In the mist

あおり
「もう、こんな時間か」
 時計を見て、つぶやく。
 鎖爺の朝は早い。
 ……といっても今日は寝坊だ。壁の時計は、すでに六時二五分をさしている。
 この季節、外はまだ暗い。
 さらに言うと、緯度の高さのため日の出は九時をすぎる。
 それまでに家のまわりの雪をかいてしまわなければ。
 おそらく今年もたくさん掘出人がくるだろう。
 こんな雪の深い年には、いつだって宝物が埋まっている。
 誰が埋めるのか。
 何が埋まっているのか埋めるのか。
 だれひとり答えを知る者はいない。
 判っているのは、雪の中に宝物があり、それを見つけるのは一日に一人しかいないということ。
 ただ、ノエルならば、この森の主ならば知っているのではないか。誰が言い出したかは知らないが、いつしかそんな噂が広まっていた。
 挙句の果てには管理人に過ぎない鎖爺をノエルだと言う者まで。
 彼がノエルでないことは彼自身が知っていたが、それでは十分ではなかった。時折彼を脅して埋蔵品の調達先を聞き出そうとする輩がいるのだ。
 ――そんなの、俺の知ったことか。
 彼は運命師に任命されたパンドラの森の管理人に過ぎない。
 無論「パンドラの森」とはあらゆる厄災を詰め込んだ開けてはならないとされている箱からとったものだ。
 この日から、管理人たる彼の不運は始まった。

 李焔は妖術士(即ち狐の鳴きまねがうまい)
 訃環は祈祷士(即ち自我を失うことが多い)
 ひょんなことから(便利な言葉だ)出会った二人は意気投合したわけではないが、とりあえず一緒に旅をしていた。李焔は経済的理由から。訃環は体質的(職業的?)理由から。
 いちおう、それだけの関係。エルキュール・ポワロとアーサー・ヘイスティングズとか、ナポレオン・ボナパルトと「『不可能』という単語を見つけることが『不可能』な辞書」とか、キキとララとか、マダムとミスターとか、チャールス・ドジスンとルイス・キャロルとか、そういう関係に発展することはまずないであろう関係である。(しかし、フィーリとバードという手もある)
 ……話がそれた。とりあえず彼らの行く先にパンドラの森が在ったことだけは明記しておこう。ちなみにその行く先は目的地でもあったりする。
 無論、宝物を掘りにいくのだ。
 彫りに行くのではない。
「ね、訃環、彫刻刀忘れてないよね」
「……(頷く)」
 彫りに行くのでは……多分、ない。

『はるか千年の昔、つまり過去の伝説を作りだすのに安易に設定されるような頃、かつてパンドラの森の雪の中から「パンドラの箱」が掘り出されたことがあるという。掘り出したのは大ぼら吹きの漁師で、魚が全然つれなかったその帰りのことだった。家に持って帰るための魚でもないかと期待したらしい。漁師は若い青年で、箱を見つけたときにノエルに会ったという。
 ノエル曰く、その箱を開けてはならぬ、と。
 漁師は無視してさっさと紐を解いた。
 ノエルは悲しげな顔で、漁師のわき腹をくすぐり、箱を奪った。
「どんなにあなたが開けたかろうと、私の瞳の青いうちは開けさせません」
 そういってノエルは神風を起こし、漁師と箱を吹き飛ばした。
 海の彼方へ』
 ・
 ・
 ・
 森の中、木漏れ日を遮る影二つ。
「なにそれ?」
 小柄な影が尋ねた。
「ノエル降臨秘譚第二四証には確かそうあったはず」
 腕の長い影が答えた。
「それで?」
 パンドラの森の樹上にて
「あなたの考えるノエル像にこれは食い違うのではないかと思いまして」
 ざわめく影が、二つ。
「あ、『青い瞳』か!」
 卯唯が驚嘆する。
「そう、ノエルがダハーブからの移民の末裔ならば、瞳は赤いはず」
 孤絆も、悪い気分ではない。
「……なんだよ、その読者に対してしか意味のない科白は?」
 つまり、素直に良い気分だとは言いがたい。
「私なりの……」
 一見すると
「孤絆なりの?」
 からかっているようにも見えるが
「お節介、といったところでしょうか」
 そんなことはない。
「……」
 とは孤絆の言い分であり
「なんですか?」
 真っ赤な嘘である。
「いえ、なぁんにも!」

 殺風景な野原。その中に幾多の足に踏み固められ、草の生えなくなった土地が南北にのびている。
 人はそれを道と呼ぶ。
 その道の上に、やっぱり影二つ。
「訃環……次の宿、まだ?」
『見えていない……即ち、まだだ』
 訃環は懐から筆を取り出し、空中に書いて見せた。
「んなことはわかってますよう。訃環はこの辺一回来たことあるんでしょ?」
『時は遷ろう。七年前と同じ場所に宿があるかは不明』
「……で、前に来たときはどの辺りにあったの?」
『知るものか。七年前といえばまだ十にも満たぬ歳ゆえ』
「……さっきから、その口調、どうしたのよ」
『祈祷師たる者、声は祈祷をつげるためにのみ使うもの』
「あんたまだ『祈祷師』じゃなくて『祈祷士』でしょ!
 っと、それは知ってるけど何で今日はそんな古めかしい喋り方してるわけ?」
『なんの。ただ単に折角筆談をするのだったらこういう表現もありかな、と思いついたまで』
 つまり退屈しのぎというわけだ。李焔だけでなく訃環も暇を持て余しているらしい。もちろん、足は止まらないが。
「なんかさ、まだ疲れたって感じじゃないけど、こうも見渡す限りの草原じゃちょっと退屈じゃない?」
 李焔は話題を変えた。
『もっと修養なさい。妖術師になるのだろう?』
「何? そのもったいぶった言い方は」
『この話しかたのどこがもったいぶっている?』
「ちがった。『えらそーな』だった」
『言葉をもっと勉強して大切にするように』
「さっっっすがは祈祷士サマのおことばね」
「……」
 訃環は沈黙した。
「な……何黙ってんのよ?」
『いや、コメントのしようがなかったからこの辺で会話も打ち切りかな、と』
「うちきるな!」
『だって、筆でしゃべるの、結構めんどいし』
「『めんどうくさい』でしょ。言ってるそばから省略ね。『言葉をもっと大切に』だっけ?」
 李焔は嬉しそうに笑った。年下の癖に、自分よりも偉そうに、というか、おとなびてふるまう訃環に対するちょっとした優越感、といったところか。などと精神分析してみても商品は何も出ないが。
 そんな他愛ない会話の折、李焔が叫んだ。
「あっ! 見て」
「……(頷く)」
 李焔の指した地平線には、うっすらと雪山の影が見えていた。
 その麓に、パンドラの森はあるという。
「鑿、ちゃんと持ってるよね?」
 いつになく李焔は真顔で尋ねた。
「……(真剣に頷く)」
 ひょっとしたら、彫りに行くのかもしれない。

「ノエル千年記念大祭」
 卯唯がビラを読み上げた。
「なんですか、それは?」
「村おこしって奴じゃないかな? 今、都で流行ってるみたいだし」
「……それはおそらくないでしょう」
「何でだよ、孤絆」
「村興しは都会でやっても意味がありません」
「え?……な、どういうことだ?」
「本気で判りませんか?」
 湖畔が目を細めた。卯唯はこの視線に弱い。右手を焼かれたことも一度ある。
「じょ、冗談だよ。だから、その目はやめてよ」
「まったく、冗談の通じない人ですねぇ」
「え? そっちがからかってたのか?」
「…で、そのビラはなんなんです?」
「(話そらしたな)……いや、さっき拾ったんだ。そしたら、この森で人間たちがなんかやるみたいだし、ノエルに関係してるみたいだし」
 そういって卯唯はビラを孤絆に差し出した。
「ああ、ほら。この間話したでしょう? ノエルがこの地に降りたった話。つまり、今年がここにノエルが来てから千年目だということにしてお祭り騒ぎをやって景気を回復させようという企みですね」
「? お祭り騒ぎで景気が回復すんのか? つーかよく千年間も日にち数えてる奴がいたなぁ」
「……まあ、今年が千年目かどうかは不明ですが……とはいえ適当にでも設定しないと永遠にノエル千年祭なんてできませんからねぇ。それから景気が回復するかどうかは知りませんが、単に人集めの意味があるのかもしれません」 
「掘出人なら、毎年山のように来てるじゃないか」
「でもかれらは一種のギャンブラーみたいなものですから、全財産なげうってここまでやってきて宝に出会えず力尽きるような人も結構いますからね。そんな人は外貨を落としていかないし、村人から出世払いで食料もらっても結局死んでいくっていう連中ばっかりですから」
「つまり、ちゃんとした外部の人間と交流したいわけだ」
「ええ、そういうことでしょうね」
「でも、気になるのがその日程……」
「! この日付、夏ですね」
 どうやら気づいていなかったらしい。
「普通、季節くらい合わせるもんじゃないか?」
「パンドラの森のノエル降臨の記述は明らかに冬。ひょっとして……」
「なんだよ?」
「いえ、ちょっと。単なる仮説です。でも、まさか……」
「はっきり言ってくれよ」
「いや、そんなはずはありませんから」
「言ってくれなくちゃわかんないだろ?」
「いえ、その……人間という種族は季節の循環にさえ気付かずこれまで栄えてきたのかと思って、でも、そんなはずは……」
「……」
「ありませんよね」
「孤絆、俺のことからかってるだろ?」
 湖畔はこのとき、否定しても肯定しても殴られそうな予感がしたという。

 鎖爺は目を覚ました。後頭部に痛みを感じる。何者かに殴られたのかもしれない。いや、原因はどうでも良い。必要なのは対処法だ。不可欠なのも対処法だ。『必要』と『不可欠』の違いは判らないが。
 いや、そんなことを話している暇はない。とにかく鎖爺は急いで家に戻らなければならなかった。なにしろコートもなく雪の中に倒れていたのだから。そうだ。このことを最初に考慮すべきだったのだ。急がないと、既に指の感覚がない。
 ……はたして、扉をあけられるのだろうか?

 その家は、雪深い檻の中にあった。いや失礼、深き雪の檻に閉ざされた森の中にあった。
 一見するとヘンゼルとグレーテルが見つけたというおかしの家に見えなくもない。が、よくみるとただのログハウスである。もちろんその実体はポッキーである。等というベタなオチはつかない。
 そしてそして、雪中やっぱり影二つ。
 李焔と訃環である。正確には先ほどそのように紹介された人物たちである。まあ実際に李焔と訃環なのだから何の問題も生じないが。
 二人はその家を発見し、駆け寄った。
「ちっ」
『どうした?』
「お菓子の家じゃなかった」
『パンくずを撒いてこなかったからね』
 訃環の言葉からすると、パンくずを撒いてくれば丸太小屋がお菓子の家になるのだろうか?
「ああ、そうか。残念」
『そう、しかし、われわれにはこれがある』
 訃環はリュックから筆と鑿と破城槌と割箸をとりだした。
「そうね」
 李焔は彫刻刀とかんじきと歳時記と風呂敷をとりだした。
『和歌でも詠む?』
「残念でした。歳時記がいるのは俳句ですよーだ」
 とにかく二人は(かなり遅いが)かんじきを装着し、風呂敷を頭からかぶり、鑿と彫刻刀で割り箸を彫り、小さな鍵を作り出した。
 そして、その鍵を家の扉に差し込む。
 カチャリ。
 音はすれども扉は開かず。中に閂があるようだ。
「……」
 訃環はそのまま筆を正眼に構え、扉と壁の隙間に差し込み、閂を跳ね上げた。
 キン。
 そして李焔が扉を引き、
 ガシャン、
 と、チェーンが扉をつなぎとめる。あたかもそれが最後の抵抗であるかのように、それが最後の一線であるかのように、儚げに。
「しゃーない」
 李焔は訃環から破城槌を受け取り、チェーンのつながっているあたりを叩いた。
 ガン。音を立て、扉の一部が抜け落ちる。
 ガタン。一瞬遅れ、中で時計か何かが落下する。
 かくして扉は開かれた。
「あーあ、これじゃまるで泥棒みたいね。いくら寒いからって人んちの扉壊してはいるんじゃ」
『いや、これは多分遭難者用の避難用の山小屋だから大丈夫だと思う』
「え? だったら何で鍵が三重にもなってたの?」
「……」
 訃環の顔が見る見る瞳の色に同化していく。
『李焔、私をはめた?』
「い……いいがかりよ!」
 確かに、勘違いして鍵あけを始めたのは訃環である。が……
『でも……李焔はここが他人の家だと気づいても侵入する気だったわけ?』
「だって……寒いし……」
『……違いない』
 訃環は微笑んだ。 

 鎖爺は目を疑った。自分の家の煙突から煙が出ている。つまり、何者かが侵入しているということだ。
 ――またもノエルの財宝目当ての輩か。
 多少賢い読者はこの時点で、彼の家こそが李焔と訃環が無理やり扉を開けた家だと思うだろう。今回はそう思った諸君の勝ちだ。しかしこんなことは続かない。先が読めるのはここまでだ。(多分)
 鎖爺は足音を立てぬように我が家に近づいた。
 侵入者の足跡を調べる。
 ――犯人(ホシ)は一人!
 なにしろ若いころは刑事にあこがれたこともあるのだ。適当な判断をしたとしても彼の責任ではない。(いや、鎖爺の責任か)
 ――さらに若い男女と見た!
 間違いではない。この一行に限って言えば。
 扉のそばまで近づき、サイレンサー付きの銃にビニール袋をかぶせる。これで硝煙反応対策もバッチリだ。
 そして、扉に手をかけ、鎖爺は部屋へ突入した。
 ――動くな! 手を上げろ!
 若いころ何度あこがれたか知れない科白を口にして、もとい、口にしようとして気づく。唇が凍り付いている。
 しかし部屋の中の男女は諸手をあげた。
 別段李焔と訃環が超能力者であったわけではない。(そうだったなら訃環もわざわざ筆談などするまい)鎖爺の銃口が自分たちを捕らえていることに気づいたからだろう。
 どうやら意思だけは伝わったらしいとみて、鎖爺は撃鉄を引いた。遅すぎると言うなかれ。所詮は素人なのだから。
 そして引き金に力を込める。もとより相手は(鎖爺の感覚では)一人だ。男女の片方さえ撃てば(鎖爺の頭の中では)終わるのだ。
 が、どうしてもその最後の一線が越えられない。
 それは鎖爺が李焔の瞳に生き別れになった妹に良く似たまなざしを見出したからではなく、苦悶の表情を浮かべている訃環に自分の残酷さを見せ付けられたからでもない。引き金が都合よく凍っていたからだ。
「あっ!」
 李焔が小さく叫んだ。
 それが、鎖爺の意識が落ちる最後の瞬間だった。

 部屋に入った李焔と訃環は、早速暖炉に火をつけた。
「侵入早々放火とは……」
 李焔がつぶやくが訃環は無視する。
「ええと、なにかお昼ごはんになる物は……と」
 無視された痛みを誤魔化そうと、李焔は床下収納庫を開ける。
『その前に、湯を沸かすべきじゃないか?』
「……」
 残念だが、背を向けている相手に筆談は通じないのだよ、訃環少年。
 自分が虚しくなり、訃環は薬缶を火にかけた。
 ――そうさ、李焔に任せようとした自分が悪かったんだよ……たとえ薪割りに疲れていたとはいえ、ね。
「ねぇ訃環、巨大な蜘蛛の死体しかないよ」
 後ろを振り向かず、李焔は言った。
「……ねぇ。聞いてるの? おっきな蜘蛛の死骸しかないんだってば」
 訃環としては声をだすわけにいかないので、軽く李焔の肩を叩いた。
 ――それにしても、李焔は何やってんだ? 蜘蛛しかいないと言っておきながら。
「うわっ! 何?」
 肩に手をかけると、突然李焔が振り向いた――大蜘蛛を抱えて。
 間髪入れず、訃環は飛び退った。
 ――まて李焔、お前はなんで蜘蛛を抱えているんだ?
 そう口にしたいのをぐっとこらえ、訃環は筆を取り出した。
『蜘蛛をどうする気?』
 李焔は即答する。
「だって、食料庫にあったから」
『……毒があるかもしれない』
 蜘蛛を食わされるわけにはいかないとばかりに、訃環は反論する。
「だって、食料庫にあったから」
 だから大丈夫だといいたいのか。
『断言する。その蜘蛛は食用じゃない。勝手にそこに侵入して死んだ。それだけだ』
「でも、埃かぶってるよ。これが食料じゃないのなら、この家の人が処分しているはずだよ」
『埃をかぶるほどのあいだ、この貯蔵庫があけられていなかっただけだ。だから、例え食べ物だとしてもそれはもう腐っている』
 かなり強引な理論でもって説得した。
「ん〜、残念」
 ――まったく、妖術士は見習いの間に一度狐同様の生活をする時期があるというが……
「お師匠様に蜘蛛は食べちゃだめって言われてたから、きっと美味なんだろうなって思ってたのに……あ、お湯沸いてる」
『待て、なんで蜘蛛を持ったままいく?』
 けれどやっぱり背中から筆談は無理だった。が、幸運なことに、蜘蛛は暖炉の炎の中に投げ込まれた。
 訃環は、そのまま薬缶に手を伸ばす李焔の肩をつかみ、
『先に手を洗え』
 そして薬缶をとろうとし、火傷するところだったと気づいてその手を引っ込める。すると
「訃環じゃ火傷するでしょ」
 と、李焔が素手で薬缶を火からおろした。
『お前はなぜ大丈夫なのだ?』
「運の良さ、かなぁ」
 と、李焔が答えたまさにその瞬間!
 扉が開き、初老の男が銃を構えて入ってきた。
 いつもなら突然狙撃されたぐらいで動じる二人ではなかったが、この時はちがった。
 何しろ侵入者(といってもこの家の主なのだが)は体中にところどころ氷がはり、顔が言葉どおりに真っ青だったのだから。心配のあまり李焔が薬缶を落としたとしても、こぼれた熱湯が訃環に掛かったとしても、それで訃環の表情が声を出すまいと苦渋に満ちたとしても、不思議なことはなにもない。
 で、結局。
「あっ」
 訃環、ごめん。と李焔が口にするまもなく、
「ああああ!」
 熱い、という言葉にこそならなかったものの、訃環は声をあげていた。

 ――キコエル。ヨブコエガ。
 ……
 私ヲ、呼ブコエが、きコエる。
 ……
 呼ビ覚ます声が。契約者ノ声が。
 ……
 眠りは解けタ。私は行かなけレば。
 ……
 未熟な魂が、私をひきよせる――今。

「あああああ!」
 ――まずい。訃環が声をあげちゃった。
 李焔はうろたえた。
 バタン!
 鎖爺が倒れる。つまり、そちらの方角から神がやってきたということだ。
 訃環が声を出した瞬間に、神はやってくる。彼の声帯が震えると同時に。李焔の耳に届くよりも早く。そして訃環に憑依する。
 こうなったら大概、訃環が気を失うまで神は出て行かない。神は訃環の意識を操っているため、訃環の意識が途切れてしまえば一旦出て行かざるを得ないのだ。そして神が訃環の意識に侵入できるのは、訃環の声帯が震えているときだけ。
「さて、久しぶりの下界か」
 そういって、訃環の思考をのっとった誰かは椅子に腰掛けた。
「ええと、今回はどちらの神様?」
「おお、李焔か。するとこの体はやっぱり訃環か。残念だね。こいつとは八年前に我がこいつの師に入ったときに出会って以来なのだが」
 どうやら一度訃環に取り付いた状態で李焔に会ったことがあるらしい。
「ご愁傷様」
 言いつつ李焔は希望を持った。記憶にある限り、この話し方をする神はそんなに古い神ではない。つまり、まだ人の属性が抜けきっておらず比較的話の通じるタイプだ。あくまでも、比較的、だが。
「しかも、見覚えがあるかと思えばパンドラの森ではないか」
「ご存知なの?」
 神になるための就神試験の地理は、世界中がくまなく範囲であることは知っていたが、敢えて李焔は尋ねた。
「まあ、七年前に訃環に憑依したままこの雪の中をさまよったことがあるからの」
「な、なんでまた……?」
「ふむ、実は今回我が来たのはそのことと関係があっての……」

 伝説ではノエルは漁師を海の彼方に吹き飛ばしたという。
 しかし、海の彼方とは、つまるところ陸である。
 漁師が飛ばされるうちに箱を落としてしまい、その呪いで鶴になったことまでは神々の間で調べがついていた。
 が、その後の経緯については二つの論派に分かれて今も言い争っている。
 片方が言うには、鶴となった漁師は再び人間に戻るため、箱を探して飛び回っている。と。箱の呪いとはつまり、開いてくれなかった漁師への恨みであるのだから、漁師は解呪のため、箱を見つければすぐに開けようとするだろう。しかも、呪いによって漁師は死ねない体となっている。早く捕まえなければ大変だ。と。
 もう片方がいうには、漁師はノエルの作った折に閉じ込められている。が、箱の呪いによって死ねない体となっている漁師は、永き瞑想によって神気を蓄え、平均的な神々程度の力を得、いつしか白龍となって世界をおびやかすであろう。と。

「ど……どっちにしても、世界の危機じゃない!」
「いや李焔、さらに差し迫った危機が判らぬか?」
「ひょっとして……いい争いが高じて……神様同士で……」
 訃環は頷いた。
「察しがいいな。我が此処を彷徨ったというのも証拠を求めてのこと。論争に決着がつきさえすれば、神々の争いは避けられる。伝説の漁師とやらが人間界を滅ぼそうと神にはあまり関係がないのでな」
「なるほど……確かに神様にとっちゃ神様戦争の方が恐ろしいわけね。納得」
「左様。遠くの火事より背中の灸というわけだ」
 どうやらその辺の感覚は人も神も変わらないらしい。
「……で、今回はなんであなたが来たわけ?」
「我も神としては未熟だからね。まだ人の情が抜けきっていない」
 この言葉がどれだけ李焔を安心させたことか。
「まあ、一人ぐらい人間の味方をしたとしても、あいつらが大して困るわけではないだろうし」
 比較的、どころではなく、かなり話のわかる神だったようだ。しかし、李焔は思う。いくらこの世界で神が何かをしようとしても、一度訃環の意識が途切れてしまえば終わりではないか?
「もちろんその通りだ」
 尋ねる李焔に神は答える。
「確かに、我がここにいられる時間はものすごく少ない。そこで」
 ふむふむ。そこで?
「いまからこの森の秘密を教える。訃環と一緒に探して欲しいものがあるのだ。そしてできれば三日後にそれを煮込んでほしい」
 煮込む?
「要するに三日以内にこの森で新巻鮭を見つけてもらわなければならないのだ」
「新巻鮭……」
「見つからなければタカアシガニの末裔でも何とかならんことはない」
「そんなものまで埋まってるんですか? ここは」
「取らぬ狸の皮算用」
 訃環は答えにならない受け答えをした。
「……で、この森の秘密とは?」
「我の言ったことを訃環に伝えることだ。訃環なら多分解ってくれるだろうから」
『神を信用してはならない。往々にして彼らは人を騙すのだから』
 師の詞が李焔の脳裡を駆け巡る。が、今の李焔には目の前の神から真実を聞きだすことなどできない相談。祈祷師でも隣にいれば話は別だが。
「さて、言うことはいったし、帰るかね」
「え? 訃環の意識が途切れなくてもでていけるの?」
「我々さえその気になればね」
「……」
「騙られたことがあるようだね。気をつけることだ。紙はよく人を騙すのだから。では、また会おうよ」
 そして、訃環はテーブルに崩れ落ちた。

 髪を梳きつつ、律帝はふと外を見た。雪の中、六歳は越えていないであろうと見られる少年が、霧の中を見つめるようにきつい目つきでこちらをにらんで立っている。
「どうした? 少年」
 手を休めることなく、律帝は声をかけた。
「少年じゃない! 訃環だ」
「なるほど、それが名前か。すまんね、名前など知らなかったのだから」
「! 律帝にも知らないことがあったのか?」
「心外だねぇ。この無知な律帝が皆からそう思われているとは」
「無知……そんなに何も知らないのか? 皇帝なのに?」
「皇帝になり損ねたといっておくれ。十年以上も前から僕はただの祈祷師さ。いや、十年前じゃまだ祈祷士か」
「祈祷師……葬式で死者の詞をつたえる者なのか?」
「おやおや、僕の仕事さえ伝わっていなかったとは。祈祷の依頼がこないはずだ」
 律帝は顔をあげる。長くまっすぐな赤毛が手からこぼれていく。
「ああそうだ。ええと、訃環、だったね。今日はどうしたんだい?」
「いや、いい。律帝なら知っているかもと思ってきたんだけれど、律帝が無知なら、いい」
「そういいなさんな。どうだい、スイカでも」
 律帝は一旦奥に引っ込み、黒い扇形の物体を幾つかお盆に乗せて持ってきた。
「……スイカ? それが?」
「いかすみスイカ。僕の考案した食べ方だ」
 訃環は暫く逡巡したが、幼さゆえの好奇心に負け、結局スイカを貰うことになる。
「確かに僕は無知だけど、でも僕はこれで祈祷師だから」
「葬式の話じゃない」
「まあ聞きなさい。祈祷師ってのは、神をその身に降ろせるんだ。つまり、祈祷師の体を、神は操ることができる」
「じゃあ、律帝を通して、ノエルにも会える?」
「はは、ノエルときたか。う〜ん。流石に僕ぐらいじゃノエルは降ろせないね。怠け者だったから」
「……?」
「ノエルを降ろす呪文は調べればすぐにわかるけど、唱えるのに一日二四時間年中無休の食事抜きで三二年ぐらいかかるんだ。もっとも、祈祷士の間に十分な枷をつけておけば三日で降ろせるそうだけれどね」
「枷? 律帝はその枷が軽かったのか?」
「まあそういうことだね。おかげで器用貧乏な祈祷師になってしまった」
「どんな枷だったんだ?」
「よくあるやつさ。特定の詞を使わない、という奴だね」
「どんな詞だったの?」
「それは教えられない。人に弱みを見せることになるからね。」
「どのくらいの枷なら、ノエルに会える?」
「そうだねぇ。声を完全に捨て去るぐらいは必要かな」
「声を……」
「やってみるかい?」
「いつまで?」
「え?」
「枷は祈祷士の間につけるものなんだろう?」
「そうだね、ノエルを自在に呼び出せるようになるには少なくとも七十年」
「……遅すぎる。それじゃ間に合わない」
「でもノエルも降ろせるってだけの状態ならだいたい七年の沈黙で十分だろうけど」
「それだけ経てば、祈祷師になれるのか?」
「長くても十年はかからないだろうね」
「……十年」
 くりかえす、訃環。
「やってみるかい?」
 のぞきこむ律帝の瞳。
 その碧眼に呑まれたというべきか。いつのまにか訃環は神々と契約を済ませていた。

『三日後といえば律帝の命日だ』
 李焔から話を聞いた訃環はそう宙に書いた。
「律帝っていえば、訃環のお師匠さんだよね」
『そう。ちょうど一年目』
「関係がありそう?」
『死んだくらいで悪戯をやめそうな人ではなかった』
「すごい言い様ね」
『僕を弟子にしたのも、要望を叶えるためというよりあの人の退屈しのぎだった可能性が高い』
「そんなにひどい扱いうけてきたの?」
『五つになったばかりの僕を、親の存在も確かめず引き取った。いくら僕が何も言わなかったとはいえ、あれはちょっと強引だと思う。実際それ以来両親にあってないし』
「へ? そ、それは……」
『こけしの多い土地だったから、それでも良かったのかもしれないけれど』
 なるほど、わが子をその手で間引くよりはどこかで生きているかもという希望を持てる状態でいなくなってくれたほうがまだましということか。李焔にもその感覚が解らなくはないが、少し悲しい。
「……」
『気にするな。とにかく李焔、無心にその辺を掘ってくれないか?』
「やっぱり探すの? 新巻鮭」
 訃環はあいまいな表情を浮かべただけだった。
「それに、なんであたしだけ?」
『それがこの森の秘密というところか』
「まさか、さっきのお湯のこと、まだ根にもって……」
『憑依した神が両足を雪の中に入れてくれたら少しはよかっただろうが』
「そんなに痛む?」
『今日歩けば明日は歩けないな』
「……わかった」
 それからしばらくして、凍死寸前の鎖爺が目を覚ました。
『気分は?』
 筆談になれた李焔ではないので、訃環はちゃんと紙に書いて示した。
「お前……俺の家に何しに来た?」
『凍えて死にそうなところへ都合よくこの家があったものだから。つい…』
「つい……か」
 それがおもしろかったのか、鎖爺の表情がやわらいだ。
『どうやら落ち着いたみたいだね』
「そうだな。さっきあんたたちに会ったときの俺は、まったくどうかしてたよ」
『この錠剤に見覚えは?』
 訃環はそういって、二粒の薬を示した。
「俺の使ってる奴だ。いやまて、こっちのは違う。一回り小さいな。俺は知らない」
『両方とも同じビンから出てきた物。ちなみにこっちは幻覚剤と睡眠薬の中間のような物質』
 そう書いて、鎖爺が知らないと言ったほうを示した。
「それで、今朝寝坊したのか! 畜生、どいつだ!」
『身に覚えは?』
「この辺の奴ら全員だ。なにせ俺をノエルだなどとぬかしやがる奴らだからな」
 ――ひょっとして、この人は……
『この森の管理人?』
「ああ、知らなかったのか? 俺が管理人のサヤだ」
 ――なんと! サヤと聞いていたからてっきり女性だと思っていたが。
『サヤって……漢字は?』
 と訃環は筆を渡す。『鎖爺』と流麗に書かれた紙を見て、訃環は納得した。
「んで、お前さんは?」
『訃環(ふわ)』
 親切にも読み仮名を添えてやった。
「すげえ字だな。おい」
『よく言われる』
「ところで、なんで喋んねえんだ?」
『とある修行の身なので』
「へー。そういやもう一人女がいたな」
『李焔は、新巻鮭を……』

「みて、孤絆。あの子、新巻鮭なんて探してる」
「なるほど、しかも世界を救うためらしいですね」
「どうするの?」
「まあ、望んでいるものを見つけさせてはいけませんからね」
 孤絆は忍び笑いをもらす。
「何考えてんのさ」
「様子見、といきましょうかね」
「なあ、教えろよ」
「お楽しみです」
「……いつまでだよ」
「そうだね。三日後、ってとこかな」
「三日後、だね」
「それまで眠っておくといい。ここ暫く眠ってないのでしょう?」
「その通り。じゃ、三日後に」
 卯唯は去っていく。その背中へ
「三日後に」
 孤絆は再び笑った。

「新巻鮭、新巻鮭っと」
 ――それにしても訃環も神様も本気で新巻鮭を探してこいって言ってるのかしら。
 ちょっと信じがたい。が、はっきり否定しきれるわけでもない。まったく、なんで自分はこんなことを悩まなければならないのだろう。それならいっそのこと新巻鮭だと信じたほうが気が楽だ。
 ――とにかく、あたしは新巻鮭をさがせばいいのよ!
 そして李焔は柔らかい雪と戯れるのだった。

 その日の夜、鎖爺の家では鮭のシチューが食台に乗ったという。惜しむらくは、それが新巻鮭ではなかったということか。

 二日目は、ほとんど何も記すべきことはない。ただ、訃環と鎖爺が雪堀に参加したというところか。が、どうも李焔には訃環が手を抜いているように見えて仕方がない。鎖爺が渡したという火傷専用の万能薬(?)の効き目が今一だったのだろうか? そんな李焔の思いだけでその日は過ぎた。
 そうそう、一つ書き加えておかなくては。夕飯は、タラバガニの蒸し物だった。

 そして待望の三日目。この日に新巻鮭を煮込まなければならないのだから、遅くとも夜の十一時ごろには掘り出しておきたいところである。
 午前中は収穫なし。
「そういえば、他の掘出人はみかけないね」
 昼食の鱈を前にして、李焔は言った。
「まあ、まだシーズンじゃないしな」
 鎖爺がこたえる。
『例年はいつごろから?』
「『いつもはいつごろからか』って」
 今日は訃環、紙を用意していない。
「たしか、もうちょっと雪が積もってからだったな」
『なるほどね』
「ところで訃環、本気で新巻鮭が見つかると思うか?」
「……(頷く)」
「なら、構わんが……」

「さて、三日目ですね」
「孤絆、さっきからなんなんだよその笑いは? 気持ち悪いぞ」
「お楽しみが待ってますからね」
「え? 『マダム・タッソーがお待ちかね』? 卯唯、あの本読んでないんだよね」
「いや、とぼけなくていいですから」
「そう言う自分はさっきからとぼけたニヤニヤ笑いばかりしやがって。チェシャ猫かよ」
「似たようなもの、でしょうかね」
 微笑はやまない。やむ気配もない。などと書くともったいぶっているみたいだが、その通りだ。

 日は没した。空が暗くなるのも時間の問題だ。いや、いつだって夜が来るのは時間の問題なのだが。まあそれは良い。たいして、いや、まったく重要なことではない。
そしてそんな折も折、李焔が黒塗りの重箱を見つける。
「ホントに埋まっているものなんだねぇ」
「パンドラの森はノエルの支配地だというからな。何が起きても変じゃない」
「……」
「どしたの訃環? 黙り込んじゃって」
『いつだって我は沈黙している』
 ――そうだけどね。筆談でもいいから何か言ってくれないと寂しいんだよね。なんとなく。
「でも、ホントにこの中に新巻鮭が?」
「ノエルだけが知っている。ってな」
「蝙蝠だけじゃなくて?」
『節が似ているからといって騙されるな。李焔』
「とにかく開けるよ?」
 訃環を無視し、李焔はブラックボックスを封じる深紅の紐に手をかけた。
「待ちなさい」
「!」
「!」
 李焔は、この時ほど驚いたことはなかった。『近畿地方に大雨の恐れ』どころではない。『近畿地方に大槍のおそれ』でもまだ足りない。『近畿地方に黒猫の恐れ』ぐらいの驚き方だ。
 鎖爺は、とりあえず普通に驚いた。金縛りに遭うぐらいには日常的な驚き方だった。
「何も心配することはありません。すでにこの者の意識は乗っ取っとっていますから」
「い、いつのまに? だって訃環、喋ってないのに」
「しかし最初の契約でしたからね。この者の声を禁じる代わりに我が降りるというのは」
 訃環の過去をある程度知っていた李焔はそれで納得した。
 訃環の過去についてまったく知らなかった鎖爺はこのあと仰天することになる。
「つまり、あなたが、ノエル」
「! ノエルって、あの?」
「その認識で間違いはありません。李焔、鎖爺」
「! 名前まで……」
 ――なんで名前を知っているの?
 これまで訃環に憑依してきた神々は、訃環や李焔の名など知らなかった。これが、ノエルの知識ということか。
「名前など、訃環の記憶から引きずり出せば良いことです。いくら我、ノエルでも全知全能というわけにありませんよ」
「で、でも、なんで今なの? 訃環があなたを呼ぶんじゃなかったの?」
 ノエルは一瞬もの憂げに顔を傾ける。
「今回は事情が事情ですから。鎖爺、十二歩さがりなさい」
 今度は鋭い眼光が鎖爺に向かって走った。
「え? 俺だけ?」
 聞き返しつつも鎖爺は後退した。
「気を落ち着けて聞きなさい。パンドラの箱が再びこの世に現れました」
「なんでそれをあたしに?」
「今は訃環しか我を降ろせませんから。そして訃環ともっとも親しいのは貴女です」
 ――確かに。
「さらに、あなたの持っているのがそのパンドラの箱ですから」
「は? ……って、何でそれを先にいわないのよ!」
「箱を見つけたのが貴女でなくとも、今の我は結局ここにしか降りられませんから。最大の理由はやはりこの点です」
 ……一理ある。
「で、この箱を開けるなと言いに来たわけよね、やっぱり」
「はい。その中には地震雷火事親父……と、この世のあらゆる厄災が詰まっていますから」
「でも、そんなもの世の中に溢れてるよ」
「いえ、溢れてはいません。世の中から溢れてしまった分が、その箱の中に封じられているのです。箱を開けば世界の地震は七倍になり、雷は三倍ダメージになり、火事は北極の氷を溶かし、世界中の老若男女が親父化し、、列車内では痴漢が倍になり、さらに版権もいい加減になります」
「それ、どこまで本気?」
「……とにかく大変なことが起こります。開けないで下さい。絶対に」
 ノエルは懇願した。(神のすることか?)
「そりゃ、開けるつもりはないけど」
「それから、太郎が……鶴になった漁師がその箱を狙ってやってくるでしょうから」
「持ってにげろ、決して渡すな。そう言いたいのね」
 李焔に先を読まれ、もはや神々しさなどなくなってしまったノエル。
「はい。で、その為に力を貸してあげたいのですが」
「ちょっと待って。伝説では漁師の前に現れたって言うけど、なんで今回は訃環の体を借りなきゃならないわけ?」
「神気が弱まったのです」
 あっさりと、ノエルは言う。
「神様でも、そんなことってあるんだ」
「この森に巣食う妖の邪気が、我ノエルの神気をそぐのです。妖をここから追い出してくれればかなり神気も戻り、単独で実体化することもできましょうが」
「で、その役目をあたしたちに命じる気ね? 妖の名前は」
「孤絆」
「ちょっと待てぇ!」
 叫び声は李焔の背後からした。そして李焔が周囲を見回してたっぷり三十秒後、声の主が到着する。
「孤絆を追い出すってどういうことだ、ノエル!」
「卯唯……あなたには、不服でしょうけど」
 慈悲というよりも憐みを具現化まなざしが注がれる。
「……知り合い?」
 李焔は卯唯とノエルを交互に見た。
「暫く前、昇天できないでいた霊体に体を与えたのです」
「そうだよ。でも、そん時あんたに感謝したことを卯唯は後悔する!」
「では卯唯、孤絆を助けて世界を滅ぼしますか?」
「そ、それは……」
 ではどうします? そう瞳で訴えてくるノエルに、卯唯は視線を返せない。
「……」
「……」
「……」
「……(どうでもいいが絶対忘れられてるな、俺)」
 沈黙が過ぎ去った。
「ノエル……孤絆って妖が、本当にノエルの実体化を邪魔しているの?」
 李焔が口を開いた。
「結果的にですが、弧絆の強すぎる邪気が私が世界へ干渉するのを妨げているのです」
「じゃ、やっぱり孤絆がこの森を出て行かなくちゃだめって事かなぁ」
「ノエルが干渉を諦めるって手もある」
 うつむいたまま、(恐らくは奥歯を噛締め)卯唯は言う。
「しかし、それではあの漁師――太郎に対抗できません。相手は不死身ですよ。我、ノエルが作り出した箱の呪いのせいで。ノエルが蒔いた種は、ノエル自身で刈ります。しかし実体化していないこの身では簡単な念動力ぐらいしか使えません。それだけなら訃環の体を借りずともできるのです。実体化しない限り、我の神気は無いも同然なのです」
「じゃあ、なんであんな物作ったんだよ!」
「大地の崩壊を防ぐためです。あの時は厄災を閉じ込めるしかありませんでした」
「なら、どうして自分で箱を隠しておかなかったの?」
 李焔の口から、至極まっとうな疑問が発せられた。
「我、ノエルはそもそも十次元超弦による直接生命体。その中でもこの世界に意図的に干渉できるぎりぎりの存在であり、実体化には限界があります。しかし箱はもともとこの現実の次元の物。位相を変えてもこの次元からは抜け出せません」
「わけわかんねーよ」
 卯唯がぼやく。確かに今の説明で解るほうがおかしい。
「よくわからないけど、過ぎたことはしょうがないよ。問題はその孤絆っていう妖なんでしょ?」
「そうですよ。本人抜きで話すことはないと思いません?」
 李焔の背後に、いつのまにか巨大な影があった。一応人の形をしている。が、その身長は軽く李焔の三倍あり、それでも引きずるほど両手は長い。
「ねぇノエル、千年前に貴女が太郎を吹き飛ばした時点で役目は交代したんじゃありませんでした?」
「孤絆……」
「そんなにきつくにらまないで下さいよ。訃環くんが可愛そうじゃないですか。折角の可愛い顔が台無しです」
 なんと飄々とした人物か。(いや、妖か)
「では……あなたが太郎を止めてくれると?」
「私の一部としてとりこめば問題ありません。そうでしょう? ノエル。もともとあなたの一部なのですから」
「ならば……約束を、約束として守ってくださるのでしたら……」
「貴女にそれをいう資格があるとは思えませんが」
「……」
「もっとも、ここで過去のことをとやかく言っても始まりませんしね。良いでしょう。私は約束を守ります」
 一行分の静寂。
「仕方がありません。あなたに……任せます」
 そして突然、訃環の体から何かが(つまりノエルが)抜けていき、訃環は崩れかかった。
「……大丈夫?」
「なんとかね……ああ、驚かなくていい。暫くは喋る許可を貰ったから、大丈夫」
 李焔が支えてやると、訃環はもう意識を取り戻していた。
「ノエルに入られた気分はどうだい? 訃環くん」
「姉上じゃなかったよ」
「え? 訃環って、自分のことノエルの弟だと思ってたの?」
 訃環は力なく笑い、
「いや、律帝に弟子入りする直前に生き別れたのだ。姉上は、ノエルの顕現だとまで言われた人だから」
「……ちなみにそれはお姉さんがそんな風にいわれるほどできた性格だったってこと?」
 訃環は頷いた。
「さて、役者も揃っていることですし、始めますかね」
 孤絆は言った。
「役者? 肝心の漁師――太郎さんだっけ?――が来ていないよ」
「李焔、場を読め。この中にその太郎がいるということだ」
 訃環が諭した。
「そうですね。では、ヒントその一、太郎さんは漁師です」
「あ、あの食事の素材!」
 李焔は気がついた。
「じゃあヒントその二、太郎さんは千年前の人だから多分今頃お爺さんだとおもわれます」
「なるほど」
 卯唯も気がついた。
「ヒントその三、ノエルは話を始める前に、鎖爺にむかって下がれと命じました」
「決定的だな」
 鎖爺が笑った。
「何笑ってやがる。お前だろうが」
 いきなり鎖爺の背後から卯唯が背中をなぐりつける。
「俺かよ!」
 鎖爺が叫ぶ。(いったい誰だと思っていたのだろう?)
「お前だ」
「ノエルにばれてたみたいだしね」
「他に誰がいる?」
「まあまあ、彼の意識は蘇っていないのですから」
 孤絆がみんなを宥める。
「し、しかし……そいつぁ本当なのか? その、俺が、あの伝説に出てきた漁師なのか?」
「貴様、まだしらばっくれる気か?」
「だから卯唯、彼の意識は封じられているんですってば」
「ん? ああ、つまり目標はまだ鎖爺の中で眠ってるってことか?」
「そういうことです。じゃ、李焔さん、頼みますよ?」
 と、孤絆、何を思ったか卯唯を抱き上げ、李焔に渡す。
「え? はい。あの……あたしが?」
 と、当然李焔は呆然とするし、
「おい孤絆、どういうつもりだ! 卯唯が邪魔ってことかよ!」
 と、当然卯唯はわめき散らす。
「おとなしくしていれば邪魔じゃありませんよ」
 いわれておとなしくなるあたりが卯唯らしいといえば、らしい。(訳:まだまだ子供である)
「李焔と卯唯を下がらせたってことは……俺は戦力に勘定されちゃってるんだね」
 訃環が肩をおとす。どうでも良いことだがこの男、一人称の変化が多彩だ。
「悲しむことはありません。君も戦力外ですから。というよりそもそも私は戦う気などありませんからね」
「く、くぉら。俺を無視するな!」
 遠く(心理的に)で鎖爺が叫ぶ。往々にしていじめというものはこのように異質なものを仲間はずれにすることから始まるらしい。
「んー。じゃ、鎖爺、とりあえずポケットの銃を捨ててくれるかな?」
 よく描写される『口は笑っているが目は笑っていない』という貌で、弧絆は鎖爺に呼びかけた。

 一方孤絆の後方ではこんな会話がなされていた。
「なーんだ。訃環も居残り組みか。ならあたしも見物でいいや。というわけで卯唯ちゃん、あたしたちと一緒に孤絆が頑張るのを高みの見物してましょ」
 対する卯唯の返答は、
「ちゃん付けで呼ぶな!」
 当然といえば、当然の反応である。
「でも、こんなに可愛いのに」
「可愛いのとちゃん付けは別だ! それに可愛いなんていわれても嬉しくないっ!」
「怒らない怒らない。怒るとしわがあわさっちゃってめでたくお仏壇に飾られちゃうよ」
「?」
 きょとんとする卯唯。
「李焔、それはどこのネタだ?」
「!」
 そして訃環の疑問に何故か衝撃をうける李焔。
 ――そうよ。この突っ込み! こんなタイミングでとぼけてくれる人をあたしは探していたのよ! こんなに近くにいたのに気づかなかったなんて。やっと……やっとめぐり会えた!
「訃環、李焔のこのニタニタ笑いはいつものことなのか? まるで孤絆みたいだ」
「そんなことはないけど……」
「ひょっとしたら、二人とも祖先がチェシャ猫なのかも知れない」
 卯唯はつぶやいた。
 そして三人は(鎖爺の)家に向かう。日没後一時間近くたってしまったのだから、あたりはもはや月明かりの世界と化している。
 丸太小屋に着き、ふと李焔がつぶやく。
「あ、パンドラの箱置いてきちゃった!」
 訃環と卯唯の背筋に氷が奔った。
「な、何をのんきにしているんだ李焔!」
 卯唯より一足先に我にかえった訃環が李焔を揺さぶる。
「安心なさい、訃環くん。箱ならここにありますから」
 訃環の脳裡を疑問符がかすめる。――なんで背後から孤絆の声がするんだ?
 振り向いた先には案の定孤絆が、
「大丈夫ですよ、管理人さんの魂に隠れ住んでいた太郎も私が取り込みましたから」
 と、巨大な片腕で鎖爺を姫だっこして家の前に立っている。ちゃんともう一方の手に箱を持って。
「じゃあ、卯唯、私は森に帰りますが、あなたはどうします?」
「お、置いていく気かよ!」
「卯唯さえその気なら、ね」
「一緒に行かねえわけがないだろ」
 ――わかってるくせに。いつもいつもからかいやがって!
 鎖爺を降ろした孤絆の腕に飛びつき、卯唯は内心毒づいた。なんとなく、自分がこの腕にかなう日など来ないだろうと感じながら。
「ところで孤絆、お前何者なんだ?」
 去ろうとする孤絆を訃環が呼び止める。
「あまり昔のことは覚えていませんからねぇ。でも、ひょっとしたらあなたの姉だったりしてね」
「な、どういう……?」
 戸惑う訃環に、ニィッと笑って孤絆は消えた。
 ――からかいやがったな。
 訃環がそう気づいたころ、漸く李焔は口を開いた。
「よかったね。お姉さんに会えて」
「違う!」
 その勢いで、偶然訃環の足にふみつけられたことが、一連の鎖爺の不運の幕切れだという。

 翌日。
「そういえば、鎖爺の薬に変な錠剤混ぜたのって、誰だったんだろうね」
 冬野に影二つ。果てぬ旅路を再び歩く。
『ノエルだろう。確信は持てないが』
「それどういうこと?」
『おそらく、あの弧絆という妖が本来のノエルなのだろう』
「……ちゃんと説明してくれる?」
『福音書によれば、ノエルは創造主ということになっている。つまり、他の神々とは明らかに別格なわけだ。しかし彼女が語ったように神気が弱まってきているのだろうな。
 彼女の作り出した世界はやがて崩れ始める』
「な、なんでそんなことが当たり前のように分かるわけ?」
 李焔が一端話を切った。
『これは最近の神学者の統一見解』
「そ、そうなの……?」
『そして世界の崩壊を食い止めるため、安定を欠いた要素をパンドラの箱に閉じ込めた。この世の厄災だけでなく、彼女の神気――一種の魔力のような物も一緒にね。しかしその無理な修正により、時空の一部が歪んでしまった。例えばパンドラの森のように。そして歪んだ時空が元に戻ろうとし、結果として千年前にパンドラの箱が現れたというわけだ。この説は物理学者の間でも結構うけいれられている』
「あ、じゃあ新巻鮭が見つかるかなんて全然わかんなかったんだ。あたし、やっぱり騙されててのね」
『あれにはあんまり意味は無い。ただ三日目まで李焔が探し続けてくれれば良かった。最初は思いもしない者が思いもしない物を見つけるのがパンドラの森の仕組みかと思っていたが、あれはあの時に降りてきた神の悪戯だったらしい。今にして思えば私が弟子入りした頃の師匠の好物が新巻鮭だったのだ』
「へ? じゃあ、あの神様……」
『十中八九律帝だ』
「へえ、あんな風な人だったんだ。でもそうなるとあの人嘘八百だね。あ、そういえば、なんでノエルが薬を入れたのかまだ聞いてないよ」
『李焔が話をそらすから。とにかくここから僕の考えだ。
 弧絆は ノエルが太郎を吹き飛ばした時点で役目が交代した=@と言っていたがなぜ交代したのか? さらに 吹き飛ばした=@となっていることからして不自然。普通に考えれば漁師から箱を取り上げ、再びどこかに隠す。そうしなかったのは彼女の力が限界だったから。多分その時ノエルは具現化能力を失った。それで交代できたことからみて弧絆もまたノエルに近い存在。ひょっとしてあの森の歪みから生まれたのかも。いずれにしろ二人が千年前の伝説の時点で既に知り合いで、その頃までは僅かにノエルのほうが強かった。けれどさっきも述べたようにノエルは弱体化し、 交代=@が起こった』
「とにかくノエルと弧絆が交代したのね。でも訃環、どうしてノエルに憑かれていた時のことを覚えているの?」
「……(俺は今まで何をながながと説明してきたんだろう?)」
『それは私もわからない。だが千年間、ノエルは非常に悔しかったはずだ。自分の作った世界に対して殆ど干渉力を失ってしまった悔しさ。そんな時再び時空の歪みからパンドラの箱が再び地上に現れることを察知した彼女は、弧絆から力を取り戻すチャンスだと考えた。僕らがあの丸太小屋に到着する前夜、鎖爺の薬瓶の中に例の錠剤を混入し、時計を右に九十度傾ける。これで鎖爺が寝坊だと言っていた六時二五分が、実際は四時十分だったことになる。寝過ごしたと思っていた鎖爺は急いで外に出て、日課となっている森の巡回にでかける。そこでノエルの 簡単な念動力=@によって樹上から落とされた雪塊の下敷きとなって気絶する。その間に太郎の魂を鎖爺の肉体に忍ばせたのだろう。僕らが鎖爺の家についた時、つまり昼前に出会ったとき鎖爺がおかしかったのは薬のためではなく、無理に二つの魂を体に宿らされたための拒絶反応だ』
「え? じゃ、なんで鎖爺の薬瓶に変な錠剤混ぜたわけ?」
『私を騙すためだ』
「ふーん。あ、解った。そうやってあたしと訃環を騙して弧絆と戦わせようとしたのね。そして弧絆が倒れたら神気みたいなものを吸い取って、それで実体化して、自分が鎖爺にとりつけた太郎さんの悪霊を引っぺがしてヂ・エンド」
 ――悪霊とはちょっと違うんだが……まあいいか。
「そっか。それで弧絆言ってたのね。太郎さんがノエルの一部だって。それにノエル、あたしたちがドアを壊して時計を落としてしまうことまで計算してたんだ。すごーい」
 ――まあ、腐っても神っていうしな。
『ところで李焔、なんで太郎だけさん付けなのだ?』
「だってあたし、まだ会ったこと無いから」
 簡潔なる回答に、訃環は清々しい風を感じた。
 訃環の心にかかる霧を吹き飛ばしてくれる風だ。
 ――いつまでもこの風が吹き続ければ良いのに。
 ――ノエルの神風のように一瞬で終わらないように。
 冬枯れの野原に、気の早い一輪の鈴蘭が揺れていた。

 いつまでも、揺れていた。


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