寂れた神社の御神木

八村 ふみ

 少女は木を見上げた。
 それは長い長い年月を越えて。
 だけど決してその背筋を曲げることなどなく。

 自分の志を貫き通してきた存在だった。


 青年は木を見上げた。
 それは長い長い年月を越えて。
 だけど決して疲れも倒れもせず。

 強く逞しくあり続けてきた存在だった。


※  ※  ※


「だからねっ、都に行こうと思うんだっ!!」
 握りこぶしを振り上げて少女は言った。小さな小さな農村の外れ。粗末な木綿の小袖に茶色の帯を巻いて。束ねもしない長い黒髪は好きなように跳ねている。だけど、彼女の大きな瞳はきらきらと。まっすぐ前を見つめ輝いていた。
 何を突然、と青年と少年が彼女を見る。青年は大木の下に胡坐をかいて、少年はその木に登ろうと片足をかけた姿勢で。
 色の剥げ落ちた鳥居を潜り抜けた先のボロボロの社。参拝客はおろか神主すらおらず、村の老人がたまに拝みに来るのみ。
 そんな、村はずれの神社の境内ににょっきりと聳え立つ。
 巨大な巨大なご神木の、木陰。
 生い茂るたくさんの葉が擦れ合ってさわさわ音をたてていた。それと共に葉の隙間から漏れる木漏れ日がゆらゆら揺れていた。
「……どしたんだよ、突然」
 胡坐を組みなおし、青年が苦笑した。その後ろで、ぱちぱち目を瞬かせ動きを止めていた少年がするする木に登っていく。それを目の端でとらえながら、灰色の袴に長めの黒髪を一つに束ねた青年は、長いつきあいの少女に問いかけた。
「おまえみたいなのが都に行ってどーすんだっての。田舎モンだってバカにされるだけだぜ」
「殿様に会うのよ」
 年上の男の皮肉を意にも止めず、腕組みをして彼女は言い放った。きっぱりとした物言いに瞬いた青年を見て少女は一瞬満足げな笑顔を浮かべ。だけどそれからすぐに真剣な表情になる。
「あんた達だってこの村のありさま知ってるでしょ。米が足りない土地が足りない年貢が高い。今でこそかろうじてもってるけど来年凶作だったらどうなるかわかりゃしない。誰かなんかしなきゃ本当に大変なことになっちゃうわよ」
 その言葉に青年はうっと詰まる。ほどよく太い枝にたどり着いた少年が、きょとんと下を見下ろした。神社を囲う低い塀の外に広がる田園。稲狩りを終えた後、未だ次の作物の苗もほとんど植え切れていない殺風景な農村。山と山の間を吹き抜けていく風に少年は身震いして、太い幹にすがりつく。寒い。
「ばっかばかしい。おまえみたいなガキに一体何が」
「もう数えで19。ガキじゃないわ」
 笑って言った青年に、ぴしゃり、と言い放つ。
 そうしてふっと彼女は彼らに背中を向けた。静かに、少しだけ俯いて。それから空を見上げる。風が吹き抜けていく。さわさわと、葉が擦れ合う音。ゆらゆらと、揺れる木漏れ日。少女の髪が風になびく。一歩、木陰から外に足を踏み出して。
 太陽の下で、少女が振り向く。
「この村のために何かやりたいの」
 笑顔。
 さわさわと音。少女の笑顔に揺れる葉の影がかかる。木の上で少年が首を傾げた。理解しかねる風に瞬き、枝に腰掛け直す。青年は、何時に無く頼もしげな少女を見て戸惑うように目を見開いて。
「……まいったなぁ」
 ふっ、と。
 彼は唇の端を持ち上げた。片膝をたてて肘をつき、前髪を軽くかきあげる。笑みがこぼれた。そのまま笑い出す。人気のない神社に笑い声が響く。戸惑って少年が彼を見下ろした。何よ、と少女が軽く狼狽したように言う。なんか文句でもあんの。
「俺は当分黙ってようと思ってたんだけどなー」
 年下に先に言われてりゃ黙ってるわけにもいかねーか、と。笑いながら頭をかいた。それから胡坐を組みなおし。両手を両膝の上に置いて少女に向き合い、上体を前に乗り出して。
 にやりっ、と笑う。
「俺も村を出るつもりだ」
「え?」
 ぱちぱち、と。少女が瞬く。思いがけない台詞。青年はそのまま立ち上がった。左手を腰にあて右手の人差し指をたてて、偉そうに指を振ってみせる。少年がふわぁと欠伸をした。さわさわと、擦れる葉の音。ゆらゆらと、揺れる木漏れ日。
「ただ俺が思ってるのはお前のとはちょっと違う。俺はな、剣術の修行して強くなって、戦にいって武勲たててやろうって思ってるんだ」
 自信に満ちたような口調で拳をぎゅっと握り締めた青年を、驚いたように少女がじっと見つめた。少年は変わらず何も言わないまま木の幹にもたれる。両足を軽くぶらぶらさせて。
「隣国がこの国狙ってるって噂があるじゃねーか。殿様が兵を集めてるってさ。戦になんてなりゃこの村だってタダじゃすまねーだろ。俺もさ、俺なりに頑張ろうっておもってさ」
 幸い腕っ節には自信があるしな、と青年は言う。だから俺だって最近身体を鍛えていたのだと。
 そか、と少女が微笑った。それじゃあお互いに頑張らなきゃね。
 ざわざわ、と。
 生い茂る沢山の葉が擦れ合って音をたてていた。それと共に葉の隙間から漏れる木漏れ日が揺れていた。
 少女がふっと見上げた。聳え立つ御神木。大人が3人手をつないでやっと届くような太い幹。多くの葉を茂らせた両の腕を大きく広げて。真っ直ぐ真っ直ぐ、上に伸びる。
 それはまるで誰かを抱擁し守ろうとするかのような。ただその腕で抱えられる限り全てを全力を尽くし守ろうとするかのような。
 多分それは遠い遠い昔から、長い長い年月を積み重ねて。だけど決してその背筋を曲げることなどなく。
「……この村を守ってくれてるんだってさ、この木」
 青年が呟いた。
 かっこいいよな。こんなに太く立派にどっしりと俺達を見守ってくれる。
 そうよね、と少女が相槌を打つ。少しも曲がったりせずに真っ直ぐ高く伸びて多くの葉を茂らせて。
「あたしもこんな風になりたいな」
「……俺も」
 なれると信じて見上げる。呟く。
 ざわざわ。
 葉の擦れる音。
 見上げる二人の上に落ちる葉の影。ゆらゆら揺れる。大きな、高い、立派な神木。神主すら居なくなった神社に孤高にそびえる。その姿は神々しいほどに美しいものに見えた。超越的なほどに立派なものに見えた。
 とてもとても、頼もしいものに見えた。


「……すっごいなぁ、二人とも」
 ふいに。
 彼らの隣から気の抜けたような声がした。
 ぎょっとした風に二人がそちらに目を向けた先には、どこか気が抜けたように大きく欠伸をする少年が居た。いつ木から下りてきたのやら、破けた麻の着物を着て足は裸足。髪はボサボサで、顔も手足も泥で汚れている。
「すっごいなぁ」
 素朴な。驚いたような表情で繰り返す。
 少女が困ったような笑顔を浮かべた。青年が小さく吹き出し、それから少年の頭をがしがしと撫でてやる。少し照れるように笑った少年に、お前もでっかくなったら頑張れよ、と。せっかくこんな御神木サマに見守ってもらって育ったんだ。強くなんなきゃいけないぜ、と。
 そう、言うと少年は欠伸をした。んー、と。眠気を振り払うようにぶんぶん頭を振って。
「おいらはいいや」
 にぱっ、と笑った。
 きょとんとした二人の前で少年はくるりと回って木に向き直る。見上げて。木漏れ日に手をかざして、溢れる揺れる光を楽しむように目を細めて。
 何も言わないまま、笑顔。
 少女が何かを言おうとしたその瞬間に少年は身を翻す。ててててっ、と。素足で草を踏みしめて駆け出す。小さな、素朴な後姿。唖然と見る二人を置いて木陰から飛び出す。日の光の中に飛び込む。眩しさに一瞬二人が目を細めたその瞬間に。
 あっという間に神社の門を飛び出し、見えなくなった。


※  ※  ※


 少女は木を見上げた。
 青年は木を見上げた。



 少年は。

 木を、見上げた。


※  ※  ※


 高く高く木は聳え立つ。
 真っ直ぐに。その背を曲げることなく。多くの葉を茂らせて両腕を大きく広げて。長い長い年月。強い風が吹こうとも、雪が重く降り積もろうとも、雷が襲ってこようとも、病気にかかろうとも、手入れをしてくれる人が居なくなろうとも。
 都へ行った少女は何とか殿様に会うための努力を始めた。素のままで会おうとしても叶わず美しい装いと作法がなくてはならないことがわかった。化粧と髪を美しく結うことを覚えた。着物を手に入れる為働き始めた。農村の訛りを抜かなくてはならなかった。学ぶことは多かった。
 都へ行った青年はとりあえず道場に押しかけて無理やり弟子入りした。住み込みになってしまうから数々の雑務をこなしつつ修行に励んだ。めきめきと腕が上がった。強くなった。
 少年は。
 一人で今日もまた、木の枝の上に腰掛けていた。
 その場所から見下ろせる村の景色は、あの日と寸分変わらぬ殺風景なもの。相変わらず暮らしは貧しく、食べるのにも結構不自由したりする時もたまにある。隣国が攻めてくるという噂も相変わらずだ。時々ひやりとする出来事が起こったりもまぁ、する。危ないのは変わらないらしい。
 少年の手には町に行った二人、それぞれからの手紙。彼は未だ一度も村を出たことなどは無かった。相変わらず粗末な着物を着て、頭はボサボサで、裸足で泥で汚れて。背が伸びた以外は何一つ変わらぬままの少年がそこに居た。
「すっげぇなぁ、二人とも」
 そうして。二人からの手紙を読んで笑って、あの日と同じ台詞を繰り返す。
 二人からくる手紙の内容はいつも、同じだ。
 都の珍しい有様のこと。毎日色々頑張ってること。村から出て新しく出来るようになったこと、発見したこと。色んなこと。
 色んな、悲しいこと。
 辛いこと。
 寂しくて寂しくてしょうがない時が、あること。
「……すっげぇなぁ」
 また同じ台詞を繰り返す。自分が座っている、その木に向かって、どこか哀しそうに微笑いながら。
 今日吹き抜けていく風もやっぱりあの日と同じで、寒い。さやさや、と葉が擦れ合う音。だけどあの日のその音よりも、なんだかずっと小さく、弱々しい。
 そんなその木を見て少年は黙って目を細める。優しくその硬いざらつく木の肌を一回、撫で。それから静かに頬を寄せた。
 すっげぇな。
「殿様に会うためにキレイになろうとしてたらなんかいっぱい敵が出来るんだって。自分はただ村の事訴えたいだけなのになんだか色んな嫌がらせ受けたりするんだって。剣で誰かを負かしたら逆恨みされることがあるんだって。農村の人間のくせにって言われるんだって。大勢にボコられたりもしたんだって」 出たことを後悔はしないとしても。
 さやさやと、葉が擦れ合う音が響く。パサリと自分の頭に落ちてきた枯葉を取って少年はへへ、と笑う。幹に寄り添ったまま静かに上を見上げた。
「おいら、知ってるんだー」
 秋でもないのに散っていく木の葉を見ながら呟く。その声は静かに木の幹に吸い込まれて消えてゆく。
 一番、哀しいのは、寂しいことだ。
 苦しくて哀しくても誰にも言えず誰にも気付いてもらえないことだ。
 頑張ってれば色んな事があるのは当たり前。生きてるんなら当たり前。
 だけど寂しいって。
 誰にも何も言えなくて、寂しいって。
「あんたが、寂しかったって」
 さやさや……さやさや。
 秋でもないのに散っていく木の葉。あの日よりも大分減ってしまった。丁度あの二人が去ったその次の年から。どんどんどんどん、減っていった。
「あんた、もうボロボロだろ」
 立派に立っているように見えるだけで。
 少年は分かっていた。例えば隣の太い枝は病気にかかって腐りかけてる。太い幹のあちこちに穴が開いて。根っこだって多分何本も、虫に喰われて駄目になっているだろう。
 どんなに立派に見えても、内部が腐り果てて空洞になって皮だけでもってる木だって、あるんだ。
 誰も気付いてはくれないけれど。
「頑張ってたな、あんたは」
 寂れた神社の御神木。
 誰も世話してくれなくなっても、たまに来ては拝んでいってくれる老人が居たりするから。理想像として見上げて、心の支えにする若者が居たりするから。
 長い長い時を、生き続けて。
 知ってたよ、おいらは。
 知ってたよ。
 さやさやと、葉の擦れ合う音。もう大分弱々しくなってしまったその音。
 木漏れ日が差し込む。葉が減ってしまったせいで、あの日よりもずいぶん眩しく差し込むようになった。
 眩しい、木漏れ日に照らし出されながら。木に寄り添って少年は、微笑む。
「おいらはここにいるよ。おいらにはそんなに強い意志も戦いの力も無いから」
 端で聞かれたら多分ただの情けない言い訳にしか聞こえないであろう、言葉。素朴な笑顔。
「だからせめてあんたのためにここにいるよ」
 さやさや……さやさや。
 汚い装い。粗末な着物。肌は泥で汚れ髪はボサボサ。
 そんな少年はボロボロになってしまった木を見上げる。幹から身体を離して、枝の上で立ち上がって。微笑って、見上げる。
「せめておいらはあんたのためにここにいるよ。あんたを心の支えにしてる人たちのためにここにいる。あんたが倒れちまった時にはあんたで仏像でも彫ってやる」
 頑張るあんた達が寂しくないように。
 おいらだけはあんた達の辛さ分かったままここに居るよ。
 たんっ、と。少年は枝を強く蹴った。ふわっと身体が浮く。きらきら揺れる木漏れ日の中。風にあおられて髪が、服の裾がなびく。宙を舞う。ふわりと。散っていく木の葉と共に、遊ぶように。
 すたっと地面に着地して。
「そんでそれをあいつらに送ってやるんだ」
 にぱっと笑顔。
 そうして少年は身を翻す。素足で草を踏みしめて木陰から飛び出し、日の光の中へ。

 頑張る誰かがいる。
 誰かの為に頑張る誰かがいる。
 苦しくても哀しくても頑張る、誰かがいるんだ。

 少年は駆ける。二人から届いた手紙をぎゅっと握り締めて。
 紙と筆は家にある。返事を書かねばなるまい。村の様子、こちらの有様。頑張れとは書かない。それ以外にもいっぱい書くべきことはある。

 誰かのために動く誰かのために居てあげる誰かであろう。
 頑張ってる誰かが疲れて振り向いた時に笑ってやれる誰かであろう。
 頑張る誰かが寂しくないように。
 あの木だってずっとそうしてきたように。

 彼はまっすぐに、駆け抜けていく。


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