが、その一歩を踏み出すことができなかった。
 蝶番のきしむ小さな音と共に扉が開かれる。ジンスの姿がその向こうへと消えていく。
 最後に残るのは戸を支えた片手。節くれだった指が木を掴む。
 一瞬、動きが止まる。
「―もし頼めるのならば、正午からの葬儀に来てほしい。」
 言葉が聞こえたのはその時だった。
 同時にその片手も消える。
「は、はいっ!」
 セインは答えた。
 だが、半開きのまま止められた扉の向こうには、既にジンスの姿はなかった。


「…分かりました。だけど、あなたたちの言葉に全て従うつもりはありませんからね。」
 申し出に対してイディルスはそう返事をした。
「構わないわよ。とりあえずそっちが自重してくれればいいんだから。」
 そして話をもちかけたミーアもそう答えた。
 昨夜、ミーアは直接イディルスの部屋を訪れてこう言ったのだ。
 情報を早く手に入れたいなら自分たちと行動した方が得だと。
 もちろんイディルスは断り、自分一人でこの仕事を片づけてやるとまで言い放った。だがミーアの告げた事実に対しては反論することができなかった。曰く、盗賊のアジトの情報は近いうちにこちらに渡されるであろうこと。曰く、相手が複数なんだからこちらも一人より四人の方が妥当だろうということ。
 気持ちの面ではまだ反感が残っていたが、少なくともミーアの言い分は正論だ。だから仕方なくイディルスは再び手を組むことを選んだ。
 一方、彼がそんな精神状態のままで協力しての仕事を無事にできるかには不安も残ったが、勝手な暴走をさせるよりは手の届くところに置いておいた方がまだ安全だということは確かだった。だからミーアもイディルスの面倒を見る覚悟を決めた。
 そして今朝。ミーアはどこに行くかも告げずに、起きたばかりのイディルスを呼び出して宿を出た。
 セインとナシィは先にジンスの家の方に向かわせてある。その間にさっさともう一つの仕事を済ませる必要があった。
「…どこに行くんですか。」
 早足で歩くミーアにようやく追いついたイディルスが背後から尋ねる。
「ライセラヴィの神殿よ。少し調べたいことがあって。」
 速度を落とすことなくそのまま歩きながらミーアは答えた。
 大通り。立ち並ぶ家と道端の人々。そこにあるのはいつもと変わらない平穏な村の風景だ。
「今回の事件と神殿が、何の関係があるっていうんですか。」
 イディルスの言葉は吐き捨てるような調子だった。ミーアは小さく眉をひそめたが、幸い背後を歩く彼がそれを目にすることはなかった。
「…疑問に思わなかった?」
「え?」
 質問に対しイディルスの声音が少し変わる。
「この村の取引を、神殿は分かってるのかってことよ。」
 ミーアは周囲には聞こえないよう声を落として呟いた。とはいえこの賑わった通りの中では、自分たちの会話に注意を向ける者もそうそういないだろう。
 足音は相変わらず背後から聞こえてくる。横を並んで歩くつもりはないらしい。
「それは…。」
 聞こえた言葉に更なる返事を待ったが、イディルスはそれきり黙ってしまった。期待できそうにないので自分から話を進める。
「取引はもうかなりの年月続いてるわ。村ぐるみでやってることを神殿だけが知らないなんて、考えられる?」
「―待って下さいよ!ライセラヴィの神官がそんなの認めるわけないじゃないですか!」
「分かってるわよ。あそこの教えでは嘘とか不正とかを目の敵にしてることぐらい。」
「じゃあ!」
 イディルスの高ぶった声。ミーアは冷めた瞳のまま呟いた。
「でも神官の全てが真面目とは限らないけれどね。」
 再び沈黙。
 照りつける日差しの中、真っ直ぐ前を見て歩く。
 今日の道は人通りがやけに多い。あちこちから飛んでくる視線を無視して足を進める。
「…でも、そんなことはないと思いますよ。」
 イディルスの言葉には力がなかった。
 周囲から聞こえてくる声。喧騒という名の雑音が耳に障る。
「だから、それを確認しにいくのよ。」
「わざわざですか?」
 角を曲がって脇道に入る。裏を回れば近道だ。
 そして、人通りも少ない。
 家並みが道に落とした影の中を抜けていく。
「神官を味方として信じてもいいのか、確かめないと。」
 そう言ったミーアの目は、厳しかった。

 石造りの礼拝堂に人の姿はなかった。
 無人の聖堂を天窓からの透明な光が照らしている。灰色の石床は穏やかなぬくもりを帯びていた。
「…誰もいませんね。」
 見回してイディルスが呟く。
「奥にでもいるんでしょ。」
 ミーアの視線の先には、脇に作られた小さな木戸があった。
 迷わず歩いて、強く扉を叩く。少し待ってもう一度。
 二回目のノックの直後、奥の方かららしい足音が聞こえてきた。
「はい。あなた方は、確か…?」
 中から現れたのは若い青年だった。見覚えがあるが名前が出てこない。
「セインの旅の仲間です。少し、話がありまして。」
 そう答えるとすぐに奥に通された。
 通路に入って最初の部屋が控え室になっているらしい。生活空間らしく整ってはいるものの少し雑然とした感のある部屋で、机を挟んでそれぞれ腰掛けた。
「私はここで仕えております、ケップ・ウァベールと言います。」
 名前を聞いてようやくミーアはどこで会ったのかも含めて全部思い出した。村の中に買い出しに出かけた時に、セインと共にいた男性の神官だ。村の何位かの僧だと聞いていた。
「あたしは冒険者のミーア・ウィンドラス。そしてこちらが、この村で知り合った同じく冒険者のイディルスです。」
「イディルス・フォールハルディです。」
 名乗り返し、礼儀正しくきちんと一礼する。イディルスが自分たちとの初対面の時よりも丁寧に思えたのは気のせいか。
「それで、用件は何でしょうか?」
 ケップは何気ない調子で尋ねてきた。セインの話によれば、ここにはもう一人神殿長のソロボという高位僧がいたはずだ。
「すみませんが、ソロボ…さんを呼んでいただけませんか?大事な話なので。」
 目の前でケップの表情が曇った。
「今は休まれていますので、それはちょっと。話なら伝えておきます。」
「直接話したいのですが。」
「それは…今すぐには無理です。今夜なら大丈夫と思われますが。」
 それではわざわざ今を選んでここに来た意味がない。しかし葬儀の準備だってあるはずなのに、体調が悪いとは大丈夫なのだろうか。あるいはこれさえも嘘なのか。
 目の前の若い僧がどれくらい神殿の内情を掴んでいるのかは少し疑問だが、今ここでできる行動としては彼を追及することぐらいしかなかった。
 ミーアは一呼吸置き、考えをまとめた。
「分かりました。じゃあ、単刀直入にお聞きしましょうか…神殿は村の取引を黙認しているのかしら?」
 直接尋ねた。
 時間に余裕があるわけでもない。また、現在の状況を考えれば小細工を弄していてもあまり役に立たないだろう。プリーヤの死が明らかとなり葬儀が行われることも決まってしまった今、神殿側としても立場をはっきりさせなくてはならないはずだ。
 知らなかったのならそれでよし。この場で伝えればいいだけのこと。
 そして、知っていて隠していたのならば…その理由、また今後の動きを知る必要があった。
 ケップが息を飲むのが分かる。青ざめたような顔色は言葉以上に真実を伝えていた。
「…取引?何のことですか?」
 ごまかそうとする口調もどこかよそよそしい。不自然に逸らされた瞳は宙を見ていた。
「無理にごまかさなくてもいいわよ。」
「ごまかす、なんて…。」
「見てれば分かるわ。せめて不自然に目を逸らすのはやめた方がいいわよ。」
 ミーアの放った辛辣な言葉に、それまで不安定だったケップの目が戻った。
 警戒と疑いに満ちた瞳が睨みつけるようにミーアを見つめている。
「話の出所は見当がつくでしょうけど、だからといって彼らに対して何かをしたりとかはしないでね。」
「…分かってますよ。」
 怒りを交えてのその言葉に、ミーアは片眉を上げた。少なくとも彼は話を洩らしたジンスに対しては負の感情をもっていないようだ。
 ケップは苛立たしげに言葉を続けた。
「それで、何が言いたいんですか?」
「話が早くて助かるわね。」
 向こうの感情にはお構いなくミーアは答える。だがその目は、相手の様子を全て読み取るかのように注意深くケップに向けられていた。
「…まあ、目的の半分は神殿がこの取引を知っているのかの確認だったから達成したんだけど。」
 小さく肩をすくめ、息を吐く仕草。ケップの眉が動く。
「では、残りの半分は。」
 椅子に座ったまま、身を強張らせているのか体の方は微動だにすることなくケップは尋ねてきた。
 その姿を見つめミーアは問いかけた。
「何故なの?―ライセラヴィの教えはあたしよりもそちらの方が把握してるでしょ。破戒僧だとでも言うつもりかしら。」
 不正を許さないはずのライセラヴィの神官らが、村のこの裏取引を見逃してきたのは何故だったのか。
 見当がつかないわけではない。この村は奥まった位置にある。外部の冒険者が訪れることも少ない。そんな状態で村の安全を守ろうとするならば、盗賊を相手取るわけにはいかなかっただろう。例え冒険者を雇って撃退したとしても五年もすれば新たな盗賊団が居ついてしまう。逐一対抗していては村の財政も苦しくなるだろうし、そもそも都合よく冒険者がいつも来てくれるとは限らない。だから、村が取れる最善の選択肢は―共存だったのだろう。例えそれが最上じゃなかったとしても。
 ミーアのそんな思いをよそに、ケップは答えようとはしなかった。唇を噛んだまま口を開こうとしない。
「…おおよその見当はつくわ。他に手がなかったから、共存で村の安全を守ろうとしたんでしょ。」
 告げた言葉にも、うなづき一つさえ返ってこなかった。
 それともまだ隠された真実があるというのだろうか?
 ミーアがケップを見つめながら待ちの姿勢に入ろうとした、その時。
 突然の声が膠着しかけた場を叩き壊した。
「―それで恥ずかしくないのかよ。」
 深い底から響くような声。
 怒りを抑えようとしても抑えきれずに滲ませたまま、ケップに言ったのはイディルスだった。
 ケップがハッとしたようにそちらを振り向く。驚きかあるいは恐れか、見開かれた目に対してイディルスはその怒りに満ちた瞳を向けた。
「あんたたちのせいであの娘さんは死んだんだ。分かってるのか、あんたたちが取引をやめさせなかったから!」
 最初は呪うように、やがて激昂のあまり叫ぶように。今まで抑えてきたものが爆発したかのごとく言葉を迸らせる。
 握りしめて白くなった拳を机に叩きつけた。
「あんたたちが神の名を借りて、罪も無い少女を殺したんだっ!」
 ケップは答えなかった。それは答えられないからなのか、それとも答えようとしていないからなのかは分からなかった。
 ミーアの言い分はあくまで第三者的視点のものだった。そこからは当事者らの感情が意識的に除いてある。
 だが、イディルスの叫びはまさに当事者の訴えだった。その言い分は無理のあるものではあったが。少女が死んだのは盗賊によるものであり、神殿は取引を黙認していたにすぎない。それさえも、村人に手は出さないという条件があったからこそ認めていたものだったはずだ。
 ―しかし現実に犠牲者が生まれてしまった。その悲しみは、その怒りは、果たして誰が背負うべきものなのか。
「答えろよ、答えろよ!お前らが殺したんだろっ!」
 狂ったようなイディルスの叫び、だがミーアはそれを止めようとは思わなかった。
 彼が感じた怒りは、その現れや大きさこそ違えど、自身もまた胸に感じていたものだったから。
 立ち上がったイディルスは今にも掴みかからんと、その両腕を机を挟んで座るケップに伸ばした。
 指が襟を掴もうとする。
「お前らがあの少女を殺したんだっ!」
「―違う!」
 その手は、払い除けられた。
 立ち上がったケップが噛み切れんほどの強さで唇を噛みしめる。机に置かれた両手は、握りしめられたまま震えていた。
 うつむいていた顔を上げ、正面に立つイディルスを赤い目で睨みつけた。
「あんたらに何が分かるんだ…何が分かるって言うんだよ!」
「分かってないのはお前らだろ!」
「うるさいっ!余所から来たお前が、村の、ソロボさんの何を知ってるっていうんだ!」
 余所から来た、その事実を指摘されたイディルスの体が一瞬強張る。
 そのわずかな間にケップは叫んだ。
「出てってくれ!早くここから出てってくれ!」
「ふざけるな!お前らが―」
「それくらいにしなさい、イディルス。」
 ミーアは座ったままイディルスの手を引いた。
 振り返ったイディルスが血走った目でミーアを睨むが、それ以上に強い瞳でミーアは睨み返した。気圧されたイディルスが息を飲んだ隙に立ち上がる。
「…分かったわ。今日のところはこれくらいにしておく。騒いで悪かったわね。」
 ケップにかけられた言葉は硬い響きを宿していた。
 そして背を向ける。
 彼が絶叫の中で洩らした言葉。『ソロボさんの何を知ってるっていうんだ』―この村における神官のあり方を決めていたのは、やはり『彼』なのだろう。
 真実を求めるのならば、この若い僧ではなく神殿長本人に会う必要があった。今夜にでも。
 なおも何か言おうとするイディルスの手を強引に引いて、ミーアは扉へと向かった。背中を押すようにしてその体を外に出す。
 そして扉に手をかけ、振り返った。
 部屋の中にはうつむいたまま立ち尽くすケップの姿があった。未だその肩は小刻みに震えている。
 嵐の過ぎ去った部屋。
 ようやく訪れた静寂の中で、ミーアは彼に向けて静かに言った。
「あたしは神なんか信じてない。だから神官が何をしようと知っちゃこっちゃないわ。」
 ケップは顔を上げない。瞳を隠したままのその姿に、ミーアは告げた。
「だけど。セインは純粋に神の教えを信じてるわ。まだ気づいていない彼女を悲しませることだけは…許さないから。」
 弾かれたようにケップが顔を上げる。
 だが、その目が彼女を捉えるよりも先に、ミーアは扉を閉ざしていた。


 鐘の音が響き渡った。
 十二回、正午を示す音が鳴る。
 ナシィは空を見上げた。
「…時間ですね。」
 青い空。太陽が天頂に見える。眩しさに目を細める。
「そうね。とうとうその時が来た、かな。」
 隣に立つミーアは、視線を空へと向けることなく言った。
 見つめるのは正面。辺りにはここへとやってきた村人たちが集まっている。
「葬式にはみんな来るんですね。今までは何もしてなかったのに。」
 イディルスも彼らを見つめたまま、ほとんど無表情で呟いた。
 ―プリーヤの葬儀。本日正午、ファミル家前にて。
 近隣の家にのみ伝えられたはずのその知らせは、わずか半日で村の中を駆け巡った。
 正午を迎えた現在、ここファミル家前には多くの村人が集っていた。概ねが喪の意を示す落ち着いた色合いの服をまとい、騒ぐことなく炎天下の中に立っている。
 だが、決して大きな声ではないが繰り返される囁き声が、まるで地を這うかのようにその空間にまとわりついていた。
 ナシィたちはジンスに呼ばれ、この葬儀に参加することになった。
 だがジンスは詳しいことは何も語らず、ただ彼らを家の脇に立たせただけだった。その意図も理由も明かさぬままに。
 ゆえに何をするでもなく立っている冒険者の姿に、村人の好奇の目は集中していた。
 当のジンスは儀式用に運ばれた台の前で神官であるソロボと最後の打ち合わせをしている。側には助手を務めるケップと、更に手伝いを申し出たセインの姿もあった。いずれも通常とは異なり儀式用の装飾のある服を身に着けている。
 やがて話がまとまったところで、ケップとセインは脇へと下がり、ジンス、その一歩後ろにソロボの二人が村人たちの正面に立った。
 黒の喪服に身を包んだジンスと白の神官服に身を包んだソロボ。
 背後には白木で作られた小さな棺を備え、ジンスは空を見上げた。
 雲一つ無い青空。灼熱の太陽が大地を照らす。その光は老人を包んだ。
 時は訪れた。
 ただ一人、立ち尽くす黒い影。
「―本日は、我が娘のプリーヤの葬儀にお集まりいただき、真にありがとうございます。」
 乾いた声が響いた。
 その瞬間、周囲の動きと音が止まった。
 ジンスの告げた開式の辞。今をもって、プリーヤの葬儀が始まった。

 挨拶は簡素に済ませ、ジンスはすぐにソロボと交代した。
 村の神事を司る神官長が正面に立つ。脇には二人の神官がつき従う。
 鎮魂の祈りを捧げるよう村人らに告げ、ソロボは杖をかざした。
 聖句の詠唱。折り重なった三つの声が、静寂に包まれた人の輪の中に広がっていく。
 言葉に応じてナシィも目を閉じた。
 彼自身はライセラヴィの教えを信仰しているわけではない。だが、死者に捧げられる祈りは皆同じはずだ。
 声には出すことなく自らの言葉で祈りを伝える。悲しき犠牲者に、哀悼の意と誓いをこめて。
「光よ(リト)。」
 生命を守り、慈しむ光。
 それは時にこの世界に宿るものとされ、時に神の力の現れともされる。空から注ぐ日差し。全ての命を祝福し育てていく力。闇を払い大地を照らす輝き。
 全ての命あるものに、加護を。
 そして命ありしものに―。
「…どうか慈悲を。」
 光が照らす中、その祈りの言葉もまた空へと昇っていった。
 杖が大地を打つ小さな音と共に、詠唱が終わる。
 ナシィは目を開けた。そこには、死を悼み、生者を守る神官が立っていた。振り返った彼らは村人を見つめていた。
 聖句の詠唱に続いては死者との別れが執り行われた。
 まずは父親であるジンスが棺の前に立つ。
 その棺は明らかに小さい。中に眠る者がいないのは一目で分かるだろう。もちろんそれを作ったジンス自身がそのことを一番よく知っているはずだ。だが彼はまるでその中に娘がいるかのように、そっと顔を近づけた。
 静かな別れの言葉。それはこの静寂の中にあってもなお、誰の耳にも届かないものだった。
 次いでジンスに呼ばれたのがナシィたちだった。周囲の戸惑いに対し、ジンスはこう告げた。
「彼らは俺が雇った冒険者であり、プリーヤの死を確認した者だ。だから、娘と別れを告げてもらいたい。」
 村人の前で初めて事実が伝えられたが、これは既にほぼ予想がついていたことだったために、周りにはわずかなざわめきが生まれただけだった。
 ソロボに導かれて順に棺の前に立つ。
 それぞれ、鎮魂を、そして仇を討つことを誓い、別れとした。
 三人の次には親戚が呼ばれ、更に集った村人の中で希望者が別れをしていった。
 だがここにいる村人の多くはプリーヤと個人的な付き合いがなかったのだろう、呼びかけに応じて前に出た者は数えるほどしかいなかった。

 別れの儀式を終え、これで最低限行われなければならない儀式が終了したことになる。
 ソロボは台の脇に下がり、再びジンスが村人の前に立った。
 その表情は静かであり、穏やかともいえるほどに落ち着いていた。伏せられた瞳の色を外からうかがうことはできない。
 更に一歩前に出る。
 自分を囲む村人に向かって、ジンスは口を開いた。
「改めて言おう。今日、ここに集まってくれた皆に感謝する。」
 深く一礼。周囲は黙ったまま、視線だけを向けている。
 ジンスは振り返ると、背後に向かった。
 安置された棺。その小さな木の箱を無造作に掴むと、再び村人に向き直った。
 辺りにかすかな戸惑いが生まれる。
「…見て分かるだろうが、この棺の中に娘はいない。」
 箱のふちに手をかける。意図に気づいたケップがやめさせようと一歩踏み出したが、それを制したのはソロボだった。
 釘止めされていない蓋は簡単に外れた。
 中に日の光が落ちる。映し出されたのは、たった一つの小袋―冒険者たちが森の中で見つけた、唯一ともいえるプリーヤの形見だった。
 周囲にざわめきが広がっていく。だが、事情を知るナシィらはそれを静かに見守っていた。そしてソロボもまた。
 箱の内側を見せたまま、ジンスは言葉を続ける。
「遺体は森の中。彼らに埋葬をしてもらった。損傷がひどく、持ち帰ることはできなかったそうだ。」
 その言葉に改めてナシィらに目を向ける者は多くはなかった。
 ジンスはここで言葉を切り、箱の蓋を閉ざした。
 棺が閉ざされる。
「―娘は、家を出たすぐに亡くなっていたんだ。」
 真実は極めて自然に告げられた。
 人々が息を飲む。
 ジンスは目を見開いた。この瞬間、それまで淡々と語っていた彼の様子に初めて変化が生まれた。
「誰もが言った。単なる家出だ、お前がうるさくしすぎたからだ、森で盗賊に襲われるわけがないと。」
 その口調が内心の感情を露わにした険しいものに変わっていく。
 思い当たる節があるのだろう、気まずそうな顔をしてうつむく者が現れ始めた。いや、多かれ少なかれ、ここにいる全員がそれには関わっていたはずだ。
 だからこそこうして葬儀に興味をもって現れたのだから。
「だが実際はどうだ?森の奥深くにあいつが行く理由がどこにある?ましてや、ご丁寧にも俺の家に森の地図まで届けられたんだ。―間違いない、盗賊があいつを殺したんだ!」
 その叫びに答える者はいなかった。ある者は青ざめ、ある者は首を横に振り、ある者は無言のままジンスを見つめ続けている。
 ジンスは口を結び周囲を睨んだ。それは孤独な老人の瞳、誰にも心を開かないと決めた者の姿。
 再びゆっくりと語り出す。
「…突然言われても信じられない奴だっているだろう。だが、俺はもう奴等を信用しない。そもそも盗賊風情が取引を守るわけがなかったんだ。」
 そこまで言ったところで、再びジンスはナシィらの方を向いた。並び立つ冒険者に向けて高らかに告げる。
「ここで俺は依頼する。冒険者よ、森に潜む盗賊を退治してくれ!」

 ―全てが、明らかになった。
 ナシィたちをここに呼んだ意図。そして、彼自身の決意が。
 その言葉が響いた直後、周囲から声が上がった。
 村の取引を露わにし掟を破った男に対しての怒りの声だ。周りで無言を保つ村人の多くも、その思いに同意をするのかあえて止めようとする者はいなかった。
 だがジンスは怯まなかった。放たれた声の全てをそのまま受け止める。空の棺を手に村人の前に立ったまま、開いた瞳を向けていた。
 人垣に動きが現れる。それに応じ、それまでは背後で見守るだけだったソロボがジンスの前に立った。杖をかざし身構えさえしている。
 ナシィらも動いた。同様にジンスの元に集い、彼の意思に従うことを村人らに示す。
 ナシィは仲間に確認をすることなく走り出したが、振り返る必要はなかった。二つの足音はすぐ後ろをついてきていた。
 前に出ようとしていた村人の動きが止まる。力ある冒険者、そして村を守る神官が彼を守る行動をとったために、その一歩を踏み出すことができなくなった。
 膠着状態が生まれる。
 再びジンスが口を開いた。
「俺が話すことはこれだけだ。そしてこの茶番劇も終わりだ。さあ、用のない者は帰ってくれ!」
 空の棺に捧げた祈り。それは、真実を知る者にしてみれば滑稽な芝居にすぎなかったのだろうか。
 ジンスの叫びに応じて場を離れる者はなかった。村の行く末をも賭けたこの芝居にまだ幕は降りていない。結末を見届けずして帰るものは誰一人としていなかった。
 再び、場が静かになっていく。
 罵声に意味はない。ジンスの選択が覆らないことは誰もが理解した。だが、それを見過ごしては村に危険が訪れることになる。打開策を見出せない村人は沈黙するしかなかった。
 ―そして、その村人らの代表者が現れた。
 人垣に小さな動きが現れる。
 村人の中から前に歩み出てきたのは、一人の老人とそれに付き添う男性だった。
 小柄で腰のやや曲がった老人は木の杖を片手に立ち止まった。質の高い整った服装以外に彼を特徴づける物はない。背後には長い杖を手にした中年の男性が同様に立っていた。こちらはその杖と色豊かな髪によって魔法使い(メイジ)であることだけは分かった。
「…村長か。」
 その名を口にしたのはジンスだった。口調は険しい。
 村長と呼ばれた老人は顔を上げた。
「ジンス。どういうつもりだ?」
 声は決して大きくはない。だが、沈黙に包まれたこの空間においてはそれで十分だった。
「見ての通りだ。やめさせるか?だが、彼らは依頼を受けた。もう後には引けまい。」
 全ての覚悟を決めたがゆえに、揺るぎのない言葉が返される。
 村長は頭を振った。
「…早まったことを。」
 杖を握る手は血の気をなくしたかのように白かった。
 ジンスが一歩踏み出す。
「早まっただと?今まで何一つ動こうとしなかったくせによく言うな!今更何ができるというんだ。」
 彼はいつになく多弁だった。もう後戻りはできないという思いがそうさせるのだろうか。
「…彼女が亡くなっていると分かったのは、この葬儀の知らせが届いた今朝だ。」
「そうだったな、俺たち以外の全員は、あいつのことを単なる家出としか見なさなかったからな。」
 その冷めきった言葉に含まれるのはジンスとアフィリクトだ。彼女もまた、娘の行方に心を傷めていた。
 村長の瞳が静かにジンスを見つめる。わずかな間を置いて再び口を開いた。
「だが、殺されているという保障はどこにある?」
「―だったらどうしてあんな森の奥であいつが死ななけりゃいけないんだ!」
 落ち着いて告げられる村長の言葉に対し、ジンスは激昂した。
「獣に追われて逃げ惑い、奥へと入っていったのかもしれん。」
「地図はどう説明する。何故、今頃になって、俺の家に届けられたんだ?」
 だが村長の口調は冷静なままだ。
「冒険者を雇ったことぐらいは向こうも察したのだろう。だからあらぬ誤解を避けるため、死体をわざわざ捜して地図を印したのではないかね。」
「詭弁を言うな!」
 ジンスは叫んだ。
 だが、周囲の雰囲気はまたも変わりつつあった。村長の言葉にうなづき、再びジンスに冷たい目を向け始めている。
 それらを背後にして村長は杖を持ち上げ、先をジンスへと向けた。
「…よかろう。冒険者への依頼は認める。」
 その言葉に再び戸惑いが広がる。
 杖が下ろされる。ジンスは村長を疑いの目で見つめた。
「どういうつもりだ。」
「代わりに条件を出させてもらう。一つは、そこの冒険者たちにだ。」
 そう言うと村長は初めてナシィらに目を向けた。静かに告げる。
「ここでの行動の制限はしない。ただし、外部に盗賊の存在とこの村の取引のことを告げないでほしい。」
 それは村を守るために必要な条件。
「…それは、盗賊が生き残った場合ね。ただし向こうはあたしたちのことをどう捉えるかしら。」
 冷めた口調で答えたミーアの言葉には、村長は表情を変えることなく言った。
「私たちはこの冒険者とは無関係だ。そう告げよう。」
「虫のいい話だと思わないの?」
「だから、もう一つの条件を出すのだ。」
 腕組みをするミーアを見上げるようにして村長はその言葉を口にした。
「そちらの行動は制限しない。だから、こちらの行動も制限をするなということだ。」
 向けた瞳には確かに鋭い光があった。
「…村長、何をするつもりだ?」
 ジンスの問いに対し、再び村長が向き直る。
「私は今回のことは事故だと思っておる。それを証明するだけだ。後は、取引を守るために彼らにこのことを告げねばなるまい。」
「な…!」
 絶句するジンスに対し、村長は変わらぬ淡々とした口調で続けた。
「彼らが誤解を招く行動をとったのは事実だ。冒険者の行動を黙認するのは、その償いだと思ってくれ。ならば異存はあるまい。」
 静かに、だがこれに対する異論を許さないかのようにはっきりと言い放った。
 ジンスが歯噛みする。握りしめた拳は激しく震え、睨みつける瞳に怒りが露わとなる。
 ―だが、最後には首を縦に振った。
「…いいだろう。勝手にさせてもらう。」
 そしてナシィらに向き直った。
「それで構わないな。まあ、もうどうしようもないが…。」
 最後の言葉は弱く、呟くかのようだった。
 かすかに見えた戸惑い。それを打ち消すかのように、ナシィは深くうなづき、答えた。
「はい。」
 明確な意思表示。
 それを確認した村長が再び口を開いた。
「これで、それぞれの立場がはっきりしたな。」
 半ば独り言のように呟き、更に村人に向き直る。
「話は聞いていたな。さあ、葬式は終わりだ。帰りなさい。」
 閉式の辞を告げたのは村長だった。村人たちは互いに顔を見合わせたが、一人、二人とその場から去る者が出てきた。
 堤に入った亀裂のように、一旦出ていく者が現れるとそこから全員が去るまでには大して時間はかからなかった。
 最後に残ったのは村長とその付き添い、ソロボとケップ、ジンス、そしてナシィたち。
 集まった村人の全てを見送った村長が再びジンスに向き直った。
「では、私も帰らせてもらう。」
「…好きにしろ。」
 ジンスの呟きには答えず、それだけ告げると村長もすぐに去っていった。
 後に残されるのは当事者たち。
 ソロボがジンスの持つ空の棺に手を伸ばした。
「どうした?」
「例え中に本人がいなかろうと、棺をぞんざいには扱えない。これはきちんと埋葬させてもらうよ。」
 小さな棺は片手で持てるほどに軽い。ジンスは棺を手渡した。
「…すまないな。よろしく頼む。」
 うつむいたジンスの表情は、受け取ったソロボ以外誰にも見えなかった。
 茶番劇と言い放ったのは彼だったが、それは村人に向けたポーズだったのかもしれない。その口調は確かに娘を悼む父親のものだった。
 自由になった手を葬儀用にしつらえた台にかける。
 一息に装飾を引き剥がすと、古びた木の机が現れた。
「もう、これにも用はないな。」
 式は終わった。舞台ももう必要ない。
 すぐさま片づけを始めようとするジンスに向かい、ナシィは手伝いを申し出ようとした。
「―分かりました。あたしたちは一度宿に戻ります。夕方にはまた伺いますので。」
 だがそれを先に止めたのはミーアだった。
「ミーアさん、どういう…。」
「言いたいことは分かるけど今は待って。あたしたちは先にやるべきことがある。」
 振り向いたナシィに対しそっけなく答える。
 ジンスは手を止めて振り返った。
「分かった。話はその時にでも聞こう。」
「お願いします。では。」
 短く答え、ミーアはすぐに歩き出そうとする。
 だが足を止め、再度振り返った。
「―セイン、いらっしゃい。」
 その言葉に、それまで静かに立ち尽くしていたセインが顔を上げた。戸惑ったような目をミーアに向けている。
「ですが…。」
「いいからおいで。今はこっちに来なさい。」
「…はい。」
 きっぱりと告げられたミーアの言葉に、セインは視線を落として小さく答えた。そのままゆっくりと歩み寄る。
「それではまた。」
 今度こそ本当に別れを告げて、ミーアは歩き出した。その後ろをイディルス、そして更に一歩遅れてナシィとセインが並んで歩く。
 ナシィは最後に振り返った。
 そこでは片づけをするジンスとそれを手伝うケップの姿、そして自分たちを見つめるソロボの姿があった。
 遠くに立つその表情は見えない。ただ、動くこともなく真っ直ぐに自分たちを見つめていた。


 宿の入り口近くには野次馬めいた人の姿が幾つかあったが、無視をして四人は奥へと入っていった。
 さすがに部屋の側までやってくる者はいない。集会室兼自室に戻り、ミーアはまとっていたマントを脱ぎ捨てた。
「…嫌になるわね、この空気。」
 右手を小さく扇ぐように動かす。一筋の汗がその頬を流れた。
 それぞれが思い思いの席につく。先にベッドの上に座ったのがミーア。次いで順にイディルスとナシィが椅子に腰掛ける。ただセインは、ナシィが椅子を勧めたが黙って首を横に振っただけだった。
「…で、やるべきことって何ですか。」
 口を開いたのはイディルスだった。苛立ちが刻み込まれたかのように言葉にも張り付いている。
 その様を見たミーアは小さくため息をついた。
「まずは、待ちね。」
「なっ!」
 イディルスが目を丸くし、そして立ち上がる。
「待ちって、一体どういうつもりなんだよ!いつまでそんなノロノロした行動を取るつもりなんだ!」
 乱暴に下げられた椅子が床に当たり堅い音を響かせた。
「落ち着きなさい、イディルス。」
「あの村長の言い分を聞いただろ!もたもたしてたらヤツラに逃げられちまうかもしれない、さっさと行かなくちゃいけないんだ!」
「どこに?」
 短い言葉。厳しさを備えた瞳に見つめられ、イディルスが息を飲む。
「どこって、森に…。」
「アジトの場所はまだ分からないわ。幸い村長さんが連絡をしてくれるっていうんなら任せた方がいいかもしれない。結果的にその方が助かるから。」
 窓の外、村の一部を見下ろすかのようにミーアは呟いた。
「助かるって、どういうことですか。」
 多少は落ち着いたのか、イディルスは口調を戻して尋ねた。しかし席にはつかない。
 ミーアは振り向き、ちょうど三人に向けるようにして言った。
「昨日まであたしたちが行動を慎重にしていた理由は、一つにはプリーヤの身を案じてのことだったわ。」
「…結果的には何の役にも立ちませんでしたけど。」
 相槌を打つ代わりにイディルスは険しい言葉を挟む。
「彼女の死はあたしたちが仕事を請ける前のことだった。言い方は悪いけどどうしようもないわ。」
「…。」
 それは動かしようのない事実であるため、イディルスも黙ったままだ。
「で、もう一つの理由があったでしょ。覚えてるわよね?」
 問いかけるように視線を巡らす。ナシィは小さくうなづいて答えた。
「村人に危険が及ぶのを避ける、ですか…。」
 ミーアも首を縦に振った。
「そう。今幸運にもアジトの強襲に成功したとしても、生き残りが村に向かったらどうなると思う?犠牲者が増えるだけよ。」
「そんなこと、村長だって承知でしょう。ボクたちの邪魔はしないと言ったんだし。」
 そっぽを向いてイディルスが答える。その言葉に対して、ミーアは鋭い目を向けた。
「あんたはこれ以上不幸な犠牲者を増やしてもいいっていうの?第二、第三の彼女を作っても。」
「そういうわけじゃ…。」
 気まずい表情を見せ、イディルスが口ごもる。
 ミーアは再び三人に瞳を向けた。
「犠牲者を作らないで済むならその方がいいわよ。どれほど重大な目的があっても、手段を選べるなら選ばなきゃあいけないわ。」
「でも、待つっていったいいつまで待てばいいんですか?」
 イディルスは顔を上げるともう一度ミーアに向き直った。
「村長の連絡ですか?下手したら、その途端にヤツラはここから一旦逃げ出すかもしれませんよ。」
「まあね。ただ、多分もうすぐここに…。」
 ミーアがその問いに答えようとした時だった。
 部屋の扉が叩かれた。
 皆が扉に目を向ける中、ミーアは唇の端に笑みを乗せて立ち上がった。そのまま歩み寄って扉を開く。
「…ほら、思った通り。」
 開け放たれた扉の向こう。
 宿の店主に連れられて現れたのは、唯一の情報入手のつてであるレヴィシオンだった。

「…地図が作れない?」
 だが、もたらされたのは決して朗報ではなかった。
「はい。案内なら、何とかなると思いますが…。」
 沈んだ声でレヴィシオンも答える。
 盗賊のアジトの情報。それは辛うじて手には入ったが、決して望ましい形ではなかった。
 自警団には確かにアジトの情報はあった。だが、彼が知ることができたのは簡単なルートにすぎなかったのだ。
「一応一通りは頭に入れてきましたけど、完全な地図を描ける自信はありません…。」
 頼りなげなその言葉を耳にし、ミーアが眉をひそめる。
「それで案内は大丈夫なの?」
 語調の鋭さにレヴィシオンはうつむいた。
「…悪かったわ。情報を手に入れてくれてありがとう。責めるつもりはないから。」
 その仕草に対し、ミーアが弁解する。だが窓の外に目をやってほんの少しだけため息を洩らした。
 予想外の事態に戸惑う。本来なら地図を入手して自分たちだけで時期を見てアジトに向かえば済むことだったが、その計画は大きく狂ってしまった。村長側の行動、そして不完全にしか手に入らなかった情報のために。
「で、これからどうするんですか?」
 レヴィシオンが入ってくるのとほぼ同時に再び席に座っていたイディルスが、改めて尋ねる。
「約束通り待ちましたよ。で、情報も手に入りましたね。じゃあ後は行くだけだ。」
 ことさら見せつけるかのように身振り手振りを加えて意見を述べる。
「イディルス。まだ早いって言ってるでしょ。」
 皮肉めいたその物言いに、ミーアは不機嫌さをはっきりと見せて言葉を返した。
「まだ早い?―そんなこといつまで言ってるつもりですか!」
「人の話を聞いてなかったの?村人に危険を招いてどうするつもりよ!」
 怒鳴り声は真っ向からぶつかった。
 互いに睨み合い、次いできつく口を結ぶ。
 先に息を吐いたのはイディルスの方だった。
「村人ですか。女の子を見捨て、その家族も見捨てた人たちですか。何でそんなヤツまでボクたちが守らなきゃいけないんですか。だいたいボクたちの依頼人は…。」
 ―パシッ!
 言葉は、中途で遮られた。
 それは一瞬だった。一人喋るイディルスに対し、ミーアは一瞬で立ち上がるとその頬を平手で打った。
「…ふざけるんじゃないわよ。」
 抑えた声は震えていた。
 顔を打たれたイディルスは、その頬に手をやると驚いた目をしてミーアを見つめた。
「ふざけてません。…分かりました、やっぱりボクたちは手を組むべきじゃなかった。ボクは勝手にやらせてもらいますよ。」
 冷めた瞳さえ見せてイディルスは言い放った。
 打った手を下げ、ミーアは静かに尋ねる。
「別れるのは勝手だけど、じゃあどうするつもりなの。」
 その問いに対し、イディルスはレヴィシオンに目を向けた。相手の戸惑いにも構わずきっぱりと答える。
「アジトに向かいます。今すぐに。」
 太陽はまだ高い。夏の夜は遅い。日の光が残るうちに、目的地にはたどり着けるだろう。
「案内はできるんでしょう?お願いします、レヴィシオンさん。」
 席を立ち同意を求めるかのように片手を伸ばす。だがレヴィシオンはその場に立ち止まったまま動けずにいた。
「それは構いませんが…本当に、いいんですか?」
「いいわけないでしょう。」
 答えたのはイディルスではなくミーアだった。
 再び一歩前に踏み出す。
「そちらこそどうするつもりですか。ボクたちはもう無関係なんだ、行動を制限されるいわれはないですよ。」
 イディルスはそう言ったが、ミーアの様子にただならぬ気配を感じて一歩足を引いた。
 ミーアの手が動く。組み合いを警戒し、イディルスは身構えた。
 だが、その手が向かったのはイディルスではなかった。
 ミーアは自分の腿に留めた小袋から小さな瓶を取り出すと、親指で蓋を外しそれを振った。
 身構えるイディルスの顔に中身の液体が飛ぶ。
「!」
 反射的に目を閉じ、手をかざす。
 しかし次の瞬間、その足が崩れた。
「…な…。」
 床の上にわずかな飛沫と、飛ばされた瓶の蓋が落ちる。
 そのまま膝をつく。辛うじて見上げたイディルスの視線の先には、自分をただ見下ろすミーアの姿があった。
「悪いけど、あんたに勝手な行動をさせるわけにはいかないのよ。…ごめんなさい。」
 その言葉を全て聞く前に、イディルスはその場にくずおれた。

 瞬き一つする間の出来事に、その場の誰もが動けなかった。
 全てが終わって、ようやく我に返ったナシィがイディルスを抱き起こそうとする。
「イディルスさん、イディルスさん!」
 肩を揺さぶったが、その閉じた目は全く動かなかった。
「…眠ってるだけよ。明日には何の問題もなく意識を取り戻すわ。」
 その言葉にナシィが顔を上げる。ミーアは静かに二人を見下ろしていた。
「どうして、こんなことを…。」
「他にイディルスを止める方法があったと思う?これが一番ましな方法よ。」
 その答えには反論できなかった。意見は完全に決裂していた。もはや言葉ではイディルスを止めることはできなかっただろう。だが…。
 なおも自分を見つめるナシィに対し、ミーアは首を横に振った。
「…ただ、この子の言い分も分からないではないわ。」
 そして呆然と立つレヴィシオンに向かって告げた。
「明日の早朝―日の出頃にここに来て。出発するわ。」
 あっけに取られていたレヴィシオンは何度か瞬きをして、ようやく返事をした。
「わ、分かりました。案内すればいいんですよね?」
「ええ。地図が手に入るならそれに越したことはないけど、無理はしなくていいわ。下手をして謹慎になったりしたら元も子もないから。」
 依頼を伝えて手を振る。
「とにかくありがとう。じゃあ、また明日。」
 戸惑いながらも、レヴィシオンもまた礼をした。
「はい。皆さんも、お気をつけて下さい。では…。」
 扉が速やかに閉ざされる。その向こうで足早に去っていく音がかすかに聞こえた。
 部屋には再び四人だけが集う。
 ナシィはイディルスを抱えると、ベッドの方に引きずった。
 察したミーアが立ち上がって手伝い、眠る彼を横たえる。
「…明日なら構わないんですか?」
 ベッドの上から手を離してナシィは隣に立つミーアに尋ねた。
「それが我慢の限界でしょう。あたしだっていい加減嫌になるわよ。」
 言葉の端に苛立ちが見え隠れしている。
 横たわるイディルスに触れないよう気を使いつつ、ミーアはまたベッドに腰掛けた。ナシィも再び席に戻り、ついでに出されたままのもう一つの椅子を戻す。
「村長の動きがどれだけ早いのかは分からないけど、とりあえず今日一日は待ってやるわ。そうすれば言い訳は成り立つ。」
「では、村の人たちはどうするんですか?」
 ナシィは怪訝そうな顔を見せたが、平然とミーアは言った。
「こっちは待ってあげた。だから、向こうにも誠意を見せてもらわなきゃ。自分たちの身ぐらい自力で守りなさいってね。」
 片手を握り、拳を反対の手に打ちつける。
「しかし、お互い無干渉だというのが条件では。」
「邪魔さえしなければいいのよ。こっちの行動を伝え、自衛を促すぐらいは構わないでしょ。むしろ独断じゃないだけ感謝してほしいわね。」
 唇に浮かべた笑みはどれだけ本気のものなのか、その真意は見えなかった。
 そしてミーアは畳まれた布団をイディルスにそっとかけた。それを見つめ、ナシィは呟いた。
「…最初からそこまで話していれば、彼も暴走しなかったと思うんですが。」
 ため息を一つ。ミーアは苦笑した。
「聞く耳があったかは疑問ね。まあ、今回は事後承諾にしてもらうわ。本当ならこんな手も使いたくなかったんだけどね。」
 屈んで蓋を拾い、握りしめたままだった空き瓶を袋に戻す。
 その場に座ったまま窓の向こうの空を見上げた。
「…夕方にまではまだ少し時間があるわね。まあ、一度ゆっくりとして、明日に備えましょう。ジンスの所では話すことももうあまりないでしょうし。」
 空は青いままだ。雲の姿もなく、風の早さは見えない。
「ただ…。」
 呟き、ミーアは振り返った。ナシィも視線を移す。
 その先には、一人無言のまま立ち続けるセインがいた。
「…セイン。とりあえずの用件は済んだわ。これから、どうする?」
 落とされていた視線が上がる。二人を見つめ、静かに答えた。
「すみません。今日のうちに、行かせて下さい。」
 目的語はない。だが言うまでもなかった。
「構わないわよ。ただし、明日には…。」
「はい。明日の朝までには、必ず帰ってきます。」
 ミーアの言葉を途中から受け継いで答える。
 その瞳に迷いはなかった。ただ、哀しみが宿っていた。
 ナシィは席を立った。セインの前に立ち、その瞳を見て伝える。
「…すみません。また、あなたに苦しみを背負わせることになってしまって。」
 そっと頭を下げる。だがセインは首を横に振り、微笑さえ浮かべてみせた。
「いいんです。あの時から、決めた道ですから。覚悟はできています。」
 確かな言葉。そう答える口調にためらいはない。
 ナシィはもう一度頭を下げた。
「分かりました。…どうか、悲しみを一人で背負わないで下さい。」
 あの時かけられた言葉。今の自分がどれほどのものを返せるのかは分からない。だけど、できるのならば少しでも支えとなりたかった。
「―はい。」
 微笑む顔は、かつて見たものと同じように強くまた優しかった。
 ふと衣擦れに似た音がした。二人が振り向くと、ミーアが立ち上がっていた。
「セイン。あたしからもいい?」
「ええ。」
 一度視線を落としてから、改めて瞳を見つめミーアが告げる。
「多分、この話に唯一の正解なんてないわ。それだけは覚えておいて。」
 セインからの返事はなかったが、うなづきが返された。
「…冷たい言い方になるけど、教えにあるようなたった一つの正義なんてあたしは信じてない。多分それは、人によって、立場によって違うものよ。」
「…はい。」
 ミーアは一度そこで言葉を切った。それでもセインはじっと見つめ続けている。その瞳に宿る光に、曇りはない。
 言葉を選ぶかのように数回唇を小さく動かした後、再びミーアは告げた。
「そうね。自分の答えを探せばいいと思うわ。多分それで十分だから。」
 そう言って片目を閉じ、言葉を締めくくった。
 セインは再度うなづくと、深く頭を下げた。
「―ありがとうございます。じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
 二つの声に見送られ、セインもまた部屋から出ていった。
 閉ざした扉の向こうに小さな足音が消える。
 その扉を見つめながら、ミーアはまた小さなため息をついた。
「…結局、こうなっちゃったか。」
 再び腰を下ろしたナシィがその呟きに答える。
「仕方がなかったのかもしれません。いつかは明らかになることだったでしょうし。」
 手元に視線を移す。
 小さな間。
「本当に、これでよかったのかしらね。」
「それは分かりませんけれど…でも、もう時は来たんですから。」
 問いかけと返事。互いに目を合わせることはしないが、その思いの先は同じだった。
 二つの影は動かない。
「―来るべき時、か。」
 ぽつりと独り言のように口にして、ミーアは背を反らし視線を天井へと向けた。
 見えない風が窓を抜け、その髪を小さく揺らした。


 この村に来てからの日々が思い出される。
 ―それはわずか八日間の出来事にしかすぎない。最初の出会いは、神殿に向かう途中だった。偶然とも言える出会いがこの事件へと自分を導いた。
 手伝いを決意し、ケップと共にジンスの家を訪れた日。帰り道で彼が問いかけたのはこのことだったのだろうか。
 ライセラヴィの神官が真に守るべきもの。
 ソロボの教えでは、教義よりも実際にあるものを守ろうとしていると聞いた。
 その選択は旅立ちを決めたあの時の自分と同じはずだ。
 だが、その行く末にあったものは…。
 石突が大地を打つ。セインは立ち止まった。
 目の前には神殿の入り口がある。既に彼らは戻ったのだろう、礼拝堂に人の姿はなく机の上に葬儀用の装飾が置かれているだけだった。
 中に足を踏み入れる。白い日光は斜めに床を照らしていた。
 机の前に立ち自分の身に着けている借り物の飾りも一つずつ外していく。一つずつ、机の上に並べていく。
 選んだ道に後悔はない。迷いはない。
 今、向き合っている現実。それはいずれは自分が見つめねばならないものだったのかもしれない。
 唯一の正解はない。たった一つの正義はない。ミーアの言葉が脳裏をよぎる。
「…それでも。」
 それでも、間違いは存在していると思う。
 ジンスの見せた哀しみ。あの涙は、あの叫びは。
 その哀しみを生みたくはなかったから―私は旅立った。
 机と飾りの触れる小さな音。
 最後の一つを置くと、セインは再び歩き出した。

 部屋にはソロボとケップの二人が待っていた。
「…こんにちは。」
「ああ、さっきはどうも。どうかしたのか?」
 ケップは普段と変わらない態度でセインを迎えた。その本心をうかがうことはできない。
 そして、正面にはソロボが座っていた。穏やかな瞳は真っ直ぐに自分を見つめている。
 呼吸を静かに一つ。
「お話があって、来ました。」
 一言告げる。
 ソロボはうなづくと、前に置かれた椅子を示した。
「待ってたよ。…座りなさい。立って話すには長いだろう。ケップもこちらに来なさい。」
 やはり、彼は全てを知っていたのだろう。
 セインはソロボの目の前に座り、彼と正面から向き合った。
 その瞳にあるのは慈愛。自分をいたわるかのような眼差しに、小さな胸の痛みを覚える。
 だが選んだ道を引き返すわけにはいかない。
 顔を上げその目を見つめる。口を開く。
「―全て、承知の上での行動だったんですね。」
 言葉の最初はかすかに震えた。
 村ぐるみの取引。神殿だけがそれを知らないということが果たしてありえるのか。…瞳を曇らせていたのは、自分の中の信じたいという思いだったのだろう。
 裏切られたとは思わない。彼らに選べる選択肢が限られていたことも分かる。過去を嘆いても、取り返すことはできない。
 ただ…悲しさを感じた。そしてその真の思いが知りたかった。
 神官として守るべきものは何なのか。そのために払われる犠牲は本当にどうしようもないものなのか。
 答えは、存在しないのか。
 この村の中で自分とは異なる道を選んだ彼が見出したものを知りたかった。
 問いかけるセインの瞳にためらいはない。
 そして、ソロボもまた視線を外すことはなかった。
 穏やかな微笑みに哀しみの色が混じる。瞳に重なる憂いはいかなる思いの現れだろうか。
「そう。…儂は自分でこの手段を選んだ。言い訳はしないよ。」
 答えは明確だった。包み隠さずに真実を告げる。
 分かっていたはずの言葉。それでもセインは、膝の上に置いた手を握りしめていた。
「犠牲のことも、全て見越してだったのですか?」
 この問いにはソロボは首を横に振った。
「いや…。まさか、娘さんが亡くなっているとは思わなかった。彼にはすまないことになった。」
 献身的にジンスとアフィリクトの世話をしてきたのは彼ら自身だ。恐らくはこの村の中で誰よりも、この家族のことを案じていたはずだ。
 だからこそ娘は生きていると思おうとしていたのかもしれない。
 …だが、現実は無慈悲だった。
「彼女の死について、どう考えていますか。」
「どう、とは。」
 言葉が足らなかったことに気づき、言い直す。
「彼女…プリーヤさんが亡くなったのは、何故だと思いますか?」
 ジンスは盗賊に殺されたと叫んだ。村長は事故死だと主張した。真実は未だ分からない。遺体を直接見てもなお、その死因は不明のままだった。
 ではソロボらはどう考えているのか。
「…儂は、事故死だと信じておる。それが本来の約束だ。」
 秘密を守る限り、盗賊は村人に手を出さない。それが取引だった。
 そして取引は、相手もその約束を守ることを意図してなされるものだ。だから相手を信じるしかない。
「そうかもしれません。…ですが、ジンスさんはそう思ってはいませんでした。」
 そうして村人の全てがただの家出と考えていた。相手を信じていた。唯一、少女の両親を除いて。
 だからこそ彼らは苦しみ、孤独にならざるを得なかった。味方を見つけることのできなかったこの村の中で。
「儂も説得はしたが、ジンスがそれを受け入れることはなかった。ましてやアフィリクトにいたってはまともに話のできる状態ではなかった。」
 とつとつと語る声音には痛みが宿る。
「では、どうなされたのですか。」
 それを感じながらも、セインは聞くことを止めることはしなかった。
 できなかった。
「…話し合いは平行線のままだった。だから、それに関しては結論を出すのをあきらめ、ただできる限りのことをしたよ。」
 ソロボが答えるまでには間があった。
 彼らのとった行動は間違ってないはずだ。説得を試み、それが叶わなければできる限りのケアをする。状況が同じならば自分もそうしただろう。
 だが現実に生まれたのは悲劇だった。それは防げなかったものなのか。
 ―悲劇を、最初にもたらしたものは。
「そうですか…分かりました。」
 セインは一度言葉を切った。ジンスらに対して取った行動。それについて責めることはできない。そのつもりもない。
 ソロボらは間違いなく彼らを守ろうとしていた。犠牲者を作ろうとはしていなかった。
 見つめねばならないのはそもそもの始まり。
 村が選んだ道。それが、本当に最善の道だったのか。
「過去について責めても何にもならないのは分かってますが、それでも聞きます。」
 汗ばんだ掌をそっと開き、組み直す。
「―どうして、取引を認めたのですか。」
 セインの赤く色づいた瞳は、村の神官長を見つめていた。
 夏の大気は神殿の中の空気さえも灼こうとする。
 ソロボは一度小さく咳をすると、机の上で指を組んだ。
 視線がその手に向けられる。
「…それが、最善の道だと思ったからだ。」
 呟きはわずかにかすれていた。
 セインは言葉を重ねる。
「正義に背を向け、神の教えに背いてでもですか?」
 ライセラヴィの教えにおいて不正は許されるものではない。盗賊との取引、その存在を許すことは自分たちの信じるものに対する裏切りだ。
「教えに背く、か。」
 そう答えたソロボの胸元に下がるのは、一位の僧の印。それは神の教えを信じ、神に仕えて勤めてきた者の証。
 金色のプレートは部屋の中でもなお小さな輝きを見せていた。
「盗賊団の存在を知りながら放置するばかりか、その盗賊行為をも止めさせなかった。…それが、許されることとは思えません。」
 ともすれば詰問するような口調になるのを意識して抑える。
 責めるつもりではない。ただ、その選択の理由を知りたいだけだ。
 旅立ちは急だった。あの時聞けなかった言葉。同じものは二度とは得られなくとも、その一片でも掴みたかった。
 セインの言葉に対し、ソロボは小さくうなづいた。
「その気持ちは分かる。確かに、かつては儂もそう思ったよ。」
 一つずつ、吐き出すかのような答え。放たれる声は独白にも似ていた。
「…だがそれは、理想論でしかないんだ。」
 その中にあっても、ソロボがセインを見つめた目はなお優しかった。
 向けられたその瞳はかつて見たもの。ここで泣き崩れたあの時に自分を支えてくれた眼差し。
 だが、もうそれに甘えることはできない。
 弱さを振り払い、正面から向き合う。
「理想を求めなくて、何を信じるというのですか。」
 セインはそう言い切った。
 神の教えは信徒が目指す理想そのものだ。
 進むべき道に背を向けた者に神官を名乗る資格はない、かつて教わったその言葉を今も信じている。
 揺るぐことのない瞳。それに臆することもなく、ソロボも答える。
「信じるのは神以外の何物でもない。―教えは、それを人が解釈したものにすぎないよ。」
 その一言は静かに放たれた。
 重なる記憶。
 セインは、一瞬言葉を失った。息を飲んだセインに対してソロボがそっと語りかける。
「そもそも、教えは何のために生まれた。神の目指すものを、我々もまた目指していくためではなかったかね。」
 それはかれ(・・)との永遠の別れと引き換えにようやく見つけた答え。
 かつて、自分もまた教えに背を向けたことがあった。悪とされる魔獣を自ら守ろうとした。
 若き狩人たちの声は今も耳に刻み込まれている。魔物殺しのライセラヴィ、それは盲目的に教えにすがっていた自分への戒めの言葉。
 忘れたことはなかったはずだ。
 胸元に手をやる。強く、自らの胸にかかるプレートを押さえる。
 ―そう、忘れてはいない。この村はあの地とは違う。彼らの平和は決して犠牲の上に成り立つものではなかった。
 セインは顔を上げた。
 自分を見つめるソロボに対し、答える。
「私もそう思います。だからこそ、理想に背を向けるわけにはいかないんです。」
 教えが二次的なものにすぎないというのなら。真に従うべきものを、常に目指さねばならない。
 ソロボは目を閉じた。
「理想か…。だが、誰もがそれを追い求めるわけではないんだ。」
 この村の中で生きてきた老神官は、そう言った。
 かすれた言葉が途切れる。
 神殿を旅立った若き神官は、瞳を逸らすことなく言葉を返した。
「…確かにそうかもしれません。」
 この村におけるライセラヴィの立場は強くない。教えが広がっているとは言えない。誰もが神の教えを信じているわけではない。
「ですが、だからといって我々までそれを見失うわけにはいかないはずです。」
 それでも、自分だけでもそれを貫かなくてはいけないはずだ。それこそが信仰なのだから。
 ソロボが目を開ける。
 おもむろに立ち上がると、振り返り、窓へと歩いた。
 かかるカーテンを引く。その向こうに広がるのは、村の景色。
「…だが、そのために犠牲をもたらすわけにはいかなかったんだ。」
 外を見つめたまま呟いた。
 盗賊との取引は、この僻地の村を守るため、犠牲を出さないために選んだ方法。
 確かに村は守られてきた。
 セインは座ったまま続ける。
「それでも、犠牲は生まれました。」
「プリーヤのことか。」
 それでも彼女は亡くなった。
 そしてそれだけではない。
「…いえ。彼女だけではなく、ジンスさんと、アフィリクトさんもです。」
 彼らもまた、取引の果てに生まれた犠牲者だった。
 ソロボが振り返る。
「そう…そうかもしれんな。」
 窓を背にしたその姿は影となり、表情は見えなかった。
 それは偶然がもたらした悲劇だったのかもしれない。本来予期していたことではなかっただろう。だが、彼らが取引ゆえに苦しんだことは紛れもない事実だった。
 いや。それだけでもない。
 向かい合うべきは最初の選択。
 セインは胸元に置いていた手を外し、膝の上に戻した。
「―そもそも、この取引自体、村の外の犠牲の上に成り立つものだったのではないですか。」
 村を守るのは盗賊。では、彼らの手がその代わりに向かうのは。
「しかし、取引がなければこの村が犠牲になる。」
 助けの届かない僻地の村。自衛の手段は他になかった。
「しかしそれは、どの村でも、誰もが負うもの。他者を犠牲にして自分たちだけが苦しみから逃れようとすることは、決して正しくはなかったはずです。」
 盗賊に襲われ、あるいは魔物が現れ、神殿や冒険者に救いを求める村人たち。
 彼らは苦しみながらも生きている。自分たちの身近な存在を精一杯守ろうとしている。
 神の光。それは、全ての人に、分け隔てなく降り注ぐもの。
「盗賊との取引。それを、認めるべきでは―なかったんじゃないですか?」
 一瞬、視界が滲んだ気がした。
 窓に立つ影が動く。一歩、近づく。
「…だが、それでも儂は、この村を守りたかったんだ。例えそれが…。」
 呟きは不意に途切れた。小さく咳き込む。
 一度、二度。
 咳は止まらなかった。身を折り、激しく咳き込む。
「ソロボさん?」
 セインが声をかけたのと同時に、隣でケップが立ち上がった。
 ソロボは咳を続け、服の胸元を握りしめた。膝をついてその場にゆっくりと崩れ落ちていく。
「―水を用意してくれ!早く!」
 駆け寄ったケップが棚を指さして叫ぶ。
 セインはすぐに席を立ち、グラスを取り出すと流しに置かれた水差しを掴んだ。
 ぬるい水を注ぐ。
 振り返ると、ケップはどこからか持ってきた小瓶から数粒の錠剤を手の上に出していた。
「水です…。」
 セインがグラスを差し出す。ケップはジンスの口に錠剤を含ませると、身を支えてその口元にコップを運んだ。
 震える骨ばった手がかすかにグラスを傾ける。喉仏が小さく動き、少しずつ水を飲んでいった。
 ケップの手から中身の半分に減ったグラスが渡される。
「俺はソロボさんを部屋に連れていく。ここで待っててくれ。」
 そう言うとケップはセインの返事も待たずにソロボを抱きかかえて立ち上がった。
 セインも合わせて立ち上がる。
「扉を開けます。」
「ああ、頼む。」
 待機室の扉を開く。狭い入り口を、ソロボの体を横抱きにしてケップはくぐった。
 開いた扉の前でセインが見送る中、二人は通路の奥へと姿を消した。

 それから程なくしてケップは一人で戻ってきた。
 目線が合う。
「…そこに立っていても仕方ないだろ。とりあえず、座れよ。」
 親指で部屋を指す。その仕草でようやく、セインは自分が扉の横に立ち尽くしていたことに気づいた。
 促されて再び椅子に座る。その斜め前、先ほどまでソロボが座っていた隣の席にケップも腰掛けた。
 セインはすぐさま口を開いた。
「あの、ソロボさんの容態は、大丈夫なんですか?」
 不安げなその問いかけに対し、ケップは視線を外したまま答えた。
「いつもの発作だ。薬を飲ませたから、しばらくすれば治まるはずだが…。」
 大丈夫、とは答えなかった。
「いつもの発作、ということは…病気だったんですか。」
 今までの間にそれを示す兆候は見当たらなかった。気づかなかっただけかもしれなかったが。
 うつむいたセインに対し、ケップはしばらく考え込んでからこう告げた。
「ああ。もう相当進行しているらしい。余命はあと二年ほどだとか。」
「二年―!」
 絶句する。
 ケップは、一つずつ思い出すように言葉を続けていった。
「俺がソロボさんに初めて会ったのは、あの人がここに帰ってきた今から七年ほど前の頃だ。その時はまだ何も知らなかった。」
 セインは唇を結んだままうなづいた。
「それで、色々あって俺がここに来ることになったのが五年前。…その時、あの人は笑ってこう言ったんだ。」
『儂はあと10年も生きられないだろう。だから、その前に全部儂の知っていることは教えてやらんとな。』
 過去を思い返すその口調は寂しげだった。
 ケップがため息を一つ洩らす。
 ゆっくりとセインは顔を上げた。
「あの方がここに戻ってきたのは、自分の故郷で、最期を迎えるつもりで―?」
「さあな。自分の病気のことを知ったのがいつだったのかは俺は教えてもらってないから、それは分からないが…。」
 ここでケップは言葉を切った。
 更にしばらく考え込んでから、改めてセインを見つめる。
「さっきまでの話、聞かせてもらってたが…。」
「はい。」
 ケップも同じ部屋にいたが、あの場では一言も言わなかった。彼は何を思って話を聞いていたのだろうか。
 セインもまたその目を見つめ返した。
 唇を一度軽く噛んで、そしてケップは口を開いた。
「俺も、あんたの気持ちは分かるよ。俺だってそう思ってた。」
 道端での問いかけ。ライセラヴィの神官が真に守るべきもの。あの時に見せた苦悩の表情は、その現れだったのか。
「…だけど。」
「だけど?」
 今一度見せた表情は、その時に現れたものと重なった。
「この村を守るには、他にどうしようもなかったんだ。…どんなに卑怯な取引でも。」
 それは訴え。この村で生き、この村から離れることのできない者の叫びだ。
 だがセインは首を横に振った。
「でも、私はそれを認めることはできません。…私は確かにこの村を訪れた旅人にすぎず、この村とずっと向き合ってきたわけではありません。」
 村人から見れば所詮は余所者にすぎないのだろう。そして旅を続ける自分がこの村に今後も関わっていくこともないだろう。…だとしても。
「ですが。それでも私は、この取引を許したのは間違っていると思います。―犠牲の上にしか成り立たない、この取引は。」
 ジンスの苦悩の訴え。アフィリクトの悲痛な叫び。それを、避けられない犠牲だとは思いたくなかった。
 ケップが瞳を逸らす。一瞬見えた苦しみの表情は、うつむいたその影に隠れてしまった。
 肩がかすかに震えていた。
「…あの人だって、始めは、そう思ってたはずなんだ。」
 洩れ聞こえた呟き声は、何かを押し殺すかのようだった。
 一瞬の空白。そしてケップは再び語り出した。
「あの人が、ここに帰ってきた時…もう、取引は当たり前のものとしてこの村に存在していた。」
 ソロボがここに帰ってきたのが七年前。先代の村長から続けられてきた取引は、既に数十年に及ぶものだった。積み重ねられてきた年月の重みがその変化を許そうとはしなかった。
「戻ってきてすぐこの取引を知ったソロボさんは、何度も村長と直談判を繰り返したらしい。だけど、結局は折れるしかなかったんだ。村人を守るためには、他に道がないからって…。」
 血を吐くかのような言葉。机の上に置かれた拳はかたく握りしめられていた。
「…どうしようもなかったんだ!例えそれが、神の教えに忠実じゃなかったとしても!」
 その言葉は、あたかも罪の告白のように響いた。
 だがここは懺悔室ではない。
 ケップを見つめていたセインは、はっきりと否定の言葉を告げた。
「ですが。それでも、他の村では自分たちで村を守る道を選んでいます。…外務に就かれていたソロボさんが、それを知らなかったはずがありません。」
 神殿の命で各地に派遣される外務の神官。彼らが目にするのは理想だけでは語れない現実の姿だ。
 その中でセインも二年間各地を巡った。ソロボが積み重ねてきた年はその十数倍に上るはずだ。彼がそこで見てきたものは、何だったのか。
「だからこそ、あの人は戦って…あきらめるしかなかったんだよ。」
 理想は決して手の届かないものだということなのか。
 いや。そうではないと、信じている。
 だからセインは真っ直ぐにケップを見つめた。
 目の前に座る若い神官に向けて言う。
「…それでも私は、理想を追いかけます。」
 そう答え、席を立った。
 窓の向こう、空は薄赤い。夕暮れが訪れようとしていた。
「ソロボさんによろしくお伝え下さい。私は行きます。」
 うつむくケップを見つめ、告げる。
 その顔は上がらなかった。
「明日、私たちは盗賊のアジトに向かいます。恐らくは戦いになるでしょう。」
 椅子を掴んだ手を握る。
「それでも、私にはやるべきことがあるんです。」
 身を引き椅子を戻す。床とぶつかって小さな音がした。
 手を離す。
「だから…。この村の未来を、どうか、見失わないで下さい。」
 全てを伝えてセインは言葉を切った。
 そのまま踵を返して出口へと歩き出す。扉を開け、振り返る。
 ケップは未だうつむいたままだった。
「それでは。」
 セインは扉を閉ざした。
 茜色の光が差す中、ケップはうつむいたまま、片手を顔に当てた。
「…俺は…。」
 その呟きを聞く者は誰もいなかった。


 茜色の光は村全体を染め上げていた。
 同じ色の陽は、机を囲む三人にも注がれていた。
 窓から差す光がジンスの横顔を薄赤く染める。その向かいに座るナシィとミーアもまた、その髪に薄赤い光を宿していた。
「…それで、話とは何だ。」
 夕方。約束通りジンスの家を訪れた二人は、話をするために部屋に通してもらった。
 これで何度目になるのか。机を挟んで向かい合う。
「まず、こちらから伝えたいことがあります。」
 口を開いたのはミーアだった。
「明日の早朝、あたしたちは盗賊のアジトに向かいます。…恐らくは戦闘になるでしょう。」
「そうか。」
 答えるジンスの口調は静かなものだった。
 頼んだ依頼。その実行を知らせる言葉に対しても感情の変化を見せなかった。
「村長さんの方には明日の早朝、出発前に連絡だけは入れます。万が一、村に盗賊の一部が向かった場合の自衛をお願いするつもりです。」
「…分かった。」
 ナシィの言葉にも短い返事をするだけだ。
 それきり黙り込む。
 ジンスは再び寡黙さを取り戻していた。向かい合うナシィらも、それに従うように言葉を抑えていた。
 ナシィは一度視線を手元に移した。
 しばらくその姿勢を保った後に、再び顔を上げる。
「…それから、一つお聞きしたいことがあります。」
 ジンスからの答えはなかった。否定ではないと捉えて言葉を続ける。
「今日の葬儀…あれは全て、考えての行動だったんですね。」
 葬儀を行うと神殿に伝えたのが昨日。その時にジンスは、『やるべきことがある』と言い残していた。
 更に翌朝。ことさら村人に見せつけるかのような葬儀の準備。単に準備をするだけだったらあそこまで目立つ行動を取る必要もなかったはずだ。
 実際に、正午にはかなりの数の村人がジンスの家の前に集まっていた。
 ―そして、自ら道化だと思っての大芝居。
 依頼は村人が目にする前で行われた。
 結末を迎えた時に明らかになった。この全てが、一つの目的に向かって行われたことが。
「村人の前で、取引には従わないことを宣言する。…どうして、そんなことを。」
 殺された娘の仇を討つ。そのためには取引を破る必要がある。ジンスの選んだ道に曇りはない。
 解せないのはその方法だった。公然と、自ら他の村人を敵にしてまで宣言する必要があったのか。
 問いかけるナシィに対し、ジンスはそっと視線を落とした。
「…決めたからだ。」
 呟きは吐息のようだった。
 斜め前、机の上の何もない空間を見つめながら静かに語る。
「あの日…プリーヤが亡くなっていると分かった日に、決めたんだ。娘を見捨てたこの村には従うことはできないと。」
 一人で背負い続けた苦悩。それは、娘に対する思いと共に、村の意思もまた尊重しようとしていたからこそ背負ったものだった。
「それまでは生きているかもしれないという希望があった。だから、娘が無事に帰ってきたら、また、今まで通りこの村で生きていくつもりだった。」
 村が結んだ取引。それがある限り、村人の身は守られるはずだった。守られていくはずだった。
「だが…結局、娘は死んでいた。」
 起こってしまった悲劇。
「…正直、娘が本当に殺されたのか。それとも村長が言ったように偶然の事故死だったのかは分からん。それこそ盗賊に聞くしかないのだろう。」
 ぽつりぽつりと語るその口調に、あの時叫んだ苛烈さは残っていない。
 瞳は虚空を見つめている。
「だが…もう、胸に収めておくことはできなかったんだ。だから、皆を集め、宣言をすることに…決めた。」
 洩れる息は弱い。それは、孤独な戦いの末に疲れ果てた老人が見せた本心だった。
 二人もまた言葉を返すことはなかった。
 彼が今まで決して見せることのなかった弱さ。それを、今受け止めるのは自分たちしかいないのだと感じたから。
 乾いた風が窓から吹き抜ける。主一人を残して誰もいなくなった家には、静寂が落ちていた。
 …どれほどの間があったのか。閉ざしていた口が開かれる。
「―それでも、あたしたちは依頼の通りに盗賊を相手取ります。」
 ミーアは宣言した。
 ジンスから請けた依頼。『森に潜む盗賊の退治』、それは変わらない。自分たちにもまたやるべきことがある。
「ああ、頼む。」
 依頼はなされた。もう、後に引くことはない。
 動き始めた時。立ち止まることは許されない。
 その瞳に映るのは苦悩を背負い続けた老人の姿。彼の下で見てきた日々はあまりに残酷だった。それに終わりを告げるべき時は今だ。
「―はい。」
 ナシィは、確かにうなづいた。


 目を開けた先には、オレンジ色を帯びた木の板があった。
 かすんだ視界が徐々にクリアになっていく。敷き詰められた木の板、あれは天井だ。
 自分は今横たわっている。
 その事実に気づき、イディルスは身を起こした。
「…うっ。」
 眩暈がした。
 両手で額を支え、落ち着いたところでゆっくりと顔を上げる。
 見回した周囲にあるのは、ここ数日で見慣れた光景だった。
 宿木亭で借りた部屋。自分が寝ていたのは、その部屋に備えられたベッドの上だった。
 窓に目を向ける。空は茜色だった。夕焼けの色。
 なぜ、自分はこんな時間に寝ていたのだろうか。おぼろげな記憶を手繰り寄せる。
 今朝は普通に起きたはずだ。それからミーアに連れられて出かけて、昼過ぎに葬式があって…。
 …記憶が繋がる。
 飛んできた水を思い出し、反射的に顔をこすった。
 肌に違和感はない。
 もう一度部屋を見回す。間違いなく、自分の借りている一人部屋だった。
 体にかけられていた布団を放り出す。
 ようやく思い出せた。
 言い争いになったあの時、最後に見た物。
 恐らくは即効性の睡眠薬か何かだろう。無理やり自分を眠らせて、部屋に運び込んだのだ。ご丁寧にもベッドに寝かせて布団もかけて。
 立ち上がる。一瞬ふらついたが、体に問題はなさそうだった。
 薄暗さに気づいて部屋の灯りを燈す。
 今の季節、この赤い空は…十九時ぐらいだろうか。だとすれば眠っていたのは五時間ほどになる。
 扉を開けようとして、立ち止まった。
 今すぐミーアの所に行っても、また薬を使われてしまうかもしれない。それに相手は三人だ。力技でも勝ち目はない。
 彼らは待つと言った。いずれは、予定通り盗賊のアジトに向かうのだろう。今更自分だけを置き去りにするとはさすがに思えない。
「…だけど、それじゃ遅すぎるんだ!」
 頭を振る。眩暈が蘇り、よろけそうになった。
 そうだ。彼らが待つと言うのなら構わない。こうやって自分を部屋で一人にしておいたのは、放っておいても問題がないとでも思っていたからだろう。
 だったら善は急げだ。
 自警団の詰所の場所ぐらい覚えている。レヴィシオンは家に帰ったかもしれないが、残っている団員に聞けば分かることだ。
 後の迷惑なんか知ったこっちゃない。彼らに任せてはおけない。
 決心したイディルスは、すぐさま装備の準備にかかった。
 外していた鎧を身にまとう。愛用の剣を腰に下げる。他の荷物は、置いていって構わないだろう。目的はただ一つ。盗賊の殲滅だ。
 軽く首を振る。眩暈は消えた。もう、大丈夫だ。
 扉に手をかけたその時、背後で物音がした。
「…何だ?」
 出発しようとしている時に、幸先の悪い。
 かすかな苛立ちを感じながら振り返る。部屋に異常はなかった。
「?」
 コツ。
 もう一度同じ音がした。窓だ。何かがぶつかる音。
 大きく開く。下に、人影があった。
「おーい。」
 顔こそ見えないが聞き覚えのある声。
 イディルスは慌てて辺りを見回すと、黙るように仕草で告げ、一旦窓を閉めて駆け出した。

 宿の裏手に待っていたのは久しぶりに見る相手だった。
 最後に会ったのは一昨日の夜だったろうか。日数にしてみれば大したことはないが、この二日間はあまりにも忙しすぎた。
「…久しぶりだな。今までどこに行ってたんだよ。」
 村にいたのなら一声かけてくれてもよかったものを。
 こちらの苛立ちには構わず、彼は相変わらずの陽気な笑顔を見せていた。その薄い唇が動く。
「冷たいなあ。せっかく、君の仕事を手伝ってあげようと思ったのに。」
「え?」
 どういうことだろうか。
「ほら、こないだ飲んだ時に言ってたでしょ。盗賊のアジトがどうこうって。」
 言われて思い出す。あの夜、酒を片手に愚痴をこぼしたことを。
「…ああ、そういえば話したな。だけどそれがどうしたんだよ。」
「だから、それを手伝うために今までこっちも頑張ってたんだ。」
「頑張るって、何をだよ。」
 訝しむイディルスに対し、彼は満面の笑みを浮かべて言った。
「探してた盗賊のアジト、見つけたよ。連れてってあげる。」
 突然の言葉に、一瞬面食らった。
 それからようやく理解した。
「―本当か!そりゃ助かる!すぐにでも案内してくれ!」
 イディルスは喜びのあまり彼の肩を掴んで揺さぶった。
 戸惑う相手の表情に気づき、慌てて手を離す。
「あっ、悪いな…。」
「いいよ別に。でもさ、あの人たちはどうするの?ほら、仕事で組んでる三人組。」
 その言葉を耳にし、イディルスは顔をしかめた。
「…あいつらは。」
 いや。放っておいても問題はないはずだ。自分を放っておいたのは彼らだ。それにレヴィシオンの手を借りるわけでもない。彼らにそう迷惑はかからないだろう。
 構うことはない。
「あいつらは別にいいよ。手を切った。ボクは勝手にやらせてもらう。」
 首を振るイディルス。それを見つめる相手の瞳は、静かだった。
「ふーん…。」
 イディルスが顔を上げる。その時には、彼の表情は再び笑顔に戻っていた。
「じゃあいいや。すぐ行くの?」
「ああ。今すぐ案内してくれ。ちょうど装備も用意したところだ。」
 うなづいたイディルスを見て、相手は踵を返した。
「じゃ、こっち。森の中はぼくについてきて。」
 早足で歩き出すローブ姿の少年を追って、イディルスも歩き出した。

 日の光が薄れていく。
 夜を迎えようとする森は、その空気を変えようとしていた。
 獣の声。草を踏む足音が、それをかき消す。
「…それにしても、よくアジトの場所が分かったな。」
 イディルスは額の汗を拭って呟いた。
 目の前の少年の足取りは軽い。追っていくのに少し苦労する。
「まあね。」
 振り向いた少年は、相変わらずの楽しそうな笑みを浮かべていた。
 いつもと同じ表情。
「―だって、しばらくお邪魔してたし。」
 常に崩れることのなかった笑みを。

「…え?」
 彼は今何と言った?
 少年はそこで立ち止まった。
 イディルスも足を止める。
「それって、どういうことだよ。…お前、まさか。」
 顔色を変えたイディルスに対しても、やはり少年は笑顔を見せていた。
 その腕を掴もうとイディルスが手を伸ばす。
「答えろよ!まさか、お前が、」
 だが、その先にはもう相手はいなかった。
「え?」
 背後で小さな音がする。
 反射的に振り返った。
 一瞬、銀色の輝きが見えた。
「―え?」
 瞬き。
 目の前で世界が傾いていた。上っていく。
 赤い色が、宙に舞っている。
 暗い中でまだ見えるあの紅い飛沫は―。
「じゃ、さよなら。」
 最後に見えたのは、赤い血の向こう、相変わらず楽しそうに笑う少年の唇だった。

 少年は被っていたフードを外した。
 頭には雑に巻いた包帯。それは顔の片側を半ば覆っている。
 少年は屈み、そこに転がったものを無造作に掴み上げた。
「…あんたじゃ、役立たずなんだよ。せめて最後ぐらい使ってやるか。」
 たった一つの瞳は、冷酷にイディルスを見つめていた。


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