今昔物語には「鬼」が跳梁するものがたりが数え切れないほどあります。
「鬼にあふものがたり」「鬼から逃ぐるものがたり」……
平安京の闇には、どれほどの数の鬼たちが蠢いていたのでしょうか。
百鬼夜行の列に逢いたかったものです。
異形のものの手が招いてくれたら、列に加わるでしょう。
檜扇でおどろおどろしく顔を隠して。あるいは威圧的に松明を振り立てて。
異形のもの。
盗賊。
山人。
呪いや罪に手を染めた者。
鬼、と呼ばれた存在は、概ねこのように分類できます。
丑の刻参りの創始者である謡曲「鉄輪」の主人公の女や、主人の姫の病を治すため胎児の生肝を求めた、謡曲「安達原」の主人公の女は、人間が変じた哀れな鬼。
山人は、大抵大和政権に敗れ去った先住民の末裔の末裔だと言われます。これも哀れな鬼でしょう。
鬼と呼ばれたもののうち一番多かったのは、恐らく盗賊さんでしょう。鈴鹿御前、大江山の酒呑童子などは、大規模な盗賊団の首領さんが鬼の名で呼ばれたものです。
しかし本意に反して鬼になった存在であれ、自ら盗賊さんになった者であれ、こうした人々を鬼と呼び恐れるのは、蔑んだり矮小化したりするよりは、遙かに相手の尊厳を認めた対応だと思う、のですが。
個人的には、「お腹すいた――!」とばかりあっけらかんと明るく人間に襲いかかってゆく、百パーセント人間でない異形のものたちが好きです。なぜに人を食うかと問われたら、「人間はごはんなの」とあっさり答えるような手合いが。
「鬼性」の彷徨と闇夜も、基本的にはそういう鬼です。
闇夜あたりは多少残酷ですが。死人の姿を操ったりするような鬼ですから。けど根本的には人間はご馳走、に見えてるはずです。
今はもう異形のものたちは居ません。
実体として存在するかどうか、も定かではないし、人間の意識の中でも鬼とか異形のものとか分類されるいきものはありません。
百鬼夜行に逢いたいのに、もう居ません。
だから呼びかけようと思います。
鬼を書くたびに、百鬼夜行を書くたびに、どこかに潜む異形のものが目を留めてくれるかも知れません。
我妹子が穴師の山の山人と
人も知るべく
山葛せよ
山葛せよ
これは古代の神楽歌です。