鬼性《きしょう》(下)  雨野 璃々   


    五、

(空雷か)
 森の木々の間から、茫とした雲に充たされた、暗い空を睨む。かきわけてもかきわけても、あの空はどこまでも同じ色で、視界を遮り続けるだろう。
 白濁した緑の闇、その物狂おしい色に眺め入る暇もなく、間断なく稲光が天を支配する。
 雨は気配も見せなかった。
 強いめの風が草々を揺らし、俺の傍らをすり抜けていったが、水の匂いはなかった。
 ただ雷だけが轟く。
 天が荒狂っている――としか思えぬ。
「誰が天を怒らせた――」
 俺は嘲るように呟いた。
「わ……」
 虚耳と思うような、
「――我妹子が穴師の山の山人と、
 人も知るべく、山葛せよ、山葛せよ……」
 虚耳と思うような、聞えぬ掠れた声は、それでも言葉を成した。かの歌の言葉を。
「おのれは」
 下生えも丈高い、影に濃く覆われた森に雷光が走った。
 掠れた声で虚ろに唄った男の姿が、白い光の中に影となって浮かび上がり、また沈んだ。顔までは見えなんだが、昼間見た幽鬼のような老人の声であった、
「おのれは、何処まで来ている。迷い彷徨う亡霊のようだな」
 老人は、木の間を緩慢に巡った。俺の声を聞いたか聞かぬか、――佇む俺の周りを、もはや進めぬのか、老人はよろよろと廻り続けている。
「雷鳴が懐かしいか。慕わしいか」
「――また、死ぬ」
 老人の姿が雷光の中、動きを止めて佇んだ。
「何が死ぬ」
「また、死ぬ」
 老人が呟く。果てのない悲哀に声を震わしていた。
「あのほうに……」
 枯木のような腕が突き出されるのが気配で分かる。
 そのかたを振り返り、俺は眉をしかめて目を凝した。
「――」
 散乱する小枝の踏み折られる音、生い茂る下生えが擦れ合う音が続けて鳴った。何かが倒れ込んだらしい。それは更に身動きしようとしたらしく、草木のざわめきが止まず続いた。俺は無言でそちらへ踏み込んだ。何歩めかに、草の感触とは明らかに違う、何かの衣を踏みつけた感触があった。
「――」
 乾いた声が微かに聞えた。
 この感情のない、苦痛の呻きさえ似合わない、雅びやかで高い、死んだ声。
「闇夜か」
 俺は低く、ほとんど唇を動かさずに訊いた。
「どうした」
「天に打たれました」
 辛うじて身を起こし、俺の踏みつけた袖を、衣擦れの音をさせて払い、闇夜は声にならぬ微かな声で答えた。先よりは柔らかな音が足許で鳴る。手を突いて、起した上体を支えているらしい。
 都を襲う鬼どもを止められる者はない。
 ただ、雷だけは執拗に鬼を追う。鬼が暴れれば雷が轟く。鬼の行く手へ、行く手へ雷が落ち、鬼を仕留めれば止む。鬼が遠くに逃れれば、怒りを収め切れず荒れ狂う。
「神祇祭祀の家の者、この身で庇って」
 闇夜は息も絶え絶えに云い捨て、そして不意に、突いた手に力をこめたのか、さらに足許で枝の折れる音がした。
「行きなさい。逃げなさい! 都を離れれば鬼の栖、天の手は届かぬ、早く行きなさい!」
 闇夜は息を振り絞って、前方に向って叫んだ。
 稲光のせぬ間は闇に沈んで見えぬが、あの老人の行ったであろう闇の方へ。
「――闇夜、あれが」
 自分の硬質の声が問おうとするのを俺は聞いた。
「神祇祭祀の家の者、です。あの老人が。逃げられぬでしょうか……」
「逃げられるまいな。山中で倒れて、けだものどもに喰われようさ」
「逃げてはくれぬでしょうか」
 闇夜は呟いた。
「おまえともあろうものが、祈りのようなことを云う」

 雷鳴が虚ろに轟く。
「何に祈りを懸けるつもりだ。天に背いた神祇祭祀と、鬼の身のおまえとが」
「祈りませんよ、此処まで来れば天の手は届かぬ。少なくとも天の手からは逃した……」
「なにに、かくまで執心する」

 力尽きたように草の上に再び倒れた闇夜の、広がった長い髪の傍らに、俺は膝をついて訊いた。
 今宵はすべてが物狂いしている。老人も、この闇夜も、少女も、恐らく俺も、何処か狂わされている。
「死せるものの魂を呼びかえすことに。――いえ」
 闇夜の瞳が微かに光る。
「死せるものを呼びかえしたいと、全身全霊で願う思いが叶うようにと」
「そう云うたとて、叶うことではないだろう」
 闇夜は死人を呼びかえすと囁いて人間の心を誘う。
 そして幻で惑わせ、それに心の眩んだ人間の魂を喰う。
 この華やかな青年はそうした鬼だ。
「いえ、此度は違う」
 しなやかな黒髪を揺らして、闇夜はかぶりを振った。
「彼岸と此岸の境を破り、捜すものを連れ帰す、その術はあるのです」