合わせ鏡の奥の奥

八村 ふみ

 続いていく。

 右と左が反転された次は、後ろと前が反転されて、その次はさらにまた左右の反転、繰り返し。どこまでもどこまでも、続いていく。
 延々延々、無限に続いていく果てを見たいと思って首を巡らせる。体を傾ける。
 ああだけど続いていくそれら達もまた同じように動いて私の視線を遮るんだ。見せてくれないんだ。
 果ての果て。後ろも前も。
(それでもそれで良いのだと)
 ほんの少ししか見えないから良いのだといつか思った。
 遠い場所に置き去りにしてきたものを見たくなくて。
 
 遠い遠い彼方の誰かが泣いている。
 遠い遠い彼方の誰かが笑ってる。

  …………。

 ※  ※  ※

「……あれ?」
 ふ、と。私は気がついた。きょとんとして瞬く。首を傾げた。一体なんだ、これは。
 ぷっつりと。直前の記憶がハサミで断ち切られたような感覚。いや、断ち切られてすらいない。断ち切られるまでもなく、そんなものは存在しなかったような感じだ。この場所のこの時間はたった今始まったばかりで、ここに立っている私は今ここに生じたばかり。普段普通に朝起きて顔を洗って学校に行き友人と喋り日常を送る私という存在が突然、何の前触れも予兆もなくここに放り出されていた。
(あ、そうか、これは夢か)
 たった今始まったばかりの夢。間もなくそんな結論を紡ぎだして納得する。そうか、夢ってこんな風にして始まるものなんだ。
 普段朝目が覚めて思い出す夢は、概してなんだかぼんやりした記憶として残っているのみであるが故に、それがどんな風に始まるかなんて滅多に分からない。だからこれは多分とても貴重な経験であるのだろうと思い、少し得したような気分になる。まぁ、朝になって忘れてしまっていたら意味がないのだろうけれど。
 そう自覚したところで、ふと自分の手に何かが触れている感覚に気付く。小さい。手?
「あれっ」
 横を見ると、目が合った。私の指先を手の平でぎゅっと掴んでいた少女が、私の声に反応してこちらを見てにぱっ、と笑う。ほっとしたような表情を浮かべて、よかったきづいてくれた、と呟いた。
 何のこっちゃ、と私は彼女を眺める。言っては悪いが印象の薄い感じの女の子だった。5、6歳くらいだろうか。シンプルな薄手のワンピース、髪の毛は母親にでも切ってもらったのか少々不揃いで。
「こ、……こんにちは」
「こんにちはぁ」
 そろそろと挨拶をしてみると、再び彼女はにこーっと笑い、間延びした挨拶を返してくる。妙に嬉しそうな声音と表情。彼女は、掴んでいた指先を、ぶんぶんと振り回して楽しそうな笑い声をあげ、そして再びそれをぱっと放して私の前にとび出して、大きく手を広げてみせた。
「周りの様子もね、見てみたほうがいいよ」
 言われてみて気付き、今まで注意を払っていなかった周囲の有様に目を向ける。見ると、地面は舗装されたアスファルト。それもそんなに上等な感じじゃなくて、何年も何年も経てあちこちにひびが入った感じのもの。その上に白いペンキで書かれた道路標示もところどころ消えて見えづらくなって。
 首をぐるりと回してみると、コンクリート製の角柱が聳え立つ。酸性雨だか鳩の糞害だか知らないが全体的に薄汚れた印象。色んなカーテンがかけられた窓やら、洗濯物やら布団が干されたベランダが整然と並んで。
「……あぁ、これは」
 気付いて少し辟易する。これは団地。私が幼い頃住んでいた集合団地だ。まだ私はこんなものを夢に見るのか。
本来ならきっと澄んだ青空であるのだろうに、モノクロ写真のように色彩が綺麗に抜き取られた空。色彩の一切が抜き取られたこの世界は何だか胸の奥の嫌なものを掻き起こすかのようで。
「しょーがないよ」
「うん、しょうがないねぇ」
 少女の台詞に苦笑いする。うんまぁ仕方がない。嫌なものだからこそ夢に出る。出てしまったものは仕方がない。忘れたつもりだったのが忘れられていないのを見せ付けられて嫌な気分になるだけだ。
 そんな私を、少女は表情を変えずにじっと見上げていた。私がそれに気付き視線を合わせるとまたにこっと笑って片手を腰に当てて、胸をそらせる。右手をちっちっち、と得意げに振って。
「これはねぇ、ゲームなの」
「ゲーム?」
「うん、ゲーム。これが夢だってことくらいもうとっくに分かってるでしょ? クリアしたら出してあげてもいいよー」
 クリアしたら出してあげる。その言葉を反芻する。……夢だから別にそんな話など受けず、放っておいてもきっと醒めるのだろうな、とも思うけれども。まぁこういうのは概して、拒否しようがどうしようがいやがおうなしに巻き込まれてしまうのだろう。ならば受けてみるのも一興か。
 よーし受けて立った、とルールを尋ねる。少女は無邪気に無邪気に、本当に嬉しそうに笑った。てんっ、と横とびをして私から少し離れた道路の真ん中に立つ。びしっと人差し指を突き出してみせて。
「探すのはね、『嘘』」
「『嘘』?」
 彼女は頷く。意味深な笑顔は変わらぬまま。コンクリートの角柱に囲まれて色の無い青空の下、彼女だけは色を有しているのに私は気付いた。なんて青白い肌。
 にこにこ、と。
「この世界の何処かの『嘘』を探して、見破って」
 嘘、を。探す。嘘って?
 ざっ、と。
 少女を中心に、世界に大きなヒビが入る。地面のアスファルトに。建物のコンクリートに。ぴしぴしと、無数のヒビが広がって侵食していく。ぱりぱりぱり、ぴしぴしぴし、 
――ばりん!
(わっ――)
 世界の表面の塗装が剥がれて顔を出す。それらが光を反射しまぶしく輝き辺り一面が白く染まった。眩しくて眩しくて顔を庇う。だけど目を覆う一瞬前に私は見た。
 鏡。
 塗装の下は鏡だった。
 足元の地面も周辺の角柱も全て鏡。
 少女はまるで当然のように鏡にうつらず、楽しそうに楽しそうに笑い声をあげる。そこら中を駆け回り笑い声を幾度も幾度も反響させる。この世界の鏡は声までも反射するのか、四方から響く甲高い声。きゃはははは。
 ただ世界で一人私だけが鏡にうつって。鏡にうつった私もまた鏡にうつって。その私もまたうつって、無数の私が生じる。その姿に笑い声が重なって無数の私が笑う。
(―――――!!)
 恐怖にかられ眩しさに負け、硬く目を閉じて両耳を覆ったその瞬間にどん、と押された。いや、全身を使って体当たりされたのか。鏡になった地面はよく滑って、私はそのまま前のめりに倒れる。頭から倒れたりなどしないよう私は手を地面につこうとして――

 ずぶり、と。

    ※  ※  ※

「わっ!!」
 どたばたどしゃんっ、と。派手な音をたてて転がり出る。何か硬い白い陶磁のようなものに顔をしこたまぶつけて、私は呻いた。なんだこれは。
 手で探ってみると奇妙な凹凸、すべすべした触感。過剰なほどに派手な装飾にも気付く。しかもなんだ、さっきから上に行ったり下に行ったり。そしてなんか――回ってる?
「………」
 落ち着いて顔をあげてみると、地面から馬が生えていた。――いや、なんだかやけにポップなデザインの床から生えた棒の上に、作り物の馬がド派手な鞍を付け、太くて丸い柱の周りをぐるぐると回る。……妙にファンシーな音楽も流れているようだ。
「メリーゴーランド……」
 気付いて、私は瞬いた。どうやら私は、メリーゴーランドの柱に取り付けられた装飾鏡の中から転がり出てきたらしい。きらきらした照明に音楽、綺麗に手入れされた馬達。相も変わらずに世界から色彩は抜け落ちていたけれどもそれでも、そのきらきらした雰囲気は伝わってくるような。
 そうだ。私はこのメリーゴーランドの事を知っている、と唐突に気づいた。昔近くにあって小さな頃時々親に連れられて行った遊園地にあったもので、一番、とまでは言わないけれども割とお気に入りのアトラクションの一つだった。あの、ふわふわとした空を飛ぶような感覚。だけどこんなのは子供が喜ぶためのものだなどと大人びて、つまらない醒め方をしてしまったのはいつだったか。
 懐かしい気持ちがこみあげてきて、まわる床から降りて外の囲いへと駆け寄る。そうだこの遊園地。いつもいつも大勢のカップルや親子連れ、子供達でにぎわって。カラフルな遊びや夢で溢れた仮想空間。陶磁の馬にのってそこに飛び込んで。日常から切り離された世界に酔いしれ、て。
(……あ)
 そこに広がっていた光景があまりに記憶と違っていて、私は一瞬息を飲んだ。
 隣に並んでいたはずの観覧車が無い。上を走っていたはずのジェットコースターがない。あの毎日の賑わいも楽しい雰囲気も、飾られていたはずのマスコットキャラクターの彫像も消えている。
 その代わり立ち並んでいるのは小奇麗に整えられた新しい住宅。その前に立てられた、何処かの会社名と電話番号が記された旗。……そうだ、一度伝え聞いたのに忘れてしまっていた。遊園地が潰れて代わりに住宅展示場が出来て。なのに何故だかメリーゴーランドだけそのままその場所に、象徴みたいに残されたんだ。
 ずるっ、と。なんだか気が抜け、柵に手をかけたままその場所に座り込む。
(『嘘』を探せ)
 あの子は言った。
 仮想空間は消えてしまいその中を駆け回っていた陶磁の馬達だけが取り残された。彼らだけじゃ仮想の世界を支える事は出来なくて、何処か困り果てたように、同じ場所で変わらぬままぐるぐる回ってる。楽しい音楽の中に置き去りにされてぐるぐると。
 誰一人居ない世界の中で回る。
「……っ」
 ばっ、と私は立ち上がった。回る床の上に飛び乗り馬達の間をくぐりぬける。柱の装飾鏡に両手をかざすと、やはり何の抵抗も無く通り抜けた。そこで私はがっしりと鏡の両端を掴み、ぐっと力を入れて頭から突っ込む。

(―――!)
 また一気に通り抜けると硬いタイルの上に転がり出た。もろに腰を打ち付けて少々呻きつつ見上げると、薄暗い照明と薄汚れた壁に、いくつかの個室のドアが並ぶ。小さい頃住んでいた家の近くにあった公園のトイレであると、今度は割と早く気付く事が出来た。半ば荒々しく立ち上がりまっすぐに外に向かう。
 嘘。嘘があの場所にあったとしたら、それは多分消えてしまった遊園地だろう。日々に疲れた人たちが飛び込む、夢で溢れた仮想空間。日常から切り離された世界。人が人のために人の手で創った嘘の夢。
 嘘は終わってそのカケラだけが、時間の中に置き去りになった。だからあそこには嘘はもうない。残っているのはただの残骸。
(寂しい寂しい残骸だけだ)
 気付いてからわきあげてきた胸のモヤ。それを無視してただ嫌な夢だと思う。最初に顔を合わせた少女に対して、理不尽な、八つ当たりのような感情が沸き起こりそうに。
 薄暗い場所から外に足を踏み出す。眩しく差し込む光に目がくらんだ。視界が白く染まる――

  ※  ※  ※

「…………」
 ブランコが、高く高く空に上がって静止していた。ほんのついさっきまで誰かが漕いでいて、だけどふいに消えていなくなってそのまま時間が止まってしまったように。たんぽぽの綿毛が空中にぴたりと貼り付けられて動かない。まるで誰かが吹いて飛ばした後のように列になったまま、何処にも行けずに。砂場に放り出されたバケツやスコップ。大縄用のなわとびが、ほんの今さっきまで遊ばれていたような感じで道の真ん中に放り出されて。
 不気味、ではあるけれども所詮夢だと。半ばむしゃくしゃが続いていた私は、その一つ一つに触れてまわってみた。荒っぽくブランコの鎖を揺らしてみようとしても、空中の綿毛をつかみとろうとしても、お約束のようにそれらはぴくりとも動いてくれない。
(何よもう)
 むしゃくしゃする。何でこの夢はこんなに続いて醒めてくれないんだろう。私は別に、こんな公園に何の思い入れも持っていないのに。
 道の真ん中に横たわるなわとびを蹴飛ばそうとする。空中の綿毛を鷲づかみにして地面に叩きつけてやりたいと思う。だけど太い荒縄は地面と一体化した金属のように、綿毛もとんでもなく強力な接着剤か何かで空中に貼り付けられたのか、どうにも力を加える事が出来なくて。それが悔しくて悔しくて。
「――何よもう!!」
 この空間では何だか感情が酷く毒されるようで。ぐしゃっ、と自分の髪を引っつかんだ。頭を抱え込むようにして座り込んだ。
 嫌だ嫌だ嫌だ。強く強く目を瞑る。耳をふさぐ。元々聞こえてくる音なんて存在しないけど関係ない。こうしたら多分この夢は醒めるんだ。
 それなのにいつまでたっても覚醒のあの感覚は訪れない。なんで自分がこんな場所でこんなに掻き乱されるのかが分からない。硬く髪の毛を掴んで苛々と力を加える自分の両手の感覚、アスファルトの地面を踏みしめる足の感覚。
 必死で頭を抱え込んで全ての感覚を閉ざして閉じこもる。ざわざわと血の流れる音の向こう。遠い遠いどこかから泣き声が漏れ聞こえてくるような。
 遠い遠い場所からの声。
 楽しそうに楽しそうに。聞き覚えのある、歌。
(……かーってうれしいはーないちもんめ)
(まけーてくやしいはーないちもんめ)
 ああ、これはとても嫌な歌。
 遠くで聞こえていたはずの歌は気づけば私の両側まできていた。誰も居る気配なんてないのにだけどその声達は、私の両側から交互に歌って聞かせてきた。ほんの少し調子っぱずれだけど楽しそうに楽しそうに。何も考えないではしゃいで笑って。
 だけどそれと一緒に漏れ聞こえてくる泣き声。ひっく、ひっくとしゃくりあげる声。大きな声は出さずに誰にも気付かれないようにひっそり抑えて、子供達が楽しそうに笑うたびに声をひそめて泣く。
 その声が静かに漏れ聞こえてくるにつれて。私の中の激情がゆっくりゆっくり、静かに消えていくのを感じていた。荒れに荒れていた感覚に凪が訪れ、波が消えてゆく。強く強く髪の毛を掴んでいた手の力が次第に抜けて。
 ああ、そうだよね。ああいう風に無邪気に遊ぶ子供達は知らないんだ。
 あの遊びはとっても残酷な遊び。花一匁は人間を売り買いするお金。昔々に身売りされた女の子のお話だけどだけどそんな意味じゃなくて。いるんだよ、一匁ですら買い取ってもらえない子が。最初から自分は選ばれないって分かってて遊ぶ子供がいるんだ。もしかするとそれはただの自業自得なのかもしれないけどそれでもそれすら気付けずにどうしていいのかわからない子が。
 声をひそめて泣く誰か。
「………!」
 はっ、と。私は突然目を見開く。聞こえていた歌声がぴたりと止んだ。さっきまでがんがん鳴っていた耳鳴りも止んで、辺りは染み渡るほどに静かになる。
 頭がとてもすっきりしていた。先ほどまでの苛々が一体何だったのかわからないくらいに。ああそうだそういう事。そうだこれが夢だというなら。夢なのだから。
 そうだ。多分この世界では誰かが、みんなみんな消えてしまえと望んだんだ。だから誰も居なくなったんだ。そしてその子は寂しくて泣いてしまったんだ。
 とてもとても普通で弱くて矛盾した子。どこのどんな場所にだって一人はいる子。
 誰よりも願っているくせに。
 誰よりも欲しがっているくせに。
 私は辺りを見渡した。周囲に鏡は無い。ああだけど早く、一刻も早く次に行かなくてはならないのに。せっかく気付けたのにまどろっこしい。さっき出てきたトイレにまで戻る手間も惜しい。私の夢なのにこの世界は私の思い通りに動いてはくれないのか。
 見ると公園の端に小さな池。それも公園の中に存在する他のものと相違なく、水面に落ちた葉っぱからの波紋まで描き出されたまま動きもせずそのまま停止している。動かない水面は辺りの風景を出来の悪い鏡のようにうつしだして。
 これだ、と思った。私は地面を蹴って駆け出して飛び込んで。

  ※  ※  ※

 ぜぇはぁ、と息をつく。
 昔通っていた小学校の廊下。廊下に置かれた生徒用ロッカーにはランドセルやら絵の具セットやらが乱雑に放り込まれ、窓から見える教室の机には筆記用具やらが散らかり、明らかに子供達の気配がするのにそれでもやはり誰一人姿は見えない。
(だけどそんなのは他でも同じだったから別に異常のうちには入らないのだけれど)
 だけどそれに加えて目立つ、異様な暗さ。それは窓から光が入ってこないせいだし、本当なら点いているはずの照明が用を成していないからだ。
 辺り一面には棘のある蔓がびっしりとはびこっていた。つる薔薇のようではあるが花は一つも咲いておらず、一本一本がやけに太い。それが窓を多い照明の上を這っているその様子は、おおよそ日本の世間一般的な公立小学校の建物にはあまりにも、あまりにも不釣合いで。
「…………」
 一歩足を引くとそれら全てがざわめく。まるで何かの悪意の象徴のようなそれらに思わず私はきびすを返して――駆け出す。
「ああああああああもう!!!!」
 駆け出すと同時にそれらが一斉に鎌首をもたげた。まるでたちの悪い蛇のような動き。先ほど教室の壁の鏡からこの場所にとび出してきて以来、何度この追いかけっこを繰り返したことか。蔦の無い教室に逃げ込んでやりすごしたがすぐに忍び込まれ、ロッカーや教卓に隠れてもすぐに見つけられた。
 逃げ惑いながら私は、私が見つけなければならないものを探す。一つ一つの教室の扉を乱暴に開けては飛び込み、見つけられずに飛びだし、バタンバタンと。だけどやっぱりこの世界には誰の姿も見えないんだ。何処かの馬鹿が消えてしまえと願ったせいで。残っているのは夢の残骸。楽しそうな遠い声に主体のない悪意。ひとりぼっちな幻想に包まれて独り。
 なんという夢。なんてやっかいなんだ。ただひたすらに天邪鬼。
 見つけて欲しいならもっと素直に!
「うわっ!」
 教室の一つをとびだそうとして、躓いて転んだ。
 やばい、と息を呑む。前方の蔦が気付いてこちらを向く。後ろからも相変わらず棘だらけのそれらは迫ってきていて。
(―――!)
 これはさすがにどうにもならない、と観念して目を瞑る。前方と後方から勢いよく襲い掛かられ絡みつかれ全身包み込まれる。棘の痛みを覚悟して身構えるがしかし一向に締め付けられる感覚も棘の痛みも訪れず、奇妙に思って薄く目を開けると、自分を包み込むそれら全ての表面が鏡へと変化しているのに気付いた。
 曲面の鏡はとてもとても歪んだ顔の私をうつす。ああ私はこの夢で一体何度鏡に自分の姿をうつすのだろう。そして何度もこうやって鏡をくぐりぬけて。鏡の中の鏡をくぐりぬけて奥の奥へと。
(合わせ、鏡)
 ずぶり、と、再び鏡の中へ沈み込んでゆく時に、ふとそういった単語が頭に浮かんだ。
 いつだったか、合わせ鏡の中、いくつもの鏡をくぐって奥の奥まで進んでいったらどうなるだろうかと思ったことがあった。
 自分だけが延々とうつりつづける中を、ここからじゃ見えない遠い先まで。そうしたら奥の奥の自分が見えるだろうかと。
(合わせ鏡の果ての果て)
 鏡に映って一つの嘘がホントに。鏡に映って一つのホントが嘘に。そうやって何度も何度も何処までも続いていく世界の奥まで潜って。色んなものが積み重ねられた時間の奥のとてもとてもひねくれた、隠れた世界。
(誰も居ないこの場所で独り)
 私が見つけなくてはならない『嘘』は。

 突然。
 世界が真っ白に染まった。
 上も下も右も左も。光があふれ出したかのように真っ白に。白い、白い。
「……あれだ」
 世界の中で私は呟く。
 あった。
 みつけた。

 『嘘』

  ※  ※  ※

 少女は、立っていた。
 真っ白い光に包まれて。最初に別れた時と何一つ変わらない笑顔で。両手を腰にあてて悪戯な表情で、首をかしげて。
「だめだねぇ、あんなのに捕まっちゃったりなんかして。ゲームオーバーかな?」
「別にそんな事はないんじゃないの? そんなルールなんてなかったでしょ」
 大体、あれにいつまでも捕まってしまっていたのは貴女でしょう。まぁそれも仕方なかったのかもしれないのだけれど。まぁ私も言えたものじゃないけど。
 そんな意味もなんとなしに含むように、嫌味な口調で返してみる。彼女はムッとしたような表情になってこちらを見上げた。
 ああ、やっぱり。
「……みーつけた」
 ゆっくりと、人差し指で彼女を指して、言う。彼女が一瞬息を呑んだのが分かった。だけどすぐに不敵な笑顔に戻る。
「なに、」
「『嘘』は貴女。そうでしょう、私」
 そうだ、なんて簡単な話。
 合わせ鏡の奥の奥。夢の奥にいるのはただ自分だけ。嘘をついているのだって私自身だ。何度も何度も鏡にうつされて嘘がホントになって、酷くわかりにくくなっていくけれども。
 だけどこんなに分かり易い答えが。
 目の前にいる小さな私が。
 見つけて欲しいと呼びに来たんだ。
「……嘘つき」
 ふっと笑って呟いてやる。別に軽蔑とかそんな意味を含んで言うわけじゃない。ただほんの少し自嘲気味に、苦笑するように。そうだねしょうがないね。私がこんなであるせいで、貴方は私にこんな夢を見せずにいられなかった。
 彼女は言葉を失ったようにふるふると唇を震わせながら突っ立っている。天邪鬼なこの子は私にこんな風に言われて、どう反応すればいいのか分からないんだ。
 彼女はぎゅっと拳を握り締める。両足を踏みしめてぎっとこちらを睨みあげた。今までの、どこか悪戯で無邪気で余裕のあった雰囲気が消えうせて、彼女は一気に感情を噴出した。
「バカバカバカバカ!! あんたなんかにそんな事言われたくないよ!! あんたみたいなヤツになんでそんな言われ方しなきゃいけないんだ!!」
 少女はただただ必死で叫ぶ。その様子を見て私はまた少しだけ笑う。その様子を見て彼女は又一際激昂して、最早抑えられなくなったように続けて叫んだ。
「あんたはこの世界が嫌だったでしょう。一つ見るたびに踏みにじりたい気分にかられたでしょう、腹が立ったでしょう、目を瞑って耳をふさいで忘れようとしたでしょう。今はそんな風に私を見ているけど、ホントは吐き気がするくらい嫌でしょう!」
 彼女が怒鳴る、叫ぶ。私はそれを目を細めてただ眺める。そうだね私はそうだったよ。そうだね怒られたってしょうがないね。だけど別に今は吐き気はしないよそれは本当。あんなむやみやたらで無意味な苛立ちももう別に無い。
 ただ静かに何も言わずに見る私の前で彼女はひたすらにがむしゃらに怒鳴った。だけど私はやはりそれを止める事はせずに彼女が感情を吐き出すに任せる。しばらくすると彼女は疲れて。ぜぇはぁと荒い息をつきながら。――ぼろぼろと、大粒の涙を流していた。
 私はそんな少女の前に跪いて。俯くその頭をそっと撫でる。
「ほら、……嘘だった。正解でしょ」
 吐き出される感情が彼女の本当。
 嘘だったのは彼女の笑顔。本当はとてもとても辛い最中にいるくせに、なんでもないような表情をしていたそれだ。天邪鬼なこの子の嘘は、こうでもしないと見破れまい。
「ごめんね。ごめんね」
 私は彼女に謝る。
 ここは彼女のせかいで私のせかい。他の誰も寄せ付けない自分だけがうつった鏡の奥の奥の。それも私自身が嫌って目をそむけ続けてきた部分の寄せ集めなのだから、私が拒否反応を示してしまったのは当たり前の話で。だけど彼女にとって、それは酷く、酷く。
 彼女は私に見破ってもらいたくて来た。認めてもらいたくて来た。
 小さな小さなこの子が、もしかするとそれは自業自得だったのかもしれないけれど、何も分からないなりに矛盾していたなりに頑張っていた事。
「……ごめんね。あなたには酷い事してきたよね」
 合わせ鏡の奥の奥で、ずっと泣いてたちっぽけな自分に。自分勝手な自分に、語る。
「私はこの世界に貴女を閉じ込めて奥の奥に追いやってしまってたんだね。大嫌いな貴女を閉じ込めて見ないようにしてきたね。ホントはこんなに寂しがりやだった貴女は私自身にまで否定されてホントに独りになってたんだ」
 ホントを鏡にうつして嘘にした。嘘を鏡にうつしてホントにした。ホントと嘘でごちゃごちゃになった彼女はホントにホントに独りになった。
 私が彼女を否定したのは多分成長というモノの中でどうしても必要な一過程だったのだけれども。そしてだからこそ今の私が彼女を認めるのはとてもとても難しいことなのだけれども。
 それでも少なくとも。――今の私はこの子に冷静に向き合える。多分この子に気付いた今なら、あれらの世界に感情をかき乱される事はない。こんなに時間をかけて、やっとこの場所まで来れた。
「頑張ったね……ごめんね」
 泣き止まない少女をぎゅっと抱きしめる。
 彼女は小さく、驚いたような声を発した。その表情は見えない。だけどその感情は手にとるように分かった。
 ちっぽけで自分勝手で矛盾してて天邪鬼で弱虫で泣き虫で世間知らずで。
 そりゃ否定するしかなかったけれども。そんなこの子を見たくもないと思ったけれどもそれでも。 頑張ったね。今でも頑張ってるね。認めてあげられなくて、目を逸らし続けてしまって、本当にごめんね。今はまだ私はあなたと冷静に向き合うだけで精一杯な程度で、本当の意味であなたを認めるにはきっとまだまだ時間がかかるけれどもそれでも必ずきっと、あなたを丸ごと認めてあげられる場所まで行くから。
「だから泣けばいいよ。……思う存分泣けばいいよ」
 私の胸元で彼女はわんわん泣く。きっとこれは今の私がこの子にしてあげられる最大だろう。この子の嘘を見破ってみせること。それだけが今の限界だけど。
 いつの間にか私の頬を暖かいものが伝っていた。喉の奥が熱くなって唇が震えそうになって、何度も何度もしゃくりあげる。

 寂しかったね。頑張ったね。
 まだまだ行かなきゃね。多分まだまだつまずくけどね。

 光が眩しい。真っ白い光で埋め尽くされた世界。
 その周りの光が段々強くなって、だけどそれはとても優しくて暖かくて心地よくて、目を閉じる。
 柔らかいそれらに包み込まれてまどろむように身を任せて。遠い何処かから鳥の声。

 ただそこは心地よくて暖かくて、私は小さく笑った。



 ああ、目が覚める。



(使用お題:合わせ鏡・嘘・ゴーストタウン・白いアレ・棘・緊縛)


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